狂詩曲W

 

 最初は、あの人の背中を彼に求めた。

 皮肉にも、彼にはその資格が十分にあった。知識、実力、行動力。そのすべてにおいて、彼はあの人を追い抜いていただろう。少なくとも周囲はそう評価したし、私自身それは認めていた。客観的な事実を認識でないほど、私は子供ではなかった。

 

 ――――でも、彼を好きになれるはずがない。

 

 だって、当然だ。今は亡きあの人を葬ったのは、紛れもない彼なのだ。私の親であり、師匠であり、憧れであった青年は私より幼い彼に完璧無比なまでに殺された。殺され尽くされた。しかも彼はそれだけの事をしておきながら、まるで悪びれた様子も、罪科を感じている様子もなかった。

 

 本気で、殺してやろうかと思った。

 

 事実、それは私の中で日に日に膨らむ欲望だった。私が愛した人を殺した人間を、私が殺す。あの人の代行人だと思えば、それほど無理な道理でもない。旅を止め、ひとつの家で彼と一緒に住むようになったが、私は決して彼を見ようとはしなかった。徹底的に邪険にし、無視し、相手にしなかった。正確に言えば、それしかできなかったのだ。彼は強い。私なんかでは太刀打ちできない。私にできるのはただじっと機を伺うことだけだったのだ。

 けど、無論そんな機会が早々巡ってくるものではない。時間だけが無意味に過ぎ去った。憎むべき相手と一緒にすごさねばならない私の日々は、苛立ちと憤りだけばかりだった。

 そして、そんな私をまるで気にかけていない彼の振る舞いが、いっそう私を苛立たせた。

 

 

 

 

 

 ――――永遠に続くかと思った不調和。

     それに終わりが訪れたのは、冬の始まりの一日だった。

 

 

 

 

 

 彼は夜遅くに帰ってきた。そのとき私は意味もなく寝付けず、リビングにいたので偶然その姿を目の当たりにした。

 

 ――――赤い。

     真っ赤な外套に身を包んだ、弟の姿。

 

 私は息を飲んだ。テーブルの蜀台に立つ蝋燭の炎が、吹き込む夜風に大きく揺らめく。

「――――珍しいですね。

     姉さんが、まだ起きているなんて」

 台詞の内容とは裏腹に、淡々と紡がれる声。赤い外套。そのマントはもともと黒かったはずなのに、なぜそんなにも赤いのか。

 

 ぴちゃり、と水音が響いた。

 

 座ったまま硬直している私を一瞥し、彼は歩き出した。元から返事は求めていないらしい。それも当たり前か。今までそういう振る舞いをしてきたのだし、これからも変えるつもりなんて、微塵も――――なかった、はずなのに。

「――――シリウス!」

 隣を過ぎようとした弟の腕を、外套の上から掴む。ぐっしょりと赤に湿った外套は、鉄さびのようなにおいをばら撒いている。

「あなた――――あなた、どこに行っていたの!?」

「すみません、姉さん。守秘義務がありますので、それには答えられません」

 こちらを見下ろすような形で、色のない瞳がそれ以上の詮索を拒む。私はぞくりと恐怖を覚えた。数年。あるいは数十年もすれば、この少年の寝首を掻く機会ぐらい回ってくると思っていたが――――それは、とんでもない、楽観だったのかもしれない。

 少年が横切ったリビングの床には、点々と赤い斑点が続いている。

「もう一度聞くわ。答えなさい、シリウス」

「嫌です。答えることは、できません」

 少年は頑なだ。表情というものが欠如した顔は、ある意味決意に満ちたそれというのだろうか。

 私はもう一度声を上げようとして、その違和感に気が付いた。

 先ほどから握り締めている少年の腕。それは、やけに――――細くないか?

「っ!?」

 私は椅子を蹴って立ち上がり、彼のマントを無理やり剥いだ。彼は少しも抵抗しない。いや、抵抗するだけの力を残していないのだということは容易に想像できた。

 少年は傷だらけだった。身にまとった服は無事な部分を探すほうが難く、手足に走った裂傷は計り知れない。特にひどいのは、その右腕。大きな傷が横に走り、途中で半分ぐらいが千切れかかっていた。

 私は――――そんな傷跡を、力いっぱい握り締めていたというのか。

「シリウス、あなた、本当に――――いったいどこで、こんな」

「何度言わせる気ですか、パンドラ=クリメイス」

 シリウスの言葉には容赦がない。

「答えることは、できません」

 そして、彼の言葉に感じられないのは――――余力、という二文字だ。

 三度目の拒絶を告げ終わった後、少年は声もなく床に倒れこんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                

 

 腹部から駆け上がってくる激痛を、シリウスは甘んじて受け入れた。

 動くことも、拒絶することも、抗うこともない。ただその痛みを受け入れ、パンドラの唇を受け入れる。

 ややあって――――パンドラは一歩後ろに下がり、ずる、血に染まったナイフを引き抜いた。

「……悲鳴ぐらい、上げてもいいんじゃない?」

 呆れたように、パンドラ。シリウスは傷口を手で抑えながら、顔に無理やり苦笑を浮かべる。

「まあ、想像はしていたからね――――当然の罰だろう、このくらい」

 その顔に、怒りや、悲しみといった類のものはない。ただ、痛みを無理やり笑顔に置き換えている苦労がしのばれるだけだ。

 ふぅ、とシリウスは息を吐いた。頬を伝った脂汗が、音もなく床石に落ちて弾ける。

「僕を、恨んでいるんだろう? あの日からずっと」

 ぽつり、と告げられたその言葉。

 パンドラは無言で肯定を示す。

 その少女の目は、まるで昆虫のように味気ない。

「当然――――だよね。僕はそれだけの事をしてきた」

 喋るために口を動かし、肺を伸縮させる。それだけの動作が、ひどく億劫だ。ぼとぼと、と傷口から溢れる血液は押さえつけた指の隙間を抜け、少年の服を赤く染めていく。

 痛みを堪えるうちに前のめりの姿勢になったシリウスは、上目遣いでパンドラを見つめる。

「だから、姉さんがそれを晴らしたいって言うんなら……僕はそれを受けなきゃいけない。幸い、僕は死ねない身体だ。好きなだけやっていいよ。でも、約束してくれ」

 言葉を紡ぐたび、息をするたび、傷口は尋常ではない痛みを訴えてくる。ヒールを展開すればこんな傷も一瞬で消えうせるが、どうせこれからさらに傷つく身体だ。全部が、姉さんの恨みがすべて晴れたときに一度に治せば、それでいい。

 どうせ、死ねないんだ。

 シリウスは顔に脂汗を浮かべたまま、にっこりと、どうしようもなく優しい、偽りのない笑みを浮かべた。

「それが終わったら、姉さんの気が済んだなら、僕たちに協力してくれ」

 その笑顔の正体は、信頼。

 馬鹿なのか、愚かなのか。いや、双方に違いはあるのか。この少年は自分を刺した相手をどこまでも信じているらしい。少女がシリウスの願いに応えると、心の底から確信しているらしい。

 そんな、今まで見たことのない表情をする少年に、パンドラは――――

 

 

 

「――――私は別に、恨んでなんかないわよ」

 

 

 

 シリウスに負けず劣らず柔らかな、女性の笑みでもってそう言った。

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                

 

 満身創痍の傷を負って意識を失ったシリウスは、夜が明けても目が醒めることはなかった。

 私はシリウスを寝かせたベッドの脇で、いつのまにか眠っていたらしい。窓から差し込む日の光が、今まさに朝を迎えたことを教えてくれる。

 まどろみながらもまず思ったのは、馬鹿なことをした、という後悔だった。だってほら、いま私の目の前で眠りつづける少年は紛れもなく師の仇で、しかも意識を失って混沌としている。こいつには、たとえ眠っているところに襲撃をかけても問題なく返り討ちにされると思ったけれど、いまはどうだろう。あれほど深い傷を負って、こうやって眠りについている。いや、これは眠りでなく昏睡だ。

 ――――傷。

 私はまどろんだままであった意識を覚醒させた。そうだ、包帯! 私は立ち上がって少年を覆うシーツを剥ぎ取った。その下から覗いたのは、包帯を各所に巻きつけられたまだ幼い身体だ。

 白かったはずの包帯は、もう既に黒く変色している。

「……ッ!」

 私はすぐさま踵を返し、家を出た。据え置きの包帯は昨夜使い果たしてしまっている。新しいのを買わないといけない。ああ、それに消毒薬と化膿止めも買わないと――――

 早朝ともあれば、プロンテラの通りもそれほど混雑していない。仕事の早い職工たちの身体を抜き去り、私は開いているかもどうかも知らない薬屋に向かって走っていった。

 

 

 

 ――――無論。

     自分の思惑と行動とがものの見事に違っていることには、とっくに気がついていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                

 

 いま――――この女性はなんと言った?

 前進に走る悪寒。おかしい。いくらわき腹を刺されたとはいえ、ただの傷でこれほど発熱するはずがない。しかもあまりに急だ。朦朧とする意識の中、力を抜けばあっさりとその場に沈み込んでしまいそうな身体を必死で保ちながら、シリウスはそう訝しがった。

 パンドラは微笑んでいる。自分の記憶にある中で、たぶん一番優しい姉の顔。

 シリウスの疑惑に満ちた視線に気付いたのか、彼女はこくり、と頷いた。

「そうね、でも、恨んでいなかったといえばそれはそれで嘘になる――――それはあなたの言うとおりね。いくら温厚の私でも、百何十年も一人にさせられればいいかげん怒るわよ。怒るな、って方が無理でしょう?

 けどねシリウス。あなたは現にこうやって、ここに戻ってきてくれた。私には、それが嬉しいの。だから、うん、ごめんなさい。本当はあなたを刺す意味なんてなかった。あなたを恨んでなんて、いなかったんだから」

 パンドラはほんの少しだけ苦笑する。そこには悪戯を見つかってしまった子供のような、無邪気とも取れる輝きが見出せる。

 夕日の照り返しで世界が赤く染まる中、彼女は血のように真っ赤に染まっている。

「でも」

 パンドラは言った。

「こうでもしないと、あなたは私の話を聞いてくれそうになかったから――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                

 

 包帯やら薬やらが入った紙袋を抱えて戻ってくると、家の中が荒らされていた。

 荒らされていた、と言っても、泥棒が入っただとか襲撃が入った、とか言う意味ではない。あたりに家具や調度品が散らばっているわけでもないし、これといってなくなっているものがあるわけではない。

 ただ、私の留守中に人の出入りがあったのは確実だろう。それもつい先ほどまでここにいたはずだ。空気が、まだわずかに異物の気配を孕んでいる。――――いずれ薄れて消えてしまうのだろうけど。

 誰が、何の目的でこの家に侵入したのか。そんな理由、一つか、せいぜい二つぐらいしかない。ひとつは、私がこうしてこの家で暮らしているのと同じこと。つまりはシリウスの命を狙うため。あるいは――――

 考えながら、私はシリウスの部屋に急ぐ。ノックもなくドアを開ければ、小さな部屋の中、少年がベッドの上で懇々と眠りについている。

 

 

 

 ――――傷一つない身体で。

 

 

 

 どうやら、未知の侵入者の目的はそれだったらしい。この少年の傷を癒すこと。紛れもなく死にかけていたシリウスを、まだこの世に留めさせること。

 私はなぜか息を吐きながら、抱えていた紙袋を近くの椅子の上に下ろした。近寄って見れば、あれだけ多くあった傷が、確かにひとつ残らずすべて消えていた。完治である。

 となると、侵入者はアコライトだったのだろうか。仮に依頼があったとしても、魔術師ギルドと反目している正教会が、魔術師の少年を治療するためにアコライトを派遣するとは思えない。ならば、訪れたのはギルドの手の内にいるアコライトだろうか。一種病的な布教政策をとる正教会に異を唱え、破門され、異端の名を押し付けられたアコライトは多いと聞く。そのほとんどが正教会の敵対組織――――実質的には、だ――――の魔術師ギルドに流れていることは、周知の事実である。

 

 私の中で纏まりかけていた考えが、この瞬間確信に変わった。

 

 シリウスは、いや、シリウスの昨夜の傷、もっと言えばこの家を手に入れてからのシリウスの行動には、すべからくギルドが関与している。考えてみれば当然だ。この家で生活してずいぶんと経つが、私は一度も労働による賃金を得た記憶がない。生活費、いや、生活に必要なすべてのものはシリウスがどこからか手に入れてきて、私はそれを浪費するだけだったのだ。

 シリウスとて、ただ佇んでいるだけではお金を稼ぐことなどできない。ならばどこかに彼を雇っている雇い主がおり、それが彼を必要としている、ということだ。過去に類を見ない最強の魔術師、クラウンウィザード。その名と実力が、いったい何に使われるのか想像できないほど、私は真っ直ぐではない。

 シリウスの傷を癒したアコライトの存在がなければ、私はその雇い主を個人と想像しただろう。しかし、そのアコライトは確実に存在する。ならば雇い主は組織だ。それも魔術師ギルド。シリウスの名と実力と、その利便さを知る組織は他にない。

 おそらく、シリウスは――――ギルドの中の、暗い仕事を廻されている。暗殺か、襲撃が、殲滅か……まあ、どれも大差ない。どれにしても危険で、日の目を見ない仕事だ。

 私はそこまで考えて、いったん部屋を出た。後ろ手でドアを閉め、そのまま閉めたドアに背中を預け、目を瞑る。思わず――――なぜか、ため息が出た。

 それの正体を検索するのは後回しにして、私は思考をめぐらせる。考えるべき事柄は、整理するまでもなく山積みだった。もっとも、それは当然かもしれない。この家で暮らすようになって、もうすぐ一年になる。そのあいだ自分は何をしてきたというんだろう。ただ時間を浪費して、何もしようとはしなかった自分に対する負債が、それであるというだけだ。

 シリウスのやっていること。

 それによって支えられているこの生活。

 それをただ食いつぶしているだけの自分。

「――――」

 嫌だ。止めよう。こんなこと、考えても仕方ない。

 私は目を開いて、心持ち早足で家を出た。太陽は、気付けばすっかり南の空に上りきっている。もうすぐお昼だろう。喧騒と雑踏が入り乱れるプロンテラの大通りを歩きながら、私は魔術師ギルドの支部に足を向けた。

 

 ――――ただ考え込むより、行動に移したほうがよっぽど私らしい。そう思ったからだ。

 

 

 

 

 シリウスが、本当にそういった危険な仕事を請け負っているというのなら、すぐにでもそれを止めさせないといけない。

 だって、ほら。

 彼を殺すのは私であって、そのときまで彼には元気でいてもらわなくては困る。そのために、そんな危険な仕事は一刻も早く止めてもらいたいのだ。

 

 

 

 

 感情と理性の論争を、そんな子供じみた言い訳でどうにかねじ伏せ、私はギルドに向かう足を速めた。