行進曲X

 

 傍らの剣を掴み上げ、ラーシャは立ち上がった。

 ひやりとした――――そしてもはや慣れきった冷たさを纏う刀身が、いまは心地いい。氷でできているのかと錯覚させる銀のきらめきは、弱々しくはぜる焚き火の炎を反射しながら、どこまでも寡黙だ。

 すぅ、っと。憑き物が落ちるかのように冷静さを取り戻してくラーシャに、シリウスの声がかけられた。

「不甲斐無いけど、今の僕にできることは何もない。そんなに長い間でなくていいし、無茶もしないでくれていい。そいつを、足止めしてくれ」

 おそらくそれは、彼女に、と言うより二人に向けられた言葉。ラーシャは視線だけを動かして、焚き火をはさんで反対側、いまだ傷の癒えきらぬアコライトを護る守護者のような位置に立つシーフに目を向ける。彼は既に引き抜いたナイフを片手に、どこか昂ぶりにも似た表情を浮かべ、前方のイシスに視線を向けていた。

 少年の言葉に、アヤは苦笑にも似た声音で答える。

「ふん、天下のクラウンウィザードに頼まれるなんて、俺もずいぶんと強くなったもんだ」

 それは憎まれ口と言うより、軽口、いや自身の緊張をほぐすための呪文だろう。

 そんなアヤの台詞を聞き流しながら、ラーシャは自身のそれの正体を見極めた。

「――――ああ、そうか」

 ふと、言葉が滑り出る。とても小さなその声はアヤにも届かず、もちろんシリウスにも届かない。ただ自分だけが、その言葉に意味を持たせる。

 ふつふつと。意識の底の更に奥。本能とか野生とかいった類の識が乱立するその泉に、僅かに、されど確実に得体の知れないそれが湧き出ている。でもそれは決して不快なものではない。むしろ歓迎すべきもの、喜ぶべきもの、心地よいものであることぐらい――――容易に知れた。

 たぶん、これが――――

 

 

「大丈夫よ、シリウス」

 

 

 言葉は自然に、何の疑いもなく流れ出る。

 

 

「あいつは、私が倒すから」

 

 

 そんな無謀な宣言に、アヤがとやかく言うより早く。

 それまでこちらを伺うだけだったイシスが移動を開始するのにあわせ、ラーシャも力強く床を蹴って駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初の一撃を繰り出したのは、やはりイシスだった。

 シリウスのいる場所からおよそ二十歩。それほど離れているとはいえない位置で、ラーシャはイシスの攻撃を回避する。自分とシリウスの距離を確認し、意識の中で最終防衛線を描き出す。横に跳んだラーシャは着地と同時に再び床を蹴り、前に跳んだ。刹那、彼女が立っていた位置をイシスの二撃目が行き過ぎる。

 かつてないほどに間合いを詰めた状態で、更にラーシャは一歩を踏み出した。まっすぐに向けられた剣は突きの構えとなり、腕の筋肉の爆発によってイシスの腹部に突き刺さる。忌々しくも人のそれと同じ質感、同じ色をしたそこに冷たい凶器が埋没し、真っ赤な血が溢れ出した。

 イシスが僅かに身を震わせる。けれど無駄。傷は浅い。

 剣の先端がイシスの背中から突き出たのを確認し、ラーシャは軽く中に跳んだ。

 

一瞬の空白。

 

重力の腕が自身の身体を捉える前に、彼女は蹴りの要領でイシスの腹に足を添え、そのまま膝を伸ばしきる。単純な力によって突き刺さった白銀の刃は、同等の力によって引き抜かれた。

傷口から、ばしゃっ、と血があふれる。ごぽごぽと音すら立てるそれを見て、ラーシャは自身のそれを確信に昇華させた。

(やっぱり――――そう――――私は――――――――)

 会心の一撃に近かったその攻撃は、だがこの魔物を止めるにはまだ足りない。表情の読み取れない端麗な顔にただ怒りの色を滲ませて、イシスは着地際のラーシャに腕を振るう。よけきれないと判断し、彼女は横に構えた剣でそれを受け止め――――流した。

 向きを変更させられた魔手は、派手な音を立ててピラミッドの床を局地的に破砕する。僅かに立ち上った粉塵を尻目に、ラーシャは後ろへと跳んだ。間合いをあけて、ゆっくりと剣を構えなおす。

 剣を傾け攻撃を受け流したとはいえ――――イシスの一撃がもたらした衝撃は、決して侮れない。じんじんと疼く手首を感じながらも、彼女は静かにイシスを見据える。

 

 ――――なぜだろう。負ける気がしない。

 

 限りなく醒めていく意識と、それに反比例するかのように熱を帯びていく身体。緊張は興奮と混ざり合い肉体の制約を解除する。氷の眼をした彼女の顔に、うっすらと笑みが浮かんだ。当人すらも気付かない、些細な些細な、本能の笑み。

 手首が痛む。まともに力が入らない。けれどそれは左腕――――利き腕は無事だ。だから大丈夫。私は負けない。負けない。負けるはずがない。

 その確信は、一体どこから生まれてくるのか。

 

 ――――簡単な答え。

 

 自分の後ろには、シリウスがいる。いつも自分を護ってきた少年が、いまは、いまだけは自分に護られる存在になっている。理由はそれで十分だ。少年が、少年の視線が気配で訴える絶対の信頼。自分がこの魔物に倒されるはずがないという少年の確信が、ラーシャには肌で感じられる。

 その想いが、何よりも自分を高めてくれる。

 

 知らなかった。

 誰かに信頼されるとはこんなにも心地のよいもので、これほどまでに自身をハイにしてくれるなんて。

 

 大丈夫。自分は負けない。負けるはずがない。

 そんな鋼の思いを胸に、ラーシャは床を蹴った。

 

 

 

 

 

 

 一瞬、嘘だろう、と思った。

「お……おいおい。何だありゃ」

 呆然とした声を上げたのは、ナイフを抜き放ちながらも一歩も動いていないアヤだ。あっけに取られた視線が向けられているのは、目前でイシスと結び合うラーシャの姿。その戦いは互角に見えて――――あるいは、彼女が押しているのかもしれなかった。

 そんなアヤに、シリウスが苦笑混じりに声を掛ける。

「言った、ろ? 彼女は、僕の、パートナーだ、って……ッ。

 あれだけの実力は、確かにあったんだよ、彼女に……僕が、それを発揮させていなかった、だけだ。計らずとも、ね。……まあ、さすがに、イシスはまだ厳しいだろうから、援護はしているけれど…………ッ!」

「――――シリウス?」

 所々で息を呑むその台詞を不審に思い、彼は少年に顔を向けた。

そして、今度はアヤが息を呑む。シリウスの額にびっしりと浮かんだ玉の汗は、間違えることもできない脂汗だ。考えれば、呼吸も荒い。先ほどまでとんと平然としていた少年が、いまここに来て消耗していた。

シリウスはそんなアヤに目をやって、弱々しく笑って見せた。

「ブレス、速度増加、エンジェラス……できる限りのことはやってるよ。

 まあ、そのせいで、こっちの痛み止めが、できないんだけどね…………!」

 言って、少年は直ったばかりの左腕を軽く掲げて見せた。もしや、それだけの動作で激痛が走るのか――――シリウスは、顔をしかめて息を漏らした。

 一旦呼吸を落ち着かせ、君は、と少年は続けた。

「まだ飛び込まない方がいい。いま下手に横槍を入れれば、彼女の集中を散らすことになる」

 そんなことをは言われるまでもなく理解している。無言のまま、アヤは頷いた。

 シリウスは不意に顔をほころばせる。翳のある笑みではあるけれど。

「――――ったく。神経剥き出しは、さすがに応える」

 悪態をつく老いた少年は、なぜか現状を楽しんでいるようにも見えた。

 

 

 

 

 

 イシスの指が、かすかにラーシャの頬に触れた。けれどそれだけの接触で肌には裂傷が生まれ熱を発する。受けた傷はこれで何度目だろう。醒めた、あるいは果てしなく胡乱な意識のままでラーシャはそんなことを考えた。

 感覚の全てが薄紙を通して伝わってくるような、そんな状態。頭はとっくに考えることをやめている。ならばいまこの自分を動かしているのは何なのか。あれほど絶望的な悪夢と思われたこの魔物の攻撃を捌き、受け流し、そして反撃を加えさせているものは何なのか。

 ――――おそらく。理性を意識階層の最上部に位置する識だとするならば、これはその根元。全ての思考を放棄して、ただ動物が生きるためだけに必要とする動作を司る意識。身に降りかかる危険を排除し、外敵を殺戮するそのためのシステム。

 

これぞ、無意識というものか。

 

 身体に負った傷は数知れず、流れた血液も計り知れない。身体の隅々は限界を訴えて、酷使した筋肉は今にも断裂してしまいそう。でも身体は動きつづける。自身を生かすため、自身に向けられた信頼に応えるために限界を放棄する。

 見える。イシスの魔手が、自身を引きちぎらんと振るわれるさまが。

 見える。イシスの魔手が、自身を叩き潰そうと叩き下ろされるさまが。

 それら全ての攻撃を、彼女はあるいは回避し、捌き、受け流す。一瞬たりとも立ち止まらない。前に、後ろに、右に左に。あるいはこれ以上ないほどに単純な動作をもって、こ

の命に迫る危険をかわす。

 ぶん、と死角から大きな弧を描いて振るわれた腕に対し、彼女はあろうことかそちらへと踏み込んだ。意識を知覚する以前の行動。体を傾け、頭部を立った状態の腰より低い位置まで下げながら、力強く一歩を踏み出す。

 僅かな傾斜と共に構えられた刀身は肩に添えられていた。そう、故に、ラーシャの身体とイシスの魔手が交差するその瞬間、双方の速度を上乗せされた斬撃がイシスの腕を切断した。低く構えたラーシャは、一片の傷も負っていない。

ただその無理な姿勢から体勢を立て直す愚を行わず、そのまま前に飛んだ。前転の要領で起き上がり、即座に右に飛ぶ。予想は正しく、刹那、その空間を鋭い爪が抉った。

跳んだ勢いを利用して、彼女はイシスに身体を向ける。炎が照らし出すその様相は、まさに憔悴した獣。身体の各所に見られる傷からは血が流れ出て、その彩りがあまりに禍々しくて嫌になる。手首から先が切り落とされた右腕は、それの象徴であろうか。

意思の読み取れなかった顔に満ちているのは、これ以上ない純粋な憎悪。自身の前にいる存在を危険と判断した証。つい数時間前までまるで太刀打ちできなかったこの魔物が、いま自身を明確な敵対存在として認識している。

それは、誇ってもいいことなのかもしれない。

しかしラーシャは、そんなことには興味がない、といわんばかりに剣を構える。腰を落とし、半身を捻る。されど視線は、矢のように鋭くて仮面のように味気ない視線は、イシスに向けられたまま微動だにしない。

視線で魔物を磔にするかのごとく、彼女は刃の双眸をイシスに突きつける。

次の一撃が、この自身に内包する全ての破壊力である――――そんなことを意識の端に知覚しながら、ラーシャはただその時を待った。

ほんの少しの、空白。

しかしやがてそんな時間はなかったかのように、じゃっ、とイシスが間合いを詰める。それは今まで見た中で一番素早く、一番おぞましい移動だった。彼我の距離が、一瞬にして零に近くなる。勢いをそのままにまっすぐ突き出された手のひらは、全てのものを握りつぶす破壊者のそれだろう。

よもすれば矢よりも早く迫るそれを――――ほんの少し。頭一つ横に傾け、ラーシャは回避した。

それは、傍から見て見事な動作としか表現のしようがない。

触れてしまえば一瞬で肉を抉り取られる五爪の凶器が、頭部のほんの少し横を行き過ぎる。ぷつん、と何かが切れるような音がした。生まれた痛みはけれどなぜか胡乱としていて、いったいどこを傷つけられたのかもわからない。

それは風だ。あまりに早すぎるイシスの腕が、直接触れずともその風圧だけで彼女の皮膚を切り裂いたのだ。

ぼんやりとする意識。たらり、と熱いのか冷たいのかもわからない血液が皮膚を伝う。と、不意に視界が赤転した。忌々しい赤の世界。――――ああ、血が目に入ったのか。

考えれば、それは決定的な負要素だ。これで片目はつかえない。ならば遠近感が掴めない。自身より長いリーチを持つ魔物との戦闘において、自身の攻撃距離が知覚できないなんて、それはどんなことより決定的な敗因だ。

 

 

――――しかし、まあ。

    この近距離で、間合いも何もない。

 

 

呼吸は、短く、小さく。

後ろ足の筋肉を伸ばしきった踏み込みは、前というより斜め下へ。傾いた体をそのまま地面にうずめるように、ラーシャはピラミッドの床を蹴る。

空気の弾ける音が聞こえた。それも二度。

二回目の踏み込みは、一度目のそれより更に激しく、そして短く。もはや接触する寸前にまで近づいたその距離で、ラーシャは曲げきっていた上半身のばねを開放する。悲鳴をあげる筋肉は、もうずっと昔に見捨てた気がする。痛みを訴える健も、いまはあまり興味がない。

石で構成された墓碑の中で、剣の周りの風が暴れた。全ての力を乗せられたその一撃は、ほぼ円運動一週分に値する助走をつけて、壮絶な気合と共にイシスの腹部に叩きつけられる。

「は……ぁぁぁaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!」

 それは言葉と言う装いすら脱ぎ捨てて、純粋な破壊衝動が形になった結果。

 バッシュと呼ばれる、幾百の流派を数える大陸剣術において全てに共通する強打。その技術を持って流れた白銀が、イシスの腹部に埋没する。

 まずはぞぶり、という感触。若干の抵抗。ぶちぶち、という筋の繊維を断絶する感触が伝わった。次にはばきり、なんていう穏やかでない破砕音。何かを砕いた手ごたえ。そして――――真っ赤に染まった剣の刀身が、反対側の腹部から姿をあらわした。

「……………………」

 その瞬間、まさに彼女の意識は真っ白になっていた。振りぬいた剣を握る力さえも緩み、血のこびりついた剣は勢いに乗せられたまま彼女の手を離れ、ほんの短な滑空の後に――――かしゃん、なんていう乾いた音を立てて床に落ちた。

 呆然と立ち尽くしたのは、ただラーシャ=シモンズひとりだけ。

 何か憑き物が落ちたかのように、彼女は呆、とそれを見上げる。

 腹部を両断されたイシスは、それでもなお生きていた。いや、いまの一撃は、そしてその傷は確実に致命的だ。放っておけば確実に、数分もしないうちにこの命は絶えるだろう。いま、辛くも下半身に乗っかっている上半身は、その身に残された僅かながらの生の残滓を食いつぶすことしかできない。

 できない――――はずだ。

 出血で頭が朦朧とする。傷は体中にできていて、いったいどれだけの血液が失われたというのだろう。痛みはもはや痛みでなく、胡乱な違和感として身体を侵食している。ざー、と耳に届く耳鳴りは、いままさにこの意識が途絶えようという前兆なのだろう。

 仮に、そうだとしたら。

 ラーシャは、消え行こうとしている、闇に堕ちていこうとしている意識の隅で、それを見た。

 自分よりも早く、そして自分より深い闇に堕ちていくはずのその魔物は――――どこにその余力があるというのか、腕を振り上げ、その顔をまっすぐにこちらに向けた。手を伸ばせば触れることが叶うほどの近距離で、ラーシャはその魔物の顔を見上げた。

 それは、凄惨な表情だった。端正な女性は、その眉を怒らせ、目を吊り上げている。固く結ばれた口の端からは赤い液体が逆流し、白い肌に赤い筋を作っている。目が痛くなるほどのコントラスト。絶世の美女が、醜くも実直な感情でその美を台無しにしている。

 けれど――――なぜだろう。ラーシャには、目をそらそうとも、目を瞑ろうとも思えなかった。むしろその顔をじっと見てしまう。霞と靄が一緒くたに蔓延する意識で、彼女はその顔を凝視する。

 感情が露な、死に行こうとしている魔物の顔は、それはもう本当に。

 

 

 

 

 

 ――――なんて、美しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局、振り上げられたイシスの腕はラーシャに向かって振るわれることはなかった。腕を上げたその魔物は、それだけの動作でもう命の残り火を自ら吹き消してしまったのだ。

 もっとも、これは彼女が聞いた話である。

 なぜならラーシャは、イシスが既に死んでいると気づくより早く――――意識を失い、その場に倒れこんでいた。

 そんな彼女が目を覚ましたのは、夢とも現とも判別のつかない一連の戦闘から、一時間ほどが過ぎたころになる――――――――