夜が明けて、昼になっても、ジャスミンはここから離れようとは思えなかった。
 部屋の中にビンテージの姿は無い。広い部屋に、いまジャスミンは一人だ。窓際に設けられた椅子に深く腰掛け、窓の外に眼を向けている。窓の外には三度目となるこの世界の空。何も変化が無く、見ていてもつまらない筈なのに、不思議と見飽きない。あちらの空と何ら変わりなど無いと云うのに。
 時刻は、もうすぐ午後の三時を迎えようとしている。部屋の中央のテーブルには運ばれてきた食事が手付かずのまま残っていた。最後に取った食事が昨日の昼食だから、既に丸一日食事を摂っていないことになる。身体はそろそろ栄養を欲していたが、それでもジャスミンは食事をしようとは思えなかった。
 殊に、温かみの無い大量生産の食事など。
 頭を振って、ジャスミンはその青い瞳を閉じた。薄い暗闇の中、肌に当たる日の熱が感じられる。
 巡らす思考は、どうしよう、という逡巡にも似た甘え。いや、自覚しているぶん、それは完全な甘えに他ならない。諌那の元に戻ろうという想いと、このままここでビンテージと共に崇められ過ごすのも悪くない、という思いが同時に存在している。
 葛藤と呼ぶには、あまりに静かな二つの願望。
 ただ、その結果を出すまでの猶予期間として、自分はここで神聖視され崇められることを甘受している。
 自己嫌悪にはもう慣れた。苦笑交じりにこんな状況を受け入れている自分が居る。
 それでも、とジャスミンは思った。それでも、いつか諌那の元に戻りたい、と。
 いまの自分は卑怯だろう。岐路に立たされ、どちらも選ばずに両方を得ようとしている。そんなことが叶うわけ無いと理解しているのに、それでも醜く足掻いている。
 天使共同体。自分達を崇める彼らの視線と思いは、心地よい。少なくともあちらでも向けられたことの無かった気持ちだ。それが気持ち悪いと言えば嘘になる。
 神無月諌那。或いは、武藤諌那。あの青年のことが気にならないと言えば、それは嘘。何故かと問われれば答えは沈黙。どこか斜に構えた、何処までもひねくれたような青年の何処が気になるのかと聞かれれば、答えなど返せない。
 ただ、気に掛かる。それはあの青年が最初に見せた振る舞いに起因し、雪菜が語った諌那の過去によって増長されている。
 自分が天使と呼ばれる存在だということぐらい、あの青年は気付いていたのだろう。自分の同族によって全てを奪われた青年。いや、ひょっとしたら気付いていなかったのかもしれない。気付いていれば、あんな、下心の無い思い遣りなど伝わっては来なかっただろうから。
 不意に、がちゃりとドアが開いた。ジャスミンは思考の海から意識を引き上げ、そちらに顔を向ける。ドアの向こう側に立っていたのは同族ビンテージ。白い、新品と思われる硬そうな服を身に纏い、無表情に近い冷たい顔で佇んでいる。皺一つ無いその服はまるで白銀の鎧ではないか。
 その顔と服を見て、ジャスミンはビンテージが行っていた場所と、これから何処に行こうとしているのかを悟った。思わず音を立てて立ち上がる。

(ビンテージ、あなた、まさか)
(昨日の続き。ちょっと行ってくるわね)

 気迫とは無関係に、軽いビンテージの思考が伝わってくる。
 それはまるで、ちょっと散歩にでも行ってくるといった程度の、ひどく罪悪感の無い気負い。

(また、あんなことをするつもりなの?)
(ええ。仕方ないじゃない。この世界が、私達というものを正式に扱わないんだから)

 正義は我にあり。
 ビンテージが抱いているだろう結論は、多分そんな巫山戯たもの。
 思わず、怒りを覚えた。

(だからって、関係ない人を殺すなんて!)
(奇麗事はよして。関係ない? 冗談でしょう? 私達が、あの多すぎる人間の声にどれだけ脅され恐怖し汚されたか、分からないわけでもないでしょう!)

 びくり、とジャスミンは身体を震わせた。それを見たビンテージが、ばつが悪そうに顔をしかめる。ごめんなさいね、と意思が伝わってきた。

(いきなり怒鳴ったりして。でも、ジャスミン、しっかりして。私達は被害者なのよ?)

 語る意思に迷いは無い。自分の意見が間違っているなど、微塵も考えていない思いだ。
 同意できないわけでは、ない。ジャスミンは苦々しく、その事実を認めた。
 自分は僥倖だったのだろう、と今なら思える。他人に無関心な諌那と、どちらかといえば同族に近い雪菜。自分がこちらで出会った人間は、二人とも騒がしくない素直な人物だった。二人が特異だとは言わないが、それでも少数派であるだろうことは、二日目の買い物で知る羽目となった。
 そも、あれだけ多くの人が一箇所に集うなど、あちらではありえなかった話だ。耳を覆うほどに意思が流れ込んで、立ち尽くすかと怖れたが、実際そうはならなかった。多くの人間があまりに多くのことを、しかし漠然と考えていたため、届いてきたのは文字にすらない純粋たる意思だった。騒音に紛れてしまい、どれが声でどれが意思なのかわからないほどに雑然としていたものだった。
 しかし。文字にならない意思の中で、明確な文章となり届いたものもある。それは自分に向けられた疑問だったり、羨望だったり、筆舌しがたい不埒な想像だったりした。不快な思いに何度となく顔をしかめたのだが、果たして諌那はそれに気付いていただろうか。

(私達は侮辱されたの。汚されたの。こんな辱め、許せるはずが無い!)

 ビンテージは叫んだ。弾けるような意思が衝撃のように伝わってくる。

(私は正当な扱いを求めるわ。そのためになら、手段を選ぶつもりは無い。いい? これは、これからこちらの世界に紛れ込んむ私達を救うために行っているの)

 伝えるだけ伝えて、ビンテージは背を翻した。向けられた背は、これ以上の議論を許さないという拒絶。
 ジャスミンは自分の意志を伝えようとして、奥歯を噛み締めた。思いもしなかった同族の決意に、自分の考えが如何に拙いかを知る。

(じゃあ、行ってくるわね)

 それでも最後はにこやかに伝え、ビンテージは部屋を出た。これから何処に行って、何をするのか。それを想像し、明確な嫌悪を抱いた自分が居た。
 思い出したのは、諌那。こちらの世界に紛れ込んだ自分を、ごく短い間ではあったけれど、おそらくは気負いも下心も無く殊勝に扱ってくれた青年。目を閉じ、自分の身体を抱きしめて、ジャスミンは己の思考に没頭した。
 どうしよう、と自問。身体を抱く手に力をこめる。そうしなければ恐怖のあまり身体が震えてしまいそうだった。
 決断の時が来たのだと、自覚する。なんて短い猶予期間。もう決断を出さなければならないのか。レイカという裏切り者に、或いは諌那に味方するのか、それともビンテージという同族に味方するのか。

(レイカ、ビンテージ、諌那)

 名前を呟いて、愕然とした。同族と、同族と、諌那。三人を秤に掛けて困惑している自分に気付き、ジャスミンは何よりも驚愕した。
 それが、自分の本心だというのか?
 三人を、比べるに値する存在だと認めている自分が、何にも代え難い現実だというのか?
 どれだけ立ち尽くしていただろうか。ジャスミンは何度となく自分の考えを反復し、自らが抱いた結論を噛み締めた。
 やおら、ジャスミンは顔を挙げた。見つめる先は、窓の外。
 行こう、と、ジャスミンはその生涯で初めて、己の意思でもって禁を破り、声を発した。



* *



 骨が折れたのかもしれなかった。
 あ、と男が声を漏らした。それまでの何かを守るような抗いの喘ぎではなく、まるで色々なものを諦めてしまったかのようなそんな声。
 男の顔から恐怖が消えたことに、諌那は気が付いた。男を囲っていた者達もそれに気付いたのか、僅かに怪訝そうな顔をする。気に食わなかったのか、誰かがつまらなそうに男の腹を蹴り上げた。
 今度は、声すら漏れなかった。男は脱力してしまったかのように身体を投げ出し、振るわれた暴力に抵抗らしい抵抗すら見せず地面に倒れこむ。そしてそのまま、ぴくりとも動かない。
 一人が屈みこみ、男の頭をバスケットボールでも掴むかのように持ち上げた。もう終わりかよ、と吐き捨てるように毒づく。
 不意に、男が笑い出した。殴られ、蹴られ、圧倒的な暴力に従順に従っていた男が、おもむろに笑い出した。まるで壊れた玩具のような反応に、男を囲っていた者達がぽかんと呆けた顔をする。
 その驚きは、諌那も同様だった。
 男は自分の頭を掴む手を振り払い、身を起こした。呆然とする者達を、嗤いながら見渡す。呆気に取られ、現実を認識できないで居る愚か者達を、蔑むように嘲笑う。
 暴力を振るっていた者達の一人が、今更ながらに悲鳴をあげた。男の頭を掴んでいた若者が、腕の先だけを残しこの世界から消えていたという現実に、ようやく恐怖した。
 男は立ち上がると、いまこの世から消し去った男の唯一の名残を容赦なく蹴飛ばした。肘のあたりで炭化し、切断面からは血も流れていない腕が、その本体の仲間だった者たちに贈られる。
 逃げ出そうとした男が、足だけをこの世界から消し去られて地面に転がった。
 男は嗤っていた。喉が裂けるほどに声を上げ、まるで叫ぶように嗤っていた。
 その背中に、天高く突き立った翼が見える。男の身長の何倍にもなろうかという二つの翼が、世界に喧嘩を売るかのように真っ直ぐと空を目指していた。
 男達が、口々に悲鳴をあげる。しかし彼は嗤っている。笑いながら力を振るい、己を暴力の泥に漬けていた愚か者達に、容赦なく時間を掛けて残酷に復讐する。
 四肢が失われた男がいた。腹に指が通りそうなほどの穴を幾つも開けられた女がいた。顔面の皮膚が焼け爛れた男がいた。
 悲鳴をあげるたび。愚か者達が悲鳴をあげ慟哭し、イタイイタイと地面をのた打ち回るたび。もう見えていないかもしれないその瞳から涙という体液を流すたび。彼は哄嗤を大きくする。
 顔に浮かんでいるのは、歪んだ笑み。
 彼は愚か者達を見下ろした。見下ろし、嘲笑い、見下し、そして嗤った。
 大きく、翼を羽ばたかせる。実体を持たない光の翼は、どれだけ本物のように羽ばたいて見せても所詮見かけだけの偽物だ。空気が流れるわけではない。
 それでも、彼は周囲を平伏せるためであるかのように翼を羽ばたかせた。
 彼は歪んだ笑みで世界を、天使という異常を発見しざわつきはじめた世界を見渡し、そして翼の光をより一層強くした。
 彼は無事なほうの手を挙げた。天にかざした。
 そして、それを力いっぱい振り下ろそうとして、彼は物陰に佇む子供に気が付いた。
 されど今更、力を止められるはずも無かった。



* *



 自衛隊浜松基地から派遣された天使対策用特別編成班は、一〇台近い車で市役所裏の駐車場に姿を見せた。一般所員の乗用車は前もって片付けられており、近年拡張された駐車スペースを存分に使い、都市迷彩服を着込んだ自衛官達が機敏に部隊を展開させていく。目下、この市役所と駐車場が暫定基地になる予定となっていた。

「珍しいかな?」

 背後から声。諌那は驚きもせずに答える。

「航空祭なら何度か行ったことありますけどね。こういった本番を見るのは初めてですよ」

 ふむ、と頷き、声の主である琢野が諌那の隣に並んだ。いまはレイカの姿は無い。
 疑問に思うと、野暮用だよ、と小さな返事が返ってきた。
 眼下に展開する自衛隊達を厳しい目で見下ろしながら、琢野は呟くように告げる。

「対天使用特別編成班、草薙。ほとんど僕の、というか、軒下家の私兵だがね」
「草薙?」
「そう、草薙の剣。ぴったりだと思わないか? 窮地を抜ける刃としては、ね」

 琢野の声には苦笑の色が濃い。果たして窮地とは、誰の窮地なのだろうか。危険にさらされているらしい人類か、それとも天使達のなのか。愚問だな、と諌那は嘆息交じりに思考した。答えなんて決まっている。
 両方、だ。

「出発のめどは立ったんですか?」
「ああ。一時間後、十六時丁度だよ。それまでは昂ぶった気を落ち着かせるか、静かに瞑想でもしていてくれ」

 あと一時間後か、と諌那は思った。自分は天使をどう思っているのだろう。その疑問にまだ答えが出たわけではないが、何故か焦りは浮かんでこなかった。むしろ、不可解な落ち着きさえ存在している。
 いつもこんな感じだよな、と諌那は苦笑した。ひたすら困難な状況に対し、出来るだけのことはやって、それでもまだ完璧ではないと分かっているとき、不思議と落ち着く自分が居る。それは諦めの境地なのか、それとも。
 向けられた視線に顔を向けると、琢野が面白そうな顔でこちらを見ていた。

「大層な自信だね。答えは、出たのかい?」
「いいえ、まだです。でも」

 一旦、諌那は言葉を切った。間を持たせるわけでも、もったいぶらせる訳でも、考えていないわけでもない。ただ、自分の言い分に苦笑しただけだ。

「でも、迷うっていうことは、少なくとも両方に迷うだけの価値があるってことです。いまはそれしか言えません」
「やれやれ。優柔不断なのかはっきりしてるのか、それこそはっきりしないね。お茶を濁すようで清流を混ぜ込んでいるみたいだ」

 琢野の喩えは意味がよく分からない。
 そんなもんですか、と諌那が呟き、窓硝子に手を触れたとき。
 なんの脈絡も無く、ぶるる、と窓ガラスが震えた。

「え」
「ん? どうしたんだい?」
「あ、いえ、なんでも。気のせいだと思います」

 諌那は手を離し、もう一度窓硝子に手を触れた。今度は震えも何も無い。気のせいか、と諌那は胸中で呟いた。強い風でも吹いたのだろう。

(強い、風?)

 嫌な予感があった。諌那は顔を挙げ、街並みの向こう、昨日のテロがあったあたりに視線を馳せる。だが別に、これといった変化は無さそうだ。

(杞憂、だよな)

 疲れたように息を吐き、諌那は小さく頷いた。考えすぎだ、と自らを窘める。いくら昨日あんなことがあったからといって、いまの震えが爆発の衝撃波ではないかなんていう面白くないことを想像してしまうなんて、健康的ではない。
 諌那は頭を振り、抱いた予感を消そうとした。と、そこに琢野の声が掛かる。

「残念だけど諌那君、杞憂でも無さそうだ」
「え」

 琢野の声には、余裕や猶予といったものが一切無かった。諌那は慌てて視線を再び窓の外に、琢野の視線の先に向けた。注目する点を昨日のテロ現場から若干西へ。別段変わりない街並みに、些細な変化を見つけ、諌那は息を飲んだ。
 塔が消えていた。



* *



 浜松市の中心部に、アクトシティと呼ばれる一角がある。前世紀の市長が浜松市発展計画の一環として計画・施工した区域だ。全体が焼きレンガ色で整えられ、様々な大きさのイベントホールや商店が存在する総合区画。
 その中心となる建物は、アクトタワーと云う。塔(タワー)の名が示すとおり、それは80階を超える高層のビルディングだ。最上階には展望室が設けられ、また、内部には大・中・小のコンサートホールが完備されている。市内の楽器メーカーに生産を依頼したパイプオルガンもまた、名物の一つだ。
 実際の市民の利用率はともかく、市内の何処からも望むことの出来るそのタワーは、少なからず浜松市のシンボルでもあった。
 その塔が、いま。
 跡形も無く、消えていた。



* *



 寝耳に水の出来事だった。
 雪菜は呆けたように南を、アクトタワーのあった空を見上げていた。突然聞こえた爆音。昨日のそれの比ではない音量と、それに次いで走った一瞬の閃光。爆発は雪菜を含む人々の視線を爆心地へと向けさせ、刹那に満たない白光は、しかしこの街最大の建築物をこの世から蒸発させていた。その事実があまりに大きすぎて、逆に現実感が沸かない。何が起こったのか、そしてこれから何が起ころうとしているのか、予想がつかない。
 呆けているのは自分だけではないようだった。見れば、カフェに居る他の客や従業員も、通りを歩く人々までもがその足を止め、南の空を見上げている。或いは、そこにあったはずのものを見つけようとして視線を彷徨わせている。
 呆然とした静寂は、やがて緩やかに困惑に。更なる時間を掛けて、混乱へと昇華する。
 突然誰かが走り出した。北へ向かって。おそらくはこれから起こるだろう事から逃げるために。上がった情けない悲鳴は契機となり、立ち尽くしていた通行人も、自失状態にあったカフェの利用客も次々に悲鳴をあげ、逃げ出そうとする。
 大規模な混乱が起こった。昨日のそれより遥かに大規模で、深刻な混乱が。
 原因は、たぶん、目に見えた恐怖だろうと雪菜は思う。昨日のテロの標的となった百貨店は、結局崩落に至らなかった。いまも街の一角に静かに存在し、遠目にその外観を見れば、なんら異常がないとしか思えない。それに対し、今起こった何かは、この街にある一番大きな建造物を消滅させた。どれほどの破壊が起こったのか、一目でわかる形で世界に知らしめたのだ。
 この違いは、大きい。
 気付けば、カフェに残った姿は雪菜一人だった。通りでは、先ほどにも増した数の人が一目散に北を目指し逃げていく。その顔はみな必死で、何がなんでもアクトシティから、正確にはアクトタワーのあった場所から少しでも遠くに逃げてやろうという鬼気迫る気迫に満ちている。
 先ほどから伝わってくる思念は、ただ逃げたい、生き延びたいという単純なものばかり。

(さて、どうしましょうかね)

 雪菜は思い、椅子に深く腰掛けた。もはやその姿を気にとめるほど余裕のある人間など、この場に居ない。  不思議と、心が落ち着いていた。最初に覚えた衝撃も収まり、動揺も焦りも無い。それは多分、滑稽な程に動揺し焦る数多い人々を視界の端に捕らえているからだろう。
 雪菜はしばし思案し、やがて立ち上がると、軽やかに駆け出した。
 南へ。北へ逃げようとする人々を避け、一路アクトタワーの聳えていた方角へ。



* *



 僅かな逡巡があったように思えた。
 しかしそれは逡巡と呼ぶにはあまりに短く、ただの呼吸だと言われれば信じたかもしれないほどに短い時間の空隙。諌那がそれに気付いた頃には、もう琢野の瞳には意思が宿っている。
 諌那は、琢野が小さく頷いたのを見て、この人がこれからどう動くか決めたことを悟った。その内容までは推測できないが、その中には自分にもできることがあるのだろうと思う。こちらに向けられた視線には、諌那にそう確信させるだけの力が宿っていた。
 廊下が、慌ただしくなっていった。落ち着きを見せ始めていた対策課の中では新しい騒乱が生まれつつある。突然コールを始めた電話は一つや二つではなく、あっという間に、部屋の中からは昨日に勝るとも劣らない怒号とコール音が響いて来る。
 琢野はスーツのポケットに手を入れ、一つの鍵を取り出した。

「君、バイクの免許は?」
「生憎普通四輪しか」
「自転車は乗れる?」
「そのくらいなら、何とか」

 諌那が頷くと、琢野は鍵を投げて寄越した。
 身を翻し、対策課のドアノブを掴みながら先を続ける。

「地下駐車場の隅に新品のバイクがある。それの鍵だ」
「どうしろって言うんですか」
「行け。たぶん、これは好機だよ。アクトに来たのがジャスミンかビンテージかは知らないけど、どちらにしても天使があの場に来ていることは確実だ。つまり、これから襲撃を掛ける本拠地の方には天使がいないということになる」

 琢野はノブを廻し、ドアを開いた。部屋の中から伝わる喧騒がより大きくなる。

「レイカと、いくらかの戦力も現場に向かわせるよ。君は彼女の助力を得てあらゆる問題を克服し、天使を説き伏せてくれ」
「無茶苦茶言ってくれますね」
「怒ったかい? いいや違うね、君は苦笑している。自分にできることはそれぐらいだってことを、まったく、滑稽なほどに理解してくれている。喜ばしくも苛立たしいよ」

 琢野の言葉を受け、諌那は自分がその笑みを浮かべていることに気が付いた。自分の口端に手を添えれば、確実にそこを歪めている自分が居る。
 原因は。ある意味渦中に問答無用で突き落とされようとしているのに、結局苦笑しているその原因は、たぶん。

(この人が、躊躇ったからだ)

 先ほどの逡巡が、選択の為だとは思わない。おそらくは決意。自分という存在を、少しでも貴重だと思っているからこそ必要だった、自分を戦場に叩き込むための決意だろう。少なくとも琢野は、自分が死ぬことを望んでいない。
 ならば。

「行って来ますよ」

 諌那は言った。受け取った鍵をズボンのポケットに仕舞い、見えないと知りながらも軽く頷いてみせる。
 琢野は、僅かに苦笑したようだった。やれやれ、と呆れるように呟く。

「柄でも無いや。僕がレイカ以外の心配をするなんて」
「そういう台詞は心の中だけに留めておいたほうがいいと思いますよ」
「だろうね。まあ、生きて戻ってきなよ。卒業の暁には僕の片腕にしてあげよう」
「……考えておきます」

 諌那が軽く笑うと、琢野は手をひらひらと振りながら部屋の中に消えた。



* *



 正直、洒落にならないと思った。
 綾小路海人は地面に蹲りながら、そんな苦笑混じりの舌打ちをした。身体の節々が痛いが、その中でも殊に右足から伝わってくる痛みが酷い。どのくらい酷いのかと言えば、あまりに痛すぎてその痛み自体が茫洋と感じられるほどだ。

(まあ、それでも僥倖か)

 内心で呟き、そうだろうな、と一人納得。
 海人は自分の背中に乗った小さな瓦礫をどかし、二、三度深呼吸したあと腹を決め、右足を瓦礫の中から引き抜いた。

「――!」

 噛み締めた口の端から、殺しきれなかった悲鳴が漏れる。そのまま右足を抱きこみ、痛みが治まるのを待った。額にびっしりと浮かんだ脂汗が知れる。恐る恐る痛みの中心に手を伸ばせば、かつん、という硬い感触。それが足に刺さった硝子とか瓦礫の欠片だというのならまだましなのだが、たぶんそんな生易しい話ではないだろう。
 涙で滲んだ視界をそちらに向ければ、傷口から溢れる赤の中、折れたパイプみたいに外に飛び出した白いものが見えた。

「……最悪」

 自嘲気味に呟き、海人は息を吐いた。でしゃばったか、と思い、そうだろうなと肯定。周囲を見回しても、人の姿らしいものは何も目に映らない。逃げ遅れたのは自分だけか、と安堵の息を吐く。
 海人は気が狂いそうなほどな痛みに耐えながら視線を動かした。向けた先は青い空。正確には、其処に聳えていた筈の巨大な塔に。



 爆音が聞こえたとき、海人はすぐさま走り出した。既視感にも似た嫌な予感が胸のうちを一瞬で塗りつぶしていたからだ。その悪夢は、しかし刹那に現実と昇華した。爆発の中心はアクトタワーの最上階、展望室。おそらくは周囲の人間全員の注意がそちらに向いていたときに、塔は世界から焼失した。
 既にアクトタワーの目前まで到達していた海人は、その閃光に眼を眩ませた。真っ白に塗りつぶされた視界の中、悲鳴と、何かが崩れる音が耳に届いた。数多の人間が駆け出す足音が続いて耳に届く。誰かが背中からぶつかり、視界に気を取られていた海人はそのまま仰向けに倒れこんだ。
 直後、足の辺りに激しい痛みが走った。



 記憶はそこで一旦途切れている。どうやら気を失っていたらしい。おそらくは数分レベルの、ごく浅い気絶だということは感覚的に知れた。
 足の上に降ってきた瓦礫は、焼失したタワーと他の建造物を繋ぐ通路のものであるらしかった。タワー自体の瓦礫など、存在してもない。アクトタワーが聳えていた場所には、いまただクレーターが広がっている。
 海人は改めて舌を打ち、うつぶせになって腕を動かした。不恰好な匍匐全身のように、少しでもその場から離れようと試みる。地面の小さな起伏が足に響いた。
 糞、と毒づき、それでも海人は先に進もうとする。

(こんなところで死ねるかよ、馬鹿野郎)

 頬を伝う汗は、決して暑さのせいだけではない。ぜえぜえと、疲労しきった呼吸を隠しもせず海人は焦ってその場から遠ざかる。遠ざかろうと試みる。
 その理由は、至極明確。
 海人は肩越しに空を仰ぎ、内心に湧き上がるどす黒い衝動をしかと認めながら、射殺さんばかりにそこに居る存在を睨みつけた。
 天使の姿が、其処に在る。



* *


 世界に四季があると云うことは知っていた。しかし、それ以外に興味がなかった。
 市役所の駐車場に整列し、あとは指令一つで法を超越した戦闘集団になろうという自衛隊の忌み子たちを前に、琢野は過去に思いを馳せた。長野の山奥に在り、歴史という名の重圧を一身に体現していた軒下の屋敷。其処から出ることを望まず、望まれていなかった日々。
 ただ屋敷の縁側に腰掛け、世界の移り変わりを眺めていた二十二年間。
 そんな、満たされているようで何も抱いてはいなかった日々に終わりを告げたのは、庭に逃げ込んで来たぼろぼろの天使だった。そのときの様子は、今でもありありと思い出すことが出来る。しんしんと雪の降る冬の夜、僅かに陰った月明かり。ぼろぼろに汚れたその纏いと、疲労しきったその瞳。
 彼女が抱いていたのは絶望。怒りを打ち消し、憎しみを超越した諦観。その原因を知ることは出来なかったが、想像は出来た。
 だから、自分は手を差し伸べた。全てを諦めたその女性があまりに妬ましかったので、琢野は両手一杯の嫉妬と一握りの善意で、女性に希望を示してみせた。絶望できるだけの世界を知っているということが、どれだけ幸せなのかを示してみせた。
 そうして、女性は軒下の者となった。望んだのは自分で、決めたのも自分だ。既に当主の座に在り、読心眼を持つ琢野の決定を覆すことの出来る者はおろか、意見出来る者も居なかった。後見人であり当時はまだ権限代行であった祖母でさえ、だ。

(僕らは特例なんだよ、諌那君)

 忌み子たちを前に、琢野は一人胸のうちで呟いた。自分にはこの眼がある。相手の思惑を読み取り、本心を見透かす本当の意味での千里眼。この世にまだ闇があり、魑魅が唄い魍魎が踊っていた時代に、軒下の先祖が己の身体に降ろし封じた神の権化。
 詳しい理屈など、琢野は知らない。興味も無い。
 だが、この瞳のせいで、自分達が一般例になれないということは百も承知していた。

(僕とレイカが、人と天使が共生できるという一般例。ごく普通の人間と、ごく普通の天使。その体現を、君達に求めよう)

 軒下はその姓が示すとおり、決して表に出てはならない一族。常に影に在り、時の秩序を守るのがその存在理由。それを徹底的に破壊する決断を下したとき、分家の幾らかが愛想を尽かし、当主の下を、琢野の下を離れていった。その結果として、現在の軒下家の派閥は従来のそれよりも一回りほど小さいものになっている。
 だがそれで構わない、と琢野は思う。当主は自分。そして自分の無茶苦茶な決断に従ったということは、それは自分に対する絶対の忠義の証明だ。離れていった者達に興味など無い。いや、正直に言えば、自分に従う者たちにも興味が無い。ただの人間には、よほどのことが無い限り思い入れすら抱けない。
 故に、想うは、琢野が恋焦がれるは義理の姉となった軒下レイカ、ただひとり。
 琢野は窺うように背後に視線を向けた。其処に立つレイカは真っ直ぐな瞳で前を、草薙の面々を見つめている。
 琢野は苦笑した。そして決断する。

「さあ諸君」

 共同体の支部を潰す必要があった。共同体はビンテージを匿い、崇め、躍らせている。多くの信奉者は自分がそうしていると理解もせずに、ビンテージにそうあるべきだという観念を植え付けている。それはもはや、脅迫性を帯びてすらいるだろう。
 貴く。美しく。高らかに。厳かに。
 天使という存在を理解しているようで、その実自分達の願望を一方的に押し付ける者たちと、それによって縛り付けられている天使。
 彼女を救うため、まずはそこから引き摺り下ろす。諌那が未だ自覚せず、しかし掴んだ結論のそのために、自分達を見下ろす天使を交渉のテーブルに引き摺り下ろす。そのために、彼女を掲げ挙げている者を潰す必要があるのだ。
 琢野は朗々とした声で言った。帯びているのは絶対の自信。不遜なまでの自己正義。

「僕の為に戦え、現実に甘え妄想に縋った馬鹿者達を叩き潰せ。刃向かう者には容赦するな。刃を持つということがどういうことなのか、他人を傷つけるということがどういうことなのか、自分達がしてきたことに対する責任をその身に叩きつけろ」

 さあ、と呼びかける。
 草薙という、全員が軒下の傘下にある家の志願者で構成された集団に微笑を向ける。

「行け、諸君、そして戦え。僕の為に千の屍を晒し万の頭を垂らさせろ。その名を体現しろ、草薙の諸君」

 天使共同体の人間がどれだけ死のうと興味は無い。
 草薙の人員がどれだけ死のうと興味は無い。
 琢野は己のその見解にひとり頷き、それでもなお、自分がこれから使い捨てにしようとしている面々を眺め微笑を優しく深くした。



* *


 運転に慣れるまでは手間取ったが、一度コツを掴んでしまえば自転車と同じような感覚で乗り回すことが出来た。体格に見合う車種だったということも幸運だっただろう。
 中心街に向かう道路には、多数の車が乗り捨てられていた。真っ直ぐ進むには邪魔なので、其処に人がいないことを確認しながら諌那は歩道を走らせる。講習所で習った道路標識や交通規則を悉く無視し、ひたすら南を、アクトシティーの在った方角を目指す。
 かすかに視線を上げれば、空に輝く光線ラインが見える。微動だにせず、しかししかと輝くそれは、おそらく天使の翼。ビンテージという、昨日のテロを助長した天使の存在証明。
 諌那は急ごうとしてスロットルを絞り、刹那に開放、右手と右足で前輪後輪のブレーキを同時に利かせる。嫌悪感を催すような音が響き、スライドしようとした車輪を辛うじて制御、バイクを停止させる。
 その原因は、曲がり角から進行線上に姿を見せた二つの姿。

「雪菜、と、海人も一緒?」

 その声に、雪菜が顔をこちらに向けた。海人に肩を貸し、その身体を半ば背負うようにして庇っていた雪菜は、こちらを見て驚いたような顔をする。

「諌那、なんでこんな処に?」
「それはこっちの台詞だよ。逃げ遅れたの?」

 問いかけ、諌那はようやく海人の異常に気付いた。その右足に、シャツを破いたらしい乱暴な包帯が見える。元来白かったはずのそれは、もはや変色した血に染まっていた。見れば、海人の顔には多数の汗が見える。それが決して、この夏の暑さのせいだけではないということぐらい、簡単に知れる。
 口を開くのも億劫な様子で、海人が疑問を返してきた。

「お前こそどうしたんだよ、こんな処で。しかもノーヘルか」
「減らず口は相変わらずだな。まあいいや。悪い、用事があるんだ。行くんなら市役所に行った方がいいと思うよ。自衛隊が来ているからね、たぶん、医療関係者も来ていると思う」
「日赤に連れて行こうと思ったんだけど、やめた方がいいかしら?」

 雪菜の問いに、たぶんね、と諌那は呟いた。

「確か今回の天使騒ぎで、あの病院の患者はもっと郊外に搬送される筈だよ。対策課の独断で大規模避難勧告も出ている筈だけど、知らないの?」
「生憎と昨日から瓦礫の片付けしててな、情報なんて入ってきてないんだよ」
「……馬鹿、それで巻き込まれてたら木乃伊にしかならないぞ」

 諌那が顔をしかめて苦言すると、琢野は珍しく、違いない、と自虐気味に呟いた。

「まあ、いい。自衛隊が動いたんだよな?」
「ああ」
「ならもう安心だ。あの天使が殺されれば、もうテロも起きないだろ」

 心の底からの安堵といった様子で、海人が息を吐いた。
 そんな海人を見て、寸分の躊躇いすら抱かなかった自分がいた。やはりこれが自分の姿勢か、と内心苦笑しながら、諌那は口を開く。

「それは無いよ、海人」
「は? お前、何を言って」
「確かに自衛隊は動いたよ。でもそれは、あくまで標的を共同体に絞った行動さ。自衛隊は、天使対策課はあの天使を殺さないんだ」

 一瞬、間があった。海人は、信じられない、といった目でこちらを見返してくる。
 戦慄くように、疑問が告げられた。

「事実か?」
「ああ、自信を持って言わせてもらうよ」
「嘘だろ、何のための自衛隊だ! なんで殺さないんだよ!?」
「殺すべきじゃないからだよ、綾小路。罪を罰する前に、ビンテージには罪を問う必要があるんだ」
「何を、言って」

 海人の瞳に、恐怖のような色が灯る。多分それは、理解不能なものに遭遇したときの反応なのだろう。無理も無いか、と諌那は苦笑した。傍から聞けば、自分の言い分は天使を擁護していると取られても仕方ない。いや、事実擁護しているのだ、少なくとも、この海人という青年の主張からは。
 諌那は頷き、答えた。

「罪は罰せられるべきだ。それは同感だよ。でもね綾小路、忘れるな、その前に罪は自覚させなければならないんだよ」

 だから、と言い、諌那は顔を挙げた。何をしているのか、何を待っているのか、何を企んでいるのか、ビンテージの姿は空中に漂ったまま微動だにしない。
 僕はあそこに行くんだ、と諌那は断言した。自信と決意をスパイスに。

「あの天使を説得しに行く。あの天使がいままでしてきたことをずらりと並べて、その罪を問うてやる」
「お前、正気か? そんなこと、出来るはずが無いだろう!」
「何故?」
「何故って――どうしたんだよ、おい。お前、いままで何を学んできたんだよ」

 分からない、といった風に海人は頭を振った。信じられない、といった風に顔を覆う。

「あいつらに意思は通じない。あいつらに罪の意思なんて無いに決まってるだろう!」
「悪いね、綾小路。それについては真正面から否定するよ」

 息を吐いて、諌那は諦めた。いまここでこいつを説得するのは容易ではないし、そんな時間も無い。いや、説得する必要なんて、そもそも存在しないのだ。
 ただ、自分は行動で示せばいい。

「ついでに言うと、お前を言いくるめるつもりも無くてね。行かせてもらうよ」
「ま、待て! お前は」

 縋るように掛けられた言葉を、諌那は無視。

「お前は、被害者とその遺族に向かって同じことが言えるのかよ……!」

 無視、しようとして、一言だけ答えた。視線は海人ではなく、その肩を支える雪菜に。

「僕だって被害者で、遺族なんでね」

 え、という間の抜けた声が聞こえたが、今度こそ諌那は無視。
 驚いたような雪菜に小さく頷き、前を見つめ、力強くスロットルを絞り込んだ。



* *



 諌那の姿は、あっという間に遠ざかっていった。
 その背中を、困惑にも似た瞳で見つづけていた海人は、呆然とした声で呟く。

「何だよ、何なんだよ、それは」
「あの子はね」

 まったく、と内心で苦笑しながら雪菜は言った。これ以上自己嫌悪を抱かせないで欲しいと思う。
 諌那が最後に言い残したあの言葉は、おそらく自分に対する委託だ。この青年にその事実を、諌那が名古屋消滅の生き残りだという告げてもいいということだろう。それは当人が話すべき個人的な話題ではないのかと思うが、ひょっとしたら、それ自体が諌那の結論なのかもしれない。
 あの子はね、ともう一度繰り返し、雪菜は告げた。

「私の幼馴染なの」
「それって、どういうことで」

 言いかけて、海人が眼を見開いた。さすがに頭の回転が速い。
 雪菜は苦笑し、頷く。

「そういうこと。あの子も出身は名古屋。そして、あなたが嫌っていた名古屋消滅の生き残りよ」
「そんな――――可笑しいじゃないですか。変だよ、狂ってる。なんで名古屋消滅の生き残りなのに、あんな馬鹿な話を言えるんだアイツは……!」

 喘ぐように呟く海人。伝わってくる思考は、ただ混乱だけだ。
 天使は敵である。
 天使とは馴れ合うことなど出来ない。
 誰もが天使を憎んでいる。
 その前提が、いま決定的な一撃で潰されたのだ。混乱するのも無理は無いと思う、だが。

「一つ忠告しておくわ、綾小路君」

 諌那が狂っているだとか、変だとか、馬鹿だとか。
 少し納得するところもあるけれど、そんなことを言うのを許せるほど、自分はおおらかではない。

「綾小路君の持ってる天使に対する意見は、全部本とかネットとかで集めた情報で構成されたものでしょう?」

 それに対し、諌那は。

「現実に体験していない人の持論なんて、所詮空想と想定で彩られた机上の空論よ。どんな意見も想像も、当事者の言葉には叶わないわ。」

 嘲笑うように言って、さあ、と声を掛ける。
 傷が痛んだか、希望の全てを絶たれたような眼をした海人は小さく息を飲んで、顔を上げた。

「急ぎましょう。目的地はちょっと遠くなったけどね」

 雪菜は海人に肩を貸したまま歩き出した。窺うように見れば、海人は何かを噛み締めるように口を硬く結んでいた。
 顔を前に戻し、気付かれぬように息を吐く。
 本当に。自己嫌悪は、もう飽きたのに。



* *



 ビンテージは中空に漂い、眼下のクレーターを見下ろしていた。あちらの世界では見ることも無かった巨大な建造物が聳えていた場所は、いまやただ黒いだけの丸い空き地になっている。
 大地を焦がし、溶け固まったその黒円は、本来ならば忌むべき筈ものだった。力の権化であり、暴力の証であるそれは、自分達の倫理(モラル)によって悪と判断されている。その気になれば一瞬で全てを破壊することが可能なこの力は、だからこそ最も尊ぶべき力であり、決して私利の為に用いてはならない――――尊敬する母親に繰り返し諭された教え。二十数年間に及ぶこれまでの系譜で、それを反したことは一度も無かった。少なくとも、こちらに迷い込むまでは。
 ビンテージは何をするでもなく、その場に漂っていた。空に浮かんだ太陽は、信じられないほどに強い日差しで肌を焼いている。
 いったい、いつまでこうしていればいいのだろうか。自分を正当に崇めた彼らに求められたことは二つ。一つは既に果たした、あの大きな塔の破壊。爆発の後、その塔をこの世界から完全に消滅させること。それには応えた。
 次に求められたことは、塔を消したなら、そのまま其処に佇み、その存在を知らしめることだった。己を、この世界を浄化する私という存在を、世界に知らしめるのだ、と。
 しかし、とビンテージは思考する。辺りはやけに静かだ。もはや叫び声も怒鳴り声も、逃げる足音も途切れ途切れの助けを求める思念も聞こえない。
 ここにはもう、誰もいない。
 そんな状況の中で、一人ただ在り続けるというのは、酷く滑稽な気がした。
 もう少ししたら戻ろうと思った、その時。
 一台のバイクが眼に映った。



* *


 思い出した、と不意に呟いて、諌那はバイクを止めた。キーを廻しエンジンを止め、サイドスタンドを展開しバイクを降りる。
 空を仰げば、馬鹿馬鹿しいほどに青い夏の空の中、其処に天使の姿が見える。なんだか随分と知っているようで、その実、初対面のビンテージという名の天使。
 さて、と諌那は胸中で呟いた。どうしようか、という思いが胸をよぎる。
 身体が震えていた。首筋に初めて経験する悪寒があった。走れ、と心臓は狂ったように鼓動するし、足腰は後ろを向いて駆け出そうと焦っている。
 恐怖が無いとか、緊張が無いとか、そんな嘘はつくつもりが無い。
 目の前に広がったクレーターに、心底怯えている自分がここに居る。情けなくもかちかちと奥歯を震わせている自分が居る。
 クレーターの直径は何メートルほどだろうか。十メートルや二十メートルで済まないレベルの話だということぐらいしか想像できない。
アクトタワーはこの街のシンボルとして建造されたが、その実利用者はあまりいない。イベントホールはその名の通りイベントが開催されていない以上はただの広い部屋でしかないし、展望室とて、この街を眺め降ろしてそれほどの優越を感じるわけでもないだろう。
 それでも。
 いったい今日は、何人の市民が犠牲になったのか。
 諌那は顔を上げた。こちらに気付いたらしい天使を、特別興味も無さそうな瞳でこちらを見下ろす天使の姿を見上げ、自分の中に湧き上がった憤りに気付いた。

(許せない)

 ぎゅ、と拳を握り締める。許せない。何が? 当然、その態度が。
 諌那は顔を下ろし、自分の足元を見つめながら鼓動を静めようと深く息をついた。つい先ほどまで逃げろ逃げろと叫んでいた心臓が、いまは別の、そう、視界が真っ赤になりそうなほどの怒りに吼えている。
 テロを起こしたことが許せないのではない。理由も無く被害者となった故人は気の毒だと思うが、だからといってそれ以上に何かを思い抱くことも無い。冷淡なのか、と自嘲して、仕方ないだろと苦笑しながら自己を肯定。顔の見えない故人になど、名前も知らない故人になど、正直、何も思えない。何かを思い、語り、叫ぶほど傲慢ではないつもりだ。
 だが、それでも、故人には明日があった筈であり、あの天使はそれを奪ったのだ。奪い、潰し、挙句虫に刺された程度の気持ちすら抱いていないのだ。
 諌那は顔を上げた。今度はもう、俯いたりはしない。
 手を掲げる。右手を開き、真っ直ぐに、こちらを見下す天使に手を伸ばす。
 そして、朗々と告げた。

「――降りて来い! 話し合おう!!」

 捻りも何も無いその台詞は、諌那の偽り無い本心だった。



* *



 ビンテージは、顔をしかめた。
 憎しみすら篭もった視線で、眼下に佇む青年を見下ろす。真っ直ぐに掲げられた腕は、まるで自分を引き摺り下ろそうとしているようで嫌になる。その顔に満ちているのは決意で、瞳に映っているのは怒りだ。燃え上がるような、我を失いそうなほどの怒りが見て取れる。
 同族かな、と一瞬に疑い、瞬間的に否定した。そんな筈が無い。いま彼が伝えてきた(・・・・・・・)のは、降りて来い、という要請。否、命令。それはつまり、自分が飛べないということで、それならば同族であるはずが無い。同族ならば、空を飛ぶ方法を知らないはずが無い。
 青年は、鬼気迫る迫力でこちらを見上げている。ここに辿りつく事も、自分を引き摺り下ろすことも出来ないくせに、ただどうにかしようと手をかざしている。
 目障りだった。



* *



 ビンテージが手を振り上げたことを確認し、諌那は思わずその場を飛び退いた。
 刹那、それまで自分がいた場所に火柱が上がる。いや、火柱と表現するのは可笑しいか。こう、と立ち上ったそれは綺麗な円筒状の光の塊。真っ白な、笑いたくなるほど真っ白な光の塊。

(この光だ)

 目と鼻の先にある、圧倒的な熱の塊。しかしその余波は何も無い。この光は、其処に触れているものにしか熱を与えない。
 それを何よりもよく知っているのは、あの名古屋消滅で生き残ったこの身体。
 それを誰よりもよく理解しているのは、天使について学びつづけたこの知識。
 狙ったわけではないが、飛び退いたタイミングは最高だったようだ。早すぎればビンテージは狙いを、そう呼ぶのが正しいのかは知らないが、狙いを変更し確実にこの身体を焼失させただろう。遅ければ、よくても片足が消えていた筈だ。
 ぞっとする。逃げたい、と思う。
 でも、それは失礼だ――誰に?

(彼に、失礼だ)

 思い起こす。人生の半分以上昔の記憶。全てを洗い流すほどの雨に打たれていた夏の記憶。嗚呼、ありありと思い返すことが出来るではないか。そこに立っていた彼を。彼に抱きしめられていたこの自分を。
 彼が上げる嗚咽を。
 雨に混じってこの頬に落ちる、彼の涙のその熱さを。

(泣いていたんだ、彼は)

 自らに振るわれた謂われ無き暴力に耐え、耐え、耐え、そして溢れた感情の清算。どちらに非があるのかと言えば、彼を面白半分に嬲っていた若者達だろう。想像がつかなかったのか、それともそんな話がある訳無いと高を括ったか、自分達が何を相手にしているのかも想像せず、言及すれば名古屋を滅ぼす由となった若者達。
 ただ、それでも、罪は彼の方が大きく、重い。
 堪えたのだろう。自分の振るう力が如何に容赦無いかをよくよく理解していた彼は、その暴力に反抗することを力の限り堪えたのだろう。堪え、堪え、堪え、そして割れ爆ぜた。どうでもいいと、そう思ってしまったのだろう。
 ――最後までそう思えれば、どれだけ幸せだったのだろうか。

(僕が其処に居た)

 関係の無い命が。暴力も揮わず雑言も詰らず、ただ首を傾げる幼子がそこに居た。自分に揮われた暴力と同じように、まったく理由も謂われも無く揮われる暴力に晒されようとした子供が居てしまった。
 故に彼は、最後の最後で我に帰った。しかし揮おうとした力はもはや止められなくて、ただほんの少し、力の及ばない空白を作るのが精一杯だったのだろう。力は振るわれて、そして罪に問われた。

(自分が何をしたのか、何をしようとしているのか)

 関係の無い命を自暴自棄な精神の元に奪い尽くし、正気に戻って、その罪に震えた。彼は諌那に問いたかっただろう、どうすればいいのかと。乞いたかっただろう、赦してくれと。
 そんな彼に、自分は何をした? 何が起こったのか理解できなかった自分はただ立ち尽くすことしかできず、何も答えず、何も赦さなかったではないか。
 それは、いったいどれほどの責め苦だと言うのか。自分の罪を知り、許しを乞うても何も与えられず、罰すら示されない。その挙句、罪の深さに悲しみながらこの世を去った彼。
 死んだことは、罰にはならない。何故なら彼は虚を突かれ殺害されたのであり、死を目前にした恐怖すら味わえなかったのだから。罰なくして罪は償えない。彼が殺害されたのは天使への単なる対処であり、決して罰ではないのだから。
 故に、彼は、未だに赦されていない。
 僕が、赦していない。

(そんなのは、もう嫌だ)

 彼のような人を出したくない。その原因となったこんな自分を、もう出したくはない。
 だから、奥歯を噛み締める。恐怖を振り切って前を見る。
 ――もう、眼を背けるものか。
 諌那は、いままで抱いた如何なる決意よりも強く、鋭く、ビンテージの姿を睨みつける。
 びょう、と吹く風に紛れ、かつ、という足音が聞こえた。
 それが何を示すのか理解するのと同時、視界の中で天使が腕を振るう。



* *


 空を翔ける。
 体面も、余裕も、なにも必要ない。風を制御する思考をも限りなくカットし、その分の余裕を速度制御へと傾ける。激しく吹きつける風は痛みすら伴っていて、まともに眼を開けてだっていられない。髪は放射状に広がって、ぐいぐいと後ろに引っ張られるよう。着衣の裾は、落ち着きが無いようにばたばたと音を立てている。諌那に見られたら恥ずかしさのあまり死んでしまいそうなほどに我武者羅な行為だ。
 だけど、それでも、少しでも早く少しでも前へ。
 手遅れにならないように。見捨てられないように。

(諌那、諌那、諌那、諌那!)

 ジャスミンの思考を占めているのは、ただ一人の青年の名前。
 それを恥じることも、隠すこともしたくない。自分自身に嘘など、つきたくは無い。つくわけにはいかない。
 自分は、求めている。ビンテージと、レイカと、諌那を、同列として扱うことを求めている。
 それが、この自分の、ジャスミン=ヴェルベットの心からの本心である。



* *



 前へ、前へ、前へ。
 放たれた矢のように滑空していったジャスミンを見送った琢野は、読み取れたその意思に小さく苦笑した。琢野が乗っているジープは一定の速度で、真っ直ぐに浜松市の南端を目指している。
 己の、或いは草薙の職務を果たさせるために。



* *



 ビンテージが先ほどと同じように手を振り上げたが、諌那は動かなかった。
 上がった手は一瞬止まり、フェイントでもかけるかのような動作で再び振り下ろされた。今度こそ確実に、その熱は自分を消すだろう。おそらくは欠片も、影すらもこの世界に残らないはずだ。
 その力が、きちんと振るわれたのならば。
 こう、と音がして、世界が白く染まる。今度の円筒は、先ほどとは比べ物にならないほどに広い。おそらくは自分が飛び退くことを予想しての対処だろう。一足では逃れられないほど広い範囲を、白い光が覆っている。
 自分の立つ、半径一メートルほどの真円を除外して。
 数瞬で光が収まった後、未だここに佇んでいる自分を見て、ビンテージはよほど驚いたようだった。射殺さんばかりにこちらを睨みつけ、そしてやおら気付いたように視線を自分の背後に移す。
 見るまでもない。其処に立っているのは、人間と供に生きることを望んだ天使。

「お待たせしました」

 背後から、颯爽とした声。
 真っ赤なスーツに身を包んだ天使が其処に居る。

「それほど待ってもないですよ」

 いつの間にそこまで近付いて来ていたのか、まるで気付かなかった。しかしとりわけ驚いたわけでもなく、諌那は前を見たままそう返す。
 横に並んだレイカが、恐縮です、と慇懃な言葉で返事をした。

「では、神無月さん、私は何を致しましょう」

 問われ、諌那は考える。いや、考えるまでもない。

(――このまま話していたら、首が痛くなる)

 諌那は苦笑気味にそう思い、頷いた。

「彼女を、引き摺り下ろしてください。僕の前に。僕を見下さなくていいよう、僕が見上げなくて済むように引きずり降ろしてください」
「分かりました」

 頷き、レイカが同じように空を仰ぐ。ひゅっ、と音がして、その肩口から白い光が溢れ出た。光は真っ直ぐにレイカの背後に伸び、一瞬で白い翼を形成する。
 いままさに飛び立とうとしているレイカに、諌那は一つの制約を架した。

「引き摺り下ろして欲しいですけど、決して力ずくにはしないでください」
「善処致します」

 慇懃そうなその言葉に、微かながら苦笑が篭もる。
 諌那は最後にお願いしますと呟き、目を瞑った。ふぅ、と熱くなる意識を冷ますように息を吐き、目を開く。
 光の翼を現したレイカが、ビンテージを目指して飛翔していた。



* *



 その事実を目の当たりにして、ビンテージは身を焼くほどの悔しさに包まれた。
 髪を染め、言葉を喋り、誇りを投げ打った筈の恥ずべき同族は、自分より高らかである。
 あちらの世界に、基本的に戦いという行為は存在しなかった。揮えば確実に全てを焼き尽くすこの力は、相手を殺さずに屈服させるには向かないからだ。その力は酷く択一(デジタル)的。零か壱か、是か非か、否か応か、生か死か。もとより数の少ない種だ。そんな力で争っていたら、あっという間に数が零に近くなる。
 故に、何らかの理由で争う必要があったとき、その決着はパフォーマンスという形でつけられる。戦わずして互いの能力を比べ、その優劣を競う手法。
 それがつまり、翼。
 意思を世界に展開させるその反動として現れる、純粋熱たる光の翼。その輝きが大きければ大きいほど、その形状が鮮明ならば鮮明なほど、その者の意思が強く硬いということを示している。
 だから、ビンテージは唇を噛んだ。認めたくはない、認めたくはない、認めない! この自分が、こんな嘘ばかりの世界を正そうと汚れに身を置いている自分が、こんな恥も外聞も誇りも投げ打ったこんな女に劣っているはずがない!
 いつしか血が滲むほどに握り締めていた手を開き、ビンテージは真正面から恥知らずを迎え撃った。
 その背中に伸びる、自分のそれより数倍白く、鮮明な翼を必死に否定しながら。



* *



 早く。速く。疾く。
 間に合うように。手遅れにならないように。
 彼女が、ビンテージが決定的な間違いを犯してしまう前に。
 私が、まだそれでも彼女を許せるように。
 ジャスミンはひたすらに速度を上げた。風景は僅か一瞬で後方に飛び、耳元で渦巻く風は轟音を呈してすらいる。穴の空いた袋から空気が抜けるかのように、この身体から体力がどんどん溶け出していく。
 それでもなお、ジャスミンは速度を緩めなかった。
 視界に映るビンテージの姿が、見る見る間に鮮明になってゆく。

(もう少し)

 悲鳴を上げる身体を無視し、ジャスミンは更なる加速を自らに課した。



* *



 戦いは優雅で、苛烈だった。
 地面で佇み、待つしかない諌那はその様子を無言のままに観察する。
 二人の天使。赤いスーツのレイカが上昇しながらビンテージの背後に廻ろうとすれば、まるで鎧の様に硬い服を着込んだビンテージがレイカに向かって手をかざす。刹那にこう、と光が走り、烈熱がレイカを消さんとした。
 だが光が消えた後、レイカの姿はまだ其処にある。歩みを止めるように中空にぴたりと停止し、燦然と佇む姿。光を防いだことを悟ったか、レイカが再び上昇を始めた。しかし、停止から上昇に移行するまでのほんの数瞬の間に、ビンテージの姿はより高みに上昇していた。
 レイカが追いつこうと加速すれば、それを見越したかのように再び光が走る。身を守る為にレイカは上昇を止めざるを得ない。そしてそのほんの僅かな時間に、再び両者の距離が開く。不意にビンテージが上昇を止めたかと思えば、今度は滑るように横に動いた。放たれた光はまるで見当違いの方向で、だがレイカは飛翔を止める。例えそれが牽制であったとしても、そうでなかったときの為に防御に徹するしかないのだろう。それを嘲笑うかのように、更に両者の距離が開く。
 ほぼ絶え間なく空間を埋める光はすべてを否定するかのように白く、そこを飛び交う二人の天使は息を飲むほどに壮麗であった。暴力的な爆音も、悲壮的な絶叫も、熱狂的な咆哮さえも存在しない。それは、許されるのならいつまでも観じていたい優雅な舞であった。
 されど。

(いたちごっこじゃないか)

 苦々しく、諌那は評価した。レイカが迫り、ビンテージが防ぎ、距離が開く。それを繰り返しながら両者の位置はめまぐるしく変わり、しかし距離は詰まらない。
 どうする、と考える。頭を廻す。自分に何が出来る、自分に何が――
 二人の天使の軌跡を眼で追いながら、必至に考えを巡らす。
 だから、その異常に気付くことが出来た。
 ん、と疑問を覚えたときにはもう遅い。
 いつしかビンテージとレイカの位置が入れ替わっていて、自分とビンテージの距離が、それまでとは比べ物にならないほど近づいていて。
 ビンテージの瞳には、こちらを明らかに侮蔑する光と敵意とが灯っていて。
 その手が、いつのまにかこちらに向けられていた。



* *



 思い知らせる必要があった。
 自分が何なのか。誇りを捨てて地べたを歩くということが、どれほど自分達の顔に泥を塗りつける行為なのか、それをこの同族に否、この女に思い知らせなければならない。
 己の間違いを示す、一番簡単な方法はなんだろう。
 ――考えるまでもなかった。夢を見ているのなら、醒ませばいい。
 ビンテージはそれまでと変わらぬように同族と接近戦ドッグファイトを続けながら、じわりじわりと位置を調整し、自分をそれの方へと近づけていく。やがて、十分に距離が近づいた。同族に察されないようにそちらを窺えば、何を考えているのか、男はこちらを見ながらもなんら動こうとしない。
 心の中で嘲笑い、自分達を見上げている下賎な男に視線を飛ばし、手をかざした。



* *



 ビンテージの思惑を悟ったときには、全て遅かった。
 狙われているのは自分で、それまでの振る舞いは全てこのための布石に過ぎない。そう理解したとき、既に準備は整っていて、ビンテージの顔には最高に愉快だと言わんばかりの笑みが浮かんでいた。その肩を越えた向こう側で、さっと顔を青ざめさせているレイカの姿が見える。
 避けるより、たぶん、彼女の方が早い。いや、仮に飛び退いたとして、それにどれほどの意味があると言うのだろうか。とっさに飛び退ける距離など、半径数メートルの光で全て埋め尽くされてしまう。
 背筋が凍った。どうしようもないと、この状況で初めて本気で恐怖した。
 僅かに得られた猶予期間さえ、そんな思考に費やしてしまう。
 やがて世界を、九年前と同じように白い光が包み込み、そして、



* *



 そして、自分はいまだ其処に立っていた。

「え――」

 思わず声が漏れる。何故? 何故、自分は生きている?
 考えられる可能性は、ビンテージのその光を、誰かが防いでくれたということ。
熱波を生み出す手法も、それを防ぐ手法も知らない以上何も理解できないが、それでもそれが同一の理の下にある現象なのだということは推察できる。それならば、同時に望まれたそれらは同時に展開する筈だ。ビンテージがわざわざレイカとの位置を調整したのもその為だろう。つまり、自分とビンテージの距離以上離れているレイカには、この身を守る術が無いはずなのだ。
 だから、考えられるとすれば、ただ一つ。
 諌那はこわばっていた身体を弛緩させながら、唖然とするビンテージの顔にほくそえみながら、ゆっくりと後ろを振り返った。
 後方、やや上空。三メートルほど上に、羽を広げる見知った女性の姿がある。
 随分と久しぶりで、懐かしいようで、その実それほどの仲でもない天使の姿。
 諌那は微笑み、声を上げた。

「久しぶりだね、ジャスミン」

 そんな、捻りも何もないその台詞に、ジャスミンは輝くような笑みで返す。
 その口が、ぎこちなく動いた。

「ただいま、諌那」

 発せられた声は小鳥の囀りよりも綺麗で、春風よりも喜びに満ちていた。



* *



 諌那が呆気に取られていると、ジャスミンは微かに苦笑して、ぷつりと糸が切れたかのようにその身体から力を抜いた。
 理解より反応が早かった。諌那は弾かれたように駆け出し、ジャスミンの足元へ。その場に辿り着くのと、ジャスミンの背中から光の翼が消えうせその身体が地面に向かって落ち始めるのは、ほぼ同時だった。辛うじてジャスミンの身体を受け止めることに成功する。

「ジャスミン?」

 問うが、ジャスミンは無反応。両手で、掬うように抱きかかえたこの腕の中で、ただ大きく胸を上下させている。それを認め、諌那はジャスミンの様子にようやく気付いた。荒い呼吸は疲労の証だし、その額には決して暑さのせいではない球の汗が数え切れない程浮かんでいる。ああ、その顔が一層白いのは、単純に血の気が失せているからではないか…!
 知れた、分かってしまった。この女性がどれほどの決意でここに駆けつけたのか、どれほどその身を削りながらこの場に訪れたのか、それがどれほどの決意の下に為された行動なのか、悉くが知れてしまった。
 己の唇を噛み締めながら、諌那は優しくジャスミンの身体をアスファルトに横たえた。
 苦しみに歪んだその顔に顔をしかめ、背後を向き、諌那はビンテージに向き直る。愕然としたその姿は笑ってしまうほどに滑稽で、歪みきったその顔は泣いてしまいそうなほどに悲壮だった。
 そんな天使の姿を見上げながら、諌那は改めてさあ、と声を掛けた。

「降りて来い。話し合おう」

この女性は、ジャスミンは。

「ジャスミンはそれを選んだんだ。君もそれに見習え、話し合おう――さあ!」

 声を、言葉を澄ませているのは絶対の自信。
 諌那は一歩を踏み出した。踏み出し、近づき、手を伸ばす。
「話し合おう」
 何度目かも忘れてしまったその要請。
 その言葉に、ビンテージは肩を震わせ、そして笑い出した。



* *



 可笑しかった。何もかもが不可解おかしかった。
 あの娘は、ジャスミンはいま何をした? 優雅さも華やかさも殴り捨てた荒々しい振る舞いでこの場に駆けつけ、あの男を消す邪魔をした。それだけではない。彼女が発した言葉と言うものを、聞き逃すことなど出来なかった。彼女が、彼女までもが誇りを捨てたと言うのか……!
 あはは、とビンテージは嗤う。大きな声を上げて嗤う。もちろん、それとて禁忌のひとつだ。
 構うものか、とビンテージは胸中に吐き捨てた。こんな、こんな恥知らず共に対して倫理モラルを守る理由が何処にある。倫理モラルを逸れたろくでなしに、倫理(モラル)を主張して何の意味がある。
 ビンテージは見下す。自分を見上げ、射るように見上げ、手を伸ばす愚か者を。
 服の内側に手を伸ばせば、硬い手触りがそこにある。彼女はそれを握り締め、もう一度笑い声を上げた。
 ……許さない。あの男を許さない。分不相応に物事を望み、守るべき同族を騙し、いろいろなものをぶち壊してくれたあの下賎な生き物を、許すことなんて出来ないはしない!
 願うなら消してしまいたい。しかしそれもいまや叶わないだろう。赤い女がいつのまにか廻り込んでいて、私とあいつらの間に位置している。今となっては、消し去ろうとしてもあの女がそれを拒む筈だ。
 だから、こうする。



* *



 見えたのは、黒い小さなものだった。
 それが拳銃だと理解し、なぜビンテージがそんなものを持っているのか疑問に思い、共同体の人間が何らかの理由で持たせたのだろうと推察するまでおよそ一拍。それだけの時間があったなら、おそらく飛び退くことなんて簡単に出来たはずだ。なのにその場から動かなかったのは、普くこの身の意思である。
 自分とビンテージとの間に回りこんでいたレイカが、身体を強張らせるのが気配で知れた。ビンテージの瞳は、混乱と怒りと憎しみに染まったその瞳は、真っ直ぐにこちらを向いている。
 その銃口が何処を向いているかは、況や、だ。
 しかし動くわけにはいかなかった。飛び去ろうとした足を無理やり縛り付け、その場に堂々と立ち尽くして見せる。
 理由なんて、それこそ無論の代物。
 自分の背後には、ジャスミンが居るのだ。
 せめて痛みを堪えようと歯を食いしばったその時、



 やけに陳腐な銃口炎マズルファイアが一瞬光って、  ぱん、なんていう馬鹿馬鹿しい音が聞こえて、



 想像していたよりも果てしなく激しい、泣きたくなるくらいに激しい痛みが身体を貫いた。



* *



 何かが倒れる気配で、ジャスミンは目を醒ました。
 身体全体に鈍い痛みがある。酷使しすぎた四肢は鉛をつけたかのように重く、視界は全てぼやけてしまっている。
 だから、ある意味、それは鮮烈だった。
 地面についた指が、ぬるりと滑る油のようななにかをこする。見れば、どす黒いアスファルトに、よりどす黒くて鮮やかな赤い何かが広がっていっていた。
 その出所は、この身の隣で地面に倒れている諌那の身体。
 ああ、つまり、これは。

「諌那……!」

 ジャスミンはその名を呼びながら立ち上がり、血まみれの青年の傍に屈み込んだ。あ、と諌那の口端から声が漏れる。それが何かに対する呼びかけではなく、単なるうめき声だと悟ったとき、ジャスミンは自分の中で何かが切れたのを感じた。
 最初は痺れにも似た衝撃。それは、一瞬の時間すらおかず笑い出したくなるほどの怒りに昇華する。
 ああ、とジャスミンはいた。瞳から溢れる涙を拭いもせず、こんなことをしでかした同族を仰ぎ見る。
 ビンテージはその手に黒い何かを握ったまま、動きもせずにレイカの方を見ていた。ビンテージが黒いそれをレイカに向けると、そこから弾けるような音が聞こえ、小さな光が一瞬だけ灯る。そしてその直前、レイカは大きく場所を移動し再びビンテージと向き合う形を取る。
 ぱぅん、ぱぅん。光と音は酷く散発的だ。
 それが何を意味しているのかわからないが、それでも、諌那がこんな目にあった原因がビンテージだということはわかる。幸いにもいま彼女の意識はレイカに向いたままだ。不意をつくなら、不意をついて殺すなら、いましかないだろう。
 ああ、と戦慄きながら、ジャスミンは手をかざす。ビンテージの元へ。
 そして、不意に足首を掴まれた。予想もしなかったその感覚に、ジャスミンは思わず小さな悲鳴をあげた。驚いてそちらを見れば、諌那の手がこちらの足を掴んでいる。

「ジャスミン」

 諌那は、顔だけでこちらを見ていた。顔からはどんどん血の気が失せているが、その瞳にはいまだ変わらぬ輝きがある。その瞳に射られ、その決意を察し、ジャスミンは唐突に醒めた。同時に、情けない以上の恥ずかしさが心を占める。
 そんな機敏に気付いたかどうか、諌那は弱々しい、けれどきっぱりとした声で言った。

「お願いがある」



* *



 哄嗤を上げたまま、ビンテージは拳銃の引き金を引き続けた。そのたび、面白よいように恥知らずが必死になって逃げ回る。
 もちろん、ビンテージは気付いてた。あの女のその動作が、不必要に大きく動くその動作が、自分の注意をそちらに向けるためのものだということに。あの女が、必死になってこの身の注意をジャスミンたちから逸らそうとしていることに。
 構うまい、とビンテージは思う。順番なんてどうでもいい。殺す。殺す、殺す、殺してあげる。みんな殺して、自分達を貶めるこの世界を根こそぎ消しさってあげる。
 ああ、もう、どうでもいい。考えるのさえ面倒だ。
 トリガーを何度か引くと、やがてかちんという硬い音が上がった。銃口が沈黙し、なんら反応しなくなる。何度繰り返してもかちんと音がするだけで、それ以上のことは起こらなくなった。
 壊れたかな、と思ったその時、背後に気配を感じた。

「ビンテージ!」



 ――本当に。なんて、煩わしい。



 彼女は苛立たしく振り返り、声の聞こえた方に拳銃を向けようとして、硬直した。
 眼下に向けようとしていた視線が、強制的に補正される。
 目の前に、青年が浮いていた。



* *



 指先から順に熱がどんどん逃げていくようだった。ろくに力の入らない右半身をジャスミンに預け、支えられながら空に手引きされた諌那はそう感じる。
 ビンテージに撃たれたのは脇腹。おそらく弾は埋まったままだろう。吐気を催す嫌悪感がそこにあり、そこから流れ出る血液は一向に止まる気配を見せない。傷口から溢れたそれは足を伝わり、一滴ずつ靴の先から滴っていた。
 少しでも身体を動かせば、全身に鋭い痛みが走る。呼吸するごとに走るそれに顔をしかめ、脂汗を滴らせながら、それでも諌那は正面からビンテージに向き直った。

「ビンテージ」

 驚愕に目を見開いた天使に、改めて声を掛ける。いまやその距離は極僅か。手を伸ばせば、その肩を掴むことすら叶うだろう。

(――つまりは、それが結論)

 目の前に、自分と同じ高さにいる天使を見つめながら、諌那は頭の隅で己の姿勢を悟る。長年抱きつづけ、補強を重ね、全てを賭して信じられるというその結論を、いまようやく自覚する。
 空を仰いでも、地を見下しても、相手の姿が見えないというのなら。
 相手は、自分と同じ高さにいるだけではないか。

(僕達と天使は、同等だ)

 とくんとくんと、鼓動が聞こえる。己のそれと、この身体を血に穢れながらも支えることを厭わないジャスミンの鼓動。嗚呼、これほど同じ心の音を立てる存在が、どうして敵であろうと言うのか……!

「諌那」

 ジャスミンが名を呼ぶ。
 顔を見ることもなく、諌那は頷いた。彼女がこの身に望むことなど、容易に知れる。

「ビンテージ」

 諌那は三度、天使の名を呼んだ。びくりと、彼女が身体を振るわせる。
 その蒼い瞳にふいと映った理性の光を、諌那は見逃さなかった。それを消さぬよう、逃さぬように必死で言葉を投げかける。

「僕達は分かり合える。だから、話し合おう」



* *



 信じられない光景だった。
 目の前に、彼の愚劣な存在が浮いている。それを可能としているのは、翼を貸しているのは同族であるジャスミン。青年の肩を背負うように身体を貸し、真っ直ぐにこちらを見ている。支えているのは先ほど穿った傷のある方で、溢れた血液がどんどんビンテージの洋服を汚していた。
 汚れ。或いは穢れ。真っ赤な、真っ赤な真っ赤な嫌悪の対象。
 その筈なのに。その筈なのに、ジャスミンの顔には迷いというものがなかった。

(何故?)

 独白のように、彼女は思考した。

(何故、そんなことが出来るの?)

 対するジャスミンの答えは問いかけ。

「何故、こんなことも出来ないの?」

 言葉は震えている。瞳には焦りがある。
 ああ、とビンテージは理解した。心配なのだろう、と思う。見れば、青年の身体から流れ出る血液の量は、決して軽んじられる量ではないと容易に知れる。放っておけば、数刻もしないうちにこの青年は死ぬ筈だ。
 故に、ジャスミンは言葉を震わせるのだろう。そのごく近い未来に恐怖し、声を震わせるのだろう。故に、焦るのだろう。この青年を早く手当てしたいと望み、焦燥するのだろう。
 それが理由かと、ビンテージはようやくその結論に至った。
 可笑しな話だ。倫理モラルを無視したはずの相手が、何よりもいま倫理モラルを体現している。
 ビンテージは苦笑しながら、泣きそうな顔で苦笑しながら、いま一度手にした銃を青年に向ける。
 決着を、つけるために。



* *



 拳銃は、思っていたよりもちゃちな代物だった。
 眼前に突きつけられたそれを見て、諌那はそんな感想を抱いた。人差し指ほどの太さもない銃口から出た弾がこんな痛みを生むのかと、むしろ感嘆すら抱いてしまう。

「ビンテージ……!」

 ジャスミンが、叫ぶようにその名を呼んだ。
 顔を青ざめさせる彼女を見て、諌那は大丈夫、と小さく呟く。え、と聞き返されるより早く、視線をビンテージのそれと絡ませる。醒めた、何処までも醒めたような青い瞳はこちらを依然と見下すようで、しかし。
 其処には、理性の輝きがある。
 諌那は何も言わず、左手で、自分に突きつけられた拳銃を横から掴んだ。軽く力を込めれば、ビンテージの手からするりとそれが抜ける。
 そして諌那は、それを地面に落とした。一瞬の後、やけに嘘っぽい音が響く。
 諌那はその手が、左手が血に塗れていないことを改めて確認したあと、黙ってそれを差し出した。
 握手は、元来敵意を持たないことの表明であるという。
 そんなことを思い出しながら、あ、そろそろやばいかなと思っている自分がいた。
 意識が、あっという間に白く濁っていく。



* *



 急に力が抜けたかと思えば、諌那の身体はずるりとずり落ちようとする。慌ててそれを背負いなおし、ジャスミンはビンテージに目を向けた。
 自分の手をぼんやりと眺めていたビンテージが、こちらの視線に気付き顔を上げる。叶うなら、これ以上この同族に構いたいとは思わなかった。急いで、急いで諌那の手当てをしなければ――!
 自分の焦りを嫌という程自覚しながら、ジャスミンはビンテージを睨みつけ、そして息を飲んだ。
 ビンテージが、苦笑していた。自分の手を見つめながら、口の端を歪めながら、泣きそうなほどに苦笑していた。
 声を掛ける暇ぐらい、たぶんあったのだろう。
 しかし混乱したジャスミンは、そんな暇に気付くことなど出来なくて。
 ジャスミンが我に返った、丁度その時。
 ビンテージは一瞬微笑んだかと思うと、次の瞬間ふつりと糸が切れたかのように気を失った。当然の如く翼が消失し、世の理に従いその身体は落下を始める。

「――!」

 手を伸ばそうとして、諌那の身体を抱えている両手に気付く。その逡巡の間にビンテージの身体はあっという間に地面に近づいて、ジャスミンがせめて目を閉じようとした直前、赤い姿がビンテージの背後に廻った。
 レイカは、両手でしっかりとビンテージの身体を受け止めた。ジャスミンは安堵の息を吐き、刹那、諌那の現状を思い出す。縋るように目をやれば、レイカは静かに頷いた。

「着いて来なさい」

 言い、くるりと身を翻す。
 飛翔を開始したレイカを、ジャスミンは置いていかれないように必死で、しかし諌那の身体を揺らさぬよう細心の注意を払い、追いかけた。



* *



 なんだか、毎晩違うベッドで寝ている気がする。
 目を醒ました諌那が、最初に思ったのはそんなどうでもいいことだった。頭の中に綿を詰められたかのようにはっきりとしない意識の中、諌那は辛うじて現状を知る。
 場所は多分、病院の個室。うすら汚れた天井には切れかけた電灯。時刻はもう夜中だろうか、窓の外には暗闇と人工の明かりたち。そして部屋の中には、全部で三つの人の影。

「起きた?」

 声を掛けてきたのは、部屋の隅のパイプ椅子に腰掛けていた雪菜だった。諌那は身体を起こそうとして、脇腹に走った鈍痛に顔をしかめる。呆れたように雪菜は言った。

「大人しくしてなさいよ。まだ麻酔だって完全には切れてないでしょうから」
「みたいだね……っと、綾小路、お前はもう大丈夫なのか?」
「そんな訳無いだろ。複雑骨折、全治二ヶ月の大怪我だぜ」

 右足をギプスで固定した海人は、雪菜の隣に同じようにしてパイプ椅子に座っていた。傍らには真新しい松葉杖が立てかけてる。見れば海人の怪我は右足だけでなく、身体中の至るところが包帯に包まれていた。
 ったく、と海人は毒づいた。信じられねぇよ、と呟く。

「お前が名古屋消滅の生き残りだって? 初耳だったぞ、そんなの」
「当たり前だろ、隠してたんだから。大学でそのこと知ってるのは雪菜だけだよ。――お前も、秘密にしてくれれば助かる」

 吐息ついでに、諌那はそう答えた。
 と、さて、と言って雪菜が立ち上がる。

「先生呼んでくるわ。ついでに軒下さんも呼んでくるわね」
「ん、お願い」

 すぐに戻るわね、と言い残し、雪菜は病室を出て行った。
 そして、部屋の中に沈黙が落ちる。沈黙ではあるが、海人が何かを言いたそうにしているのはようと知れる。だからそれは、沈黙というより険悪な雰囲気なのかもしれない。
 諌那は視線の遣り処に困り、部屋の中を意味も無く見回し、やがて諦めた。
 嘆息一つ。真っ直ぐに海人に向き直る。

「言いたことがあれば、言えよ」
「俺は、お前を認めない」

 待ち構えていたかのように、きっぱりと海人は言い切った。

「俺は絶対、お前の考えを認めない」
「……そう」

 言い、諌那はベッドの傍らを見た。其処に良く見知った人影がある。
 ベッドの脇に椅子を着け、ジャスミンがベッドの上に突っ伏すように上半身を倒して寝息を立てていた。薄い布団の上、右の腕辺りにジャスミンの重みを感じる。
 諌那は左手で、ジャスミンの綺麗な金髪を優しく梳いた。起きないように細心の注意を払いながら。
 海人が舌打ちをする気配がした。

「俺、自分の病室に戻るわ。お前と居ると頭が可笑しくなりそうだぜ」

 言いながら、海人は不慣れな様子で松葉杖を使い椅子を立つ。
 部屋を出るその背中に向け、軽く声を掛けた。

「僕は、お前のこと友達だと思ってるよ」

 答えは短い。

「知ってる」

 そうして、海人は病室を出て行った。



* *



 で、と諌那は声を上げた。ぴくりとも動かないのジャスミンに向かって。

「そろそろ寝たふりはやめたら?」
「いつから気付いてました?」

 起き上がることはせず、ただころん、と顔をこちらに向け、ジャスミンが尋ねてきた。
 諌那は髪を梳く手を止めず、ついさっき、と答えた。

「髪に触れたとき、あそこまで露骨に身体を強張らせたら、さすがに分かるって」
「それはそうですよ。いきなり私の髪を梳くんですから」

 微かに口を尖らせて、抗議するようにジャスミン。

「女性が髪を触れさせるのは、親と夫だけなんですよ?」
「――え」

 ぴたりと、諌那は髪を梳く手を止めた。
 どうにかフォローしようと頭を廻していると、くすり、と小さな笑い声が聞こえる。見れば、ジャスミンが口元を隠すように手で覆いながら、愉快そうに目を細めていた。

「気にしないでください。らしくないですよ」
「らしくないって、そんなこと言われても」

 否定はされなかったな、と頭の隅で思いながら諌那は言う。迷って、まあいいか、と思い、髪を梳く手を続けようとしたその時、不意に病室のドアが開いた。
 入ってきたのは、軒下の青年と赤い天使。
 こちらを見た瞬間、琢野は驚いたように、おや、と声を上げた。見れば、隣のレイカも声は上げないものの、似たような心中であるらしいことが知れた。
 琢野はしばし沈黙した後、にこりと、これ以上ないほどに柔らかい笑みを浮かべた。

「まあ、お幸せに」
「どういう意味ですかそれは」
「それはともかく、調子もいいみたいだね、諌那君」

 抗議を思いっきり無視される。
 憮然としながらも、はい、と諌那は答えた。

「どうにか死なずに済みましたよ」
「ああ、それはわかっていたよ。でなければ君みたいな逸材をあんな場所に放り込むものか」

 言ってひとしきり笑った後、不意に琢野は真面目な顔をする。
 だけどね、と呟き、琢野は真正面から諌那を見た。

「本当によくやってくれたよ。君のおかげでビンテージの無事確保に成功したんだ、この事実は誇ってもらっていいと思う」
「……ありがとうございます」

 諌那が慇懃に礼を述べると、刹那に琢野はいつもの笑みを取り戻す。

「じゃあ僕は戻るよ。また後日、改めて伺わせてもらおう。そのときには君のこれからに関する話とかもするつもりだから、御両親にも話をつけておいてくれないか?」
「分かりました」
「ん、いい返事だ」

 満足そうに頷き、琢野は身を翻した。そのまま歩き出そうとして、あ、そうだ、と忘れていたように一言。

「君がいましている行為は、その子の将来を縛り付けるものだからね。相応の覚悟があると見た」
「あ!」

 短く叫んだのはジャスミン。見ればその顔を赤く染め、死ぬほど恥ずかしそうに顔を俯かせている。

(……他人に見られるのは恥ずかしいのか、さすがに)
「まあ、それだけ。じゃあいい夢を、神無月諌那君。君が僕の片腕になる日を楽しみにしているよ」

 流暢に言葉を並べ、そして琢野は今度こそ退出した。レイカも無論それに続く。ただ、部屋を出る直前、レイカは一瞬だけ顔をこちらに向け、苦笑とも微笑みともつかぬ笑みを向けて来たのが気になった。
 どうやら、先のジャスミンの話は事実らしい。

(さて)

 恥ずかしさのあまりか、布団に顔をうずめたまま微動だにしないジャスミンを見て、諌那は疲労混じりに思考した。

「どうしよう」

 呟くが、答えは返って来ない。
 動かしてこそいないものの、先ほどからずっとジャスミンの髪に触れたままの手を拒まられる気配もない。
 照れ隠しの迷いは、およそ数拍。
 ややあって、諌那は苦笑しながらその手を動かした。先ほどと同じように、否、先ほどよりもよほど注意を払い、丁寧にジャスミンの髪を梳く。
 異論は、何処からも来なかった。





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