夜想曲/T
大陸中部一帯に展開する、広大な砂漠。
昼間は太陽の熱が支配する炎獄となるが、月の浮かんだ今この時は、鏡のように静寂と静謐が染み渡る。その広さと、危険さと、生息する魔物の凶暴さは大陸全土に広がっている。たった一人で、ろくな準備もせずにそこを渡ろうとすることは自殺に直結する――――そんな話を耳にはさんだことがあった。
(けれど、まさかこれほどとはね……)
絶え間なさい寒さ。吹く風は金属の冷たさを含み、昼間あれほど激しかった砂塵は巻き上がりもしない。まるで正反対の世界。砂漠が持つ二つの顔は、ここに来てより鮮明にその容姿を窺わせた。
(まったく、洒落にもならないじゃない)
すべては自分の不注意だ、と――――砂丘の中腹にぽつんと腰を下ろした彼女は、そんなことを考えた。シンと冷え込む夜気に、もともと白い肌がよりいっそう白く写る。年は、比較的若い。まだ二十を超えてはいないだろう。
かちゃり、と寄りかかっていた剣を地面に横たえる。冷えた砂はその硬度すらも変化させているようだ。ろくに沈まない剣を、正確にはそれを包んだ鞘を横目で見ながら、彼女はぼんやりと考える。
痛みがないのはせめてもの救いだろうか、なんていうひどく皮肉を含んだその思考。
――――どうしようにも、どうにもならない。連日に及ぶ砂漠の横断は昼夜の気温差とともに彼女の体力を奪い取り、特に夜間の寒さは彼女の体を重くする。
はっきりしない思考と、満足に動かない体。
それはとりもなおさず、死にかけているということ。
ごろん、と彼女は仰向けになった。冷たい砂に首筋がぞくりとするが、体の反応はそれだけで終わる。すべてに無関心なその瞳が見上げるのは、ただ、空に浮かんだ真っ白な月。
それは、なんて綺麗な夜。
こんな日に死ねてよかった――――心の底からその偶然に感謝しながら、彼女は眠りについた。
協奏曲
砂漠の都、モロク。
大陸の中部に存在するその街は、砂漠の中にある唯一の巨大都市であり――――同時に砂漠の終着駅である。最初にこの地にたどり着いた者は誰にもわからない。だが、なぜそいつはこんな場所に、地獄のような熱砂を越えた先に広がった何もない大陸の終わりに、街を築こうなんて考えたりしたんだろうか――――
通りを行く人々をガラス越しにとりとめもなく眺めながら、彼、シリウス=シンシリティーは水滴の浮かぶグラスを口につけた。多少のリキュールを含んだグレープフルーツジュース。苦味にも似た酸味が心地よい。ここ最近の、彼のお気に入りだった。
明るい茶色をした頭髪は、肩のあたりより少し長いところで正確に切りそろえられている。まだあどけなさが残るその顔立ちは、到底十七を数えるには思えない。ようは童顔ということだ。サイズが少し大きいのか、袖口に手のひらが半分ほど隠れる修行服がその印象によりいっそうの拍車を掛ける――――あるいは彼は、意図的にそれを狙っているのかもしれなかった。
着ている服は、本来赤であるはずのシルクローブ。色抜きでもしてあるのか、やけに色が薄い。その色を除けば、聖職者――――アコライトと呼ばれる者たちの中では、珍しくない装備だ。
からん、と飲み干したグラスの中で氷が揺れる。テーブルに戻すと、それもすぐに溶けて消えた。
手持ち無沙汰になった彼は軽く嘆息し、ろくに客もいないカフェの中を見渡した。どうやら癖らしい……左手をテーブルの上に突き、片側の髪をいじりながら客の数を数える。カウンターに二人、奥のテーブルに一人。そして何事にも無関心そうにグラスを磨く恰幅いいマスター。それだけが見えた。
さして広い店内ではない。そう思えば、この人数でも上々なのかもしれない。二、三度同じように店内を見回す。もちろん、何か変化があるわけではない。完全な暇つぶしだ。
そうこうして四回目の無意味な観察に移ろうとしたとき、不意にドアに取り付けられたベルが鳴いた。一瞬だけ開いたドアは、薄暗かった店内に日射の光彩をもたらす。そして片手に布に包まれた筒を手にした光の使者は軽く店内を見回し――――窓際のテーブルに座ったこちらに気付くと、小さく手を上げてから近づいてきた。
すれ違いざまマスターにカクテルを注文し、向かい合うようにテーブルに座る。
「いいの? 仕事前にお酒なんて飲んで」
開口一番、目の前の女性にシリウスは声をかけた。その顔に浮かんでいるのはかすかな苦笑だ。
「こんな日よ? アルコールでも口にしないと、やる気だってでないわ」
平然と言い放った女性は、シリウスよりもいくらか年上に見えた。冷たい雰囲気を漂わせる切れ長な青の瞳。それと同色の硬質なストレートヘアが腰のあたりまで垂れ下がっている。防御力よりも動きやすさを重視したアドヴェンチャースーツの袖口から覗くのは、この地方にしては珍しくまるで日に焼けていない白い肌だ。
女性はことん、と手にしていた筒をテーブルの上に置く。シリウスはかすかに目を細めた。
「買えたみたいだね……どうだった?」
「まだ使ってないから、なんとも言えないわ。贋作ではないでしょうけど」
女性の言葉に相槌を打ちながら、シリウスは筒を手に取った。筒全体に巻かれている獣皮の紐を一箇所噛み千切り、色あせた布の束縛と共に取り去る。その下から出てきたのは、黒光りするなめし皮の鞘だった。
シリウスは作業の手を止め、運ばれてきたカクテルに口をつける女性に無言の問い掛けをする。その伺いに、女性も無言で頷き肯定の意を示した。
その返事を確認したあとで、シリウスは鞘から刀剣を僅かに引き出した。思ったよりも抵抗が少ない。あらわになった刀身は刺すような光を反射し、その表面に塗られた油がその光彩をなだめるように柔らかくしている。
刀表に目を凝らし、そこに彫られた微小な文字を確認してシリウスは刀身を鞘に戻した。
「ラーシャ……これ、すごいや。正真正銘、本物だよ」
少なからず感嘆を含む声。差し返された鞘を受け取り、彼女――――ラーシャはそれをベルトの金具に取り付ける。
「まさか、そんなにいい品が手に入るなんて……ホント、運がいいね。掘り出し物だと思うよ?」
「そう? ……まあ、あなたが言うなら間違いないんでしょうけれど」
平坦な声だが、そこには確かに喜びの色が伺える。すでにカクテルを飲み干していたラーシャは席を立ち、続いてシリウスも席を立った。テーブルの上に数枚の硬貨と紙幣を残し、二人で店を出る。
目に痛かったのは、真上に浮かんだ太陽の視線だった。
一日は、これから始まろうとしている。
「……今日も、暑い日になりそうだ」
目を細めて苦笑しながらシリウスがぼやくと、隣に立ったラーシャはそうね、と小さく呟いた。
二人は顔を見合わせ、通りにあふれる雑踏の中に足を踏み出した。
モロクの周囲は、高い白亜の城壁によって囲まれている。日干し煉瓦で構成されたその防壁は、ひとえに砂漠を徘徊する魔物たちの侵入を防ぎ街を守るためのものだった。
「今日は――――」
街と下界とをつなぐ唯一の門の脇。小さな広場となったそこに、二十人近い冒険者たちが集まっていた。シリウスとラーシャの姿もそこにある。
その一団に向かい合うようにして立った一人の青年が、傍らの木版に目を落としながら声をあげていた。門前のざわめきからほんの少し離れただけだが、それでも十分、声が届くだけの静寂が得られる……静寂という言葉の本来の意味とはかけ離れているが、この街でそんなものを期待は出来ない。これで十分だ。
「街道沿いのモンスター駆除が諸君たちの仕事だ。先日、プロンテアにあるギルド支部から連絡が入ったが、アルベルタに対するモンスターの襲撃事件があったらしい」
男の声に、一団に小さなざわめきが生まれた。困惑と、疑念。その両方に起因する。
「……どういうことかしら?」
ラーシャが、小さな声でシリウスにたずねる。ほとんど身長差のない二人は、一団の後ろの方で男の声を聞いていた。
「さあ、ね……でも、本当だとしたら洒落じゃすまないな。この大陸から安全な場所がなくなるよ」
軽く言ったシリウスだが、そこには確かに緊張の色が伺えた。
――――本来、魔物は人間を襲わない。そもそも、魔物とは人間に対し……それすら人間の思い込みなのだが……多大な殺害能力を有するある種の動物を、人間が勝手にそう呼んでいるだけだ。彼らとて無知でもなければ、無能でもない。本来は捕食、あるいは防衛のために携えた牙を人間に向けることの利点や、その危うさを十分に承知している彼らは、よほどのことがない限り人間に対し牙をむくことがない。
だが、こちらが何の行動を起こさずとも、一方的に襲い掛かってくる凶暴な魔物も確かに存在する。捕食者(アクティヴ)と呼ばれる彼らは、たとえその本能が彼我の戦力を悟っていたとしてもその牙を収めることはない。その習性がどこに起因するかは、長い間動物学者たちの中で議論が交わされているが、いまだに決定的な理由はつかめていない。
唯一の救いは、そういったアクティヴたちはその生息地がある程度限定されていることだった。故に、大陸にいくつか存在する大きな街はそういう危険地域を避けて設けられている。逆から言えば、そういった地域を避けることが繁栄への重要な礎なのだ。
「諸君たちが驚きを覚えるのも無理はないと思うが」
しばらく沈黙を守っていた男が、不意に声をあげた。良く通るアルト。ざわめきが急に遠くなる。
「モンスターは、自警団によってたいした被害もなく退けられたそうだ。この原因はもっぱら究明中だが、それに再発の可能性が少しでもあるのなら見逃すことはできない。襲撃には、本来アクティヴでないはずのモンスターまで加わっていたらしい――――そこで、我々都市自警団はモロク周囲のモンスター駆除、並びにもし襲撃事件が起こった場合に備え、その後に送られてくる都市復興に必要な物資の輸送路の安全確保をしようと思う。腕に自信のある者は、遠征隊と共に遠方に向かってくれ。だが、くれぐれも無理はしないように。モロク近隣のモンスターを駆除してもらえるだけで、我々は助かるんだ……有志の諸君に感謝する」
話は終わった。背を見せ、有志団から遠ざかっていく自警団の男。やがて雑踏に飲み込まれ、姿が見えなくなる。この場に集まった冒険者たちは、先ほどとは別のざわめきを抱いていた。
「どうする?」
瞳を覗き込むように、シリウス。
「私はどこでもかまわないわ。シリウス、あなたが行きたいところに」
すっ、と眠るように瞳を閉じながら、ラーシャは答えた。シリウスは苦笑し、ラーシャの備え付けた鞘に目をやる。
「……じゃあ、新しい獲物に慣れるまで街の近くでポリンでも狩ろうか。
そのほうが気が楽だろ?」
シリウスが尋ねても、ラーシャは何も答えない。
苦笑が深まり、もはや顔をしかめているのと大差なくなりながらシリウスは忠告した。
「――――いまどき、はやんないよ、そんな志。騎士でもあるまいし」
「――――でも、それは私の在り方だから」
ぽつり、と呟いた言葉。小さな小さなその言葉は、雑踏に飲まれるように風に消える。
シリウスは耳を少し隠す程度の髪をいじりながら、やれやれ、と嘆息した。
そんなシリウスに、ラーシャはほんの少しだけ顔を緩めた。それこそ、当人にしか気付かない程度に。
空高くには太陽が浮かんでる。
出発の時間まで、あと少し――――
振り上げたワンドを、無駄な力を入れることなくまっすぐに振り下ろす。
ばぢんっ、なんていう音がして、ピンク色をしたゼリー状のモンスター、ポリンの体が内側からはじけ飛んだ。その生体機構は無論、繁殖方法を含んだすべてがいまだ解明できないその魔物は、泣き声ひとつあげることもなく命を失った。
(失せ行く御霊に安らぎあれ――――)
胸の中で弔いの言葉をかけながら、シリウスは体に掛かろうとするポリンの体液を、纏ったマントで綺麗に防いだ。麻製のマントの表面にべっとりとこびりついたそれは、高い粘度を持つくせにまったくこびりつくことなく、ずり落ちるように砂の上に落ちる。砂の中に吸い込まれるまでに、さしたる時間は掛からない。
命があるのかどうかもわからない存在を殺したあとで、シリウスはあたりを見回した。右にも左にも広がっているのは、単調なだけの砂の波。モロクからさほど離れたわけではないが、この永遠に連なっているような景色は距離感を狂わせ、自分が遥か遠くまで来てしまったように錯覚させる。砂漠が人を惑わす原因のひとつは、間違いなくそれだった。
探し人は、すぐそこに見つかった。シリウスが日光浴(?)をしていたポリンに強襲をかけ、一撃で屠った平地からさほど離れていない砂丘の中腹。同じようにポリンを前に、抜き身の刀剣を構えたラーシャの姿がうかがえる。
ラーシャは、まだ攻撃を仕掛けたわけではなさそうだった……当然だ。ラーシャほどの使い手が、あれほどの業物を手にしている。その一撃を受ければ、実質、ウィローでも一撃でしとめられるだろう。ポリンが生き残れる道理がない。
攻撃はまだだが、明確な敵意を纏わせた人間を前にして、ポリンは防衛のために早くも攻撃態勢に入ったらしい。ドームを描くその体の上部が微かに後退し、不恰好な三角形を作り上げる。時折その表面に波紋が走るのは、風を受けているからだろうか。
一瞬、空気が凍りついた。
野生の本能か、ポリンが跳ねる。いくらおとなしい魔物といえど、その体から繰り出す攻撃は決して軽視できない。子供の腕の骨ぐらいなら、簡単に折ってしまうだけの破壊力は秘めている。
ポリンの攻撃は、素早かったと思う。
だが、ラーシャの斬撃はそれにも増す素早さだった。飛び跳ねたポリンが、ラーシャの肩を狙う。無駄のない野生の動き。それをしっかりと見据えた上で、僅か一瞬で走った剣のきらめきがポリンの体を縦に断ち切っていた。
おそらく。自分が両断されたことすらも気付くことなく、ポリンはその命を失った。
左右から吹き付けるポリンの体液が、ラーシャに直接降りかかる。けれどラーシャは何も厭わず、手にした新品の刃を天にかざす。露が浮かぶ、とでも言えばいいのだろうか。何もせずに立っていればものの一時間で倒れてしまうような熱気の中で、薄い片刃のその剣は冷ややかに輝いている。霜の刃――――あるいはそれを過ぎて、氷の刃だろうか。
「切れ味はいいみたいだね」
懐からハンカチを取り出しつつ、近づいていたシリウスが声をかける。ラーシャはそこで初めてシリウスの接近に気付いたようだった。ありがとう、と例を言いながらハンカチを受け取って、体に付着したままのポリンの体液を拭い去る。
「どう? 使った感じは」
「……怖いくらい。剣が体の一部と感じられるって言うけど、そんな比じゃないわ」
言うラーシャの声は飄々としていた。そこには少なからず恐怖が、あるいは歓喜が感じられる。
「なるほどね、名前は伊達じゃないってことか……それより、一旦引き上げない? なんか今日はヘンだ。魔物どこか、動物だってろくに見つかりゃしない」
シリウスは振り返るように周囲を見回した。見えるのは砂の海と、幾層にも連なった空気の大地だけだ。遠くにぼんやりとうずくまる影はモロクだろう。動くものなんて、それこそトカゲ一匹見当たらない。
ラーシャは、初めてそのことに気付いたらしい。あたりを見回して、小さく息を呑んだ。
「嫌な予感がする。こういう勘は当たるんだ……とっとと引き上げよう」
「そうね」
ラーシャが頷いた瞬間、突然近くの地面がずさ、と盛り上がった。
シリウスとラーシャのいる場所から少し離れた砂丘の頂に、一人の男の姿があった。
いや、男というには少し若い。青年と少年の間ぐらいの年齢。ろくに手入れもされていない黒い短髪は別段珍しいものではないが、体の表面のほとんどを覆っている装いの僅かな露出点から覗く肌は、あまり見かけない黄色がかったその色だ。
ジャケットに身を包んだ彼は双眼鏡をかけ、シリウスとラーシャの姿を追っていた。それぞれが一撃でポリンを撃破するのを見て、ほう、と感嘆の息を吐く。
「どうやらなかなかやるようで――――噂は確か、ってことか」
顔に浮かんだのは、苦笑とも、嘲りともつかない僅かな歪み。ジャケットのポケットに手を突っ込み、手のひらにすっぽりと収まってしまう黒い球体を取り出した。
黒い、とても黒い球体。ほぼ真球を体現するそれの表面には微細な傷が走っている。否、それは傷ではない。遥かな昔、それこそこの大陸に伝わる有史以前に存在したとされる太古の文字だ。髪の毛ほどの太さしかないそれをじっくりと見つめ、記憶した一節を見つけ出す。
口元が歪むのが自分でもわかった。
彼は歓喜の心を膨らませながら、その一説を指でなぞる。するとその個所の文字が白く発光し、がちり、と硬い小さな音がする。
かちり、かちり、どくん、と。僅かに、しかしはっきりと、そして次第に激しさを増すように、黒い何かが振動を始める。
――――鼓動。
「さて」
呟いて。
彼は傍らに置いておいた弓を手にとる。引いた弦に構えるのは矢ではなく、先ほどの球体だ。もはや振動の域を越えた鼓動は、ぴんと張った弦を楽器のように揺らし鈍い音を奏でた。
手を離す。
弾弓と同じ様相を呈し射出された弾丸は大気を引き裂いて、狙いどおり、シリウスとラーシャのすぐ近くの地面に命中し、砂を巻き上げることもなく地面の下にもぐりこむ。
「もう少しがんばってもらうか」
弓を脇に置き、彼はそう呟いた。
とっさに覚えたその感覚は、しばらく忘れていた懐かしいものだった。
「――――ラーシャッ!」
叫びながら砂を蹴り、剣をしまうラーシャの体に抱きついてそのままその場を飛びのいた。ラーシャが微かに体をこわばらせ、何かを言おうとするが――――それは息を呑む音に取って代わった。今まさに二人が立っていた場所を通り過ぎたそれが、不恰好に追撃を試みる。再び、シリウスは跳んだ。ラーシャを抱えたままで。
「シリウス。あれは――――」
腕の中でラーシャが呟くが、あいにく、気にかけている余裕はない。突如地面の中から姿をあらわしたそれを注視しながら、シリウスはラーシャを地面に下ろす。そして使い慣れて柄が擦り減ったワンドを構えた。
「あれは――――」
うめくように繰り返すラーシャの言葉を聞きながら、シリウスは構えたワンドを微動だにせず地面から生える一本の腕を見つめていた。
そう、腕だ。無骨な、一本の腕。砂で作られているのか、その色合いはモロク防壁の日干し煉瓦にも似ている。女性の腰ほどはありそうな太い腕はほぼ円筒形をしていて、その肘から上を地面の上に出し乱暴に振り回している。
シリウスは小さく、本当に小さく舌打ちした。
「まさか――――」
驚愕と、不信を含んだ声。仕方ないよな、と思いながら、シリウスは頭の中で魔法の公式を展開する。気付けば、地面から生えた腕が二本に増えていた。一対となった両腕はその動きを鎮静化させ、何かを待つように地面に伏されている。
(間に合うか――――!?)
気温。湿度。風の有無、そしてあるとしたならばその向きと強さ。彼我の高低さや環境に満ちるエレメントの割合などといった幾つものファクターを意識下のノートに書き写し、演算を行う。ぱちん、ぱちん、ぱちん。リズムを取るように、シリウスは指を弾いていた。
脳裏で想定した事象を周囲に現実として展開するという行為、それが魔法だ。過去における先人たちが組み上げた公式に、自らが先天的に保有する魔力を筆頭とする幾つもの変数を当てはめ、結果としてはじき出される解こそが魔法という現象に他ならない。
この事実を知らない者は魔法を奇跡の業と結び付けるが、とんでもない。魔法にはきちんとした法則があり、制約があり、反動がある。魔法とはあくまで技術であり、それは人間が生み出した人間の手に負える程度の矮小なものなのだ。
(それをきちんと認識し、己の力量を正確に見極めること。それが唯一己を生かす道だ……!)
その言葉は、かつてシリウスが師事したさる魔法使いの言葉に他ならない。幼少のうちに家族を亡くし、人間という尊厳すら無くして久しかった少年に魔法の才能を見出し、きちんとした道を作り上げてくれた魔法使い。その師に、シリウスは本当に感謝している。
ひときわ大きい振動。足元が揺れ、ブーツが砂に沈み込む。ぱちん、ぱちん、ぱちん。音楽団の指揮をとるように、シリウスは指を弾きリズムを奏でる。地面からはえた腕が小さく震える。
何かが、競り上がってくる……!
目の前に出現したそれを見上げ、ラーシャは今度こそ本当に息を呑んだ。彼女の身長の二倍はありそうな身の丈。平面だらけの、砂で構成された姿陰は単純に力だけを連想させ、腕だけがやけに長いという不揃いの均衡が不気味さすらも醸し出す。
鬼のように凶暴ながらも、能面のような表情。いや、そもそもコレに表情などあるものか――――絶望的に、ラーシャは思った。
「ラーシャ!」
怒声にも似た呼び声。
恐々としていた意識が、その一声で一瞬にして冷静さを取り戻す。
「……いける?」
緊張を孕みながらも、決して絶望や恐怖なんていったものを微塵も含んでいない声。
(――――ッ!)
まず感じたのは、情けなさ。そして恥ずかしさ。
なにが誓いだ。
なにが誓約だ。
私は、与えられた恩すらも返せないって言うつもりなのか――――!!
「ラーシャ」
「……いけるわ。大丈夫」
再度の呼びかけに、真新しい刃を構えながらラーシャは答えた。その瞳にはすでに、否、ようやく冷静さという冷たい輝きが戻っていた。
苦笑の気配。シリウス。
まさか、動揺まで見抜かれていた――――? そんなことを考えながらもラーシャは表情を崩すことなく、まっすぐに目の前の敵に向かいいる。
砂の中から現れたその魔物。
土人形(ゴーレム)と呼ばれ恐れられるその生命体を前に、ラーシャはようやく決意を固めることができていた。
先に動いたのは、ゴーレムのほうだった。
鈍い動作。ただし、そこから繰り出される破壊力はその巨体と相成っていかほどになるのかは知りたくない。新米の冒険者が己の力を過信して、この無機物の化け物に一撃で肉塊に変えられるなんてのはよくある話だ。
ごっ、と風をうならせながら繰り出される腕を、その場から飛びのくことで回避するラーシャ。それを見届けながら、シリウスは完成していた公式に魔力という原動力を流し込んだ。
「――――展開せよ!」
最後の一声。そして腕を振り下ろしながら指を弾く。ひときわ大きく聞こえたその音を皮切りに、シリウスとラーシャの足元が青く光る。
ゴーレムの二撃目が繰り出された。離れた間合いを詰めるため一歩を踏み出して繰り出された攻撃は、先ほどにも増す破壊力を秘めている。狙われたのはラーシャ。着地の瞬間、態勢を整えるまでの一瞬の間隙。決定的な隙を、ゴーレムは的確に突いてきた。
しかし、それは空振りに終わった。
ラーシャは再び砂を蹴っていた。予備動作すら感じさせない一瞬の動き。剣という鉄の塊を持っていることなど微塵も思わせない機敏な動作――――それはシリウスが展開した魔道式に依存する。
第五型魔道理論応用術式第二版。
正式名称をそうとするその魔道式は、一般ではごく単純に「速度増加」などと呼ばれている。
「はぁっ!」
気合、斬撃。横をすり抜けながら横に凪いだ刀身が、ゴーレムの肩を浅く掠める。
そのままゴーレムの背中に抜けたラーシャは、体勢を低く保ちながら顔をしかめた。あまり、よろしくない。砂で構成されているから剣でも大丈夫かと思ったら――――とんでもなかった。見た目の色と同じく、その硬度は日干し煉瓦のそれと大差ないようだ。たったいまがきん、と肩に切りつけた刀身からは激しい反動が返ってきていた。手首がしびれてしまっている。
(でも、それで刃こぼれ一つしないなんて、さすが――――)
冷静さを保つため、そんな些細なことを考える。傷ひとつ、刃こぼれ一つしていない刀身は相変わらず鈍く輝いていた。
視界の中で、ゴーレムが緩慢にこちらを振り返る。足元で舞い上がる砂煙。いっそそのまま砂中に沈めばいいのに、とラーシャは皮肉げに思った。
不意に、音が聞こえた。硬質ななにかを叩くような、そんな音。
いや、まさにそのとおりだった。
一瞬にしてゴーレムの右腕が粉砕された。こなごなに砕けて飛び散る破片の中、その打撃を食らわした主が体を捻る。わきの下を通す形で上下逆さに持たれたワンドを、ためにためた体のばねを弾けさせると共に横に一閃させる。
かっきいいぃぃぃぃぃん……そんな音がまた聞こえた。
「――――シリウス!」
驚愕と不安とでラーシャが叫ぶ。しかしそんな彼女の心配をよそに、戦士顔負けの動作をやってのけた聖職者はその場を飛びのいてラーシャの目前に降り立った。
「呼んだ?」
背中を見せながら平然と訊き返してくるシリウスに、ラーシャは言葉すら失ってしまう。かろうじて見えたのは、汗ひとつかいていない少年の横顔。むしろ安堵の表情さえ浮かんでいた。
「いや、運が良かったよ。こんな場所にゴーレムが出るなんて聞いたことないけど……なるほどね、そういうことか。ま、なんにせよ野性化する前で助かった」
す、とシリウスは構えを解いた。体全体に纏っていた、冷気にも似た雰囲気が薄れて消える。
それが殺気というものなのだと気が付いて、ラーシャは息を飲んだ。
シリウスは微笑みながら、肩越しにこちらを振り返る。
「さ、どうする? ラーシャ。その剣の試し切りには、ちょうどいい大きさだと思うけど」
果物屋で熟れた西瓜を指差すように、ゴーレムを指差す。片腕を――――否。シリウスによる二撃目で反対側の脚部を砕かれたゴーレムは、起き上がることもままならずにその場にうずくまっている。何度も何度も立ち上がろうとしているが、一本ずつ足りない手足にその巨体を持ち上げることは不可能だ。
結果として動けないでいるゴーレムに、シリウスは流れるように呪を風に乗せる。
「ずいぶんと久しぶりだな、こいつは。遊びか、それとも偶然か……」
ぶつぶつと呟くシリウスの言葉は、てんでわけがわからない。ラーシャは呆然としながらも、かちゃり、と剣を握りなおして構えをとった。
その音に、シリウスが我に返る。
「やるなら、胸部を狙えばいいよ。左の胸のあたり。ちょうど人間なら心臓があるあたりだね」
「……ないわよ、人間なんて、切ったこと」
「そりゃそうだ。はは、確かにね」
晴天の空のようにからりと笑うシリウス。数ヶ月前に出会ってから、何度か目にしたその表情。
それが感情を排除した仮面だと気付くまで、どれだけ時間が掛かっただろう。
「しっかりと柄を握るんだ。半端に握ると、反動で手首がイカれるよ。
そうだね、薙ぐより振り下ろした方がいい。あんまり先端のほうでやらないこと。まあ、半端な剣じゃないから刃こぼれなんてしないと思うけど、一応、だね。できるだけ柄のほうで、速さに頼らないで叩きつけるように振り下ろせばいいと思うよ」
さらさらと助言を述べるシリウス。ラーシャは黙ってゴーレムに近づきながら、聞こえてくる言葉の一つ一つを意識に書きとめた。これまで、シリウスの言ったことが外れたことなんて一度もない。
砂を踏みしめ、ゴーレムの目前にたたずむ。
「失せ行く御霊に――――」
小さく流れる、聖職者の忌句。それは多分、幾分が見透かせないシリウスという少年のどうしようもない本心だとラーシャは思っている。
剣を構える。言われたとおり、しっかりと柄を両手で握り締め振りかぶる。間合いは、普通に切るときよりも半歩詰めてある。ちょうど剣の腹より手前がその肩に叩きつけられるように。
「――――安らぎあれ」
最後の一句。
それを耳にしながら、ラーシャは渾身の力をこめて剣を振り下ろした。
ゴーレムが砂に還るのをガラス越しに眺めて、彼はげ、と声をあげた。
(しゃれんなんねぇな、あの坊主……なんて腕力してやがる)
攻撃を行う際のシリウスの行動は、まさに機敏の一言だった。それも生半可な程度ではなく、長い年月をかけなければ身に纏うことのない、洗練された身の運び。確かに体のばねを使うことで、その威力は数倍にも跳ね上がるが――――にしたって、ゴーレムの腕をワンドで砕くアコライトなんて聞いたことがない。
「親父の言葉も間違ってない、か」
呟き、双眼鏡をしまう。目を凝らして砂塵の向こうを見つめ、何も見えないことに苦笑してその場を離れた。