(無音/空白)
「不死者とはまたひどい言い方だね」
ほんの少しの沈黙のあと、シリウスはいつもの笑みでそう言った。
知らず知らずのうち、ラーシャは息を呑む。だって、いつもの笑みとは、そういうこと。このアコライトの少年が日常的に浮かべているその微笑は、他でもない、感情と言うものを限りなく希薄にしたそれだからだ。
感情というものを、意識を染め上げる色だと表現するのならば、あるいは。
限りなく色抜きをして、無色になったそれが――――決して透明にはならず、けれど無色なそれが、この少年の笑みに他ならない。
シリウスが、アヤの言葉に対してそんな対応をとるという事実が、これ以上なく青年の言葉に真実味を纏わせてしまっている。
「でも、ほんとのことだろ? 親父からはそう聞いたぜ?」
「ふん――――あいつもアバウトな説明をしたもんだ。それじゃ、僕がまるでモンスターみたいじゃないか」
笑みを一向に崩さぬまま、砕けた口調でシリウスはそう言った。あるいは、それは毒づきなのかもしれない。
「違うのか?」
「冗談。僕はれっきとした人間だし、この身体の機構だって単純なアンデットじゃないんだよ」
「……少し、待ってくれないかしら」
静かに言葉をはさんだのは、やはり、ラーシャだった。
心持ち怒りを覚えているかのような少女は、厳しい瞳で二人を交互に睨む。
「冗談、じゃ済まされない言葉よ。シリウスも、アヤも」
「ま、事実だしね。他でもない僕が言うんだ。本当のことだよ、これは」
そんな視線をあっさりと受け流し、シリウスはそう言った。
「――――君の目の前で、僕は腕を失っただろ? あの時、いったいどれだけ出血したと思ってる?」
「…………」
「肩口を抉られるように一撃。やれやれ、まさか失血で意識が遠のくとは思わなかったな。普通なら十分、いや、それ以上に死んでしまうだけの血液が流れ出たよ、あの時ね」
当事者にそう諭されて、ラーシャは言葉を失った。
彼女とて、疑問に思わなかったわけでもない。出血の量と、怪我の度合い。その両方が十分に致命傷であるのに、どうしてこの少年は生き長らえることができたのか――――そんな些細な、当然の疑問。
けれどそんな問題は、シリウスが生きているという事実の前にかすんで消えたというだけだ。――――それなのに。
考えたくもなかったその事実を突きつけられて、ラーシャは肩を落とした。そんな少女に一瞬だけ視線をやり、シリウスは続ける。
「僕のこの身体は、そう、れっきとした人間だ。木の股から生まれたわけでもないし、生まれたときに宝石を握っていたわけでもない。そもそも親の顔なんて知らないんだ。ただ、人間であると言うのは事実だよ。
――――そうだね、どこから話そうか。僕がこうである理由」
「一から話せよ。親父の話とどう違うのか、興味がある」
水筒の水を口に含み、アヤが言った。どうやら完全に聞く体制に入っているらしく、その身体からは一切の緊張が見られない。それでも、周囲の注意を怠っている、という訳ではなさそうだが。
そんなアヤを見た後で、シリウスは少女に視線を送った。その瞳は何も写さない硝子のそれに似ているけれど、その奥にはきっと何かがある。そんな思いを抱いたまま、ラーシャは答えることもできずに視線を反らした。
だって、答えられるはずがない。
頷けば、おそらく自分は少年の全てを知るだろう。半年、いや、それ以上の年月をかけて共に歩んできた少年の、知ることのできなかった事柄を手に入れることができるだろう。けれど、自分はそれを受け入れることができるのか? 少年は自らを不死者だと、アンデットだと語った。おそらくはそれは事実であり、どうしようもない現実なのだ。そんな言葉に集約される出来事を、自分は受け入れることができるのか?
そして拒んだならば、きっと少年は何も語らない。何も語らずこのまま探索を終え、いつもの日常に戻るだろう。それは今までと同じ日々で、けれど決して心地よいものではない。シリウスという存在がすぐ側にいても、その距離はもう絶対的にかけ離れてしまうのだろうから……
どちらを選んでも、どちらを選ばなくても、たぶん自分は少年に懐疑の目を向けてしまう。これまでと同じ場所に立つことはできない。これまでと同じ距離を保ったままで過ごしていくことはできない。
そんな決断を、少年は求めている。
迷いは――――長かった。
こくり、と頷いたラーシャに、少年は幾分視線を和らげたようだ。
シリウスの口が小さく動く。唇が描いたその言葉を読み取りながら、ラーシャは顔を上げた。少年は緩やかに目を閉じて大きく息を吸うと、ゆっくりとその物語を紡ぎ始めた。
「いまから百と八十六年前の話だよ。アルベルタのスラムで、僕はこの世に生を受けた。もっとも、物心ついたときに住んでいた――――住み着いていた場所がそこだってだけだから、本当の生まれた場所ってのは違うかもしれない。年齢も多少誤差があるかもね。まあ、いまさらどうでもいいことだけど。
僕が十二になったある日、スラムの端でヘンな魔法使いと僕は出会った。まだ二十代前半の、並々ならぬ実力を秘めた魔法使い。……ある程度の実力を持った人間にはわかるのかな。その人は僕の才能を見出して、自分の弟子にした。僕はそれを拒まなかった。拒む必要もなかったし、それに、拒むという言葉だって知らなかった」
淡々と語られる少年の半生。そこには何の感情もなく、意思もない。
ただ、過去にあった出来事を正確に繰り返す。
「魔法使いには、既にひとりの弟子がいた。それがパンドラ=クリメイス。長い金髪をもった、元気な女性だったよ。年齢は、僕より一つ二つ上だったかな。彼女は僕よりも数年前から師匠に師事していて、いっぱしの魔法使い並みの実力は保持していた。十五にも満たない子供が、だよ? センがよかったんだろうね、結局、彼女も。
三人で過ごした時間は、およそ三年。その間に僕は師匠に進められるがままに魔法師ギルドに登録され、いろいろな知識を吸収していた。そうだね、考えれば、あのころが一番僕らしくて、僕らしくなかったと思う。次々と目の前に提示される未知の知識。当時は別になんとも思っていなかったんだけど、今にして思えば、そうやって知らないことがあるっていうのはこれ以上ない幸せなことかもしれない。未来がある、ってことだからね」
少年の過去には、少なくとも二つの人間が関与していた。
とりあえずそのことだけを頭に入れて、ラーシャは話の先を待つ。
「三年間。その間を、僕らは大陸中を放浪した。傭兵の真似事もやったし、討伐団の真似事もした。魔法の実施訓練、かな。実戦っていうものを繰り返し繰り返し経験させることで、師匠は命の軽さと、その大切さを教えてくれた――――矛盾した内容だけどね。
けど僕は、そんなことに気付くことができなかった。命を奪うという実感も、罪科さえも感じずに、ただただ公式の演算がうまくなり展開の技術が向上した。ふん、魔物よりもタチが悪い。生き長らえるでもなく、身を守るでもなく自分以外の命を奪い取り、しかもそこから教訓らしきものを一つも汲み上げやしない」
初めて、シリウスが僅かながら言葉に感情らしきものを含ませた。
それは――――憤怒?
「そんな日々を送って、十五になったときのことだ。僕は師匠が抱くその危機感に気付いた。あの人は僕を危険視するようになっていたのさ。僅か齢十五で、当時ギルドの中でも十指に入ると囁かれる自分を追い越した、幼い魔法使いをね。
そこにはある種の妬みとか、そこらへんの感情も入っていたと思う。けどまあ、それを差し引いても師匠の危惧は正しかった。あのまま僕が成長していれば、多分人間ですらなくなっていたと思う。……呼吸をするのとまったく同じな感慨しか抱かずに人を殺せる人間は、人間と呼ぶに値しないだろう?」
ふと、いつかの少年の言葉がよみがえる。
ゴーレムを倒すとき、この少年はなんと言ったっけ?
「そんなある日のことだ。僕は朝早く、それこそ日の出の時間にさる場所に呼び出された。僕の存在そのものが危険と判断した師匠が、僕を殺そうとしたのさ。そして僕は、それを返り討ちにした」
一切の気負いも、後悔も感じられないその言葉にラーシャは背筋を凍らせた。
恐怖――――そう、恐怖。いままで隠されてきた少年の、その本質に対して抱いてしまうその感情。
そんな少女を見て、シリウスは肩をすくめた。
「あっけなかったよ、実際。ファイアーボルト一発で跡形も残らなかった」
自分の罪をさらす少年は、一体どんな心地なのだろう。色のない笑みの向こう側は見通せなくて、そこになにがあるのか分からない。
頷くことも、息を飲むこともできない無力感に苛まれながら、ラーシャは黙して先を待つ。
「そして僕たちは、ギルド直属の魔法使いになった。それまで大陸を移ろっていた僕たちは小さいながらも自分たちの家を手に入れて、俗に言う日常なんていうものを初めて目の当たりにすることができた。まあ、それも結局一年も続かなかったわけだけど。
ギルドに直属するということは、つまり組織の犬になるってことさ。生活の全てを保障される代わりに、ことあるごとに僕たちの存在は無視されて、ただの駒に成り下がる。組織に仇なす存在を抹消するための、ま、言っちゃえば殺し屋だね。何の感慨もなく魔物を殺戮してきた少年は、同じようになんの罪悪感も抱かずに馬鹿みたいな数の人間を殺し続けた」
――――ふと。
ラーシャは、少年の頬を伝った一粒の光に気付いた。
そこで少年は一度言葉を切り、軽く上空を仰ぐ。
再びアヤとラーシャに向けられたその顔は、あの無色な笑みに戻っていた。
「そんな生活を一年も続けると、やがてこの便利な駒にも危険さを抱くようになる。命令違反も、失敗も何もしない完璧な手駒は、転じてそれが裏切ったときの恐怖を暗示していたのさ。そこで組織は、僕を……そして組織が僕にやらせてきたことの一部始終を知っているパンドラとを、ていよく処分できないかと考える。
そこで彼らが目をつけたのが、当時まだ行われていたピラミッド征伐隊に僕らを参加させることだったのさ」
ゆっくりと、シリウスは周囲の暗闇を見渡した。
その瞳になにが映っているのか、彼女には分からない。知れるはずもない。
「討伐隊の生還率はまさにゼロ。それは死刑宣告と同義だったけど、僕は拒絶しなかった。まあ、もともとそんな権利はなかったわけだけど、とにかく僕はそれを無抵抗で受け入れた。やがて組まれたパーティーは、僕と、パンドラと、あと剣士と弓者がひとりずつ。みんな、それぞれが年齢に卓越した技術を持った人間だった。そんな彼女たちが討伐隊に参加した理由は、きっと僕なんだろうね。
そして僕たちは、この古い聖墓に足を踏み入れた」
沈黙。
その仲間たちと過ごした記憶を思い出しているのか、シリウスの言葉には先ほどから温かみと言うか、そんな雰囲気が僅かにではあるけれど、滲んでいた。
「探索は順調に進んだ。当然だね、ある意味、みんなが天才だったんだ。彼らを評価する立場ではなかったけど、その実力は十分に知れたよ。お互いに、だろうけど。僕たちは並み居るモンスターたちをものともせずに、この聖墓の中心部にたどり着いた。そう、オシリスと戦ったのさ、僕たちは。
それで――――結果として、僕だけが残った」
ぽつん、と紡ぎだされた最後の言葉に込められていたのは、無色の中に一滴だけ混入した怨嗟と、憤怒だった。
怒りを、紛れもない怒りを理性で抑えている少年は、変わらぬ口調で先を紡ぐ。
「なにが起こったかは、今の僕のも正確にはわからない。戦いの最中に突然光があふれて、目覚めたとき僕はひとりだった。周囲には誰もない。身体のいたるところから血液が流れ出て、臓器のいくつかも破損していたのに、僕は生きていた。
別に、驚きはしなかったよ。あのメンバーでも、仮にひとりが生き残るならそれが僕だという確信はあった。まるでおごりだ。でも、僕にとってはそれがまぎれもない事実であり、結果から見てもそうだった。僕は壊れた身体を引きずって、ここを脱出した。意識はそこでまた一度途切れる。短い失神が終わったあと、僕の喉元にはナイフがつきたてられていた」
先ほどの怒りとは反対に、なんでもないことであるかのように少年は語る。
その顔には、またしてもあの笑みが戻っていた。
「僕らがピラミッドから逃げ出さないために各ギルドが派遣した刺客だろうね。彼らはピラミッドから出てきた人間がいることに驚いて、正確に己の職務を果たした。
けれど僕は、死ななかった。吹き上がる血の奔流を見て、死の恐怖も抱けずに死ぬはずだったのに、そんな使者はどこからもこなかった」
もはや、そのことがどうしようもなくおかしいことでもあるかのように。
少年は弾んだ声でそれを語る。
「流れ出る血液、痛む身体。意識はどこまでも遠くなるのに、なぜだか死ぬという実感がない。死ねない、いや、死なない、と気付くまでは早かった。自分の身体がどうなったかを知った僕は、その刺客たちを一瞬で灰燼に解してその場に立ち上がった。今でもよく覚えてるよ。真上から差し込む日差しと、首に刺さったままの小さなナイフ。あたりに飛び散ったのは人の身体の細かいパーツで、四人分の血液があたりの地面と、僕を赤く染めている。あんな悪夢、そうそう忘れることなんてできやしない。
その場に佇んで、僕はしばらく考えたよ。これからどうしよう、ってね。ギルドに僕の
居場所は当然なくて、生きる目的だってありゃしない。かと言って、死ねるわけでもない。不老不死――――もう少し後になってそのことに気付くんだけど、僕がなったのはその不老不死ってヤツだ。それは時間の呪縛から解き放たれること、なんて謳われるけど、実際は違う。アレは時間を奪い去るんだ、根こそぎね」
自らの手のひらを、何かの試作品でも見るかのように眺めながら少年は語る。
先人たちの数多が求めたそれを手にしたシリウスは、一体どんな感慨を得たのだろう。
「そして、僕の長い旅が始まった。予想はしていたけれど、そのとき既に僕とパンドラの記録はギルドから抹消されていて、公には死んだのと同じになっていた。それは、実に都合がよかったよ。各地を昔みたいに放浪して、三十年ぐらい経ったころかな。自分の身体のことも分かり始めて、何をしようという目的も生まれてきた。その目的を果たすためには適当な地位が必要で、僕は正教会に登録することにした。魔術師ギルドでもよかったけれど、あそこにはもう見るべき知識もなかったからね。僕はそれまで知ることもできなかったアコライトの術を手に入れた。
で――――そのあと、およそ百四十年。僕はアコライトとして大陸を渡り歩き、各地のいろんな実力者や機関とコネを作った。理由は、知識のため。新たな知識が発見されたとき、まずそれに近づくためには膨大なコネクションが必要だったのさ。そんな生活を続けて、やがて僕は――――そう、ラーシャ、君と出会った」
そしてシリウスはラーシャに顔を向ける。
いま、決定的に自分との差異が明らかになったはずの少年は、なぜかいつも自分に向けていた優しい笑みと同じそれを浮かべていた。
「そこから先は、別に語る意味もないね。普通の日々だったよ。
これが――――――――」
何かを惜しむように。
あるいは、何かを懐かしむように。
「――――これが、道化の奇術師として恐れられ、称えられた少年の半生さ」
短い短いその言葉で。
少年の長きに渡る過去の歴史が、この時間に収束した。