【二〇一五年八月八日 月曜日】



 大学の図書館で調べ物を終えた諌那は学食で昼食を済ませ、その足を部室棟へと向けていた。
 キャンパスの端に聳える、古びた三階建ての建物がそれである。大学は夏季休校に入っているのでキャンパス内に人の姿は少ない。馴れた足取りで階段を昇り三階へ。階段に一番近いドアを守衛室から借りてきた鍵で開錠、入室する。
 ドアのプレートには「天使研究会」の文字。
 部屋の中は手狭な応接間といった感じだ。窓は部屋の奥に一つ。基本的に飲食禁止なため水道などは設置されていないが、会員が持ち込んだ菓子の袋やペットボトルなどが目立たぬ場所に散らばっている。部屋の中央には向かい合う形で長机が二つ設置され、それぞれに三つのパイプ椅子が設けられている。左右の壁際には使い古した感のある書棚が置かれ、色とりどりのファイルや書物が詰め込まれていた。
 窓の遮光カーテンを開き、部屋の中に光を招く。冷房をつけようとして、やめた。窓を開き風を誘う。壁の気温計を見れば二十八度――――耐え切れない暑さでもない。
 諌那は肩に提げていた鞄を適当に投げ出し、書棚からA4のファイルを取り出した。古びた装いのそれは、諌那が入学する前に卒業した先輩の残した資料集だと聞いている。集められた資料の確かさは、一番目を通している諌那が一番理解していた。
 表紙にマジックで書かれたタイトルは単純。

「天使資料集 vol.1」

 諌那はファイルを手に椅子に腰掛け、馴れた手つきで表紙をめくる。まず最初に出てくるのはこの資料をまとめた先輩の名と、その理由。何故このような資料を作成したのか、その動機が簡単な言葉でまとめられていた。

「彼らは何者であるのか」

 その一文を音読し、さらに項をめくる。次に出てきたのは平成二十七年、即ち今年の日本政府の天使に対する公式見解だ。これは諌那が今年追加したものである。

「日本政府は平成二十年において制定された危険生物対策法に基づき、以下のことを定める。
 1. ヒトと同じ外見をし、言語を用いた意思疎通が出来ず、公共の利益に反する破壊活動を行う生物を幻想的敵対種と定める。
 2. 政府は幻想的敵対種を人間と認めない。故に幻想的敵対種に人権は生じない。
 3. 幻想的敵対種の対処は宮内庁管轄の幻想的敵対種対策課に一任する。また警察、自衛隊はその指揮下に置かれ、その行動は幻想的敵対種対策課の許す範囲において超法的に活動することを許可する。
 4. …………」

「あくまで"幻想的敵対種"、か」

 既に何度も目を通した条文を再び読み通し、諌那は呆れ気味に呟いた。

「公式文書だからか、それとも……考えるまでも無いか。天使なんて言葉、使えるはずも無い。Ancient Genocidal Living、そこから"幻想的敵対種"って和訳を作ったお偉方も凄いけど、天使ANGELって俗称を考えついた奴も凄いよ、ホントに」

「どっちかって言うと天使って言うより堕天使の方が正解だと思うけどな、俺は」

 いきなりの言葉に、諌那はそれほど驚きもせず顔を上げた。ドアに目をやれば、見知った姿がそこにある。
 背は諌那より少し低く、体格も小柄だ。ダークグレーのシャツとあか抜けたジーンズを身に纏い、その腕には銀のブレスレッドが見える。もちろんそれは偽物イミテーション
 ジーンズ愛好家と自負して止まない彼は、名を綾小路海人かいとと言う。

「いつから?」
「よく言うぜ。入ってきたの気付いてたくせに」
「だったらいいかげん忍び込むの止めろよ。中の人に気付かれないようにドアをあける技術とか、磨いても仕方ないだろ、おい」
「いやまあ、そこら辺はあれだよ。人間性」
「どういう人間性だ、どういう」
「座右の銘は神出鬼没、噂をすれば陰ってね――――また読んでるのか? そのファイル」

 海人は諌那の正面に座りながら、諌那の手にしたファイルを見て言う。

「まあね。お前は?」
「俺はいつもの。また新しい犠牲者だよ」

 軽く言う海人の顔が、その瞬間確かに厳しくなったのを諌那は見逃さなかった。
 諌那はファイルを閉じ、ため息にも似た吐息を吐いた。その正体が何なのか、自分でもよくわからない。

「日本じゃないな。ここ数日、そういった話は無かったはずだから」
「ご名答。アメリカはニューヨーク。郊外の住宅街で無残な死体が見つかったそうだ」
「天使そのものが確認されたわけじゃないのか?」
「ああ。けどまあ、天使の仕業で間違いないだろうってのがあちらの警察の結論らしい」

 ほら、と机に置かれたのは海人が鞄に入れていた英字新聞だ。
 諌那はそれほど英語が得意ではないが、それでもタイトル程度なら読み取れる。

「ちなみにこっちに日本語訳版があるのだが」
「さっさと渡せ馬鹿野郎」

 差し出されたのはA4のプリント用紙。それがインターネットのニュース記事だと悟り、信憑性は充分だなと判断する。
 ざっと目を通した限り、書かれている内容は海人の口から出た言葉と大差なかった。

「死体の数は四、そのうち原型を留めているのが僅か一。他は飛び散ったパーツから判断するしかなし、と。食事時に聞きたい話じゃないな」
「同感だ。ホントに性質が悪いよ、あいつら」

 海人の口調には僅かながらの苛立ちがある。
 いつものことか、と気にせず、諌那は書棚から別のファイルを取り出し海人に差し出した。海人はそれを受け取り、開く。最初に挟まれているのは三つ折にされた世界地図だ。
 赤い点が幾つも打たれた地図に、海人はペンで新しい点を打つ。アメリカの、ニューヨークが位置する場所に。 ファイルのタイトルには「天使出現地図 平成27年度版」とあった。

「今年に入って何件目?」
「三十二。去年の十月段階の数字と同じだ。日本で三、南北アメリカで九、ユーラシアで十七、オーストラリアで三件、似たようなことが起こってる」
「これから増加すると思うか?」
「だろうな。まだまだ増えると思うぜ」
 つまらなそうに言って、海人はファイルを閉じた。それに合わせる形で、諌那もファイルを閉じる。
なんの伺いも立てず二つのファイルを書棚に戻す諌那。その背中に、そういえば、と前置きして海人が疑問をぶつけた。

「昨日の式典、行ったか?」

 詳しく尋ねるまでも無い。昨日行われた式典など、この日本では一つしかないのだから。

「――――いや、行ってない。お前は?」

 少なくとも嘘じゃないな、と胸中で呟く。

「行ったよ。当たり前だろ?」

 何を当然のことを、と言わんばかりの呆れた声音。
 諌那は苦笑。

「わざわざ名古屋まで、ご苦労なことで」
「同じことを宮下先輩にも言われた。なあ、あの人って名古屋出身だよな?」
「そうだよ。それが何か?」
「何であそこまで他人事になれるのかと思ってね。紛れもなく天使災害の被災者だろ?」
「ああ。親戚の家に一人で遊びに行ってたらしい。名古屋を離れていたから、死なずに済んだそうだよ。家族は全滅だってさ」
「だろ? なのにどうして式典にも参加しないのかと思うと、正直疑問が残る」
「まあ、普通に考えればそうだろうけどね」

 でも、と諌那は言葉を続ける。

「案外、そんなものかもしれないよ?」
「は?」
「忘れられないほど大きな事件ってのは、往々にして現実感に欠けるものさ。実感が湧かないって、そう言うのを聞いたことがある」
「そんなもんかねぇ」
「さあね。こればかりは当事者じゃなきゃわからないさ」

 この嘘つきが。胸のうちで己を罵りながら、それでも表情にはおくびも出さず、諌那はテーブルの上の手荷物を取った。中身をざっと確認し、腕時計に視線を落とす。
 文字盤が示していた時刻は、十三時半。

「帰るのか?」
「ああ、調べものは済んだしね」
「糞、俺のレポートお前の倍近いんだぞ手伝いやがれ」
「単位稼ぎご苦労様」

 軽く皮肉を吐いて、諌那は部屋を後にすべくドアノブに手を掛ける。
 そして、背後から最後の質問が来た。

「そういえばさ」
「ん?」
「当事者で思い出した。今年も式典に来なかった奴がいたよ」
「誰?」

 答えは簡単に知れる。
 それでもなお、敢えて諌那は尋ねた。

「名古屋消滅の生き残り。本来ならまず第一に出席しなきゃいけない奴が、今年も来なかった」

 言って、海人は長く吐息。
 それはどこか、ため息のようにも感じられた。

「――――なに考えてるのかね、いったい」

 諌那は何も言わずに部屋を出る。
 噛み締めた口端を、決して悟られぬように。



   * *


 天使は敵である。
 それが世間一般の解答であり、常識であった。
 その理由は、人間と意思疎通が出来ないためである。
 しかしそれは、所詮名目上の理由にすぎない。
 本当の、限りなく実情的な理由はただ一つ。
 人間側に、天使の破壊活動を止める手段が存在しないためであった。



   * *


 市街地に向かうバスの中で、諌那は思考を廻していた。
 時間帯が半端なせいか、バスの中に乗客は少ない。道も空いており、バスは何の滞りもなく一路終着停を目指す。

(天使が扱う力は、まだその解明に至っていない)

 赤信号で車体が停止した。エンジン音が消え、バス会社が掲げるアイドリング・ストップ運動の実践に移る。

(その力は純粋な熱エネルギーである。判明しているのはその一点だけだ。何ら道具を用いず、資源も消費せずに発揮されるエネルギー。その最初の犠牲はアメリカのイラク駐留軍。三十名あまりが遺体すら残さずに焼失し、地面にはクレーターだけが残った。それは規模こそ違えども、まさに名古屋消滅そのものじゃないか)

 信号が青に。エンジンが再始動する。
 軽い加速度を感じながら、それでも諌那の思考は止まらなかった。
 それは、たぶん。
 海人が責め立てていた、名古屋消滅の生き残り。自分がそれであるというその呪縛じじつが、いまだに振りきれていないから。

(日本で過去最大の天使災害、それが名古屋消滅。名古屋市民のうち、たまたまその日名古屋にいなかった数十名を除いた全員がほぼ例外なく死亡。僅か一名の例外は、当時十一歳の子供だけ。それが、つまりは僕)

 そのことを知る人間は、限りなく少ない。施設に送られた諌那を養子にした現在の両親、施設の極少数の関係者、そして雪菜だけだ。
 絶対絶命の状況から、ただ一人生還した。それだけならば、世間は奇跡と称し持て囃したかもしれない。しかし諌那がおかれた状況は、世間が持て囃すには訝しがらざるを得ない状況であった。
 諌那は目を閉じ、そのときを回想する。九年も昔の話で、だけれどつい昨日のように思い出せるその情景。
 思いを馳せるたび、まず浮かんでくるのは激しく降り頻る大粒の雨。後になり、それは蒸発した水蒸気が上空で冷却され、地表に戻ってきただけだと知った。
 一瞬の閃光に眩んだ視界が再び色を取り戻したとき、世界は闇に塗りつぶされていた。白世界ホワイトアウトから黒世界ブラックアウトへと一直線に転落したかのような感覚。黒い地面と黒い空。降った雨は地表で再び蒸発し霧となる。その霧すらも黒かった。
 何も遺ってはいなかった。建物も、人も、ビルの林も車の河も、例外なく地表から消えていた。まるで消しゴムをかけたかのように、全てが綺麗に無くなっていた。
 そんな、言葉どおり消去デリートされた街の中で、彼は一人佇んでいた。
 みすぼらしい姿。ぼろぼろの着衣。彼は地面に二本の足でしっかりと立ちながら、じっとこちらを見つめていた。
 目が合ったことを、情報として記憶している。
 その背中に見えたのは、光る一対の翼。
 それは息を呑むほどに美しくて、儚くて、夢のようだった。
 だからこそ。
 天使。その俗称は、決して間違いではなかったと幼心に悟ることができた。
 名古屋を滅ぼした天使が自衛隊に狙撃されるまで、名古屋消滅からおよそ二時間。
 その長い時間を、諌那は天使と向き合い続けていた。
 何をしていたのか、と問われれば、何も覚えていない、としか返せない。
 ただ覚えているのは突然の銃声。そして倒れる天使の身体。
 その額にはぽかりと穴が空いていて、倒れた地面にはあっという間に赤い血が広がっていった。一旦融解しガラス質に再硬化した地面はそれを吸わず、降る雨と一緒に小さな池を作り上げることになる。
 そんな、真っ赤な血溜りに沈む天使の姿を諌那は覚えている。
 それが名古屋消滅の最後の記憶。
 おそらくは。自分の家族とか友達とか、家とか学校とかが消えてしまったことよりもその血の方があまりに現実的で毒々しくて。
 そのときの記憶は、そこでぷっつりと途切れている。



(で、気がつけば病院にいました、と)

 自嘲混じりに自らの記憶を締めくくる。記憶はそこで終わり、災難はそこから始まった。
 マスコミは当然の如く、その出来事に飛びついた。無責任な煽りのせいで世間の天使に対する恐怖感はよりいっそう現実味と恐怖感を増し、天使共同体――天使とは穢れた現代社会を浄化するために遣わされた存在であると主張する過激団体――の活動は活性化した。
 真夏に起きた突然の惨事、生存者はただ一人だけ。その情報は瞬く間に広がり、世間に僅かな安堵と疑問を与え、被災者の遺族に怨恨を募らせた。

 なぜお前だけが――――

 孤児となった諌那が送られた施設にまで踏み込んで来た遺族たち。小学校すら終えていない子供に謂れの無い私怨をぶつける数知れない大人たち。
 そんな、考えれば考えるだけ理不尽と知れる罵声は何度も何度も繰り返された。売上だけを重視した週刊誌は諌那を天使の仲間と嘯くものまで現れ、罵声はより激しく酷くなった。
 今でもこの時期になると、思い出したかのようにさまざまな紙面で第一生存者として面白半分に扱われる。中にはあからさまに非難している雑誌すらもある。幸いなのは、当時未成年だった自分の名前が世間に出ることは無く、そして施設の関係者に良識が伴っており、諌那の名前や諌那が養子として迎えられた先を決して明かしたりはしないということだ。
 数少ない、しかし何者にも代え難い良識者たちのおかげで、諌那は平穏な日常の中に身を置けている。
 ただ、一つだけ気掛かりなことがあった。
 名古屋消滅の、その記憶。雨粒が皮膚に当たる感覚までも思い出せるというのに、崩壊の原因たる天使と一時間以上も向き合っていたというのに。

(あの天使は、どんな顔を、していたっけか――――)

 どうでもよいと言えば、果てしなく無価値な疑問。
 しかしその疑問は、確実な棘となり諌那の記憶に影を残している。

 なぜお前だけが――――

 そんな、答えようの無い罵倒と共に。



 きき、とブレーキを鳴らしバスが停車する。いつしかバスは終着停に辿り着いていた。
 諌那は定期を取り出しながらバスを降りる。
 何度目とも知れぬ、答えの出ない疑問を抱えたまま。



   * *
 街を適当にぶらついた後、諌那は馴染みの喫茶店に足を向けた。日差しは僅かに傾いているが、それでもまだ高い。腕時計が示すのは午後三時過ぎ。一息つくにはちょうどいい頃合だろう。
 夏休みの学生だろうか、街には諌那より少し若い年頃の姿が多い。その姿は明るく、歩く様はこの暑い夏を存分に楽しんでいるように見受けられる。
 こいつらの、いったいどれだけが昨日の追悼式典に何を思ったのか。そんなことを考えながら、諌那は人の流れを掻き分け歩を進める。
 と、その視界の片隅、小さな店舗が続く通りに黄色いテープが見えた。腰の高さに張られたそれが示すのは、単純な警告。立ち入り禁止KEEP OUT。テープに囲まれ隔離されている領域は、諌那にも覚えのある商店で、正確にはその廃墟だった。
 注意深く見れば、通りを流れる人並みが、その一角だけを迂回するように歪んでいた。全員が何の依存も無くその警告に従っているためか、それとも、臭い物に蓋をするためか。
 諌那はテープの前で足を止め、仰ぐようにそれを、内部の爆発によって瓦礫の山と化した商店を見やった。壁は一部が崩れ、残りは煤焦げている。床に散らばっているのは天井から剥がれ落ちたコンクリートだろう。天井には大きな穴が一つ空き、ここで起こった爆発の凄惨さを物語っていた。
 天使共同体によるテロの痕だ。

(まだ撤去されないのか)

 驚き半分、呆れ半分で諌那は息を吐いた。この店に爆発物が投げ込まれたの昨日の正午前だという。それは紛れもなく、名古屋で行われている祭典へのあてつけだ。あるいは、名古屋を崩壊させた天使に対する敬意か。

(馬鹿らしい)

 胸中で吐き捨てる。しかし、何よりも馬鹿らしいのは、この瓦礫がいまだに撤去されていないという事実だ。こういったテロの処理は市役所の役割だったはずだが、浜松市の各地で似たようなテロが起こっており、人員が不足しているのだろう。

(ここまでして共同体が訴えるのはなんなのかね……)

 思いながら、肩越しに背後を振り返る。
 道行く人は、老いも若いも関係なくこちらを見ていない。みなこの夏を満喫しているような満ち足りた顔で、しかしこの領域には視線を向けもしない。まるで、相手をしなければ自分には害が及ばないと言わんばかりに。
 やれやれ、と諌那は嘆息した。共同体の主張がどうであろうと、自らの主張を訴える方法としては間違いだなと結論する。
 最後にもう一度ため息をつき、歩き出そうとして、やめた。
 店の奥の床、物陰から腕が見えていた。

 躊躇は一瞬だった。
 諌那は立ち入り禁止のテープを超え、床に散乱するコンクリート片を避けながら店の奥に向かう。一度足を止めて背後を振り返れば、しかし予想通り、諌那の行動を咎めるものも目に停める者もいない。
 無関心此処に極まりだ、と呟き、世間への後ろめたさを切り捨てた。
 店の奥に設置されたカウンターを乗り越えると、その姿が目に入る。
 コンクリートの散らばっていない、比較的平坦な床の上に一人の少女が倒れていた。



* *



 とりあえず、日本人ではないようだった。
 年のころは諌那と同じ程度だろう。肌は日本人ではありえないほどに白く、肩下まで伸びた金髪には枝毛一つ無さそうだ。身に纏っている服は一昔前の令嬢が好むような代物で、センスはともかく質は間違いなく上等品に含まれるだろう。
 死んでいるのかと不遜にも思えば、果たして呼吸はあった。衣類に包まれながらも主張を止まない豊満な胸が、かすかに上下している。
 誰だろう、と諌那は思った。何処から来たのか、とも思う。
 服装から見れば、この少女、否、女性が宿無し、つまりホームレスやただの家出人ではないことは明らかだ。また、その服に付いた汚れはあまりひどくなく、この女性がこの床に倒れてからそれほど時間が経っていないと思われる。

(行き倒れ? こんなご時世に、こんな場所で?)

 考え、即座に否定。ありえない。天使の出現による住民の不安感と、それに乗じた治安の悪化はかつての安全大国の名を地に堕として久しい。もしこの女性が別の場所で倒れ、こんなところに、外からは目の届きにくい物陰に運ばれていたのだとしたら、起こるべきことが起こっているはずだ。しかし幸いにも、この女性にそんな痕は無い。
 幸運だよな、と小さく呟く。それは彼女を見つけた自分を指すのか、自分に見つけられた彼女を指すのか、己にもよくわからない。
 まあ、結論は同じだ。
 諌那は女性の肩を叩き、目覚める気配がないと悟るとその身体に手を廻し、馴れた様子で背に担いだ。伺うように外を見れば、そこには変わらぬ人通りが見える。
 表に廻るのは得策ではない。そう判断し、諌那は店舗のさらに奥に向かった。短い廊下を抜け、業務員用だろう、薄汚れた緑のドアを開けて外に出る。ドアの外には表にあったのと同じ黄色のテープが張ってあったが、諌那は構わずそれを破り捨てた。
出た先は大通りから一本外れた狭い小径だ。左右に見えるのは店舗の裏側、味気ないコンクリートの壁ばかり。当然のように、人通りも無い。
 諌那は安堵の息を吐き、当初の目的地に向け歩き出した。
 背負った女性は、呼吸こそしているもののまるで目覚める気配が無い。
 疲れきったように、昏睡するかの如き深い眠りに就いている。
 急いで、しかし起こさぬように歩くのはそこそこ困難な行為だった。



* *



 予期しなかっただろう訪問客に、雪菜は驚きのあと眉をひそめた。
経緯わけはちゃんと説明するから、とりあえず上がらせて」
 自分よりすこし小柄なだけの女性を背負って三十分近く歩きつづけた諌那は、暑さのせいもありすっかり上がった息を整えながら雪菜に、訪れた先のマンションの住人に頭を下げた。
 ドアを開けた雪菜はしばらく躊躇したあと、しかたないわね、と苦笑して二人を部屋に招いた。通された先は雪菜自身の部屋だ。何度か訪れたことがあるため、諌那自身に特別思うことは無い。雪菜に促され、ベッドに背負った女性を横たえる。

「クーラー、つけとくわね」
「あと扇風機も頼めるかな。熱中症かもしれないから」
「はいはい。諌那は先にリビングに行っててよ」
「ん、悪いね」
「いいから早く。この人、着替えさせたほうがいいだろうし」

 改めて見れば女性が着ている上着は厚手の長袖物で、この季節にはまるで合わないことは明らかだ。熱中症なのだとしたら、まずこの服装が原因の一つかもしれない。

「ほら、早く」

 雪菜の言葉に背を押され、諌那は雪菜の部屋を後にした。



* *



 しばらくしてリビングに顔を出した雪菜は、大げさに顔に手を当て天井を仰いだ。

「まいったな。諌那が女の子拾ってくるなんて、夢にも思わなかった」
「なんかものすごく語弊がある気がするのは気のせいかな?」

 憮然と言いながら、諌那は勝手に入れたコーヒーを啜る。
 雪菜は顔に当てていた手を離すと、にやりと底意地が悪そうな笑みを浮かべる。

「だって事実じゃない。どこのお嬢様だか知らないけど、どうしたの、あの子」
「街で倒れてた」
「嘘、と言うか、簡略してるでしょ、諌那。詳しく説明しなさい。それによってこれから取るべき対応も変わるんだから」

 笑みのまま、それでもどこか真面目な口調で雪菜は言う。
 逆に諌那は顔をしかめた。

「なんか、雪菜に隠し事ってできた覚えが無いんだけど」
「当たり前でしょ。いったい何年顔つき合わせてると思ってるのよ。いいかげん諌那の考えなんて読めるわよ、簡単に」

 諌那と雪菜は家も近く、親同士も親しいということもあり諌那が生まれたころから面識があった。同じ幼稚園と同じ小学校に通い、そしていまは同じ大学に通っている。諌那が施設に引き取られる過程で二人が別れ、そして大学で再開するまでには六年近い空白がありはするが、それを除けばほぼずっと共に歩いていると言って過言ではない。
 その事実は諌那も十分理解しているので、小さく息を吐き、彼女を発見した詳しい経緯を説明した。
 話を聞き終わった雪菜は、自分で煎れた紅茶のカップに口を付けながらあからさまに眉をひそめた。

「まあ、手遅れになってなくてよかったとは思うわ」
「そればかりは同感。放って置く訳にもいかないし、連れて来るしかなかったんだよ」

 答える諌那の顔も渋面だ。自分が背負ってきた女性がトラブルの種になりかねないと言うことは、自分自身が嫌になるほど自覚していた。

「警察に届けるっていう案は?」
「却下だよ。最近の警察がロクな連中じゃないってことぐらい、雪菜だって知ってるだろ?」

 多発する天使共同体のテロ活動に対し、警察機構は人海戦術という対策を取るに至った。そのためここ数年で大量の警察官が新規雇用され、警察官の数自体は以前の二倍弱に増加している。しかしその弊害として、お粗末な採用試験をパスしただけの、充分な倫理観念すらも持たない警察官が増加したことも事実だ。
 彼らはその体力を見込まれて採用された者たちであり、そこに正義感とかそういったものは限りなく希薄だ。そのため不良の溜まり場となった交番も浜松だけですら一つや二つではない。
そんなところに気を失った女性を預ければ、たいそう面白くないことが起こると容易に想像できる。警察に預けるという選択肢は、元から諌那の中には存在していなかった。

「じゃあ、どうするの?」
「とりあえずは起きるまで待つしかないよ。起きれば自分でどうにかするんじゃないの?」
「それもそうね。――――あ、起きたかな」

 呟くように小さく付け足し、雪菜は自分の部屋に向かった。諌那もその後に続く。
 部屋の中では、雪菜の予想通り女性がベッドに身を倒したまま目を覚ましていた。彼女が着ていた服はベッドの脇に畳まれており、いま彼女が着ているのは雪菜の服と同じラフなシャツとズボンだ。先ほどとの相違に、諌那は自分の目を疑った。
 女性の、どこか虚ろに焦点を結ぶ瞳は碧。
 その双瞳がゆっくりと動き、こちらを捕らえる。
 あ、と諌那は声を漏らしていた。吐息に近い、限りなく小さな言葉。知っている、と意識のどこかで誰かが呟いた。自分は、この瞳を、このような光を灯す瞳を知っている。

(なんだ?)
「おはよう。気分はどう?」

 諌那の自問に気付くはずも無く、雪菜は女性に調子を尋ねた。
 彼女は雪菜の顔をぼんやりと眺めた後、さっとその表情を恐怖に変える。

「え――――?」

 その反応に、雪菜は驚愕の声を漏らしていた。
 女性はベッドの上で身を起こすと、軽く被せられていた薄布団を胸元に抱き寄せベッドの端に逃げる。恐怖だろうか、その顔は青ざめていた。
 雪菜は思案するように一度天井を仰ぎ、やおら諌那に向き直った。ばつの悪い笑みを浮かべる。

「ごめん、諌那はちょっと外に出ててくれる?」
「は?」
「ほら、彼女、怖がってるし。同性同士のほうがまだ緊張しなくて済むでしょ?」

 何で僕が、とも思ったが、視線をやった先の女性の表情を見て、仕方ないか、と諦める。
 女性が浮かべた表情は本当に恐怖のそれで、それが主に自分に向けられたものだと知れたからだ。
 考えれば、無理も無いかもしれない。気が付けば見知らぬところに寝かされていて、着ていた服も違う。そこに訪れたのが男では、面白い想像はできないだろう。
 さっきから嫌な想像ばかりだ。諌那はもう一度ため息をつき、じゃあ任せるよ、と言い残して部屋を出た。



 諌那の気配が遠ざかるのを確認して、雪菜は改めて女性に向き直った。
 歳は多分自分と同じぐらい。白い肌とか長い金髪とかは人形のように可憐だし、おまけにスタイルも自分よりいいようだ。勝っているのは、たぶん身長ぐらいだろう。

(まあ、それはどうでもいいことよね)

 半分ぐらい負け惜しみでそう思い、女性に向け軽く微笑んでみせる。彼女は、それで幾分警戒を解いたようだ。自分を隠すように握り締めていた布団に篭もった力が、少しだけ緩んでいる。
 雪菜は笑みを絶やさぬよう気にかけながら、とりあえず手を差し出した。

「はじめまして。私は宮下雪菜。一応あなたを看病したんだけれど」

 言葉の途中で、ふと気付く。
 そして雪菜は息を呑んだ。これは、この女性はトラブルの種なんて生易しいものではなくトラブルの大木とかそのレベルの話ではないか――――そんな思いが、雪菜の脳裏を掠めて消えた。



* *



 何十分後になるかもわからない話し合いの終わりをリビングで待つほど気の長いほうではなく、諌那は手近なコンビニに簡単な夕食を買いに行った。
 スパゲティとペットボトルのウーロン茶を買って部屋に戻る途中、マンションの前に止まった真紅のオープンタイプのスポーツカーに気付く。

(悪趣味だな)

 遠慮もなくそう思う。混じりっ気の無い単色は、周囲の風景から完全に浮いてしまっていた。果たしてこの車が似合う風景とはどんなものだろうと頭をひねっても、たった一つの候補すら浮かばない。
 マンションを出たときには無かったはずだ。運転席に誰もいないことを確認しながら、諌那は胸中で呟いた。まあ、考えても致し方ないことではある。
 早々に見切りをつけ、諌那はマンションに戻った。
 エレベーターで四階まで上り、廊下を歩く。
 ん、と諌那は眉をひそめた。その行く手に一組の男女の姿が見える。
 二十代後半といった年頃の男は白灰色(ライトグレー)のスーツを着込み、何の冗談かサングラスをこれ見よがしに掛けていた。その傍らに立つ女性も、男と同じぐらいの年齢。すらっと高い背丈を持ち、冗談かと思うほど真っ赤なスーツに身を包んでいる。
 悪趣味と言う点では、二人にこれ以上ない共通項が伺えた。
 不意に諌那は、この二人組みが、おそらくは女性があのスポーツカーの持ち主だと察した。根拠など何も無いが、なんとなく、あの赤いスポーツカーには同色のスーツに身を包んだ者が乗るのが相応しいと思ったからだ。
 しかしまあ、なんにしても悪趣味であることに違いはない。
 正体不明な、しかしおそらく悪趣味であろう二人は廊下の端に立ったまま、小さな声で言葉を交わしている。諌那は二人の横を過ぎようとして、男がこちらの顔を見ていることに気が付いた。

「なんですか?」
「いや、失敬。気に障ったなら謝るよ」

 口の端を歪めながら男は言う。それが苦笑なのだと気が付くのに数瞬を要した。

「――そうですか」

 諌那は視線を前に戻し、雪菜の部屋を目指して歩いていく。
 二人の視線が、好感でも嫌悪感でもない無表情な視線が自分の背中に向けられていることに気付きながら、諌那はそれを無視した。



 青年の姿がドアの向こうに消えた後で、レイカが口を開いた。

「よろしいのですか?」
「ああ、構わないよ。少なくとも共同体の連中じゃ無さそうだし、やましい考えがあるわけでも無さそうだし。ヴェルベット家にはちゃんとした加護がついてらっしゃるようだ」

 言って、思い出したかのように琢野はああ、と声を上げた。

「そうか、思い出した」
「なにを?」
「いまの子だよ。どこかで見た顔だと思ったら、そうか、バベルの生き残りじゃないか」
「名古屋消滅の?」
「そう。この街にいるってことは知ってたけど、まさかまた関わるなんてね」

 琢野は顔に笑みを浮かべる。口の端を軽く歪めるだけの、不敵な、掴み所の無い笑みを。

「一旦退こうか。名古屋消滅で唯一生き残った人間だ、天使に恩義を感じているところもあるだろう。彼女に手荒なことはしないさ」
 レイカの返事も待たず、琢野は歩き出す。レイカは口を開こうとして、やめた。とりわけ口を出すことも無いと判断したからだ。
 エレベーターで降下しエントランスを抜け、玄関に出る。
 そこに停まっている車を見て、琢野ははぁ、とため息を吐いた。

「レイカ、やっぱりこの車変えようよ」
「何故?」
「何故って、いやほら、目立ちすぎてるし。だって真っ赤なんだよ?」
「そう思うなら自分で免許とって自分で乗ってください。これはあくまで私の車だということをお忘れなく」
 何処となく憮然と言いながら、レイカはなれた手つきで運転席に滑り込みエンジンを始動させる。琢野は嫌そうに、しかし諦めた顔でその助手席に腰を下ろした。この遣り取りは過去に何度も繰り返したもので、レイカが聞く耳を持ってくれないということは重々承知していた。かといって琢野自身に免許を取ろうという気が欠片も無いのだからどうしようもない。
 エンジンの上げる心地よい方向に耳を傾けながら、琢野は誰にでもなく独りごちた。
「天使に見初められた少年は青年となり天使と出会う、か」

 返事を求めたわけではなかったが、声が返ってきた。

「浜松が、名古屋消滅の二の舞にならないことを祈ります」
「それは無いんじゃないかな。あの子――――いまは神無月諌那だっけ? 彼、真面目なようだしね。久しぶりに見たよ、あそこまでまっすぐな人は」
「視たんですか?」
「視えたんだよ。意図的じゃないさ。あそこまでまっすぐだと、こんなものじゃ防ぎ切れやしないみたいだ」
 苦笑交じりに言って、掛けていたサングラスを外す。その下から覗いたのは、ごく普通の二つの黒瞳。そこには愉快そうな光が輝いている。まるでこの現状を楽しむような、そんな輝きだ。
 さて、と琢野は息を吐いた。車がゆるゆると発進し、すぐにスピードに乗る。
 顔に吹き付ける風に目を細めながら、琢野は言葉を続けた。

「とりあえず出直すとしようか。彼と彼女が良き前例となることを月と星に願いつつね」

 十字路の信号が、差し掛かったところでちょうど青に変わった。
 映える赤のスポーツカーは、速度を落とさず公道を進んでいく。





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