狂詩曲 V
沈黙は、要した時間とは裏腹にあっけなく破られた。
「すぐに返事はできないわね」
そう言って俯いていた顔を上げたのは、黒髪の女剣士、ミハルだ。彼女はどこか静かな瞳をシリウスと、その左右に座るラーシャ、アヤに順繰りめぐらせる。
「あなたが言うのだから勝率がないというわけではないでしょうけれど、そうだとしてもあのオシリスの力は強大よ。それはあなたが一番よくわかっているでしょう? 一人や二人戦力が増したところで、どうにでもなる相手ではない……アコライトに、不死者を一撃で屠る術でもあれば話は別だけど」
「それは十分承知しているよ。確かに、アコライトにはなったけど正直思ったほどの実りはなかった。アンデットを一瞬で無に帰すようなスキルは、存在しない。まだソウルストライクで蜂の巣にしたほうが効果的だ」
苦々しくシリウスは認めた。
さらにミハルは続ける。
「もうひとつ付け加えるなら、あの時と同じことが起こらないという確証もないわ。シリウス。あなたは不死の呪縛を手放すためにオシリスを屠ろうと言うのでしょう? けれど、そのためにその人たちをも同じ呪いに引き込んでしまうかもしれない」
「――――」
それは――――確かに、そうだ。今まで不思議と考えもしなかったその可能性に、ラーシャは軽く息を呑んだ。横目で伺うようにシリウスを見やれば、彼はさらに顔を歪めている。彼自身は、当たり前のようにその可能性を考えていただろう。ならば、それは敢えて二人に口にしなかった、ということか。
少年が何を思っているのか、まったく想像できない自分を情けなく思いながらも、ラーシャはシリウスたちの言葉に耳を傾けた。
「クラウンウィザード。あなた、いったい何をしているの。あなたらしくもない。絶対の自信とそれを裏づけする力、ふてぶてしいまでの理論感。不可能を殲滅したあの天才が、何を言いよどむ。あなたは自分が強くなったと言ったけど――――怪しいわね」
「――――でも僕は、今の自分が気に入ってるんでね」
小さく答えたその言葉には、紛れもない苦笑が混ざっている。
かすかに驚いた風で、パンドラがシリウスを見ていた。見開いた瞳に移るのは、驚愕と困惑の色だ。
「たとえ、この二人が同じく呪いを受けたとして、そのあとオシリスを倒せば結果としては問題ない」
静かに、だけど力強く少年は言い切った。
ふと――――ラーシャは思う。
自分がシリウスという少年のことをよく知っていないのは、すでに十分実感済みだ。けれど、彼の昔の仲間たち。ミハルや、カインや、パンドラは、果たして彼のことを理解していたのだろうか。
仮に理解していたとしたら――――いや、無意味な問答だ。彼自身が言っていた。彼自身が告げたではないか、過去の自身との差異を。今の彼はシリウス=シンシリティーであり、道化の奇術師ではない。
それを、この人たちは理解しているのだろうか。
またしても、静かな時間がこの空間を流れる。
ややあって、何の前触れもなく、ミハルが頬を緩めた。
その柔らかい笑みは――――同姓のラーシャまでもが息を吐くほど、とても暖かいものだった。
「いいわ、シリウス。あなたに協力しましょう」
そのままで、ミハルは許諾の返事を返す。
「本当に?」
「ええ。あなたたちも、異論はないわね?」
ミハルの問いに、カイン、パンドラは首を横に振る。
シリウスは破顔して、身体に走らせていた緊張を解いた。
「助かるよ。正直、引き受けてくれるか自信がなかったんだ」
「――――まずは、少し休みなさい。そんなにせき急ぐこともないわ。
少し話をしてほしいわね。外の世界で起こったことで、私たちの時間を埋めてくれないかしら。その二人も――――疲れているでしょう。あいにくと食料はないけれど、薪なら余っているわ」
「……そりゃ、ありがたい」
疲れた息を吐いたのは、アヤだ。彼は腕で額に浮かんだ汗をぬぐいながら、責めるような視線をシリウスに向ける。
「ったく、勝手に話を進めやがって。こんなこと、親父から聞いてねえぞ」
「コートにも話したことはなかったからね。ま、異存はないだろ? 君の要求にも沿うはずだ」
「――――まあ、な」
言いながら、アヤは腰の道具袋から手早く携帯食を取り出していた。いつのまにか席を離れていたカインが、闇の中から腕の中に薪を抱えて戻ってくる。いったい何年前の薪なのか疑問ではあったが、尋ねても所為なきことなので、ラーシャはその質問を胸のうちにしまいこんだ。
「――――ずいぶんと久しぶりな気がするな、こういうのは」
円を組んで座る全員の中心に位置する場所に薪を組みながら、カインがぽつりとそんな感慨をもらした。
「そりゃそうさ。なんてったって、百年どころの話じゃないからね」
苦笑交じりに言うシリウス。そんな少年に、カインも苦笑を返す。
組みあがった薪にパンドラが手をかざし、軽く指先で空を切る。すると突然空間に生まれた炎の球が薪を飲み込み、やがて木材に引火する。それを見届け、パンドラは指先の炎を消した。
穏やかな雰囲気の中、小さな宴が幕を開けた。
それほど大きな声で話すわけでも、まして旧知な訳でもない。
なのに、なぜか――――初見の相手とのこの宴は、楽しかった。パンドラが面白おかしそうに、大陸を放浪していたころのシリウスの様子を語っている。
「前に一度、宿を出る少し前にこの子がノックもせずに私の部屋に入ってきてね」
悪戯を企む子猫のような輝きで、パンドラはシリウスに目をやる。少年はすでにその言葉に続く内容が何なのか悟っているのか、苦虫を潰したような顔をしていた。パンドラの語る内容にも興味があるが、シリウスのそんな珍しい表情のほうにも注意がいってしまう。
「たまたま、私はそのとき着替えの最中で――――ねぇ? すぐに出て行ったけど、この子、それでも無表情なのよ? あげく用件はきっかりと言ってくし。まじめに私って魅力無いんじゃないかって悩んだのよ?」
「――――あのあと、ちゃんと謝ったはずだけど?」
弱々しいシリウスの反論。
けれどパンドラはけろりとした顔で、とどめとなる一言を言ってのけた。
「ついでに、まだまだ発展途上だね、ともコメントしてくれたわね」
完全に沈黙するシリウス。顔を仏頂面に変え、どこかうつろに明後日の方向を見ている。
そんなシリウスを腹を抱えて笑い飛ばしたのが、アヤだ。彼は右手に小さな木のカップを持ちながら、爆笑する。
「ははは、なんだよその言い分! いくらなんでももう少しぐらい気の利いたコメントあるだろ!?」
「五月蝿いな。あのときの僕にはあれが普通――――いや、精一杯だったんだよ。
ったく、姉さん、今ごろあんなこと持ち出さなくてもいいじゃないか」
仏頂面のまま、シリウスはパンドラに非難の声を上げた。しかし当のパンドラはにやにやしたままひどく上機嫌だ。カインは醒めた顔ながらも口の端をわずかに歪め、ミハルは口元を手で隠している。苦笑でもしているのだろう。ラーシャはといえば、笑い飛ばすのも気が引けるし、かと言って興味がないというわけでもないので、結局は耳を澄ましての傍聴者に徹していた。
「あら? 今のはほんの前座のつもりだっけど?」
シリウスが心持ち顔を青ざめさせた。
「あなたのしでかしてくれた事ならまだまだあるわよ。安心しなさい。私が、ちゃんと誇張を交えながら全部披露してあげるから」
「――――やめて。お願いだから」
珍しく真顔で懇願するシリウス。
しかし、かのクラウンウィザードといえども、姉には勝てないらしい。
「私がそんなお願い聞いてあげると思う?」
にこやかに返されて、シリウスはがっくりとうなだれた。
パンドラのシリウスに関する語りが一通り終わるまでには、それなりの時間を要した。
「なんか、どうでもいい秘密ばっか明かされた気がする……」
なぜか悟りの境地に達したような雰囲気をまといながら、シリウスがそう呟いた。その顔が、今まで見た中では一番年老いたように感じられたのは気のせいか?
喋りつづけたパンドラはそんなシリウスを微笑みながら見やり、手にしたカップを傾けた。ちなみにそのカップは全員に行き渡っており、中にはシリウスが持参した紅茶が注がれている。
「あら、私はまだ語り足らないけれど……まあ、そろそろ開放してあげましょうかしら」
言って、儚げに笑って、パンドラは立ち上がった。
「――――姉さん?」
「ちょっといい? シリウス。あなたに見せたいものがあるの」
言って、パンドラは返事も聞かずに歩き出す。迷わなかったといえば嘘になるが、その逡巡も一瞬だ。シリウスは黙って立ち上がり、アヤに軽く目配せをしてパンドラの跡を追った。
そんな少年の背中を見つめながら、自分も着いていこうかと考えているラーシャに、カインが静かに嘆願した。
「悪いが、少しの間二人きりにさせてやってくれないか。
気が遠くなる年月の末の、再会なんだ」
「――――」
それもそうね、と胸の内で呟いて、ラーシャはカップを口にする。そろそろ熱の冷めてきた紅茶は、苦味が少しきつくなっている。
「しっかし、驚いたな」
不意にアヤが口を開いた。
「ざっと百と六十年……だろ? あんたたちがここに留まって。
その間、よく水や食料が保ったな。何かしらの供給源でもあるのか?」
確かに、それはそうだ。ラーシャもそのことを気にしてはいたが、それほど重要なことではないと思い敢えて尋ねなかったが、それでも興味はある。
アヤの問いに答えたのは、短い髪の女剣士だった。
「あら、私たちは特に食事を必要としないわよ」
さらりとしたその返答に、ラーシャはおろかアヤまでもが息を呑む。
そんな二人を軽く眺め、ミハルは続ける。
「彼から聞いていないの? 私たちはあの日、オシリスの呪いを受けアンデットに貶められた。いえ、アンデット、というのは御幣があるかしら。私たちは、別に死に損なっているわけではないから。
私たちは、時間を剥奪された。だからあの瞬間からいまこの瞬間まで、私たちはまるで変化していない。絶対静止。喉の渇きを覚えるわけでも、空腹を覚えるわけでもない。だから、私たちには飲食といったものが不要なの」
「――――」
(でも、そうだとしたなら――――)
ラーシャが胡乱な違和感を覚えているのを面白そうに見やり、ミハルは焚き火にくべられたポットを手に取った。
「あなた、紅茶のおかわりはどう? そちらのあなたも」
「あ――――いただきます」
既に空になっていたカップを差し出し、二杯目の紅茶を注いでもらう。
返されたカップをぼんやりと見下ろしながら、ラーシャはその違和感の正体を見極めていた。
(そう――――違うのね、この人たちは)
悟ったその瞬間、彼女たちを見る瞳に哀れみが灯る。
それを悟られないようラーシャは必要以上に頷いて、ゆらゆらと揺れる紅茶の波面を見つめていた。
そこに足を踏み入れ、シリウスは本心から感嘆の声を上げていた。
「――――へぇ、凄い」
完全に密封されていたはずの古の聖墓。道の行き止まりであるその一角に、天井から日の光が差し込んでいた。
シリウスは足を止め、光の源を仰ぐ。天井の一部が欠けているらしい。流れた膨大な時間の前に風化したか、それとも誰かが意図的に穴を開けたのか――――何のために?
「凄いでしょう? シリウス」
外はもう夕暮れなのか、差し込む光は見とれるほどに赤い。夕日の差し込むステージから数歩外れた場所でパンドラは振り返り、両手を広げてこの空間を示した。確かにこれは、自慢するに足る。ステージに茂るそれを見据え、シリウスは心から納得していた。
花畑だ。
プロンテラの道端で見かけるような小さな花々が、石造りの床に根を張り赤い日を浴びて咲いている。ステージをいっぱいに埋め尽くす名も無き花は、ある意味雄弁に時間の経過を物語っている。
差し込む夕日は、すべてを赤く染めていた。
「どれだけかかったの?」
「ざっと、八十年ぐらい。床石の局地的なエレメント分布の変更や、大気中の水分だけで事足りるように草花を改良していたら、それだけかかっちゃったわ」
私もまだまだね――――苦笑とも取れぬ笑顔で寂しげにそう言って、パンドラは立ち尽くすシリウスを見つめる。
「ねえ、シリウス――――あなた、いままでどこにいたの?」
「…………」
無言。
それは答えたくないというシリウスの意思で、パンドラを見据える落ち着いた瞳は、どんな罰も厭わないという確かな決意。
そんなシリウスに一歩ずつ近づきながら、パンドラはその顔から笑みを無くす。少しずつ近づく双方の距離は、準じて彼女の顔からいろいろなものを奪っていった。
「私がどれだけあなたを待ったか想像できる? あなたはそうじゃないかもしれないけれど、私はただの人間なのよ。百と六十年。待つには、あまりに長すぎる年月だと思わない?」
そして、火事のように赤い夕日があたりを染める中、小さな小さな花畑で二人は向かい合った。
「――――でも、別にあなたを恨んではいないわ。シリウス。あなたは、結局こうやって私の前に戻ってきてくれた」
シリウスの目前で足を止めたパンドラは再び柔らかく笑って、少しだけ妖艶に微笑んだ。
「ありがとう、シリウス。
ありがとう、私の一番好きな人」
パンドラが背を伸ばす。視界に大きくなった姉の瞳はさらに大きさを増し、やがてシリウスの視界にはパンドラの碧眼以外映らなくなる。
――――拒めない。
ゆっくりと。パンドラの唇がシリウスのそれを封じ込めた。
――――そうして、パンドラは隠し持ったナイフをシリウスの腹部に突き刺した。