狂詩曲 ]
「さて――――魔物とはなんだろう」
青ざめた顔で、シリウスはそう呟いた。力ないその瞳が見つめているのは、いまこの場にたどり着いたばかりのパンドラだ。
味気ない悲しみに顔を染める彼女は、微動だにせず少年を見返している。
「本来、その言葉に明確な定義なんてない。片やアンデット、片や昆虫。ただの動物をそう呼んですらいる」
シリウスが小さく指を弾いた。呪文が展開され、シリウスの負った傷が鋳えていく。
刺さったままだった矢が、自然に抜けて床に落ちた。
「これはまあ個人の裁量に任せるしかないけれど――――大事なのは、純粋な魔物という生物は存在しないということだ」
どん、とシリウスは足元に転がる肉塊を蹴飛ばす。つい先ほどまで華麗な剣技を疲労していたミハルの、その残った下半身をだ。当たり前だが、その肉塊はぴくりともしない。
なのに、少年はその塊に向かって呪文を唱えた。もはや聞きなれた指を弾く音。そして今度こそ、ミハルの肉体が完全に爆砕する。
血で――――己のものでない、他人の返り血で真っ赤に染まった少年は、にこりと笑って見せる。
「魔物は種じゃない。ただの呼称にすぎないんだ。どんな生き物も、いくつかの条件を満たせば魔物になる」
少年は淡々と、事実を述べるかのように言葉を紡ぐ。
パンドラは――――そしてラーシャもアヤも、静かにその言葉を聞いていた。
「条件なんて多彩すぎるし、それこそ千差万別だけど――――不老不死ってのは、充分それに該当するよ。だから、」
それはぞっとするほど優しい、冷徹な声で。
ラーシャまでもが息を飲む、底の深い声で。
「君達は間違いなく魔物になったんだ――――姉さん」
淀みなく、少年は言い切った。
しばし、沈黙が横たわっていた。
パンドラは顔から表情を消したまま、何かの幻影であるかのごとく悠然と佇んでいる。その姿からは、彼女が何を考え感じているのか想像もできない。それは怒りか、悲しみか、諦観か――――
その瞳を真正面から見返すシリウスは、依然いつもの笑みを浮かべている。優しさだけで構成されたかのような、完璧すぎて人にあらざる微笑。それゆえ、この少年もまた何を考えているのか計り知れない。
ラーシャは、アヤはそんな二人を静かに見つめていた。いや、見つめるしかなかった。これはシリウスとパンドラ、一人の師に従った姉弟の問題であり、自分達はどこまでも部外者であるということを痛いほど痛感させられていたからだ。
でも、とラーシャは思う。
(シリウスは言った――パンドラたちは変わってしまった、と)
それはつまり、いま対峙している彼らは昔の関係ではない。昔の、姉弟という関係ではない。
ならば――これは、彼らだけの問題ではないのではないか。
自分という部外者が参入する理由は、充分にあるのではないか。
「おい――シリウス」
アヤが少年の名を呼んだ。ん、とシリウスは肩越しにこちらを振り向いて見せる。
「なに?」
「俺達、いつまでこうしてればいいんだ? 正直言ってそろそろ暇なんだが」
「あ――――そうだね、悪い。忘れてた」
照れたように言って、少年は指を弾いた。音もなく、ラーシャとアヤを守っていたセーフティーワールの光が消える。
「余裕ね、シリウス」
静かに言ったのは、パンドラだった。そこには、かろうじて静かな怒りが感じられる。
しかし、シリウスに一向に気にした様子はない。僅か肩をすくめて、言葉を返す。
「割と、ね。吹っ切れた。悲しいことだけど」
その言葉には、色がない。
パンドラが滲ませた感情が怒りなら、シリウスの滲ませた感情は諦めだ。
少年はくるりとパンドラに向き直る。その口が紡ぐ声は、なぜかひどく年老いた賢者のそれに感じられた。
「姉さん、あなたはもう人間じゃない。少なくとも普通の生物じゃない」
「酷いことを――言うじゃない。人のことなんて、言えないくせに」
「そうさ、僕も人間じゃない。この身は既に魔物の領域に含まれる」
きっぱりと、少年は言い切った。
思わずラーシャは口をはさむ。
「シリウス、あなた何を――――」
「事実だよ、ラーシャ。これは否定したくてもできやしない」
すっ、とシリウスの目が細くなり、鋭さを増す。
身構えた――――と判断できたのは、ラーシャだけだっただろうか。
「僕はそう、魔物だ。そこから這い上がろうとしてる魔物だよ」
きっぱりと、シリウスはそう言い切った。
「姉さん、あなたがいまのまま在ろうとするなら――――僕はあなたを殺す」
「――できるの? 貴方に、それが」
「できるとも。僕は道化の奇術師だ。不可能を殲滅し全ての技術を受け継ぎ超える者。
その傲慢な呼称に掛けて誓おう。僕は、あなたを殺す」
「――何故、そこまでしてこの存在であることを拒むの?」
問いかけは平坦。
怒りすらも失せた響きがそこにある。
簡単だよ、とシリウスは答えた。
「人間で在りたいだけだ」
想い人と、共に在るために。
最後の言葉は胸の内に留めたまま、少年は目を閉じる。
姉を。
どんな言葉で否定しても、やはり姉である少女を殺す最後の決意のために。
ぎり、と噛んだ奥歯は笑みに消える。
少年は目を開いた。
少女は杖を構えて佇でいた。
言葉は、要らなかった。
あるいは全てが遅すぎた。
「シリウス」
ラーシャの言葉。
自分が姉を否定する、その最大の根拠。
これは僕の我侭か。
――構わない。
罪なら、背負おう。
姉殺しの汚名と師匠殺しの不敬。
仲間への裏切りと数知れぬ殺害。
重すぎる十字架を一生背負い、それでも幸せになってやる。
「大丈夫」
小さく、シリウスは答えた。
「僕は、それでも生きて見せる」
死を渇望したのは過去。
天才であったのは記憶。
ならばいま、普遍を願い生を望もう。
パンドラが、長い沈黙の末に魔方陣を展開した。
生まれ出るのは数多の雷竜。彼女の師が放ったのと同じ、否、それよりも遥かに凶悪な暴力の奔流。
応えたのはただ一本の焔。
雷が消える。
炎の矢に喰らいついた雷竜は霧散し、余波さえも残さない。
全ての暴力をねじ伏せて。
炎の一矢は、パンドラに突き刺さった。
その顔が、一瞬、確かに。
「――――」
シリウスは奥歯を更に強く噛締める。
既に感覚が無い。砕けていても不思議ではない、そんな歯圧。
赤い鏃は少女の身体を炭化させ、虚空に舞わせた。
からん、とアークワンドが地面に落ちる。
行使者を失い、ルアフが風に吹かれた蝋燭のように揺らぎ消えた。
闇が、満ちる。
その刹那。
シリウスが俯く姿を、ラーシャは確かに目にとめていた。
ややあって、少年がルアフを生み出した。
久しく感じられる魔力の光の中、少年の手には、彼の姉が握っていた一振りの杖。
無表情にそれを見つめていたシリウスは、振り返ると穏やかに宣言した。
「少し、休もうか。二人も疲れたでしょ?」
浮かんでいるのは仮面の微笑。
何も、言えなかった。