行進曲V

 

 

 保存を良くするために必要以上の香辛料で味付けされた干し肉をごくりと嚥下して、ラーシャは誰にもわからぬように小さく息を吐いた。呼吸のためのそれでなく、純粋な消耗から繰るそれは、既に数え切れないほど繰り返されている。

 静かにはぜる焚き火の炎を視界の中央に収めながら、視界の両端に映る二人の姿に注意を向ける。聖職者の少年と、盗賊の青年。その二人の実力は、今しがたの戦闘で存分に確認できた。

 もっとも、かと言ってその動きを直に見たわけではない。しかし、いまの余裕に充ちたその態度が二人の戦闘能力のほどを雄弁に語っている。アヤは、おそらく、自分とそれほど大差ない腕の持ち主のはずだ。あの時の記憶、ゾンビの総数を確認した時の記憶が確かなら、彼の撃破数は僅か一でしかない。自分は零だが、もう少し、ほんの少しだけ呼吸を誤らなければ一体は撃破できただろう。そこにあるのは、僅かな差でしかない。

 もっとも――――その差が、実戦において生死を分ける境界線なのだということは、彼女にもよく理解できていた。実力的な立ち位置はほぼ同じ。ならば、おそらく。彼と彼女との間にあるのは、小さな階段だ。

 その段差は多分とても小さなものだけど、なぜだろう、自分がそれを越せるとは思わない。

 戦力にならないのは自分ひとりだ――――――――その事実を改めて突きつけられ、ラーシャは奥歯を噛締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シリウスはおそらく、消沈するこの少女を見て気をもませているのだろうが、そんな二人は傍から見て全く同じにしか見えないという事実にはまるで気付いていないに違いない。持参した皮製の水袋の中から生ぬるくなった水を口に注ぎながら、アヤは面白くなさそうにそう思った。

 くだらねえな、と容赦なく胸中で吐き捨てる。そこには侮蔑の色が濃い。

 アヤは以前、養父となる人物からシリウスという少年のことを――――いや、シリウスという存在についての諸々を聞いていた。少年がかつて養父に打ち明けたこと、その情報とほぼ同じものを握っている。

 彼が初めてシリウスという人物のことを聞き及んだとき、まず感じたのは何よりも深い畏れの感情だった。雲の上の人物、という言葉があるが、そんなものでは及びも足りない。一生、いや、何度生まれ変わって挑戦しても決して敵うことのない絶対的な超越者。それがシリウスのはずだ。

 なのに、こいつはどうだと言うのだ――――実力は、確かに聞いていたとおりのものだ。いや、あの話が本当なら実力の半分も出していないのだろう。三割でも疑わしいところだ。しかしその精神は、聞き及んだ超越者とは似ても似つかない凡人のものではないか。

(他人を想う? おいおい、どうした道化の奇術師。それはあんたの本分じゃないだろ。

 あんたにできるのは、他人の自信を打ち砕き、その誇りを薙ぎさらい、大事なものを奪い取り、そしてそれを歯牙にもかけない無慈悲な振る舞いだけだろう? ったく、話が違うぜ)

 彼が求めたのは、あくまで天才と称された少年だ。全てに充ち、欠けたところの一つもない神の代行者たる存在だ。

 だがいまや、この聖職者は――――ただの凡人に、成り下がっている。

 そこにはかつての輝きも能力もないことを、アヤは確信に近い感覚で悟っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぱちぱちと心地良い音を奏でながら燃え上がる焚き火を眺め、シリウスは小さく息を吐いた。

(まずいな。本当に、まずい――――)

 胸中でいまいましく呟きながら、彼はばれないようにラーシャに目を向ける。携帯食の干し肉を口に含んだ彼女は、見るからに意気消沈といった表情で軽く俯き、生気のない瞳で燃え盛る小さな炎を見つめていた。

 その原因は、まず間違いなく自分だろう。シリウスは嘆息気味にそう思った。

(コンプレックス、か。やれやれ、そんな難儀なもの、感じたって何の特にもなりはしないのに)

 それは奢りでない、彼の客観的な見解だった。常に自分より上の実力を持つ者と一緒にいる者は、どうしても自分の実力を過小評価してしまう。それはある意味仕方のないことだが、かといって絶対に好ましいことではない。

 調子に乗っていたのか、と少年は自らに問い掛けた。答えはすぐに出る。否。

 自分の演技は完璧のはずだ。引きすぎず出すぎず。おそらく、いや絶対、この少女は自分の演技に気付いていないだろう。自分が騙されていると、欺かれているとは微塵も悟っていないだろう。

それは結構。喜ぶべきことだ。

 ただ問題があるとすれば、ラーシャに情を移してしまった自分だろう。その姿にある種羨望を感じてしまった自分だろう。

 明確な目標。堅固な意思。挫折に対する煩悶。

 その全てはシリウスにとって未知なもので、惜しむべきは永遠に手に入らない種類のものだ。かつて天才と称されたこの少年に手に入らないものはなく、故にそれを手に入れるまでに凡人が抱くさまざまな感情というものを知り得ない。

 望めば、それを現実にできた少年は夢と現実の差異を知らない。

 

 

 

 ――――――――否。

 

 

 

(知らなかった……気付かなかった。あまりに長い間、僕は)

 軽く頭上を仰ぐ。先ほど消滅したルアフの光は既になく、そこには物言わない闇が漂っているだけだ。

 初めて出会ったときに気がついた。少女は、ラーシャはシリウスの持ち得ないあまりにさまざまなものを持っていた、内包していたことに。

 だから、それに憧れた。それを羨んだ。

 自分の持たない宝物を持っているこの少女を、守りたいと思った。

 この少女から、その宝物を奪ってはいけないと思った。

 

 

 

 

 ――――それが。

     かつて天才だった少年が、稚拙な腕の少女に惹かれた唯一にして無二の原因だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 三者が三様の思いを抱き、確信し、追認していたとき。

 不意に、その気配が現れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その変化にまず気付いたのは、やはりシリウスだった。

 それは別段、何かしらの根拠に基づく論理的な察知ではない。長らく戦闘というものをこなしてきた少年が手に入れた、ある種の身体能力だろう。一言で済ませてしまえば、まさに“勘”といえる。

 少年は弾かれたように顔を上げると、傍らに横たえたマイトスタッフを握り締め、その場に立ち上がった。

「どうしたの?」

 ラーシャが、そんなシリウスを見上げながら問う。アヤも、声こそかけてこないが同じ心境らしかった。

 そんな二人の質問には答えずに、シリウスは目を閉じて周囲の気配をうかがった。そこに感じる生命体の息吹は――――僅か、二つ。更に神経を研ぎ澄まそうとして、やめた。そこまでする必要がないと悟ったからだ。

「二人とも、休憩はここまで。気合入れて。大物だよ」

気配の一つ、面白くも双方向からシリウスたちを囲む形で迫り来るそれの一つに身体を向けて、静かに少年はそう告げた。指を弾き、光量を上げたルアフを展開する。あたりを強烈に、そして広域に渡って照らし出すその光は、いままでの中で一番強いものだ。

 あまりに、そう、あまりに静か過ぎるその少年の言葉に何かを感じ、二人は弾かれるたように立ち上がって各々の得物を抜き去った。そんな二人に、シリウスは同じ声音で先を続ける。

「君たちは後ろを頼む。前から来るやつは僕が責任を持って片付けるから、せめてそれまで耐えてくれ。すぐに援護に回る」

 その言葉が終わり、二人が振り返ったのとほぼ同時。

 魔力の光に照らされた界隈に、二匹の影が、ゆっくりとその姿をあらわした。

 

 

 

 

 

 

 それは、本当に奇妙な姿をしていた。

 上半身だけに注目するなら、それは女性。布一枚纏わぬ裸婦だ。肩のあたりまで伸びた髪は錆びた鉄のように赤い。その瞳は切れ長で――――ああ、確かに、その造形は人間ではない美しさを帯びていた。

 人間ではない美しさとは、つまりはそういうこと。至極当然のことだ。何せ、女の姿をしているのはあくまで上半身のことであり、その腰から下は木の幹ほどもあろうかという大蛇のそれにすげ代わっている。

 あるいは、滑稽なのかもしれない。ひどく不釣合いなその姿。女性のそれをそのまま醸し出す上半身と、男性を暗示する蛇の下半身とは、まるで似合わない。ある意味コインの裏と表の存在である両者を無理やり混同したそれは、まさに悪夢の生んだ怪物だ。

 惜しむべきは――――これは紛れもなく現実で、いま、そんな生き物が目の前にいてこちらを狩ろうとも目論んでいることか。

 その姿を直視して、ラーシャは息を呑んだ。驚愕と、感嘆と、絶望と。数えてみれば意外と少なくて、でもどれなのか見当もつかない衝動に由来するそれは、いままで感じたものとは比べ物にならないほどに強いものだった。

 シリウスを超越者と呼ぶならば、あるいは。

 この生き物も、超越者と呼べるかもしれない。

「――――ラーシャ!」

 思考を停止しかけていた少女に、厳しい叱咤の声が響く。思わず身をすくませた彼女に、同じものを見ているのだろう少年は告げた。

「大丈夫。なんとかなるよ」

 あ、とラーシャは小さな声を上げた。優しい声音。いつの日にか経験した、そう昔のことではない一つの情景が脳裏を掠める。

 あの時――――自分は、なんて答えたんだっけ。

「……わかったわ」

 あの時とはだいぶ違う答え。でも、その意味するところはたぶん同じ。

 少女の答えは満足のいくものだったのか、シリウスの纏った刃の気配が若干和らぐ。けれど、それも僅かな間のこと。すぐにもとの鋭さを取り戻したそれを漂わせながら、少年は変わらぬ口調で言葉を紡ぐ。

「アヤは、ラーシャの援護を頼む。仕込み毒(インベナーム)ぐらいは持って来てるんだろ? 二人でイシスの周りを廻りながら、隙を見て攻撃してくれ」

「……はいよ。ったく、こういう大物は全部任せようと思ったんだけどな」

 苦笑の混じった響きで、アヤは呟いた。

 シリウスはそんな答えにははは、と笑い、残念でした、と労った。

 どこまで本気でどこから冗談なのか。

「――――がんばって」

 そんな、正体の知れない少年の言葉を合図に三人は各々の敵に向かって走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 間合いに飛び込むのとほぼ同時、頭上からイシスの細い腕が予想以上の速さで振り下ろされた。咄嗟に、横に構えた剣でそれを受け止める。がぢん、と鈍い音がして手首に鈍い痛みが走った。

(なんて、力――――!)

 いまいましく、ラーシャは胸中に吐き捨てた。腕の太さなんて自分と大差ないくせに、そこから繰り出される一撃は、以前に兄から受けた大剣のそれと同じぐらいに重く、鋭い。

 視界の中に、イシスが空いている手を振り上げるさまが映る。このままで二撃目は耐えられないと判断して、ラーシャは渾身の力で刀身を跳ね上げてイシスの腕を弾いた。一時的にイシスが両手を挙げる形になったその瞬間を逃すことなく、彼女は地面を蹴って横を抜けざま刀身を振るう。

 ぞぶり、と鈍い手ごたえ。

 着地して振り返れば、イシスのわき腹から毒々しくも赤い血液が流れ出ていた。ごぽりごぽりと流れ出るそれは、けれど彼女にとってたいした損害ではないらしい。顔一つしかめることのないイシスは、ぞろりと身体を反転させ再びラーシャと対峙する。

 表情に変化がないのは、それがやはり魔物だからなのだろうか。仮面のように無表情――――けれど、仮面のほうが百倍もましだ。

 どろりと血が付着する剣を構えなおすラーシャの視界に、新たな影が素早く躍った。イシスの背後に迫っていたそれは一瞬先にラーシャがそうしたように、イシスの脇を抜ける。その瞬間に影は大きく伸び上がり、小さな煌きをイシスの身体に走らせた。腰の少し下、人の肌が見える境界線から腕の付け根付近まで、赤いラインが一瞬にして描かれる。

 ラーシャの斬劇と交差するように走ったその傷は、まるで逆さ十字のような文様を刻みつけた。

 かぁ、と、イシスが呼吸のような叫びを上げた。その横を駆け抜けて、たったいまイシスに手傷を負わせた陰はラーシャの隣にたどり着く。

「――――何をしたの?」

 魔物から視線をはずすことはなく、ラーシャはアヤに問い掛けた。アヤはへっ、と小さく笑い、手にしていた手のひら大の小壜を懐にしまう。

「ちょっとした小細工だ。ナイフの刀身に毒を塗っただけだからな」

 ナイフを逆手に握り締め、アヤは再びそれを構えた。

「スコーピオン三十匹分の毒を精錬して濃縮した特別製だ。いくらなんでも、まったく効かないって事もないだろう」

 言い終わるとほぼ同時、アヤは床を蹴って走り出した。先の攻撃を小細工と自称するあたり、その攻撃の効果が薄いことは自覚しているのかもしれない。事実、一旦は効果があったように見えた先ほどの攻撃から立ち直ったイシスは、何事もなかったかのようにこちらを睨んでいる。

 そこに真正面から突っ込んだのが、アヤというシーフだった。

 叫び声も気合の声もなく、イシスは掬うように腕を薙ぐ。風を立て、おそらく触れられれば骨肉をもぎ取られるその一撃を、アヤは一歩後ろに下がることで難なく回避した。大ぶりの一撃の後に生まれた隙を逃すはずもなく、俊敏なシーフは残り数歩の間合いを詰めて伸び上がるような一撃を放つ。腹部の中心、ともすれば内臓を引きずり出すことを目的にしたのかもしれないが、傷は思いのほか浅かったらしい。血が流れただけだった。

 何事もなかったかのように繰り出された、返す手の一撃が確実にアヤの身体を捕らえた。

 強大な一撃を喰らったその身体は、半ば叩きつけられるように床に落ちる。仰向けに落ちたことは幸か不幸か、身体を反らせて息を吐き出したその青年に、イシスは更なる追撃を試みた。頭を潰そうと突き落とされる手のひらを、転がることでかろうじてかわす。

 三度の攻撃を繰り出そうとする魔物に、ラーシャは死角から切りかかった。背後に廻っていた彼女は絶好の間合いで踏み込みを敢行し、水平に構えた刀身を蛇の下半身に突き刺した。

 しかし、その刀身はほんの僅かほども潜り込むことがなく表面の鱗に流される。

「――――ッ!?」

 ラーシャは驚愕に息を呑んだ。そして刹那、その失策に気付く。

 いま自分がそうしたように死角から何者かによる横合いの一撃を受けて、彼女は吹き飛ばされた。宙に浮かびながら、自分を弾き飛ばしたその正体を見極める。嫌悪を催すぬめりに覆われた、まるくすぼんだ円錐形の何かが見えた。

(尻尾……!)

 迂闊だった、と彼女は自分自身を戒めた。その腕に注意を払うあまり、その攻撃手段に気付かなかった。鱗が予想以上に硬かったことも、自分の思慮が足りないといえば失策になるのかもしれない。

 僅かな滑空を経て、ラーシャの身体は砂塵の積もったピラミッドの床に着地した。ダメージはアヤほどではない――――すぐに立ち上がる。

 

 そして、身を硬くした。

 

 まず思ったのは、不条理だ、ということだった。先ほど自分が立っていた場所があそこなら、ここまでの距離は五歩以上開いている。そして飛行は一瞬だったはずだ。計算が合わない。

 どうして、イシスがもうここまで来ているのだ――――?

 それは、絶好の間合いに違いない。こちらの攻撃は届くことがなく、そして相手の攻撃が最高の威力を持ってこちらをなぎ倒す間隔。いや、仮に違ったとしても、倒れていないというだけで地面に膝を着いたこの姿勢から、剣を振るえるはずがない。

 やられた。王手(チェック)をかけられた。そうだ、失策がもう一つある。蛇という生き物は、その愚鈍そうな姿には似合わず俊敏な動きが可能なのだという事実をとんと失念していた――――!

 イシスは表情を浮かべないままに腕を振り上げ、恐怖、そう、紛れもなく恐怖で固まったこちらに狙いをつける。魔物のその瞳は硝子細工みたいに無機質なのに、なぜだろう、そこには勝者の歪んだ笑いが見える。

「―――――」

 つまり、仮面のほうが百倍ましとはそういうこと。仮面とはあくまで仮面であり、そこには意思の欠片も見えはしない。見えてはいけないのだ。なぜなら仮面は、その意思というものを外界から覆ってしまうものだから。

 意思なきものに殺されるなら、それはまだいい。災害に巻き込まれ、事故に巻き込まれたことと同じ話だからだ。それは拒むだけ無駄だから、受け入れる心構えを持つことができる。

 けれど、これはどうだと言うのだ――――別の意志をもつものが、その意思によって自分の命を奪う。それは凝り固まった究極の理不尽に他ならない。拒むことも許されて、けれどそんな意思さえ無視して訪れる暴力は、全ての尊厳や意味を台無しにしてしまう。

 そんなもの、受け入れられるはずがない。

 だけど現実は、こちらの意向なんてお構いなしに状況を進展させる。

 イシスの振るった死の腕が、やけにゆっくりと感じられた。

 残された僅かな時間の中で、ラーシャは視界に映る全てのことを記憶する。イシスの身体をはさんで少し離れたところに倒れているのはシーフの男。先ほどの一撃は思いのほか重かったのか、いまだ立ち上がることもできないで顔だけ上げてこちらを見ている。その表情までは、残念ながら読み取れない。頭上に光っているのは月明かりより柔らかなルアフの光。聖職者の少年が生み出した人工の光だ。その光に照らし出された界隈の、更に向こうは深い闇。そこにどれだけの悪意が潜んでいるのか、彼女には想像もできない。

 そういえば、とラーシャはのんきに思う。シリウスの姿が見えない。光が照らし出す世界が広いとはいえ、視界の届かない遠方が存在するほどではない。なら、聖職者の少年はどこにいると言うのだろうか――――?

(…………まさか)

 ぞくり、とラーシャの背筋を汗が伝う。恐怖が延髄を駆け上がる。

 瞬間的に、自分たちの立ち位置を思い出す。先頭が始まったときの三人の居場所とイシスの位置。それから自分はどう動いて、いまどこにいる……!?

 イヤ、とラーシャは呟いた。あまりに小さな声。おそらくは当人の耳にも届かないほどに。

 魔物の腕は静かに迫る。圧倒的な死の気配。

 そして――――耳に届く、軽い駆け足。

(そんな、嫌。絶対、そんな、止めて――――!!)

 嘆願は、言葉に出ることもない。

 目を閉じることもできないで、ラーシャは自分に決定的な死をもたらそうとする魔物の姿を仰いだ。

 駆け足が終わり、たんっ、なんていう床を蹴ったような音さえ聞こえた。

(これ以上シリウスの足を引っ張るなんて、そんなのは絶対に嫌――――)

 絶望と悲しみに彩られたその思考は、言葉なき叫びとなってラーシャの喉をついた。

 

 

 

 

 

 

 振るわれた腕は風の速さをもって、呆然とするラーシャに振るわれる。

 絶対的な死が彼女に触れるその間際。

 横から飛び出た法衣を纏うその影が、彼女を弾きその代わりとして腕に触れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、少年の身体の一部だった肉片が、くるりくるりと宙に舞った。