狂詩曲Y
――――狙いは、やはり、それだったのか。
急に醒め行く意識の中、シリウスは胸のうちでそう呟く。
パンドラが、言った。
「せっかく不老不死になったのよ? 元に戻るなんて馬鹿らしい」
――――僕をあの場から、ラーシャとアヤから遠ざけた理由は、それだったのか。
「それに、元に戻ったときにいったいどんな影響が出るのかもわからない。呪縛が解けた瞬間、過ぎ去った時間が一気に押し寄せてきて、老衰で死ぬかもしれない」
どこかで甲高い鐘の音。
いや、それは耳鳴りだ。
「そんなのはイヤ。私は生きていたい。たとえ生物の理を捻じ曲げたとしても」
意識のまどろみが消えていく。
視界にかかっていた靄が晴れていく。
「ピラミッドから出ることも、成長することも叶わないけれど」
そうして、スイッチが。
過去に戻るためのスイッチが、ほら。
「みんなで、永遠に一緒にいよう?」
そこにいたのは、目に涙さえたたえて微笑む少女。
自身の夢が叶ったと、本気で信じたその笑顔。
「私は、あなたが傍にいてくれればもう何も望まないから」
それを裏切るのか。
この少女を、また悲しませるのか。
「だからシリウス、おねがい、傍にいて」
彼女の師を奪い、そして置き去りにした自分は、三度この笑顔を裏切るというのか。
――――くそったれ。
「シリウス――――私の一番好きな人」
――――頷けるかよ、そんなコト。
ぱちん、とシリウスは指を弾いた。とたん、体全体を覆っていた痛みとだるさが消えうせる。傷は完全に塞がり、残ったのは疲労ともつかぬ怠惰な感覚だけ。
「――――シリウス?」
戸惑った顔で、姉が首をかしげる。
「どうしたの? いいの、あなたはここで休んでて。もうカインとミハルが仕掛けているはずだから――――」
「――――姉さん」
構えなぞ、必要ない。
冷めた瞳、どこまでも透明な瞳が物言わぬ刃となってパンドラに突きつけられた。
「出来れば、あなたを手にかけたくはない。退いてくれ」
淡々とした台詞。
そして、すべてを悟ったパンドラは一瞬きょとんとし――――刹那、怒りで顔を染め上げた。
「なんで!? 何が不服なの、シリウス!!」
「僕は、普通になりたいんだ。普通に生きて、年取って、死にたいんだよ――――特別は飽きた」
静かな、そしてこれ以上ないほど正直なその台詞に、パンドラは言葉を失ったようだった。彼女は涙を流しながら、ふるふる、と首を弱々しく横に振る。
「なんで? 信じられない。手に入れた永遠の命をみすみす手放すなんて」
震えながら、彼女は腰のホルスターから一本の杖を取り出した。見覚えのある杖だ。
「おねがい、動かないで。すぐに済むはずだから。あの子達をオシリスに差し出すだけなんだから、黙って見ててよ、シリウス――――!」
アークワンドをこちらに突きつけながら、彼女は絶叫した。
それはとても絶望的で、考えたくもないことだけど。
シリウスは、思ってしまった。
話し合う余地なんて――――最初から、なかったのかもしれない、と。
胸中で呟いて、何も変わらぬ表情で、シリウスはぱちん、と指を弾いた。
ひゅんっ――――そんな風切り音さえ立てて、氷の刃が彼女の頬を掠めて通り過ぎた。息を飲むパンドラ。頬に生まれた小さな裂傷。そして、掠めた氷の刃は彼女の見事な金髪を、一房ばかり散らしていった。
ぱさぁ、と散り散りになった金髪が優雅に中を舞う。
「次は当てる」
短な宣告。
目を見開いていたパンドラは、憑き物が落ちたかのように肩を落とすと、ふふふ、と虚ろな笑いを響かせた。
「そうね、シリウス。いつもあなたはそうだったものね。
私の言うことを素直に聞いてくれたことなんて一度もない。あの時だって、あの時だって――――」
ひゅん、とパンドラは手にしたアークワンドで空を切った。その軌跡はそのまま光の文様となり、やがて単純ながらも複雑な意味を孕む形象図形に姿を変える。
「――――私の言うことを聞いてくれたことなんて、一度もなかったものね」
涙と笑い。
その両方を顔に灯しながら、パンドラは魔法を発動させた。
カップを口に着けようとしたその瞬間、横手から繰り出された手のひらがラーシャの手を素早く払った。注がれたばかりの茶は慣性に従い床の上に飛び散る。
払ったのは、もちろん隣に位置していたアヤに他ならない。
「な――――!?」
何をするの、と彼女が問いただすより早く、アヤは行動に移っていた。座ったその姿勢から足のばねだけで跳躍し、焚き火を飛び越え頭から飛び込むように反対側のミハルに向かう。その手には、いつの間に抜いたのか小さな刃が見て取れた。
何かを考えるより早く、事態は展開する。
アヤの突然の奇行にも別段驚いた様子はなく、ミハルは座ったまま片もとの剣を鞘に触れることなく直接抜刀し、瞬時に跳ね上げた煌きでナイフを弾く。攻撃を防がれたと悟ったアヤが顔をしかめた。
飛び掛っての攻撃は相手の虚を突くという意味で十分有用だが、それが防がれたとき優劣は一気に逆転する。何せ攻撃を仕掛けたほうは着地し、態勢を立て直すという動作が残っているわけで――――それを見逃してくれるほど、ミハルは戦いに疎くない。
よりによってミハルはアヤが着地するより早く片足を振り上げ、その腹に強烈な一撃をお見舞いしていた。そのままの足で後ろに投げられ、アヤは空中で一回転したのち背中から床に墜落する。
そして、ようやくラーシャは言葉を上げた。
「突然何をしているの、アヤ!」
「この――――素人! 早く逃げろ!!」
帰ってきたのは、くぐもった罵声だった。
ラーシャがその意味を悟るより早く、身体が勝手に反応していた。
背中から向けられた、鋭い視線、殺意に。
「っ!!」
振り返りざま、何も考えることもなく鞘から剣を引き抜く。たぶんそれは幸運だったのだろう。振るった刃が、こちらに向かって放たれた一本の矢を叩き落とした。
その向こうには、いったいいつの間にそれだけの距離を取ったのか、矢を番えて弓を構えるカインの姿。
「なっ――――」
息を飲む間もあればこそ。
続けざまに放たれる矢を目の当たりにし、ラーシャは無意識のまま横に飛んだ。その影を正確に打ち抜いた矢は、そのまま闇の中に飛び込み、見えなくなる。
「何をするの、いきなり!」
剣を構え、ラーシャは叫んだ。その視界にはしっかりとカインとミハルの両方を捕らえている。
「あーあ、失敗か。まあ、あの子の連れだったらこのくらい当然かしらね」
「最初から毒なんて期待していない」
残念そうに言ったミハルに、カインが答える。
「――――アルギオペの毒なんて、どこで手に入れやがったんだ」
その悪態は、二人のさらに向こうから聞こえた。アヤが、多少ふらついてはいるもののしっかりと足をつけ、立っていた。その手にはナイフの輝きが窺える。
「……毒?」
「そうだ。こいつら――――さっきの紅茶に、毒を盛りやがった。
しかもよりによってアルギオペのな。普通だったら即死だぞ、くそ」
「私も驚いたわ。まさか見抜かれるとは思わなかった。
日ごろから毒当ての訓練でもしてるのかしら?」
「生憎とな、そのとおりだよ」
ミハルに、カインに、あるいはその中間に。油断なく視線と注意を向け、どちらかに向けた警戒が疎かにならないように注意しながらアヤははき捨てた。
「なぜ、そんな」
驚くラーシャに、ミハルはくすりと笑って声をかけた。
「ねえラーシャさん? あなた、シリウスのことが好きなんでしょう?」
「――――!?」
「別に隠さなくてもいいわよ。それとも、まだ自分じゃ気付いてなかったのかしら? どうでもいいけど」
ミハルはあくまで自然体。立ち上がりこそしたものの、手にした剣を構えるそぶりなど微塵も見せない。侮られているのか――――当然だ。
「でもね、あの子に着いていくとしたら大変よ。破壊の御子、破滅の皇子。共に歩くときは幾千万の屍を掻き分けなきゃいけない。だったら、ね? 一度死んで、私達と同じ場所にたったほうが何かと便利よ? 自分の思い人と永遠に居られるんだから、それこそ至福でしょ? 違う?
そう思った先輩からの提案だったんだけど――――お気に召さなかったみたいね」
「――――」
ひどい――――言い分だ。
「くそ、シリウスの野郎、とんだ見当違いじゃないか。
あいつは、あんたらが仲間になってくると信じていたみたいだぜ」
「あら、それは嘘ね。あなたの観察眼が足りなかっただけ。あの子はすべての可能性を視野に入れて行動しているから、私たちがこう動くのも当然考えていたでしょうね。
もっとも、あの子の演技を見破れ、と言うほうが酷でしょうけど」
非難がましいアヤの言葉に、ミハルは笑って返す。
「ねえ、アヤ君? あなたも不老不死になってみない?
先人が誰も望んで、たどり着けなかった境地よ。興味ない?」
「……ふん、くだらないな」
「あら、なんで?」
「あんた達の評価がそれでも、シリウスはそれを嫌悪したよ。
あいつが拒んだんだ。結局、その不老不死ってやつは評価に値しないってことだろ」
にやり、と笑ってアヤが言う。
ミハルは言葉を失い――――直後、突然笑い出した。カインも多少苦笑している。
「面白いこというわね、あなた。でも、それも間違ってる」
「――――なに?」
聞き返したアヤに、カインが答える。
「不老不死を、あの天才が見下すはずがないだろう。
あいつに叶わない数少ない事柄だ。喜びさえしろ、疎んじるはずがない。あいつがもしそんな振る舞いをしたなら、それは十中八九おまえ達の信用を得るための動作だろうな」
いまさら、アヤは気付いた。
この二人の顔に満ちる、狂気に類した狂喜の笑みに。
「あなた達も、なんですか」
ぽつり、とラーシャは呟いた。
どこまでも冷め切った、どこまでも悲しみに満ちた声で。
「――――?」
「あなた達さえも、シリウスを化け物呼ばわりするんですか」
言葉はあまりに不器用だ。伝えたいことの半分も伝えられはしない。
ラーシャはそっと目を閉じた。思い返すのは、過去を語ったときの少年の顔。感情の擦り切れた、虚ろな笑顔。彼はいったい、どんな気持ちで自らの過去を明かしたのだろうか。他人に化け物と恐れられ、罵られたその日々を、こんな自分に打ち明けたのか。
「シリウスは、救いを求めている――――そんなことにも、気付かないんですか」
不思議なものだ。度を過ぎた怒りは、逆に心を落ち着かせるのかもしれない。
「あなた達が、一番彼に近いはずなのに――――!!」
言葉は絶叫となって、場に響いた。
誰も必要としたわけではない、誰も求めたわけではない戦闘の幕が開けた。