【二〇一五年八月七日 日曜日】



 旧名古屋市。
 神無月諌那イサナはいま現在そう呼ばれている土地を訪れていた。
 歳は二十歳。黒のズボンと白のシャツを着込み、洒落っ気の欠片も無い頭髪を短く整えている。他に身なりで特筆すべき点は無い。そんな、とりわけ特徴の無い大学生である。
 諌那は乗ってきた車を降りると、夏の容赦ない日差しの下、その場で二度三度と足を踏み鳴らした。安物のスニーカーが返す音はどこか硬質。アスファルトでもコンクリートでもなく、もちろん土でもない感触が伝わってくる。
「変わんないな、やっぱ」
 呟いた言葉はどこか虚ろ。早速浮き始めた汗を拭い、自分の足元、黒い大地に視線を落とす。黒土のようでいて、所々光沢を返す硬質の大地。

 ガラスの土地。

 それは証だ。かつてこの場所に、名古屋という大都市が存在したこの場所に、途方も無い熱量が放たれたという証。その瞬間に、二百万あまりの市民が逝したという拭い去ることのできない爪痕だ。
 ガラスの土地はここを外周とし、遥か向こう、地平線まで続いている。それは真円を描くクレーターであり、その半径は約一〇キロメートル。人の視界とは、思ったよりも遠くまで届かない。毎年思い知るそんなことを今年も噛み締めつつ、諌那は視線を遠くに馳せた。
 地平線――正確にはその少し手前。このクレーターの中心部にある慰霊碑をどうにか望めないかと目を細める。しかし結果はいつもと変わらない。いくら目を凝らしても、陽炎に揺らぐ境界線が見えるだけだ。

「やっぱり、もうちょっと近づこうか?」

 後ろからの声に、諌那は振り返った。車を挟んで反対側、運転席側のドアが開き、宮下雪菜みやしたゆきなが姿を見せていた。諌那より一つ年上の、ショートカットの似合う女性。諌那の幼馴染であり、今現在は大学の先輩でもある。
 雪菜は手で庇を作りながら、諌那が先までしていたように遠くに視線を馳せる。

「ここからじゃ、双眼鏡あっても無理だと思うよ?」
「そんなの持ってきてないさ。それに、追悼式ってそんな風に覗くもんじゃないよ」
「じゃあ、もっと近づこうか。式典に参加してもいいんじゃない」
「参加したいなら、一人で行ってよ。僕はここで待ってるから」
 諦めたように言う諌那に、雪菜は微笑んでみせる。
「私だって別に、とりわけ参加したいわけじゃないわよ。なんだかんだでもう九年でしょ? いいかげん思い出だってあやふやだもの」
「そう。まあ、僕も似たようなものだけどね」
「私が言いたいのは。現場に居ながら奇跡的に助かった唯一の生存者が、謂れない文句で式典参加を見送る必要は無いんじゃないかってことよ。違う?」
「……僕だって、別に参加したいわけじゃないよ、追悼式なんて。それに文句なんて言われないさ、いくらなんでもね」

 どこか白々しく、諌那は、名古屋消滅でたった一人生き残った生存者は答えた。
 憮然と、雪菜は言う。

「表立っては――でしょ?」

 諌那は答えず、空を仰いだ。八月を迎えたばかりの空は青く、何処までも青い。
 まだまだ暑くなるな――頬を伝う汗を感じながら、他人事のように諌那は思考した。
 しばらく沈黙が流れ、諌那は雪菜が自分の答えを待っていると悟る。
 ため息混じりに、諌那は口を開いた。

「慣れたよ。もう」
「……難儀ね、まったく」

 僕もそう思う、と言って、諌那は雪菜と共に視線を馳せた。
 遥かな向こう。全高三メートルほどの記念碑を、見えないと知りつつ臨もうとする。
 時は二〇一五年、八月七日。
 名古屋が天使災害によって地図の上から姿を消して、早くも九年が経過していた。





 天使、と俗称される生物種が存在する。
 それは正しくは「Ancient Genocidal Living」と称される生物種であり、その正体は二十世紀末に確認された、まったく新しい概念を必要とする生物だ。
 姿は人間のそれと同じ。高度な知能と技術を持ち、一見人間と何ら変わりない。感情も理性も持ち合わせた、人間と同じ、あるいはより高位の生物である。
 そんな彼らを、人類は天敵として認識した。
 理由はただ一つ。
 意思疎通の手段が無かったからである。
 正午を廻り、諌那と雪菜は車の中に戻った。到着したのが十一時前後だったので、都合一時間ほど外に居たことになる。浜松でレンタルしたこの軽自動車はエアコン未設置の骨董品であったため、車内温度は外気温と大差ない。窓を開け放っていたため、より暑くなっていないのがせめてもの救いだった。
 第二次世界大戦中に落とされた二発の原爆に次ぐ犠牲者を弔う式典は、正午を持って終わる段取りとなっているはずだ。いまごろ式場では参列者たちが帰途に着き始め、紛れ込んだ天使擁護派が演説を開始しようとして警備員に拘束されるという、毎年お決まりのハプニングも起きていることだろう。
 第一に招待されなければならない立場でありながら、一度も式に出席したことの無い諌那は、ゆるゆると動き出した車から窓の外を見て口を開く。

「帰り、混むかな?」
「東名は混むでしょうね。まあ、裏道を行くから大丈夫よ。その分浜松に着くのは遅くなるけどね」
「夕方には着ける?」
「うーん、日暮れには、かな。もしあれだったら途中でなんか食べましょうよ」

 雪菜の提案に、それもいいかと思い座席に深く腰掛ける。
 車はすぐにスピードに乗り、閑散とした道を抜け国道に出る。インターに続く角を素通りし、一路東へ。
 太陽は、まだまだ真上に浮かんでいた。





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