回想曲T

 

 

 

 ――――落ちてゆく。

 

 

(へぇ…………久しいな。何年ぶりだろう)

 

 

 ――――下へ。上へ。右へ。左へ。

     重力という名の枷から解き放たれた意識は、墨と虹が混ざる光彩の中を自由自在に飛行する。

     その軌跡は螺旋を描き、やがて一箇所に回帰した。

 

 

 

 

 夢を見ている――――――――明確な意思の元でそれを自覚しながら、シリウスは深層意識のそこへと落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、気付けば草原にいた。

 この記憶か、とシリウスは声になく呟いた。場所は――――どこだっただろう。確か、プロンテアの外、だだっ広い草原の広がっていた場所。いまは開発が進み、ここも行商たちの立派な稼ぎ場所となっているはずだ。

 朝は、まだ早い。周囲の影の向きからして、太陽は自分の後ろにあるのだろう。

 いつもならばルナティックやポリンたちが活動を開始している時間帯のはずなのに、いまここにある空気は限りなく静か。それはおそらく、今からここで始まる破壊活動を悟った野生動物たちが、己の身を守るためここから遠のいたからだ。

 シリウスは手にしたマイトスタッフに軽く体重を預けながら、微動だ似せず先生を待っていた。

 僅かに吹く風に、夜気の名残が感じられる。

 それほど、時間は掛からなかっただろう。

 草を踏みしめる音がして、振り返ればそこに立っていた。

「ふん――――来ていたのか、やっぱりな」

「僕を呼んだのはあなたです、マスター」

 淡々としたシリウスの言葉に、師匠と呼ばれた青年はつまらなそうに空を仰いだ。つられて、シリウスも頭上を仰ぐ。薄い青みが掛かった空はこれから次第にその色を増し、春の穏やかな気候を作り上げるだろう。

(ああ、そうだ。こんな朝だった……)

 ぼんやりと、シリウスはそう思った。不思議なことだ、と思う。意識はしっかりとしているのに、その意識が収まっている殻は紛れもなく昔の自分だ。昔の自分と同じようにものを見、聞き、感じながらいまの自分が思考する。そんな現状。

 

 まるで、古い記録を見てるみたい。

 

「用事とは何ですか? 筆圧から、重要な用件であるということが伺えましたが」

「なんだ、おまえ。人に宛てた手紙の文面から、それを書いた人間の精神状態を読み取れるとでもほざくつもりか?」

 苛立っている。傍から明らかにそうと読み取れる感情を抱いた青年に、少年ははい、と頷いた。それほど難しいことではありませんから、と続ける。

「ちっ――――やっぱり、おれは重大な間違いを仕出かしたみたいだ。

 なあシリウス。おまえは自分をどう思う?」

「魔法使いの見習だと思います」

「いいや違うね。おまえは決して、そんなありふれた存在なんかじゃありゃしない。

 いいか? おまえは悪魔だよ。この世にいてはいけない存在だ。ただ生きるだけで、あたりのものを片っ端から壊していく槌みたいな人間なんだよ、おまえは」

「そうですか?」

「ああ、そうだね。心からそう思うよ。

 あるいは道化だ――――ああ、シリウス、おれは間違いを仕出かしたと言ったが、それはとても誇らしいことだと思っている。おまえは確かにおれの弟子で、おれの持つ全ての知識を余すところなく吸収した最高傑作だ。

 ……けどな、おい。おれはおまえみたいな人間を作り上げたことを、心から後悔しているんだぜ?」

「話の筋が一貫していません。結局、どちらだと言うんですか?」

 意思があるのかないのか。

 親代わりの男の言葉に何も感じることはなく、少年はそれを問うた。

「おまえはな、天才過ぎたんだ」

 少年の言葉に答えるつもりははなから無いのか、青年は言葉を続けた。

「シリウス=シンシリティー。おまえはおれが保証しよう。おまえは有史以来人間という種が持ちえた全ての知識と技術を継承する。それがいつかはわからないが、おまえはいずれ人間という種を超えた生き物に変貌する。何千年と積み重ねられてきた歴史が、おまえに収束しようとしている。おれには、それがわかるんだ。

 だから――――」

 ひゅっ、と。青年はマントの下に握っていたアークワンドを取り出し、その先端をシリウスに向けた。その眼光は鋭く、そこにあるのは純粋な敵意だけだ。

「――――おまえは、おれがこの場で殺す。

おまえが全ての歴史を吸収したとき、おそらく世界は存在する意味を失ってしまう。そんな馬鹿な話はおれが止めてやる。悪魔の子供はまだ自分の力を自覚する前に殺すんだ、そう教えただろう。

いま、それを実践してやる」

 青年が言い終えるのとほぼ同時、空間に出現した魔方陣の中心から数本の炎の矢が瞬く間に放たれた。

 少年に向かってまっすぐ飛行するそれは、シリウスの記憶にある限り触れるだけで全てのものを炭化させる最強の熱だ。それは拒絶の権限も、拒否の猶予も許されない絶対的な力に他ならない。

 しかし、少年の前にそれはあまりに稚拙すぎた。

「無駄です。マスター」

 憐れむでもなく、諌めるでもない、ただ事実を述べるだけの言葉。

 炎の矢が少年の身体を突き刺す瞬間、一瞬早く展開された蒼い障壁が全ての力を霧散させる。

 全ての力が無効化されたその光景を、青年は鼻で笑った。

「ほら見ろ。やっぱりおまえは悪魔だよ。

 セイフティワールだぜ? 確かにそれは全てを拒む魔力の障壁だ。けれど、それを展開するさいに身体に跳ね返る負荷は絶対だ。それを逸らすためにジェムを必要とするのは明白の理だというのに、おまえは一体何なんだ――――ええ? 答えてみろよ」

「ジェムは、あくまで術者に跳ね返る負荷を反らしたその先の対象に過ぎません。ジェムに固執する理由のほうが、僕には理解不能です。そんなもの別に用意しなくたって、障壁と術者との間に幾つもの薄い障壁を設け、そこを跳ね返ったエネルギーに意図的に突破させることでその内包したエネルギーを減少させれば、術者に跳ね返る反動を皆無まで減少させることが可能です」

「ふん、教科書どおりの回答だな。けれど、その理論は何百年も昔に実質不可能として見捨てられたんだぜ?」

「それは、その実験者の努力不足でしょう。現に僕には可能です」

 その言葉には、何ら奢りや誇りといったものが無い。数百年にわたる定説を僅か一瞬で崩壊させた少年は、別段それになにを感じることも無いのだ。

 青年は苦笑とも、絶世の笑みともつかぬ凄惨な表情を浮かべる。

「そこだよ、そこなんだ、おまえの一番恐ろしいところはな。

 おまえは全てを飛び越えてしまう。人間という種が記録してきたものの全てを吸収し、それをひとりで塗り替えてしまう」

 言葉を紡ぎながら、彼は手の中のアークワンドで空中に図形を描く。本来意識の中だけで実行できる計算を敢えて現実世界で実行するということは、とりもなおさず、その魔道式が全力で展開されるということを意味していた。

 自分の師が他でもなく自分自身を殺そうと準備をしているそのさまを、シリウスは別段焦るでもなく見据えていた。いや、少年の瞳からうかがえるその動作の内容は、もはや観察の程度でしかない。

「なあ道化の奇術師(クラウンウィザード)、おまえは何のために生きるんだ?」

 かけられたその言葉には、なぜだろう、静かな悲しみが込められているように感じられた。

 しかし、少年にそんな些細なことが知れるはずも無い。

「そんなことには興味がありません」

「――――そうか。わかった。

 なら、おれは、やっぱりおまえを殺さなければならない――――!」

 裂帛の気合。そうして空中に描かれた魔方陣は、いつになく鮮明な光を放ち内外で逆回転を開始する。その円心上に生まれつつある光は、紛れも無く雷のそれだ。一切の変数定数化を行わず、全ての数値をその場所のそれに調節した雷嵐は、全てをなぎ倒す神の雷に等しい。

 

 ――――されど。

 

「無駄です」

 ぱちん、とシリウスは指を弾く。魔道式の演算すら省いた、完全定数化という己だけの業を用いた少年の目前に、一本の炎の矢が生み出された。空気を震わせることも無く、弦も使わずに解き放たれたそのやじりは、音の速さで青年に向かう。

「んなこたぁ、わかってるんだよ――――!」

 青年の叫び。そして完成した魔道式が展開し、太い雷の奔流が洪水のそれと同じ様相を呈して少年に向かい、炎の矢を包み込む。

 刹那、雷が解け消えた。

「――――!」

 師が息を呑む。絶対のはずの力、神の雷は少年が僅かの労力も傾けずに練り上げた炎の矢に、それも僅か一本足らずのそれに打ち負けたのだ。

 少年は――――果たして神を越えたのか。

 青年が驚愕のあまりに目を見開くその隙は、死神が鎌を振り上げ下ろすまでには十分すぎるだけの時間だった。

 

 

 

 

 

 空に霧散した雷の影を貫き、鏃が男の胸を貫いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しばらく立ち尽くしたシリウスはやがて音も無く歩き出し、つい先ほどまで師が立っていた場所にたどり着いた。

 そこには、何も無い。足首までの長さで成長を止めた草は朝露を浴び、光を屈折させ七色に見せている。その光彩の中から、少年はつまらなそうにそれを拾い上げた。

 

 

すなわち――――ただの肉片に成り下がった男の左腕。

 

 

それが、彼の師だった人間が現世に残したただ唯一の名残だ。矢に貫かれた身体は炭化を通り越し、液状になる暇すら与えられずに蒸発した。この腕は、かろうじてその熱を逃れた幸運な肉片だ。もっとも、その端、肉体とつながっていた部分は完全に炭化し、血液すら流れ出てはいないのだけれど。

肘から先だけになってしまったそれを、まるで小枝でも拾うかのような淀みなさで手にとったシリウスは小さく首を傾げ、そしてそれを投げ捨てた。叢に落ちる瞬間、再びシリウスは指を弾く。

二度目の炎が、少年の師であった男の痕跡をこの世から完全に抹消した。

時刻はまだ朝。僅か一刻足らずの時間の出来事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただひとり草原に残されて、少年は首をかしげた。

シリウスには、ただ一つだけどうしても不可解な点があったのだ。

 だって、それは、簡単な比較のはずなのに。

(勝てるはずがないと分かっていて、なぜ先生は僕を殺そうとしたんだ?)

 純粋な問いは、純粋すぎる故に答えを見つけられない。

 それが、後に天才と世に称される少年が抱いた、初めての疑問だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――どうやら、夢はここまでみたいだ。

 

 

 

 

 ふっ、と白んでいく視界を感じて、シリウスはその事実を認めた。

 久しぶりの夢だった。そして、久しぶりに見た完全な記憶だった。

(哀れだね、クラウンウィザード)

 過去の身体から乖離するぼやけた意識のその中で、少年は過去の自分にそう告げる。

(このとき壊れてしまわなければ、まだ救いはあっただろうに)

 その言葉には、自虐とも残忍とも取れる響きがある。

 ――――だが、その救いはいまの彼が望むものではない。この自分が求める救いは、それとはまるで別のものに成り下がっている。

 その事実をいまさら追認して、シリウスはするすると夢の中から醒めていった。