鎮魂曲 2

 

 少年がたどり着いた広間には、淡い光が差し込んでいた。

 ラーシャは広間の入り口で足を止め、天井に空いた穴を見上げる。崩れて久しいと思われる欠落の向こう側、見慣れた夜空が顔を覗かせていた。光の正体は、この空に広がる数多の星々の燐光。

 どこか虚ろ気な光に照らされているのは、床に生え揃った名も知らない花々だ。色彩鮮やかなはずの花々たちが、いまこの時だけは青白いヴェールを被っている。

 花壇を前に、少年は身を屈めた。その手が、静かに咲く花に伸ばされる。

「――――」

 小さな呟きが耳に届くが、聞き取るまでには至らない。

 

 声を掛けるべきか否か、迷わなかったと言えば嘘になる。

 けれど、躊躇は一瞬で終わらせた。先ほど自分がアヤに言った言葉を何よりの勇気として、広間に踏み込みながら少年の背中に声を掛けた。

「シリウス、番をしてくれる筈ではなかったの?」

「ん、大丈夫だよ。そもそも番なんて必要ないんだし」

 こちらに気付いていないということはなかったのだろう。帰ってきた声には苦笑が混じっていた。

 シリウスは花を見下ろしたまま、こちらを見ずに自分を弁護する。

「この辺りにモンスターの気配はないよ。本当に、ファミリア一匹いやしないんだからね」

 やりすぎだよあいつら、と言ってシリウスは空を仰ぐ。

 塗りつぶされた黒い天井の中、一角だけが細かい輝きの夜空に繋がっていた。

 同じように天井の向こうの夜空を見上げながら、ラーシャは次の疑問を口に出す。

「この花壇は?」

「姉さんが作ったんだって」

 答えはあっさりと返ってきた。

 その内容とは、裏腹に。

「八十年って言ったっけ。そのぐらいの年月を費やして作ったらしい。

よく見ると所々に試行錯誤の跡や雑なところが見つかるんだけどね。ホント、姉さんらしいよ」

シリウスは立ち上がる。

姉の花壇と同じように星の光を浴びながら、姉を殺した少年は厳かに振り返った。

その顔は、笑顔。

泣きそうなほどに穏やかな、笑顔。

「昔から、そうだったんだよ。姉さんは僕の想像もつかないことをしてくれる。僕なんかじゃ考えつかないことをしてくれる。ありとあらゆる可能性を考えたって、その抜け道をことごとく突いてくるんだ。

師匠の下で学んだ時だってそう。練習試合で、何度裏をかかれた事か。まあ、結局詰めが甘くてね。そこらへんも、まったく変わってなかったよ――――」

無言のまま、ラーシャはシリウスの身体を抱きしめた。

自分より小さかった少年の身体は、腕の中に軽く収まってしまう。

見て、いられなかった。

微笑みながら涙する、この少年を。

「シリウス、もう、いいから。もうそれ以上、言わなくていいから」

「――――そうもいかないさ。これは、僕の懺悔なんだから」

 呟いた声は、何処までも冷めた、絶望の色。

 いままで聞いたこともない、師を殺めたと告白したときにすら勝る、絶望の声。

「私は、司祭なんかじゃないわ」

「僕だってただの愚か者だよ――――愚痴だから。情けない愚痴だから。耳でもふさいでてくれれば、それでいいよ」

 シリウスのが顔を押し付ける肩口が、冷たい。

 涙が染み込んでいるのだと、どこか夢を見ているように理解する。

「姉さんは、パンドラは、僕を愛してくれていた。僕を求めていてくれた。

最初は師の仇として僕を必要とし、最後には日々を生きる伴侶として僕を必要としてくれた。そして僕はそれに答えた」

「――――」

 聞くのが、つらい。

 痛ましいわけでも、悲しいわけでもない。

 けれどシリウスの口からそんなことを聞くのが、どうしても許せない。

 その気持ちの正体なんて、とっくに理解している。

 叶うなら、今すぐにでも少年の口を噤ませ言葉を遮りたい。

 

――――妬ましい。

 

「僕は姉さんに何をして上げられたのかな。何をしなければならなかったのかな」

 

 口調から、力が失われていく。

 

「何でも出来た筈なのに、何もして上げられなくて――――師を奪い、挙句命まで奪った」

「シリウス!」

 ラーシャは叫んだ。

 これ以上、少年の罪を暴かぬために。

 これ以上、少年の傷を抉らぬために。

 ラーシャは少年を抱きしめる腕に力をこめる。願わくば、そのまま黙さんことを。それだけを願い、少年の身体を強く抱きしめる。

 けれど、そんな抗いはまるで無意味。

「僕はどうやって報えばいい? 僕はどうやってこの罪を、多すぎる罪を償えばいい?」

 少年の声は虚ろ。

 聞く方がぞくりとするほど無機質な、生気亡い言葉。

「教えてよ――――教えてよ、ラーシャ。僕に何が出来る? 僕は何をすればいい?」

「――――」

「僕も後を追って死ねばいいのかな。オシリスを倒して、元凶を倒して、その後で自殺でもすればいいのかな。惨めに無残に醜く死ねば、少しは姉さんも許してくれるのかな」

「――――させない。そんなことは」

 返した声に滲んでいたのは、怒り。

「じゃあどうすればいいって言うのさ。この罪を償うためにどうすればいいって言うのさ」

 そんなことはわからない。解決策なんて知らない。

 少年がどれだけの罪を犯したのか知らなければ、その罪を償うためにどれだけの贖いをすればいいのかも想像できない。それは少年にしかわからぬことだし、少年のみが決着をつけられる事柄だ。

 そんな事実、シリウスはとっくに理解しているだろう。

 ならば、これは。

 とおの昔にわかりきっていることを敢えて問うこの行為の、その正体は。

「死ぬなんて、許さない」

 叱るような口調で、ラーシャは言った。

 駄々をこねる幼子を、嗜めるように。

「シリウス、あなた、言ったわよね。それでも生きてみせるって」

 それは少年が抱いた決意。

 数多くの罪を背負い、それでも生きてみせるという傲慢な贖い。

「ならそれを守りなさい。守って、生きなさい、シリウス。

 自分で掲げた誓いなら、何があっても守ってみせなさい……!」

「――――」

 少年は答えない。

 ただ己を抱くラーシャの腕をするりと抜け、一歩だけ後ろに下がる。

 うつむいていた少年は、けど、と言って顔を上げた。

「消えないんだ。姉さんの最期が」

 顔は笑顔。

 瞳から流れるは涙。

「姉さんのことだから、こんな僕を嘲笑うと思った。軽蔑すると思った。

だから最期に、本当に諦めた、そんな視線を僕に向けるんだと――――そう思った」

ぼろぼろと。

少年の瞳から涙が零れる。

 それは止まぬ白雨のように。

「だって、そうだろう? 最後に、最期に一矢報いるなら、嘲笑えばいい。それだけはどうやっても防げない一矢だし、けれど誇りを打ち砕く最高の一撃だ。

 そんなことぐらい、姉さんにはわかっていた筈なんだ。充分承知していた筈なんだ」

 少年は自らの手に視線を落とす。

 手の中には、少年の姉が握っていた一振りの杖。

「けど、違った。姉さんは最期に、顔を歪めて見せた――――恐怖と、憎しみに」

 シリウスは微かに表情を変える。

 笑みが、ほんの少しだけ歪になる。

「考えれば、考えれば当たり前のことなんだよ。死ぬんだ、怖いさ。怖くて怖くて、そうなった原因とか敬意とか、その辺のものに対して憎しみを抱いたって当然なんだ。なのに、それだけで僕は――――僕の決意は、揺らいだんだ、愚かしくも。

これでいいのか、って思ってしまった。確かに僕は誓ったよ。姉さんを殺して、先に進んで、呆れるほどの十字架を背負って、それでもふてぶてしく幸せになってやるって。姉さんよりも君のほうが大事だってことを、姉さんとここで永久に過ごすより、君と短い時間を変わりながら過ごすことを選ぶと。僕は決めた、決意した。だからこそ姉さんを殺そうと矢を放ったし、実際に殺すことも出来た」

なのに、と弱々しく少年は続ける。

「僕は悔やんでる。何か他の方法があったんじゃ無いかって、姉さんを殺さずにすむ方法があったんじゃないかって。いや、実際にその方法はあったはずなんだ。僕が気付かなかっただけで、その最高の解決法は存在したはずなんだ。

でも、僕はそれを選べなかった。選ばなかったんじゃない、選べなかったんだ。こうしているいまだって思いつかない。なんて未熟、なんて愚か、なんて――――惨め。何故、何故、何故、僕は考えつかなかったんだ。あれほどのことをしておきながら――――」

「自惚れるのもいいかげんにしなさい、シリウス」

 自分でも何故かと問いたいほどに、口調は厳しかった。

「――――え?」

「あなたは何様のつもりなの、シリウス。全ての者に普く幸せを授ける第一神にでもなったつもり?」

 何故、どうして。自分はこんなにも厳しい言葉を投げかけるのか。

 意識の一角が、そんな問いを発している。しかし構わず、ラーシャは自分の言葉を続けた。

「違うでしょう、あなたはただのアコライト。普通でない過去を持った、ただのアコライトでしょう?」

 言葉が、纏まる。

 先ほど言いたかった言葉。言わなければならなかった言葉が、いまようやく形になる。

「後悔だってするし、手が届かない時だってある。願っても叶わないときがあれば、予想が外れることもある。そうでしょう、シリウス=シンシリティー。

でも、そんなことは当たり前のことよ」

 卓越した戦闘技術がどうしたというのか。

 不死という呪いが何だというのか。

 そんなものはただの付属品にすぎない。シリウスという少年につけられた本の些細なステータスにすぎない。

 その事実を、いまようやく知るに至る。

 嘘の無い本心を、少年に告げることが出来る。

「やはりあなたはただの人間よ、シリウス。あなたは天才なんかじゃないし、もちろん神様なんかでもない。そうやって選べなかった過去を悔い、いまの自分に困惑するただのアコライト。

いいかげんその事実を認めなさい、シリウス。罪の贖いがわからないというのなら考えればいいでしょう。考えつかないのなら、考え付くまで考えるしか道は無いでしょう」

たとえそれが、少年にとって煉獄の道だとしても。

「そのために、いまは生きなさい。生きて、生きて、生き抜いて、いつか答えを出しなさい。自分が納得する答えを、全ての人に否定されても自分だけは絶対だと信じられる答えを出すまで、生き続けてみなさい」

 少年は、呆、とした顔でラーシャを見ている。

 あっけに取られたような、力無い表情。

 ただし、その涙はもう、流れていない。

 そのことを確認して、ラーシャはふと表情を緩めた。

「――――もし、あなたが」

 もう大丈夫。これ以上、掛ける言葉は必要ない。ラーシャはそう思う。

 失っていた指針は取り戻しただろう。失いかけていた決意は取り戻しただろう。

 必要なのはほんの少しの戒めと、ほんの少しの支え。

 それを与えることが出来た自分は、やはりシリウスのパートナーだと、そう思う。

 だから、これは自分の我侭。

 他愛ない、願い。

「もしあなたが不安だと言うのなら、私の傍に居なさい。

私はあなたより弱いし、頼りないけれど、あなたが道を間違えそうなときにその過ちを正すことぐらいなら出来るから。

だから、答えが見つかるまで、見つけ出せるまで、私の傍にずっと居なさい」

 少年は呆然としている。

 しかし、焦点さえも虚ろなその瞳の奥に、いつもと同じ意思の輝きがあることをラーシャは悟った。

 シリウスはもう大丈夫。そして自分も、もう迷わない。

 もう恐れを抱くことは無いだろう。怖れを抱くことも無いだろう。

 これからはずっと、ただの伴侶として傍に居ることが出来る。

 その確信が誇らしく嬉しく、すこしだけ恥ずかしかった。

 

 

 

 

 

 言葉を紡ぐことも出来ないまま、シリウスは自分を支えてくれる少女を見返していた。

 少女が浮かべているのは微笑み。自分が身に付けた仮面とは違う、慈愛と抱擁に満ちた笑顔。

 適わない、とシリウスは思った。どう足掻いても、その微笑を浮かべることは出来ないと思った。

(――――いまはまだ、ね)

「ラーシャ」

 ぽつりと、少女の名を呼ぶ。

 不思議と、暖かさがあった。意識を埋め尽くしてた疑問が、ほんの少しだけ解決されたような、そんな思いもある。

「ありがとう」

「――――私は何もしてないわ。あなたなら、いずれは気付いたことでしょうから」

 その通りだとも、違うとも思う。

 確かにその結論には至るだろう。自分がただの人間だという、逆説にも似た論法でその事実を受け入れるだろう。

 けれど、そうして手に入れた事実に救いは無い。

 少なくとも、この胸に染みる暖かさのような感慨は、無いはずだ。

「ありがとう」

 もう一度、シリウスは繰り返した。

 もはやラーシャは答えない。ただ、その顔に浮かんだ微笑みに少しだけ苦笑が混じる。

 同じように苦笑して、シリウスは身を翻した。姉の遺した花壇に向き直り、小さく深呼吸。

 傷が癒えた訳ではない。傷が消えたわけでもない。

 後悔は残っているし、疼きもまだまだ健在だ。

 ただ――――それでも。

 行こう、という思いがある。自分自身に向けて送る気持ちがある。

 少年は黙し、懐に手を入れた。取り出すのは、慣れ親しんだ銀の楽器。

「シリウス?」

「僕ね、音楽だけは苦手なんだ」

 返した口調は、たぶん、いつもどおり。

 そっと口を添えながら、背後のラーシャに言葉を送る。

「でも、たぶん、いまの僕に出来ることはこれだけだろうから。

――――ごめんね。けど、この曲だけは、姉さんと、みんなに」

「私はここに居ないほうがいいかしら?」

「出来れば、居て欲しいな。やっぱり少しはテンション変わるから」

 苦笑混じりの問いかけに、やはり苦笑混じりの答えを返す。

 最後に、小さく、呼吸。

 よし、と気合を入れて、シリウスは鉄の笛に息を吹き込んだ。

 

 

 

 

 

 

 少年が奏でるはラーシャの知る曲。

 少年の十八番にして、その言葉が正しいのなら、おそらくは少年が唯一得意とする曲目。

「女王に捧ぐ曲……」

 その名を小さく呟いて、ラーシャは目を閉じた。

 単調な高音が、星明りの差し込む広間に響き渡る。

 鳥の囀るようなそれは、まるで死者を悼む鎮魂曲。

 ああ、とラーシャは得心した。

 シリウスが番を抜け出し、ここに来た理由を、ようやく悟る。

 閉じた視界の中、その旋律は小さく、しかし確かに響きつづける。

 

 

 

 

 

 少年が姉に向けた最後の弔いを、ラーシャは最後まで余す所無く聞き続けた。