夜想曲V

 

 星明りは、夜の闇にあっても視界を妨げないほどに明るかった。

 自室の窓から屋根に登ったラーシャは、高所が奏でる強風に髪をたなびかせながら、その淵に座り込んだシリウスの隣に腰掛ける。

「こんなところにいたのね」

 思わず漏れた声には、疲労とも、喜びともつかぬ響きが混じっていた。彼女自身にも、どちらの感慨が大きいのか判断がつかない。

 彼女の言葉に、シリウスがこちらに首を向ける。黒髪のアコライトは優しく苦笑して、とんでもないことを呟いた。

「ここから見えたよ、君が走っていくところ」

「ひどいわね。見えていたなら、声をかけてくれればよかったのに」

 非難の言葉さえ、どこか楽しそうに弾んでしまう。

 ラーシャの言葉にはははと軽く笑った彼は両手を背後の地面につき、体をそらせ夜空を仰ぎながら疑問を発した。

「どうして、そんなに必死に僕を探したの?」

「――――わからない」

 静かな問いには、静かな答えが返る。

 本心からの返答に、シリウスは黙り込んだ。ラーシャもかける言葉が見つからず、また、この沈黙を破る気にもなれず、膝を抱えて髪を風に流した。揺らぐ青の長髪は、それ自体が川の流れのようなものさえ連想させる。

 実は割と手入れに凝っているその髪を手で梳いていると、自然と心が落ち着いてきた。

 そうすれば、いくつかの「らしい」答えが胸のうちに浮かんでくる。

「……だって、私は」

「ん?」

「私は、あなたのことを何も知らない。こうやってモロクに留まり続ける理由も、聖職者の道を選んだ理由も、旅の目的も、生まれも育ちも何も知らない。

 だから私があなたを探そうとしたら――――必死にならないと、なにも見つけられないと……思ったから」

「……なるほどね。一理あるか」

 シリウスは軽く笑を貼り付けながらそう言って、夜空を仰いだままに言葉を継いだ。

「じゃあサービス。いま限定で、君の疑問に何でも答えるよ」

「シリウス?」

 今までとはどこか違った雰囲気。声も表情も、何も変りなどないはずなのに、それでも微かに感じられる違和感。あるいはそれはシリウスの浮かべた笑みに――――泣きそうなほどに自らを嘲笑うその笑みに由来するのかもしれない。

「さあ、時間はあんまりないよ。なにが聞きたいの?」

 何を言っても無駄と悟り、ラーシャ諦めて頭の中でいくつかの疑問をまとめた。

 指折り数えながら、風に流すように問い掛ける。

「あなたの生まれ故郷と、家族と、旅の目的。それだけでいいわ」

「少ないね。両手じゃまかないきれないぐらい尋ねられると思ったのに」

 シリウスの言葉には、苦笑の色が濃い。

 軽く頭を横に振った彼は、髪を掻き上げ、歌うように彼女の問いに答える。

「僕が生まれたのはアルベルタ――――その郊外だよ。スラム街って呼ばれる場所だね。窃盗暴行殺人強姦なんでもありのひどい場所さ。とてもじゃないけど、住めたものじゃない」

「あら、アルベルタのスラムならずいぶんと前に衛兵団によって区画整理がされたと聞いたけど?」

 ラーシャの疑問に、シリウスは小さく首肯した。

「そのとおり。けど僕はそれよりも早く先生……凄腕のマジシャンに弟子入りしたからね、そのことはよくわからないや。けど、そういう意味だと、確かに僕の生まれた土地はもうないのかもしれない。僕が生まれたのは、間違いなく汚水の匂いのする薄汚れた街角なんだ。整備され、舗装された並木道じゃないんだよ」

 シリウスの顔には、笑みが浮かんでいる。

「同じ意味で、家族ももういないね。そもそも親の顔だってろくに覚えていないんだ。僕がこうしている以上、確かに両親は存在するはずだけど、それ以上のことは何もわからないよ。知る術もないし、知りたいとも思えない。すべて今更なんだ」

 なんでもなさそうに、他人事のように。あるいは暗記した物語を紡ぐように語られるその話は、決して軽く流していいものではない。だがしかし、それを語った当人であり物語の主人公であるはずの少年は、そんな事実を笑ったままで口に出す。

 予想とは及びもつかないその過去に、ラーシャはただただ息を呑む。そんな彼女に気付いてか、それとも気づかずか、シリウスは淡々と先を進めた。

「僕にとって家族だったのは先生と……あとは姉弟子のパンドラっていう人。まあ、あの人とはもう何年も会ってないからいまどうしているのかは何もわからない。

 あとは……何だっけ。旅の目的か。

 そうだね、なんて言おうか。旅の目的。目的かぁ……」

 そこでシリウスは、困惑するように視線を遠くに向けた。夜の闇の向こう、町の中心をはさんだ向こうにあるのは遥かな過去の遺物――――ピラミッド。

 彼がそれを見ているかどうかはわからなかったが、とにかく、シリウスは遠くを見つめたままで残りの答えを吐き出した。

「知識の探求、かな。僕には実現したい目標がある。そのために大陸を西へ東へ北へ南へ。

今回モロクに来たのは、そもそもギルドの資料室から遺物指定の古文書が発見されたって聞いたからだよ。長いこと旅をしているからね、いろんな方面にいろんな人脈がつながってるのさ。こう見えて意外と顔広いんだよ?」

「……とても、そうは見えないわね」

 かろうじて出した軽口に、シリウスはよく言われるよ、と何も変わらず答えた。

「僕の話はこんなものかな。それほど面白いものでもなかったろ?」

「―――――――」

 シリウスの確認にラーシャは黙り込んだ。

 確かに、望んだものは手に入れた。シリウスがどういう人間なのか、これまでに比べれば格段によく知ることができた。

けれど、何かが違う。私が求めたのはこんな味のない知識ではない。そうは思いをしても、ならばこれ以上なにを訊けばよいのかもわからない。絶望か、失望か、落胆か。正体のわからない喪失感が、胸のうちを占めていく。

少年は笑いながら唄う。

「ラーシャ、明日も朝の修練はするんだろ? こんな時間まで起きてていいの?」

「……そうね、もう寝るわ」

 返せるのは、そんな変哲もない言葉だけ。

 半ば他に術がなく、ラーシャはその場に立ち上がった。意識はぼんやりとしていも、体は正確にその場を離れようとする。

「ラーシャ?」

 一歩を踏み出した彼女に、シリウスが声をかけた。

「なに?」

「アヤの話、どうする? それほど信頼できない内容じゃないと思うけど」

「……任せるわ。あなたがいいと思うように」

「だめだ。今回は、それじゃ困るんだよ」

 その言葉に、ラーシャは自分の耳を疑った。

「君の言い分はわかるよ。確かに、事実として僕と君との実力にはかなりの差がある。いっしょに行動する際には僕の決定を優先する、っていう約束も覚えてるけど、それでも今回は君の意見を聞きたいんだ」

 真摯な言葉。その裏にあるのが何なのか、彼女にはよくわからない。

「ピラミッド。太古の昔に建造された巨大な墓石。その内部に巣食ったモンスターの危険度は、これまで君が経験した比じゃない。簡単に言えば、今度の冒険で君は死ぬかもしれないんだ。君を守りきる自信がない。

 そりゃ、そうみすみすと殺させるわけじゃないけどね。今までの自警団の仕事とは、レベルが天と地ほどに違う。楽観はできない。絶対に。

 だから、君の意見を聞いておきたいんだ」

「…………私の返事は同じよ、シリウス」

 ふっ、と顔の力を緩めながら――――――ほんの僅かな微笑を浮かべながら、ラーシャはそう繰り返した。

「私はあなたに着いていく。それはどこまでも変えるつもりはないわ。

 それに、あなた言ったじゃない。あなたは天才なんでしょう、シリウス=シンシリティー? 大丈夫よ。あなたなら、きっと、私を守ってくれる」

 守られる側が言う台詞じゃないわね――――苦笑に変わった微笑の残滓を残しながら、ラーシャは胸中で呟いた。シリウスは、そんなラーシャの言い分に目を丸くしている。返す言葉もないようだ。

「おやすみなさい、シリウス――――いい夢を」

「……そうだね、おやすみ」

 小さな声で挨拶を交わし、ラーシャは屋上の淵から自分の部屋の窓に舞い戻った。

 

 

 

 ラーシャの姿が屋上から消えたのを見計らって、シリウスは深い深い苦笑を浮かべた。

「おいおい、なんだよ、あの言い方。僕を過大評価するのもいいかげんにしてほしいね」

 漏れた言葉は愚痴になったが、その瞳にはらんらんとした光が灯っている。別に、悪い気はしない――――それどころか懐かしいぐらいだ。

 ずいぶんと久しぶりだった。畏怖も、尊敬も、謙遜も。もろもろの要素すべてをぬぐい捨てた上でただ純粋に評価され、信頼されたのは、本当に数えるのが馬鹿らしくなるくらい久しぶりだった。

「あんなにはっきり言われたら――――」

 苦笑は変わらず。シリウスは、ローブの袖口から銀色のハーモニカを取り出した。

「――――気合も、入るってもんだね」

 つい、と空を見上げる。闇が一面を覆った世界。散らばった星の明かりは、まるで黒画用紙にガラスの破片を撒いたみたい。なんて美しい夜。澄み切った空気はどこまでも冷たくて、風は研ぎ澄まされた刃を思わせる鋭さで皮膚をなでる。

 風が出ていたことに、シリウスはようやく気付いていた。

 前髪をいじりながら、彼は闇の彼方に目を向ける。自然と細まる瞳には、狩猟者の輝きが、聖職者とは似ても似つかない危うさを秘めた光が灯っていた。

「……戻るのか? あそこに?」

 疑問は誰に対してか。

 確認は誰に対してか。

(そう、これは確認だ――――)

 ぼんやりとそう思いながら、シリウスはハーモニカを口に添える。伝わってくる金属の冷たさは、神経を走り抜け脊髄を揺らす。

(時間は……とっくに過ぎていたんだ)

 後悔すらも、すでに遅い。

 悔やむには、その罪はあまりに多すぎて。

 謝るには、その相手が多すぎてとてもできやしない。

「パンドラ、か」

 ぽつり、とハーモニカと口の隙間から漏れた声は、風に流れてすぐに消える。

(まだ居るのか? あそこに――――――――――)

 果てしなく、果てしなく鋭い目つき。

 ラーシャにすらみせたことのない刃の視線は、まっすぐに太古の墓石に注がれていた。

 

 演奏が始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 ラーシャは、硬い安物のベッドの上でその音楽を耳にした。

(シリウス――――?)

 半分くらい眠りに沈んだ意識は、その甘味を噛締めたまま覚醒しようとしない。胡乱とした頭に届くそのメロディーは、聞いたことのある旋律だった。

 ふと、開け放しだった窓のことを思い出す。この音は、きっとそこから入ってくるのだろう。

 曲目は、いつもと同じ“女王に捧ぐ歌”。完璧と謳われたその曲の中で、ただ唯一「駄作」の印を押された不名誉な個所。

 なぜシリウスが、その個所を好むのかはわからない。

 ただひとつわかるのは、この曲を奏でるシリウスのハーモニカの音色が――――

(なんて……悲しい)

 ベッドから動かぬままに、ラーシャはそう思う。

(こんなに悲しい旋律……なぜ…………?)

 疑問は、ろくな形を得ることもなく霧散する。

 もの悲しい旋律は、静かな子守唄となってラーシャの意識を包み込む。

 

 

 

 

 

 そうして、ラーシャはひどくあっさりと眠りの世界に落ちていった。