鎮魂曲 1

 

 少年が指を弾いた。

 瞬間、ひゅん、と音を立てて空気が渦を巻いた。渦は少年を中心に据え、足元から巻き起こり旋風のように裾をはためかせ、そして消える。

 そして、床一面を青白い光が覆っていた。

「氷だよ。フロストダイバを応用したんだ」

 こちらの視線に気付いてか、少年がそんなことを言う。

 ラーシャはもう一度足元を見やり、床を覆っているそれが微細な氷の結晶だと悟る。霜に似た氷の粒がルアフの光を反射していた。

 背を向けたままの少年は肩越しに振り返り、にこりと笑ってみせる。

 その笑みは、もう見慣れた無機質の仮面。

「ちょっと場所変えようか。寒くて――やってられない」

 笑みを、完璧なはずの笑みを浮かべ、少年は提案した。

 異論など、挟めるはずもない。取りも直さず、少年の胸の内を理解できていない今はまだ。

 こちらの答えなど待たず、背を向けたままの少年は黙って歩き出した。

 その後ろを歩くラーシャ。その隣に並んだアヤが、小さく口を開いた。

「さすがに堪えてんのかね」

「当たり前よ。シリウスだって――――」

 彼だって、何だというのか。

 言い返そうとした言葉は、なぜだか巧く形にならない。

 決めていた筈なのに。

 確信すらも抱いた筈なのに。

 ちっぽけな決意は、些細な現実の前にいままた曖昧になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――化け物――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 その感慨と共に抱いた恐怖は、紛れもなく本物だったが故に。

 シリウスに抱いた感情は、否定できないほどに純粋な恐怖だったが故に。

 

 

 シリウスは、ただのアコライトである――――どこにでもいる聖職者の少年である。

 何の欺瞞も無く断言することは、彼女にはできなかった。

 馬鹿、と胸中でラーシャは己を罵る。

 無言のまま歩みを続けながら、その視線は一歩先を行く少年の背中に向けられている。

 小さく上下する背中。進んでいく足取り。

 そこからは何も読み取れなくて、もちろん表情だって覗けない。

 雰囲気に悲壮感は無い。絶望すらも滲んでいない。

 

 

 

 

 ――――だからこそ。痛ましい。

 

 言うことは簡単なのに。言わなければならないことなのに。

 しかし言えば。あなたはただの人間だと、その短い言葉を紡げば。いまそれを告げれば、確実にそこには嘘が含まれる。

 誰よりも聡明な少年は、間違いなくそれに気付くだろう。そして傷つくのだろう。

 それは繰り返しだ。自分が愚かと蔑んだその行為の、シリウスに対する最大の裏切りの再現だ。

 彼は、救いを求めている。

 天才であった少年は、自分をそう扱わないでもらうことを望んでいる。

 師に裏切られ、似たような境遇であった過去の仲間たちにですら裏切られた。

 その傷は、いったいどれほど深いというのか。

 想像すらできない傷跡に、自分なんかが触れてもいいというのだろうか――――

 

 

 不意にシリウスの足取りが止まった。

 ぴたりと止まったその背中に危うくぶつかりそうになるが、何とかその前で停止する。

 それほど歩いたという感は無かったが、後ろを振り返ってもその先には闇が広がるだけで何も見えはしない。思いに耽っていたせいか、どれほどの距離を移動したのかまるで想像もできなかった。

「ま、ここら辺でいいと思う」

 告げる少年の口調は日常。軽く弾むようなそれは、いつも耳にしていた口調の筈なのに。

 シリウスは通路の壁に腰を下ろすと、立ち尽くしたままのこちらを見上げながら告げる。

「二人とも休んでおいたほうがいいよ。心配しなくても、この辺りにモンスターの気配は無いからね」

 にこりと浮いた微笑みは、できれば、見たくなかった。

 言おうとした言葉はやはり形を成さず、ラーシャはシリウスの隣に腰を下ろした。アヤはその反対側に座り込み、やおら横になる。

 腕を枕代わりに頭の下に回したシーフは、早速欠伸を上げて見せた。

「俺、寝るから。番人任せた」

「わかったよ。今のうちに寝ておいてくれ」

 苦笑気味に言うシリウス。その言葉が終わらぬうちに、アヤは寝息を立て始める。

 それは、さすがに。

 少しばかり、不誠実と言うのではないのだろうか。

「……ったく、よくできたシーフだよ」

 寝入ったアヤを睨んでいたラーシャの耳に、そんな呆れ混じりの言葉が届く。

「いいの? 寝かせておいて」

「大丈夫だよ。外はもう夜だろうし、朝からずっと歩きつづけてきたしね」

 途中で何度か戦闘もこなしている。そう言って、シリウスは横目でラーシャを見やった。

「休めるときに休んでおくのは、冒険者の務めだよ。与えられた限りある時間で最大限に体力を癒さなきゃ、おとなしく日帰りの冒険者になるしかない。

だからラーシャ、君も怒ってないで寝ておくことをお勧めするよ。一番疲れてるのは君だからね」

だろうからね、ではなく、だからね、と少年は断定した。

思わず言い返そうとして、やめた。感情の言い分はともかくとして、身体が疲労を覚えているのは事実なのだ。

ラーシャは剣を傍らに置き、その背中を壁に預けた。服を通して伝わる壁の冷たさが心地よい。

身体の力を抜こうとした彼女は、しかしシリウスの顔を見てその名を呼んだ。

「シリウス」

 返事は、ない。

 僅かながら天井を仰いだ少年の瞳はどこか遠くを見ているようで、焦点というものを結んでいなかった。

「シリウス」

 もう一度、ラーシャは少年の名を呼んだ。先ほどよりも強く、力をこめて。

「あ――うん、なに?」

「あなたは寝ておかないの? あなたの方が疲れてると思うけど」

 シリウスは口の端を歪めた。こちらを見ず、頭上のルアフを見上げながら答えを紡ぐ。

「寝させてもらうけど、それはアヤが起きた後かな。安全とは言ったけど、まあ、一応ね。番人も必要だろうから」

「なら私が番をするから、シリウスが先に――――」

「それに」

 ラーシャの言葉を遮り、少年は言った。

 こちらを向き、その顔に笑みを浮かべて。

「いま寝ても、いい夢は見れそうにないから」

 その言葉に、どんな言葉を返せただろう。

 もはや言いたい言葉すら見つからず、ラーシャは目を伏せた。

 それはただの逃避。問題の先送りにすらなっていないことを十分承知していた。

 暗闇の中、心から求める。答えを――――答えを。自分の本心であり、だけれど少年を傷つけない解答を。

 それは我侭な願いなのだろうか。自分如きではどうやっても手に入らないものなのだろうか。

 

 

 応えることができないから目を開けることはできなくて、

 でも目を閉じれば情けない気持ちが次から次へと溢れてくる。

 板ばさみの葛藤の中、それを抜け出すことだってできはしない。

 

 

 ――――何故って、それは。

 

 

 その板ばさみの状況を作り上げる一番にして唯一の原因が――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あっさりと眠りについた少女を見て、シリウスは苦笑した。

 やはり疲労が大きかったのだろう。当たり前か、と小さく呟く。シリウスにとって今日の戦闘の、規模自体は慣れたものでありまた片手で流せる程度のものですらあった。なりふりを構わず、自分の力を完全に使っていたのなら、の話ではあるが。

 だがラーシャにとってはどうだったのか。小さな休憩を挟んでいたとはいえ、連戦に継ぐ連戦だ。しかもその一つ一つが命を落としかねない実践ときている。肉体的疲労より、命のやり取りをしたという精神的疲労の方が大きいのではないか――シリウスはそう分析していた。

 ラーシャの寝顔を横目で見やりながら、ぱちん、と指を弾いてルアフの光量を落とす。明かりを弱めたルアフは、三人が腰を据えた通路を月光が照らし出すかのような色合いに染め上げた。

 一瞬失われた視力も、目が闇に慣れるにつれさほどの不具合を示さなくなる。

 虚空の一点で静止するルアフを見上げ、少年は嘆息でもない吐息を吐いた。

「わかっていた――――そうだとも。予想していたさ、君らがその魅力に囚われることなんて」

 ぽつりと漏れたのはぼやき。懺悔にすらならないただの愚痴。

「不老不死? ああ、そうさ魅力的だよ。死なず、老いなんだ。これ以上の完璧が何処にある」

 声は小さい。口調は弱い。

 けれどそこには、紛れもない意思がある。

 傲慢と蔑まされ、不敬と嘲笑われようとも曲げぬ決意がそこにある。

「完璧、そんなものは求めちゃいけない。望んじゃいけない。

分を知れ、戯けが――――何を勘違いした、シリウス=シンシリティー」

責め句は己に向けて解き放つ麻薬。

罪悪感に浸ることで被虐の悦楽を求めようとする行為。

「お前は何を勘違いした、クラウン。お前さえうまく立ち回れたのなら、こんなことにはならなかったはずなのに」

浅ましくていい。

愚かでも構わない。

嘲笑え、軽蔑しろ。

それで、少しでも罪が報われるなら。

「矮小だ。矮小で矮小で矮小だ。なんて、なんて――――惨めなんだよ、糞!」

 ぎり、と歯を食いしばる。

 こんなことに意味はない。自分を嘲笑ったところで罪は消えない。

 自分を傷つけ少しばかりの罰を受けた気になって、けれど何にも報いていない。

 シリウスは鎖で己を縛るかのように、力強く自分の身体を抱きしめた。互いの腕を握る手に力が篭もり、うっすらと血が滲む。

 ――――決意は。

 最愛の姉を殺すために必要だった決意は。

 理性が認めたはずの理論は。

 感情が、すべて否定する。

 くっ、と喉の奥から不快な呼吸が漏れた。

 一度ならず、二度も、三度も。まるでたちの悪い咳のように続くそれは止まらなくて、呼吸すらもできなくなってしまう。

 身体が震えている。押さえつけても押さえつけても、身体は痙攣を続ける。

 途切れ途切れの呼吸が、自然、ひとつの名を紡いだ。

「――――パンドラ」

 思い出す。思い出してしまう。

 彼女と過ごした修行の日々。

 彼女と過ごした仮初の日常。

 彼女が打ち明けた己の気持ち――――

 その結末が、あれだというのか。

「――――!」

 強く。歯が砕けても構わないとばかりに、少年は奥歯を噛み締めた。

 瞼を閉じても、開いても。思い浮かぶのは、映し出すのは姉の最期。

 師と同じ魔法を選んだのは、彼女がやはり師の弟子だったから。

 ならばそれを、過去と同じ方法で殺害した自分は、果たして。

(何も変わっていないって、そういうことだとでも言うつもりなのか――――!)

 絶叫は言葉にならず、意識の中だけに強く響く。

 

 シリウスは顔を上げた。

 その顔は、砂漠を何日間も放浪した旅人のそれに近い。

 ただ一縷の望みを願い、ほかの全てを投げ捨てた者の顔。

 

 

 

 

 

 

 

 シリウスの姿が遠ざかっていく様を、ラーシャは薄目を開けて見ていた。

 寝ていたのだろうと思う。しかしその眠りは、少年の慟哭により醒まされた。

 まずはじめに、これは夢だろうと思った。あの少年が慟哭など、信じられるはずがない。

 ならばこれはその続きだろうか。ルアフをここに残したまま、少年の背は闇の中に沈もうとしている。

 ――――また、届かない。そんな思いが脳裏をよぎり、ラーシャは思わず立ち上がった。

「止めとけよ」

 静止の声は、思わぬところから発せられた。

 寝ていた筈のシーフは横になったまま、こちらに背を向けて言葉を紡ぐ。

「あんなことがあった後だ。あいつだって、一人になりたいんだろ」

「あんなことがあった後にいっしょに居てあげれずに――――何がパートナーだっていうのよ」

 その答えに、アヤは失笑で返した。

「あんたら、ビジネスライクには行かないみたいだな」

 言葉の意味を深読みして、ラーシャは思わず何かを叫びそうになる。

 けれどそれが口を突くより早く、シーフは投げやりに言い捨てた。

「行けよ、シリウスの傍らに立つことを選ぶのならな。

俺はもうちょい寝かせてもらうから、愛憎劇は声の届かないところでやってくれ」

「勝手なことを――――」

 言いかけるが、アヤが指差した先を見ればシリウスの背中が見えなくなっている。

 ラーシャは立ち上がり、急いでその後を追った。急いで、しかし走らずに。

「そこを右に曲がったぜ」

 背中から聞こえてくる指示に従い、闇の中横道に入る。

 闇に慣れた目は、小さなルアフを従え通路を行く少年の背をしかと認めた。