間奏曲

 

 手首のスナップだけで真上に投げ上げた石が、その軌道を上昇から下降に代えて目線の高さまでに舞い戻ってくる。小ぶりなジャガイモほどの大きさしかないそれを、シリウスはワンドを軽く握りながら静かに見据えていた。

 日は、まだ昇りきっていない。空は青というより紫を多く含んだスミレ色に近く、地平線に覗く太陽から注がれる日差しはシリウスの影を何倍にも長くして砂の大地に映し出す。

 どこかで鳥が鳴いていた。

 石は更に落下する。腰の高さを過ぎ、膝の高さまで来たとき――――初めて、シリウスは動いた。ほんの小さな動き。必要最低限の動作で、彼は使い慣れた木の杖の先端を軽く跳ね上げる。

 カツン、と音がした。石が再び、シリウスの目線より高く弾かれる。

 僅かながらの時間をかけてまたしても落下してきたそれは、シリウスのほぼ同じ動作によって三度空に跳ばされる。

 何年も続けてきたその修行は、ここに来て目をつぶってもできるようになっていた。半ば惰性で石を弾き上げながら、シリウスはそこから一歩も動かずにぼんやりと色の変わっていく空を仰いでいた。

(これは何度目の決意だ……?)

 ふと、そう思う。

 かつん、かつん、と単調な音は機械仕掛けの演奏箱(オルゴール)のように繰り返し奏でられている。

(十、二十、三十……もっとか。百に行くかもしれないな)

 いつしか彼は、石を弾き上げながらその瞳を閉じていた。握ったワンドの先端から伝わってくる僅かな振動だけを頼りに、それでも石は舞い上がり続ける。

(長いな……本当に長い。何度決意して、諦めた?)

 その答えは単純だ。いま、彼がここにいるという事実が全てを雄弁に語っている。

 かつん、という音の感覚が長くなる。石が始めたころよりも高い場所にまで跳ね上がっているからだ。目を瞑っているので、それが一体どれだけの高さかはわからないが――――感覚から、大人二人分の背丈ぐらいは雄に超えているだろう、とシリウスは思った。

(今度こそ、終わらせることができるのか? 長い長いこの戯曲に、幕を下ろすことができるのか? それも、この僕なんかに?)

 かつて天才と呼ばれた、この、自分に。

 できないことなど無いと自負していた、この愚か者に。

(いまさら、何ができるっていうんだ、クソ――――!)

 胸中の罵倒の一片も顔に出さぬまま、シリウスは石を跳ね上げた後ワンドをゆっくりと振りかぶった。神経の全てを周囲の気配に向け、今まさに落下しようとしている小石を意識の中に映像化(マテライズ)する。

 とくん、とくん、と耳に届くのは、他でもない己の心臓が打つビート。

(道化の奇術師――――ああ、ほんと、的を得ていますよ、先生)

 限りない昔。彼と、彼の姉弟子を捨てた偉大なる魔法使い。

 シリウスが、その尊厳と自信とをこなごなに打ち砕いた最初の相手。

 風を切り、ワンドの細い先端がまっすぐに振り下ろされる。

 

 ――――天才?

 

(僕は愚か者だ――――!)

 それは気合の代わり。

 胸中で絶叫したシリウスは、振り下ろしたワンドから伝わる手応えを確認した後で目を開いた。闇に慣れていた瞳が、すっかり昇った太陽の日差しに痛みを訴える。微かに浮かんだ涙をぬぐいながら、シリウスは自分の足元に転がる二つに割れた小石を見下ろした。

 そう。その石は、真っ二つに両断されている。

「……すごいわね」

 横手からかけられた声に、シリウスは驚きもせずに顔を向けた。そこに彼女が居ることぐらい、ずいぶんと前から気付いていたのだ。

「そうでもないよ。所詮単調な上下運動しかできない物体が相手だからね。

 練習すれば、誰にでもできる」

 自然と浮かぶ笑みは、今に始まったことではない。何年も昔。いや、それよりも遥かな過去の日。その日のパンすら保障されない生活で、誰からも拒絶されないように身に付けた処世術がただそれだけだったという話。

 シリウスの、あまりといえばあまりの言葉にラーシャは小さく息を吐いた。

「簡単に言ってくれるわね。

 悪いけど、私にはどうしてもできないわ、そんなこと」

「だめだよ、挑戦する前からそんなこと言ってちゃ」

 諌める言葉には説得力というものが欠ける。

 ラーシャはシリウスの言葉には応えず、軽く周囲を見渡した。夜が明けたといっても、まだまだ早い時間帯。あたりに人の姿などひとつも見えない。

「珍しいわね、シリウスが修行をするなんて」

「まあ、ね。ピラミッドだろう? 多少は気を引き締めておかないと」

「……そう。乗るのね、アヤの話に。

 正直、気は進まないわ。いまいち、私にはあいつが信用できないの」

「初めはみんなそんなもんさ。最初から信じる必要はないよ」

「でも、あなたは信用しているんでしょう? アヤのことを」

「――――君の次ぐらいに、かな」

 シリウスの言葉に、ラーシャは俯きながら小さくありがとう、と答えた。彼は苦笑しながら、ラーシャが手にした長剣に目を向ける。

「君は、これから稽古?」

「そのつもりだけど」

「久しぶりに相手でもしてあげようか? 正直、体が鈍ってるんじゃないかと思うと心配なんだ」

「本当? シリウスがそんなことを言ってくれるなんて……ずいぶんと久しぶりね。

 この街に来てしばらくしたら、ぜんぜん相手をしてくれなくなったじゃない」

「あれは、単純に君の調整をしようと思っただけだったのさ。体に染み込んだ癖を矯正しただけだよ」

 微笑みながらそう返して、シリウスはラーシャから距離をとる。その長さ、およそ十歩分。ラーシャにしてみれば、間合いの遥か外で――――詰めようと思えば、互いが一呼吸で零にできる距離。

「ラーシャも抜きなよ。真剣勝負といこう」

 杖の先端を背中に回す独特の姿勢をとりながら、シリウスがそう呼びかける。ラーシャは一瞬躊躇し、言われたとおりに刃を抜いた。どうせ自分の剣がシリウスに当たることなど無いと思ったからだ。

 薄い油膜の下に眠る金属の刃が、朝の光に霜を吹きそうなほど冷たく光る。

「……どうぞ、お手柔らかに」

「善処するよ」

 軽口に軽口で答え、シリウスは砂を蹴った。

 

 

 

 一瞬で詰められたその間合いに、覚悟していたとはいえ、ラーシャは驚きを隠せなかった。

(やっぱり――――速い!)

 走ってきた勢いを消さぬままに、シリウスが薙ぐように右手の杖を振るう。その一撃を剣の腹で受け止めながら、ラーシャは胸中で叫んでいた。

 シリウスのその攻撃に、威力らしい威力はない。力をまるで込めていないということは、緊張が微塵も感じられない彼の態度からも明らかだ。破壊力ではなく、あくまで素早さを重視したその一撃は、ラーシャの動体視力の限界でもあった。

「へえ、やるね」

 僅かながらも感嘆の響きを有する声。ラーシャがそれに答えるより速く、シリウスは二撃目を繰り出した。

 一撃を加えたその姿勢から杖を反対側の腕に持ち替え、流れるような動作で杖を振りかぶる。一見緩やかに見えるその動作は、単純に必要最低限の動作というだけで――――気が付けば、シリウスの振るったワンドの先端がラーシャの左肩を強打していた。

 たいした音も立てず、ただ電流の走ったような感覚が背骨を駆け上がる。

「――――ッ!」

 悲鳴を呼吸だけで消し、ラーシャは剣を胴の高さで横に振るった。回避の難いその一撃は、しかしその場に身を沈ませたシリウスの頭上を過ぎる。彼の頭部と剣の軌跡との間隔は、僅か握りこぶしひとつ分もあいていなかった。

 剣を振った勢いを利用し、そのまま彼女は横に飛んだ。一瞬の間隙を含み、ラーシャの喉があった高さにワンドの先端が突き出される。正確なその攻撃は、命中していれば彼女の喉を突き破っただろう。

 シリウスは更に動く。一撃が外れたと見るや否や、しゃがみこんだその姿勢から足のばねを弾けさせてラーシャの後を追った。先に着地したラーシャが剣を構えたとき、すでにシリウスは間合いの中に入っていた。

 予想以上の動きに混乱する意識をどうにか理性で押さえ込み、ラーシャは更に頭ひとつ分上半身を反らした。刹那の後に、その空間を跳びながら振るわれたシリウスのワンドが―――それも柄のほうの、杵のようになった個所が上から下に行き過ぎた。

「あれ、外れちゃったか」

 ぜんぜんらしくない声で舌を打ち、シリウスは飛び込んできたのと同じような動作でその場を飛びのいた。一瞬送れて、ラーシャの剣がその影を薙ぐ。

 今度は五歩分ほどの距離を開けて、シリウスとラーシャは再び対峙した。

「なかなかどうして、やるようになったね、君も」

「そう言ってくれると嬉しいわね」

 荒くなった呼吸を必死に押さえ込みながら、ラーシャはシリウスの軽口にそう応えた。小さな絶望が、背筋を走りぬける。こめかみを過ぎ、頬を伝ってあごから滑り落ちる幾滴もの汗を感じながら、ラーシャはシリウスをじっと見詰める。

 汗ひとつかいていないアコライトの少年は、嬉しそうに何度か頷いた。

「そのくらいの腕があれば、ピラミッドの中も大丈夫かな?

 イシス、とまでは言わないけどマミーぐらいならソロでもどうにかなるんじゃない?」

「試したいとは思わないわね。自信がないわ」

「そりゃそうだ」

 シリウスが苦笑するのに合わせ、今度はラーシャが体を弾けさせた。足のばねを開放し、一息で三歩分の距離を詰める。

残り二歩。

 シリウスはその顔に笑みを浮かべたまま、ゆっくりとワンドを構えた。棒術とよばれるその戦闘術が存在すると知ったのは、つい最近のことだ。棒――――棍は、近接戦闘においては、どんな武器よりも有用だという。

「――――はっ!」

 更に一歩を踏み出して、ラーシャは左側の腰に添えるような形で構えていた剣を、気合と共に反対側の上空へ、逆袈裟と呼ばれる斬り方で振るう。

「切る」のではなく「叩き潰す」感が強い諸刃剣において、一番有効な攻撃は体重を乗せた真上からの切り下ろしである。しかし攻撃範囲がひどく限定されるうえ、振り下ろした直後にはどうしても隙が生まれるという欠点もあり、ラーシャはどちらかと言えば横に「薙ぐ」形を好んでいた。

腰の捻り、踏み込み、呼吸。

どれもが完璧に近い完成度を見たと自覚しながら、ラーシャは渾身の力で剣を振りぬいた。

――――いや、振りぬこうとした。

がちっ、なんて音をして、白銀の刃が空中で停止する。

ラーシャが己の攻撃の失敗を悟るより早く、刃を受け止めたシリウスのワンドは攻撃を受け止めた点を支点にしてくるりと一回転し、先端が彼女の左肩を、それも先ほどと寸分たがわぬ点を素早く殴打する。

棍を用いた戦闘、つまりは棒術における最大の利点が、それだった。

すなわち、防御から攻撃に移行するさいの所要時間の短さ。僅か一呼吸のうちに二度の攻撃を与えることすら可能な棒術は、極めればどんな攻撃にも対応でき、そして相手が体勢を立て直す前に反撃が可能なのだ。不可避の返し刀。それが、近接戦闘において棒術が最強と謳われる所以である。

痛みを感じたのと、さらに流れるように距離を詰めた少年が彼女に当身を食らわせたのはほとんど同時だった。

無様にも転がされてラーシャが起き上がったとき、彼我の距離は三度開いていた。

「まったく、遠慮も、してくれないのかしら?」

 ずきずきと痛む肩を無視しながら、ラーシャはそう毒づいた。肩からの痛みだけではない。当身――――密着距離からの更なる踏み出しで、衝撃の全てを相手の鳩尾に叩き込む技術。内臓に与えられた衝撃のせいで、呼吸すらままならない。

 シリウスは静かにラーシャを見つめ、少しだけ顔をしかめた。

「ごめん、少しやりすぎた。いまのはいくらなんでもきつかったか」

 言いながら、彼は指を弾く。ぱちん、と聞きなれた音が耳に届くのとほぼ同時、ぼんやりとした暖かい何かがラーシャの体内の痛みをじわじわと薄れさせていく。

 回復式(ヒール)を展開したシリウスは、刃を受け止めたワンドをため息混じりに見下ろしながら彼女の元に歩み寄る。熱が心地よく、緊張が抜けたせいもあって腰を下ろしたラーシャに並ぶ形で彼もその場に座り込んだ。

「大丈夫?」

「……ええ。心配されるほどじゃないわ」

 汗のせいで頬に張り付く髪をはがしながら、ラーシャは少年の声に答える。

「ほんとごめんね。久しぶりに本気を出したから、どうにも体の制御ができなかったんだ」

 嘆息のようにそう言って、シリウスは手にしていたワンドを軽く掲げる。

「しかし、まあ、君もずいぶんと上達したね。まさかこれをだめにされるとは思わなかったよ」

「――――え?」

「このワンド、一応アンゼルスの応用で戦闘中は強度硬化させてるんだけど、その状態でまさか亀裂を入れられるとは思わなかったね。うん、さっきの一撃はすごくよかったと思う」

 つらつらと、あるいは淡々とそんなことを述べながらシリウスはワンドを両手でつかみ、その腕に力を入れた。何の抵抗も見せず、ぺきん、なんて乾いた音を立ててワンドが真っ二つに割れる。

 ささくれだった断面を見た後で、アコライトの少年は感慨深く呟いた。

「あーあ、ここまで深い亀裂だとは思わなかったな。ま、よくもった方か。安物にしては、結構頑丈だったな……」

「シリウス? いいの?」

「なにが?」

「そのワンド、あなたの愛用品ではないの? ピラミッドに潜るなら、使い慣れた武器でないと咄嗟の反応が鈍るわよ」

 真面目な顔をしたラーシャの忠告に、シリウスはきょとんとし、次の瞬間笑い声を上げた。

「大丈夫だよ。別にこれ、愛用してたわけでもないから。

 僕の武器は別にあるよ。いまはカプラ倉庫だけどね。そうだな、ちょうどいい機会だし、そろそろ返してもらうとしようかな」

 シリウスはすくっと立ち上がった。半分に折れたワンドを手につかんだまま、まだ座り込んだままのラーシャに告げる。

「午前中の間、少しぶらぶらしてくるね。君も適当に時間を潰してて。

 数日のうちにピラミッドに潜るから、ラーシャもいろいろと用意しておいた方がいいよ。薬とか、携帯食とか。あと、しっかりと睡眠をとっておいた方がいい」

「……わかったわ。朝食はどうするの?」

「んー……ま、朝ご飯ぐらいは食べていこうかな。せっかく食堂もあることだし」

「じゃあ、そろそろ戻りましょう? もう食堂が開いていてもいい時間だわ」

 大量の汗をぽたりぽたりとしたらせるラーシャは、言って立ち上がった。痛みはすっかりどこかに消えていた。残ったのは筋肉を酷使した代償の疲労だけだが、こればかりはすぐに消えるものでもない。

 朝食を食べたら水浴びでもしようかと真剣に考えるラーシャは、太陽を仰ぐシリウスの横顔を見て息を呑んだ。

 ん、とシリウスがこちらの視線に気付く。

「どうしたの?」

「……いいえ、なんでもないわ。悪いけど、先に行っててくれないかしら」

「ん、わかった」

 遠ざかっていくシリウスの背中を見つめながら、ラーシャは胸中で恐々と呟いた。

(シリウス―――――汗ひとつかいてないなんて、嘘でしょう?)

 ずいぶんと久しぶりになる手合わせではっきりしたのは、やはり、自分とシリウスとの絶望的なまでの開きだけだった。顔を悲しみにしかめながら、それでもラーシャは抜き身のままだった剣をしまい、シリウスの後を追って歩き出した。