とてもとても長い時間
ただ一心に、あるのかもわからないココロから
大きな大きなその罪を
償いたいと、思っていた――――
月姫SS
「月下氷眼」
かん、かん、かん。のっぺりとした薄い音が、秋も最中の校舎に響く。
窓の外には深い闇。
日付が変わって久しくて、闇の切れ間に綺麗な月が見えていた。
僅かな彩光は窓ガラスを通り抜け、味気ない階段を照らし出している。
肩越しに振り返れば、延々と続くような錯覚を覚えるこの眼下に、細長く伸びた俺の影。そして途切れ途切れに床を汚す
真っ黒な粘液質のモノ。
ぽたりぽたりと続くそれは、間違いなく俺の腕から垂れていた。
血液。
はあ、はあ、はあ
息が荒い。心臓がケモノみたいに荒れ狂う。全身を駆けめぐる野性的な衝動。
俺の中に住み着いた誰かの声が、あるいは俺自身の本能が、一つの号令を発している――――殺せ。
「は、はは、ははは」
吐息が、笑いとなって周囲に漏れる。背中に感じるのは氷のような刃のケハイ。追っ手が、死の使い手が俺の罪を裁くために追ってきている。
……まあ落ち着けよ、急くんじゃない。俺は死ぬ。死んでやるさ。
妹殺しの汚名を背負い、
薄汚くも醜くも、最後の最後まで逃げ回って
これ以上ないってくらい残酷に、惨めに、情けなく
この命を
志貴の野郎にくれてやる。
……だから、その代わりに、お前は
俺の世話をするなんていう貧乏役を押しつけられたのは、コハク、とかいう女だった。
女と言っても、その当時は俺と同じくまだガキだ。幾度変わらぬ昼夜を迎えたのか、数えるのも飽きた地下牢での日々。
怒りと、憎しみと、苦しみと、慟哭しかなかったこの俺に、その女は笑いながら接してきた。
俺は、それを、バカみたいにはね除けた。
食事を持ってきた琥珀を殴り
検診に来た琥珀を犯した。
考え得る全ての仕打ちを、何も考えられないうちに施した。
何も考えられず、考える必要もないと思っていた日々。
理性なんてモノはカケラもなくて、ただケモノみたいに動いていた日々。
それに変化が訪れたのは、いつだったか。
なんのきっかけもなかった。俺はいつものように琥珀を殴り、いつものように琥珀を犯し、いつものように生きていた。
だけど、気付いてしまった。俺の中に、理性という概念が蘇っていることに。夜眠りにつけば朝に再び目覚めるように、
いつしか理性は俺の中で大きく膨らんでいた。
ただ、それを自覚するまではさらに少しの時間が掛かった。
自覚した原因は、確か、琥珀が驚いた顔を見せたから。
ぼろぼろになって。
涙すら飽きたと言わんばかりの醒めた顔。
いつもの琥珀のその笑顔に、一瞬、はっきりと感情が戻った。
息を飲んだその少女。驚愕。
その視線は、まっすぐに俺の顔へと向けられていた。
俺の頬を伝う、まっすぐな涙に注がれていた。
思えばあの時、俺の決意は固まったのかもしれない。
ずいぶんと久しぶりに、俺がシキから四季に戻った瞬間。
ああ、感謝している。
紅赤朱に成り下がったこの俺を、遠野四季に戻してくれたお前を、心から感謝している。
――――だから、俺は
罪を償わなければ、ならない。
かん、と床を鳴らして辿り着いたのは、屋上に続く扉の前だった。冷たく厚い、鉄の遮り。現世と常世を区切るなら、これより相応なものはない。
扉を押せば、夜気が風となって流れ込んでくる。夜も深まり、秋も深まった空気の胎動は、それ自体が鋭利な刃物であるかのように
俺の身体を行き過ぎた。
空を仰ぐ。
――――なぜだろう。涙が出た。
自分が騙されていると気付いたのは、いつのことだったか。
仮にも理性が戻ってそれほど経ったわけではない。
俺はおぼろげで胡乱な理性で、この少女が俺たち遠野の血脈を憎み会わせようとしていることに気付いてしまった。
多分、俺と琥珀は根本が似ていたのだろう。
理由もわからない霧掛かった推察の中でただ一つ確かなことは、琥珀には俺たちに復讐する権利があるということだけだった。
だから俺は、何も厭わなかった。
この俺自身が琥珀のピエロとなることに。
「あ……」
冷たい水が、枯れ果てたはずの心から搾りでた一滴の水が、頬をつたって地面に落ちる。
ただ、静かだった。耳鳴りも、俺じゃない誰かの激昂も、もう届かない。フェンスの向こうに町の営みが見える。煌々と灯ったネオンサインは、
無知な日常を生きる人間たちの糧だろう。人間は、少なくとも遠野みたいな化け物の血を引かない奴らは、無知な日常の中でしか生きることが叶わない。
別に、この血を奢る訳じゃない。
あいつらは、無知で平和な日常の中にあればいい。それだけのことだ。吐き気を催す間隙に潜むのは、ほんの一握りの、
馬鹿みたいに単純な奴らだけで十分だ。
何かに誘われるように、屋上の中心まで歩いていった。右腕のないこの身体は、ひどく歩きにくい。
半身を引きずるように前に進み、中心で膝を突いた。
空には、満月が見える。
なんて――――ツメタイ、ワルイユメ――――――――
ああ、ここなら最適だ。
一人の愚か者が惨めに死に絶えるなら、これ以上整った舞台はない。
俺の身体はもうぼろぼろだ。右手は秋葉に略奪された。そして反対側の左手は、その秋葉の胸を貫いたときに付着した血液が
いいかげん固まり始めている。
秋葉はまず死んだだろう。あの傷で、不死でもない秋葉が生きていられる道理がない。
俺の大事な妹は、俺自身が冥土に送った。
さあ、これで、俺の償いはだいたいの終いを見せた。アイツのシナリオも今のところ順調に、なんの問題もなく進行している。
あと数刻もしないうちに、琥珀を生き地獄に叩き落とした遠野の血脈の本流はこの俺で途絶えることになる。
何百年と続いた異形の一族は、その最期を身内同士の殺し合いと言う形で迎えることになる――――やっぱり最高じゃないか。愚かで。
琥珀を直接苦しめたこの俺は、お前が慕う男の元で、無惨にも呆気なく、笑っちまうほど情けなく死の裁きを受けてやる。
さあ、満足だろう?
背後で、扉の閉まる音が聞こえた。
肩越しに振り返る。
「……よう。志貴」
俺の言葉に、そいつは答えない。軽く握ったナイフをだらんと垂らし、一歩一歩、俺の元に近づいてくる。
言葉すら忘れたその姿は、まるで――――いや、死神そのものか。
……そうだな。せめてお前に、一つの呪いを残してやる。
「おい、志貴――――」
志貴は、俺の目前に立つ。
サファイアみたいに澄んだ瞳。感情も無くした、ただ俺を殺すためだけに死神へと成り下がった俺の友。
正に、殺人貴。
死神が、ナイフを構える。
「琥珀を――――」
俺の中で、何かが暴れている。目の前に迫った絶対的な消滅から逃げようと、足掻いている。
こいつを殺せ。殺して、逃げろ。こんなところで何百年と続いた因果を途絶えさせるわけには――――
汗ばむ拳を、ぐ、と握りしめる。
うるせえよ。……そうはさせない。全てを、この俺で終わらせてやる。
ナイフが、疾る。
「幸せに、してやれよ」
胸のナイフの痛みでさえも感じずに、脆弱なこの意識はぷつんと途切れた。
ただ、その直前に。
空に溶ける白紙の本を、夢の世界で幻視した。
故に、俺は、最期に。
その本の持ち主を、心の限り笑い尽くしてやった。