狂詩曲X

 

 

 シリウスとパンドラが去ってしまうと、場には不思議な沈黙が訪れた。

 奇妙なものね――――残り少なくなったカップの紅茶を傾けながら、口には出さずラーシャは呟いた。既に冷たくなってしまった紅茶には甘さが残らず、その渋みだけが前面に押し出されてしまっていた。彼女は小さく顔をしかめた。

 そんなラーシャを見て取ったか、ミハルが軽く笑う。黒髪の女剣士は傍らに置いてあった金属製のポットを手に取ると、ラーシャの方に手を差し出しながら尋ねた。

「おかわりは、どう? そちらのあなたも」

 頷く代わりに黙ってカップを差し出すアヤ。どうやら既に飲み干されていたらしい。ミハルは嬉しそうに笑い、ラーシャの分もあわせて二つ分のカップを自分の膝の上に置く。茶葉の入った皮袋から乾燥したそれをとりだし、豪快にポットの中に散らした。

 そんなそつの無い、流れるような動作を見てやはり不思議な感慨に捕らわれる。考えるのは重要なことだ、と彼女の祖父はよく言っていた。言われるがまま、為されるがままに行動するのではなく、己が意思で剣をとり、己が信念で刃を振るえ。そのとき、ただ生き物を殺すだけの殺傷技術が、初めて意味を持つ――――と。

 ならば、やはり考えるのは大事なことだ。だから考えろ。どこか怠惰なこの雰囲気の中、時間はたっぷりと横たわっている。頭をめぐらせるには十分すぎる環境だ。

 まずはやはり、シリウスという少年のこと。

 シリウス=シンシリティー。自分がただのアコライトだと思い、接してきた少年。けれどその本質はかつて天才と唄われた魔術師、クラウンウィザードだという。百年以上も昔に生を受け、ここ、ピラミッドの最奥に在る不死の王オシリスの呪いを受け、不老不死の身体を手にした少年。彼はそれを、時間を奪われる、と言っていた。

(――――不老不死)

 胸裏で反復し、その馬鹿馬鹿しさに思わず吹き出しそうになった。不老不死、なんてナンセンスなんだろう。そんな夢物語があるはずがない。時間は万物を統治する絶対の奔流だ。そこから逃れることなどできようはずもない。

 以前の自分なら、たぶんそう答えていた。たとえシリウスに不老不死というそのものの存在をほのめかされたとしても、自分はきっと否定しただろう。でも、今は違う。それが存在するというその事実を、これ以上ないほど明瞭な証拠と共に示されてしまった。

 だから、信じるしかない。少年が不老不死であるという事実。

そしていま目の前にいる一組の男女――――カインとミハル、そしてシリウスの姉弟子であるというパンドラ。シリウスを加えれば全部で四人の人間が時間を奪われたということになる。即ち、不老不死。

 それはいったいどういう意味か――――簡単だ。彼らはシリウスと共にオシリスと戦い、敗れた。死ねない身体というハンデなんだかサービスなんだかわからないおまけを突きつけられて。

「――――ひとつ、聞いてもいいですか?」

 ラーシャの言葉に、ポットを軽く振っていたミハルがん、と目をこちらに向けた。

「なにかしら?」

「不老不死って、どういう意味です?」

 短直で抽象的で、答えがわかりきった問いではあったが、それはラーシャの中で一番決着をつけなければならない疑問でもあった。

「どういうって、そのままの意味よ。死なない、年をとらない。ふふ、あの子なら絶対静止とでもいうのかしら。どう思う? カイン」

「……さあな。シリウスの考えることが俺にわかるはずないだろう」

 カインは相変わらずぶっきらぼうな、抑揚のない声で答える。

 その答えに、ミハルはそうね、と苦笑した。

「あの子は特別だからね――――私たちですら、あの子の本質を掴むことはできなかった」

「……?」

「…………少し、昔語りをしましょうか。シリウスの、さっきパンドラが話したのとは別の過去。でも、たぶん間違いなくあの子の本質でもある物語」

 ラーシャは答える前にアヤに視線を送った。シーフの青年は地面に座り込んだ姿勢のまま、別段興味なさそうにミハルとカインを交互に眺めていた。どうでもいいが、そんな動作がアヤ自身の振る舞いをぶち壊しにしている。二人に向けられた視線には、明らかに好奇の気配が感じられたからだ。

 とりあえず、アヤはその話を聞くことを望んでいるらしい。

 自分も、別に断る理由は――――ない。

「おねがいします」

 ラーシャの言葉に、ミハルは静かに頷いた。

 

 

 

 

 

 

 話の内容は、まとめてしまえばシリウスに関する逸話の数々だった。

 道化の奇術師と呼ばれた最高の魔術師。その実力が発揮されるのは、即ち戦場であり殺戮の場であった。いや、殺戮、というには語弊がある。殲滅、蹂躙、皆殺し――――どれもしっくりとこない。ミハルが語る情景を想像するのは容易かった。けど、その思い描いた場面はすべて戦いが終わったあと平然と佇むシリウスの姿であって、決して彼が何らかの「行為」をしている場面ではなかった。

 シリウスが戦闘をしている様子が想像できない、という意味ではない。

 シリウスがそんなことをしたという事実が、ただ信じられないだけだ。

 

 

 

 

 

 

「あの子が魔術師ギルドの子飼いになって暮らしている間に、少なくとも地方で三つの反乱が起こり、七つの暴動が起こった。独立を求めて戦闘を起こした地区もあったわね」

 確認を取るためか、カインのほうを軽く見やってミハルが言う。

 カインは沈黙で返したが、それは何より肯定の意を示していた。

「その七つを合わせれば、通算の死者は数万人を軽く越える。なぜなら、その反乱を起こした関係者は一人残らず殺害されたからよ。シリウス=シンシリティー、その一人の手によってね」

「――――」

 何度目だろう。

 聞きとおしてきたミハルの話に、思わず息を飲んでしまうのは。

「たいがい派遣されるときは彼一人。そして作業は一瞬。それはとても戦闘だなんて呼べないわ。一番そう思わされたのは、うん、独立戦争を仕掛けた地方に彼が派遣されたときね」

 淡々と、何の感慨もなくミハルは語る。

「沿海に位置する、小さな城塞都市。もともとは外海からの襲撃に備えた国の防衛都市だったんだけど、その市議会議員が民衆を誑かせて――――か説得してかは知らないし、どうでもいいことだけど、突如王国に反旗を翻した。各ギルドの上層部は大いにあせったわ。市議会議員に協力したのは民衆だけじゃなくて、その街にあったギルドの関係者もだったのよ。たとえ組織の末端だとはいえ、それが王室に対し反乱を起こした。当時内政に対しギルドが干渉してくるのを疎んじていた王室は、それを口実にギルドを政権から分離させようとする。そう考えたわけね。

 だから、各ギルドには迅速な対応が求められた。具体的にいってしまえば、ようはその反乱をギルドだけでどうにかしろっていうことよ。王室は騎士団を動かすことも可能だったけど、独立を求め協力し合ったギルド連合軍相手には苦戦する。手ごまを失いたくはなかったわけね。一番早く対応したのは魔術師ギルド。そしてそれですべてが終わった」

「また――――皆殺しにしたんだな、シリウスが」

 心持ちぞっとした声で、アヤが言った。焚き火に照らされるその顔は、間違いなく白くなっている。ミハルが語るシリウスの過去。それは殺戮の繰り返しで、聞いているだけでも怖くなってくるのだ。

 ええ、とミハルは頷いた。

「けれど、正確にいえば違うわね。彼はもっと簡単に、過激なことをした」

 ――――嫌な予感がした。

 聞いてはいけない、という警告が意識を掠めるが、不謹慎にも好奇心がそれを打ち消してしまう。

 ミハルは語った。

「彼は、シリウス=シンシリティーは町を滅ぼした。

壊滅させたのよ、具体的に」

「――――え?」

 気付かぬうちに、ラーシャは声を上げていた。

 壊滅させた、具体的に? それは、まさか、いや、そんな。

「壊滅。完全に、ね。街は地図の上から一瞬にして消え去り、反乱も治まった。被害は、そうね、女子供を当然含む非戦闘員三千名近くと、戦闘員およそ二千名。通算五千。それだけの命が、遺体もなく一瞬でこの世から消滅したわ。

 ――――ラーシャさん? あの子を知る先輩として先に忠告しておくわ。今すぐここを去りなさい。生き長らえたいなら、あの子に近づくべきではないわ」

 黒い瞳に真摯な様子で告げられて、ラーシャはまた、息を飲んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 押さえつけた傷口から溢れた血が、指の隙間を通って表に出てくる。

(ったく――――まだ血が足りないっていうのに)

 尋常ではない痛み、そして発汗。震える指先。ただ倒れることだけは懸命に堪え、端から見ればずいぶん不恰好だろうな、なんてどこか他人事であるかのように思いながら、シリウスは歩み寄るパンドラを見つめていた。

 傷が痛むなら、癒せばいい。その術は学んだ。そう、ヒールを展開すればそれで済む。けれど、なぜかそうしようという気にはなれなかった。あるいはそれは、この百年以上間の開いた再会に対する、彼なりの誠実さなのかもしれない。

 姉の前では、せめてマジシャンで――――そんな思いが、どこかにあった。

「ねえシリウス、あなた、当然覚えているわよね? プロンテラで生活していたころのこと、全部」

「全部、かどうかは知らないけどね。覚えてるよ」

「なら、うん、あの日のことは覚えてる? あなたがぼろぼろで帰ってきて、私がそれをリビングで出迎えた夜のこと」

「ああ――――覚えてるよ」

 ぜいぜいと息をしながら、シリウスは答えた。

 あれは、そう、冬の始まり。自分が続けてきた仕事が露見した夜。

「あのときから、姉さんは変わったね。僕のことを気にかけるようになった」

 顔にはいつもの微笑を。

 額にはいくつもの脂汗を。

 やせ我慢をそうとは思わせない振る舞いで続けるシリウスは、そんなことを言った。

 パンドラは頷く。

「そうね、ええ、そうよ。あのときから、あなたは私の特別になった。

 考えれば――――馬鹿みたい。お師匠様があなたに戦いを仕掛けて殺されたのは、決してあなたのせいじゃない。むしろあなたは被害者ね。あなたは襲われた側で、ただそれを跳ね除けただけに過ぎない――――」

 ふと、シリウスの顔から笑みが消えた。

「――――知ってたんだ」

「ふふふ、演技がうまいわね」

 言って、パンドラの顔からも笑みが消える。

「何をいまさら。白々しいわよ、シリウス」

「――――」

 それは、事実。

 確かに自分はその可能性を十分考慮に入れていた。師が戦いの場にあんな辺鄙な場所を選んだのは、すべて目撃者を出さぬため。その目撃者の筆頭は、何よりもこの女性、パンドラだったはずだ。

 そしてそれは成功した。あの時あの場所に、他の気配は何もなかったはずだ。

 なら、なぜ。

 なぜ、自分はここまで衝撃を受けているのか。想像していたはずの事実に。

「――――そうか」

 小さく、シリウスは呟いた。

 衝撃を受けて当然だ。自分は、その可能性を否定したのだから。いや、正確に言うならその可能性が現実のものとなることを恐れ、そうならないことを願ったからだ。

(ずいぶんと人間らしくなったじゃないか、おい――――)

 胸中の独りごちさえ、自虐に染まる。

 パンドラは髪をかき上げ、くすり、と軽薄な笑みを浮かべた。

「けど、言ったでしょう? 私はあなたを恨んではいない、って。

 ……だからシリウス、正直に答えて」

 少しだけ、声が震えた。

 いいかげん遠のきつつあった意識が、不意に浮き上がる。

 パンドラは俯きながら、言葉を続けた。

「あの子――――ラーシャ? あなた、あの子が好きなの?」

「……ははっ。ばれちゃったか」

 おどけたように。シリウスは肯定した。

 この場では、そう、この場では少なくとも否定すべきだ――――そんな思いは、確かにあった。けれど、シリウスは敢えてそうはしなかった。

 それは、嘘をつきたくなかったからだ。

 自分に、ラーシャに――――パンドラに。

 パンドラはシリウスの答えを聞いて、しばしの沈黙を抱えた。次にくる怒号を、あるいは責め句を想像して、シリウスは場違いに苦笑する。さて、なんと言われるか。裏切り者、うん、それが一番ふさわしい。

 シリウスは気を落ち着かせ、姉弟子の言葉を待つ。

「――――シリウス」

 しかし、その口から出た言葉はまるで予想を裏切るものだった。

 

 

 

「いいわよ、別に。私を一番に見てくれなくても」

 

 

 

 

 

 

 

 ――――いつのまにか、あたりは暗闇に覆われていた。外の世界でも日は沈んでしまったのか、差し込む光は虚ろな月明かりにとって代わってしまっている。

 ひゅっ、と音がして、あたりが急に明るくなった。暗闇に慣れつつあった瞳が刺激を訴えるが、別段気にしない。生まれ出た光源は、魔力の炎、サイトだった。

 パンドラは自分の言葉に頷くように、軽く首肯する。

「そう、シリウス、あなたが私以外の人を好きになっても、別にかまわないわ。あなたが誰を一番に見ようと、興味がない。だって、あなたは少なくとも私を無視はしないでしょう?」

「ねえ、さん?」

 なんだ――――この背中を走る悪寒は。脂汗がすべて引っ込み、代わりに鳥肌が立つような錯覚。傷の痛みが急におとなしくなる。いや、傷からの注意が遠のく。

 すべての意識は、目の前で薄く笑う自分の姉に。

「なら私は、それで十分。

 それに――――」

 

 

 

 

 

笑みが、変わる。

 狂気に満ちた、歪んだ笑みに。

 

 

 

 

 

「――――あの子達にも不老不死になってもらうから、それまであなたは休んでて。

     みんなで、永遠を過ごしましょう?」

 

 

 

 

 

 

 その言葉の意味を悟った瞬間、シリウスは己の愚かさを力の限り罵倒した。