狂詩曲 U

 

 しばらく歩くうち、不意に空気が変わったことにラーシャは気付いた。

 それまで、ルアフの光が届かない闇の中には幾多もの気配があった。気配、というより思念、と称したほうが正しいだろうか。霞のようにぼんやりとしながらも、それでいて氷のように冷たい敵意と殺意。それを秘めた何者かが、それこそ数え切れないほどこちらを見ていたはずなのに――――その視線が、ある一歩を境に急に失せた。

「おい、シリウス」

 その変化を感じ取ったのは彼女だけでなかったのか、アヤは軽く周囲に視線を送りながら先頭を歩く少年に声を掛ける。アヤがそれ以上を言うより早く、シリウスは言葉を紡いだ。

「気のせいじゃないよ。たぶん、ここを境に魔物は出現しないと思う。狩り尽くされたんだろうね」

 こともなげに言い放った言葉は、あまりに自然すぎて理解できない。

 刈り尽くされた――――?

「誰に?」

 端的に。ラーシャはその問いを発した。

 シリウスは歩みを止め、ほんの少しだけ苦笑した。少年の後ろにいる彼女にそれは見えないが、なんとなく、そんな気配がした。

「そうだね、なんて、言おうかな――――」

 後続の二人が同じように足を止めたのを確認した上で、ぱちん、と少年が指を弾いた。青い光に照らされた中で、少年の数歩前に薄く半透明な光のカーテンが現れる。魔力の防護壁だ。

 なにを、と彼女が問うより早く。

 闇の彼方から飛来したいくつかの輝きが、展開したばかりのセーフティーワールに突き刺さった。

「―――――!」

 思わず、後方の二人は息を飲んだ。薄さは服の生地ほどしかないその防護壁に、数本の矢が打ち付けられている。その様は、なぜか緊迫感とは裏腹にどこか滑稽だ。

 ざっ、と空気が動いた気がした。けれどそれは気のせいだ。彼女自身は無論のこと、シリウスも、アヤも一歩も動いていない。それは単に事態を理解できていないと言うことだけれど――――少なくとも。少年は、違うだろう。

 ほんの少しの沈黙のあと、もう一度その煌きがこちらに向かって飛来した。先ほどとはほんの少し違った場所から、僅かに一本。先ほどとまったく同じように、魔力の壁に阻まれる。

「邪魔だ」

 冷酷で短い、シリウスの言葉。ぱちん、と聞きなれた音。

今度は、その小さな音に続いて何かが崩れる軽やかな音が聞こえた。

「亡者に用はないんだ……おい!」

 独り言のように呟く。いや、呼びかける。

 誰に――――彼女がその疑問を抱くより早く、闇のその向こうに少年は続けた。

「僕だ、シリウスだ! 君だろ、カイン=ハイルバード!!」

 空白。

 一瞬とも、あるいは一時とも取れる時間を経たあと、ゆっくりと空気が動いた。今度は勘違いでも、錯覚でもない。

 その証拠に、ほら。

 シリウスの張った魔力壁のさらに向こう。ルアフの光が照らし出すぎりぎりの境界に、音もなく一つの影が姿を現す。

 それは、紛うこともなく人間であった。俗に弓手と呼ばれる装いをした彼は、鋭い目つきでこちらを見て、いや、観察している。品定め――――そんな感じだ。構えを解いてはいるが、その弓は矢を備えたまま弦を引かれている。こちらが不用意に動けば、まさに一瞬のうちに射抜かれるだろう。そんなことは容易に想像できた。

 年齢は、自分よりすこし上だろうか。二十代に手を掛けたばかりなのだろう。しかし、そんなことをぜんぜん感じさせないのは、その静謐な瞳に宿る理性的な輝きゆえか。

「シリウス――――だと?」

 その声は、どこまでもただ、静か。

 彼の、カインの言葉に少年は顔をしかめた。

「そうだよ、残念ながらね――――くそっ。やっぱり君たちもそうなっていたのか」

「ということは、お前も、か。お前が最後だったわけじゃなくて、その逆だったんだな」

「そうだよ。君たちがいつ蘇生したのか知らないけど、僕はあのあと半刻もしないうちだ」

 旧知の仲らしい二人は、そう言葉を交わして障壁越しに対峙する。シリウスの顔には苛立ちと悲しみが。カインの顔にはかすかな怒りが感じられる。

 ややあって、不意にシリウスが指をはじいた。地面のほうから空気に溶けるかのごとく、セーフティーワールが消滅していく。完全に消えてなくなった障壁を確認して、カインは弓に添えたままだった矢を離し、背中の矢筒に戻した。

 ふっと、シリウスが苦笑にも似た笑みをもらす。

「――――相変わらず、用心深いね、カイン」

「人のことは言えないと思うぞ。それで、そいつらは何だ?」

 ラーシャとアヤに交互に視線を送りながら、カインはそう問うた。青い瞳。あるいは何らかの結晶を思わせるその瞳に射抜かれ、彼女は自分でも気づかないほど小さく、息を吐いた。

「今の僕の仲間だよ――――そっちは? みんな元気?」

 答えながら、カインに問い返すシリウス。

 何の脈絡もなく、ラーシャはその問いにわずかながらの逡巡が含まれていることに気付いた。

「ああ、変わりない。一番蘇生の遅かったミハルも、いまは完調だ。もちろん、パンドラもな」

「――――え?」

 聞き覚えのある名前に、ラーシャは無意識に声をあげていた。

 どうやら心地としてはアヤも同じだったらしく、少しだけ目を見開いてシリウスを横目に見ている。説明を求める沈黙が流れたが、ラーシャはあえてそれを破る気にはなれなかった。

「二人に、紹介するよ」

 いつもと変わらぬ笑みのまま、シリウスは言った。

「あいつは、カイン=ハイルバード。見てのとおり、弓手(アーチャー)。かつて、僕と一緒にここの討伐団に巻き込まれた人間さ」

「……おい、ってことはまさか」

 少しだけ顔を青ざめさせて、アヤが言葉をつむぐ。

けれど、シリウスはまるで驚いた様子もなく、アヤに皆まで言わさずにその言葉を発した。

「まあ、あのときのメンバー全員が僕と同じ羽目になっていたってことさ。別段不自然なことじゃないよ。状況はみんなおんなじだったんだ」

 

 即ち――――不死の呪縛。

 

「シリウス」

 その名を呼んだのは、カインだ。

 光と闇の狭間に移動していた青年は、そう言って闇の向こうを指差す。

「ここから少し進むと、小さなホールに出る。俺たちが活動の拠点にしている場所だ。

 ――――久しぶりの再開だ。酒ぐらい、付き合え」

 そう言い残し、カインは一人で闇の中に消えていく。

「――――まあ、拒む理由はない、か」

 シリウスはそう呟いて、肩に込めていた力を抜いた。端から見てはっきりとそう知れるのは、少年がそれほどこの遭遇に緊張していたからだろう。でも、なぜ? 少年が緊張せねばならない理由を想像できないままに、ラーシャは声をかけた。

「シリウス、今の人が、本当に?」

「ああ、間違いないよ。当時ここに来たメンバーは四人。僕、パンドラ、カイン、それと――――さっき名前が出てきたでしょ? ミハル=リアルト。剣士である彼女がリーダーだったんだ」

 答えながらも、シリウスは足を動かし始める。それの後ろに、アヤと並ぶように着きながら彼女は問いを続ける。

「その人たちも、あなたと同じように?」

「だろうね。でなきゃ説明がつかない。まあ、こんな朝も昼もない閉鎖空間にいたら、それこそ年月なんて蚊帳の外なんだろうけれど。

 ――――やっぱり、適性があったのかな、僕には。僕の蘇生が終了したときには、あたりには死体しか転がっていなかったはずだから」

 

 

 

淡々と。

少年は、人事のようにその記憶を呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 カインが指差したと思われる方向に進み、いったん通路の角を曲がった。すると、前方に赤い光りが見える。魔力の炎。聖職者のルアフではない、魔道師のサイトの光だ。

 その光を目指してさらに歩を進めると、確かに開けた空間に出た。並みの家屋ならまるまる入ってしまうほどの広さと高さを兼ね揃えたそこで、彼らは待っていた。

「――――シリウス!」

 先頭の少年がルアフの領域に足を踏み入れたとたん、そんな声がした。若い女性の声だ。

 その呼びかけに、シリウスは一瞬足を止める。けれど、それはやはり一瞬のこと。すぐに何事もなかったかのように歩を進めたシリウスは、ルアフの麓、いくつかの人影が円を描くように腰を下ろしているその場にたどり着く。

 全部で、三人。

 シリウスの言葉に拠るなら、こちらを、正確に言えばシリウスだけを驚いたような顔で見上げている金髪の少女が、パンドラなのだろう。自分と同じように長い髪が、ルアフとサイトの異なる光を同時に浴びて、菫のような色合いに染まっている。

 そんな少年を、少しだけ見開いた目で見る女性がもう一人。物腰、装いからして進んでいる道は自分と同じく剣の道なのだろう。傍らにさりげなく、けれどまぎれなく一呼吸――――あるいはそれ以下で手の届く範囲に、黒塗りの鞘が投げ出されている。ショートに整えられた髪形と、どこか刃物めいたまなざしが不思議な雰囲気を演出していた。彼女が――――ミハル。

 ちなみに、残るカインは別段興味もなさそうにこちらを見ていた。

「やあ、みんな。久しぶり」

 そんな三人に、シリウスは笑顔で言葉を掛ける。そして、息を呑んだのが座り込んだ女性人二人。少しだけ驚いた顔でシリウスを見つめ、ついでお互いに視線を合わせる。

「嘘。偽者」

「あなた、だれ?」

 ミハルと、パンドラ。二人はほぼ同時にそんな言葉を、よりによってシリウスの顔を見つめながら言ってくれた。その、あまりに確信を帯びた断定に、ラーシャはおろかアヤまでもが言葉を失う。

 もっとも、当の本人はそんな二人の言葉にあはは、と笑って見せた。

 しかし。

「――――あんまり、怒らせないでね」

 穏やかに、けれど確実に凄みを込めて発せられたその言葉は、笑顔とはあまりに正反対だった。

 その少年に、二人はどうにか納得顔でうなずいた。

「……なるほど。まあ、認められるわね」

「ずいぶんとした変わりようだけど……」

 神妙にそう呟いて、長髪のほうの少女が、パンドラがついと立ったままのこちらに向けて視線を向ける。

「そちらは?」

「こっちが、今回のクライアント。で、この子が今の僕の相棒」

 後ろ手でアヤとラーシャを交互にさしながら、シリウスは単純明快にそう述べる。

「君たちも座りなよ。ちゃんと知らせておきたい」

 少しだけ神妙そうなその表情と口調に何も言えず、二人はそれぞれシリウスの左右に腰をおろした。

 

 

 

 

 

「――――さて」

 

 

 

 

 

 

 わずかな空白。呼吸を整えているかのような間隙。

 それを終えて、シリウスは小さく息を吐き出した。

 

 

 

 

 

「こういう事するのはガラじゃないけど……まあ、君たちの接点は僕だから、僕が互いを紹介しないといけないんだよね」

 苦笑交じりに呟くシリウス。

 そして、すっと傍らのアヤに手を向ける。その顔は先の三人に向けられたままだ。

「こいつが、さっきも言ったとおり、僕のクライアントのアヤ=シジョウ。旧シーフギルドトップの息子だよ。

 で、こっちがラーシャ=シモンズ。プロンテラに実家を持つ女の子。……そっか、考えてみれば僕が知ってることってこれだけなんだよなぁ」

 どこか感慨深げに、シリウスはそう呟いた。と思えばすぐに元の笑みを浮かべ、今度はアヤとラーシャに交互に視線を送りながら、先の三人を順に指差す。

「さっきも会ったこいつがカイン=ハイルバード。見てのとおり、アーチャーギルドに属していた逸材だよ。で、その隣に座ってるのがパンドラ=クリメイス。僕の姉弟子。僕より二つ上だっけ、確か」

 シリウスが目で問うと、パンドラは何も言わずにうなずいた。

「で、そっちの無愛想な女の子が僕らのリーダー、ミハル=リアルト。剣士の出で、得意なのは両手剣だったね」

「ええ――――けど、ずいぶんと言うようになったわね、シリウス」

 苦笑とも取れる笑みを浮かべながら、ミハルはそんなことを呟いた。しかしそれは残る三人にも共通する思いだったらしく、どこかあきれたような視線がシリウスに向けられている。

 そんな、昔の仲間たちの視線をいつもの笑顔で潜り抜けた少年は軽く肩をすくめる。

「ま、二百年も経てば僕だって少しは変わるよ」

「――――へぇ。もう、そんなに経ってたんだ」

 驚いたように呟いたのは、自身の髪を片手間に弄んでいたパンドラだ。彼女はどこか達観した聖者のようにルアフとサイト、二つの魔力の光源を仰いだ。そんな彼女を視界の片隅で、しかし確実に捕らえながら少年は告げる。

「正確には百七十と四年。予想はしてたと思うけど、僕たちの存在は公式な記録から完全に抹消されている。

まあ、そうでもなければアコライトになんてなれなかったんだけど」

「ふうん――――それでシリウス、聞かせてもらいましょうか」

 静かに言って、パンドラはシリウスに顔を向ける。真剣なその表情に、シリウスの顔からも笑みが消えた。笑みどころか、感情までもが消失したかのような虚無の貌。

 それを見て、カインとミハルは軽く息を漏らした。この表情を見せられては、この少年がシリウスだということを疑うわけにはいかない。何だかんだで半信半疑ではあったが、この少年がいま浮かべている表情は――――仮に、それを表情と呼ぶのならば、ではあるけれど――――あの日のシリウスのそれと寸差ない。

「なに?」

 尋ねる声は穏やかでも、その存在からは並々ならぬ威圧感が放たれている。首筋に鋭いナイフを添えられているかのような緊張感。それもまた、懐かしくある。あの日も、これがシリウス=シンシリティーという少年の常であった。

 それを知らないのか、少年の左右に座る二人は明らかに狼狽していた。程度の差こそあれ、それは仕方のないことだろう。この少年を目の前にして、本当の意味でこの少年と向き合って平然とできる人間など――――少なくとも、カインの記憶の中ではパンドラぐらいしか思い当たらない。

「あなたが、いまさらこのピラミッドに戻った理由は? まさか、単に私たちに会いに来たって訳でもないでしょう。あなたがそんな殊勝なことするはずないものね」

 案の定、金髪の魔道師は平然とそんなことを問う。碧眼の奥にある静かな光は、多分いくらかの憤怒も含んでいるのだろう。ずっと昔に、おそらくは誰よりも早く蘇生していながら、ここに残った、残された自分たちに何も伝えなかった――――まあ、怒る理由にしては十分だ。

 静かな問いに、シリウスは頷きもしない。ただ、答えをつむいだ。

「まあ、できるなら来たくはなかったね、ここには。ここは何だかんだ言って――――今の僕には、厳しすぎる。自分の過失なんて、喜んで飛び込むものじゃないさ。

 僕が来た理由はね、姉さん。アヤに依頼されたってのもあるけど、やっぱり何よりも、この呪縛を断ち切りたいからさ。僕はね、オシリスを滅するためにここに舞い戻ったんだ」

 それは――――断言。

 思わず息を呑み、思考を停止させた三人の反応をシリウスは見守る。目を見開き、驚愕の顔でこちらを見るカイン、ミハル、そしてパンドラは――――ほぼいっせいに、我に返った。

「おまえ、それ、正気か?」

 少しぞっとした声で、カインが言った。

「あの時、俺たちが全力を出しても勝てなかった相手だぞ? 今度は勝てるとでも?」

「言っただろ、あのときからもう二百年近く経ってるんだ。僕は大陸を歩き回って自分を鍛えたし、君たちはずっとここに留まって、ここに沸いた敵を片端から殲滅していたんだろ? 君たちだってあの時とは比べ物にならないほど成長しているはずだ。まさか、この周辺の魔物をすべて狩り尽くしたのが、自分たちじゃないなんて言わないよね」

 確信を含んだ少年の言葉。ああ、確かに、それはシリウスの十八番だ。彼の記憶の中では、この少年は正しいことしか言わない。

 何も言えずにいる三人に、シリウスは続けた。

「僕らが死なない身体だからってのもある。でも、それ以上に、今の僕には戦力が必要なんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――頼む、みんな。あの時と違う結果を出すために、この僕に力を貸してくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 返事は――――すぐには、返ってこなかった。