【二〇十五年八月九日 水曜日】



 目を覚ますと、見覚えの無い天井が見えた。疑問に思いながらも身体を起こすと、身体中に鈍い痛みがある。覚えのある痛み。そう、たしか今朝も味わったような痛みだ。
(そうだ、ここは)

 自分の部屋ではないと、ようやく思い当たる。狭い部屋だ。壁際に二段ベッドが設えられ、その間に申し訳程度の足場がある。自分のほかに人の姿は無い。部屋の一番奥には簡素な窓があり、まだ浅い位置から日が差し込んでいた。
 ごうんごうんと、重い音を立ててクーラーが起動している。
 昨夜つけたままだった腕時計に目を落とせば、時刻はまだ朝の六時だ。結構寝たな、と思うと意識は急に鮮明になってくれた。天井、いや、二段ベットの上段に頭をぶつけないように注意しながらベッドを抜けて、部屋を、市役所の仮眠室を出る。
 朝早いこともあり、廊下にまだ人の姿は無かった。普通の職員ならばこれから出勤といったところだろう。故に、いま市役所にいるのは、控えめに言っても普通でない職員ばかりということになる。

(あるいは僕みたいな部外者ゲスト、か)
 人の姿はなくとも、空調設備はきちんと稼動している。冷房の風を感じながら、昨夜案内された道順を逆に辿って二階に上がる。更に少し進めば、そこは昨夜招かれた部署だ。
 幻想的敵対種対策課と、ドアの脇にある。
 諌那は躊躇わずにドアを開けた。中に入ると、幾分強めの冷房が効いていることに気付く。部屋のレイアウトは他の部署と大差ない。あるいは企業のオフィスもこのような造りなのだろうか。いくつかのパーテーションによって隔てられ、個人用のデスクが部屋の中央に密集している。奥には一つ孤立したデスクが鎮座し、その上には所長とプリントされた三角錐が置かれていた。
 昨夜は職員によって埋め尽くされていた室内も、いまは閑散としていた。雑然と、あるいは騒然としていた空気も、いまは静謐だ。
 宙を舞う埃すら見えそうな気配の中、紙を捲る音が聞こえる。部屋にただひとり居た所員、軒下琢野が奥の机、即ち所長用のデスクに腰掛け、わき目も振らずにレポートのようなものに目を通していた。
 邪魔をするのは気がひけたが、それでもこのまま立ち尽くしているわけにもいかず、諌那は琢野のデスクに歩み寄った。声を掛けようか迷っていると、先手を打って琢野が声を掛けてくる。

「おはよう、諌那君。税金製の硬いベッドは寝心地いかがだったかな?」
「すっごい皮肉ですね。最高でしたよ、身体中が痛くなるくらいに」

 諌那の返事に、琢野は違いないと言ってひとり苦笑した。その間も、紙面を捲る指と文面を追う目はとまらない。覗き込もうとすると、琢野はやんわりとそれを妨害した。

「すまないね、民間人には見せられない書類なんだ」
「使い込みの記録ですか」
「残念だけど不正解。お金なら余るほど持ってるからね。使い込もうと思うなら中東油田の採掘権でも買わないと深刻な消費にならない」

 何処までが冗談なのか、琢野の口調からは判断できなかった。しかしとりあえず後半は嘘だろうと断定して、諌那は言葉を紡ぐ。

「邪魔なら、時間を潰してますよ。とりあえずあなたの手元に居ればいいんですよね?」
「うん。でもまあ、そこに居てくれても構わないよ。邪魔じゃないからね。ついでだ、聞きたいことがあれば聞いてくれてもいいよ」

 言いながら、琢野は紙の束を床に投げ捨てる。見れば、床の上には似たような紙の束が三つほど転がっていた。表紙は白紙だが、それが報告書の類であることはなんとなく想像がつく。
 机に残っている三つの紙束のうち一つを手にとり、また捲り始める琢野。諌那はとりあえず、昨日のことに関する疑問をぶつけた。

「昨日のあれ、どうなりました?」
「どうもこうもないよ。現在発見された死者三〇余名、行方不明者ざっとその十倍。まだまだこれから鰻昇りさ。最終的には一千名弱になる。瓦礫の撤去は残存部分の崩落の危険性から遅々として進んじゃいないよ。撤去作業に掛かる費用は幾らになることやら。ほら、そこに新聞があるだろう」

 琢野が指だけで示したのは、一番近いところにある所員用デスクだった。諌那はその上から折りたたまれた新聞を拾い上げる。

「今朝の新聞だ。昨日特別に廻してもらってね。そこに書いてあるだろう? 犯人は天使共同体旧名古屋支部。犯行声明は県内の新聞社を始めとする各報道機関に送られている。内容文のコピーも一応あるけど、まあ一応機密書類扱いだから僕からは見せれない。すまないね」

 琢野の台詞には呆れしかない。テロという行為に対する怒りも、天使共同体という組織に対する憎しみも無いようだった。果たしてそれは本心なのか、それとも偽りなのか。
 やれやれ、と琢野は呟いた。ぱらり、と紙を捲る。

「まったく面倒なことをしてくれる。ま、動きやすくはなったけどね」
「動きやすく?」
「ああ。今回のテロに関して、政府の方での公式見解が直に決まる。あと一時間もすれば内密に連絡が来るよ。政府は今回のテロを断固として許さず、その首謀者と原因となった天使の殺害を名目上決定する。防衛庁は一時的に陸上自衛隊と航空自衛隊を放棄し、それが天使対策課の下に組み込まれる。まあ、身も蓋もなく言えば僕の指揮下に入る――は、何年ぶりだろうね、ここまで大掛かりな対処は」

 言って、琢野は口端をかすかに歪めた。

「相手の本拠地はもう割れてる。海岸のすぐ手前の道路に面する廃棄された小型ビルだ。突入はいまから十二時間後、十二名の精鋭隊によって行われる。現在確定しているのは此処までだ」
「確定している?」

 不思議な物言いに、諌那は尋ね返した。琢野は紙面から顔を上げ、にこりと邪気なく笑って見せた。

「君は、未来を予見できる人間が居ると知ったらどうする?」
「とりあえずそいつを病院に連れて行きます」
「うん、まあ妥当だろうね。けど、史実ってのは覆せないのさ。どれだけ非科学だ非常識だと叫んだところで、それがいままで予見を当てつづけてきたというのは事実だ。そして昨日、それを背理的に証明した馬鹿野郎が居る。東京にね」

 報告書らしきものを読み終えた琢野は再びそれを床に投げ捨て、手付かずの紙束に手を伸ばす。ほぼ速読に近い速度で字を追いながら、どこか淡々と言葉を継いだ。

「夢語部から報告がきたら真っ先に伝えろと言ってあったのに、人事異動で先月やってきたばかりの超エリートはそれを怠った。夢物語だと思ったんだろうな。そしてその慢心で、昨日のテロはおそらく最悪の結果を迎えた」
「最悪の結果?」
「ああ。言ったろ? 死者はおよそ一千名だと。あれは、何も事前策が執られていなかったが故の結果だ。共同体が描いた最高のシナリオだよ。だけどもし、あのテロが昨日の朝のうちに予見されていたとしたら、結果はどうなったと思う?」
「どうなったん、ですか?」

 琢野はいつしか顔を上げ、諌那の眼を覗き込んでいた。
 諌那はそれに気付き、刹那、身体が動かないことに気付く。いや、正しくは動かせる気がしないという感覚だ。動いても無駄、という思いが何故かある。身体中が僅かに汗ばんでいる気がした。決して寝汗ではない、それよりも気持ちの悪い汗。
 琢野はしばらくの沈黙の後、不意に声を上げて笑った。

「ははは、冗談だよ冗談。そんな都合のいい話があるもんか」
「……」

 冗談にしては、性質の悪いものだと思う。
 諌那は自分を覆っていた圧力のようなものが解けたことに気付き、額に浮いていた汗を拭った。冷や汗か、あるいは脂汗か。どちらも似たようなものかもしれない。
 琢野は再び紙面に視線を馳せながら言った。

「とりあえず君には書類整理とかの雑用を頼めるかな。もう少しすれば課員が来るだろうから、彼らの指示に従ってくれ。君のことはもう話をつけてあるから心配しなくていい。思う存分こき使われてくれ」

 どう答えようか迷っていると、ああそうだ、と追加の台詞が掛けられた。

「昨日も言ったけど、君にはいざというときのジャスミン説得役を任せる。だから、場合によっては」
「わかってますよ」

 琢野の言葉を遮り、諌那は答えた。
 そう、わかっている。ジャスミンを説得するということは、少なくともジャスミンの居る場所に行かねばならないということだ。そしてジャスミンは昨日、天使共同体に味方するとされる天使によって連れ去られた。それはつまり、諌那自身が共同体の拠点に出向かねばならないということ。天使を神聖視する過激集団と、もしくは天使そのものの攻撃の巻き添えを食らうかもしれないということだ。
 琢野が昨日雪菜に語ったこの身の安全が所詮口先だけだということくらい、その場で見抜いていた。それを見抜いた上で、自分は此処に来ることを望んだのだ。
 諌那の言葉に、琢野は口の端だけで微笑んでみせた。

「偉い偉い。察しのいい大学生は違うね。どうだい、卒業したら僕の片腕にでも」
「考えておきますよ」

 適当に答えながら、とりあえず諌那は床に散らばった報告書を纏めるために屈みこんだ。



* *



 一旦帰宅して死ぬように眠って、起きて一番に再び駆けつければ、そこは更なる惨状になっていた。
 人の数は、多い。地面に幾つも穿たれた小型のクレーターと、それを埋め尽くさんばかりに散らばるコンクリの瓦礫。それらを片付ける民間人と官人、そして地面に横たわった人間の身体。生存していた人は全て病院に搬送されたのか、横たわった者にはみな全身を覆うように毛布が掛けられていた。
 いったい何人が死んだというのか。考えて、雪菜は自分の足が止まっていることに気が付いた。そんな自分を叱咤して、地面に転がる瓦礫を拾い別の場所に移す。ここに居るのは自分のように瓦礫の撤去を手伝う者と生存者を探す者、そして死者だけだ。
 しかし、生存者は。

(もう出てこないでしょうね)

 瓦礫の塊、否、昨日までは百貨店だった建物を見上げ、雪菜はどこか淡々と思考した。思った以上に身体の疲労が抜けていないらしく、手足が思うように動かない。瓦礫を運ぶ手を止め、改めて百貨店を見やった。
 見えるのは、ただただ、瓦礫。砕かれたコンクリートばかりだ。もし仮に爆発が起こった時点で生存者が居たとしても、もう生きて居ないだろう。ぎっしりと詰められた瓦礫の中では、多分、原形を留めてすらいない筈だ。
 知らず、ため息が漏れた。いったい何人が犠牲になったのかと思う。そしてジャスミンはどうなったのだろう。
 ジャスミンは、連れ去られた。もし自分がただの人間だったなら、あの状況をそう判断しただろう。しかし、自分は普通ではない。あの瞬間の二人の思考を、しかと聞いていたのだ。

(殺される、か。まあ、天使だって知られたら、ジャスミンは確実に殺されるわね)

 殊に今となっては、だ。現時点で何名の遺体が発見され、何名が行方不明になっているのか想像もつかないが、今回の犠牲者は三桁を下らないだろう。ひょっとしたら、ひょっとしたら四桁に届くかもしれない。
 まして遺族の数ともなれば、犠牲者の何倍に届くやら。その遺恨は、恨みは天使に向けられる。ここに姿を見せた天使のことは、数多くの生存者が目撃している。夜空に舞う、光の翼を携えた天使の姿。その衝撃は大層なものだろう。故に遺族の敵意は、人間ではなく天使に向かう――――最初の爆発は、紛れもなく人間の仕業だというのに。
 爆発によって周囲の注意を引き、天使に力を振るわせる。それはまるで、天使を意図的に矢面に立てているようではないか。

(考えすぎかしらね)

 自分の思考に、雪菜は頭を振った。今回のこれは、天使を印象付けることで自分たちの、天使を擁護する立場の人間を増やそうという魂胆だろう。絶対的な力を見せ付ければ、少なからずの人間がそちらに靡く。勢力が増せば、もっとおおっぴらに活動できるようになる、もっと声高に自分たちの主張を唱えることができる。
 今度のテロの目的は、所詮そんなところだろう。
 止まっていた手を、足元の瓦礫に伸ばす。コンクリートから飛び出した鉄芯を握ったところで、後ろから声を掛けられた。

「宮下先輩?」

 聞き覚えのある声だった。
 雪菜は振り返り、声の主に向き直る。

「綾小路君? どうしたの、その怪我」

 目の前に立っていたのは、大学の後輩、綾小路海人だ。彼はいつもどおりの動きやすそうな服装だが、額や二の腕など、所々に包帯が見える。滲んだ血は既に変色し、うっすらと黒ずんでいた。
 海人は運んでいた瓦礫を足元に下ろし、肩に掛けた手ぬぐいで汗を拭った。よく見れば、その顔には疲労の色が濃い。目元にはうっすらと隈が浮いていた。

「テロに巻き込まれたんですよ。幸いにもこれだけで済みましたけどね」

 笑いながら言って、そういえば、と言葉を続ける。一瞬浮いた笑顔は、すぐに消えた。

「先輩たちは大丈夫でしたか? 諌那と、あとひとり居たと思ったんですけど」
「あら、知ってたの?」
「見えたんですよ、たまたま。神無月が言ってませんでした?」

 雪菜は首を横に振り否定の意を示す。
 海人は首をかしげた後、まあいいや、と言って改めて雪菜を見た。

「それで、神無月の奴は無事でしたか?」
「ええ。とりあえずは、だけどね。神無月君のことが心配?」
「心配、っつーか、宮下先輩が働いてるくせにどっかで寝てたらとりあえず張り倒そうかと思いまして。いや、俺、徹夜ですし。真面目な話」
「あら、徹夜なの? 大丈夫?」
「ええ。死なずに済んだんですから、せめて死者を弔うのが礼儀、っつーか責任ですね」
(生き延びた責任、ね……)

 胸中で反復し、諌那の友人であり、自分に好意を抱いている後輩の顔を見る。その瞳はこちらを向いておらず、瓦礫の山を、百貨店跡を見上げていた。その顔に照れや驕りのようなものは何もない。本心から、この後輩はそう思っているのだろう。

「酷いですね」

 ぽつりと、海人が呟いた。
 雪菜は後輩と同じように百貨店跡を見上げる。辛うじて建物の影を成してはいるが、いったいそれもいつまで持つのだろう。いつ全てが崩れてもおかしくないと、そう思えた。

「そうね」
「いまにも崩れそうですね」
「私もそう思うわ。けど、逃げるわけにも行かないわね」
「なんでですか?」

 きょとんとしたように、海人。
 雪菜は周囲を見回して、うん、と頷いた。

「無駄でしょうけど、まだ生存者が居るかもしれないし。それに、ひとりで逃げるわけにも行かないでしょ?」
「なるほど」

 海人は苦笑。釣られて、雪菜も苦笑した。
 と、海人がテロの現場付近に居たということを思い出し、とある疑問が脳裏をよぎる。

「そういえば綾小路君、君は天使の姿、見たの?」
「見ましたよ」

 なんでも無さそうに、海人は答えた。
 ただ、その胸中が、すっと醒めたことに雪菜は気付く。

「見ましたよ、ちゃんと」
「綾小路君?」

 知れる海人の胸中は、果てしなく静かだ。だがその静けさは、まるで地底湖。光も差さず風も吹かず、ただ暗い暗い水の溜まり場。
 自分が、軽く青ざめているのに気付いた。
 しばらくして、ようやく、海人のその胸中を悟る。

「そんなに憎いの? 天使が」
「え? そりゃ――そうでしょう」

 答える顔は普通。何を当然、と言わんばかりの呆れを含んだ表情。口調もいつもと、キャンパスで交わす会話と変わりない。
 しかし海人の心は、いまだ波風一つ吹かない不動の暗闇。
 初めてだとは言わないが、自分の異能を疎ましく思う。表面からでは窺えない心の本音を、一片とはいえ知ってしまう自分の異常が忌々しい。

「だって天使ですよ? 人類の天敵、歩く火薬庫、亜人。俺たちの敵ですよ、天使は」

 きっぱりと言い放った海人。

「言い切るん、だ」
「当然ですよ。擁護派の中には人間と天使は意思疎通ができるだなんて寝言ほざく馬鹿が居ますけどね、俺はそうは思いませんよ。いや、そんなことが仮にできたとしても、やっぱり天使は敵ですよ。一緒にいることなんてできやしない」
「なんで? 私たちが天使と共生できないのは、意思疎通ができないからでしょう?」
「そんなの最初の理由に過ぎませんよ。本音はもっと実情的です。なんてったって、天使は何の道具も持たず、何の準備も要らず、こんなことができるんですから」

 海人は視線を下げ、路面に穿たれたクレータを見やる。

「あいつらはこんなことを簡単にやってのけるんです。そんな奴らと一緒に暮らせますか? 無理でしょう? 俺は嫌ですよ。人間だってただの気まぐれで人を殺すんだ。なのにあいつらときたら、気まぐれで街を滅ぼせるんです。なんだかむしゃくしゃするからこんな街潰しちまえって思って、実際に潰せる奴が隣を歩いてるなんて、絶対に嫌ですよ」

 声に含まれていたのは、静かな恐怖。絶対的に静まり返った海人の胸の内が、その実、天使に対する果てしない恐怖の裏返しだということに雪菜は気付いた。
 海人は誰にともなく首を横に振った。ふぅ、と疲れた吐息を一つ。

「意思疎通なんて関係ないんですよ。天使は、これだけのことができる。そして俺たちはそれを防げない。対立する理由は、それで充分です」

 言い放った言葉には、断定的な響きが強い。これが自分の結論、曲げることのできない主張だと体現しているような声音だ。
 海人の考えに、自分よりもよほど深いことを考えていた後輩の意見に何も返せないで居ると、それを悟ったか海人は照れたように笑ってみせた。

「なんか我ながら右翼みたいですね。忘れてください」

 そう言い残し瓦礫の撤去に戻る海人の背中を、雪菜は無言のまま見送った。
 意思疎通は、関係ない。
 予想だにしなかったその言葉が、重く頭の中で繰り返されていた。



* *



 時間が経つにつれ、対策課の中は慌しくなっていった。一〇時を廻れば部屋の中はスーツを脱いだシャツ姿の課員で一杯になり、指示とも怒号ともつかぬ声が引っ切り無し飛び交う空間と化していた。その合間を縫うように鳴り響く電話も、二度目のコールを許さない迅速な課員に対応される。
 まるで戦場のようなその様を、諌那は部屋の隅の空きデスクで眺めていた。備え付けのパソコンのモニタに表示されているのは表計算のソフト。諌那は先ほど渡された用紙を参照しながら表を確実に埋めていく。
 数分単位で刻々と膨れ上がる予想死亡者数、瓦礫撤去に必要な人的・経済的費用、また今回のテロによって浜松市が被った経済的損失、その他諸々。
 次々と渡される資料をデータベース化している傍ら、諌那はぐるぐると思考を廻していた。
 琢野の台詞が決定事項だったなら、自分がジャスミンの説得に派遣されるまであと八時間しかない。迷っている暇もないし、そもそも自分はそれを承知で此処に来たのだ。迷う権利などない。それはわかっている。 しかし。

(天使は、何処に居る? 僕は天使をどのように考えているんだ?)

 その答えが、未だに出ない。天使を仰ぎ称えるつもりはない。また、見下し貶すつもりもない。ならば自分は、天使をどのような位置の存在として扱おうとしているのだろうか。

(……わからない。でも)

 その答えが重要だと、何故か思う。いや、理由など単純。自分はジャスミンを説得しようというのだ。そこに嘘があってはいけないし、偽りがあってもいけない。琢野から受けた解説によれば、天使は心を読むのだという。意思を直接交換し合い、それを意思疎通の手段とするのだと。
 最初は信じられなかったが、レイカに思うことを悉く言い当てられ、出会ったばかりのジャスミンの反応を思い出し、納得するに至った。そして同時に、自分に課せられた仕事の困難さを悟った。

(つまりは嘘がつけないってことだ。どんな言葉を並べたところで、結局その向こう側にある本心を読み取られてしまう)

 しかし、それでも相手を欺く方法が無い訳でもないと言ったのは、こちらの世界を望んだ天使、レイカだ。彼女が言うところによれば、強く思わないことで相手に知られるのを防げるのだという。

(でもそれじゃあ、説得にはならない。本心の見えない、違う、本心と考えても差し支えのない心意気が伝わらない以上、相手はこちらの意見を嘘と見なす。嘘の説得に、虚構と知れた条件を誰が飲むっていうんだ?)

 わからない、答えが出ない。
 苛立たしく、諌那は机の隅に手を打ち下ろした。ばしんと音がするが、その音はあっという間に喧騒の波に消える。誰も気付かなかった。

(糞っ)

 胸のうちだけで舌打ちし、鈍く痛む掌を反対側の手で包む。
 ジャスミンならば、という甘い考えがあるのも事実だった。それが余計に苛立たしい。彼女ならば、ひょっとして嘘と知りつつ、こちらの説得に応じてくれるのではないか。そんな甘い考えが、確実に自分の中に存在している。
 思えば、琢野に躊躇い無く着いて来これたのも、その考えのせいだったのかもしれない。

(でもそんなの、卑怯だ)

 嘘と知りつつ応じてもらった説得など、説得ではない。それは譲歩というものだ。しかもそれを当てにしつつ交渉を臨むなど、自分が譲歩されるべき立場だと、天使は人間よりも上の立場に居るのだと暗に認めているのも同じだ。
 それは出来ない。絶対に。

(僕は、天使のことをどう考えているんだ?)

 なんでもいい。ただ結論が欲しかった。自分は天使をこう思っていると叫べるほどの後ろ盾が欲しかった。それが、ジャスミンと話し合う前の最低条件だと思った。

(ジャスミンは、天使。それはいまさらどうこう言うことじゃない)

 レイカに改めて宣告されたとき、驚かなかったと言えば嘘になる。だが、信じられないと言っても嘘になる。覚えた衝撃は自分で思ったものよりよほど小さくて、我ながら拍子抜けしたほどだった。

(僕にとって、ジャスミンが天使だったってのはどうでもよかったってことか?)

 違うわけではないのだろう。驚きを覚えたのは確かだ。ただ問題は、その驚きがあまりにも小さかったということ。

(僕は天使をどう思っている?)

 再び、自問。その答えを出さなければ、自分が交渉に臨む資格など無い。
 天使――――天使。どう思っているのか。根拠とするのはいままで蓄えてきた知識。躍起になって集めつづけてきた資料。
 ふと、違う、と思った。

(判断材料なんて、明快じゃないか)

 自分が何故天使にここまで興味を持ったのか。
 自分が何故天使をここまで考慮するのか。
 その原因になった過去が、一つある。
 それは、言うまでも無く。

(名古屋の消滅。この国で起こった、最大の天使災害)

 被害の規模から災害に分類される、天使の破壊活動。その唯一の生き残りとして、自分は天使をどう思うのか。

(思い出せ。あの天使を。名古屋を滅ぼしたあの天使が、あのとき何をしていたかを)

 何をしたのかも、何をされたのかも覚えていない。だが確実に、あの時何かがあったはずなのだ。自分が天使に対し、執着と無関心のどちらでもある感覚を取ってしまう、その原因が。
 それを思い出せば、少しぐらい自信がつくのかもしれない。後ろ盾にはならなくとも、根拠ぐらいにはなってくれるのかもしれない。
 諌那は藁をも掴む思いで目を閉じた。耳に届くざわめきが邪魔だが、そんなものを気にする余裕すらない。

(思い出せ、思い出せ思い出せ思い出せ! 神無月、違う、武藤諌那は何を見た?)

 自らを叱咤しながら、諌那は自分の記憶を過去初めて、真剣に辿っていった。



* *



 瓦礫の除去を手伝いながらも、海人の言葉が頭から離れなかった。
 雪菜はふう、と息を吐き、現場から少し離れた位置へ移動する。そろそろ昼食も取りたかったし、休憩もせずこんなことを続けていたら、いつ熱中症で倒れてもおかしくなかったからだ。

(言い訳、よね)

 胸中で呟く。わかっている。現場を離れたかったのは、海人の言った一言があまりに気になって、作業が手につかなかったからだ。
 ふらふらと、何も考えず、昨日買い物帰りに三人で立ち寄ったオープンカフェに足を運ぶ。注文を取りに来たウェイターに簡単な昼食を注文し、軽く周囲を見回した。
 昨日あんなことが、ここ数年でも最大規模となるテロがあったというのに、それでも街はいつもどおりだ。大通りには人が溢れているし、繁華街からは賑やかな喧騒が聞こえている。昨日どれだけの人数が犠牲になったのかは知らないが、それに対し喪を示す気配すらない。
 この街にとっては、慣れてしまったことなのだ、既に。テロも、その後処理も。
 それを責める権利があるかといえば、無いのだと思う。無論一度もテロが起きない月もあるが、多い時には週に二度ほどテロが起こるときさえある。その度に喪に服し、店を閉めていたら生計を立てることだって難しいだろう。
 犠牲者を悼みながら、それでも昨日と同じ生活を。街が求め、市民が求めたのは、そんな実情的な対処だった。
 先に運ばれてきた烏龍茶で口を湿し、雪菜は海人の言葉を思い出す。頭から離れない、その言葉を。

(意思疎通は、関係ない)

 そんな結論、考えたことも無かった。雪菜はこれまで、天使と敵対する原因は意思疎通が出来ないことだと頑なに信じていた。いまでもそうだと思っているし、それは逆から言えば、意思疎通が出来るなら天使と共に生活することが出来るということだとも思っている。
 つまり自分は、自分ならば彼女たちと共に生活することが出来る。雪菜は逆の見地からその持論に至っていた。そしてその持論は、昨日証明されたはずだったのだ。

(浅はかだった? 私が)

 おそらく、イエス。  天使は危険である。理由は、その力にあったのか。
 そうだろう、と思う。考えてみれば、少しでも深く考えてみれば、そんなことはすぐに思い当たる事実だ。火は、その扱い方を人間が知ったが故、人間にとって限りなく有益な道具となった。だがそれは、決して火の危険性が無くなったということではない。火は生活に熱を与えると共に家を焼き、人を殺しうるのだ。まして相手は天使。意志を持たない訳でもなければ、感情が無いわけでもない。
 その力が、意思疎通が出来るというだけで安全になるものなのか?

(でも、そんなのは、嫌)

 感情論だと、冷静に判断している自分が居る。
 しかし理性は、それを責めようとはしなかった。意思疎通が出来れば、人は天使と共生できる。いや、出来なければいけないのだ。

(そうでなければ、私は)

 私は――どうなるというのか。その結論に、自分ですらも気付こうとしていなかった結論にいま至り、雪菜はさっと顔を青ざめさせた。
 言葉は話せる。されど意思も読める。
 自分と天使の違いなど、その外見と、力の有無でしかない。
 それは大きな違いなのだろうか。それとも紙一重の違いでしかないのだろうか。

(こんな違い、瑣末ごと)

 空を、馬鹿馬鹿しいほどに青い空を見上げ、雪菜は思う。
 外見なんてみんな違う。人に危害を加えるなんて手があれば足りてしまう。
 だから、この違いは、無視できるぐらいに許容範囲内の筈なのだ。

(もし世界が、天使というイレギュラーを受け入れられないのだとしたら)

 たぶん、それが本音。
 意思疎通が出来るならば天使と一緒に暮らせるとだとか、天使と敵対する必要は無いだとか、そんな偽善ぶった論理は所詮飾り。
 剥き出しの本心は、おそらく。

(私という異端さえも、受け入れてくれるはずが無い)

 いつしか、テーブルの上の手を強く握り締めていた。かちかちと、噛み合わない歯根が情けない音を鳴らしている。自分でもわかるほどに、顔からは血の気が失せていた。
 その結論は、自分の破滅。あるいは、自分を取り囲んでいる世界の崩壊だ。
 いまは、大丈夫。自分が異端であるということは誰にも知られていない。だから自分は、まだ普通であるとして世界に認識されている。だが仮に、自分の異端性が露見したらどうなるというのだろう。
 何も起こらない、とはとても考えられない。諌那でさえ、ただの人間でありながらあれだけの責めを受けたのだ。ただ生き残ったというだけで、周囲の怒りの槍玉に挙げられたのだ。
 況や自分は、だ。意思が読める。それは天使と意思疎通が出来るということで、つまるところ天使の亜種と受け取られかねないということではないか。事実など、嘘でも虚ろでも疑惑であっても一向に構わない。周囲が怒りを、天使に対する憎しみをぶつけられる対象であれば、全ては瑣末ごとに変わる。自分は、その典型的な例示を知っているではないか。

(私は、自分のためにジャスミンに優しくした?)

 自分が世界に受け入れられるために。
 自分の身を守るために。
 ジャスミンに対して行った計らい、無意識のうちに施した好意は、全てこの、自分が世界から弾かれるかもしれないという恐怖から行った自己保身の結果なのか。

(違う。違う違う、違う!)

 自分の身体を力強く抱きしめ、雪菜は胸中で叫んだ。
 何も違わないという、冷めた理性の結論を悟りながら。



* *



 確かそれは、塾に行く途中。
 のんびりしていたら時間が厳しくて、いつもは使わない近道を駆けていた。ビルの隙間に走る道は細く、いつも薄暗い。母親は怖い人が出るからといって通ることを禁止していたが、しかし塾に遅れればもっと怒られる。背に腹はかえられなかった。
 昼間なのに、通行人は誰も居ない。
 だからわき目も触れず走って走って、不意に耳に音が届いた。
 それはどご、という、なんだか訳のわからない鈍い音。そしてせせら笑う声。一人の者ではない。数人が誰かを笑っているような、それか貶しているような、そんな笑い声。
 気になったけれど足は止めず、先を急いだ。しかし気まぐれで首を横に向け、たまたまそこからその現場が見えた。いや、見えてしまった。
 一人の青年が、地面に座り込んでいた。ぐしゃぐしゃになった髪の毛と、ぼろぼろになったその身なり。男は俯いて、小さく肩を震わせていた。
 そんな彼の前に立っていたのは、数名の若い男女。彼らは顔に嘲るような笑みを浮かべ、粘質な視線を彼に向けていた。
 彼らの口元は加虐の歪み、瞳には愉悦の輝き。
 何をしているかはわからなかった。しかし、彼が怖がっていることは簡単に知れた。
 彼は自分の身体を抱きかかえながら、がくがくと振るえている。それは本当に怖がっているようで、自分を押しつぶす圧倒的な何かに必死で抗っているようだった。
 そんな彼を見て、男たちがはん、と馬鹿にしたような声を吐く。続いて並べられた言葉はうまく聞き取れなかったし、耳に届いた言葉もなんだか妙に浮いていて、それが本当に自分たちが使っている言葉なのかと疑問に思ったほどだった。
 男たちの言葉に、彼がびくりと身体を震わせた。うう、と、噛み締めた口からうめき声が漏れている。
 それは男たちの加虐心を煽るだけだったようだ。男の一人が調子に乗って、がつ、と靴底を男の肩に押し当てる――いや、彼の肩を蹴りつける。
 変な音が、男たちの笑い声に混じって耳に届いた。
 が、と彼が息を吐く。身体がまたびくりと震え、あ、あ、と途切れ途切れなうめき声が紡がれる。
 骨が折れたのかもしれなかった。



* *



 正午をもって、琢野の宣言は公式なものと挿げ代わった。

「さて、それじゃあこれからどうすればいいと思う?」

 対策課の隣に、付属品のような形で設けられた課長室。いわば琢野の私室の中で、諌那は琢野に尋ねられた。琢野はテレビの画面を消し、ソファの上で腕を組み正面を、対面のソファに座ったこちらを見ている。その背後にはいつもの如く、秘書然としたレイカの姿。

「どうすれば、って、何故僕に聞くんですか?」

 部屋の中には、諌那を含み三人の姿しかない。テレビに向けていた顔を琢野に向け、諌那は問い返す。いま消されたばかりのテレビでは、首相官邸における公式発表が中継されていた。そこで首相が述べた言葉は、要約すればまさに先ほどの琢野の台詞そのものとなる。
 昨日のテロは日本国内におけるテロ行為としては過去最大のものであり、その原因の撤去には最大の努力を云々。会見の詳細は記憶に残らなかったが、やけに早すぎる対応だなとは思わされた。
 琢野は腕を組み、ふむ、と言う。

「あれだよ。ほら、専門家に意見を聞いておこうかと」
「誰が専門家ですか。僕はただの学生ですよ」
「ただの学生、か。天使に助けられ天使を助け天使の説得にあたろうと決めたただの学生だね」

 琢野の台詞に、諌那は顔をしかめる。
 それを見てか、ああすまない、と琢野は謝罪した。しかしその声にそんな響きは微塵も無い。

「家庭環境が複雑でね。どうにも性格が歪んでしまった」
「いいですよ、別に。それで、何故、僕に尋ねるんですか?」
「言っただろう? 専門家の意見を聞いておく、と」
「だから、僕は」
「確かにただの学生だがね、これからは違うよ。君は日本で二番目、世界では四番目の交渉者になるんだ。ただの学生、ではもう済まされない。覚悟してくれ」

 笑みを浮かべたままの琢野の台詞には、その反面、拒否を許さぬ響きがある。
 口を開こうとして、しかし何を言うべきか思い当たらなかった諌那は、黙って琢野の台詞を促した。それでいい、と満足げに頷く琢野。

「別に難しいことを聞くわけじゃないよ。単に判断して欲しいだけだ」
「何をですか」
「昨日のテロの象徴にして天使共同体旧名古屋支部の現偶像、天使・ビンテージの処罰さ」
「え」

 諌那は思わず声を上げた。だが琢野はそれ以上何も言わず、黙している。
その代わりとばかりに、後方に控えるレイカが一歩前に出た。いつの間に用意していたのか、その脇には薄いファイルが見て取れる。
「本日、二〇一五年八月九日現在で判明している天使・ビンテージへの罪状は主に三つ、殺人・殺人補助・器物損壊です。他にも往来妨害など、あまり目立たない罪状が山ほど。直接的な犠牲者はおよそ二十七名。過去において彼女が参加したテロは静岡で二件、愛知で一件起きています。また、間接的な犠牲者数は、いまだ全数が把握できていません」

 淡々とファイルを読み上げるレイカ。
 あまりといえばあまりの内容に、諌那は息を飲んだ。
 さて、と琢野が言う。

「以上が被告の罪状だ。さて、君は彼女にどんな判断を下す?」
「どんな、って」
「二十七名を直接殺害し、その数倍に及ぼうかという人間の殺害を援助したんだ。普通なら間違いなく死刑だね。当然だけど執行猶予なんてつきゃしない」

 まるで愉しんでいるかのような口調。少なくとも、その台詞が示す重みなんてもの、そこには皆無だ。

「殺すんですか、あの人を」
「人じゃないよ。天使だ」

 短く、琢野は断言した。
 人ではないと言われたはずのレイカは、しかし顔色一つ変えない。嫌悪の気配すら見せない。純粋たる現実としてその事実を受け入れているのか、それとも。

「それに殺すんじゃない。裁くんだ。でも、それには一つ問題がある」
「問題?」
「そう、問題も問題、大問題さ。いいかい? さっきも言ったけど、ビンテージは人間じゃない。だからこそ、僕たちは彼女を裁けない。裁くことを許されていない」
「許されていない?」

 聞きなおし、答えを聞く前に、ああ、と納得した。
 琢野は満足そうに頷く。

「気付いたね、そういうことだ。彼女は人間じゃない。そして僕たちの法律は人間以外を裁くことを前提にしていない」

 なるほど、確かにその通りだ。かつて欧州では動物を裁判に掛け絞首刑を言い渡したという前例があるが、日本では、少なくとも近代国家としての法整備が成された時点から今現在に至るまで、動物が裁判に掛けられたという話は聞かない。
 それに、と琢野は続けた。

「言ってしまうなら、彼女には人権すらない。人権は文字の如く人の権利だからね。人ではない彼女に、人権というものは存在しない。だからそういった意味でも、彼女を裁判に掛けることは出来ない。正確に言うなら、彼女には裁判を受ける権利が無い」

 おもむろに琢野は腕を組替えた。誰にでもなく、軽く頷く。

「そう、彼女には、天使には人権が無い。僕たちの社会は、天使の人権を保障しない。君に尋ねよう。果たしてそれは、許されることだと思うか?」
「いいえ」

 反射的に否定する。
 諌那は自分の反応に驚いて、だがすぐに、自信を持って頷いた。

「許されません」
「何故?」

 琢野の瞳が細められる。
 それを見て、諌那は自分が試されていることに気が付いた。自分が下した結論、その理由が如何なものであるのか、ということを。
 自分の結論が、琢野のそれと同じ結末であるということには自信がある。ならば、その結論の理由は何なのか。結論を結論たらしめた根拠とは何なのか。
 琢野は、如何にしてそれを結論するに至ったのか。

(なるほど、そうか)

 レイカが、先ほどの琢野の発言に何も反応しなかった理由が知れた。
 琢野は悟っているのだ。天使の人権に対する自分の見解と、その根拠を。その根拠を正しいと信じるに足る理論を。そしてそれは、当人であるレイカにとっても認められる、納得のいくものなのだろう。
 果たして自分は、それに順ずる理論を得られるだろうか。

(違う、それじゃあ順序が逆だ)

 己の中で疑問を否定。

(この人に合わせた理論じゃなくて、僕の、僕だからこその理論。求められているのは、それだ)

 見れば、琢野の笑みの中、その瞳に若干の苦笑が窺える。
 どうやら正解のようだ。さあ考えろ、と自分に活を入れる。
 最初の質問は、ビンテージという天使に対する処罰。
 派生した問題が、天使という、人間ではない種族に対する権利の有無だ。

(天使に権利が無い? そんなのはよほどの与太話だ)

 何故。自らにそれを問い詰める。

(権利は天賦のもの。だとしたら、それは規定するものじゃなくて存在するもののはず)

 規定するから存在するのではなく、存在するからこそ規定する。
 たとえ規定など無くとも、それが存在するという事実は揺るがない。
 ――考えるまでも無いことではないか。

「天使は生きている。殺せば死にます。だから、権利を保証しないのはおかしいです」
「それは生存権のことかな?」
「いいえ、権利という概念そのものに関してです。生存権なんてその一部に過ぎませんよ」

 きっぱりと諌那は明言した。意識が明瞭クリアになる。自分の主張が、理論が纏まってゆく。
 琢野は愉快そうに目を輝かせた。しかしだね、と弾んだ声で尋ねてくる。

「この社会は、我々の先祖が我々の先祖を守るために作り上げたシステムだ。だからこそ社会というシステムは我々を守るために機能するし、それを崩壊させる恐れのあるものを容認することは出来ない。違うかい?」
「そうですね。でも、それは問題になりませんよ」
「ほう?」

 諌那は顔を上げた。視線を、琢野の肩を越してその後ろのレイカへと向ける。
 この世界に従属、否、所属した天使は、その顔にかすかな驚きを携えていた。それは、自分の結論が、論理が間違っていないという何よりの証拠だと思えた。
 諌那は、確信と共に言葉を続ける。

「たとえ社会というシステムが天使の権利を認めないにしても、それは存在するんです。ならばそれを否定するのは愚でしょう。たとえ犯罪者であっても、社会はその人権を保障するんだ。元から存在するものを一も二も無く否定するのは、やはり間違っています」
「認めなくとも保証する、か。なるほどね。しかしそれは先の問題を解消していないよ」

 曰く、社会は社会を構成するものを破壊しかねない要因を認めることは出来ない。
 諌那は頷いた。

「その通りです。ですが、そも問題が矛盾しています」
「へぇ、何故だい?」
「天使が危険とみなされている要因は二つですよね。違いますか?」

 窺うように諌那は琢野を見た。天使殺しの公僕は、にこやかな笑みを浮かべたまま何も発さない。
 それを肯定と受け取り、諌那は続けた。

「それは意思疎通の不可能性と、力翼という非物理学的力の保有です」
「非物理的というのは間違っているけどね。まあ、続けてくれ」

 琢野の些細な注釈を聞き、諌那は改めて頷いた。

「まず意思疎通の不可能性ですけど――――正確には一方的な意思疎通、ですね。天使には僕たちの示したいことが知れる。けれど、僕たちは天使の意志を知る術を持たない」

 ふぅ、と自分を落ち着かせる意味で息を吐く。

「これは、こちら側の一方的な勘違いと天使側の不理解によるものです。天使にはちゃんとコミュニケーションを取る手法がある。単にそれを僕たちが理解できていないだけで、天使に意思疎通手段が無いと決め付けたのは明らかな間違いです。違いますか?」
「さあ、どうだろうね。でも君がそう思うならそうじゃないのかな?」

 はぐらかす琢野。しかしその顔に浮かんでいるのは苦笑すら含んだ微笑みだ。
 諌那は続けた。

「僕たち側の間違いはいま述べた通りですが、問題はそれだけではありません。天使たちの側にも解決すべき問題があります。僕は大学で、いいえ、中学校に入った頃からずっと天使について独学で勉強してきました。最近は論文にだって目を通すようになっています。同世代の中じゃ、天使に関してかなり詳しい方も自信だってあります。だから言いますが、天使は話すことが出来ない、その見解は間違いですね」

 琢野に向けていた視線を、再びレイカに。
 その視線に気付いたか、レイカは小さく苦笑した。

「もちろん此処にレイカさんという証人が居るから言っているんじゃありません。四年前のアメリカ、でしたっけ。ケンタッキー州の郊外で天使が発見・射殺されましたが、その遺体は比較的損傷が少なく、解剖に廻されたという事件があったはずです」
「よく知っているね。あれはマスコミが不思議と注目しなかったから、現地でもひっそりと扱われたし日本でははるか下火の話題しか生まなかったはずだけど」

 琢野の台詞に、僅かながら感嘆の響きが混じる。

「そうですよ。少なくとも日本のゴシップ誌で取り扱った冊子は無く、専門の科学誌に少しだけ載っただけです。でも解剖したのが公的機関だったからでしょうかね。その内容は、少なくとも信用に足るもののはずです」
「ふむ。それで、解剖の結果はどうだったというんだい?」
「何も」

 短く、諌那は答えた。
 一旦呼吸をし、早まろうとする意識を押し留める。

「何も無い、と。骨格、筋肉、神経構造、エトセトラエトセトラ。その全てが人間のそれと酷似しており、肉体的には目立った変化は何も無いという結果でした」

 あるいはそれが、この事件の扱いが小さかった理由かもしれない。天使を殺して調べてみれば、それはまるで人間でした。それは社会にとってあまり面白くない結果なのだろう。
 天使は敵である。敵であるなら人間ではない。人間であってはならない。人間であっていいはずが無い。
 それが社会の本音なのかもしれない。
 巫山戯ふざけたことだと諌那は思う。

「その解剖結果を信じるなら」

 そう、と小さく頷く。

「天使にも声帯はあるということになります。ならば声を発っせない筈が無い」
「ならば、何故天使は言葉を喋らないと言うんだい?」
「声帯があって、それでも聞こえないというのなら、原因は二つしか考えられません。本当は話しているのか、話せるのに話していないかです」

 ん? と琢野が首をかしげた。

「後者はまだしも、前者はどういう意味かな?」
「天使の発する声が、僕たちの可聴域を越えているか下回っているということですよ。ですがこれは先の報告に矛盾します。人間とほぼ変わりない人体構造ならば、可聴域も人間とほぼ同じ筈ですからね。誤差があったとしても個人レベルの誤差の範囲内の筈です。ならば、可能性は残り一つ」

 自分の喉を、軽く指差す。

「話せるのに、話さない。話すことを知らないか、話そうと思わない、そういうことでしょう」

 そこまで言い、ふう、と諌那は息を吐いた。
 喋り続けるのは意外と喉が渇くのだと思い知る。考えれば、これほど延々と喋らされたことが過去にあっただろうか。

「話すことを知らない、ということはありえません。天使はヒトと同じ程度の知識をもっています。知識があれば個人で在るより団体で在ろうとするでしょう。そのほうが何かと便利ですからね、生きていく上で。集団を形成するために必須となるのが意思疎通の手段です。たとえ天使が言葉で無い方法での意思疎通手段を持っていたとしても、それは明らかに後世的なもののはずです。如何な器官も先天的に付属しているのではなく、環境に合わせ進化していった結果ですからね。言葉より先に言葉と同等以上の意思疎通手段を手に入れたとは、どうしても思えません」

 ならば、と諌那は己の言葉を接ぐ。

「考えられる可能性は一つ。天使は、何らかのルールの元において行動している。そのルールがつまり、言葉を使うな、ということ。違いますか?」

 確認は琢野ではなく、その向こうのレイカに向けたものだ。
 視線を向けると、驚いていたような彼女はふと我に返り、今度は軽い苦笑を浮かべる。
 ご名答、と満足そうに琢野が言った。

「その通り。彼らはそれを単なる倫理モラルだと言っていたがね。まあその辺のものだ」
「モラル?」
「ああ。言葉というのは何とでも繕える。そこに本意が含まれていようともいまいともね。彼らは進化の結果として思念の相互交換を手に入れた。それは嘘を含めない諸刃の刃だ。自分の意志を制御することで流れ出す情報を制御することは出来ても、そこに嘘を滲ませることは出来ない。ひどく不便だが、彼らはそれを誇らしいと思ったんだね」

 琢野は小さく肩をすくめた。

「相手を騙すことは良くないことだ。それはそうだろう。正直に在れ。それも正しい。でも生きている以上、知識があり欲がある以上、どうしたって奇麗事だけじゃ無理が出る。だから人は嘘をつく。現実に破綻を起こさぬためにだ。ところが彼らは特別な術を得てしまった。嘘を許さず、何処までも正直に在らせられる枷。これは素晴らしい、と誰かが思った。正直に在れ、正直に在れ、正直に在れ。何処が間違っている? これからはこの方法で会話しよう、ああ、言葉はなんて不便だったんだ、嘘がつけて相手を騙すことの出来る言葉というもの、そのなんと野蛮なことか! ってね」

 ははは、と琢野は声を上げて笑った。心底楽しいのか、まるで子供のように。
 瞳の端に涙さえ浮かべながら、続ける。

「彼らは純粋な言葉を得た代わりに、嘘という麻酔を失った。その結果が、家族集団による少数形成多数社会。彼らは気持ちを読まれても不快と感じないほどに強固な結束を得た代わりに、血を継ぐという意味以外での増えるという行為を放棄した」

 レイカが一歩前に出た。笑う琢野を静めるように、その震える肩にそっと手を添える。
 琢野は笑いを小さくしながら、その手に自分の手を添えた。哄笑はやがて収まり、おもむろに琢野は顔を上げる。
 その顔に笑みは無い。浮かんでいるのは、何故か、悲しさと悔しさだ。
 糞、と琢野は毒づいた。顔を歪め、吐き捨てるように先を続ける。

「なるほど、確かにそれも一つの選択肢かもしれないよ。ヒトは、僕たちは明日の寝床と食事を確保するために増え集まり社会を作った。集い集い集い続けて、その結果として軋轢が生まれ嘘という名の潤滑剤が不可欠な巨大な社会を作り上げた。それに対し、彼らは、集うことを放棄した。力と、思念の力と。どちらを先に手に入れたのかと考えれば、おそらく前者なのだろうね。考えてもみたまえ。彼らが振るう力は圧倒的だ。だがそれは、あくまで僕たちと対比した場合の話に過ぎない」

 諌那は頷いた。

「天使達の社会があるというのなら、そこに所属する天使達はみなその力を持っているということですね」
「その通り。彼らの社会ではその力を持つのが普通だ。思うだけで木を焼き土を吹き飛ばす、そんな力を持った個人がごろごろとしているんだ。そんな社会において、集うということは諸刃の刃になりかねない。人が集まれば当然のように衝突が生まれる。僕たちはそれを言葉でもって受け流すが、彼らにはそれが出来ない。衝突で振るわれた力は互いに尋常でない被害を与える。そんなことが毎日繰り返されたら、あっという間に個体数が減少してしまう」

 ふぅ、と琢野は疲れたように吐息した。大丈夫、と小さく呟く。それはおそらく、傍らのレイカに掛けた言葉なのだろう。
 言葉を受けたレイカは頬を緩め、琢野の肩に添えた手を放し、言葉もなく一歩を下がり定位置へ。
 その動作があまりに自然で淀みが無かったため、諌那は一瞬、レイカが天使だということを忘れそうになった。そのことに気付き、だからどうした、とまた思う。

(レイカさんが天使だから、だからどうだって言うんだ?)
「さて、話を続けようか。意思疎通に関する問題はおそらく君の解答が最適解ベストだ。残った問題は、彼らが振るう意思の力、力翼の問題だね」
「それは光の翼のことですか?」
「そうだよ。ああ、そうか、未だにそれに対する公式な名前は設定されていなかったのだっけ。まあいい。あの翼を僕達は力翼と呼んでいる。君も合わせてくれ」

 諌那は頷いた。
 よろしい、と琢野も頷く。

「あの翼から振るわれる力をどう管理する? それが一番の問題だ。意思疎通が出来ないなんていう理由は所詮飾りだからね。意思疎通が出来ない同族との遭遇なんて、過去に何回あったやら。しかも僕達と彼らとでは、一方的にではあるものの意思の伝達は出来ているんだ。江戸自体に来日した外来人との意思疎通に比べればどれほど容易かわからないよ」
「人が必死に頭をひねって出した答えをひどく簡単に済ませてくれましたね」
「ははは、まあ、気にしないでくれ。僕は別に天使が喋れる喋れないといったことを聞きたかったわけじゃないからね。僕が知りたかったのは君の意思だ。天使も生きている、だから天使の権利を無視するのはおかしい。それが聞けただけで満足だよ、僕は」

 琢野は苦笑にも似た笑みでそう言った。見れば、後ろのレイカも似たような笑みを浮かべている。
 騙された、とは言わないが、必要以上に語らされたことに気付き、諌那は顔をしかめた。考えれば、相手は天使に対処するために国が用意した専門機関の人間であり、片や当の天子様だ。自分の持っていた知識など当然持っているだろうし、一個人では手に入らない情報カードも入手している筈だ。それに比べれば、自分の持っている情報など取るに足らないものですらあるだろう。
 餓鬼みたく先走ったな、と思う。半分は自嘲、もう半分は照れ隠しだ。

「いやいや、いいんじゃないかな」

 突然、琢野が言った。

「それだけ君がこの問題に対して関心があるということじゃないか。秀でたからといって廻りに認められるわけでもないのに、そこまでこの問題に本気になれる、それは素晴らしいことだと思うよ」

 琢野の台詞の中には、いつものどこか巫山戯た響きも、全てを皮肉ったような響きも無い。その言葉が彼の本心からの賞賛だと悟り、諌那は軽い衝撃を覚えた。失礼な話だが、この人が嘘偽り無く人を賞賛するような事態が、一瞬信じられなかったのだ。
 軽い自失状態に居ると、それを悟ったか、琢野が顔をしかめた。その口を付いて出たのは、聞き慣れた人をからかうような響きだ。

「なかなか失礼な奴だね、君も」
「あ、すみません」
「まったく。僕は正直者のつもりだよ? 少なくともレイカに対しては」

 その台詞は冗談のつもりだったのか、それとも。
 どう反応していいのかわからず、とりあえず諌那はその戯言を聞き逃すことにした。



* *


 それは少女が自らの異常を認識し、絶望しかけていた頃の話。
 自分は違っている。そんな現実を最初は誇らしく思い、次に恐怖で泣きそうになった。
違っているということはみんなと同じということではなくて、それはつまりみんなの仲間にはなれないということ。学校の友達も優しかったはずの両親も、大丈夫だと言ってくれた兄でさえが自分の仲間にはなってくれないことなのだと悟った。
 結果として、いつしか自然と周りに距離を置くようになっていた。近くに居すぎれば自分の異常がばれてしまう。自分が仲間ではないと知られてしまう。けど距離を取っていれば大丈夫。喋ることも触れることも出来るけど、それだけで終わっているならきっと大丈夫だと、そう思っていた。
 当然の結末として、だんだんと壊れていった。
 所詮無理だったのだろうと、いまなら知れる。幾ら異常であろうと、幾ら他人の思惑が、下心が知れようと、結局自分は子供だったのだ。周囲に甘えないで居るのはあまりに過酷で、一人になるという恐怖はより深刻だった。
 雪菜は自らの過去に思いを馳せながら、すっかりぬるくなってしまった烏龍茶を啜った。皿に盛られたサンドイッチとサラダは未だ手付かずで、運ばれたときのままテーブルに置かれている。
 正午を廻り、ピークを迎えたカフェの客足も段々と減り始めていた。所々に空席が目に付くが、それでもまだまだ客の姿は多い。追加注文をするでもなく席を独占しつづけた自分は迷惑だったかな、と今更思う。かと言って動くつもりも沸かないのだから、どうしようもない。
 ふぅ、と雪菜は息を吐いた。内訳は自虐が半分、苦笑が半分だ。
 懐かしい、と思う。随分と長い間忘れていた、あるいは常にどこかで意識していた日々の記憶。当時の自分は今の私より穢れてなくて、真っ直ぐで、脆かったのだろう。

(あれは、確か)

 己の異能と、それに対する自分の見解に纏わる一連の記憶。その結末が訪れた場所と、その誓いを思い出そうと思考に没頭する。
 崩れそうだった自分が救われたのは、何の事はない日常の中。自分をこの世界に繋ぎ止めた誓いの言葉は、ひどく面白みの無い単純な一言。

(小学校のグラウンド? それとも家の近くの小さな公園?)

 場所はよく覚えていない。ただ、世界が赤く染まっていたことは覚えている。宵を目前に控えた夕刻。昼が終わり夜が始まろうとしたその時隙に、自分は世界の崩壊から救われたのだ。
 救ってくれたのは無論、神無月、ではなく、当時はまだ武藤だった諌那という少年。
 その時確か、自分はブランコを漕いでいた覚えがある。いや、それともただ座っていただけだっただろうか。周りには誰の姿も無くて、逢魔ヶ時に自分は一人だった。世界はやけに静かで、日常に付きまとう車の騒音も空を滑る鴉の鳴き声も不思議と聞こえない。
 ああ、だからそれは、ひょっとしたら非日常ファンタジーの話だったのかもしれない。
 自分は其処に長い間一人で居たらしい。その頃にはよくあったことだ。周囲に近づきすぎず、かといって離れることも出来ないで居た日々の、その無理を何とか浄化しようとするために必要だった一人の時間。
 呆、と宵に染まりつつある空を仰いでいた。時刻は親に厳しく制限された門限をとうに越えてしまっているだろう。帰れば、また怒られる筈だ。あるいは無視されるのだろうか。
 考えるべきことはある筈だった。しかし、浄化中の自分にそんなことが出来るはずも無い。
 どれだけ時間が経っただろうか。小さな音が、地面を踏む音がして、誰かが自分の非日常ファンタジーの中に姿を見せた。
 驚いて、弾かれたようにそちらへと顔を向ける。まずすべきは笑顔を作ること。次にするべきは相手を確認することだ。
 笑顔を作るのには成功。そして相手を確認して、拍子抜けした自分が居た。
 世界に足を踏み入れたのは、見知った少年だった。同じ小学校に通い、家が近く、親同士が知り合いというだけで、他には何も無い少年。名前だってうろ覚えだ。まるで女の子のような名前、としか覚えていない。
 実はといえば、雪菜はその少年が好きではなかった。むしろ嫌いと言っても問題は無かっただろう。何故かと聞かれれば、不思議と理由は無い。敢えて挙げるとすれば、一つ年下のその少年が、嘲るくらいに子供っぽく見えたからだろうか。
 仲良くしなさいと親に言われていた。なんだかんだで年に数度、親に付き合わされて会うこともある。そのときには言葉だって交わす。だが、学校で逢うことなど無い。
 考えればそれも不思議な話だ。いくら校舎の中で階が違うとはいえ、所詮六年生と五年生。昼休みに校庭へと繰り出せば、二度三度顔を合わせることだってあっただろう。
 なのに会ったことがないということは、つまり、顔を会わせてもそれを覚えていないということではないか。単に気付いていないということではないか。
 少年は、ここに自分がいたことに驚いたようだった。軽い驚きが知れる。
 しかし雪菜は、だからといって反応を返すつもりにはならなかった。浮かべた笑みを気だるげに消して、再び視線を空に戻す。空の大半が菫に染まっていた。
 浄化には、もう少し時間がかかりそうだった。
 少年は動こうとしなかった。伝わってくるのは疑問。どんな類の疑問なのか、其処までは窺い知ることが出来ない。
 ただ、純粋な疑問が疑問として伝わってくる。

「私の名前」

 何故か、呟いていた。少年がえ、と驚いたような声を上げる。

「知ってる?」
「うん」

 当たり前のように、少年。

「宮下雪菜、でしょ?」
「へぇ、覚えてるんだ」

 苦笑半分、驚き半分でそう返す。

「宮下さんは僕の名前覚えてないの?」
「うん。ごめんなさいね」

 取り繕う気も、弁解する気も起きなかった。むしろ馬鹿にするような口調で、そう言葉を返す。
 少年が不快に思うかと期待したが、果たして伝わってきたのは拍子抜けしたようなそんな感情だった。予想だにしなかった反応に、雪菜自信が拍子抜けしてしまう。
 やや諦めたような声で、少年は言う。

「仕方ないよ。僕だって自信なかったんだもん」

 ひどい話ね、と身勝手に思った。自分が少年の名前を覚えていなかったことを棚に上げて、少年が自分の名前に確信を抱いていなかったことに不快感を覚えた。そして、なんて我侭、と自分を嗤う。浄化中だからなのか、それともここが日常ではないからか。いつも被っているいい子の仮面とか、そのあたりのものが何処にも見当たらない。いったい何処に脱ぎ忘れたのだろう。
 少し、怒った。正体の知れない不快感と苛立ちが、何処からかふつふつと浮かんでくる。
 元はといえばいま自分は浄化中のはずで、周りの雑事から徹底的に切り離されていなければ意味がないのだ。それを破って私の世界に言葉通り土足で踏み込んできて、しかもその異邦人は私の名前に自信が無いと言った。なんていう侮辱。なんていう傲慢。

「私ね」

 少しだけ、見返してやろうという考えが浮かぶ。
 ああ、そう。年に数度顔を合わせて、その度にこんなことをしているではないか。相手はあくまで一つ下で、自分より子供で、幼くて、愚かで、真っ直ぐでなければならないのだ。
 そんな少年をひれ伏せさせるのは、私の役目。
 私は、常に少年の上に居なければならないのだ。

「凄いことが出来るわよ」

 思いつくままに、首をかしげた少年に自らの特別を曝け出す。自分にできること。少年には出来ないこと。自分にしかできないことを、隠さず、覆わず、自信と誇りを持ってひけらかす。
 本当ならば、隠さねばならないことであり忌むべきこと。最初に明かした兄に、絶対誰にも言ってはいけないと言われたことだ。
 しかし、まあ、それはあくまで日常の中の制約で。
 物語ファンタジーの中でなら、問題ないだろう。
 全て語り終わるまでに一時間は掛かったと思う。その間少年は一言も口を利かず、かといってつまらなそうといった顔も見せず、黙々と雪菜の語りに耳を傾けていた。相槌が打たれることはなかったが、口を挟まれることもなかったので、話しやすいといえば話しやすかったのだろう。
 延々と喋って、気付けばあたりは完全な闇。
 少年に返された感想は、ひどく不躾なものだった。
 ふぅん、と短く頷いた後、僅かに一言。

「凄いね」

 それだけなの、と思う。不思議なことに拍子抜けする自分と、笑う自分と、怒った自分が居た。なんて不思議ファンタジーな話。自分の気持ちが自分でもわからない。
 分からせなくてはいけない、と思った。自分がどれだけ凄いのかを、この愚直な少年に思い知らせなければならない。思い知らせて、少し、ほんの少しでいいから尊敬の眼を向けさせなくてはならない。
 そのためには何をするべきだろう。言うべきことは全部言ってしまった。この場で示せることは全部示してしまった。その反応が、先ほどの無礼な一言なのだ。
 あと、出来るとすれば。
 これからの日々で、ゆっくりと時間をかけて思い知らしめるしかないではないか。
 雪菜は決意し、そして立ち上がった。真っ直ぐに諌那の顔を見つめる。

「どうしたの?」
「なんでもない。帰るわよ」
「え?」
「ほら、早く。行くわよ」

 有無を言わせず、諌那の手を取って歩き出す。焦る少年を無視しながら、頭の中で打算が働く。とりあえず、諌那が迷子になって探していたから門限に遅れたとでも言い訳するとしましょうか。
 歩いて歩いて、諌那が抵抗する気配がなくなった頃にふと気付いた。
 いつのまにか、少年の名を思い出していたことに。

「諌那」
「なに?」

 別に用件があったわけではないので、聞き返した諌那を無視してまた足を動かす。
 諌那は首を傾げたまま、それでも文句もいわず追従してくる。
 その様子がどこか可笑しくて、自分でも気付かぬうちに、雪菜は小さな笑みを浮かべていた。





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