狂詩曲\

 

 日々は何事もなかったかのように過ぎていった。

 シリウスは相変わらず無遠慮で、私に対する配慮とか、そういったものを微塵も感じさせてはくれない。

 けれど、それは当然。いままでそうだったのだから、これからもそうあるだけ。

 ならばなぜ私がそのことを気に掛けたかたというと、それは単純に私が彼のことを見始めたということに他ならない。

 

 朝、いってきますの言葉もなしに家を出て行こうとするシリウスの背中を眺める。向こうから声を掛けられる事がなければ、私から声を掛けることもない。それもいたっていつも通りの、見慣れてしまった一日の始まり。

 

 昼間は暇だ。何をするでもないし、何をしたいでもない。かつてシリウスの寝首を掻くことに思考を巡らせていた時間は、いまやはっきりとした空白となって私の日常に横たわっていた。

 

 夜。日が暮れたころ、シリウスは帰ってくる。だいたい私が夕食を食べ終わったころ。そういえば、二人で生活をするようになってから一度も同じテーブルについたことがない。偶然にしてはできすぎている。たぶん、彼がタイミングを見計らっていたのだろう。

 

 一日はそんな風に終わり、ときどき例外が生まれる。日が沈んでも月が昇っても、まだシリウスは戻らない。私は起きているうちにしなければならないさまざまなことを全て片付けて、早々に眠りにつく。二人で暮らし始めたばかりのころは、自分も師匠のように殺されるんじゃないかと考えてろくに眠ることもできなかった。けれど最近では、シリウスが私に対しまったくの無関心であることを悟り、そういった眠れぬ夜もなくなっていた。

 もっとも、それは、あの日までの話。

 いまの私は、それとはまったく逆の理由で眠れぬ夜を過ごす羽目になっていた。

 

 

 

                                                    

 

 

 

 シリウスの力は、圧倒的だった。

「……!」

 剣を振るうミハルの顔に、ラーシャを相手にしたときの余裕は微塵も残っていない。

必死の形相で両手剣を振るう彼女を冷めた目で見つめながら、シリウスはその残撃を全て回避する。縦横無尽に走り回る銀の軌跡は殺意の網となり少年を絡み取ろうとするが、彼はその隙間を縫い続ける。

ひゅっ、と空を裂く音。

それが矢だと悟ったのと同時、シリウスはほんの少しだけ身体を傾けてみせた。カインの射った銀の鏃は、ただそれだけの動作で難なく回避される。舌を打つカイン。次の矢を番えるも、撃てない。撃つタイミングを掴めないのだ。

追い討ちするように切りかかってきたミハルの剣は、シリウスが頭一個分退くことで回避された。

と、その瞬間、ミハルの顔にかすかな笑みが浮かぶ。

真上から振り下ろされ、行き過ぎたその刃は落下の軌跡を途中で変更し、跳ね上がる蛇のような鋭さでシリウスの顔面を狙った刺突へと変化した。

ラーシャは息を飲んだ。

シリウスは眉一つ動かさなかった。

命中すればおそらく頭蓋すら貫く突進は、けれど少年が沿えた手により軌道をそらされ何もないところをただ貫くのみ。

矢のように素早く繰り出された刺突の刃に、少年は手を添え外させてみせたのだ。

「なんで……ッ!」

 悲痛な声がラーシャの耳に届いた。

 不意打ちが不発に終わり、浮かんだ笑みを焦燥と絶望に染めながら、ミハルは途切れることなく剣を繰り出しつづける。そこに時折交わる、カインによる正確な射撃。二人の連携は完璧で、そこには一変の不調和も何もない。

 なのに。

「届かないのよ……ッ!?」

 答えの代わりか、シリウスは小さく微笑んで見せた。

 半年前、出会ったばかりのころによく見せていた、仮面の微笑。

「おい、ラーシャ」

 不意に横手から声を掛けられる。掛けてきたのは、もちろんアヤに他ならない。

顔を向けることもなく、彼女はなに、と聞き返した。

 セーフティーワールに囲まれた客席で、二人は戦いを傍観させられていた。

「お前さん、傷の具合はいいのか?」

「傷はないわ。呼吸も、もう落ち着いている」

 答える声はどこか虚ろ。それは自分が一番よく感じていた。

 いま、彼女の意識は――――ただただ、シリウスに向けられている。

 それは十分承知の上だろう、アヤは続けた。

「俺、少しだけあいつらの気持ちが分かった気がする」

 その言葉は淡々と、どこか飄々と。

 いや、そこに含まれているのは畏怖に他ならない。

「シリウス――――あいつは、あいつはまるで」

「黙って。お願い」

 ラーシャは心の底から切望した。アヤが言葉を続けることが我慢できない。

 なぜ?

 それは、その言葉の先が想像できてしまうから。

 アヤが、シリウスのことをどう表そうとしているのか、はっきりと理解できてしまうから。

 それは、つまり。

 ラーシャ自信、シリウスのことをそう思っているからに他ならない。

 そんな彼女の願いも虚しく、言葉は紡がれる。

「あいつはまるで――――化け物だ」

 それを否定するだけの力は、ラーシャになかった。

 

 

 ぱしん、とミハルの頭が揺れた。

 ごく小さく、しかし確実に、斬撃の間を縫うように。

「え……」

 漏れた言葉は、果たして誰が発したものだったのか。

 かすかに赤くなったミハルの頬は、そこに攻撃があたったという証に他ならない。剣を振るいつづけ、斬撃を繰り出しつづけた剣士の懐に飛び込み、僅か一発拳を当てたというただそれだけの証明。

 ミハルはぴたりと動きを止めていた。振り上げた剣はそのままに、その瞳は驚きのあまりに見開かれたままだ。その視線は、一点に集中されている。

 そう、即ち。

 ミハルの目と鼻の先まで一瞬にして詰め寄った、シリウスの顔に。

「――――っ」

 少年の僅かな吐息。それは侮蔑か過信か愉悦か嘆息か。どれでもなさそうで、どれでもありそうだった。

 シリウスは黙って手を繰り出した。躊躇いなく伸ばされた左腕が、ミハルの呆然とする黒い瞳を抉り取る。引き戻された手は血に染まり、手の中にはビー玉みたいな肉の塊。

 悲鳴は、上がる暇さえ与えられなかった。

 声を上げかけたミハルに、続く一撃が鈍い音を立てる。引き戻されたばかりの左腕は再び繰り出され、今度はミハルの喉を穿った。吐き出された空気に、唾にも似た赤いものも混じっている。

 シリウスがすっと腰を静めた。僅か半歩前に出たその移動は、攻撃のための予備動作にほかならない。

 どがっ――――流れるようようなハイキックが、ミハルの側頭をしたたかに撃った。それだけで意識が飛びそうなスピードと威力を持った蹴撃は、しかしそのままで終わらない。くるり、とシリウスは流れに乗って身を翻す。反転した少年は蹴り上げた足を戻し、軸足を変え、その姿勢からさらに槍のよう足刀蹴りを繰り出した。

 水月に強烈な一撃受け、為す術もなくミハルの身体が後方に吹き飛んだ。

 からん、と手にしていた両手剣が床に落ちる。

 ミハルの身体は射程外に吹き飛んで、カインの身体は同じぐらい離れた場所。手の届く範囲には誰もいないがため、攻撃はそこで終わったと誰もが確信した。

 つまり、誰一人として少年の本質を理解などしていなかった。

「はっ――――」

 僅かな吐息。そして宙に銀の煌き。

 シリウスが拾い上げ投擲した両手剣は、攻城用の弓砲(ビッグボウ)から打ち出された弓のごとく真っ直ぐに強烈に、傍観せざるを得なかったカインの胸に突き刺さった。

「――――」

 吐く息すらなく、カインの身体が倒れる。果たして彼に、自分の身体が何に串刺しにされたのかを確認する暇はあっただろうか。

 戦場に一人佇んで、シリウスは軽く頷いた。誰に対し、何を頷いたのかはわからない。

 けど、それはひどく無垢で、素直で、これだけ事態に巻き込まれたラーシャにすら、シリウスがただの少年であるかのように思えるような普通の動作だった。まるで、そう、久しぶりに動かした自分の身体が満足行く動きをしたようで――――ああ、つまりそういうことなのか。

 さあ、とシリウスは高らかに声を上げた。

「やられたふりはいいから早く起き上がりなよ。どうせ死ねてないんだろう?」

「当たり前よ。あのていど、で――――」

 声は、ミハルが消えた方向から。みれば、黒髪の剣士はダメージなまるでなさそうに立ち上がっていた。

 しかし、その首は――――確実に、あらぬ方向にねじれていた。

 少年の蹴撃は、衝撃を通り越して頚骨までを破壊したのか。

 ひゅんっ、と空を裂く音。床に転がったのは、先ほどシリウスが投げたばかりの両手剣。先端どころか根元までもがどろりとした血液に染まったそれは、一応確実にミハルの足元まで届けられる。

「容赦ないな、おい」

 放った主は、カイン。みれば、こちらも何事もなかったかのように立ち上がっていた。けれど、その胸には隠しようのない傷跡。だらだらと流れる血液は、まるで樽の隙間から湧き出るワインみたい。

よほど重要な血管が切れたのか、血液は一定のリズムでぴゅっ、ぴゅっ、といった風に飛び出ている。一定のリズムとは、つまり心臓の脈動だ。

 確実に致命傷。けれど、二人は何事もなかったかのようにそこに立っている。

 そのあり方に、ラーシャはふと疑問を覚えた。

「――――なるほど。やっぱりこの結果は偶然なのかな」

 達観したように、シリウス。

 その目はどこかうつろで、何も見ていない。

「なんのことかしら?」

 せせら笑うようにミハル。

 いままでは、自分が不死であることを忘れていたのだろうか――――首を無理やり前に向けながら少年と対峙するミハルを見て、ラーシャはそんなことをぼんやりと考えた。

 無表情という仮面のまま、シリウスは昔の仲間に尋ねる。

「ねえ二人とも、いくつか聞いていい?」

「あら、なにかしら?」

「いまさら話し合いでもするつもりか?」

 ミハルが剣を手にしてシリウスに切りかかる。

シリウスは呆然とそれを眺めるのみ。

「――――え」

 ラーシャが呟いた。

 アヤも、カインも、そしてとうのミハルですらも目を見開いている。

 それは当然。

 ミハルの振り下ろした、明らかに牽制とわかる一撃は、これ以上ないほど見事にシリウスの身体に食い込んでいた。

 

 

 

 ごほ、と血を吐いてシリウスはミハルを見た。

「痛いじゃないか、ミハル」

「え、ええ、そうでしょうね」

 シリウスの行動に、誰が我を失っていた。迷惑そうに言う少年に、ミハルは混乱したように答えていた。

 剣はシリウスの身体を肩口に切り裂いていた。自らを貫く銀の煌きを、つまらないものでも見るような瞳で見下ろしながら少年は言う。

「ねえミハル、それにカイン。君たち、痛みはまだある?」

「なにを――――」

「味覚は? 触覚は? 嗅覚は? 聴覚は? 視覚は? 感情は?

 いや、こんなことを聞くのは無粋か。これらは最低限の前提だ。だから、一つだけ尋ねるよ。

 君たち、成長した?」

 すっと、シリウスがミハルの頬に手を伸ばした。びくりとするミハル。

 剣を握っているのは自分で、その剣は確実に相手を切り裂いた――――そんな優位を失念させるほどの迫力が、少年にはあった。

 無言。言っている意味がわからないのか、それとも混乱から抜けきらないのか。

 首だけ振り返った先にいたカインは、恐怖からか、番えていた矢を射った。

 どす、と無骨な矢が少年の背中に突き刺さる。

 悲鳴を上げるという考えすら、ラーシャには思い浮かばなかった。

 二人の反応を見て、シリウスは苦悩する。

 顔は苦渋に満ち、額は脂汗だらけ。流れる血は確実に少年の生命力を流出させ、その顔は蒼白だ。

「そうか」

 短く、シリウスは言った。決別するように、惜しむように。

「よくわかった。君たちは、僕とは違うんだ」

 シリウスは自分を貫く剣の根元に手を添えた。そこに一瞬だけ白光が集い、刹那びきん! と音がして刀身がそこから折れた。

 柄だけになった剣を握るミハルは、動けない。今すぐにでも倒れてしまいそうな少年を前に、一歩も。

 その顔はシリウスのそれを通り越して蒼白で、冷や汗だらけで、あげくがたがた震えている。

 そこまで恐怖する理由というのが、ラーシャには想像もつかなかった。だって、いまミハルが見ているのは目の前にある醒めた少年の顔だけで――――

 ――――だから、なのだろうか。

「僕はね、君たちとは違う」

 自分を突き刺したままの刀身を抜き去り、少年は宣言した。

 無造作に手放したきらめきは、がらん、と床に落ちる。

 背後に廻した手は、ぶち、という筋を千切る音と一緒に矢を抜いた。

「僕は君たちみたいな低性能(ロースペック)じゃない。一瞬に縫い付けられてはいないんだ」

「え」

 呆然と声を上げるミハル。

 ラーシャはふと気付いた。あらぬ方向を向いていたミハルの首が、いつのまにか元に戻っていることに。見れば、カインの傷も気付かぬうちに塞がっていた。それどころか、服にしみていた血の跡すらも消えている。

「僕の“区切り”は一日。挙句定点停止ではなく流動停止だ。

 回復能力だって、自己治癒のそれだけなんだよ」

「何が……言いたいの」

「僕は人間としての不老不死なのさ、人の姿をした魔物(ドッペルゲンガー)?」

 ぱんっと音が聞こえた。破裂音。

 そして、どさりと倒れる音――――ミハルの身体が、その体積を半分ぐらいに減らして地面に倒れた。具体的に言うなら、下半身だけが。

 うっすらと笑みを称えたシリウスの顔は、口端から流れる血の赤もあってぞっとするほど綺麗だった。

 ナパームビート、だったのだろうか。とっくの昔に停止していたはずの思考が、そんな憶測をラーシャに訴える。

「よかった」

 シリウスが呟いたそれは、安堵のもの。

 振り返るシリウスに、矢が突き刺さった。肩に、胸に、足に。大怪我で、しかし致命傷ではない傷はシリウスの身体をぼろぼろにする。

「君たちが魔物になってくれて、ほんとに助かった」

 ぱちん、と指を弾くかすかな音。

 優雅にすら聞こえたその音の元、世界にひずみ生じる。召還された精霊達は主の命に従いカインに向かい、何度も何度もその身体を切り裂き、複雑怪奇な立体ジグソーパズルを作り上げた。

 仲間だった二人を殺害し、シリウスはふうと嘆息した。

 目を細め、そして身を翻す。

 ラーシャはその先に視線を向けて、あ、と呟いた。それはアヤも同じだっただろう。

 いつの間にそこにいたのか。死に掛けた、いや死人の顔をした少年は、その場に立った血のつながらない姉を見てにっこりと微笑んでみせた。

「あとは姉さんだけだよ」

「――――」

 金髪のマジシャンが、静かな悲しみを携えてそこにいた。