行進曲T
地平線の上に、いままさに上ろうとしている太陽が見える。
空の色は藍。夜という闇から抜けきれることも、昼の光にも染まれ切れずにいる中途半端な色彩。
一日がゆっくりと始まろうとしていたそのとき、シリウスとラーシャは街から少し離れた位置にそびえる遺跡へと足を向けていた。
「…………」
眼前を見据える――――否、前方に見えるピラミッドを睨みつけるシリウスの様相はいままで見たこともないほどに厳しく、同時に空虚でもあった。ピラミッドという、あまりに危険なその場所に足を踏み入れることを躊躇しているのだろうか。一歩半後ろを歩きながら、ラーシャはぼんやりとそんなことを考えていた。
思い出せば、あの日からシリウスはどこかおかしかった。今日から数えて、四日前。あのアヤという男が依頼を持ってきた、その日から。
別段、彼が何か変わったわけではない。いつもと同じ、そう、いつもと同じ、ラーシャがよく知るアコライトの少年だ。なのに違和感を感じてしまうのは、長い間共に行動をしてきたからだろうか。表面上は何ら変化を見せないシリウスの、おそらくは葛藤を感じ取ってしまったのは。
葛藤。
葛藤だ。
なにに悩む必要があるのだろう、とラーシャは訝しがる。ピラミッドの内部は、それは確かに危険な空間だ。出現する魔物の数も、種類も平原のそれではないと聞いている。
だがそれは、シリウスにとって些細な問題ではないかと、彼女は確信に近い思いを抱いていた。強力な魔物。しかし、どれほど強力な魔物がどれほどの数で群れを為してこようと、シリウスはきっと笑いながらそれを捌いてしまうだろう。
むしろ疑問が残るのは、自分のほうだ――――自分でも泣きたくなるほど冷静に、ラーシャはその事実を認めていた。
ここ数日、彼女が毎日欠かさずに行っていた朝の修練に、シリウスも姿を見せるようになっていた。筋力の低下を防ぐ一連の運動を終えた後には簡単な手合わせを行っていたが、シリウスに勝つ、いや、一撃を入れることすらままならなかった。
シリウスは果てしなく強い。
そして、自分は――――?
胸に追い払うことのない暗雲を立ち込めたまま、ラーシャは黙々と歩く。
ピラミッドは、もう目前に迫っていた。
ピラミッドというのは、いうまでもないが、太古の人々が残した王を祀る聖墓である。もともと拝礼を前提としないその建造物に、当然のごとく入り口というものは存在しない。外壁が完成した時点で、それをそうとわからぬよう、周囲と同じ切り出した岩でふさいでしまうからだ。
これはひとえに王の墓を暴く者、つまりは墓荒しを退けるためのからくりであり――――ゆえに、俗に“入り口”と呼ばれているそれは、そのものずばり先の墓荒らしが周囲の壁を手当たり次第に破壊し、偶然内部の通路に通じた穴のことを指す。
そんな、外壁にぽかりと空いた穴の脇に背中を預け、盗賊の男が二人を待っていた。
「――――よう。おはようさん」
「おはよう」
シリウスとラーシャの接近に気付き、アヤが声をかける。それに答えたのは、先を歩いていたシリウスだけだ。
「…………」
ラーシャは何も言わず、シリウスの半歩後ろについている。
それを見て、アヤが呆れたような声を上げた。
「おいおい、誰だよあんた」
「この娘はラーシャ。僕のパートナーだよ」
顔に浮かんだ笑みはそのままに、少年はアヤの疑問を一言の元に切って捨てる。
ち、とアヤはいまいましそうに舌を打った。
「勝手にしてくれ。けど、自分の身も守れないやつがどうなっても、俺の知ったことじゃないからな」
身を翻し、アヤは暗い入り口に足を踏み入れた。シリウスは肩をすくめ、ラーシャは依然として無言のままにその後に続く。乱暴に削った跡が往々に見られる横穴をしばらく歩くと、やがて壁がきちんと整えられた通路に出た。もともと存在した、正規の通路に横穴が合流したのだ。
左右の壁には、等間隔で燃え盛る松明が掲げられていた。黄色いぼやけた灯りに照らされたその場所に、人の姿はない。前後に延々と続く道は割と余裕ある横幅をもっており、数人が一度に行き交ってもまるで問題はなさそうだった。
「まずは、ギルドの方に顔を出させてもらうぜ。
奥に進むには、そこに続くためのドアを開ける必要があるんだ」
言いながら、アヤは手近な松明に手を伸ばす。
しかしそれより一瞬速く、シリウスの展開した魔道式によって生み出された青い炎の球が、アヤの頭上に浮かび上がった。
「これでいいだろ?」
アヤは頷いて、そのまま整地された道を歩き出す。
とても静か。薪のはじける微かな音も、どこか遠くに忘れてきてしまったかのように気にならない。生物の気配がひどく希薄なその場所は、まさに墓の中、といったところか。
「――――おかしいわね」
しばらく歩いて、ラーシャがぽつりと声を漏らした。
「なにがだ?」
「この人気のなさはなに? 仮にもギルドの本部でしょう? なのにさっきから一度も人とすれ違わないのはなぜなのかしら?」
「ああ、そんなことか。いま、ギルドのメンバーはほとんど出払っているだけだ。
あんたも聞いたことがあるだろう? アルベルタにモンスターが襲撃をかけてきたって話」
「それなら知ってるわ。でも、それがどうしたの?」
「人の話は最後まで聞くんだな。つい最近そんなことがあったばかりだぜ? アルベルタの住民が魔物に抱く危機感は尋常じゃない。パニックが起こる前に、国立の防衛団を派遣して見かけだけでも安全を高める必要があると、国のお偉方は判断した。
そのために組織された特別防衛団――――「理論の盾」に、構成員の大半が引っ張られたのさ。さらに、残ったメンバーも最近はモロク周辺で積極的にモンスター排除に参加している。
そんなこんなで、いまギルドに残っているのはその機能を行使するだけの最低限の人員だけなのさ。人気がなくて当然だ」
「――――引っかかるわね。なぜ、あなたたちなんかが国立の防衛団に参加できるのかしら?」
いつまでも刺を含んだラーシャのその言葉に、アヤは虚を疲れたかのようにきょとんと目を見開いた。絶句、それもおそらくは呆れの感情からくるそれを感じて、ラーシャは小さく目を細める。
「何かしら? 言いたいことがあるようだけど」
「なにって、あんた――――」
「ねえ、ラーシャ」
アヤの言葉をさえぎって、シリウスが彼女に問い掛ける。
「君、もしかしてものすごい勘違いしてない?」
「……え?」
「どうして君がアヤを毛嫌いするのかわかんなかったんだけど……ひょっとして、シーフギルドが犯罪集団だとでも思い込んでない?」
「そうじゃないの?」
ラーシャのその返答に、シリウスは苦笑とも取れる小さな笑みを浮かべた。
「違うよ。シーフは法(ロウ)を無視して犯罪行為に走る野盗(ラバー)とは一線を画しているんだ」
「世界中にいくつかあるギルド――――戦士、魔法使い、僧侶、弓者、商人。これらの位置はあくまで同一だぜ? シーフギルドが持っている権限はすなわち戦士ギルドが持っているそれだし、俺たちが従わなければならない命令は大陸総統府のギルド管轄省からの直命だ。俺たちはあくまで法に従い、理論(ロジック)で行動する国立機関だぜ?」
「そもそも、シーフギルドって呼び方そのものが間違いなのさ。やってることは、事実傭兵斡旋所みたいなことだしね」
アヤとシリウス、それぞれの説明にラーシャはえ、と間の抜けた声を上げた。
「そうなの?」
「そうだよ。本当に知らなかったんだね」
シリウスの言葉には、やはり苦笑の色が濃い。
ぽかんとするラーシャに、アヤは呆れた声で言った。
「おいおい、こんなことぐらい常識だぜ?」
「――――ごめんなさい。初耳だったわ」
素直に、ラーシャは頭を下げた。完全な誤解だったことは火を見るより明らかだし、その非がこちらにあることも十分すぎるほどにわかってしまう。
「まあ、いいけどな……ギルドの構成員の多くが、元野盗のなり崩れだって言うのは事実だし」
そんなことを話しているうちに、やがて道の先に明らかに後付けされたと思われる木のドアが姿を見せた。
「ここだ。少し待っててくれ、すぐに――――」
「コートに会えないかな?」
アヤの言葉をさえぎって、シリウスは微笑みながらそう言った。
「親父は……どうだろうな。中にいるにはいるだろうが、会えるかどうかは…………」
「大丈夫だよ。僕が来たって言えば、向こうから会いに来る」
逃れようとするアヤに、少年は静かな声で迫る。言い切ったその言葉は、絶対の自信の元に発せられたものだ。
抗っても無駄と悟ったか、アヤは小さく頷いた。
「わかった、呼んでくる。ここで待っててくれ」
言い残して、僅かに開けたドアの隙間から中に滑り込んでしまう。
ラーシャは一瞬後を追おうかとも思ったが、シリウスが何もせずに佇んでいるのを見て、くだらないことね、と自分自身に呟いた。
不意に沈黙が訪れる。足音も聞こえなければ、耳に届くのはただ薪の弾ける微かな音だけだ。生き物の発するものですらないそれを聞き流しながら、彼女は顔だけをシリウスに向けた。
聖職者の少年は、身動きひとつせずに廊下の壁に背中を預けていた。軽く腕を組み、あごを引き、その瞳を静かに閉じていた。息をしているのかどうかすらも疑わせる、まるで彫刻のような姿勢。
不意に彼女は、シリウスの気配がひどく薄いことに気がついた。いま目の前にいて、腕を組んでいる少年のそれをまるで感じ取ることができない。気配を殺す、という技術は確かにあるが、いまシリウスがそれを行っているとは思えない。こんな場所で行う意味がないからだ。
だとしたら、ひょっとして。
少年にとって、ダンジョンの中で取る必要最低限の警戒ですら、このレベルを誇るとでも言うのだろうか?
「ねえ、シリウス――――」
それは恐怖。この少年の底は、伺えないほどに深いといくら頭で理解しても拭い去ることのできない生き物としての恐怖。
心持ち震える声をして、ラーシャは問い掛けた。
「コート、と言ったかしら? あなたが会いたいと言ったのは」
「そうだよ。コート・ドート。二十年ぐらい昔にシーフギルドの代表になった人物さ。
まあ、悪い人間じゃないから安心していいよ」
「知り合い?」
「まあね。しばらく前にパーティーを組んで迷いの森に探検に行ったことがあるんだ。
あの時はさすがに肝が冷えたけど、僕の方にも十分すぎる利益があったからまあ無駄じゃなかったね」
「迷いの森って、まさか、プロンテラの北に広がるあそこ?」
「そ。うっそうと茂る原生林の影には凶暴な魔物が生息し、その奥地には悪魔すら姿を見せるという秘境。それとも魔境かな。僕たちの世界と精霊たちの住む世界をつなぐ唯一の場所だよ、あそこは」
言い終わるのと同時、シリウスは背中を壁から離しドアに向き直った。間を置かずして、小さな軋みの音を立てながら木作りのドアが開く。ほんの僅かに空気が動いて、地面にうっすらと積もった砂塵が少しだけ舞い上がった。
「やあ、コート。久しいね」
ドアから出てきたその人物に、シリウスは気さくに声をかける。
その男――――日に焼けた肌と、つるりと禿げ上がった頭をした厳つい顔の男。歳はおそらく六十を超えているだろう。だが、その衰えをまるで感じさせない体つきと眼光は、外見から伺わせる年齢を疑問に変える。身に着いた筋肉は、特別製なのか、やけに大きなジャケットの上からでも簡単に見抜くことができる。
彼はシリウスを一瞥し、にやり、と口の端をゆがめた。
「おう、久しぶりだな、シリウス――――まだ生きてやがったか」
「あいにくとね。なかなか死ねないよ」
軽口を交わしながら、二人はどちらからというわけでもなく手を差し出して握手を結ぶ。
簡単な再会の挨拶が終わるとほぼ同時、シリウスは顔をしかめて言った。
「ねえコート、確かあのときに契約したはずだよ?
僕と係わり合いを持たせるのは、ただ一人に限るって――――彼がそうなのかい?」
「ああ、そうだ。いまは別のヤツがアタマにいるが、あいつは駄目だな。シーフとしてのセンスが足りない」
「アヤにはそれがあるって? ……まあ、確かにそうかもしれないけどね」
シリウスは軽く肩をすくめた。それを見てか、コートが意地の悪い笑みを見せる。
「しかし何だな、シリウス」
「ん?」
「おまえもなかなか隅に置けねえじゃないか。こんないい女を侍らせてるなんてよ」
「――――私のことかしら?」
他には誰もいないのだが、ラーシャは取りあえず確認を取った。案の定、コートは肩を震わせてくくく、と笑う。
「他に誰がいる? おいシリウス、おまえ、一生一人身で通すんじゃなかったのか?」
「……勝手に言っててくれ。からかわれるのは目に見えてたから」
何を言っても無駄だと知っているのか、コートの言葉にシリウスは諦めの息を吐く。
と、ふと真面目な瞳をし、少年は自分の倍以上生きている老練の男に問い掛けた。
「ひとつ聞きたいんだけど、アヤは一体どこの生まれなんだ? まさか、君の本当の子供ってわけでもないだろう?」
「どうして言い切れるの?」
疑問をはさんだのはラーシャだった。
聡明そうな顔をして、その反面どこか抜けているその女性にシリウスは短く答える。
「ファミリーネームだよ。ドートとシジョウじゃあ、聞き間違えようにもそうはいかないだろ?」
まさか気付いてないわけないけどね、とシリウスは付け加える。
「それに、シジョウってのはこの大陸じゃまず聞かない種類の響きだ。
どう考えても、君とは結びつかないんだよ」
「あー、まあ、そうだな。
アヤはな、確かに俺の子供じゃない。あいつは、俺がアルベルタで拾ったんだ。名前は、入っていたゆりかごの中にそれを書いた紙があった」
「――――――――」
あっさりともらされたその言葉に、ラーシャは小さく息を呑んだ。しかし、そんな彼女とは対象にシリウスはあきれにも似た顔を見せ、やっぱりね、と短く呟く。
「そんなとこだとは思ったけど……やれやれ。密航者の子供か、それとも…………
まあ、関係ないか。どこで生まれてようと、それなりにまっすぐに育ったみたいだ」
「まあな。もっとも、俺に拾われなきゃもっとまともに育ってただろう」
「スキルのほうは? 君の直伝かい?」
「ああ、そうだ。あれでなかなかの使い手だろう? 将来が楽しみだ」
「ま、あの年齢であれだけ気配が消せるなら、十分だろうね」
言って、シリウスはラーシャに顔を向けた。軽く肩をすくめる。
「ラーシャは気付いてた? この間、ゴーレムに襲われたとき、少し離れた場所でこっちを見ている気配があったこと」
「――――ぜんぜん」
驚き混じりの彼女の返答に、少年はでしょ、と呟いた。
「あの遠距離から弓が届くわけないと思って放っておいたけど……まさかマザーを作られるとは思わなかったな。
コート、備品管理が甘いんじゃないかい? あれは門外不出のはずだよ」
「……それは初耳だな。そうか、いつのまにかひとつ無くなってると思ったら…………」
「あとできつく叱っておけよ、『親父』さん?」
からかうようにそう言って、シリウスは笑みを浮かべた。
しばらくして、再び音がしてドアが開いた。
最近の各ギルドの情勢だとか政治勢力の移り変わりだとかに会話の内容を移していたシリウスとコートは、話を止めてそちらに顔を向ける。話の内容についていけなかったラーシャは、もとよりそちらに目を向けていた。
姿を見せたのは、無論、アヤだった。鉤束を手にしたシーフの男は、小さく頷いて二人を呼んだ。
「許可が出たぜ。こっちだ」
「いま行くよ――――じゃあね、コート」
「さようなら」
軽く手を掲げて挨拶をするシリウスと、言葉だけでそれを済ますラーシャ。
コートは腕を組み、力強く頷いた。
「おう、行ってこい。気をつけてな――――アヤ、てめぇもだぞ」
「わかってるよ、んなことは」
苦笑に顔をしかめながら、アヤは二人をドアの奥に通す。最後にコートに一瞥をくれ、アヤ自身もドアを潜り抜けた。
音もなく、ドアが閉まる。
一人その場に残されて、しばらくしてコートは腕組みを解いた。厳つい顔に浮かんでいるのは、それまでの陽気なそれではなく、心の臓に患いを抱いた者が希薄な希望に縋る時に浮かべるような、そんな表情。
無謀だ、というのはわかっていた。しかし、元野盗が多いこの組織の頂点に立つということは、それだけ自分の力を誇示するということだ。そのために、頭領となるものにはいくらかの条件が課せられる。
そのひとつが、これ――――生半可な腕では片道切符しか手に入れられないピラミッドの最奥部に行き、そこにいまだ眠る数々の遺宝を入手してくることだ。
いまの頭領は、それを全て他人に任せた。腕の立つ冒険者を雇い、自分だけは比較的浅い場所にとどまり彼らをピラミッドに潜らせ、宝捜しをさせた。悪い手ではないと思う。ルールには何一つ反していないし、自分の身も安全だ。もっとも、それでも十人近い冒険者が帰らぬ人となりはしたが――――
コートは小さく、本当に小さく息を吐いた。
「頼むぜ、シリウス…………クラウン・ウィザードさんよぉ」
ただ、気がかりが、ひとつある。
アヤがよくつるんでいた同年齢の若者が、面白半分にルールを破りピラミッドの奥に進んだ。以来、その青年の姿を見た者はない。そしてアヤはよく零すようになった。
“オシリスがいなけりゃ、こんなことには――――”
遺宝を手に入れてくるだけでいい。無理に危険を冒す必要はない。
「馬鹿な真似をするなよ…………?」
弱くなったな、と自虐的に考えながら、旧頭領は形だけの笑みを浮かべた。