回想曲U
静かな闇が、あたりに佇んでいた。
弱々しい炎が、この周辺だけをうっすらと照らし出す。二方を壁に囲まれた、四角い部屋の隅で、背中を壁に預けながらラーシャはその闇をぼんやりと見つづけていた。
その膝の上には、シリウスの頭がある。床に横にされた少年の身体には毛布がかけられていたが、そこからかすかに覗く肩口には赤く、いや、どす黒く染まったぱりぱりの包帯が伺えた。
視線を下ろせば、すぐそこに少年の顔がある。額に浮かんだ汗は相変わらずだが、それでも幾分楽になったようだ。安定したリズムを取る呼吸が、ラーシャにようやく安堵の心地を抱かせる。
小さな音を立てて燃え上がる炎は、そんな二人だけを照らしていた。三人目の人物、ここにいなければならないアヤの姿が見当たらない。ここに跳ばされてすぐに火をおこし、シリウスの身体を抱きかかえているだけだった彼女にこの場を任せ、周囲の探索に出たシーフの姿はここにはない。
武器を探してくる――――アヤはそう言っていた。指摘されるまで、彼女は気付きもしなかった。イシスに襲われ、シリウスが身代わりとなって傷を受けたそのとき、自分が剣を投げ出していたことに。それはシリウスも同様だ。いや、きっと彼のマイトスタッフは魔物に腕をもがれたさい、一緒に飛んでいってしまったのだろう。
そう思った瞬間、ふと、その光景が脳裏に流れた。一連の映像として記憶してしまったそれは、おそらく長い間薄れることがないだろう。ずっと後になっても、あの瞬間のことを突然に思い出し怒るのだ。何よりも、自分自身のふがいなさに。
気が付けば、ラーシャは手のひらを力いっぱい握り締め、その奥歯を噛締めていた。握り締められた拳は毛布の端をつかみ、それでも反らしきれない力に小さく震えている。
ぽたり、と涙が落ちた。瞳から零れた一滴のそれは頬を伝い、眠るシリウスの顔に落ちる。
弱くなった――――止まらぬ涙を、拭う気もしないで目で追いながらラーシャはそう思った。いや、それとも、元から強くもなかったのか。単にちょっとした剣術を覚え、自分が強くなったと錯覚していただけなのか。
……だとしたら、これは道化だ。終わらない演劇の中で、変わらぬ舞台背景を背負いながらピエロの仮面で顔を覆い、そうと気付かぬままにただ黙々とステップを踏み続ける、おろかな道化師にすぎない。
そう、その点では、シリウスに感謝をしなければならない。その力量を見て、自分の実力を始めて客観的に見つめることができた。自分が弱いと知ることができた。もしこの少年と出会わなければ、自分はずっと昔にこの世を去っていただろう。
おそらくは道化の仮面をつけたまま、自分がそうだと気付くこともなく、哀れで愚かな一生を終えていたのだろう。
けれど、今の自分はもう違う。少なくとも、自分が道化だということを知ってしまった。知ってしまったから、もうそれには戻れない。自分がそうだと知った上で、更に道化を演じ続けるなんてこと、できはしない。だから、私は素顔をさらしたままで生きていかなければならない。
道化の仮面は、もう必要ない。
考えてみれば、それはすごく当然のこと。少し冷静になって、自分自身を見つめることができたならすぐにでも悟ることができること。
そんな簡単なことさえ知ることもできずにいた自分に、それを教えてくれたこの少年には、もう感謝してもしきれない。
なのに。
(それの代価があなたの命だなんて、そんな馬鹿げた話、認めない)
涙を流す自分を、どこか醒めた意識で感じながら彼女は胸中で呟いた。
それは自分が知っていなければならなかったことで、自分がそれを知らなかったという事実は紛れもなく自分の責任だ。おそらく世の冒険者たちのいくらかは、こうやって自分が道化だと気付くこともなくこの世を去っていくのだろう。
自分がピエロだということを悟れた人間、知ることのできた者だけが朝日を拝むことができるのだ。
そういう意味では、私にその資格はなかったといえる。
自分の実力を過信してこの世を去っていく、惜しむらくは数多くの名もなき戦士の一人だったはずなのに。
それを救ってくれた人間が、自分の代わりに命を落とすなんて、そんな馬鹿げた話絶対に認めない…………!
すっ、と。
柔らかい手のひらが、ラーシャの頬に触れた。
はっとして、ラーシャはいつのまにか閉じていた目を開く。
涙でぼやけた視界の中、すぐそこで。黒い瞳を開いた少年が、どこか夢でも見ているようにこちらを見ている。
「――――なんで、泣くんですか?」
か細い声。小さな声。
「――――泣く意味なんて、無いのに」
途切れそうなのに、そのくせ疑問や弱々しさを一切含まぬその台詞。全てを知った神が、物事の説明をするかのように淀みない、一つのテーゼ。
ラーシャは自分の頬に触れたシリウスの手に自分のそれを重ね、少年に答えを告げる。
「あなたに死んで欲しくないから、では駄目なの?」
「だって、あなたの命はあなたのものだ。それは一つしかない。たとえどんなことがあっても、他人が死んだから自分が死ぬ、なんてことはありえません」
「……シリウス?」
ラーシャは小さく、少年の名を呼んだ。
しかし少年は、どこか遠くを見るような瞳でこちらを見ながら、いや、こちらに視線を向けながら口を動かす。
「どうして、あなたたちは他人のために泣けるんですか……? 他人がいくら死んだって、それで自分が死んでしまうはずも無いのに、どうして悲しめるんですか?
教えてください。教えてください、マスター」
「――――」
そして、ラーシャは気付いた。
少年はまだ夢の中にいる。そうでなくとも、この現実を見つめることはできていない。夢と現の不確かな境。いま、シリウスはそこを彷徨っているのだろう。
シリウスが師匠の影を自分に重ねているのなら、その質問に自分が答えるなんてことは、とても傲慢な自分勝手なものかもしれないけれど。
その問いには、自分の答えを持っているから。
彼女はそれを、口にした。
「自分のために流す涙なんて、自分自身を悲しむ涙なんて、意味が無いでしょう?」
それは確か、まだ自分が幼かったころ祖父から聞かされた言葉だ。毎日繰り返される剣術の練習が苦痛で、いつも逃げて、いつも泣いていた。身体にできたあざは数え切れなくて、自分の刀身ほどもある木剣を振り回した腕はいつも悲鳴をあげていた。
そして、いつか日常に苦痛しか見出せなくなっていた。
そんな自分に、ある日祖父が諭した言葉がそれだった。
「自分のために泣く涙があるくらいなら、苦しいときにはそれを堪えて、誰か他人が不幸に陥ったときにその涙を流せばいい。泣くことで自分を慰めるなら、他人が悲しんでるときに泣いて、自分を元気付ければいいでしょう? その元気で、今度はその悲しんでいる人を少しでも楽にしてあげられたのなら、それはきっと――――」
きっと、とても素敵なことだから。
「でも、たぶん、あなたの言っていることは紛れもない本当のことなのでしょうね」
言いながら、ラーシャはシリウスの手を握る自分の手に力を込めた。
熱の失われた弱々しい少年の手は、それでもやはり暖かい。
「あなたは紛れも無い天才だから、きっと他人のために泣くなんてこと、必要ない」
「――――」
「でも私たちは、弱いから。脆弱だから、泣くことで自分を慰めて、互いに励まさないと生きていくこともできないの。
だから、泣くんでしょうね。他でもない、他人のために」
「……ラーシャ?」
不意にシリウスが、か細い声で少女の名を呼んだ。先ほどまでの声音とは違う、彼女がよく知るアコライトの少年そのものの声で。
ラーシャは柔らかく微笑んで、小さく首肯した。
「夢から覚めたのね、シリウス」
「夢? 僕は、夢を見ていた…………?」
「――――私にはわからないわ。それはあなたのことだから」
「……そうだね、確かにそのとおりだ。馬鹿なことを訊いたや」
言って、少年はいつも通りの苦笑を浮かべる。そんなシリウスの様子に、ラーシャは自然と笑みをもらした。
「おはよう、シリウス。そして、ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
笑みのまま。本当に、いつもと変わらない表情を浮かべたままで少年は問い掛ける。
ラーシャは口を開こうとして、そのまま息を飲む。それは純粋な驚き。シリウスが見せる、その笑みがあまりにも優しかったから。
いつも通り? 冗談じゃない。
慈愛の全てを含んでいると思わせる笑みを浮かべた少年は、いまだ流れていたラーシャの涙を軽く拭い、悩む人間全てに絶対の解を伝える天子のような歌声で、その言葉を口にした。
「君は謝る必要なんてない。むしろ、僕が感謝をしなければならないんだ」
一拍。
「――――ありがとう。僕のために泣いてくれて。
僕は、僕の全存在をもって、君に感謝する」
謳うような、ささやくような、そんな声。
一つ確かなのは、その言葉の一つ一つが自分の心に染み入ってくるという事実だけ。
「――――――――」
驚きとも。喜びとも恥ずかしさとも知れぬ感情が意識の中で膨れ上がり、ただ目を見張ることしかできなかった少女に苦笑し、シリウスは身体を起こした。
とたんに、ずきん、と肩に激しい痛みが走る。いや、それは痛みを超えて悪夢でさえあった。乱暴な力と無骨すぎる凶器でもぎ取られたその傷口は、もはや傷口と呼ぶには度を過ぎている。
だからそれは、まさに、喪失、だ。
片腕のアコライトは無事な手で包帯を軽くなで、ラーシャに尋ねた。
「アヤの姿が見えないけど、どこ?」
「あ――――彼なら、私たちの武器を捜しに行ったわ。さっきの戦闘で落としてしまったから」
「ふん、なるほど。ま、確かに助かるや。この怪我じゃしばらく動けそうにないしね」
言いながら、少年は流れるような手つきで包帯を解く。制止しようとしたラーシャを笑みだけで黙らせて、少年は自らの喪失を直視した。さすがに――――と言うべきかなんと言うべきか――――シリウスも、顔をしかめる。
「やれやれ、派手にやられたな。少し見くびってたか」
けれど、その言葉にはまるで危機感が感じ取られない。転んで膝をすりむいたのと大差ないような言い分だ。
少年は目を閉じると、無事な右手を傷口に重ね、小さく何かを呟いた。手のひらと傷口との間から目に痛みすら与える蒼い光が漏れ、じゅう、なんていう油を引いた鉄板に肉を乗せたような音がした。
「なにをしているの?」
「傷口が壊死してたから、それの蘇生。このあと魔力を型にして腕を再生させるんだよ。
言葉的には再構築、のほうが正しいのかな。同じものを作るわけじゃないから」
手をかざしたままあっさりと言ってのけるシリウスは、錯覚だろうけれど、この作業に手馴れている感すら抱かせる。
言葉をなくしてその治療を眺めていたラーシャに、少年はぽつりと声をかけた。
「…………訊かないの? なにも」
「え?」
ラーシャは間の抜けた声を上げた。そんな少女にシリウスは苦笑しながら、そして顔を少しだけ俯かせて先を続ける。
「君も見ただろ? 僕が攻撃用魔道式を使っているところ。
不思議じゃないの? どうして、アコライトにそんなことができるのか」
自虐的な笑みを浮かべ、少年は告げる。
「攻撃魔法も、回復魔法も、根本的なところで変わりなんて何も無い。けれど、魔力を公式経由で具現化し、世界に影響を与えると言うその動作はあくまでものを癒すため、命を救うためと考える正教会と、それとは逆に魔法とはものを破壊する術だと考える魔法師ギルド。両者は決して己の教義を曲げないし、立場を変えない。馴れ合うことも無い。
いまでこそ二つの立ち位置は対等だけど、二百年も昔になると迫害や差別が公然と行われていた。そのころは国政の中枢近くにもぐりこんだのが魔術師ギルドの人間だったから、迫害されたのは正教会、アコライトたちさ。神に仕えた彼らは世間から見放され、社会的な保証され蔑ろにされた。ま、時代が変わればそれとまるで反対のことが起こったりもしたから、一概にどうこう、とは言わないけどね」
シリウスは悲しそうな笑みを浮かべたまま、淡々ととそんなことを解説する。
ラーシャは口をはさもうとして、やめた。少年が何を言おうとしているのか、察することができなかったからだ。
「いまからざっと八十年前かな。時の権力者が、ギルドとも教会とも手を組むのを嫌って、双方の関係者が政権に近づけないようにした。結果として、それは正解だった。こんにちでも、その制度は崩れていないからね。
そして、ただ対立するだけの組織が二つ残ったのさ」
シリウスは傷口から手を離し、ぱちん、と指を弾いた。すると少年の周囲に雪のような、それとも舞い踊る蛍のような青白い光の粒が無数に浮遊する。
少年は手を掲げ、それを薙いだ。まるでそれが指揮者の指揮棒であるかのように、浮遊する光の群れはぐん、と移動し空中で渦を巻く。二度、三度と円軌道を描いたそれは、やがてシリウスの傷口に流れ込んだ。
「その対立は、今でもれっきとして存在している。片方に所属した人間は決してもう片方の組織に近づくことはできないし、それはつまり、自分が属していない組織の保有する知識を入手できないということだ」
傷口に集った粒子はその場で留まり、静かに顫動を開始した。まるで小さな虫たちがコロニーを形成しているかのように、その光溜りは僅かに揺れ動き、表面に幾多もの波面を形成している。
「だから――――マジシャンとアコライト、両方の知識を得ることなんてできない。
よほどのことがなければね」
シリウスの言葉に指揮されるかのごとく、光の塊は徐々にその形を変えていく。簡素な粘度細工のようなその姿は、そう、少年の腕の形を取った。
自分の問いを待っている。それを感じ、ラーシャは口を開いた。
「なら、どうしてあなたは、双方の術を使えるの?」
「――――アヤ、そこにいるんだろ? 出てきなよ。どうせ、君も知っている話だ」
少年が苦笑しながらそう呼ぶと、かつん、と乾いた足音がラーシャの耳に届いた。顔を向けるまでもない。背後、それまで暗闇の向こうにいた成年が、きっと呆れにも似た笑みを浮かべながらこちらに歩み寄っているのだろう。
焚き火の下までやってきたアヤは、手にしたそれを少女の目前に投げ出した。かしゃん、と硬質な音を立てて床に落ちたそれは、まぎれなく自分が持ってきた剣だ。
「あんたのは見つけたが、シリウス、おまえのは見つからなかったぜ? そんなに離れているはずもないから、見つかると思ったんだけどな……」
「いや、別に構わないよ。あんなのがなくたって、僕は十分戦える」
シリウスの言葉に肩をすくめ、アヤは二人の反対側に腰をおろした。
「で、続きは?」
「アヤ、君はもう聞いているんだろ? コートから、僕の身体のことを」
促す青年に、少年はかすかに顔を俯かせながらそう問うた。
その質問に、青年はすっと目を細め、少年の顔を見つめた。何か思うことでもあるのか、そのあとおもむろにラーシャにその視線を向け、なるほどな、とひとり納得する。
「おれが知ってるのは、そんなに多くないぜ?」
伺うように、アヤ。
シリウスは何も答えない。
「――――ただ、単純に」
ぱちっ、と、篝りが弾ける。
「おまえが不死者だってことぐらいしか―――――――――」