狂詩曲 T

 

 ――――そうして、彼女は目を覚ました。

 なぜだろう。頭が痛い。そんな感想を抱きながらも無言のままに。はっきりとはしない頭を抑えながら、ただただ暗闇の中で彼女は体を起こした。指先から伝わってきたのは、ぴちゃり、なんていう水音。そういえば、確か傷を負ったっけ――――遥か遠い出来事であるかのように、あの戦闘を回想する。

暗闇。光の一片も差し込まない、完全なる闇の権化。その只中に取り残され、彼女は周囲の状況を確認した。この胡乱なままの意識では、なにを思い出しても徒労に終わるだろうと言う予感があったからだ。

 もっとも、周囲を探すにしても――――この暗闇の中では、視力など役に立とうはずもない。対処法ははっきりとしているのに、なぜか彼女の意識はそれを是とはしなかった。自らの視界を闇に支配させたまま、彼女ははいずるように湿った床を探り、いくつかの肉片を発見した。

 肉片。

 それは確かに肉片であった。それも紛れもない人間のそれだ。これはおそらく腕なのだろう。ひょろ長く生暖かいそれを摘み上げ、ようやく、彼女は意識を覚醒させた。

 それをして、視界に光を取り戻す。

 そして彼女は悲鳴を上げた。

 真っ赤に染まっていた周囲。冷たい石の上には広い地の湖ができていて、自分はその中心近くに這いつくばっていたのだ。なぜかいまさら、血の禍々しいにおいが鼻を突く。吐き気を覚えた彼女は咄嗟に口を抑え――――嘔吐感すら、飲み込んだ。

 

 腕には手がなかった。

 

 まるで不細工な粘度細工であるかのように、自身の右腕が手首からずっぱりと切り取られている。そこから覗く肉の切れ目は鮮やかで、その繊維がまだ生きていることを証明していた。

 考えれば――――この血の湖を形成している一員は、この自分であったのだ。

 

 

 

なんだこれは。

 なんだこれは。

 なんだこれは。

 わけがわからない。

 わけがわからない。

 この傷は痛いのか?

 なんだこれは。

 だってほら血が出ている。

 わけがわからない。

 本当に血が出ている?

 なんだこれは。なんだこれは。なんだこれは。

 本当に血は流れ出ているのか?

 いたい。いたい。いたい。

 それはどういう意味だ。

 どくりどくりと。血は脈動を繰り返す。

 ほらやっぱりいたいじゃないか。

 どくりどくり。

 わけがわからない。

 これは傷なのか。

 いたい。わけがわからない。

 それとも、傷であったのか。

 

 

 

 

 

 ぐしゃぐしゃぐしゃ、と彼女は抑えていた頭をかきむしった。混乱している。騒ぎ立てる意識を押さえ込み、彼女は自身の傷口から目をそらそうとした。

 けど、できるはずもない。

 彼女の知的好奇心が、自身の身に起こっていることを貪欲に知ろうとしている。

 

 

 

 どくりどくり。血がさかのぼる。

 いたいいたいいたいいたい。

 どくんどくんどくんどくん。

 わけがわからない。

 どくん、どくん、どくん、どくん。

 ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ。

 

 

 ああ、そうか――――

 あっさりと。本当に驚くほどあっさりと、彼女はその現実に目を向けた。

 この傷は傷ではない。傷ではなくなろうとしている肉体だ。

 彼女は観察者の瞳を自身の傷に向けさせる。ほら見なさい。血が出ている? 逆でしょう? 私の中から出ていた血液が、私の身体を駆け上り這い上がりよじ登り、この身体に回帰しようとしている。

 

 ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ。

 

 意識がなぜか白ずんでいく。ぐちゃぐちゃぐちゃ。かき回していた左手はいつしか水音を立てている。ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃ。

 

 

 

 

――――ぼとり。

 

 

 

 

 手の隙間からすべり落ちたその一群を、彼女はぼんやりと見下ろす。赤い床の上に落ちたのは、それとほぼ同色のぐにょぐにょしたもの。ぐちゃぐちゃにかき回されたあげくのそれは。

 もう、あまりにも無残で。

 まあ、それなら、この胡乱とした意識にも。

 納得がいくというものか。

 

 

 

 

 

 

 地面の上に落ちた自身の脳髄を視認して、ようやく、彼女は自分の頭が半分欠けていることに気が付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――そうして、彼女は眼を覚ました。

 視界の中心にあったのは、煌々と明りを放つルアフであった。覚醒を迎えていない彼女の本能も、そのまぶしさに思わずあけたばかりの目を細める。手で視界を遮ろうとして、諦めた。体中に走っているけだるい根が、彼女にそれをさせなかったからだ。

「おはよう、ラーシャ。よく眠れた?」

 そんな彼女に、頭の上から声が掛けられる。視界が不意にさえぎれられ、見覚えのある少年の顔が映った。

 あ、とラーシャは声を上げる。

「――――シリウス」

「……どこか調子がおかしい、ってわけでもなさそうだね。

 しばらくは少しだるさが残るかもしれないけど、それはまあ了承して。傷のほうは完璧に治したけど、個人個人が感じる精神的な疲労までは拭いきれないからね」

 いつもの調子、いつもの声音。いつもの笑顔でそう告げた少年は、まるで日常の切れ端みたいに穏やかで、暖かかった。

 けど、そんなものはつたない幻想だ。

 ラーシャは半身を起こし、いつからそうしていたのだろう、自分の傍らに腰掛けていたシリウスに声を掛けた。

「シリウス、あなた、腕はもう大丈夫なの?」

「あはは、心配するほうとされるほうが逆だね、これじゃ。大丈夫、もう完璧だよ。魔力の物質化も完了したし、この形で身体に定着した。簡単に言うなら、それこそ“元通り”だよ」

 笑顔を浮かべたままで、そんなことを少年はのたまう。彼女は今ひとつはっきりとしない頭に軽く手をあてて、短く息を吐いた。

「――――イシスは?」

「ん? 覚えてないの? 君がしっかりと倒してくれたじゃないか」

「……本当に?」

「え?」

「本当に、私なんかがイシスを倒したの?」

 呟いた言葉は独白のように真っ白で――――シリウスは、その奥に覗く恐怖を感じ取った。ラーシャは、よく見れば顔を青ざめさせ、唇の端を小さくゆがめている。歪な、笑みだ。

「どうして――――私なんか、に」

 胡乱だった意識が明瞭に成るにつれ、先ほどの戦闘の記憶が驚くほど正確に流れ込んでくる。イシスの圧倒的な力。その巨体からは想像もできない俊敏な動き。鋼の鱗。刃の爪。その全てが一丸となり、この身を殺そうと向かってきたあの戦いは、なんて無謀なものだったんだろう。

 ぽたり、と頬を伝った汗が落ちた。彼女の顔色は蒼白を通り越して、土気色にすらなりつつある。

 

 

 ――――迫る魔手。

 ――――それを僅かな動きで回避する自分。

 

 ――――繰り出した斬撃。

 ――――突き刺さる刀身。

 

 

 もしあの時、少しでも身体がついていかなかったら。

 もしあの時、少しでもこの力が足りていなかったら。

 

 

 イシスの腕は間違いなくこの身を切り裂き、この腕が手にしていた剣は弾かれどこかに飛んでいっただろう。そしてそれは、決定的過ぎる敗因になるはずだった。本当なら、真に聡明ならば、そんな瀬戸際の戦いなどすべきではないのに……!

 

「ラーシャ」

 過去の恐怖とありえなかった結果に怯える少女に、シリウスは声を掛けた。

 彼女がこちらに首を向けるより早く、少年は言葉を続ける。

「確かに、あの戦いは僕から見ても無謀だった。けど」

 その柔らかな言葉は、身体を強張らせる彼女の抗いを全て潜り抜け、その奥で震える彼女の本心に届いた。少年が浮かべている笑みは、いつもの無意味なそれではなく――――苦笑を含んだ、おそらくは本当の意味での微笑だ。

 驚きを含みながらもほう、として、彼女は少年の言葉を待つ。

「けど、君があの魔物を倒したことは紛れもない事実で、過去で、現実だ。そればっかりは変えられない。たとえ、君が拒んだとしてもね。過去っていうのは、辛くもそういうものだろう?

 まあ、僕としても意外だったよ。まさか君が自力でイシスを倒すとは思えなかった。いまだから言うけど――――僕はあの時、最悪のケースも考えたんだ。けど、不要だったね」

 とんでもないことをさらりと述べて、少年は立ち上がった。割と離れていない場所で腰を下ろし、こちらを見るでもなく眺めていたアヤに声を掛ける。

「そっちは問題ないかい?」

「はなっから何もなかったからな。俺は眺めてただけだ。ったく――――どっちが役立たずだか、判りゃしねえじゃねえか」

 アヤはそう毒を吐いたが、その表情は苦笑だ。こちらに向かって軽く手を振ってみせる。

 なぜか、意味もなく穏やかな雰囲気だった。過去の恐怖に怯えた自分がなんだか場違いなようで、思わずきょとんとしてしまう。シリウスはそんな彼女に再び苦笑して、す、と手を差し出した。

「さあ、準備ができたなら、行こう。

 記憶が確かなら、工程はもう半分を過ぎた。ここまでくれば、もう、あとは少しだよ」

「――――」

 一瞬の、間があった。

 それが何なのか、正確にはわからない。ただ、いつもどおりに振舞うシリウスがなぜか嬉しくて――――少年に関するいろいろなことを知っても、何も変わらずに接してくれるこの少年が嬉しくて、息を呑んだだけだ。

 差し出された手を、握り返す。

「道案内は、任せるわよ」

「はいはい。しっかりとエスコートさせてもらいますよ」

 いつもの微笑で、シリウスはそんなことをのたまった。