回想曲V

 

 少年の長すぎる昔語りが幕を迎えて、およそ一時間が過ぎ去っていた。

 その間、誰も何も口にしない。唯一音を発していた焚き火も、いまやその炎は盛りを終えて、弱々しい光を放つだけになっていた。

 不意に、シリウスが指を弾く。すると、虚空に何の脈絡も無く青い光球が生み出された。ほどなくして消え去るであろう焚き火の代わりに生み出された魔力の光に照らされて、ラーシャはぽつりと口を開いた。

「どうして――――」

 ん、とシリウスがラーシャに顔を向ける。

 何かが落ちたようなその顔を直視することもできず、彼女は俯きながら言葉の先を発した。

「――――黙っていたの?」

「別に、騙すつもりは無かったよ」

 まるで、その答えは前もって用意されていたかのように。

淀みなく、滑らかに。

少年は、自らの意志をそう告げた。

「でも――――ああ、そうだね。結局、騙していたことになる。……ふん、とんだお笑い種だ。やっぱり僕はこの程度なのか」

 静かな、とても静かなその懺悔。軽く天井を仰ぐ少年の顔に張り付いているのは、どうしようもないほど歪んでしまった狂気の笑みだ。全ての感情を覚えずに、ただ笑みだけで渡世を繰り返してきた人間が行うような、底知れない薄っぺらな笑み。

「僕は、ただのアコライトになりたかった……過去も、目的も、名誉もこんな身体もいらない。恐れられなくても、称えられなくてもいい。ただ普通になりたかったんだ。だから――――ごめん、ラーシャ。僕は君と出会ったときに、途方も無い嘘をついた」

 少年の告白はどこまでも平坦で、けれど透明だった。いつもなら微塵もうかがわせないその感情が、いともたやすく読み取れる。平坦な、けれど今にも震えそうな声を必死になって押さえつけている少年が抱いているものは、紛れも無い恐怖。

 

 ――――立場がまるで逆転している。

 

 少年は、そう、怯えている。再構築され、元のそれとまるで変わらぬ腕で自分の膝を抱きかかえながら、手傷を負った小兎みたいに震えている。その恐怖がどこから来るのか、ラーシャにはわからない。どうしてシリウスが恐怖しなければならないのか、その理由も検討がつかない。

 ぼんやりと、何も理解できずにシリウスを見つめていたラーシャに、アヤが声をかけた。

「おい、あんた。――――ラーシャっつったっけ」

「……なに?」

 首も向けず、ただ尋ね返す。

「あんた、なにを言われたんだ? 最初、このシリウスに」

「別に――――なにも」

 

 

 ああ、そう、ただ一言だけ。

 

 

「――――自分はただのアコライトだ、としか」

 ふと、脳裏にそのときの光景が浮かび上がる。あれは半年前の夜の闇。どこまでも暗闇の世界で、自分はこの少年と逢瀬した。あのことは、今でも鮮明に覚えている。道化を演じていた自分、今よりもっと未熟だった自分。そんな自分に忠告し、自らを鍛える場所を提供してくれたアコライトの少年。

 ……今にして思えば、あのときから。あのときから、既に自分の心はこの少年に囚われていたのかもしれない。

 最初は畏れ、そして憧憬。それがいつしか親しみに代わって――――それで、満足していた。どうして、自分はそこで歩みを止めてしまったのだろう。それ以上踏み込むことを良しとせず、距離を保つことを選んだのか。

 自分の心は、これほど――――シリウスを必要としていると、いうのに。

「……はっ、そういうことか」

 吐き捨てるように、あるいは嘲るように、アヤが呟いた。

「ようやく合点がいったぜ。

 ……おい、シリウス。ふざけんなよ?」

 ゆっくりと。

 静かに立ち上がったアヤは、シリウスの元に歩みより、その襟首を掴み上げた。

「なにをするの!」

「そうか、それがあんたの望みか、シリウス=シンシリティー! そんなくだらない理由で実力を出さなかったってのか!?」

 即座にラーシャが叫ぶが、それに増す音量でアヤがシリウスを責め立てる。目の前で叫ばれた少年はしばしぽかんとし、そして明らかに怒りの色を滲ませた。

「くだらない、だって?」

 短く訊き返し、鮮やかに。シリウスはアヤの手を振り払った。

「よくほざく、小僧。いまの言葉は聞き逃せないよ?」

「はっ――――ほざく、ときたか。言っとくが、あんたのなりでそんなこと言っても似合わねえぜ」

 かすかに鋭さを増した視線がアヤに向けられる。しかし、盗賊の青年はシリウスのそんな威圧をものともしないで言葉を続けた。

「あんたはな、矛盾してるんだ。もう何から何まで、その存在に一貫性が無い。

 もちろん、主義も主張もな――――ただのアコライトでありたかったなら、俺の依頼なんて無視すればよかっただろ。なのにおまえは、自分の意志でここに来ることを望んだ。考えてみろよ、おまえはどうしてここに来た」

「……僕の望みを知っているかい? 僕はね、この身体をどうにかしたいんだ。僕から時間という宝物を奪い去ったあのオシリス――――あいつにかけるしかないんだよ、僕は」

「ふん、元の人間に戻りたい、か。へぇ、親父から聞いたあんたの望みとはだいぶ違うな」

「…………」

「なあ道化の奇術師さんよ、いまここで改めて訊いておく。さっきははぐらかしたようだけど、今度は答えてもらうぜ、その目的をな。シリウス=シンシリティー。おまえの望みは、大陸を放浪した目的は、ただ死ぬためじゃなかったのか?」

 

 

「――――――――え?」

 ぽつりと声を上げたのは、傍観しているしかなかったラーシャだ。

 アヤの言葉に、少年は色の無い顔のまま唇を軽く吊り上げる。感情というもののまるで見えない笑みは、まるで仮面のようで――――ああ、そう。まるで、道化師(ピエロ)

「あんたは親父に語ったそうじゃないか。自分の望みは、ただこの身の呪いを解し死に絶えることって。はっ、死を超越してなにが不服なんだ、おまえさんは」

「いいことを教えてあげようか、アヤ。

 君のその考えを――――愚考って呼ぶんだよ」

 凄惨な言葉。なんてことは無い短な台詞のその奥に、狂気にも似た何かが淀んでいる。

 そんなシリウスに、ラーシャはあえて声をかけた。

「シリウス、あなたの望みは――――ほんとうに、そんなことなの?」

 直接尋ねることもできず、あいまいにした言葉を紡ぎながら、ラーシャは果てしない恐怖を味わっていた。

 だって、それは、仕方がない。この問いは決定的だ。それを発してしまった。

 もしこれで少年が頷けば――――自分はどうすればいいと言うのだろう。

 ラーシャの言葉に、シリウスは顔をしかめた。おもしろくない。そんな言葉が聞こえてきそうな、そんな表情。少年は天井を仰ぎ、僅かながらに苦笑した。

「確かに、かつての僕の望みはそれだった。百年を過ぎたころかな。いまの自分に実現不可能なのは、ただ死ぬことだけじゃないかって思った。

その間違いに気付くまで――――それこそ、馬鹿みたいに長い時間が掛かった。死ぬこと。それは確かに、僕に唯一できないことで、ひどく魅惑的な議題だったよ」

淡々と語る少年の言葉に、ラーシャは悲しみとも哀れみともつかぬ感情を抱いた。死を、望む。そこには何ら救いがない。絶望と絶望と絶望。その壁に囲まれた者が選びかねないその選択は、だって、どうしようもない終わりなのだ。

 

少年は終わりを望んでいたのか。

 

「――――でも、最近。ここ数年、違うことに気が付いた」

 小さな声で、付け足すように。

 死を望んでいた少年は、苦笑ながらに天井を仰いだ。

「確かに僕は死を望んでいた。その理由は単に僕が死ねなかったからだ。だけど、僕に実現不可能なのは、そう、それだけじゃなかった。もっと簡単で、いままで考えたこともない選択肢が頭をよぎった。

 それが――――普通に生きるということ」

 シリウスは微笑んで、きょとんとするラーシャに顔を向ける。ついでアヤにも笑みを向け、そして一転し、苦笑した。

「馬鹿みたいだろ? 普通に生きることが望みだなんて。

 でもね、僕にはそれができなかった。だって自分の行いは全て普通だと思えるのに、世間はそれを異質と認識してしまう。僕は強情で、傲慢だった。自身のずれを認めるまでに百年以上かかった理由が、それだよ」

 からりとした声でそう述べるシリウス。

 少年は再びアヤに顔を向け、おもしろそうに頷いた。

「ああそうだ、君の言うとおり。そのとおりだ。くだらない。まったくくだらない望みだよ。

 言われて、ハッキリした――――自分の中で結論が出た。確かに、普通に生きたいなんてくだらない望みだ。なら、別に労もなく実現できるはずだね。僕が努力を行っていただけか、それとも――――ああ、愚問だったな。単に、僕が言葉に囚われていただけか」

 シリウスはふっと笑みを浮かべ、二人を交互に見回した。

「二人に頼みがある。僕の呪いの元凶は、この状況の元凶(ソース)は間違いなくオシリスだ。僕はこの状況をどうにかしたい。そのためには、あの古代の化け物をどうにかする必要がある。

 とても自分勝手な頼みだってのは理解してる。けど、お願いだ。

 手を、貸して欲しい」

 

 

 

 ――――静寂。

 

 

 シリウスの、その笑みからは窺い知れないほどに真剣な依頼に、ラーシャは息を呑んでいた。

 それは半分驚きで、残りの半分は怒り。

 だって――――

「……いまさら、ね。手伝うも何もないわ」

「俺の依頼内容、覚えてんのか? 俺の目的が、それだぜ?」

 各々の答えを口にする二人。

「もっとも、どれほどの助けになるかはわからないけれど」

 ラーシャは苦笑しながら、そんなことを付け加える。

「私の全てを掛けて――――絶対に。あなたの役に立ってみせる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――――――ありがとう。本当に、ありがとう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 消え入りそうな声でそう言って、シリウスは俯いた。

 ふと、ラーシャは思う。

 この少年は、生まれて既に百と八十年を数えると言う。けれど過ごしてきた時間のその大半はいまのシリウスではない、道化の奇術師と呼ばれた少年のものだ。いまのシリウス、ただのアコライトを望み、普通の生活を望むこの少年がいつ出来上がったのかは知らないけれど、それは――――ひょっとして。この少年が天才から凡人に成り下がったとき、まさにこの少年は人間として生を受けたのかもしれない。

 シリウスは、その望みを得たのが数年前だと言った。

 ならば、この少年はまだ生後数年と言うことになるのだろうか。

 

 ――――まあ。

     考えても、仕方ないことではある。

 

「ところで、シリウス――――おまえ、もう大丈夫なのか?」

 思い出したかのように、アヤが尋ねた。ラーシャも脳裏に浮かべていたそんな幻想を拭い去り、釣られるようにシリウスの腕に視線を向ける。いつしか再生されていた、少年の言葉を借りるなら再構築されたそれは、いまや依然と変わりない姿でシリウスの腕足りえている。そこには血の滲んだ後もないし、いわんやそれが失われた痕跡など微塵も見当たらない。

 アヤの言葉に、シリウスは顔を上げて小さく顔をしかめた。その目が幾分赤く感じられるのは、きっと気のせいなのだろう。少年は言う。

「まだ完全じゃないね。神経接続も終わったけど、元が形のない魔力だから、定着させるためにはもう少し時間がかかる。魔法は、まったく使えないってわけじゃないけど、せいぜい――――」

 シリウスは一度指を弾く。

「ルアフか、サイトぐらいだ。攻撃呪文なんてまず無理だ」

「そうか。で、俺たちはどのくらい耐えればいい?」

 ほんの少し声音を変えて、アヤはそんな意味不明な問いかけをした。

 その疑問に、シリウスはいっそう顔をしかめる。

「やっぱり君は気付いてたのか――――そうだね、十分。いや、八分」

「――――なかなか厳しいな。なんかないのか?」

「ない訳じゃないけど、できればこの手段は温存しておきたい。

下手をすれば、このあと洒落にならないヤツらが出てくるから」

 二人の会話は、ラーシャにはよくわからない。

「何の話をしているの?」

「ラーシャ、そうだね、君に一つアドバイス。君は戦場で一対一で戦う分には十分すぎる実力を持っているけど、それ以外にはまだ疎いね。こいつ並に、とまでは言わないけど、せめて殺気ぐらい感じ取れた方がいい」

 言いながら、シリウスはアヤを指差した。こいつ呼ばわりされて、アヤが幾分憮然とした顔をする。

「――――まさか」

「そう、そのまさか。一応セイフティワールを張りつづけているんだけど、奴さんもなかなか諦めが悪い。とっとと引き上げてくれればいいのに」

「防護壁を張りながら、自分の腕を作り直したってのか? ほんと何者だよ、あんた」

「君の言ったとおり、元天才のアコライトだよ。まあ、さすがに粗悪な公式しか使えないから、さっきから何度も割られてる。そのたびに張りなおしてるんだけどね」

「――――もうすでに、そこに」

 ラーシャに峰まで言わさず、シリウスは頷いた。後を引き継ぐ。

 

 

 

 

「そう。あのイシスが、すぐそこに迫ってる」

 

 

 

 

 台詞が終わるのとほぼ同時だろうか。

 硬い硝子の砕けるような音がして、焚き火に照らされる光の界隈に、半身半蛇の異形が姿をあらわした。