協奏曲U

 

 モロク郊外に広がる、活気にあふれた宿場街。さらにその隅に位置する小さな宿屋で、ラーシャは二階の自分の部屋を離れ一階の食堂兼酒場に足を踏み入れた。少し遅いが、夕食時といっても差し支えのない時間帯。当然のように、大して広くない食堂は多くの客たちで賑わっていた。

 軽く店内を見回し、やはり、といった感じで目当ての人物を探し出す。部屋の一番隅のテーブル――――かろうじて喧騒とは無縁な、ひどく狭まれたその界隈。古びた木テーブルに着席しているシリウスの姿を認め、その反対側に腰をおろす。

「どうしたの? なんか用?」

「食事を摂りに来ただけ。それなのに理由が必要なの?」

 少し意地悪く答えると、少年はそうだね、なんて苦笑しながら答えた。湯気を立てる深皿の中に入っているのは、野菜の混じったとろみのある白い液体。シチューだろうか。

 近くにいた店員に同じものを注文し、再びシリウスに向き直る。しかし彼はこちらになど構いもせず、手の中に握ったそれをまじまじと眺めていた。

 シリウスの手の中にあるもの。それは黒い球体だ。表面に幾つもの皹が走った、決して芸術的価値の付きそうにないもの――――ようはガラクタ。

 ラーシャはあきれにも似た息を吐いた。

「そんなもの、どうするつもり? どうせ二束三文にしかならないでしょう?」

「……それが普通か、な」

 納得するように呟いて、シリウスはそれを懐に入れた。ずいぶんと長い間放っておかれたらしいシチューの皿に手をつけようとして、ラーシャの言葉がそれを止める。

「どういう意味?」

 その声には、少なからず緊張が混じっていた。

「んー……ま、別に隠す意味もないか」

 言いながら、シリウスはしまったばかりの球体を再び取り出し、テーブルの上にことり、と置いた。完全な球を成しているはずのそれは、でこぼこな安物のテーブルの上に置かれてもぴくりともしない。

「これはね、俗に砂の心臓って呼ばれているものだよ。耳にしたことぐらいはあるだろ?」

「ゴーレムの生命活動の源となっている物質、だったかしら」

 自信なさげに答えるラーシャ。しかし、それも当然だ。ゴーレムなんていう強大な相手と一人で戦ったことなどない。彼女の持つそれに冠する知識は、プロンテアにいたころ、自称博識の祖父から授かったものだけだ。

「でも、砂の心臓はもっと大きいものじゃあ……」

「本来は、ね。確かにこれは本来の砂の心臓の半分ぐらいしかない。形も、色も違う。ま、構成成分が違うから当然なんだけど。

 じゃあラーシャ? 訊くけど、ゴーレムはいったい何のために作られたと思う?」

「――――作られた?」

「そう、作られた。ゴーレムっていうものは、もともと人間が作り出した魔法生命体なのさ。少なくとも、そういう説があるっていうのは事実だよ。今度折があったら、ゲフェンの魔道師ギルドに行ってみるといい。資料館の莫大な蔵書を探せば、その類の説は掃いて捨てるほど出てくるから」

 なんでもなさそうに語りながら、シリウスはシチューを木のスプーンで掬い上げ口に運んだ。ジャガイモの大きな塊をスプーンの裏でごりごりと潰しながら、シリウスは絶句するラーシャに続ける。

「まあ、何もゴーレムに限ったことじゃないけどね。本来生命体として活動することができないはずの生き物っていうのは、それがどんな形にしろ魔力の影響を受けているのさ。

ポリンがちょうどいい例かな。アレを潰したりなんかしたりしたときに、中身が散乱するだろ? あれはつまり、ポリンの内圧が大気の外圧より高いって意味さ。風船に針を刺すと割れるのと同じことだね。あの生き物は体内で魔力を精製して、それを常に自分自身に対して公式という形で展開し周囲の圧力を調整して、あの形を保っているんだ。その折に物質として作り出されるのが、僕らがゼロピーって呼んでる物質。今でこそ二束三文だけど、本来はジェム並に有用なんだよ……そこから魔力の残滓を抽出する技術が確立すれば、だけど。

 なんかだ話がずれたね。とにかく、ポリンみたいに魔力を用いて、つまり人間が意図的に作り出した生命体ってのは確かに存在すると思う。多少は師匠の影響があるけどね。ゴーレムはその筆頭ってこと。砂なんてものはそれこそそこらじゅうに散らばってるから原材料には困らないし、魔力に関しても、大きな物質に大きな魔力を込めるより小さな物質に少しの魔力を込めるほうが簡単なんだ。この場合は、最終的に一定量の砂に対してさらにゴーレムという「形」や「生命活動」とかいったさまざまな行動様式を記録させるためにまた公式を必要とするんだけど、媒質がそのまま触媒の役目も兼ねてるからね。これも、大きな岩をそのまま加工するより簡単なんだ」

「……シリウス?」

「じゃあここで問題。いったいどうして、ゴーレムは作られたんだと思う?」

 つらつらとうんちくを傾けていたシリウスの問いに、ラーシャはすぐに答えられなかった――――こんなにたくさん喋るシリウスを見たのが初めてという驚きがその理由の半分。残りの理由は、単に話についていけなかったからだ。

 ラーシャは少し考え、こちらの答えを楽しみにしているだろうシリウスに自分の考えを述べた。

「兵器として?」

「ご名答。まさにそのとおりさ。あれは本来、集落を襲うモンスターを撃退するために製作されたんだ」

「……でも、それじゃあ話がかみ合わないわ。

 モンスターを相手にするために作られたものが、逆に人間を襲うなんて」

「それはね、まあなんていうか、言っちゃえば過去の魔道師が馬鹿だったってこと。ゴーレムは兵器として用いられた。最初は一応、それでも一体一体が手作りのゴーレムばかりだったんだけど、そのうちゴーレムというものそれ自身がモンスター撃退以外の方法にも用いられるようになってしまった――――何が言いたいかわかるね?」

「戦の道具として使われ始めた、ということかしら?」

 ラーシャの答えに、シリウスは満足そうに頷いた。

「命令に背かず強力で、運用が容易で、大量生産が可能――――まさにうってつけだろ? 戦に使われたゴーレムは、それこそものすごい脅威だったに違いない。それだけで満足していればまだ救いはあったんだろうけど、そのうち魔道師たち、正確にはそいつらを抱えていた領主か誰かがだろうけど、とにかく誰かが更に効率的なゴーレムを求めた。そのころのゴーレムは一体一体が手製産だったから、量産には結構な時間が掛かったみたいなんだ。それをどうにかしようとしたのは、ま、戦略的に考えれば至極あたりまえのことかな。

 その誰かは、ゴーレムに唯一足りないそれを補おうとしたんだ。

 じゃあ、その足りないものが何かは、わかる?」

 少し考え、ラーシャは首を横に振った。いいかげん発想の限界に来ている。

 実家にいたころにこの国の歴史ぐらいは学んだが、魔物についてはその大きな生息分布を教えられただけだ。魔物がどうやって発生したかなどは、考えたこともない。

「ゴーレムに求められたのはただひとつ。自己繁殖の能力さ。

 いいかい? それまでのゴーレムは、何度も言うようにすべてが手作りだったんだ。しかもその技術は割と高等なもので、誰もができるってわけじゃなかった。更に、それなりの実力を持った相手には役に立たない。一見最強に見えたゴーレムの運用も、次第にその欠点が浮き彫りになったんだ。

 だから、魔道師たちはゴーレム作成の公式に変数を加え、さらに定数を加えた。長い年月が掛かったけど、とにかく、結果的にその試みは成功したんだ。性別を持たない単一生物として生殖が可能なゴーレム。生物的に完成したそれは、その大元であるひとつの固体がある程度成長すれば、株分けのように新たなゴーレムの元を精製してそれを外に排出することが可能になった。地面におちたそれは周囲の砂を取り込んで、新たなゴーレムとなる……生態的には植物に近いね。まあ、そんな経緯を経て、自動繁殖するゴーレムが生み出された。これは革新だった。新たな兵力を得たその領主は、大陸全土に戦をふっかけ……記録はここで途切れてる。

 これが、ゴーレムという生き物に対する魔道師ギルドの見解だよ。有史以来の文献をすべて漁った先人たちには敬意を表するべきだろうね、やっぱり。所詮歴史なんて改竄と抹消の繰り返しだからどこまでが本当かわからないけど、それほど事実とかけ離れてるとも思えないね」

 流れるように喋りきり、シリウスはグラスの中の水を傾けた。

 と、何も言えないでぽかんとしているラーシャを見て、逆にシリウスが疑問の声をあげる。

「どうしたの?」

「……物知りね、あなた」

 どうにか絞り出したその声には、どんな感情も含めることができなかった。

 シリウスは苦笑し、テーブルの上で手を組み合わせそこにあごを乗せる。覗き込むようにこちらを見るその少年の瞳は、とても楽しそうに輝いていた。

「あれ、知らなかった? 僕、天才なんだよ?」

「―――――――」

 今度こそ、本当に。

 ラーシャはその言葉を失った。

 

 

 呆然としていたラーシャが次に発したのは、くすり、なんていう微かな笑みだった。

「あ、ひどいや。笑うなんて」

「当然よ。天才? よく言えるわね、そんなこと」

 くすくすと笑いながら話すラーシャに、ようやく注文したシチューが運ばれてきた。よほど面白かったのか、笑みを浮かべながらそれに手をつける彼女を、シリウスは苦笑交じりに眺める。

「ま……いいけどね」

 こちらはこちらで、どこか諦めたような口調。

 と――――つい、と背後を振り返った。

「で、何の用かな? こっちの話は終わったから、聞いてあげるよ?」

 セットで運ばれてきたパンを千切っていたラーシャが、その言葉にぴくりと体を強張らせた。先ほどまで浮かんでいた笑みはどこへやら。いつもの静かな面持ちで、彼女はシリウスの視線の先に注意を送る。

 しばしの沈黙が流れた。フロアにあふれる人々のざわめきが、いやに遠くに聞こえる……まるで隔離されたみたい。それに耐え切れなかったのかはいざ知らず、やがて、一人の男が背後の集団から現れる。

「参ったな、お見通しかよ」

 髪を掻き揚げながらそう言ったのは、まだ若い、薄手のジャケットに身を包んだ青年だった。一見して何の特徴もなさそうだが、よく見ればその肌の色に気付く。この付近ではめったに見かけない黄色が掛かったその色は、海を渡って遥か彼方――――東方に多いと聞いた。

 青年は手をひらひら振りながらテーブルに歩みより、何も言わずに空いた席に着いた。

 ラーシャは男に気付かれぬように、剣の鞘に手を回す。それを察したシリウスが、ラーシャの行為を小さな声で嗜めた。

「で、君は? なんで僕たちを見てたんだ?」

 シリウスの問いかけ。男は小さく肩をすくめ、それに答えた。

「見つかった以上、答えなきゃルール違反だな。

俺の名前はアヤ。アヤ=シジョウ。用件は、そうだな。仕事の依頼に来た」

「依頼?」

 張り詰めた弦を思わせる声音で尋ね返したのはラーシャ。緊張を解いていないその姿勢は、まあ、正しいと言うべきなのかもしれない。

 男――――アヤは頷いて、シリウスに目を向ける。

「あんたがシリウスだろ? 噂はかねがね耳にしてるぜ。凄腕のアコライトだとか、破戒僧だとか。かつて凄腕の冒険者として名を馳せていたこととか――――」

 言いかけて、アヤの動きがぴたりと止まる。

 ラーシャは驚きのあまり、動くこともできないでいた。

「あんまり――――」

 どこから取り出したのか。そしていつ動いたのか。

ワンドの先端をアヤの喉に突きつけたシリウスは、静かな口調と冷たい鋭さでアヤに忠告した。顔には、いつもの柔らかい微笑を浮かべたままに。

「――――人のことをべらべら喋らない方がいいよ。用件だけ聞こう」

「……気に触ったなら謝る。だから、とりあえずこの杖を引っ込めてくれないか」

 言われるより早く、シリウスはワンドを手元に戻した。かたん、とテーブルの横に立てかけて、ようやくラーシャはそれが最初からそこにあったことに気付いた。

 多少青ざめた感のあるアヤは首元をさすりながら、恐々とした声を発する。

「ピラミッド、ってわかるよな、もちろん」

「馬鹿にしないでもらいたいわ。モロクの北西に存在する古代遺跡のことでしょう?」

「内部の構造は複雑そのもの。また、二階から上にかけては凶暴なモンスターがはびこる危険地域だね。数年に一度、国中の各ギルドが推薦するメンバーで構成された討伐団が組織されているけれど、いまだ最奥部まで到達した者すらいない」

 ラーシャの言葉を、シリウスが補強する。

 アヤは頷き、ほんの少しだけ、目を細めた。

「そのとおり。今まで構成されてきた三百と八十四の討伐団はみな消息不明――――死んだんだろうな。きっと」

「でも、それが依頼とどう関係あるの? 与太話ならよそでやってもらいたいわね」

「関係あるさ。ちゃんと最後まで聞け。

 ――――ま、ここまで言えばもうわかるかもしんねえけど、俺の持ってきた依頼はただひとつ。

ピラミッドの、その最奥部。

そこにいるとされるピラミッドの主を倒すことが、俺の持ってきた依頼だ」

 

 

 

 長い――――長い沈黙があった。

アヤはもう何も言わない。そしてシリウスは何も答えない。

笑みのまま。けれど感情というものが欠落した瞳で、アコライトの少年はぼんやりとアヤを眺めている。声をかけるにもかけられず、ラーシャは悔しい思いを抱きながら口をつぐみ、シリウスの言葉を待った。

食堂のざわめきすら気にならないその沈黙は、静寂よりも緊張で満ちているようだった。

「疑問が、いくつかあるね」

 平坦な声。

 夜の砂漠でシリウスと出会って数ヶ月、いや、もう半年になろうとしている。そんなラーシャでさえ、ついに耳にした事がないほどの薄っぺらな声。

 なぜか背筋を冷やす何かを感じながら、ラーシャは視線をアヤに移す。アヤは薄い笑いを浮かべながら、そんなシリウスを見返していた。

「なんだ?」

「ひとつ。目的。わざわざ危険を冒す必要がわからない。

 ふたつ。報酬。冗談なしに、命を落とすかもしれない内容だ。半端な報酬じゃあ、割に合わない」

 指折り数えながら淡々と述べるシリウス。

「目的は、そのままの意味だ。ピラミッドの最奥部にいるであろう、ピラミッドの主――――つまるところ、ピラミッドの中に生息するモンスターを統べるものを殺し、ピラミッドの中における安全を確保するため。

 報酬は、任せてもらおう。今回、俺のバックにはギルドそのものがついてる。盗賊ギルドの網を持ってすれば、望んで手に入らないものはないぜ?」

「――――あら、あなた、シーフだったの」

 ぽつりと、ラーシャが呟く。

 アヤはいまさらながらに彼女の存在に気付いたとでも言わんばかりに、こちらをちらりと盗み見た。

「そういや、聞こうと思ってたんだけどな――――あんた、誰だ?」

「……盗賊なんかに名乗る名前はないわ。

 行きましょう、シリウス。盗賊の持ってくる仕事なんて、信用する方が間違ってる」

「おいおい、言ってくれるな。確かに盗賊なんて信用するものじゃないけどよ、あいにく、俺はギルドの代表としてここに来てる。構成しているのが盗賊でも、ギルドは組織なんだ。約束を破ったりはしないさ」

「どこまで信用できるのかしら、その言葉は?」

「――――ラーシャ、少し、黙ってて」

 口論になりかけた二人を止めたのは、シリウスの冷静な一言だった。

 ラーシャは思いもしなかったその言葉に息を呑むんだが、仕方なく肩に入れていた力を抜いた。一方、アヤは面白そうに短く口笛を吹いた。

「さすが、噂になるだけのことはある。話がわかるな」

「どうでもいいよ、そんなことは。それより、最後の質問だ。

 ――――どうして、僕なんだ?」

 ようやく。

 ようやく――――ラーシャは気付くことができた。

「…………」

 シリウスの問いに、アヤは答えれないでいる。伺えば、その顔に緊張が走っていた。いや、それはむしろ戦慄か。額に浮かんだ汗は、おそらく脂汗なのだろう。

「さあ、答えてくれ。どうして、僕にその話を持ってきた?」

 口調だけなら、いつもと変わらない。むしろいつもより大人しいとすら思える。

 でも、それは所詮表面だけのことだ。相も変わらず顔に浮かんだ笑みの下。薄皮をむけば――――いや、むかずとも、そこに横たわったその姿は往々に汲み取れる。この世に存在するどんな刃よりも鋭利なその意思は、触れることも適わなければ近づくことだってできやしない。

(なんだ――――)

 迫力。いつものシリウスからは想像もできないような圧倒感。気配に飲まれるとか、そういった生易しい言葉ではとても表現できない。幸いなのは、それがアヤに向けられただけのものであって、決してラーシャに向けられたのではないということか。

 そしてただひとつ、嘆くとすれば――――その余波を感じるだけで身をすくめるこの自分だろうか。それとも、余波だけで自分を震え上がらせるだけの威圧を放つこの少年か。

 身動きひとつも取れぬうち、ラーシャはぼんやりと考えた。

(私は、ぜんぜん――――この人を、知らない)

「親父が……それが、いいって、言ったからだ」

 ぽつりぽつりと途切れ途切れに。おそらくは虚勢だけの表情で、アヤはそう返した。

 詰問は続く。

「誰だい? そいつは」

 拒否を許さぬ、絶対者の言葉。

 アヤは震える唇を噛締め、うめくように答えた。

「コート=ドート。先代の……ギルド会長だ」

 そうすれば、また、沈黙。

 ラーシャはどこか浮ついた意識のまま、シリウスとアヤの顔を交互に眺める。絶対の静寂と威圧を誇る聖職者。恐怖を、いや、畏怖を覚えて体を震えさせる盗賊。いつからここは裁判所になってしまったのか――――ぼやけた意識のままで、ラーシャはふとそう思った。

 アヤはおそらく、自分の持っているカードをすべて切っただろう。最初からそうするつもりだったのか、それともそうではなかったのか。後者だとしたら、この盗賊を愚か者と蔑む以外に道はない。シリウスと同じテーブルに着いて、何か隠し事をできるとでも思ったのだろうか。この少年をだませるとでも思っていたのだろうか。

 ここに来てずいぶんと久しぶりに、ラーシャは自分とシリウスとの距離を思い出していた……ずっと忘れていた。すぐ側にいて、いつでも笑みを浮かべているこの少年は、その実自分を超越した実力者なのだというあたりまえの事実を、とんと失念してしまっていた。

 不意に、シリウスが立ち上がった。金縛りにあっていたアヤは、そしてラーシャは椅子の動く音で我に返った。

「お、おい、待てよ!」

 ワンドを手にし、テーブルを離れようとするシリウスにアヤが声をかける。その声に応え、シリウスはぴたりと歩みを止めた。

「今すぐに、返事はできないね」

 振り返ることもなく、少年は告げる。

「少し考えさせてくれ。そんなに急ぐ内容でもないだろう?」

「――――ああ。でも、できれば早いところ返事を頼む」

「善処するよ。気が向いたら、こちらから連絡をとらせてもらう」

 歯切れよく言い切って、シリウスは食堂に満ちる人々をすり抜け外に出る。その背中を見届けて、ラーシャは勢いよく席を立った。

「あなた、すごいわね」

 せめてもの置き土産。

 立ち上がったラーシャは、安堵のため息をつくアヤにそう吐き捨てた。

「シリウスをあそこまで怒らせた人は、あなたが始めて――――わたしの知る限りではね」

 侮蔑と、嘲笑と。そしてほんの少しの優越が混じった笑みを向け、ラーシャは食堂を抜けた。

 

 

 

 外には、あたりまえだが、すっかりと闇が落ちていた。

 白い息を吐いたラーシャは、宿のドアの前で左右を見渡した。まっすぐ伸びる道には、この時間にしては珍しく人通りが少ない。豊富な星明りと窓から漏れる光彩で、人を探す分には不自由しなさそうだ。

 適当に見当をつけ、ラーシャは走り出した。僅かに流れる人々の合間を縫い、左右に視線を走らせながらシリウスの姿を求める。彼はそう急いでいたわけではなさそうだった。すぐに見つかる――――そう思っていた。

 しかし。

(おかしい……)

 宿の前に戻り、上がった息を整えながらラーシャは胸中で呟いた。いま辿った道――――ここから更に郊外に向かい、防壁の元にまで続いていた道にシリウスの姿はなかった。どこかの店か路地に入ったかとも思ったが、彼が宿を出た時間を考えればそれより早く接触できるはずだ。

 ならばと思い、一度宿に戻り反対側の道を同じように探すが、やはりシリウスの姿は見つからない。

(どこに……?)

 またしても宿の前に戻り、ラーシャは額に浮かんだ汗をぬぐいながらそう思った。今にして、探しようにも探す術がないことに気付く。シリウスが行きそうな場所、すなわち彼が行きたいと欲する場所――――そんな場所、見当もつない。

 ほんとうに、と彼女は苦笑する。本当に、私は知らないことばかりだ。

そもそも、なぜシリウスを探さねばならないのか。そんなことすらわからない。彼は彼の思惑があって外出したのだ。それが単に散歩をしたかったからなのかどうかは知らないけれど、なんにしたってひどく個人的な理由でしかない。自分が彼を探し、そしてその側にいなければならない理由が、とんと想像できない。

ひょっとしたら、彼だって一人になりたいのかもしれないのに――――そんな思いが脳裏をよぎるが、その意識はラーシャに彼を探すことを要求している。本当に、もう、わけがわからない。

つい、とラーシャは空を仰いだ。暗い夜の空。星の並びから、時刻がもうすぐ夜半を数えようとしているのが伺える。これ以上起きていたら、明日に差し支える。そんなことが頭を掠めるが、それはまあ、些細なことだろう。

(本当に、どこに行って――――)

 ぐるりと夜空を見回して、彼女の視線が一点で止まる。彼女が、そしてすなわちシリウスが部屋を取っている古い宿。ほぼ直方体をしたその外見の、屋根の淵。

 今まで考えようともしなかったその場所に、二本の足が見える。

 ラーシャは小さく苦笑して、宿の中に戻っていった。