行進曲W

 

 シリウスに弾き飛ばされたラーシャの目の前で、少年の片腕はあっけないほど簡単ににもぎ取られ宙を舞った。傷口から露出した血管は瞬間的に収縮し、そして次の瞬間心臓が送り出す血液の圧力に打ち負け広がり、噴水のように血液を噴出した。

 どん、と床に尻をつく。僅かな痛みも、いまは気にできない。

 くるりくるりと空を飛ぶのは、千切れたばかりの少年の腕。周囲に撒き散らされるのは、少年の小さな身体からあふれ出た赤い血液。

 べちゃりという音すら立てて、少年の肩から生えていた四肢の一つが自分のすぐ横に着地した。断絶されたその端末から逆流する血液が、床に小さな血溜りを構成する。鼻を突くいやなにおい。臭気は目をも攻撃し、瞳の奥が痛みを訴えた。

 

 ――――ぽたり、と涙が零れる。

 

 頬を伝ったその熱に、ラーシャは弾かれるように立ち上がった。駆け出す。その先にあるのは、自分の代わりにイシスの一撃を受け、いまだ起き上がれずにいるひとりの少年だ。

僅か数歩の距離を、もどかしいまでの時間を使って零にする。イシスはまだそこにいる。少年に近づくことは、魔物に近づくこと――――そんな事実を失念するほど、彼女はわれを忘れ少年に駆け寄った。

「シリウス!」

 その名を呼びながら、ぴくりともしない少年の身体を抱きかかえる。手を触れて、ぞっとした。手に付着したのは、絶望的な量の流れ出した血液だ。びちゃり、びちゃり。水音が聞こえる。イシスの尾の先端が、シリウスから流れ出た血の池のほとりで楽しそうに跳ねている。

 少年は、まだ、息をしているようだった。そのことに気付き、ラーシャは少年を抱きしめた腕に力を入れた。目の前には、こちらを見下ろす蛇の魔物の姿が見える。その左腕が赤く染まっているのは、間違いなくシリウスの傷口からあふれたものだろう。

 ラーシャは憤怒を超えた瞳で、イシスを睨みつけた。もっとも、そんな行為にどれだけの意味があるのかなんて重々承知している。けれど、これしかないのだ。いま自分にできることといえば、シリウスの身体を強く抱きしめることで、その失われ行く熱を少しでも長い間留めることしかない。

 イシスは相変わらず変化のない表情で、まだ血にぬれていない右手を振りかぶる。それが振り下ろされるとき、まず狙われるのは自分だろう。ああ、それでも構わない。こんな自分が先に殺されることで、この少年の命が少しでも永らえるのならば、それで十分だ。

 あなたをこんな風にしてしまった罪滅ぼしというには、きっと軽すぎる罰だけど。

 それでも私は、それを償わずにはいられない。

 振り上げられたイシスの魔手が、再び振るわれた。

(――――!!)

 ラーシャは奥歯を噛締めて、視線を反らすまいとその腕を注視する。胸の中には、荒い呼吸をするアコライトの少年が、今にも死にそうな容態で息をしている。小さな息だ。今にも絶えてしまいそうな、風前の灯のような、そんな呼吸。

 その、少年が。

 ゆっくりと――――残った右手を、二人に死をもたらさんとする魔物にかざした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 凍結、と短い言葉が耳をつく。

 ぱちん、と弾かれた少年の指。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目の前で展開したその出来事は、ラーシャから思考能力というものを根こそぎ奪い取ってしまった。

 ――――吐く息が白い。一体気温はどれだけ下がったというのだろう。

 ラーシャは肌を裂くような寒さを感じながら、おびえるようにして少年の身体を抱きしめる腕に力を入れた。

 周囲の温度を下げた主は、間違いなくこのイシスだ。別段、先ほどと何ら変わりはない。

 細い腕も、人間の表情をした顔も、蛇の下半身もみなそのままだ。

 ただ一つ。

 氷の塊の中に閉じ込められていることだけを、別にするのなら。

 いかずち、とシリウスはさらに呟いた。もう一度、ぱちんと指を弾く音が聞こえる。

 そして――――再び、それが起こった。

 虚空に出現する魔法陣。空中の一点を中心とする二つの同心円はそれぞれが逆方向に回転し、その速さは単位時間ごとに累乗に比例する加速度を持って上昇していく。二つの円に囲まれた場所には光る文字が出現し、刻一刻とその姿を変えていた。

 あるいは文字に。

 あるいは数字に。

 そして象をつかさどる純粋模型に。

 魔方陣の回転が、僅か数秒のうちに臨界点を迎える。

 円心に生まれたのは、まず、小さな光。真っ白な光。全てを内包し、あるいは拒絶した純粋な色。刹那、それは荒れ狂う龍の姿を持って目の前の獲物に喰らいつく。一匹、二匹、三匹―――― 一つの光点から無限発生するかのように何度も繰り返される、命なき電撃の爬虫類。実際には十を数えて終止した。

 それらの標的となった魔物は、まさにひとたまりもなかった。

 イシスを包んだ氷は、あるいは甲冑の役割を果たすのかとも思えたが、そんなことは微塵もありはしなかった。するりと透過した雷はじぐざぐの進路を取りながら、そのあぎとを開放し氷像に囚われた哀れな魔物を嚥下する。その衝撃で、仮初の氷が砕け散った。

 擬似分子によって構成されたその結晶は、質を同じとする分子との衝突により結合を失い宙に解ける。いや、正確には溶けたと称するのが正しいか。

「――――――――――――」

 歓喜も、悲鳴も、呼吸も忘れ、ラーシャはそのさまを瞬き一つせずに見つめていた。

 一瞬理解が追いつかなくて、瞬間、その事実に頭が混乱する。だって、おかしい。これは、明らかに攻撃呪文だ――――魔道技術を保持する二つの機関、すなわち魔法師ギルドと正教会とはその一点において完全に敵対している。片方に登録された人材が、もう片方の内部秘である魔道理論に接触できるはずがない。

 

 なら、この現実はどう説明するのだろう?

 

「ほむら」、とシリウスが指を弾く。

 先ほどとほぼ同じな、けれど微妙な相違を見せる魔方陣が展開する。氷の檻から開放され、雷の龍に身体を食い散らかされながらもまだ生存していたイシスの足元に、突然、炎の壁が出現した。地面に座り込んだシリウスとラーシャ、二人とイシスとの間隔はそれこそ数歩分もない。その狭い領域に展開された炎壁は、侵入者を拒む絶対の防壁としてイシスの身体を包み込む。

 

 これは、紛れもない魔法使いの技だ。魔術師の業だ。

 聖職者が行う行為とは、あまりにかけ離れてしまっている。

 

 魔物の口から放たれた、聞き取れない領域の叫びが空気を震わせる。

 ばちばちばち、と何かが弾ける音がする。目を凝らす必要もなく、彼女にはそれが何なのかわかってしまった。アルコールに火が燃え移ったかのような薄い炎の幕の中、狂演の宴に身をささげるイシスの影が、微妙な変化を見せている。

 それまでは、仮にも。仮にも、人の持つ美を超越したそれを畏怖と共に備えていた魔物は、いまや見るも無残な醜い姿に変化してしまっている。

 鱗が、逆立っているのだ――――おそらくはこの炎の熱のせい。魚をそのまま焼いたときにも、同じ現象が見られるはずだ。鱗を備え付けた表皮が熱によって縮小し、結果として鱗が逆立ってしまう。

 周囲に漏らす熱は極限まで抑えられ、その代わりに炎それ自体がもつ内部エネルギー全てを熱に変換したかのようなその燃焼は、一応それでも僅かな時間の後に終わりを見せる。消えた炎のその先に在ったのは、鱗を逆立たせ、皮膚をただれさせ、所々が炭化したイシスの姿。

 その顔に、もはや美は欠片も見当たらない。

 そのほとんどが焼失した頭髪。焼け落ちた耳、鼻、唇。のっぺらぼうのような容姿を連想させるその瞳はにごり、白濁している。光を映していないのは明白だった。先ほどの熱で、瞳が沸騰してしまったのだ。

 墨と化し、黒くなった口蓋からは血の混じった唾液が流れ落ちる。それをせき止める肉の壁は、もはや何も残っていない。

 ふと見下ろせば、臨終を迎える老人のようなその姿を、片腕を失った少年は無様なものでも見るかのように眺めている。関心を微塵も含まない、硝子の瞳。

 

 聖職者の役目はあくまで魔に落ちた魂の救済であり、その性質は慈しみだったはずだ。

 アコライトはこんなに冷たい声で、醒めた瞳を見せる道理がない。

 

 彼女の腕の中で、いまだ止まらぬ出血を抱えたシリウスは、己の怪我すら、己に迫り来る死期すら瑣末ごととして切り捨てているのかもしれない。そんな予感があった。

 かろうじて生き長らえているイシスは、もういつ死んでもおかしくないほどの手傷を負った。いや、事実、あと数分もしないうちにこの化け物は死に絶えるだろう。だとしたら、その僅かな猶予はこの生物に与えられた最後の時間ということになる。

 しかし、アコライトの少年はそれすらも奪おうという。

 この呪文が、おそらくは最後だろう。

「出でよ」、少年が指を弾く。

またしても出現した魔方陣。それが焼失し、刹那、ぎちぃと空間が悲鳴をあげる。

瞬間、ラーシャは顔をしかめた。頭痛を催すその音に耐え、シリウスの身体を離して耳を塞がなかったことに僅かな誇りを覚える。

 軋みの音は、同時に幾つも発生していた――――ふと気付く。シリウスの周辺。すなわちラーシャの周囲の空間に、計五つの渦が出現していた。厚みを持たない、平面としてのその現象に彼女は息を呑む。やがて全ての渦の中心が同時に開き、それは別世界と現世とを結ぶ通路の役目を果たした。

 手のひらが通る程度の直径しか持たないその道を通ってやってきたのは、光の法衣を身に纏う小さな妖精たちだった。小さなその姿は人間のそれに酷似して、肩口からは蜻蛉のように透明な、三対の羽が生えている。幻想的なその姿に、ラーシャは我知らず息を漏らした。

 ――――すっ、と。シリウスが、残った右腕でイシスを指差す。

 

「殺せ」

 

 ラーシャは、先ほどとは別の理由で再び息を呑む。背中を恐怖が走りぬけた。

 自分がイシスと対峙したとき覚えたものが生物的な、本能的な強者に対する恐怖なのだとしたら、これはきっとそれとは似ても似つかないもの。

 未知なものを相手にしたときの、畏れと同じような恐怖だ。

 少年の、そのぞっとするほど平坦な命令に妖精は笑みのままで頷いた。従順な使者は使役者の命に従い、個々が光の帯を軌跡代わりに残しながら音に迫る速さでイシスに向かう。

 妖精は、その存在自体が武器なのだろう。妖精が激突した個所に、ごっそりとした穴があく。それはイシスの身体の場所を選ばず、人肌と似たような上半身だろうと蛇の硬さを持つ下半身であろうと関係なしに次々と穴を空けていく。一度身体を貫通し、反対側に出た妖精は再び進路を変更し、魔物に向かうのだ――――少年の言葉を、これ以上なく忠実に実行するために。

 もはや、抵抗するだけの命も残っていないのだろう。妖精が自分の身体をつらぬくたびに、イシスは身体をびくん、びくんと震わせる。それすらおそらくは、単純な筋肉の煽動に過ぎない。イシスはおそらく、もはや意識すら靄が掛かったように胡乱だろう。

 程なくして、要請は己の役目を終えて虚に消えた。穴だらけになったイシスは、そう、完全に死に絶えている。ゆっくりとこちらに上半身を傾けたイシスは、床に倒れるとぐしゃりという音を残して、およそ生物らしくない最期を終えた。

 

 ひどい、とラーシャは思った。心の底から、その死に方に嫌悪を覚えた。

 

 だってそれは、命というものに対する最大の侮辱だ。倒れ伏したイシスの皮膚はどろどろに焼けただれ、蛇の鱗はまばらに逆立っている。頭部にはもはや見る影も残っていないし、熱で血液の全てが気化してしまっていたのか、体中に穿たれた穴からは血液だって流れない。死して残ったシルエットは、まさにアレ。野犬に食い散らかされた生物の死骸だ――――いや、それのほうが何倍もましだろう。

 命の尊厳とかそう言った諸々のものを足蹴にした少年は、その硝子の瞳でこちらを見上げた。意思とか、意見とかが皆無な透き通った硝子だま。彼にしてみれば、多分自分の命すら軽んじれるから、他のそれなんて取るに足らないものなのだろう。

 ラーシャはぞくりと恐怖を覚え――――刹那、シリウスの顔がふわりと和らぐ。

「ごめん、あとは、任せる」

 少年はそう言って、静かに目を閉じた。死んだはずはない。まだ息があるし、何よりもその身体は暖かい。けれど、その熱が失われつつあるということも、また事実だった。

「――――シリウス!」

 失念していたいろいろなものを思い出し、ラーシャは少年の名を呼んだ。しかしシリウスは応えない。応えられないのだ、ということは火を見るより明らかだった。額には、先ほどとまで兆候すら見られなかった玉の汗が幾つも浮かんでいる。優しさを持ったその顔は、いまや苦痛に歪んでいた。

「おい、おまえら!」

 不意に、忘れていたもうひとりの声が耳に届く。そちらに目をやれば、先ほどの衝撃からようやく立ち直ったのか、アヤがすぐそこまで駆け寄ってきていた。

「アヤ――――シリウスが! シリウスが……!」

「落ち着け、この役立たず!! もう一匹いるのを忘れたのか!?」

 男の叱咤に、ラーシャはその事実を思い出した。そうだ。そうだった。襲撃してきたイシスのは確か二だったはず。倒したのは、まだその一匹に過ぎないとしたのなら……!

 縋るように、ラーシャは周囲を見回した。

そして、それを目に留めてしまう。暗闇の手前、光の届くぎりぎりの境界。そこに居座る、まだ手傷と呼べるものを一つたりとも負っていないイシスの姿を。

「―――――――――」

「一旦蝿で跳ぶぞ、シリウスをしっかり抱いてろ! いいな!!」

 アヤの指示に従って、ラーシャは腕に力を入れた。絶対に離すものかと心に決める。

 そんな彼女の態度は、とりあえずアヤの合格をもらえたらしい。アヤは腰の道具袋から一瞬で取り出した蝿の羽を手に握り、空いた手をラーシャの肩に乗せる。

 三人が逃亡しようとしていることを悟ったか、イシスが恐るべき速さで尾をくねらせてこちらに迫る。けれど、それはあまりに遅い行為だった。

「――――行くぞ!」

 最後の声。ラーシャの確認を取らずして、アヤは蝿の羽を握りつぶした。簡易展開式魔道式が織り込まれたそれは、己の崩壊をもって周囲に公式から導き出される現象を展開する。

 

 

 刹那の間だけ空間に生まれた裂け目に三人の姿が消え、その裂け目自体が消え去るのと、二匹目のイシスがその空間に向け腕を振るったのはほぼ同じ瞬間だった。

「…………」

 イシスは獲物が消えた空間をしばらく見つめていたが、やがてその場所に何もないことを悟ると身体の向きを変え、床に横たわる同種の生き物の死体に目をやった。

 完全に死に絶えたそれは、おそらく二度と動かないだろう。イシスは尾の先でその遺体を何度かつつきその事実を確かめると、やおら身体全体でその死骸に巻きついた。

 口を大きく開け、大して残ってもいない肉を噛み千切る。熱を通された食物は味わったことのない硬さを持っていたが、別に食事には何ら支障がなかった。

 臓腑を喰らい、骨を噛み砕き、尾を飲み込む。僅かな時間をかけて、そこに死骸があったという事実すら飲み果たしたイシスは何事もなかったかのように再び向きを変え、闇の中に消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生きるものが一つもなくなった空間を、しばらくの間魔力の光だけが静かに照らし出していた。