ヒトノキョウカイ
0
幼いころ、祖父から言い聞かされた二つの言葉がある。
「君子危うきに近づかず」
「見なかったことにする」
子供に言うには少し不向きな言葉なんじゃないかと思ったが、事実、それは俺を俺で在らしめるために必要な言葉、というか、在り方だった。
つまりはどういうことかと言えば。
俺は、少し、そちら側に傾いた人間なのだ。
1
目を覚ましたとき、俺は病院のベッドの上に居た。
まず見えたのは、馴染みのないくすんだ天井。右手側には四角い窓が見え、そこから浅い角度の日差しが差し込んで来ている。消毒液特有の、薄い刺激臭が鼻を突いた。
何故こんな場所に居るのかと思い、満足に思考できない自分に気付く。頭の中に綿を詰め込まれたかのような感覚。あるいは体中を廻る血液を、無理やり何倍にも希釈されてしまったかのような倦怠感。すべてが朦朧としていて、あやふやで、不確かで、ぎこちない。
どうやら、目覚めたのは何かの間違いだったようだ。
睡欲とはまるで異なる箇所からの命令に従い、意識が再びまどろんでいく。意識ではなく肉体が睡眠を求めている。疲労しきった身体を少しでも元に戻すため、一刻も早く一時でも長い眠りを訴えている。
それに抗えるはずもなく、あっさりと俺の意識は眠りに落ちる。
その瞬間。
暗い闇に堕ちるその刹那前、赤い、真っ赤に染まったその光景を幻視した。
2
物心着いたとき、既に俺はそれが見えるようになっていた。
尤も、見えるからといって特別なことなど何もない。利点もなければ、欠点もない。そういうものだ。
ただ一つ事実として認識しておかなければならないのは、それは俺の幻覚でも妄想でもないというその一点。
こういう言い方は酷く安っぽい上に誤解を招くのが常なので、出来れば他の言い方をしたいところだけど、幸か不幸か、俺はそれをそう表現する以外の手法でこの眼を説明出来たりしない。
だから、まあ、簡単に事実だけを述べるなら。
俺は、幽霊のようなものが見える人間だったりするわけである。
3
身体が求めた眠りから醒めたとき、既に周囲は夕日の色に染まっていた。
いったい何時間寝ていたのか。さっきの目覚めが朝方なのは間違いないとして、いまが夕方なのだとしたら、それは。
「半日、か……?」
なかなか驚異的な数字だった。
と、呟いて初めてその事実に気付く。軽く視線を泳がして、身体の四肢に意識を集中。右手、左手、右足左足。順に握ったり開いたり曲げたり伸ばしたりを繰り返し、身体全体を覆っていた徒労感、というより消耗感がなくなっていることを自覚する。いや、なくなっている、は言いすぎか。感覚はあるし、動きもするけれど、その隅々にまで染み込んだ違和感は拭えない。本来ならばあるべきものがない感覚。
空虚感、とも少し違う。
これは。
喪失感、とでも言うべき感覚なのか。
あるべき所にあるべきものが無い幻覚。
あったものを無理やり強奪されたかのような錯覚。
だから、それは。
あの、赤い教室に起因する、
「起きた?」
唐突に声を掛けられ、深みに沈んでいた意識を引き戻される。
声は左手側から聞こえた。右手側が壁と窓であることを考えれば、それは当然だ。どうにも力の入らない身体を起こし、頭を振った後でそちらを見遣った。
「や。おはよう」
ひょい、と手を立てて声を掛けてきたのは、見覚えのあるどころか、中学からこっち、何の因果かずっと同じクラスの少女だった。
彼女は俺と同じように水色をした薄手の入院服を羽織り、背中を壁に預けて首だけをこちらに向けている。挨拶をするように上げた右腕と左の頬に、真新しい包帯が見て取れた。
「……あー」
面倒だけど。なんだか理由も無く果てしなく面倒だけど、挨拶をされたからには何か返すのが礼儀ってものだろう。
「……おはよう」
「もう夕方だけどね」
あっけらかんと彼女は言う。けけけ、と笑い、ため息を吐くかのように肩を竦めた。
「まあそれはそれとして。鈴下、おまえ何か覚えてる?」
「何かって?」
「だから――なんでボクたちがこんなところで寝ているのか、ってコト」
言って、彼女は見回すように病室の中を視線で示した。それに釣られるように視線を動かし、片側四つの計八人部屋である病室、そのベッドに横たわる患者が全員、見覚えのある顔だと気付いた。
いや、見覚えのある、なんて薄情なことは言うまい。
完結に言うのなら。
いまだ眼を醒まさない六人全員が、俺のクラスメイトたちだった。
「……」
「恥ずかしい話だけど、ボク何も覚えてないんだよね。ほら、今日――じゃないか、昨日だね。昨日の五時間目、化学の授業受けた所までは覚えてるんだけど」
苦笑するかのようにそう言う氷裂。その眼は空中に向けられていて、おそらくは何も見ていないのだろう。
非現実感。
普段の調子とはまるで違う、弱々しい呟きを発する少女の言葉に込められていたのは、まさにそれだった。
「化学?」
ああ、確かにそれは覚えている。
記憶を遡れば、確かにそれは化学の授業だ。場所は校舎一階の実験室。準備室を挟んで階段の隣に位置し、その更に隣は三年の教室になっている特別室。
確か俺たちは有機化学の実験をしていて、授業も終わり、レポートを纏めている最中に、
「鈴下? おい、鈴下!?」
焦ったような声が耳に届き、俺は慌ててそちらを向いた。
隣のベッドで、身体の向きさえ変えるような無理の体勢で氷裂がこちらを見ていた。その眼は驚いたかのように見開かれ、同時に、焦ったかのように忙しく瞬いている。
「どうしたのさ、鈴下。汗びっしょりだぞ」
「え?」
言われて額を拭えば、なるほど、確かに汗をかいていた。
それも、湿る、程度の話じゃない。
ぽたぽたと。
滴るほどの脂汗が、俺の額に浮いていた。
「……あれ? おかしいな、なんで」
なんで――その光景が眼に浮かぶのか。
赤い部屋。赤く染まった教室。窓の外の空すら赤く、耳に届いてくるのはぎっちぎっちという作り物じみた接合音。
あと、そういえば、確かに。
知り合いの、声を、聴いたような。
「ほら、無理せずに寝ろ。つき合わせて悪かった」
「あ――ああ、悪い。まだ調子出ないみたいだ」
返した言葉は、自分でも驚くほどに擦れていた。
「いいから、早く。なんならナースコールしようか?」
「いや、大丈夫だ。まだ少し、気分が優れないだけだから」
言って、倒れこむように再びベッドの上に横たわる。
全身を眠気が支配していた。精神の休養を求める眠りでも、身体の休息を望む眠りでもない。
思い出したものをリセットするための、やり直しだ。
目蓋を閉じる。四肢から力が抜けていく。意識は、面白いほどあっけなくまどろみの海に溶けようとして、
「氷裂」
心地よい安らぎを遮って、その問いを発した。
左の頬をほぼ全て。そして、右手の小指から肘までを大きく覆う、氷裂の包帯を思いながら。
「おまえは、大丈夫なのか」
「ボク? ボクは、そうだね」
……ああ、どうやら俺は本格的に本調子じゃなかったらしい。
泣き言だけど、と続ける彼女の言葉を聴きながら、俺は心からそう思った。
「正直に言うと、傷が痛くて気が狂いそうだ。でも痛すぎて寝ることも出来ない。皮膚が溶けてるらしいんだけど、ホントにもう、地獄だよ」
軽い台詞の後ろに隠れた、疲弊という名の消耗にすら気付くことが出来なかったのだから。
4
幽霊が見えるといっても、四六時中それが見えているわけではない。いや、そもそもそれが幽霊だという根拠すら曖昧だ。
だから俺は、見える彼らをそれと呼ぶことにした。そしてそれが見えるのはたいていは週に一度かそれ以下。冬が近づくにつれて少しずつ頻度が上がり、二月の終わりごろからだんだんと数を減らし始める。
理由は、多分、十年前にあったという大火災なのだろう。
ともかく。
天気の良し悪しや時間帯、そして場所を関係なしに突如として見えてしまうそれたち。
最初は理解できず、次に恐怖して、更に慣れ、最終的に折り合いをつけた。
成長する、ということは学習する、ということと同義である。
見知らぬ他人が怖くて外を歩けなかった小学生の時の記憶など、既に笑い混じりの思い出だ。
何百という目撃と、数えるほどの会話を経て、結局わかったことは唯一つ。
それは、俺はこちらの世界とあちらの世界、その境界を見ることが出来るという現実だった。
5
原因不明の集団昏睡事件。
あの日学校で起こった事件は、そんな簡単な言葉で纏められてしまうらしかった。
看護士に持ってきてもらった新聞を折りたたんでサイドテーブルに置き、俺はベッドの上で半身を起こしたまま天井を仰ぐ。
眼に映るのは、もう見慣れてしまった病室の天井だ。
まあ、見慣れたのはそれも当然。
なにせ、入院してから既に一週間が経過している。いい加減この病室での生活にも嫌気が差そうというものだ。
この病室に居る面々も、入院当初の面子とは微妙に変化している。あまりに負傷の度合いが酷かった数人が別の病室に移され、空いたベッドを埋めるように、他の病室に居たクラスメイトが移って来たのだ。
そんな彼彼女たちも、今では眼を醒まし、思い思いの行動を取っている。行動制限さえされているものの、それ以上の制限は特に無く、無茶さえしなければ出歩くことも許可されている。もちろん、棟内に限っての話だが。
いま病室に残っているのは、俺を含めて四人。そのうち二人はお互いに話し合い、笑いあっている。着ている服が入院服ではなく、目に付く白い包帯が無ければ、学校に居たときと大差ない光景だ。
「暇ー」
不意に、というか唐突に、隣のベッドから不服そうな声が聞こえた。
見るまでもないので、別に振り向かない。
「ひまー。ヒマだよー、鈴下ー」
「……」
これは嫌がらせか何かなのだろうか。
俺はしばらくの間、氷裂の不平不満を無視していたが、どうにも脆弱らしい俺の意識は数分でぽっきりと折れてしまった。
あーあ、と自分に嘆息しながらそちらに顔を向ける。
「五月蝿いぞ、氷裂。暇なら本でも読んでろ」
「活字は嫌いなんだよ」
「なら勉強でもしとけ」
「冗談」
鼻で笑うように肩を竦める彼女。
いや、というか、いま完全に俺のこと馬鹿にしたぞ、こいつ。
氷裂はやれやれ、とでも言いたそうに首を振ったあと、疲れたように口を開く。
「でもさ、ホントの話、病院生活にも飽きたよね。いつになったら退院できるんだろ」
「もう直ぐだって話だけどな。医者の言うことを信じるなら」
「ふうん?」
驚くように、あるいはいぶかしむように眉を上げる彼女。
「……何だよ。変なこと言ったか?」
「それほどは。でも、鈴下が他人を信用しないような言い方をするのは珍しいなと思ってね」
「それは誤解だ。俺だって他人を疑う程度のことはするぞ」
「ボクの記憶じゃ、ボクを疑ったことは無いはずだけどね」
はてな、と首を傾げる氷裂。
まったく持って失礼な話だ。俺だって普通の学生な訳だし、相応に嘘もついたしつかれたりもした。他人を疑ったコトだって、当然、ある。
ただ、今回、医者を信用していないのはれっきとした根拠があっての話だ。
その理由の一端を、ぽつり、と呟く。
「事件の原因。結局、不明だろ?」
「そうだね。ほとんど全校生徒が倒れたって言うのに、原因は不明。死者は出なかった、って聞いたけど」
「だからだよ。医者の言ってることが気休めじゃないなんて保障、どこにあるんだ?」
「うっわー、後ろ向きだね鈴下。もうちょっと楽しく生きようよ」
彼女は大げさに驚いた顔をして、哀れむような視線を向けてくる。
「大きなお世話だ」
もちろん、医者を信用していない理由は他にもある。
あれはそう、眼が覚めた、正確に表現するなら意識を取り戻した翌日の話だ。
事故が起こった当時一階の化学実験室に居た生徒の中で一番被害の少なかった(らしい)俺は、同じ病室の他のクラスメイトたちが眼を醒ますか醒まさないかの瀬戸際をうろうろしている間、別の部屋に連れて行かれ、無愛想な医者に事情を聴取されていた。
「君が覚えていることを全て話しなさい」
淡々とした、酷く味気ない、人間味の欠如した声だったことを覚えている。その医者(ちなみに男)は白衣にこそ身を包んでいるものの、まっとうな立場の医者でないことは明白だった。病院の人間ならば誰もが着けているネームプレートを持っていなかったし、そもそもあの目つきは医者のそれじゃない。事実を事実としてしか認識しない、感情を排除できる非人間の瞳。俺を実験動物か何かと同等の何かとしてしか見なさなかった男。
だから俺は、答えた。
何も覚えていません、と。
男が信じるかどうかは分からなかったが、男は顔をしかめたあと、そうか、とだけ呟いた。
そのときの記憶はそれで終わりだ。俺は病室に戻り、その後病院で二度とあの男とは出会っていない。
もちろん、何も覚えていないなんていうのは大嘘もいいとこだ。
実はと言えば、胡乱ながらにではあるけれど、覚えている。
時間的には、確か、五時間目が終わる直前。俺はレポートを書き上げて、それを提出するために席を立ったところだった。
特別、音はしなかったように思う。
気付けば異変は起こっていて、自覚したときには全てが終わっていた。
世界のあらゆるものに染み込む赤。それは血のように粘質で、夕日のように防ぎ得ない。壁、床、天井、ドアにガラスにテーブルに薬品棚。全てがあっという間に赤色に侵食され蹂躙され、踏みにじられていた。
ぐらりと世界が傾いたことに驚いて、ばたりと自分が倒れたことに気付かされた。硬いはずの床はなぜか水を打ったような音を返し、どこか弾力を持って身体を受け入れる。
素直に白状するなら、明確な記憶を持っているのはその瞬間までだ。そのあとに起こったことは、断片的にしか記憶していない。
急速に抜けていく力。太い血管に針を刺されて血液ごと強奪されるかのように薄れていく感覚。
意識を覆う靄はあっという間に思考を困難にさせ、重い目蓋は眼を開いていることすら苦難にさせる。声を上げようとしても、肺に空気を送り込むのが精一杯だった。
だから必死で意識を保つ。既に断続していることを自覚しながら、それでもなお気を失わないように自分を叱咤する。
……だって、自分しか居なかったのだ。周囲を見回せば、クラスメイトはみんな床に倒れるか机に突っ伏すかしていて、教師すらも倒れこんでいる。動いている姿は皆無で、皆死んだように動かない。手近な一人に視線を移せば、隣の班の男子生徒であるそいつの肌は爛れたように融解し、吸収されるように床に溶け込んでいた。
それを認めるか、認めるよりほんの少しだけ早く、俺は全身の力を振り絞って顔の向きを変えた。
探したのは、求めたのは、同じ班の、いつも隣に座っている小生意気なその姿。
見つけ出すのは苦労しなかった。あいつが俺のことを簡単に見つけ出せるよう、俺もあいつの姿なら遠くからでも見つけ出す自信がある。
ただ、見つけて、机に突っ伏して身動きしないその姿を認めて、俺は叫びそうになった。
身体の力は全て抜けていて、どうすることも出来やしない。
がっちゃがっちゃと音が聞こえる。この赤い世界で、何が音を立てているというのだろう。音の方向は分かるけど、そちらに顔を向けるほどの体力はもう残っていない。ああ、あいつの姿を探したのは失策だったのだろう。体力は既に尽きた。それはつまり、俺が気を失うまで、倒れて動かない氷裂の姿を見続けなければならないということだ。
廊下の方からは、相変わらずがっちゃがっちゃと音が聞こえる。
その中に、突然、場違いな声が混ざった。
「と――か、結界――き――んは!?」
「――、すぐそ――!」
驚くことに、それは二つとも俺の知る声だった。
方や学校のアイドルと称される優等生、方や全校生徒きっての便利屋と評価の高い弓道部員。
あ、でも、あいつ、弓道は止めたとか言ってたっけ。
「士郎、さが――!」
「――」
ぎっちぎっちと何かが歩む音と、金属と金属がぶつかり合うような音。
そちらを見ることが出来ないから何が起こっているかは分からないけれど、確かなことが一つある。
それは、あの二人の声を聴けば分かることだけど。
あいつらは、この事象に焦りこそしているものの、混乱してはいないようだ。
「――――!」
学園のアイドルこと遠坂凛の、外国語っぽい言葉が響く。
そうして、まばゆいばかりの光が一瞬世界の赤を更に白く塗りつぶし、
あっけないほどあっさりと、俺の意識はそこで途絶えた。
次に眼を醒ますのは、翌日、ベッドの上でのこととなる。
「まあ、そんなに酷い症状じゃないみたいだし、もうじき退院できるんじゃないか?」
暇暇と飽きることなく呟く氷裂に、慰め交じりに声を掛けてやる。
氷裂は備え付けの枕を抱きしめて、まあね、と呟いた。
「一階に居た人たちが一番被害が大きかった、って言うけど、ボクたちなんてまだマシな方だよね。鈴下なんて怪我一つないし」
「……まあ、事実だけどさ」
恨めしそうに言ってくる氷裂の視線が気まずくて、思わず視線を背けてしまった。
あはは、と軽やかな笑い声が聞こえてくる。
「気にしなくていいよ、鈴下。別におまえを恨んでるって訳じゃないんだから」
「とは、言ってもな」
「それに、ボクなんかよりもずっと重い症状の人も居るんだ。文句なんてとても言えないよ」
真剣味を帯びた氷裂の声に、言おうとした言葉を飲み込んだ。
昏睡事件の被害は、一階が一番酷かったらしい。三階、四階には俺と同じように衰弱で済んだ生徒も多いと看護士のお兄さんに聴いたけど、一階で無傷なのは俺一人という話だ。他の生徒や教職員は、みな軽くない被害を負っている。中でもとりわけ被害の著しかった隣の教室、三年A組とB組に居た生徒の中には、失明寸前までいった生徒も居るらしく、比較的症状の軽い生徒でも指を一本失いかけるとか、そのレベルらしい。
壁一つ離れただけだというのに、随分と規模の異なる話だ。
ぱん、と唐突に氷裂が手を叩いた。軽い音に、思わずそちらに眼をやる。
氷裂はにっこりと笑って、気楽そうに言った。
「まあ、退院も近いと決め付けてさ。楽しく行こうよ」
「それはまあ、前向きなことで」
今更だけど。
俺の皮肉に、氷裂はえへ、と笑う。褒めてないぞ、俺は。
「鈴下鈴下ー。退院したらまた骨董屋廻りしようよー」
「おまえと一緒に行かされると寿命が年レベルで縮まるからヤダ」
一個数十万のお湯飲みでお手玉をし始めたときはさすがに殺そうかと思ったぞ。
「えー。いいじゃんよー、行こうよー」
「ああ、もう、猫なで声なんて上げるなっ。みんな見てるだろうがっ」
病室の、丁度俺たちのベッドから対角線の場所に位置する女子二人組みは、俺の言葉にくすくすと笑ってくれた。
そして当の氷裂は、にやり、と意地の悪そうな顔をする。
「何を今更。もうボクたちの関係は周知の事実だよ?」
「お前が勝手にポーズ取ってるだけだろうが」
「そうだね、じゃあ退院したら美味しいご飯食べに行こうか」
「待て、頼むから人の話を聞け」
「うんうん。ここの病院、設備はいいんだけど食事が不味いのだけが欠点だね」
「だから人の話を」
無駄と分かっている反論を仕掛けたとき、不意にぱんぱん、と手拍子が響いた。
病室に居た全員が、音の元、ドアの方向に眼をやる。そこに立っていたのは、白衣を着た看護士のお兄さんだった。
「お楽しみのところ悪いんだが」
貴様もそんな戯言を言うか。
「お待ちかね、不味い不味い夕食の時間だ」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべながら、そいつはそんなことをのたまった。
6
それから三日後。計十日の日にちを経て、俺は無事退院となった。
空はいい感じに晴れ渡った青空。二月も半ばだというのに、小春日和に近い、まったく持って絶好の日だった。しかも日曜日ともなれば、心の底から文句のつけようも無いロケーションだ。
だと言うのに。
「やー、いい天気だね本当に」
俺の隣を、俺以上に元気に歩くこいつは何なのか。
「氷裂。おまえ、本当にもういいのか?」
「大丈夫だよ。ボク、体力は折り紙つきでね」
頬に大きな絆創膏を張った氷裂は、野球帽を目深に被りながら笑顔で言う。
俺は諦めとも苦笑とも分からない息を吐いて、仕方ない、と呟いた。
「どうせ駅前までは一緒だし、行くか」
「うんうん、素直になったね。じゃあ行こうー!」
軽いバッグだけを手に、氷裂は俺の半歩先を行く。
病院は新都にあったので、とりあえずは駅前まで出るために街を歩く。
その間、交わした言葉はそれほど意味のあるものじゃない。暇すぎた入院生活の愚痴とか、救いようも無いほどに不味かった入院食とか、いつの間にか行くことが決定していた骨董屋廻りとか、その辺のことをつらつらと喋りながら駅前に繋がる通りを歩く。
「うーん、やっぱ人多いねー」
「日曜だしな。このくらいは、」
当然だろ、と言いかけて、口を噤んだ。
意識したわけではないけれど。
ぴたり、と足が止まる。
不審に思ったか、ん? と氷裂がこちらを振り返って首をかしげた。
「どうした? 鈴下」
「……」
答えることなんて出来ない。
俺の視線は、人ごみの一点に向けられたまま、微動だにすることすら出来なかった。
足が震える。喉が渇く。眼球が圧迫される。
動けない。動けるわけが無い。一歩進んだだけで、いいや、足を僅かに上げただけで、決定的に全てが終わる。
「んー?」
硬直した俺に首をかしげ、覗き込むように顔を近づける氷裂。
そうして彼女は俺の視線の行く末を辿り、ブティックの軒先でウィンドウショッピングをしているらしい二人を見つけてしまった。
お、と氷裂は興味津々の声を上げる。
「あそこに見えるのは、まさか学園男子のアイドル遠坂凛とザ・便利屋衛宮士郎君ではないかな?」
分かりきっていることをわざわざ口に出す氷裂。
そう、氷裂の言う通りだ。そこに居たのは、私服姿の衛宮士郎と遠坂凛。二人は腕なんて組みながら、正確には遠坂が一方的に衛宮の腕に自分の腕を絡めながら、恋人同士ですと周囲に宣伝さえしつつごく当たり前のデートを楽しむように、自然な笑みを浮かべていた。
氷裂は伸びをして二人を見て、ふむふむ、と頷く。
「ありゃデートかな? デートだよね? ううむ、あの二人が出来てたとは」
そんな感じでひときしり呟いたあと、おもむろに氷裂は手を打った。
「よし。からかおう」
「――!」
な――何を馬鹿なことを……っ!
ててて、と歩き出した氷裂の腕を、ぎりぎりのところで掴み取る。
お? と驚いたように氷裂が声を上げるが、そんなのは無視。
気付かれるとかばれるとか知られるとか、その辺の危険を全て無視して、身を翻して走り出した。
「ちょ、鈴下? 痛い、痛い!」
引っ張る手の持ち主がなんか不満を言うけど無視。
衆人が何事かと視線を集めるけど、それすらも気にならない。
「――!!」
上げかけた悲鳴をどうにかかみ殺して、ただ、先を急ぐ。
怖い。一言で言うなら、その言葉に尽きる。
そう、俺は恐怖を覚えたのだ。あの赤い教室。溶けていくクラスメイト。不意に聞こえた馴染みの声色。その全てを覚えていたからこそ、あの二人に堪えきれない恐怖を抱いたのだ。
あの赤い世界を終わらせたのは、多分間違いなく遠坂と衛宮の二人だろう。詳細は知らないし知りたいとも思わないけれど、あの時聞いた声を聞けばその位は簡単に想像することが出来る。
その事実に。
何も出来ず、ただ搾取されるしかなったあの悪夢を終わらせたという事実が怖くて、あの二人にはそれだけの力があると分かってしまったから、その現実が怖くて逃げ出した訳ではない。
俺が、ただ言い逃れも言い訳も弁解も弁護も必要とせずに恐怖を覚えた理由はただ一つ。
あの二人が。
集団昏睡事件の原因に直接関わっているであろう、その二人が。
何事も無かったかのように、笑いあっているその姿こそが、怖気が立つほどに恐ろしかった。
「はぁ――はぁ――はぁ――」
病み上がりの身体は少しの全力疾走であっさりと音を上げる。けれど足を止めるわけにはいかない。
俺はあんな奴の傍には居たくないし、氷裂をそんな場所に置いておくことなんて、とてもじゃないが出来たもんじゃない。
確かに、誰にだって笑う権利はある。幸せをかみ締める権利はあるだろう。
だが、しかし。
あの事件から何日が経った? 十日だ。たった十日だ!
あれだけの悪夢からたったそれだけで、どうしてあんな自然に笑えるんだ、あの二人は!?
確かに俺も氷裂も、病院で会ったクラスメイトも、事件の数日後には自然に笑みを見せるようになっていた。だがそれは、あの赤い世界とはなんら関係を持たない被害者だからこその対応だ。俺たちではあの世界を理解できないし、そもそも知りえることすらなかったのだろう。だからこそ自分はアレと関係ないと無意識に断じ、気にせず、その悪夢を意識せずに笑うことが出来たのだ。
そうでなければ、どうして笑い会うことが出来る。
決して消えない傷を負った生徒なんて、一人や二人じゃない。指をなくした奴も居れば、光を失いかけた奴も居る。意識に障害を残した奴も居たし、学校そのものにトラウマを抱いてしまった奴も居たんだ! 氷裂だって例外じゃない。この無邪気な少女は火傷の跡のような傷を、一生消えないと断ぜられた傷を、顔と腕に負った。なのに、なのになのになのになのになのに――なんで、その原因を知る、当事者たるあいつらが、当たり前のように日常を過ごせるって言うんだ?
走った。走って走って走って走って、逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃亡した。
怖い。身体が凍りつきそうなほどに怖い。衛宮士郎という人間も、遠坂凛という人間も、平等に怖い。
だって。
だって、あの悪夢に当事者として関わりながら、それでもあんなふうに振舞うということは。
あの程度の事件、あの二人にとっては騒ぎ立てるほどのものではないということではないか。
「ッ……!」
それは、異常だ。
あの世界。ごく当たり前のように人が倒れ、もう少し解決が遅ければ、おそらくは死者すら出ていただろう。
そのようなものに関わりあいながら、なお日常に身を置く人間。
それは、絶対に認めることの出来ない、異常。
あちら側とこちら側の境に立つ俺だからこそ、それを断ずることが出来る。両方の境界に、人間とそうでないものの境に立つ俺だからこそ、その事実を言い切ることが出来る。
衛宮士郎。
遠坂凛。
あの二人は、あちら側の存在だ。
認めることなんて、出来ない。
関わることなんて、許されない。
どれだけ走ったのか、気付けば川沿いの公園に出ていた。
周囲に視線を廻らせても、どこにもあの二人の姿はない。
そのことを確認するのと同時、がくり、と膝から力が抜ける。
「わ、鈴下……!?」
さすがに病み上がりの身体で全力疾走は無茶だったのか。
倒れ掛かった身体を、すんでの所で俺より一回りほど小柄な氷裂が抱きとめてくれた。
「っと……どうしたんだよ、鈴下。いくらなんでも唐突すぎだぞ。駆け落ちならもっとムード気にしてよ、ムード」
呼吸こそ荒れているものの、いつも通りにふざけていて場違いで、安心する氷裂の声。
その事実が、彼女がいつもどおりの彼女だという現実が無性に嬉しくて、俺は思わず氷裂の身体を抱きとめていた。
「え、あ、ちょ、鈴下!?」
「――」
耳元で焦った声が聞こえるけど、無視。
……けど、これ絶対あとでからかわれるな。一生ものの笑いの種にされるかもしれない。
というか、俺にだってわかってる。これがどれだけ恥ずかしい行為なのかってことぐらいは、さすがに。
ただ、問題なのは。
そんな理性の言い分なんて関係ない所で、俺が安心感を得ているという現実だった。
「……あー」
情けない話だが、足に力が入らない。
倒れ込まないで居るのが精一杯で、それ以上のことは望めそうになかった。
「……すまん。迷惑、掛ける」
「気にするな、とは言わないけど、誤る必要はない、とは言わせて貰うよ」
苦笑したかのように、氷裂。
「鈴下が無理やり何かをするときって、いつもボクを何かから守る時だからね。今回のも、それだったんだろ?」
それは、買い被りだと思う。
否定しようと口を開いた俺を遮って、氷裂は続ける。
「それにほら、ボクってマイペースだからさ。ボクに合わせてくれる人は、貴重だし、それだけで好きなんだ」
「別に、合わせている訳じゃない」
その言葉は、紛れもない俺の本心だ。
俺は別に氷裂のペースに合わせている訳じゃなく、単に氷裂のペースに翻弄されているに過ぎない。
けれど氷裂は、言うと思ったよ、と苦笑する。
「だったらさ、鈴下。ボクたち、きっと相性がいいんだよ。多分、それ以上の理由はないと思う」
ああ。
だとしたら、それは随分と素敵な理由だ。
誓ってもいいけれど、俺はこの少女と出会ってこの方、氷裂のために何かをしようとしたことなど一度もない。
ただ、放って傍観するには、この少女は少し爛漫すぎたというだけだ。
声を掛けなければ、自分から火に近づいていく赤ん坊のように。
眼を離せば、空を舞う蝶を追って崖へと駆け出す子供のように。
その自然で、愚かで、まっすぐ過ぎる生き方に、あちら側を見続け捻じ曲がった俺は、憧れを抱いたに過ぎない。
けれど、それも今日までの話。
「そう、か」
昨日までなら、そのままでもよかったかもしれない。
今日でなければ。退院が明日だったり明後日だったりしたなら、こんな気持ちにはならなかったかもしれない。
だけど、現実として、俺はその異常を知ってしまった。
衛宮士郎と遠坂凛。
少なくともその二人分の異常が、俺の周囲に存在することを知ってしまった。
そして、俺の傍には、異常を異常と知っても関係なしに近づこうとする少女が居る。
……何が出来るかなんて知らない。何をするべきか何てことも考えたくはない。
ただ、俺は、人の境界に立つ人間として、それを誓おうと思う。
「氷裂」
「ん?」
「誓う。俺が、お前を護る」
この世界の危険から。あちらの世界の異常から。
君子危うきに近付かず。
見なかったことにする。
悪い、爺さん。俺、その言葉を捨てようと思う。
氷裂の為に。
何も知らない人間が、何も知らないままに平和の中に居られるように。
俺は、出来ることをしようと思う。
その誓句に、氷裂はえ、と小さく呟いたあと、
「……それってプロポーズ?」
だなんて、最高に楽しい冗談を言ってくれた。
「は――」
あまりの言葉に、口が歪む。
プロポーズだなんてものは、さすがに気が早いと思う。
けれど。
「手付金、ってことで」
言って、俺は大きな声で笑った。
氷裂はそんな俺に呆れたように息を吐き、同じように笑ってくれる。
繰り返そう。
俺は誓う。ここに誓う。俺は人間の、こちら側の行き詰まりとして、平和な世界に居るお前を護ることを誓う。
絶対に、破らない。
人間としての境界に立って、あちら側の脅威から氷裂を護る。
それは、そう。
死の別れが、二人の間を分かつまで、変わることなく。
二月半ばの日曜日。
境界線に行き詰った俺は、こうしてこちら側の象徴を護ることにした。
【"over the border" ends.】