彼女は少なくとも、普通ではなかった。
 幼い、それこそ幼稚園に通っていた頃はそんなこと思いもしなかったし、結局それは自覚した事実ではなく、周囲から諭された真実だ。自分ではあくまで普通だと思っていたし、他人もそうであると当然のように認識していた。
 その当然に皹が入ったのは、小学校に入学してすぐのことだった。幼稚園を終え、それまでとはまた違う社会の中で、彼女は自らのそれを躊躇い無くひけらかした。みんなも同じことができると思い、信じていたために。自ら距離を詰めれば、自ずから友好の幅が増えると知らず悟っていたために。
 その結果として、彼女は拒絶された。
 周囲は、世界は違っていた。自分が異常の側に立つ人間なのだと、そのとき少女は初めて知らしめられた。
 中身の知れぬ喪失感の中、思い出すのは幼稚園の先生や両親の振る舞い。思い返せばそれは、幼い子供に対する大人の振る舞いとしては、やけに。やけに、よそよそしくはなかっただろうか。
 少女は頑なだった。周囲の指す異常性を認めようとはしなかったが、その記憶を振り返ったとき、ついにそれを自認した。自らが異常者なのだと、その事実を受け入れた。
 相手の心を知るということが、紛れもない異常なのだというそんな事実を。
 幼い少女は、名を、宮下雪菜といった。



* *


 琢野の姿が小さくなったころ、雪菜はジャスミンに視線を向けた。
 ジャスミンはそんな雪菜に気付くことも無く、肩をすくませ俯いている。顔に浮かんでいるのは悲しみ。そしてその原因は自己嫌悪だ。

「別にいいんじゃないの?」

 その言葉は、思ったよりも簡単に口から出た。
 え、とジャスミンが驚いたような顔を見せる。

「それがあなたたちの価値観なんでしょう? だったらそれに従ってもいいと思うわよ、私は。少なくとも諌那は、だからってあなたを貶したりはしないでしょうからね」
(それは、そう、思いますけど)

 途切れ途切れの小さな声が、雪菜の耳に届く。否、それは声ではない。空気を震わせるわけでもなければ声帯を震わせているわけでもない。媒体が何であるか、想像すらできはしない。
 ただ雪菜は、それが思念であると、明確な文章として読み取れるほどに明瞭な思考であると知っていた。耳ではなく意識で受け取るメッセージだと悟っていた。そう確信せしめるのは自分の記憶。かつて、知らず異常者の側に経っていた日々の記憶だ。
 片目を瞑り、横目でジャスミンを見やりながら雪菜は続けた。

「ならいいじゃない。こうやって言葉で意思を伝えるのが野蛮だってあなたが思うなら、あなたはそれに従えばいいわ」
(あ、いえ、違います。あなたたちが野蛮だなんてそんなこと、思ってません)
(知ってるわ)

 意思で答えたジャスミンに、雪菜もまた思考で返す。
 短い文面を伝えた後で、あーあ、と大きく息を吐いた。

「疲れるわね、これ。強く思うことに慣れてないからかな。やっぱり私は喋らせてもらうわよ」
(どうぞ。私は別に、言葉が野蛮だなんて思ったりなんかしませんから)
「うん、だから、知ってるって言ったでしょ。こんな方法じゃ嘘もつけないから、ジャスミン、あなたが言葉を話すということをどう思っているかはよく理解しているわ。いまはもう、それを普通に受け止めていることもね」

 僅か一晩でどのような心変わりがあったのかは察しえない。だがいま、確実に、ジャスミンは言語というものを野蛮だとは考えていないようだ。
 そこにどんな心変わりがあったのか想像はできないが、その原因は容易に想像がつく。
 即ち、神無月――否、武藤諌那という人間だ。

(武藤?)

 突然思考が飛んできた。強く思ってしまったかなと、雪菜は苦笑にも似た笑みをジャスミンに向ける。
 言うべきか迷い、諦めた。

「そ。武藤諌那。あの子の昔の名前よ」
(何かあったんですか?)
「ええ。本当に、あの子は何とも思っていないのね」

 それは語り掛けというよりむしろ、独白に近い物思い。
 疑問を顔に出すジャスミンに向け、雪菜は口を開いた。

「あの子の両親……両親だけじゃないわね。友達も、学校も、全部天使に壊されたのよ。諌那が小学校五年生のときにね」
(え?)
「こっちじゃ名古屋消滅って言うんだけど、九年前に出現した天使が、とある街を消滅させたの。私も諌那も、生まれはそこでね。私は偶然、その日街を離れてたから助かったんだ。死者はおよそ二百万。諌那は、その唯一の生存者なのよ」

 言うべきではない。少なくとも、他人である自分が語るべきことではない。
 頭ではそう理解しているのに、言葉は絶えなかった。

「諌那は唯一の生存者ってことでずいぶんと世間に叩かれてね。疑惑の目を向けられた。そのあと施設に入って、いまの神無月って姓になって、とりあえず普通に暮らしてはいるけど、ね」

 口は止まらない。何故。
 あるいは、ひけらかしたかったからかもしれない。自分がどれだけ、諌那という人間を知っているかを見せびらかしたかったからかもしれない。

「不思議でしょ? 諌那は、間違いなく天使にすべてを壊された筈なのよ。私と違って両親にも愛されていたでしょうし、友達も多かった筈なの。それを全部天使に奪われて、挙句ひとり生き延びたせいで謂われない文句も浴びせられてきた。諌那の運命は、まさに天使に玩ばれたようなものなのよ」
 思い出したのは、大学のキャンパスで再開した初夏の日。偶然鉢合わせした瞬間に諌那が見せた、呆けた表情。自分が目の当たりにしている現実が信じられないといった類の、驚きを通り越してしまった表情だ。
 そしてそれは、すぐに苦渋に変わった。その心中は、予想に難くない。

(諌那は私に罵られることを受け入れた。私が他の人たちと同じように、不可解にも生き残った生存者に向けた暴言を吐くであろうことを予想して、それを受け入れた)

 そのための表情だったと、雪菜はそう理解している。諌那の抱いた心持ちは、しかし決して、諦めではない。暴言を吐かれ、理不尽に罵られることに慣れてしまったが故の受諾ではなかった。

「それが諌那のスタンスなのよね」

 思考することも語ることも、ジャスミンの前では同じことだ。
 ならば語ろうと、雪菜は思った。

「たぶん、他人に対して決定的に無関心なのよ、あの子は。誰が何を思って何を基準にどう行動しても、その責任や結果は結局のところ自分に戻ってくる。きっとそう思ってるんでしょうね。因果応報。あの子の考え方はそれに尽きると思うわ。だから」

 意識したわけではないが、雪菜は言葉を切っていた。
 なぜならそこに、ジャスミンの瞳がある。真摯に、真剣な様子でこちらの話に聞き入るジャスミンの瞳がある。その輝きは本当に必死で、何故自分がこんな、自分のほうが諌那に近しいのだということを誇示しているのか、まるで気付いていないふうだった。
 自分でも気付かぬうち、雪菜は苦笑していた。すっかりぬるくなってしまったアイスコーヒーで口を湿し、言を閉じる。

「だからあの子は、迷ってる。自分のしたことが、生き残ったことが善か悪かわからないがため、自分の立場を決めかねているんだと、私は思うわ」

 コーヒーの容器をテーブルの上に戻し、雪菜はふう、とため息を吐いた。長々と喋っていたために疲れた、といより、何でこんなことを話しているんだろう、という自虐的な嘆息に近い。
 もちろん、その理由が理解できないわけではない。自分の感情の見分けがつかなかったり、その想いの正体が見抜けないほど子供ではない。

(本当に、愚痴になっちゃったわね)

 苦笑は何処までも歪んで、そのまま泣きそうな笑みになる。
 彼女は知っていた。なまじ相手の心が読めるだけに、諌那の本心を知ってしまった。諌那が自分を、最後まで女性としては見てくれないだろうということを悟ってしまっていた。その代償が、いまの関係なのだとしたら――それでも、やはり、納得はできない。

(なら)

 不意に、思考が雪菜の意識に響いた。

(諦めなければいいでしょう)
「ジャスミン?」

 違和感を覚え、雪菜は声を上げていた。違う、と思う。これは、この声はジャスミンではない。ジャスミンよりももっと堂々としていて、芯の通った意識こえだ。
 見ればジャスミンは、呆けたような顔で、テーブルの近くにいつのまにか佇んでいた女性を見上げている。二十代そこそこといった感じの、冷たい感じのする美人だ。赤いスーツが、すっかり菫に染まった世界に浮き上がっている。
 女性は薄く笑みを浮かべ、小さく会釈した。

「初めまして、宮下雪菜さんとジャスミンさん」

 顔を上げる。
 雪菜は息を呑んだ。気配で、ジャスミンも同じように驚いていることを知る。
 青い瞳の女性は、そんな二人の反応を楽しむかのように言葉を続けた。

「私の名前は軒下レイカ。この世界で生きることを決めた天使です」



* *



 琢野に導かれ連れて行かれた先は、浜松市の中心街にある小洒落た喫茶店だった。
 造りはよく、諌那も以前から店の名前は評判と共に知っていた。しかし夕餉も近いこの時間、さすがに客の数は少ない。
 先導されるがまま、店の奥まった席に向かい合う形で座る。琢野はウェイトレスを呼びつけるといくつかの軽食を勝手に注文し、さて、と軽く吐息をした。
 その顔は、笑っている。穏やかに、しかし、腹立たしく。

「まずは警戒を解いて欲しいな。なに、別に取って食べやしないよ」
「どうして僕の昔の名前を知ってるんですか」

 不躾と自覚しながら、それでも諌那は躊躇わず疑問をぶつけた。
 琢野は笑みを崩さぬままに答える。気を悪くした様子すら見せない。

「あはは、知りたいかい? 答えてあげてもいいけど、その代わりにこちらの質問にも答えてもらおうか。うん、それがいい。質問と答えはワンセットで行こう」

 楽しむように言って、琢野はひょいと人差し指を立てる。
 一つ目、ということだろう。

「まず、君が懸念しているようなルートではないよ。君の関係者は本当に口が堅い。いやいや、良識をわきまえた方ばかりだ」
「じゃあ、何故」
「そうだね、教えてあげよう。答えは簡単だ。君は天使に関わった人間で、公的に、まあ割と秘匿気味だけど、とにかく僕の組織にはその記録が残っている。名古屋消滅の前から今現在に至るまで、君個人の情報というものは全て補われていると思ってくれていい」

 言われ、諌那は顔をしかめた。なるほど、と思い、目の前に座る青年の肩書きを思い出す。
 天使対策課、もとい、幻想的敵対種対策課。
 それは日本政府が設立した旧防衛庁所属、現宮内庁所属の専門機関であり、天使排斥の象徴だ。その規模や被害、予測の不可能性などから天災に分類される天使の破壊活動が発生したさい、その程度により自衛隊を傘下に置き、また超法規的に活動することを法の下で許された戦闘集団。
 その支局長である男は、あくまで笑みを湛えたまま口を開いた。

「やれやれ。そんな眼で見ないで欲しいな」

 そして、軽く肩をすくめる。

「いいかい? 僕たちは戦闘集団なんかじゃないよ。僕たちと彼らのよりよい関係を築こうと日夜寝る間も惜しんで尽力する公僕だよ?」
「その尽力の結果が、発見即殺害の信条ですか」

 口調がきつくなるのを、諌那は自覚した。
 その信条には明らかに嫌悪感を抱いている自分がいる。それはやはり、どうやっても誤魔化しようの無い真実だ。
 諌那の言葉に、琢野はほんの少し苦笑を混ぜたようだった。

「まあ、そこら辺はおいおい説明するとしよう。とにかく、僕は君の疑問に答えたんだ。だから次は、僕が君に尋ねる番だね」
「僕の情報なんて、そちらに全部あるんじゃないんですか?」
「皮肉気だねえ。ま、否定はしないよ。でもね諌那君、公的機関に残る情報は大きな情報だけなんだ。君自身の個人情報、たとえば生年月日や生誕当時の家族構成、経歴なんかは全部残っている。でも、考えれば当たり前だけど、あまりに細かすぎる情報は記載されていない。たとえば君が今朝何時に起きたとか、今日の昼御飯が何だったのかとか、そこら辺は収集されていないわけだ。だからこうやって、君に直接問い掛けることにした」
 そこまで言って、琢野は不意に口を閉ざした。
 疑問に思うと、ちょうど店のウエイトレスがトレイに乗せたパフェを運んで来た。ウエイトレスは大ぶりなチョコパフェを二つ、それぞれ諌那と琢野の前に並べると、ごゆっくりというお決まりの台詞を残して下がっていった。
 ウエイトレスが居なくなったのを見計り、琢野は言を続ける。

「たとえば、君がジャスミンをレイプしたかどうかとかね」
「……は?」

 思わず、声を上げていた。
 琢野は腕を組み、楽しそうに頷く。

「ふむ、いい反応だ。素朴さがにじみ出ててなんとも好感が抱ける」
「ちょっと待ってください。誰ですか、そのジャスミンっていう人は」

 混乱は、ある。しかしだからといって何故知っているのか、などと聞き返すほど愚かではない。
 琢野はおや、とわざとらしそうに首をかしげた。

「まだ名前を教えてもらっていないのかい? 君が昨日拾った女性のことだよ」
「だから。僕はそんな人、知りません」

 どくん、と心臓が大きく鼓動する。
 動揺を顔に出さず処理するのは、思ったよりもよほど難しかった。
 琢野はうんうんと頷き、嬉しそうに目を細める。

「いやいや、僕の見込みは間違ってなかったみたいだ。君みたいな正直者、このご時世じゃなんていうか骨董品に近いね」
「何を言って――」
「宮下雪菜、って言ったっけ? 君のお友達」

 突然出てきたその名前に、諌那は言葉を失った。
 琢野は片目を瞑り、立てたままの人差し指で自分を指差し、言う。

「君は知っているかな? 彼女と同じでね。僕もちょっと変わった特技持ちなんだ。嘘は通用しないと思ってくれていいよ」

 絶句するこちらには構わないまま、琢野はさてと言い、改めてこちらを見やる。
 黒い双瞳。そこ輝いているのは、世界の全てを楽しむような、そんな不遜な輝き。
 逃げられないと、何故か恐怖した。

「怯えずに、正直に答えてくれ。こちらとしては結構重要なことでね。君は、ジャスミンと肉体関係を持ったか?」
「……いいえ。そんなこと、しません」
「おや、それはもったいないことをしたね。今度機会があって、合意の下ならやってみるといい。きっと最高の幸福を得られるだろうからね」

 どこまで本気なのか。
 天使殺しの公僕は、言って軽く笑った。

「じゃあ次の質問に行こうか。君のフェイズだ」

 ゆっくりと、二本目の指が上げられる。

「何故、そんなことを訊くんですか」

 疑問はとっくに浮かんでいた。身体がこわばっていることを自覚しながら、諌那は問う。

「言っただろ? 割と重要なことだ、って。レイプされた人間がレイプした人間を助けるなんてことありえないからね」
「? それはどういう意味ですか?」
「おやおや、ルールを破っちゃいけないよ。次は僕の質問だ。君がジャスミンを助けたのは、何らかの下心があってのことかい?」
「いいえ」

 素直に、諌那は否定した。
 嘘は通用しない。雪菜と同じという言廻しが気になったが、それは事実のようだった。彼女を助けたのは、決して下心があったからではない。何故かと問われれば、ただ倒れていたからだとしか答えようが無い。
 こちらを値踏みするかのように見ていた琢野は、しばらくして頷いた。

「ふむ……やれやれ。ここまで真面目君が現代日本に生きてたなんてね」
「次は、僕の番ですか?」
「ん? ああ、その通りだよ。質問はさっきのやつでいいかい?」
「はい」
「じゃあそれが三つ目だ」

 そして、指が三本に。

「その答えもまたしても単純。彼女には君の補佐をやってもらいたい」

 今度こそ、諌那は言葉を失っていた。驚きではない。
 純粋に、琢野の言葉が理解できないからこそ、言葉を失っていた。
 琢野はそんなこちらの反応を楽しむように笑い、言葉を続ける。

「別に君が彼女の補佐をやってくれてもいいんだけどね。まあ結果は一緒さ。君たちには良き前例となってもらいたい」
「どういう、ことですか」

 声が、震えていた。
 理解不能の出来事が、いま目の前で垣間見れようとしている。
 琢野は笑っていた。変わることの無い笑みを湛えていた。

「ルールは守って欲しいね。けどまあ、したかった質問したし、特別に許可しようか。君と彼女に仲良くして欲しい理由なんて一つしかないよ。僕らが彼らと、彼らが僕らと共生するための交渉材料になって欲しいだけさ」

 声は堂々としていた。
 少なくとも、それが嘘だとは思えないくらいに。

「君は彼らと、本当に敵対するしかないと思っているかい?」

 琢野の台詞が、悪魔的に響く。
 勝負どころだぞ、これ――いまにも逃げ出しそうな意識を無理やり理性の下において、諌那は胸中でひとりごちた。この質問が、この男が自分に接触してきた目的だと悟る。

(さあ、考えろ)

 下手な解答はできない。天使擁護派は、実質人類の敵だ。自分がそれだと決め付けられたなら私刑が、あるいはそれ以上の未来が待っている。具体的にいえば、二度と戻って来れない彼岸とか。
 誰が訊いているともわからない。録音だってされているかもしれない。迫害の手は親族にだって伸びるだろう。身寄りの無い自分を引き取ってくれた養父母を悲しませたくは無い。
 だから、否、だが。
 諌那の結論は、靡きもしなかった。

「天使を、仰ぎ称えるつもりはありません」
「ほう」
「でも――――天使をみつけたらすぐ殺せ、という意見は、正直、納得できません」

 言ったぞ、とも、言ってしまったぞ、とも思う。
 賽を渡してきたのは琢野だ。しかしいま、自分でそれを振るったのだ。
 諌那は覚悟を決めて目を閉じた。さあ来い、と覚悟を決める。まず来るのは罵声か怒声か、それともいきなり殴られるのか。痛そうな未来を想像しつつ、舌を噛まないように力強く奥歯を噛んだ。
 自ら覆った帳の外で、琢野の声が聞こえる。
 それも、ひどく想像違いの声だ。

「凄いね、最高、本当に完璧だ。素晴らしい」

 予想だにしなかった反応に、恐る恐る諌那は目を開く。
 琢野は満足そうな顔をして、ぱちぱちと乾いた拍手を挙げていた。

「いやいや、参った参った。来てよかったよ。思った以上の収穫だ」

 にこやかな笑みを浮かべた琢野は、そう言っておもむろに席を立った。いつの間に平らげたのか、チョコパフェが器だけになっている。
 慌てて立ち上がろうとした諌那を片手で制し、琢野は言った。胸のポケットから陳腐なサングラスを取り出しながら。

「君はあれだな。もっと自分に自信を持ったほうがいい」
「どういう、ことですか」
「僕は君を評価するってことだよ。ああ、心配しなくてもここの支払いはさせてもらう。面白いことになってきたようだしね」

 サングラスの向こう側で、ゆらりと、眼光が揺れた。

「さて諌那君、おまけの質問だ」
「はい」
「君は、ジャスミンが天使だと思うかい?」

 その問いは、決定的だ。何が決定的なのか自分でもわからないほど、その問いは遠慮なく核心に突きつけられた白刃の切っ先だった。
 諌那は反射的に何か言おうとして、どんな言葉も浮かんでいない自分に驚愕した。はいイエスともいいえノー言えない自分に言葉を失った。
 琢野はこちらを見ている。サングラスのせいで瞳に宿った真意は知れない。ただ、愉しんでいるという確信だけが、ぐるぐると廻る意識の中で冷静に響く。
 寄り縋ったのは己の記憶、そこに刻んできた天使の特徴。照らし合わせたのはジャスミンという名の女性。何故、自分が天使対策課の人間に声を掛けられたのか。いいやそもそも、何故この人がジャスミンを運びこんだマンションで姿を見せたのか。
 状況は、知識は、とっくの昔にその答えを導き出している。
 ジャスミンは天使であるという、おそらく間違いのない解答を。

「僕、は」

 解答から得られた結論は一つ。そしてそれは、おそらく自分にとって同時に真実。

「僕、には」

 嘘は無駄。はったりだって通用しないだろう。
 琢野は愉しんでいる。こちらの反応を、自分がどんな答えを出すのかを心底愉しんでいる。
 だから、面白くも何ともない、自分の事実を伝えてやろうと思った。

「僕には、わかりません」

 できるだけはっきりと、明瞭に。
 声が震えないように手持ちの度胸を全て投げ捨てて、諌那は言い切った。わからないという、何よりも自分に正直なその見解を。

「僕には、彼女が天使かどうかなんて、わかりません」

 その答えに、琢野は小さく頷いた。口元がかすかに歪んで、すぐに元に戻る。
 一瞬だったが、確実に浮かんだその表情は苦笑。

「なるほどね。それが君の結論なわけだ」

 琢野は平然と呟いた。そこには焦りも、怒りも、そして何故か侮蔑も無い。
 天使を擁護すると取られても仕方ない意見を持つ人間に、排斥派の青年は頷くだけだった。

「ふむ、諌那君、いいことを教えてあげよう」
「なんですか」
「これは関係者と国のトップだけしか知らない極機密情報なんだがね。いま、水面下で天使たちとの話し合いが進められている」
「――え?」
「驚くのも無理は無いけど、これは本当さ。言っただろう? 君たちには良き前例になって欲しいとね。僕たちと、彼ら。敵対せずに暮らせるというミクロな証拠になってもらいたいのさ」

 琢野の台詞は、到底信じられるものではない。
 だがしかし、その声音は、疑うにはあまりに淡々としていて現実的だった。

「信じられないのもわかるけど、事実だよ。トップシークレットレベルのね」

 続ける声は、不遜な自信に満ちている。

「君は、昨日僕と一緒にいた赤いスーツの女性が天使だと言ったらどう思う?」
「そうなん、ですか?」
「ああ。彼女の名前は軒下レイカ。二年前にこちらの世界に紛れ込んできた天使だ。いまは僕の義理の姉だがね。苗字が同じなのはそのせいさ。そして僕は、彼女を愛している」

 臆面も躊躇いも恥辱も無縁そうな声で、琢野は言ってのけた。

「笑いたければ笑えばいい。でも僕は、僕と、彼女のためにこの交渉を成功させるつもりだ。僕たちが声を大にして共に居るために、僕はこの世界を丸め込みあちらの世界を手駒に取るつもりだ。なあ、諌那君」

 言って、琢野は大仰な動作でサングラスを取る。
 世界を愉しむような輝きはそこにはなく、ただ自分の言葉を実行せしめんと冷たく輝く瞳があった。

「僕は、君に仲間になってもらいたい。この交渉を成功させるための手助けをしてもらいたい」

 再び、琢野はサングラスで瞳を隠した。
 不意に諌那は、自分がいつのまにか汗ばんでいることを悟る。これほど冷房が効いた店内で、何故か身体がうっすらと汗をかいていた。

「手伝ってくれるなら、明日対策課にくるといい。場所は知ってるね? 名詞の裏に連絡先は書いておいた」

 諌那は慌ててポケットの中に手を伸ばした。硬い紙の感触がそこにある。

「今日の用事は、まあ、そんなところだよ。さて、それじゃあ時間を使わせたね」

 いままでと同じ口調で言って、琢野は歩き出した。
 テーブルから一歩ずつ、ゆっくりと遠ざかるその背中が不意に止まる。

「そうだ、一つ忘れていた。ルールから外れるから、答えてくれなくてもそれはそれで」

 振り返らずに、琢野は言った。

「頭上を仰いでも天使の姿は見えず、眼下に見下しても天使の姿は無い。なら天使は、君にとってどの位置に居るんだろうね」
「それは」

 どういうことですか、と続けるより少しだけ早く。
 爆音が聞こえた。



* *



 聴覚が戻るまでは少しだけ時間が掛かった。

「くぁ……」

 きぃんきぃんと響く不快な耳鳴りに声を漏らしながら、綾小路海人はアスファルトから立ち上がった。周囲を見回して、息を飲む前に思考力を失ってしまう。見えたのは、延々と連なる倒れた人々の姿。
 呆けていたのは一瞬だと思う。
 海人はすぐさま自分の身体に手を這わし、異常が無いか確認する。切り傷が何箇所かあるようで手のひらにはべっとりと血がついたが、それ以外に問題は無い。骨も折れていないようだ。

(ならば)

 することは一つだと、海人は改めてあたりを見回した。右手には吹き飛んだウィンドウ硝子。その破片は通りいっぱいに散らばっている。どうやらその向こう側、大型百貨店の一階内部で爆発があったようだ。
 通りに伏している人間の中には無傷な人間も多いらしく、ちらほらと起き上がっている姿が目に映る。その誰も彼もが呆然と立ち尽くし、周囲を、そして容赦なく吹き飛ばされた百貨店の内部に目を向けている。

(先にやることがあるだろうが)

 立ち尽くすだけの人間を胸中で罵倒し、海人は額から血を流すサラリーマン風の男を肩で担ぎ声を張り上げた。

「ぼさっとしてないで手伝え! 怪我人を安全なところに運ぶんだよ!」

 その声で、幾人かがそれぞれの周囲に倒れた怪我人の様子を確認しだす。海人はそれを見届け、足を引きずりながらその場を離れた。じゃりじゃりと硝子片をスニーカーで踏みしめ、小さな欠片が靴底を貫き足に突き刺さるのを自覚しながら、痛みに顔をしかめて先に進む。
 ようやく回復した嗅覚に、生臭い匂いが届く。
 百貨店から少し離れた地点では、既に野次馬の人垣ができていた。最前列の何人かが、こちらを見て息を飲む。人の集まり具合からして、この人垣がもっと現場に近づくのも時間の問題だなと忌々しく思った。
 肩で背負ってきた男を野次馬に渡し、何も言わずに身を翻す。

「おい、何処に行く気だ!」
「まだ怪我人が居るんだよ!」

 静止の声に罵声で返す。
 またしても幾人が息を飲む気配。そして声が続いた。

「俺も手伝うぜ」
「私もだ。おい、救急車と市役所の方に連絡をしてくれ」
「あ、私、応急セット持ってる」

 ばらばらと、数人が海人を追い抜いて走り出す。
 海人は小さく苦笑した。足の痛みを無視して、スピードを上げ先頭に。

「怪我人を安全なところまで運んでくれ。意識が無い奴は無理に動かすなよ」

 齧った程度の救急学を思い出しながら、海人は先を急ぐ。
 現場に戻ったときには、空気に混ざる血臭が度を増していた。ただ、海人の去り際の一言が効いたのか、比較的無傷な人間が怪我人を運び出している。
 後ろについてきた誰かが、怪我人と、左手に広がる惨状に息を飲んだのが気配でわかる。海人は覚悟を決め、見ないように努めてきた爆心地に、百貨店の中に視線を向けた。
 目に映ったのは、瓦礫だった。硝子の向こう側、本当ならば店舗が、年季が入った古めかしいクリーム色の床が広がっているはずの場所に、ただ白い瓦礫が押し詰められていた。

(詰められて?)
「上が、落ちて来たのか?」

 誰かが、呟く。
 そうかもしれないなと、海人は何処か夢を見るように思考した。一階部分に詰められている白い瓦礫は、ひょっとして一階の天井であり二階の床であったものではないのだろうか。

(つまり、一階部分が潰れて、二階から上がそのままどすん、と)

 何故か冷静に想像していると、不意に誰かが、先ほどと同じ男が叫び声をあげた。

「て、天使――!」

 海人は弾かれたように空を見上げた。他の人間も、怪我の手当てをしていた人間もその手を止め空を仰いだのが視界の端に映る。
 周囲は既に薄闇だ。百貨店から漏れていた明かりはいまは無い。対岸のビルが出す明かりと、星の明かりに照らされて、果たして天使はそこに居た。
 上空およそ二〇メートル。その高さに、人の姿が、否、天使の姿が見える。
 何故それが天使と断定できるか、その理由はただ一つ。
 その背中に、巨大な光の翼が生えていたが故。



* *



 高所は風が強い。ビル風にはためき足に纏わりつく裾を忌々しく思いながら、彼女は眼下を見下ろした。幅広い通りいっぱいに倒れた人影と、それを介抱する姿が目に映る。
 ぶぅん、と、彼女は己の翼を一度、羽ばたかせた。それだけの動作で彼女に吹き付けていた風が消え、纏わりついていた裾が自然に垂れる。
 彼女は己の肩に眼をやり、肩甲骨の後ろあたりから放出されている力翼に目をやった。白い、純粋な光で構成されるそれは、実はといえば単なる反作用に過ぎない。彼女の種族が、己の意思を世界に映し出すときに発生するもろもろの反作用を、光という形に変換し肩口から放出しているに過ぎない。尤も、かつて彼女が所属していた社会では、その力翼をいかに本当の翼らしく操れるかどうかが、一種の性的魅力になっていた。
 ぶぅんと、もう一度羽ばたく。眼下で誰かが声を上げていた。目をやれば、地面を歩き回ることしかできない低級種族が、唖然とこちらを見上げている。
 彼女はまだ二十歳前だろうその横顔に、ほんの少しだけ空白を浮かべた後、己の手を右に向けた。彼女たちを支持する者の願いどおりに、基礎部分が空白となった建物に向け手をかざす。
 合図は何も無い。ただ思えば、結果がそれに追従する。
 がうん、と音がした。反動は皆無。ただ、背中の羽が一瞬強く輝いただけだ。
 そして次の瞬間には、建物が崩壊を始めている。ひょろ長い箱のような建造物に、斜め上から突き下ろす形で大きな穴が穿たれていた。穴の直径はおよそ五メートル。深さは限りなく深く、実のところ地下の駐車場をも貫いていた。
 内部を貫く空白と、吹き飛ばされた基礎。何十年も前からこの街にあり、発展の中数度の改修を繰り返し、戦争すらも潜り抜けてきた老いた建築物が、いま。
 いま、その骨子を失い、己の自重に負け崩れていく。階層の天井が落ち中が潰れ、外壁が剥がれて道に、唖然とその光景を見上げるしかない人間たちに降り注ぐ。崩壊は止まらない。ぐしゃりともがしゃりともつかぬ音が断続的に聞こえ、数多くの悲鳴がそれに重なる。
 不意に彼女は、自分が嗤っていることに気が付いた。口元に手を添えれば、弁解もできないほどに歪んだ口端に指が触れる。
 ぎり、と力強く、彼女は奥歯を噛み締めた。笑みを消そうと、笑んでいる己を殺そうとするかのように。
 眼下を見やり、散らばった瓦礫とそれに押しつぶされた人々を見下ろす。倒れている人の数は、先ほどよりも確実に増えている。
 彼女は無表情を努めながら、右手を地面にかざした。悲鳴をあげながら散らばっていく眼下の人間たち。刹那、こう、と翼が輝きを増し、白い光が通りに倒れた犠牲者と、それを助けようとする犠牲者をかき消した。地面には小さなクレーターが、場違いに出現している。
 同じことを二度三度と繰り返す。消えていく犠牲者たち。あるいは消えて犠牲者になるものたち。
その表情には何も浮かばない。それが情けかそれとも優越か、表情からは窺い知れない。
 彼女は、名を、ビンテージと云った。



* *



 琢野の対応は迅速だった。窓ガラスを震わす爆音に顔色一つ変えず、走って店の外へ。他の客や従業員たちが腰を上げ騒ぎ始める中、諌那もとっさにその後を追った。
 外に出た琢野は携帯電話を顔に当て、南を、おそらくは爆音のした方を睨みながら早口で何か会話する。諌那の位置では何を話しているのか聞こえないが、途切れ途切れの単語が風に乗ってかろうじて耳に届いた。
 天使共同体。
 犯行声明。
 犠牲者。
 避難勧告。
 どんな自体が起こったか想像し、諌那は顔をしかめた。道に出てきた野次馬たちは何事かと顔を見合わせ、何をするでもなく立ち尽くし、自体の成り行きを眺めている。
そして琢野はやおら携帯を仕舞い、くるりとこちらに向き直った。
 その顔は、先ほどからは考えられないほどに真剣。

「すまないが諌那君、猶予がなくなった。今すぐ選んでくれ」
「何をですか」
「今すぐ僕と共に対策課に行き僕の手伝いをするか、今すぐ遠くに逃げるかだ」

 言って、琢野はサングラスを投げ捨てる。小さな音に、周りの野次馬が顔をこちらに向けた。
 周囲に構わず、吐き捨てるように琢野は続ける。

「予見が遅すぎた。糞っ、そのせいですっかり手遅れだ。今回の犠牲者はおよそ一千名、そしてジャスミンがあちらの手に堕ちる」
「――え?」
「悪いが繰り返している暇は無い。信じるならついて来い、信じないなら今すぐ逃げろ」
「着いて行けば、どうなります?」
「僕の手間が少し増えるだけだ。逃げれば、苦労が少し増える」
「わかりました。行きます、対策課へ」

 不思議と迷いは無かった。
 ただ、ジャスミンがあちらの手に落ちるという意味が、よく、理解できない。
 あるいはただその意味を知り、それをどうにかしたいがために頷いたのかもしれない。

「頼もしい」

 琢野は落ち着いた声で言い、こっちだと走り出す。
 平走した諌那に、緊張した声が掛けられた。

「先に言っておく。多分、苦労するぞ」
「わかってます」

 短く答えると、琢野はそれ以上何も言わず足を速めた。



* *


 通りに無数のクレーターを作成したビンテージは、大きく羽ばたくと西へと進路を取った。身体を軽く前に倒し、風を作り空を流れる。
 ひゅっ、と空気を切る音が聞こえた。まさに風のような速さで、ビンテージはその場から離れようとする。
 と、その瞳が、眼下に目立つ姿を見つけた。
 それは、女性。金の髪を風に靡かせ、唖然と立ち尽くし、通りの惨状に目を奪われている。その周囲で同じように立ち尽くしている姿は二つ。
 ビンテージの決断は早かった。危ない、という思いと共に斜めに降下を開始する。焦りが生まれた。間に合え、と思う。
 不意に金髪の女性が顔を上げた。まだ距離はあるが、その瞳の色は簡単に知れる。碧、即ち、彼女と同じ色。

(誰?)

 窺えたのは困惑。次に警戒。そして隠れた恐怖。

(その二人から離れなさい)
(あなたは誰?)

 傍らにいたスーツ姿の女が、明確な敵意と共に懐から何かを取り出した。手のひらに少し余るサイズの黒光りするそれは、彼女の知識の中にもある。
 拳銃。

(離れなさい!)

 胸中で叫び、腕をなぎ払う。刹那、弾かれたように女が後ろに飛び退いた。ビンテージの翼が輝き、こう、と音を立てて女の目の前に火柱が出現する。女が飛び退いてなければ、その炎は一瞬で女の姿をこの世界からかき消しただろう。
 健在する女を見て、ビンテージは舌を打った。まあ、いい。これで女と仲間の距離は離れた。もうひとりいた女は、とっくの昔にこの場から逃げ出している。
 故に、仲間は――女たちに捕まりかけていた仲間は、ひとりだ。
 ビンテージは彼女の前に降り立ち、何も伝えずにその手を掴んだ。

(離して!)
(いいから来なさい! あなた、殺されるわよ!)

 その思念に、びくりと彼女が震えた。それを無視し、ビンテージは空に舞う。二人分の重量を操ることは手馴れていないが、できないことではない。くい、と顔を上げ、身体を傾け前へ。

(あなたは……?)

 思念が届き、気付けば手の加重が消えていた。眼をやれば力翼を展開し、自分と平翔する仲間の姿が見える。見た限りでは、特に怪我を負っている様子も無い。顔に浮かんでいるのは警戒で、怯えではなかった。
 そのことにビンテージは頬を緩め、手を離す。
 疑問を浮かべたままの女性に、ビンテージは己の意思を伝えた。

(私はビンテージ。あなたの味方よ)



* *


 躊躇わず物陰に隠れた雪菜は、天使の姿が遠くに向かったのを確認したあとでレイカの下に駆け寄った。

「レイカさん、ジャスミンが」
「わかってるわ。なんてこと――せっかくの交渉材料が」

 レイカは天使がジャスミンを連れ去った先を睨みながら、忌々そうにそんなことを吐き捨てた。何処からか取り出した小型の拳銃を再び仕舞い、何かを決意したかのように歩き出す。
 雪菜は、慌ててその背中に声を掛けた。

「何処に行くんですか?」
「彼女を連れ戻すわ。これは私の失策。私が挽回すべき負い目よ」
「そうでもないんじゃないかな」

 突然の声。雪菜はそちらに顔を向ける。
 見知った顔と、始めて見る顔の二人がこちらに駆けて来ていた。

「琢野」
「やあレイカ、ただいま。ジャスミンは?」
「ビンテージに連れて行かれました」
「糞、ビンテージが来たか。共同体の奴ら、大それたことをしてくれる」

 琢野と呼ばれた男は舌を打った。レイカは気まずそうに頭を下げ、慇懃に謝罪する。

「申し訳ありません。私が居ながら、阻止できませんでした」
「次から注意してくれればそれでいい。課に戻るよ。彼女を取り返すために情報と手駒が要る」
「わかりました。車を回します、少しお待ちください」

 言い残し、レイカは走り出した。
 遠ざかっていくその背中を眺めていた諌那が、小さな声で琢野に問い掛ける。

「彼女が、天使?」
「え?」

 思わず、雪菜は声を上げていた。確かにレイカは自分がそうだと名乗っていたが、その場に諌那は居なかったはずだ。なら誰が、と考え、静かに頷いた青年に気が付いた。

「そう。名前はレイカ。これから何度となく会うだろうから、覚えておいてくれ」
「わかりました」

 端的に言い返した諌那に、今度は雪菜が問い掛ける。

「諌那、その人は?」
「天使対策課の人」
「え?」

 思わず、声が漏れた。
 天使殺しと云われる公僕は、雪菜に向けて小さく会釈。

「初めまして。レイカから聞いてるかな? 僕は天使対策課浜松支局長の軒下琢野。以後お見知り置きを」

 にこりとインスタントなスマイルを浮かべる琢野。
 本意の知れないその笑みに、何故か軽い寒気を覚える。
 それに気付いたか、諌那が心配そうに声を掛けてきた。

「雪菜はもう家に戻ったほうがいいよ。散々な買い物だったけどね」
「諌那は? あなたは、どうするの?」
「僕はこの人たちと一緒に対策課に行く」
「なんで? なんであなたが対策課に?」

 わけがわからない。
 諌那は落ち着いた声で、雪菜の瞳を見ながら言った。

「ジャスミンが、天使に連れ去られた」

 それは知っている。その場に居たのだから。

「僕はジャスミンが心配だ。だから、手伝うんだよ」
「彼が心配なのはわかるけどね、お嬢さん。別に鎮圧隊に組み入れる訳じゃないから安心してくれて構わないよ」

 信用なら無い笑みを浮かべたまま、琢野がそんなことを言う。
 その言葉を受けて、諌那は静かに頷いた。

「だから雪菜はもう戻って」
「そんな。何か、私にできることはないの?」
「無いね、残念ながら。ほら民間人は安全なところに退避してもらおうか。それかあっちで救援作業の手伝いでもしてもらおうかな?」

 言われ目を向ければ、先ほど爆音が聞こえた辺りにまた人垣ができている。いまさらながらに救急車のサイレンが耳に届いた。
 雪菜は再び諌那に目を向け、その瞳の静かな輝きに開きかけた口をつぐんだ。
 何を言っても、たぶん無駄。そして自分にできることは無い。
 あまりに多くのことが起こっていた。この二日のうちに、あまりに多すぎる事件が起こっていた。その中心は違えようもなくジャスミンで、中心に一番近いのは諌那だ。自分はただの脇役に過ぎない。
 ならば脇役らしく、素直に身を退こうではないか。

「帰って、きなさいよ?」
「――当然」

 短い返事をしかと聞き、雪菜は身を翻した。向かう先は爆心地。数多くの人垣と、たぶんそれ以上の怪我人がうずくまる修羅の庭。
 せめてできることをしようと、そう思った。



* *



 遠ざかっていく雪菜の背中を眺めていると、横手から声が聞こえた。

「さて、先に言っておくけど、正直君が対策課に来たところでいまのところ意味は無い」
「そのくらい承知してます」

 自分に何ができるかといえば、何もできないのだということは自分が一番よく理解していた。

「でも、ならば何故僕を?」
「保険のようなものさ。下手をすればジャスミンが共同体に味方する可能性だってあるんだ。もしそうなったときの最終手段だよ、君は。ジャスミンが僕に敵対したとき、その懐柔を頼みたいんだ」
「ジャスミンが、共同体に味方する?」
「ああ。共同体の主張は知ってる?」
「はい。曰く、天使は言葉の通り神の使いであり、腐敗した現代社会を浄化するために遣わされた神聖なる存在である、と」

 どこかで耳にしたその文章を思い出す。いやあれはネットの界隈に広がっていた共同体のサイトだっただろうか。
 諌那の答えに、琢野は満足そうに頷いた。

「その通り。彼らは天使を至上の存在と崇め、奉っている。いや、自分たちを貶しているのかな。知ってのとおり、彼彼女たちの外見は見るも麗しだからね。神聖視されるのも、まあ、頷けないことじゃない」

 そこまで言ったとき、赤いスポーツカーが二人の目の前までやってきて停まった。運転席にいるのは赤いスーツを着た女性。無論、レイカだ。
 琢野は何も言わずに助手席に座り込む。諌那も続いて後部座席に滑り込んだ。
 行きます、とレイカが言い、エンジンが低い唸り声を上げる。それに合わせ、そして、と琢野は言葉を継いだ。

「人ってのは誰かに煽てられると調子に乗りやすい。それはあちらも同じでね。数多い人々にあがめられ、どうか私たちのためにああしてくださいこうしてくださいって言われると、つい調子に乗ってやってしまうんだな。今日みたいに」
「今日のあれは、天使がやったんですか?」
「最初の爆発は違うみたいだがね。まあ似たようなものさ。君はジャスミンを連れていた天使を見たかい?」
「後ろ姿なら、少し」
「ふむ。あれがビンテージという天使だ。二年前にこちらの世界に紛れ込んで、そのときこちらの人間に襲われたらしい。で、それに反撃したところを共同体の連中に眼に止められて、いまじゃこの辺の偶像扱いだよ。煽てられ乗せられ、共同体の一部連中の便利な道具扱いときた。不憫なものだよ」
「二年前って言うと、市街地で小規模な天使災害がありましたね。確か五人ぐらい死んだはずですけど、それのことですか?」

 記憶の中から、その事件の記憶を引っ張り出す。地元で起こった事件なだけに新聞での扱いも大きく、記憶も強かった。
 琢野がほう、と驚いた顔をする。

「よく覚えているね、それだよ。その犯人が彼女、ビンテージだ。僕らはこちらの代表としてあの子を捕縛、あちらに引き渡す義務がある」
「あの、さっきから気になってたんですが、あちらとかこちらってどういう意味です?」
「必要になればそのときに説明するよ。いまはまだ、知っても仕方ない情報だろう?」

 車は明らかに法定速度を無視した速さで中心街を離れる。向かう先は、どうやら市役所のようだ。
 天使対策課が何処にあるのか、諌那は不意に思い出していた。



* *



 夜の海は、闇にしか見えなかった。
 寒い部屋だと、ジャスミンは思う。確かに掃除は行き届いているし、揃えられた調度品も一見して高価なものだと知れるものばかりだ。広さも、高さも充分にある。諌那の部屋のリビングよりも一廻りか、あるいは二廻りは大きいだろう。
 しかし、此処には温かみが無い。ジャスミンはそれをまざまざと感じていた。

(どうしたの?)

 届いた思念に、ジャスミンは窓の外に向けていた視線を思念の主、ビンテージへと向けた。髪を肩上の辺りで短く切りそろえた彼女は、床に直接ひいたタオルケットの上に腰掛け、壁際に鎮座するベッドに背を預けている。
(ベッドなら、使ってくれて構わないわよ。私が床で寝るから)
(ありがとう)

 短く返事を返すと、ビンテージは嬉しそうに微笑んで身体を床に横たえた。床にはカーペットもひかれているし、一晩寝ただけで身体を痛めるといったことも無いだろう。
 ジャスミンは窓際の椅子から立ち上がり、軽く宙を飛んでベッドの上に。無防備に背中を見せるビンテージを見下ろしながら、ふう、と小さく息を吐いた。
 吐息の、嘆息の原因は困惑だ。それは嫌というほど理解できている。
 先ほどビンテージの浮かべた微笑を思い出す。それはやはり、間違えるはずも無いほどに微笑であり、そこに窺えた感情は安堵だ。それも自分の保身が成ったが故に得た安堵ではなく、他人、つまり自分の安全が確保されたがための安堵であった。

(なぜ)

 強く思い、瞬間的に思考を止める。改めてビンテージに視線を落とすが、彼女が動く気配は無い。既に眠りの中らしく、かすかな寝息が規則正しく聞こえていた。
 それを確認し、改めて何故、と思う。意識の大半を空白にしたまま、その裏側で思考を廻す。表に出てくるほど強く思えば、それは思念となり他人に伝わってしまう。自分の抱いている疑問が、人に伝えれるようなことではないということぐらい、理解している。
 人には、伝えられない。殊に、このビンテージという同族には。
 思い出す。あの時ビンテージが伝えた、短い言葉を。
 自分が殺されると、彼女は伝えた。そして彼女は自分の味方だと云った。
 それはつまり、ビンテージがあの場にいた二人に、おそらくはレイカに危険意識を持っているからだと思われる。レイカは確かに、本人が言ったとおり自分の同族であろう。同族でありながら外見と誇りを捨て言葉を用い、証である髪の色さえも放棄した同族。
 もしあちらなら、とジャスミンは仮定する。こちらでなくあちらであったなら、レイカという女性は確実に社会によって排除されるだろう。社会といっても、それはたいてい十名以下で構成される家族集団だ。しかし、否、だからこそ、自分の所属していた家族から排除された人間は、他の誰にも相手にされることがない。それは天賦の権利をことごとく剥奪されることと同義だ。
 故に、それは禁忌。思えば伝わるというのに、嘘偽りの施せる言語を用いるということは、最も忌むべきことだとされている。
 それを敢えて破り、こちらの世界に従属したレイカ。
 彼女が抱いた覚悟は、いかなものだったのか。
 ジャスミンは再度ため息をついた。だめだ、と思う。思考が行き詰まっている。レイカが抱いた決意の、その一片さえも想像できない。
 諦めるように身体をベットに横たえると、硬いスプリングが押し返してきた。諌那の部屋のベッドよりも硬い――そんな想いが、一瞬、胸をよぎる。
 寝転んだまま、改めて視線を窓の外へ。硝子越しに目に映るのはすっかり闇に染まった空ばかり。時刻はそろそろ日付を変えようとしているだろう。何も変化しない夜空を見上げていると、戻る、という選択肢に気が付いた。

(何処に?)

 強く、思う。何処に。何処に、何処に。無論思いつく場所は一つしかない。
 自分がかろうじて戻れるのは、戻ることを許してもらえそうなのは、昨日夜を明かした諌那という青年の部屋。彼ならばきっと受け入れてくれるだろう。それに、他に戻れそうな場所など無い。
 答えは簡単で、決行も容易のはずだ。窓を開けて夜空に飛び立ち、来た方向へと飛んでいけばいい。諌那の部屋が何処にあったのか、そのくらいは覚えている。戻ろうと思えば、戻れる、筈。
 しかし何故、こうも現実味が欠けるのか。明確なはずの選択肢が、何故こうも虚ろに思えてしまうのか。
 しばし考え、ああ、とジャスミンは納得した。視線を向ける。灰色のドアに。
 その向こう側から伝わってくるのは、紛れない畏怖の感覚。恐怖と、畏れと、そして何より敬意と崇めを含んだ感情。衛士、だろう。ビンテージの語るところによれば、天使の直衛にして間在人。天使共同体と名乗る彼らの中でも、士官に近い位置にいる者たち。
 彼らが抱いているそれを心地よく感じている自分に気がついて、ジャスミンは自らの思考を停止させた。眠りにつこうと、向きになって瞳を瞑る。
 ――身体は疲れている。精神は疲弊している。休息は両者が求めている。
 なのに、意識は一向に眠りに堕ちてくれはしない。
 身体を蝕まんばかりの、自己嫌悪のために。





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