【二〇一五年八月九日 火曜日】


 寝苦しい暑さの中で、諌那は目を覚ました。あまりの眩しさに薄く目を開ければ、カーテンの隙間から差し込む日差しがちょうど顔を照らしていた。日の高さから、そろそろ正午だということを悟る。
 寝過ごしたな、と思い、仕方ないか、と諦めた。布団代わりのタオルケットを払いのけ、硬いスプリングの上で身を起こす。馴れたベッドの硬さではない。リビングに横たえたソファの弾力だ。
 テレビの上の時計を見れば、示す時刻は午前十一時。
いつもより二時間ほど遅いが、身体はそれでも睡眠不足を訴えていた。四肢が、まるで水中にいるかのように重い。

(まあ、こんなところで寝ればそれも致し方なしかな)

 諦めを引きずったまま、諌那は身を起こした。寝ていたのがベッドでなければ、ここは寝室でもない。最低限の調度品が揃えられたこの部屋は、諌那の暮らすマンションの一室、リビングだ。並んだ家具に飾り気は微塵も無いが、強く刻んだような生活感がこの部屋を生きたものにしていた。
 諌那は学生という身分であり、特にアルバイトの類もしていない。しかしその実、ファミリー向けのマンションに一人で暮らしている。家財道具も一式揃えられており、当面必要なものは無いと言ってよかった。
 それこれも、諌那のいまの両親、つまり養父母の溺愛が原因である。息子夫婦を亡くした老夫婦に引き取られた諌那は、実の子、否、孫であるかのように愛情を注げられた。その結果がこの現状だ。それに、このマンションを選んだのはそも諌那ではなく養父である。諌那が大学に通うため一人暮らしをしたいと申し出たとき、半日足らずで契約を結んできたのだと養母に聞いた。
 諌那はいままで、この広い空間を持て余していた。起きて半畳寝て半畳とは言わないが、もっと狭いスペースでも暮らすには差し障り無いだろうというのが正直な意見である。実質、全部で四部屋ある小部屋のうち三つはいまだ手付かずの空き部屋だ。
 しかし今回は、それが幸いしたなと思う。取りも直さず、同居人ができたからには。



* *


 雪菜の提案は突拍子も無く、とても安易に頷くことはできなかった。
 諌那はえ、と声を上げた後で、本気なの、と問い返した。

「あら、私、嘘は苦手よ?」

 それは絶対に嘘だ。混乱した意識が、何故かそんなことにだけ冷静な判断を下す。
 諌那は、テーブルを挟んで対面に座った雪菜の表情を伺った。浮かんでいるにこやかな笑みは優しすぎて、かえって何かを企んでいるような気がする。
 いや、間違いなく企んでいたのだ。自分はたったいま、それを聞かされたではないか。

「ほら、やっぱりこの人を拾ってきたのは諌那だし」

 それは確かにそうだけど。驚き、否、呆れのあまり口を利くこともできない。
 しかし雪菜は構わず、だから、と口上を続けた。

「それなりの責任は負ってもらわなきゃ。私はバイトでちょくちょく家を空けなくちゃいけないしね」

 口上。全部口上だ。
 諌那は頭を抱えたい気持ちで、視線をすっと横に移した。雪菜の隣に座った女性。白いシャツにジーンズという、いたってシンプルな服装をしているのは、自分が拾ってきた金髪の女性に他ならない。
 名前はジャスミンと言うらしい。雪菜がそう言っていた。

「諌那、あなたはバイトしてなかったでしょ? 少なくとも後期授業が始まるまで暇なんだし、問題は無いわね」

 ジャスミンは俯いたまま、ぎゅっとその口端を硬く結んでいる。気取られないように見れば、その視線は所在無さ気にあたりを移ろっていた。テーブルの上のコーヒーカップに止まり、棚の上の花瓶に止まり、かすかに開けられた窓から吹き込む風に揺れるカーテンに移り、そして自分に向けられおもむろに明後日の方向に跳んだ。  その行為に、諌那は悲しいような呆れたような吐息を吐いた。
 問題なら、大いにある。

(怖がってるじゃないか)
「少なくともあなたを、じゃないわよ」

 読まれている。にこやかな雪菜に対し、諌那は改めてため息をついた。

「そうは言ってもね」
「あら、不満? こんなに綺麗な人なのに」
「いや、だから。道徳的にちょっとマズくない?」

 確かにこの女性――ジャスミンは綺麗だと思うし、拾ってきたのは自分だけど。
 いや、むしろ、だからこそ。

「当面の面倒を見ろって、一緒に暮らせってことじゃないか」
「ええ。そう言った筈よ?」

 雪菜はそれまでの微笑を崩し、今度は遠慮なく笑う。
 その顔は悪戯を企んだ子供のようで、ああ、そう、まるで子悪魔。

「世間体とか、ちょっと」
「あら、あなたがあんな殊勝なものに関心が無いってことぐらいとっくに承知よ? それともなに、あなた、ジャスミンを手篭めにするつもりでもあるの?」
「そんなつもりは無いけどさ」

 歯切れ悪く抗弁しながら、諌那は半分以上諦めていた。
 いまのは間違いなく最後の牙で、不可避の質問で、決定打だ。もちろんイエスと答えられるはずもないし、このノーという答えは諌那の本心でもある。そして同時に、これは誓いとなる問答でもあった。
 諌那は何度目とも知れぬ嘆息を吐き、はいはい、と投げやりに言った。

「わかりました、わかりました。ジャスミンさんの面倒を見させていただきます」
「偉い偉い。あ、多分呼び捨てでいいと思うわよ」

 いいわよね、と尋ねながら雪菜はジャスミンの方を見る。ジャスミンは弱々しく首を縦に振った。
 雪菜は嬉しそうに目を細め、弾んだ声で言った。

「よし、じゃあ当面の話もついたところで食事にしましょうか」

 少し早いけどね、と言って視線を諌那へ。

「悪いけど私たちの食事、買ってきてくれない? 私は何か菓子パンを、ジャスミンにはサンドイッチか何かでいいから」
「あー、もう。わかりました、大人しく行ってきますよ」

 もはや言い抗う気力も無く、諌那は立ち上がった。気が付けば窓の外はすっかり赤く染まっている。壁の時計を仰げば時刻は確かに夕餉の頃合。いったいいつの間にそれだけ時間が経過していたのか。
 ドアに手を掛け、ふと諌那は忘れかけていたことを雪菜に告げた。

「ジャスミンの分はいいとして、雪菜にはあとで払ってもらうからね」

 言い終え、返答も聞かずにドアの向こうへ。後ろ手で閉めたドアの反対側から、抗議の声が聞こえてくる。
 些細な勝利を胸に、諌那は近隣のコンビニに足を向けた。



* *


 脱衣所で寝汗を拭いた諌那は、寝起きのだるさが抜けきらない身体にため息を吐きながら簡単な朝食を作った。トーストを焼き、一昨日作ったポテトサラダをテーブルに並べる。
 なんか物足りないな、と思った。

(って、もうお昼じゃないか)

 用意した食事は朝食には向いているかもしれないが、昼食には少しボリューム不足だろう。
 諌那はやれやれ、と呟き、追加の一品の調理に掛かった。冷蔵庫からキャベツを取り出し、馴れた手つきで千切りにする。次いでフライパンにマーガリンを伸ばし、使いかけのベーコンをさっと炒めて皿に。先ほど切ったキャベツを添え、テーブルのポテトサラダを更に添えた。二人前を用意すると、ポテトサラダを容れていた容器がちょうど空になる。
 空いた容器を流しに放置し、諌那はようやく人の気配に気が付いた。
 視線を気配の方向へ。リビングのドアを半開きにし、半身を除かせるジャスミンがそこにいた。寝起きの気配は感じさせないが、こちらを窺うようなその視線には、昨日ほどではないものの若干の警戒が感じられる。
 仕方ないよな、と諌那は嘆息。雪菜の昨日の言葉を思い出す。

(僕自身を怖がっているわけじゃない、か。なら何を恐れるって言うのさ)
「おはよう、ジャスミン。目覚めはどう?」

 さまざまな疑問とか愚痴とかは全て顔に出すことは無い。素っ気無い、だが無愛想でない声音で諌那は尋ねた。それが自分にできる、相手を安心させるためのせめてもの手段だと思いながら。
 声を掛けられ、ジャスミンは小さく息を呑んだようだった。肩をすくめたその動作は、まるで自分が驚かしてしまったようでばつが悪くなる。
 と、そんなこちらの気持ちを察したか、ジャスミンはすぐにすっと頭を垂れた。それは決して謝罪ではなく、むしろ感謝の意の表明だとなんとなく悟る。顔を上げたジャスミンはぎこちなく微笑み、遅すぎる朝食のためにテーブルに着いた。
 その反応に――警戒しながらも、それでも謝意を忘れなかったその反応に、諌那は軽い衝撃を覚えた。当たり前と言えば当たり前のその反応が、なぜか新鮮だった。
 苦笑を、新鮮さを覚えた自分に何よりも苦笑し、諌那もテーブルに着く。
 時刻は、ちょうど正午を廻ったところだった。



* *


 それほど広い部屋とは言えなかった。しかし、いや、だからこそ掃除は隅々まで行き届いている。ソファやテーブル、絨毯などの調度品は上質の品だが、決してそれは誇示されていない。あくまで部屋の一部として、この空間に嵌め込まれていた。
 さて、と軒下琢野は呟いた。灰色のスーツを着込み、その胸ポケットから覗いているのは金属の線。眼鏡の、サングラスのフレームだ。ソファに座った琢野は、にこやかな笑みを浮かべながら言葉の先を続けた。
その背後では、軒下レイカが秘書のように静かに佇んでいる。

「交渉を始めましょう。私たちは、早急に公式な協定を結ぶ必要がある」
「それはこちらとしても同意見です」

 テーブルを挟んだ反対側で、若い男がそう言った。流暢な日本語。しかし男の容姿は、どう見ても日本人のそれではない。金色の髪に、白い肌。まだ欧州人と考えたほうが違和感が少ない。
 男が着ているのは、青を基調とした服であった。スーツではなく、かといって私服というわけではない。礼服、そう称するのが一番的確であろう。

「特使」

 琢野は男を役柄で呼んだ。

「時間は限りある。次に窓が開くまで、多少なりとも交渉を進めておきましょう。さて。私たち幻想的敵対種対策課に託された一番の使命は、そちらに紛れ込んだ人間の――つまりは難民の生存権を確立することです。いや、生存権だけではない。あらゆる権利を守り、難民としてこちらに送還させるようにしろと言われています」
「私たちとて同じです。私たちはあなた方に対し戦争を望んでいるわけではない」
「ふむ、それはありがたい。私たちとあなた方、戦えば間違いなく私たちが敗れるでしょうからね」

 琢野は言って、少し笑った。苦笑でもなんでもない、純粋な笑み。その事実がただ面白いと言わんばかりの笑みだ。
 そんな琢野を、レイカが小さく名を呼んだ。琢野は頷いてそれに答える。
 この会話が、別の部屋にいる役職だけの連中に筒抜けだと言うことぐらい、百も承知だ。

「ですが、あなたたちも無傷ではすまない。違いますか?」
「その通りです。核兵器と言いましたか。あれを用いられれば、私たちはともかく大地に深刻な爪痕が残りますからね」
「でしょうね。痛んだ大地では存命できない。それも事実だ。そして同時に、我々は我々のためにその兵器を使うことはできないのですよ。核という力は名目だけであり実際の力を持ってはいけないと考えています。これは、まあ、個人的な考えですがね。さて、それを踏まえた上で交渉いたしましょう。特使、そちらでの人間の扱いはどのようなものですか?」

 その問いに、特使は隠しようも無いほど顔をしかめた。
 それは、と言いかけ、迷い、うめくように言葉を紡ぐ。

「とても正当な扱いはしていないと、そう言わざるをえません」
「そうでしょうそうでしょうともな。あなた方の価値観からすれば、我々は言語と言う野蛮な手段を持って情報を遣り取る種族に過ぎない。見下されても当然だ」
「そのように自らを蔑ろにする発言は控えたほうがいいでしょう」
「ですが事実なのでしょう。特使、あなたも数年前まではそう考えていらっしゃったはずだ」
「それは」
「勘違いしないでいただきたい特使、それは早計というものだ。私は別にそれを責めようとは思わない。価値観自体に罪は無い。それに、それと同等の罪を私たちも背負っている」
「こちらに紛れ込んだ我々を、正当に扱わなかったと、その発言はそういう意味ですか?」
「その通りです。ご存知のように、我々は幻想的敵対種対策課という組織の元で活動している。そして我々が幻想的敵対種に対して取る最多の行動は、幻想的敵対種の殺害なのですよ」

 な、と特使が息を吐いた。その顔が驚愕に満ち、刹那怒りに染まった。
 琢野はその怒りを涼しい顔でやり過ごし、しかしレイカの諌めるような視線に肩をすくめる。

「仕方が無いでしょう。我々はあなた方の力翼によって放たれる力を防ぐことができない。ならば力を振るう前に命を刈り取るしか術が無いのです。もちろん我々が先に接触できたなら、物事を穏便に済ますことも可能ですが、なかなかうまくは行かないもので。先に民間人に接触し、それを死傷させることの方が多いのです」
「それは――あなた方の方に非があるのではありませんか? 我々は、誓ってむやみに力を振るったりしない。それは我々のモラルです」
「モラル、ですか。そんなあやふやなものを盾にされても困りますな。我々は、大多数のあなた方にしてみれば野蛮で下賎な生き物なのですよ。それを相手に力を振るうことを拒む方が、どれだけいらっしゃいますか?」
 特使は沈黙を返す。
 琢野は肩をすくめ、おどけるように言った。

「特使。私たちが天使と呼ぶ者たちの代表者よ、どうぞお笑いください。我々幻想的敵対種対策課は表であなた方の難民を殺害し、裏でこうしてあなたがと交渉を行っているのですから」

そして琢野は微笑んだ。一切の翳の無い、無垢なほどに完璧な微笑を。

「私たちは、早急にこの交渉をまとめ、互いを互いの世界に公表する必要がある。そうすれば私たちはあなた方を殺さずに済み、あなた方は私たちを殺さずにすむのですからね。さあ――交渉をしましょうではありませんか特使殿。隠し事、姦計を一切抜きにした切羽詰った交渉を」



* *


 時計の針が三時を廻った頃、宮下雪菜が諌那のマンションを訪れた。
 ドアを開け出迎えた諌那に、雪菜はにこやかな口調と弾んだ笑みで疑問をぶつける。

「やあ若人よ、昨日はお楽しみだったかな?」
「帰れ」

 躊躇い無く言って、諌那はドアを閉めた。すぐさまドアを叩く音が聞こえて、あけてー、という間抜けな要請がドアの薄い構成材を通り抜けてくる。
 今度はしばらく躊躇った後、諌那は苦渋のままドアを開けた。雪菜は照れたように笑いながら、自分の発言を取り繕う。

「ごめんごめん、少しからかってみたくなっちゃって」
「ごめんごめん、少し締め出したくなっちゃって」

 声音にまるで反省の色が無い。諌那は嫌味ったらしくそう言って、雪菜を部屋の中に招き入れた。雪菜は勝手知ったる他人の家とばかりに迷わずリビングへ。
 その後ろを歩きながら、諌那は雪菜の背中に声を掛ける。
「どうしたの、突然」
「お買い物のお誘い。洋服とか、当面は私が貸したので充分でしょうけどいつまでそうってわけにもいかないでしょ? 今日はそこら辺を買いに行こうかと思うんだけど。――こんにちは、ジャスミン。昨日はお楽しみだった?」
「まだ言うか貴様」

 リビングのソファに腰掛けたジャスミンに、雪菜は軽く声を掛けた。雪菜の言葉に、諌那は諦め混じりのため息を吐く。
 ジャスミンは雪菜の顔を見て、少しだけ嬉しそうな顔をした。それまでずっと沈んだ、悲しそうな顔をしていたジャスミンの表情に輝きが戻る。そんなジャスミンの様子を見て、今度はなぜか悲しさ交じりに嘆息。
 そして、自分のその反応に思わず苦笑した。馬鹿馬鹿しい。これじゃあ、まるで。

(妬いてるみたいじゃないか)
「諌那、ジャスミンと話した?」

 肩越しに振り返って、雪菜がそんなことを尋ねてくる。
 諌那は首を横に振った。

「いや。残念だけど、話題が思いつかなくてね」
「じゃあ、ジャスミンから声を掛けてきたことはあった?」

 もう一度首を振り、否の意を示す。朝食とも昼食ともつかぬ食事を終えたジャスミンは何も言わず、いま彼女が腰掛けているソファに移った。そして窓の外を、夏そのものの青空に視線を馳せ続け――いまに至る。その間、一言の会話も飛び交いはしなかった。
 そう、と雪菜は呟いて、若干顔を厳しくした。ジャスミンに一瞥を向ける。
 ジャスミンは困ったように、あるいは照れたように視線を外した。その動作はひどく幼く見えて、ジャスミンが自分と変わらぬ年代なのだと言うことをつい忘れそうになった。ソファから一歩も動こうとしなかったジャスミンはまるで人形のようだったが、いまこうして多彩な反応を示す彼女は、間違いなく一人の女性だ。

(人形のよう、か。綺麗だとは、まあ、思うけどね)

 自分の感想を、噛み締めるように反復。

「諌那。ひょっとしてジャスミン、話せないのかも知れない」
「話せない?」

 予想だにしなかった雪菜の仮説に、諌那は疑問を返した。雪菜はええ、と頷く。

「だって可笑しいじゃない。普通、人は、そんなに長い間無言で居るなんて出来ないはずよ。言葉ってのは自分自身の感情を落ち着かせるためのツールでもあるし、何よりも簡単な自己表現だしね。だからそれが無いってことは、話さないんじゃなくて話せないんじゃないかなと思うのよ」
 諌那はへぇ、と合いの手を打ち視線をジャスミンへ。ジャスミンはなぜか紅潮していて、こちらと目が合うと慌てて明後日のほうに視線を飛ばした。しかしその反応に、今朝のような怯えの気配はない。

(なんだ?)
「ま、言葉が喋れようと喋れまいと当面は関係ないわね」

 軽く言う雪菜。諌那もその意見には賛成だった。
 さあ、と雪菜はジャスミンを誘う。

「行きましょう。三人で、一緒に」

 迷いは、あったのか、それとも。  ジャスミンは立ち上がると、ゆったりとした足取りで雪菜に、諌那に歩み寄る。その顔に浮かんだ表情は恥ずかしさを含んだ微笑で、諌那は軽く面食らってしまった。

(――参った。本気で綺麗じゃないか)
「ま、行きましょうか」

 内心を気取られぬよう、諌那は言った。
 ジャスミンは小さく、より赤くなったように思える顔で頷いた。



* *



 交渉の場が開けた後、部屋に残った琢野はソファに埋まるように深く座りなおし、大きく背を伸ばした。

「あー、疲れた。交渉役なんて買うもんじゃないね、ホント」
「でも、私たちのほかに適役はいませんよ」

 背後のレイカが、前に回り込みながらそう言った。
 それはそうだけどね、と琢野は嘆息。

「あっちの世界はよくこれで成り立つもんだね。言語の代わりに思想を読み合い意思疎通をするなんて、嘘もはったりも効かないってことじゃないか」
「ですから、あちらの社会はごく少人数の集まりが多数存在することで成り立っています。こちらで言うところの社会と言う概念は希薄ですよ。あちらはあくまで、自分の仲間かそれ以外という区分でしか人を判別しません」

 レイカを見上げながら、なるほどね、と琢野。その視線がレイカのそれと絡み、刹那、琢野は顔をしかめた。苦渋の顔で胸のサングラスに手を掛ける琢野を、レイカがそっと制す。
 レイカは、覗き込むように琢野の瞳を見つめた。
 彼女自身の瞳に、サファイアのように青い瞳に、自分のそれが映る。幼少より忌み、嫌い、数年前にようやく折り合いをつけた黒瞳。とりわけ特異なわけではないただの瞳。
 少なくとも、見かけでは。

「読心眼」

 ぽつりと、レイカは呟いた。それが自分の瞳の名だと、琢野は知っている。その名を幼い琢野に教えたのは、いまは亡き祖母だ。

「軒下家に代々遺伝する特異な目」
「やめてくれ。この目は、そんな大層なものじゃない。欲に目が眩んだ大昔の先祖が喰らった戒めなんだから」

 無表情で、琢野はそんなことを述べる。
 そんな琢野に、レイカはふっと笑みを浮かべた。常に身に纏っているある種の緊張、それを全て解いたような、安堵の微笑み。それがどういった感情に起因するものか読み取り、琢野は苦笑した。
 構わず、レイカは続ける。

「読心眼。その名の通り、相手の瞳を通しありとあらゆる感情や思惑を読み取る瞳。軒下一族ははるか昔、大和の時代よりその力を持って時の権力者を裏で支えてきたとお母様に教えられました。その瞳は一子相伝。生まれてくる最初の子供に現れ、その瞳を持つものが次の長になるべき存在だ、と」
「――レイカ?」
「琢野、いえ、琢野様。二年前にこの世界に紛れ込み、怯えるだけだった私に手を差し伸べてくださった御恩は一生忘れません」
「それなら僕だって、君に感謝しなければならないことがごまんとある」

 琢野は応えた。あの日々。こんな眼を持ってしまったせいで他人を信じることができなかった日々。建前を通り越して本音を、友好の笑みを通り越して畏怖に震える本心を読み取っていた日々。屋敷から一歩も出ることはなく、ただ庭の季節を読み取っていた日々。
 他人と、この瞳を限りなく憎悪しながら、そんな自分にすら気付いていなかった日々。
 それを打ち砕いたのは、軒下家の庭先に紛れ込んできた薄ら汚れた一人の天使だった。

「たとえ君がそれを前提とした社会に生きていたとしても、自分の心が読まれるのは当然という考えを持っている人間なんていうのは初めてだった。その前提のもとに、僕と対等であろうとした君を知らなければ、僕はずっと他人と言うものを知らなかった」

 二年前にこの世界に紛れ込み、軒下家の養女となった天使は微笑む。
 いまこうしていることが、かけがえのない幸せなのだという思いと共に。

「だから、ありがとう、レイカ。僕を箱から出してくれた女性ひと
「私はあなたを感謝し、慕っています」
「その言葉を、そのまま君に」

 琢野は身体の力を抜いた。全てを目の前の女性に、髪を染め言葉を喋り、人間として自分の傍にいようとしてくれている天使に託すために。

「私たちとあなたたちは、分かり合えます」

 レイカの顔が、視界いっぱいに広がっている。

「だから――そのために、頑張りましょう、琢野。二人で、一緒に」
「当然だとも、レイカ」

 琢野は答え、最後の距離を自分で詰めた。



* *



 街並みが夕日に染まる頃、ようやく雪菜の言うところの買い物は終わりを見せた。
 オープンカフェで腰を落ち着かせ、諌那は本心の愚痴を吐露した。あまり繁盛していないのか、通りに並んだテーブルに客の姿はあまりない。

「絶対、買いすぎ」
「そんなことないわよ」

 平然と答えたのは、もちろん雪菜だ。雪菜は視線で同意を求められたジャスミンは、曖昧な笑みで、あるいは苦笑で解答を保留する。諌那はでもさ、と呟いて自分の足元に転がる紙袋を見下ろす。
 計四つ。サイズは、とりあえず諌那の知る限り最大だった。

「持ち手が僕一人ってことも考慮して欲しかった」
「ごめんねー。ジャスミンがかわいくて、なんかこう、着せ替え人形? そんな気になっちゃって」

 照れながら、悪意無く答える雪菜。

「いい年した大人が、人をダシにして遊ばないでよ」
「あら失礼ね。遊んでなんかないわ」

 自信を持って即答される。
 着せ替え人形って言ったのは何処のどいつだか。諌那は抗弁する気力すらなく、注文した烏龍茶をストローで吸い上げた。夕刻ということもあり暑さはだいぶ和らいでいたが、それでも冷たい飲み物は喉に心地よい。
 見れば、ジャスミンは雪菜が勝手に注文したアイスコーヒーに梃子摺っているようだった。ストレートを口に含み、なんとも不味そうな顔をする。しかし添えのミルクやガムシロップに手をつける様子はない。

(ミルク入れればそれだけでも変わるのに)

 苦笑か、呆れか。自分でも判別つかぬ気持ちでそう思うと、ジャスミンが不意にこちらを向いた。数時間は歩きつづけたはずだが一向に疲労の気配すら無いその表情は、明らかな疑問を浮かべている。

「なんか変なこと言った? 僕」
「――あ、そういうことか」

 納得の声を上げたのは、ジャスミンと同じアイスコーヒーを啜る雪菜だった。こちらは馴れたもので、ストレートを口に含みながら涼しい顔をしている。
 何を悟ったか、雪菜は自分の添品に手を伸ばすとそれを開封、自分のコーヒーに垂らしてみせる。ストローで液体を数度掻き回せば、やがて黒い液体に白い線が走り明るい茶色に。ミルクティーになったそれを啜り、雪菜はジャスミンに向けて片目を瞑った。
 それを見ていたジャスミンは頷いて、同じようにミルクとガムシロップを投入。

「ひょっとして初めて?」
「そこはかとなく卑猥な台詞ね」

 からかう雪菜を諌那は無視。
 照れくさそうに頷いたジャスミンに、思わず感嘆のため息をついた。

「深窓のお嬢様って、初めて見た」
「どういう感想よ、それって」
「うるさいな、いいじゃないか別に人の言葉選びのセンスなんて」

 雪菜は軽く声を上げて笑う。諌那は憮然としたが、見ればジャスミンもくすくすと笑っている。多少は打ち解けたかね――ジャスミンの笑みを見て、諌那は思った。金髪碧眼の女性の笑みに、昨日の怯えは無い。

(別段会話をしたわけでもないんだけどね)

 いままでの強行軍を思い出し、諌那は胸中で呟いた。腕時計に視線を落とせば時刻は六時過ぎ。僅か数時間の行進だったが、楽しそうに次々と店舗を廻ろうと先頭を行ったのは雪菜、そしてそれに平気な顔で追従したジャスミンだ。諌那はと言えば、二人の後方で従者よろしく荷物持ちをしていたに過ぎない。
 ただ、雪菜が選んだ服をジャスミンが試着したときには真っ先に感想を述べさせられた。普段から雪菜の買い物に突き合わされ、そのたびに同じような評価をさせられている諌那としては馴れたものだが、その評価は自分でも呆れるほど単純。即ち似合うか、似合わないかだ。
 こんな感想でいいのかと、以前一度雪菜に尋ねたことがある。雪菜は笑い、単純だからいいのだと答えた。曰く、嘘が微塵も入っていないからむしろ信じられるのだという。
 不意に諌那は、ジャスミンが自分を見ていることに気が付いた。向けられた視線は、悲しさとすまなさが混じったような不思議な、とりあえずこの場では不思議なもの。悲しげな瞳は、間違いなくこちらの瞳を見ている。

「あーあ、だめじゃない諌那。ジャスミンを悲しませちゃ」
「……なんで僕?」
「私じゃないならあなたでしょ?」

 さも当然、とばかりに雪菜。ジャスミンは申し訳無さそうに顔を伏せた。

「えっと」

 思わず口を開いて、その先に続く言葉を見失う。あるいはそんなもの、用意していなかったのかもしれない。後者だな、と諌那は苦虫を噛み潰したような心境で思考した。
 謝るのは、おかしいと思う。自分が非を犯した覚えは無いからだ。女を泣かせたらとりあえず謝っとけ、というのは悪友(海人)の意見だが、諌那はそれには反対だった。
 非が無いのに謝るのは失礼だ、と思う。何よりも相手に。

(損な性格だとは思うけどね)

 謝れば丸く収まる事態でも、諌那は謝らない。自分に非が無い限り、決して頭を下げることはしない。
 だからこそ、諌那は大学では孤立していた。言葉を交わし共に笑う、友人と呼べる知人はわずか一桁だ。たいていの人間は、諌那のそんな厄介な信条をやっかみ、離れていく。

(いまさら改める気が無いってんだから、救いようが無いんだよな)

 自分の思考に諌那は苦笑。
 ジャスミンに、なぜか軽い驚きのようなものを覚えているようなジャスミンに口を開く。

「何が気に障ったかわからないけど、まあ、これが僕だから」

 言いながら、思わず苦笑する。

「気に障ったなら殴るかどうかすればいいよ。そうすれば、とりあえずは黙るからさ」

 殴られるのには慣れている。大学という一つの社会集団の中で、異常ともいえる諌那の見解は敵意の槍玉に挙げられることも少なくない。何も言われずに殴られたことも、一度や二度ではなかった。
 言ってから、ふと自分の言葉の裏に潜む真意に気付いた。いまの台詞は間違いなく本心だと自負できる。だからこそ、そこに隠された意味も自分の真理なのだろう。
 つまり、殴られてもこの考えを変えるつもりは無いという信念が。
 諌那は窺うようにジャスミンの顔を見た。ジャスミンは今度こそ、驚いたような顔でこちらを見ている。まずったな、と思った。しかし、不思議とジャスミンの顔に呆れや嫌悪の感は無い。それが、いまはまだ、という注釈つきなのどうかはわからないが、それでも――ありがたいと思う。
 何故だろうという疑問は、考えても致し方ないという結論の前に消えた。
 雪菜は、以前にこの信念を伝えたことのある雪菜は苦笑のような、事態を面白がるような笑みでこちらを見ていた。短い感想が、その口から滑り出る。

「この、もののふが」
「さっきの言葉そのまま返す」

 言葉のセンスを疑うという雪菜の台詞だが、果たして言った本人は気付いたか。
 諌那はそれが明らかな照れ隠しだということを自覚しながら、周囲に視線を馳せた。既に夕陽はビルの林の向こうに消え、空は茜色から菫色に移りつつある。繁華街からは昼間とは異なる賑やかさが風に乗って伝わり、道行く人の顔ぶれも少しだけ変わる。
 と、その視線が一点で止まった。このオープンカフェが広がる歩道の、車道を挟んで反対側に見知った顔を見つけたからだ。
 諌那はこれ幸いとばかりに立ち上がった。疑問の顔を向ける二人に、なんでも無さそうに答える。

「ちょっと知り合いが居たから会ってくる。すぐ戻るよ」

 雪菜は無言で頷いた。しかしジャスミンは僅かに辛そうな顔をすると、それを隠すように俯くという反応リアクション
 ジャスミンが気になったが、だからといって上げた腰を下ろす気は無かった。自分が此処にいても、たぶんジャスミンは何かあるごとに嫌な思いをするだろうという確信があったからだ。
 ただ、問題は。諌那は飲み物の代金をテーブルに置きながら、またしても胸中で呟いた。

(その何かが、僕にはまるでわからないってことだ)

 それは過失か、それとも。
 答えが出そうも無い疑問を無理やり飲み込んで、諌那は歩き出した。



* *


 夕闇が迫る街並みで、彼は人並みに溶け込んでいた。とりわけ特徴の無い身なりと振る舞い。敢えて言うとすれば、肩から提げた濃緑のショルダーバッグが特徴と言えなくも無い。しかしそこには、ある種の違和感が漂っていた。
 まるで、意図的に外見の特徴を無くしたような、そんな感覚。
 それは間違いなく功を成しているだろう。事実、周囲の人間は、誰一人として彼に注意を払わない。彼は何気ない動作で歩を進めながら、指定された地点を目指した。
 何の障害も無く、そこに辿り着く。浜松市の中心にある大きなデパートだ。
 徹はその建物を、年季の入った外壁を見上げ、息を吐いた。これが見納めだ、と自分に言い聞かせる。彼は生まれ育ちも浜松であり、この百貨店の創業は徹よりも旧い。生まれた時から存在してた老百貨店を失うことに若干の寂寥感はあったが、それでも、惜しくは無い。
 最後の別れを告げて、入り口の自動ドアをくぐった。
 真っ先に目指すのは一階のトイレだ。暗記した店内配置を頼りに、自分が受け持つトイレに入る。選んだ場所は最奥の個室。後ろ手にドアを閉め、提げてきた鞄をどさりと洋式トイレの蓋の上に。
 鞄から取り出したのは、トランクケースを二廻りほど小さくしたような長方形の鞄だ。馴れた動作で蓋を開けると、中には平行な六本の試験管と、ガラス製の大きな砂時計のようなものが倒された形で並んでいる。試験管にはきつくゴム栓が閉められており、黄色と緑の液体がそれぞれ三本ずつまとめられている。ゴム栓からびたチューブが砂時計の上下に繋がっていた。
 自然と浮かんだ笑みを消し、彼は腕時計で時間を確認した後それぞれのチューブに取り付けられたコックを解放した。砂時計の低い内圧によって、試験管の中の液体が吸い上げられてゆく。
 砂時計の上と下に、それぞれ色の違う液体が流れ込む。
 それを確認し、彼はその場を後にした。躊躇い無くトイレを出て、混雑する店内を抜けて外へ。心持ち早足で、何かから逃げるかのように。



* *



 諌那が声を掛けたのは、交差点で信号待ちをする人々にまぎれた綾小路海人だった。
 肩を叩かれた海人は、見るからに不機嫌そうな顔で振り向く。

「んだよ、なんか用か?」
「いや、とりわけ用事は無い。見かけたからとりあえず声を掛けただけだ」

 海人を相手にすると自然に言葉遣いが無愛想になることを諌那は重々承知していた。歯に絹を着せないのは雪菜が相手でも同じだが、海人の場合は更に気を使うことが無くなる。
 気構えせずに済む相手だと、諌那は認識していた。
 案の定、海人はなんだそれと毒づいた後に息を吐いた。次の瞬間には、いつものどこか無気力な顔つきに戻っている。

「浮気現場でも抑えられたか?」
「は? お前何を言って」

 言いかけて、何のことか気付く。

「見てたのか?」
「横目でだけどな。いっしょに金髪の子が居たろ。目立つぞ」
「忠告痛み入る。ま、直せる問題じゃないがね」

 信号が変わり、周囲が動き出す。しかし海人が歩き出す気配は無い。
 もう少し話すと言うことかと判断し、諌那は吐息。
 海人はしばし周囲に視線を馳せた後、気まずそうに尋ねてきた。諌那が予想した、まさにそのものの質問を。

「神無月、お前、ほんとーに宮下先輩と付き合ってないのか?」
「だから何度目だよその質問。答えはノー、変更なしだ。変更する予定も無い」

 呆れた口調で諌那。同じ問いかけは、大学に入ってから数多の、それこそ初見の人間からも何度となく浴びせられたものだ。諌那にしても、そろそろ答えるのが億劫になりつつある。

「だったら、なんでいっしょに居るんだよ。お前らどう見てもデート帰りだろ」
「紙袋まで見えたのかお前。視力幾つだよ」

 含み無く諌那が言うと、海人は誇るように両目共に二・〇だと言った。

「それはともかく、詳細は想像に任せるけど、僕と宮下先輩は付き合ってなんか無いよ。ただ親しいって、それだけだ」
「なんか納得いかねぇな…じゃあ、あの金髪が彼女か?」
「なんでお前そうやって人を誰かとくっつけたがるかね」

 それが世を楽しく生きるための努力だからだろと億面なく答える海人を、諌那は完全に無視。

「あの人は宮下先輩の友達だってさ。僕も昨日知り合ったばっかりだよ」

 嘘は半分、真実も半分。考えようによっては丸々真実といっても差し支えない言葉を選び、諌那は言った。さすがにいま同じ部屋で暮らすことになったとか、そういったことを口にできない。したら多分、シメられる。
 諌那が抱いた小さな危機感をよそに、海人は納得がいかないように口を開いた。

「あの人、日本人か?」
「は? なんで?」
「いや、染めたにしちゃ綺麗過ぎたしな、あの髪。それにこのご時世、金に染めようなんて考えるのはよほどの世間知らずか、馬鹿だけだ」

 諌那は即座に言葉を返すことができなかった。海人の疑問の、その裏を悟る。
 海人の台詞は、真実だった。金髪というのは、ずいぶんと昔からめっきり数を減らしている。その理由はただ一つ、天使の存在。日本で確認される天使は、その全てが金の髪に青の瞳を携えているからだ。
 海人は、自分と共にいた女性を、ジャスミンを天使ではないかと疑っている。それを理解して、諌那はため息をついた。
 それはごまかしでも諦めでもない、ただただ呆れから来る嘆息。

「考えすぎだよ。ま、どこぞのお嬢様だとは思うけどね」
「――そっか。だめだな、この時期になるとどうにも考えが棘々してくる」
「自覚があるならどうにかしろよ、ったく」

 苦笑交じりにぼやく諌那と、同じく苦笑を返す海人。自分の考えがいまさら変えようも無いということを重々承知しているらしい。そして諌那も、海人のそんな性格を好ましく思っていた。
 信号が、赤に変わる。

「っと、じゃあな。ちょっと野暮用があんだわ」
「ん、わかった。引き止めて悪かったな」

 挨拶もそこそこに、海人は変わりきった信号をよそに車道を渡る。海人が対岸に着いたとき、ちょうど車用信号が切り替わり、車道が流れ始めた。
 その後姿が人波に消えたのを見届け、諌那は吐息を一つ吐き、いつしか握り締めていた両手を開いた。うっすらと浮いた汗は、自分ですら認識しなかった焦りの表れか。ざわざわと不快に波立つ意識の表層。その原因は、ただ一つ。

 ――ジャスミンは、天使ではないか。

 微塵も考えなかったわけではない。だが腰を据えて考えたことも無かった。
 金色の髪、碧(あお)の双瞳。それは確かに日本で確認された天使に共通の特徴である。思い返せば彼女との出会いはあまりに不自然だ。立ち入り禁止の建物の影に倒れ、その身なりはあまりに奇天烈。考えれば、彼女の発した言葉を聞いた覚えも無い。
 脳裏に次々と浮かんで消えるのは、何度も何度も読み返したあのファイルだ。天使に関するデータが、およそ一個人で手に入るものは全て網羅しているのではないかと思わせるほどに大量に、細かく記載されている古びたファイル。何度も読み返すうち、文面の誤字ですらも覚えてしまった。
 その知識が、いま、自身を苛む。
 そして、諌那は愕然とした。

(だからどうしたって、何故思えるんだ、僕は)

 愕然の次は呆然。また溜まり始めた歩行者に気付くことも無く、諌那はその場に立ち尽くす。だからどうした。開き直りかと自問すれば、否と答える自分が居る。諌那は自分の天使に対する知識とジャスミンとを比較し、それでなお、だからどうしたと思う自分に驚愕した。
 それは、徹底的な無関心。
 天使共同体のように、天使を言葉の通り神の使いだと仰ぎ称えるつもりは無い。また、そこまで行かずとも、俗に天使擁護派と分類される少数の者の思想に順ずるつもりも無い。
 だがしかし、一般常識である天使排斥を声高に叫ぼうとは思わなかった。天使は危険な生物であると、それは確かにそう思う。ところが、故に天使が人間社会に害を及ぼす前に殺害してしまえという、その結論には明確な嫌悪を抱いている。

(僕は家族を、友達を、故郷を天使に奪われたんだぞ? なのになぜ、天使を嫌悪しない?)

 思えば、自分の嫌悪の対象は共同体の理念であり、一般常識の理論だ。あれだけ多くの事件を、天使が原因と思われる数多の事件を調べてきたと言うのに、その過程で一度たりとも天使そのものに嫌悪を抱いたことがあっただろうか。
 天使と言う生物を見下すつもりは無い。かといって、仰ぐつもりも無い。
 いつしか溜まっていた信号待ちの歩行者は、再び信号が変わったことにより流れ出す。その中でひとり、ただ立ち尽くす諌那に顔を向けるものなど誰一人としていない。
 無関心ここに極まり――いつか思ったことを、自嘲のあまり思い出す。
 すると背後から、予想だにしなかった声が掛けられた。

「おいおい、それは勘違いというものだよ」
「え?」

 思わず声を上げ、諌那は振り返った。聞き覚えのある声だと記憶が告げる。
 果たして、目の前に立っていたのは灰色のスーツを着込んだ男性だった。中年と呼ぶにはまだまだ若い。せいぜい二十代半ばというところか。造りのよい顔と、そこに輝く二つの黒瞳。そこに輝いているのは、世の全てを楽しもうとするようなそんな光だ。
 見覚えの無い容姿に、諌那は内心首をかしげた。と、男のスーツの胸ポケットから覗く眼鏡のフレームに気付く。眼鏡、と考えて、その男と何処で出会ったか思い出した。

「ひょっとして、昨日の」

 雪菜のマンションで出くわした、悪趣味なサングラスの男だ。
 ご名答、とばかりに男は頷いた。

「その通り。覚えていてくれて光栄だよ、武藤諌那君?」

 諌那は息を呑んだ。限られた人間しか知るはずの無い、昔の名前みょうじ
 自然と顔が険しく、あるいは無表情になるのを自覚しながら、諌那は次の言葉を待った。だが、男が繰り出したのは言葉ではなく、胸の内のケースから取り出した一枚の紙片。
 受け取った諌那は、その表面にプリントされた文字を見る。

「幻想的敵対種対策課浜松支局長 軒下琢野」

「天使対策課の人が、何の用ですか?」
「あまり棘々しく言わないで欲しいな。そんなに警戒してくれなくてもいい」

 笑いながら男は、琢野は言う。

「ただ、天使に対する君の意見を聞きたいだけさ。まあ、ここじゃあ場所があれだな。雰囲気が出ない。少し移すとしようか」

 一方的に言い捨て、琢野は身を翻し歩き出す。
 着いて来い、と言われては居ない。だからたぶん、自分には拒否権がある。
 それを自覚しながら、しかし諌那は琢野の後を追った。





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