葬送曲2
響いた音は僅かに一度。しかしラーシャは、その瞬間己に掛けられたあらゆる補助魔道式を感じ取った。アヤが感嘆の口笛を吹くのが聞こえる。ブレス、速度増加、エンジェラス――――異なった魔道式が、同時に、しかも複数人に掛けられたことを知り、ラーシャは息を飲んだ。
ぱちん、と音がもう一度。
空間がきしみ、溢れる程の光が空間を満たした。真夏の太陽より眩しく光るそれは、否、それらは、一つ一つが光を放つ精霊達だ。
その数幾百、或いは幾千。
「無礼はお許し願いたい」
シリウスは腕を薙ぎ、精霊達がそれに従った。光を纏った妖精達が、外敵を排除する蜂の群のように一丸となり、波打ちながら玉座へと飛翔する。
距離は一瞬で皆無となり、建物が崩壊するような激しい音が続いた。
舞い上がった土煙が収まったあと、玉座があった場所には大きな穴が穿たれていた。純粋な暴力で砕かれたそこには焦げた跡の一つもないが、そのぶん、其処にどれほどの力が働いたのかが知れる。
人ひとりを殺すには十分すぎる力によって形成された空間で、しかし、気配が動いた。
「ふむ」
それは声であったのか。余りに静かで、余りに余裕に満ちたその頷きが、ただ耳に届く。
「其処な聖職者。君の顔には見覚えがあるのだがね?」
そうして、詞の主が姿を見せた。穴の淵に手を掛け、慇懃そうに、しかし何事もなかったかのようにそこから出でる。
その姿を、ラーシャはしかと見た。
教典で見た木乃伊の様で、しかしどこか違う。身体を包んでいるはずの包帯は所々が剥がれ、地の肌が、からからに乾いた肌が除いている。骨格と皮膚しかないようなそれに生の気配は微塵も感じられず、あまりに無機質なそれはそも生物らしくすらない。
だがそれは、明らかに動いている。
その在り様の、なんと異様なことか。
「ふむ」
穴の淵に立ったオシリスは、思案するように己の顎に手を当てた。その顎は、否、顔は完全に包帯が無くなっており、頭蓋骨に直接肌を貼り付けたようだ。
眼球すらない眼窩は、静かにシリウスを見つめる。
「私の気のせいだったか?」
「――――いや、事実だ、不死の王」
憎々しげに言い、シリウスは一歩前に出た。何かを払うようにアークワンドを振るうと、その軌跡に青い光が残った。
「確かに僕は百七十四年前貴方に挑み、そして敗れた。
その結果として、いま此処に居る」
「ふむ、そうか。私の勘違いではなかったのだな」
言って、オシリスはひたりと歩き出した。ゆっくり、ゆっくり、筋肉すら着いているはずがないその身体を揺らしながら、ただ遅々とこの距離を詰める。
その一歩ごとに、空気が重くなるのをラーシャは感じた。迫力とも圧力とも判別の出来ない不気味な雰囲気。オシリスの身体から滲み出ているかのようなそれは、その距離と反比例するように濃く、空間を塗りつぶしてく。
ラーシャはうなじの気が逆立つのを感じた。恐怖か、それとも――――嫌悪か。
「不死の王よ」
アークワンドで空間に図形を描きながら、シリウスは静かに問うた。
「貴方の編み出した不死の呪法を解く術はあるのか?」
「ふむ? ――――ほぅ、記憶を継いだ生まれ変わりではなく当人であるというのか」
オシリスは不意に足を止め、シリウスの台詞に好々爺の如く呵呵と嗤った。蝋と化したその表情に何ら変化を生まぬまま、ただその口から声が漏れる。
「つまり、我が呪法は完成していたということか」
「それは違う。死者の王よ」
ラーシャは剣を抜いた。アヤが背負った矢筒から矢を取り出し、弓に番えたのを気配で知る。
シリウスは杖を振るう。三角形を描く軌跡は光を残し、その頂点に異なる魔方陣が形成された。
「――――なんだと?」
「貴方の呪法は失敗した、不死の王よ。その技術は、人を化け物に陥れるだけだ」
異なる三つの音が同時に響き、魔方陣が世界に干渉しその公式を展開する。
現れたのは三色の鏃。即ち炎、氷、雷。
ラーシャは軽く身体を沈め、真っ直ぐに、脳裏を侵食する嫌悪感を真っ向から切り捨て、オシリスに意識を集中させた。構えた剣を肩の高さに水平に持ち上げ、刺突の形を取る。
「この結果をみたのは、僕だけだったのだよ、不死の王よ。
みんなは――――みんなが陥ったそれは、人としての不老不死などではない」
「つまり、素体の因であると?」
「さて、それは僕の関するところではない。ただ問題として、不死の王、貴方の呪法は、技術は未完成だ」
シリウスはアークワンドの先端を、真っ直ぐに、細剣を構えるようにオシリスへと向ける。
「僕から死と時間を奪った代償、利子付きで返させて戴く」
戦闘の始まりは、いつもの如く少年の合図。
ぱちん、と指を弾く音を聞き、ラーシャは魔力の矢と併走を開始した。
その威力は、いったいどれほどのものだったのか。
炎の矢はオシリスの右腕を一瞬で炭化させ、風に解かした。
氷の矢はオシリスの右足を一息に切り裂き、空に舞わせた。
雷の矢はオシリスの左足を一口で飲み込み、宙に躍らせた。
一瞬で四肢の三肢を失った不死の王は、別段苦痛も悲痛も見せず支えを失い地に堕する。
その直前、ラーシャは疾走の加速を剣戟に乗せ、斜め下から救い上げるように剣を振るった。狙ったのは残った一肢、左腕の付け根。骨ごと叩き折るつもりで、渾身の力を刃に混める。
そして刀身は、枯れ木を折るような鮮やかさでオシリスの肩口を切り落とした。
「――――え」
拍子抜けするほどのあっけなさに、ラーシャは思わず声を上げていた。
振り抜いた剣の慣性に引きずられるようにその場を飛び退く。どっ、と、何かを穿つ音が聞こえた。
右足から着地し、勢いに流せて身を翻す。
そのまま剣を構えようとして、今度こそ息を飲んだ。
オシリスは、変わらぬ姿でそこにあった。炭化し、切り刻まれ、蒸発し、切り離されたはずの四肢は先ほどと何ら変わらぬ姿でそこに在る。変化があるといえば、その眉間。こちらに向けられてすらあらず、依然としてシリウスに向けられたその顔の眉間に、一本の矢が突き刺さっている。その先端は後頭部までをも貫き、鋭い鏃が姿を見せていた。
「ふむ」
何事もなかったかのように、オシリスは頷いた。僅かに頭を振ると、硬い小さな音を立てながら矢が抜け地面に落ちる。矢が穿ったはずの傷跡は、一瞬の時間を置いて塞がった。
――――否。
「私の呪法は、幾千の歳を経てもいまだ完成に至らぬか」
塞がったのではない。元に戻ったのだ。
「なんと嘆かわしい。私如きでは、やはり完全を手にすることなど夢物語なのか」
「そんなことは知らない」
悲観するオシリスに、シリウスは短く言い捨てた。
淡々としたその言葉の中に、しかし氷より冷たく、火より熱い怒りがある。
「オシリスよ、不死の王よ。現世に在り続ける貴方がどんなものを望もうと僕には興味がない。
永遠を得たければ願えばいい。完全を手にしたくば求めればいい。だけど、僕はもう、これ以上そんな馬鹿げたことに付き合ってやるつもりは無い」
少年は指を弾いた。
刹那、ぎちぃ、と空間が悲鳴をあげ、古代の精霊達が召還される。シリウスに傅くかのように出現した精霊、その数はいったいどれほどだというのだろう。
先ほどと同量、或いはより数を増した精霊が、可憐なほどに暴力的な力を秘め、ただ一丸となりその命令を待っている。
オシリスよ、と少年は厳かに告げた。
「僕は過去、貴方に100通りの死を与えた。
いまここで、それを100度繰り返そう」
シリウスはタクトを振るうように杖を執った。
その指揮にあわせ、光の精霊たちは弾丸となり壁となり波となり、鎌首をもたげた蛇のようにオシリスへと突撃する。
空気が震え、部屋が鳴いた。
響いたそれは、もはや音と呼ぶには似つかわしくない暴力の咆哮。
妖精によって穿たれた穴は千を越え、オシリスの身体は自重で崩れそうなほどに虚が空いている。
そんな不死の王を見て、シリウスは小さく舌を打った。再突撃を掛け様とした妖精たちが少年の制止によって動きを止め、一礼と共に空に解ける。
その、僅かな時隙。オシリスから注意が逸れていたその瞬間に。
「――――ふむ」
変わることの無い言葉が、脳裏に響いた。
ラーシャは息を飲みながらオシリスに注意を戻す。其処に立っていたのは、依然として変化の無い不死王の姿。切られた痕などもってのほか、妖精に貫かれた痕跡すら其処には無い。
「精霊王と契約したか。精霊騎士団の実力、この目で観ぜらるるとは思わなかったぞ」
「はっ。だったら少しぐらい驚いたらどうなのさ」
憎々し気にシリウスは吐き捨てる。数秒の沈黙のあと、やおら構えを解き、ラーシャに声を掛けた。
「ラーシャ、こっちへ」
「――――」
視線はオシリスに向けたまま。切っ先はその身体に向けたまま、ラーシャは静かに足を滑らし、招かれるままにシリウスの傍まで歩み寄る。
矢を番えたままのアヤが、シリウスの影に居た。その顔には苦渋の色が濃い。
びん、と弓鳴りが響き、一条の矢が放たれた。風を切り空気を穿った鏃は、撃手たるアヤの視線の向かう先、オシリスの胸にずどんと突き立つ。
そして、それだけだった。
「無駄だよ。そんなの、意味も無い」
「みたいだな」
淡々と述べたシリウスに、アヤは忌々しく吐き捨てた。
見れば、突き立った矢はオシリス自身のその手で無造作に抜かれ、床に落とされた。オシリスの胸に空いた穴は、僅か一呼吸の間に塞がれる。矢が命中したという事実さえ無関係であるかのように、其処には何ら変わりが無い。
当たらないわけでも、効いていないわけでもない。
それでも、無駄。
「シリウス」
「ん、ちょっと待って」
その意味を知ったラーシャが、短く少年の名を呼んだ。
答える代わりに、少年は大ぶりな動作で杖を振るった。光が空間に残す軌跡は、先が三角形なら今度は六角形だ。
図形が完成し、少年は指を弾いた。
かっ、と音がしたと思う。世界が白く染まった様に感じる。
ラーシャは息を飲んだ。視界を塗りつぶしたそれが、あまりに高エネルギーなため純白と化した炎だと知る。
白い炎は、ほんの数瞬で解け消えた。其処――――オシリスの足元が、丸く融けている。
「ふむ」
頷きには感嘆も、悲観も感じられない。微かに沈んだ己の足を見下ろし、小さく呟く。
「炎の壁を何層にも重ねたか」
「その通り。僕の知る限り、いまの熱に耐えられる物質は存在しない」
その結果は予想の範疇だったのか、シリウスの声音には驚きも落胆も無い。
実験の結果が予想通りだということを確認した学者のように、シリウスは頷いた。
「だから、分かった。不死の王よ、貴方と、彼らと、僕に掛けられた呪法のその相違が」
「――――ふむ?」
オシリスの、虚ろなはずの瞳が、炯々と光るような錯覚。
それを見るシリウスは自然体。顔には薄い笑み。瞳には感情を排除した輝き。
「オシリスよ、先に告げておこう」
杖の切っ先を、真っ直ぐに不死の王へと向け、声高に問う。
「貴方程度では、その高みに辿り着くことなど出来ない」
「シリウス……!」
アヤの、悲壮な響きさえ含んだ声。おそらく彼は理解しているのだろう。自分の攻撃が、殺害手段が、この不死の生物に通用しないということを。自分では、オシリス相手に勝つことなど出来ないだろうということを。
それは確かに、ラーシャとて同意見だった。自分がこの化け物に太刀打ちできないなどということ、考えれば、否、考えずとも想像できる。
だから、シリウスのそれは、挑発は逆効果。
しかし。
少年は歌う。
「貴方の望みが何かは知らない。しかし敢えて言おう。役者不足だ」
ぱちん、と指を弾く音。
刹那、オシリスの身体が氷の檻に封じられた。正確な立方体を形成するそれは、オシリスを芯とするかのように完全に捕らえている。
再び、ぱちんという音。
がしゃりと音がした。透明に近い氷に無数の皹が走り、あっという間に白く濁る。三度シリウスが指を弾けば、罅割れた氷牢は上部四つの角から同時に崩れ行く。
無論、内包した不死の王と共に。
氷の崩壊は僅か数瞬で終わった。床に落ちた氷の破片、否、既に粉末は、すぐに魔力の戒めを逃れ空気に解ける。魔力によって存在させられた氷は、魔力から開放された瞬間に解け消える。
故、床には微かな山を形成するオシリスだったものだけが残った。
その山を、否――――
「役者不足か」
それは、笑うように言った。
山が山であったのはどれだけの時間だっただろう。
オシリスであった塵は風に舞うかのように空に飛び、集い、元の形を再生する。
「そのようなこと、もとより承知している」
不意にアヤが息を飲み、大きく後ろに飛び退いた。それを視界の片端に捉えながら、しかしラーシャは動けない自分に気付く。正確に言うなら、動かず震える自分の足に気が付いた。
それは、単純すぎるほどに明確な、恐怖。
オシリスはシリウスを、かつて自分に挑んだという少年を見つめている。自分の隣に立つ、老いた少年を睨んでいる。
そう、即ち、オシリスは自分を見ていない。なのにこれほどに感じるその重圧。
膝が笑う。奥歯が震える。叶わない、勝てるはずが無いと、冷静な自分が必死に叫んでいる。
そんな自分を嘲笑うかのように、オシリスは呟いた。
「しかし、見えたなら――――手が届くかも知れないのなら、手を伸ばすものだろう?」
淡々としたその台詞。しかし、そこに篭もった静かなそれを、ラーシャはしかと感じ取る。
それは狂気。
氷より鋭く刃物より冷たい、絶対の恐怖。
「それについて異論は無い」
「ほぅ?」
狂気も重圧も何処吹く風か、少年はまったく気負いせずにオシリスと対峙する。
「手を伸ばすのは勝手だ。だけど、いいや、だからこそ――――
その結末は、受け入れろ」
言い切ったシリウスは、たん、と地面を蹴った。前ではなく、横へ。同時にラーシャは己の腰を抱く手を感じる。そのままぐいと引かれ、誘い手、シリウスと共に大きくその場を離れる。
「――――シリウス?」
自分でも場違いだと感じるほどに間の抜けた、問いかけ。シリウスは何も答えなかったが、その理由はすぐに知れた。
がづん、という暴力的な音が耳を突く。ぐおん、と震えた空気は歪みを伴い、其処を、いま先ほどまで二人が居た場所を打ち砕く。それは破壊というより破細。歪みが覆った範囲の床が、蟲の羽のように霞み、砂となる。
ラーシャは息を飲んだ。
「結末、か」
呟きは不死の王。片腕を振りぬいたままの姿勢で、その瞳は確実にシリウスを追っている。
「我はまだ、結末になど至っていない」
「なるほど。確かに、その身はいつまでも中途半端に違いない」
ラーシャを開放し、シリウスは歩き出す。その足取りは軽く、何ら気負いが感じられない。
「しかし、不死の王」
オシリスの数歩前。
一足でその懐に飛び込めるだけの距離を残し、少年は足を止めた。
にこりと、偽りの無い、心からの笑みで天才は尋ねた。
「中途半端という、それ自体も結末ではないか?」
「――――」
静かたるその雰囲気の中、微かに怒気が混じる。
それに気付いたか、否、気付かないはずがあろうか。
不死の王の怒りを真正面から受け止め、少年は肩をすくめた。
「だから、そろそろ終わらせよう」
にこやかに告げ、そして、
ぱちん、とシリウスは指を弾いた。