葬送曲 3
――――そんなわけで、この物語もそろそろ終わる。
幾つかの事実を失念していた。
オシリスの攻撃を、触れれば確実に身体を分解されるであろう魔道式を乗せた打撃を、思いのほか容易に回避しながらそれに気付く。真っ直ぐに頭に伸びてきた腕を軽く払い、腹を掴もうとした逆の手を同じように払い除けながらそれを確認する。
(こいつは、そう、過去の王族)
振るわれた腕に纏っているのは破壊の魔力。触れれば、おそらくはそこにあるものを須らく分解してしまうだろう破細の力。その間合いは、実像として目に映るその腕より拳一つ分ほど長く、鋭い。
だが、それは所詮それだけの話。
破壊力だけは、事実、特筆に価するだろう。そういった意味で、この存在は死の王に相応しいと言える。
しかし。
(武芸の達人では、無い)
また、同時に。
(こいつは戦いというものに慣れていない。自分の持つ力の、その振るい方を知らない)
考えれば当然の結論だった。百年もの昔、かつて自分達が此処を訪れたとき、そこに蔓延っていた数多の死者を思い出す。死してなお忠誠に縛り付けられた死者の衛兵を思い出す。そう、間違いなく、此処を訪れた最初の生者は自分たちなのだ。
叩き付けてきた両の手を、より間合いを詰めることにより無効化する。距離が一瞬零に等しくなり、その瞬間、シリウスは床を蹴っていた。短く跳び上がり、杖の先端を細剣のように虚ろな眼窩に突き刺す。姉の遺品であるそれは手元まで頭蓋に埋まり、横に強く力を掛けると、軽い音と共に頭蓋骨が頚椎から外れた。
(これでこいつは、死んだ)
頭蓋から、意思の司令塔から断絶された身体がぴたりと動きを停止する。その瞬間、シリウスは、自分の身体を襲った脱力感にも似た気だるさを認識した。
(こいつが死んでいるのは、およそ数秒)
変化は既に起きている。自分の手の中にある古びた頭蓋、不死の王のその観印が、中断された魔道式を再編纂、再履行しようとしている。
シリウスは腕を振るい、貫いた頭蓋を地面に叩きつけた。周囲に満ちた魔道式が、再び零に帰するのを確認し、その場を飛び退く。
オシリスから大きく距離を取り、ラーシャの傍らに戻ったその時、アヤの放った矢が復元しかけていた頭蓋を三度貫いた。既に半分形を崩していた古びた骨はその一撃で完全に破壊され、幾つかの破片に成り下がる。
「シリウス」
剣を構えたまま、ラーシャが尋ねた。真っ直ぐに構えられたその切っ先に迷いは無い。真正面から不死の王に向き合うその姿に、退くという文字は見当たらない。
ただ、その切っ先が微かに震えているのを、シリウスは見逃さなかった。
「大丈夫」
にこりと笑みを浮かべ、シリウスは呟いた。ぱちん、と指を弾けば、効果の切れかけていた種々の補助魔道式が再履行される。
身体から気だるさが抜けた。視線を逸らさぬその先、破片になっていた筈の亡骸が、一瞬で元の形を再生する。それを見、シリウスは内心笑い声を上げながら言葉を繋げた。
「戦闘技術だけなら、ラーシャ、君のほうが上だよ」
「そんな――――」
震えを必死に押し隠すような、そんな声。
瞬間、シリウスは右に飛んでいた。一節遅れ、ラーシャが反対側に飛び退く。その空間を、僅かな時間差で叩き潰す死者の魔力。ぱさぁ、と、その部分の床の表面が砂と化した。
ひゅっ、と音が鳴った。それは真っ先に後方に下がったアヤの射った矢が上げる風切り声。鏃を銀で覆った矢が、かつて仲間が使っていた矢が、いま戦いの引継ぎをするかのようにオシリスの肩を貫いた。
おそらくそれは、愚にもつかない一撃。それによる被害など、瞬き一つで消えてしまうほど矮小な一撃。しかし、それで十分だとアヤは判断したのだろう。続けて放たれた矢が、逆の足の付け根を穿つ。活動を停止させる一撃ではなく、それを阻害するための一撃。アヤがやろうとしているのは、完全に裏方に廻った支援だ。
矢が足を貫いたとき、駆けたラーシャがオシリスの胴を薙ぎながら行き過ぎた。枯れ枝を叩き折るように打ち付けられた刃は、オシリスの身体を斜めに分断する。
瞬間、シリウスは叫んでいた。
「ラーシャ、退いて!」
身を翻し、再び地を蹴ろうとしていたラーシャが、その一言で無理やり身体を捻り、オシリスと距離を取る。瞳には疑問と、しかしそれ以上に信頼の光。胸から上だけになって崩れ落ちるオシリスが、一拍送れて腕を振るった。それに従うかのように、明らかに間合いの外まで広がる破細の波。
ラーシャが跳ぶ前に立っていた場所をも砂と化し、そしてまたオシリスは復活した。
ふむ、と死者の王は呟く。
「上手く行かないものだな」
「ただ座りつづける者と、実際に戦いつづけてきた者を比べないでほしいね」
シリウスの返答に、違いない、とオシリス。
その言葉に、苦渋の響きや、それに類するものは微塵も無い。
「余裕だね、不死の王」
「当たり前だ。汝の殺害手段など以前に全て味わった。百何十年で何が変わる。万世に在る精霊全てをこの身に叩き込んでも、全ては徒労に終わるぞ」
「――――違いない」
「加えて言うなら、そこの者達、汝の従者にしては些か役者不足ではないか? 汝が補助に廻っても、汝が主力となっても、どちらにせよ足を引くだけだ。解せんな」
「まあ、あいつらと比べたら可哀想ってものさ。あいつらは、単一技能ではあるものの僕を上回りかねないだけの実力はあったんだから」
言って、シリウスはかつての仲間を、自分が殺し、封じた彼らを思う。
疾風の恩恵を一身に受けた剣士、ミハル=リアルト。
神魔ですら射殺せたであろう弓手、カイン=ハイルバード。
最高の魔道師の最高の生徒だった魔法使い、パンドラ=クリメイス。
(僕が―――― 一生、背負いつづける名前だ)
胸のうちで呟き、シリウスはオシリスを見た。二百年前と変わらぬ不死の王は、二百年以上前から其処に在るようにただ存在している。
(僕は強くなった? は、冗談。なんて下らない冗談なんだ――――)
視線を横に。視界にラーシャが、認めよう、この自分がいま最も愛する女性の姿が映る。最愛の女性は剣を構えたまま、真っ直ぐに敵を見詰めている。けれど、その瞳に灯っているのは、間違いない、恐怖の輝き。
そうだろうな、と思う。怖いさ、僕だって怖い、と小さく呟く。
(僕は弱い。挙句に、馬鹿だ。どうしようもなく愚かで、いつだって事態を引っ掻き回す)
僕がもっと巧く立ち回れたのなら。師を悲しませることも、姉を悲しませることも、ラーシャを巻き込むことも無かったのだろう。
普通に生きて、普通に死んで。普通に看取られたのかもしれない。
にやり、とシリウスは笑った。笑みが浮かぶ。自分が馬鹿馬鹿しくて、現実が馬鹿馬鹿しくて、こんな自分を好いてくれるラーシャが、泣きそうなほどにお人よしに見えて、思わず笑ってしまう。
「――――どうした?」
怪訝そうに、王。それは皮肉でも配慮でもなく、純粋な疑問。
だからシリウスは、純粋に答えた。
「怖いんだよ。でも、嬉しいんだよ」
おい、と後ろから声。焦ったわけではなく、ただ窘めるだけのそんな声。ああ、このシーフに感謝しよう。こいつが僕を訪ねなければ、こんな結末にはならなかった。なりえなかった。いつまでも不死の身体を引きずり、適当なところでラーシャと別れ、意味もなく時間を彷徨い続けたのだろう。
そんなのは嫌だと、いまの自分は心から断言できる。
だから。
「僕はね、なあ、不死の王。この身体を呪っている。不完全なこの身体を呪っている」
「不完全、だと? 妄言を。死なず老いず、我ですら辿り着けなかったその場所にあり、何を」
「五月蝿いよ。何度だって言ってやる。この身体は不完全だ。
――――考えても見ろ、不死の王。僕達は元々人間だ。神でも悪魔でも無い。空腹ならばパンを喰らい、眠たければベッドに潜り、嬉しければ笑い悲しければ泣き、子をなし死ぬ生き物だ。他の何者でもない。彼らは、僕もお前も、そういったものなんだ」
頭の片隅で演算開始。世界を識り自分を識りその成り立ちを識る。世界の全ての存在式を想定し、自分がこれからやろうとしていることの無謀さにまた笑みが浮かぶ。
「蛇足、という言葉を知っているか不死の王。どれほど精巧に描かれた絵であっても、其処に足が書き込まれた瞬間それは蛇ではなくなる。蛇としては不完全になる。それと同じことさ」
想定した存在式から必要とするものを全て選出、並び替えする。慎重に。手順を、値を少し違えただけで間違いなくこの身が滅ぶだろう作業を、シリウスは過去に培った知識と生まれ持った能力で淡々とこなす。稀代の魔道師が生涯かけて計算しうる量の数倍を瞬く間に処理しながら、シリウスは更に言い募った。
「死ぬから不完全なんじゃない、死なないから不完全なんだ。僕達は人間として生まれたのだから、人間として死ぬものなのさ。それが摂理。それが完全」
「世迷い事を。より上が目指せる状況で下位に甘んじることの何処が完全か。寝言も休み休み言うがいい」
脳神経が焼ききれそうなほどに処理を続け、やがて計算の見通しが立った。持てる技術と知識を総動員しても、式の展開に数十秒の時間がかかる。ついでに判明した反動、即ち代償は――――まあ、納得の行く程度。
「たわけ、と返そう、不死の王。いいやただの王よ。貴方の不死のシステムは解けた。
これは、この呪法は――――存在を、固定する。対象が死亡したさい、固定されたその瞬間に戻り存在が再構築されるといった、そういうからくりだろう?」
「――――それが、どうした」
「なに、僕は貴方の苦労を労おうとしているだけだ、不死の王。この呪法は確かに不死を作り得る。実例なら貴方の目の前にいるのだからね。
しかし王よ、これには、この呪法は貴方の手によるものだけではあるまい。そうでなければ僕と彼らと、貴方の相違の説明がつかない。――――貴方は勤勉だ。涙ぐましいほどに努力家だ。対象もなく、質問も確認も取れない状況で、中途半端な呪法をよくここまで洗練できたものだ」
ぱちん、とシリウスは指を弾いた。これが最後だ、と思いながら、自分の知る全ての補助魔道式を二人の仲間に行使する。
「貴方自身に掛けられた呪法は完全ではなかった。肉体と、精神と。その両者が別々の時間軸に固定されたのだろう。先に施されたのは精神の固定。肉体の固定は、貴方が死んだ後に施された。違うか?」
「――――そうだとしたら?」
「そうだとしたら――――不死の王、貴方は言葉通り死にながら生きていることになる。先に肉体が固定されたのならばこんなことにはならなかった。精神とは肉体より埋まれ出づるもの。肉体無くして精神はありえないが、精神無くとも肉体はありうる。だが精神だけ死ぬことなどはありえない。精神が死ぬときは、何かしら肉体に傷害が生まれたときだ。脳の一部が欠けたとしたなら、そのようなことにもなるかも知れぬ」
シリウスはラーシャに視線を向けた。こちらの意図が知れぬのだろう、ラーシャは僅かに戸惑った瞳でこちらを見ている。背中に感じるアヤの視線も、こちらを訝るそんな視線。
この二人が知ればどんな顔をするだろう。これが、この口上がただの時間稼ぎだということを。
「時間的に固定された精神は肉体とは別に存在を開始する。しかしそれに気付くのは、実際に肉体が死んでからだ。王よ、貴方は戸惑っただろう。死して尚精神はあり、しかし周囲に何も伝えることは出来ず――――肉体が固定されたのは僥倖だったか?
時間軸の一点に固定された肉体は、波から点に移り精神と同等の存在になった。しかし、既に死んだ心臓は脈を打たぬし脳は思考をしない。やがて処理を成されて見事木乃伊の仲間入りだ。ただ固定されたが故それ以上腐敗は進まず、欠けることも無かった。何、時間はごまんとある――――貴方は模索した。死んだ肉体を動かす術を。そして辿り着いたのだろう、結論に」
シリウスはとん、と杖の先端で床を突いた。
音もなく広がる魔方陣。床に光が走り、シリウスを中心とした六紡星が描かれる。
「肉体と精神は異なった瞬間で固定された。貴方の精神は肉体からかけ離れた場所で存在し続ける。肉体をどれだけ壊しても意味が無い」
「ならば、どうする? 我が精神を打ち砕くか?」
「妄想を言うな、不死の王。精神など所詮砂上の篭絡。物質として存在しないものが、どうして打ち砕ける」
シリウスは笑った。微笑んだ。
「だが、ああ、王よ、それはある意味正しい。確かに精神を打ち砕くことは出来ないが、精神の苗床の肉体を潰すことなら出来る。それによって確かに貴方は肉体的にも精神的にも死に、僕に施された呪法は履行者を失い停止する。そうだろう?」
「――――ふむ?」
考えたこともなかった、という風に、オシリスが頷いた。骨だけの指が、頭蓋に皮膚を貼り付けただけの顎をなぞる。
「なるほど、確かにそうであるかも知れぬな。だが、仮にそうだとするのなら、汝の呪法は既に解かれたということになるのではないか?」
「違うよ。言っただろう、王よ。貴方の肉体と精神は別の点により固定されたと。また言ったはずだな? 精神は肉体より先に点として固定されたと」
つぅ、と汗が頬を伝う感覚。
「その差が問題なんだ。例え僕が貴方を灰燼に化したとして、その際、先に死ぬのは肉体だ。この瞬間、肉体の死に伴い精神が死ぬかと言えば、そういうわけではない。何故なら、肉体は既に死んでいるのだからな」
誰かが息を飲む気配。それがラーシャとアヤのどちらかなのか、それを探る余裕すらない。
「肉体はただの縁だ。精神の成り立ちを補助しているにすぎない。そして肉体が滅び、縁を、精神の型を失った貴方は、言わば仮死状態となる。この瞬間確かに貴方は死んでいる。何故ならそのとき、僕ははっきりと自覚した。この身が不死でなくなったとね」
オシリスの身体を砕いたとき、焼失させたとき、叩き切ったときに感じた気だるさを思い出す。あれこそ証。この身を人ならざるものにしていたものから開放されたという証。
ずきん、とこめかみに痛みが走った。常人ならばそれだけで発狂し死に至るだろう、錐で貫かれるより何倍も激しい痛み。
それでも、シリウスは笑みのまま口上を続ける。
「別に固定された精神と肉体は別に死を迎える。だが先に述べたとおり肉体は既に死んでおり、貴方はそれを精神だけで動かしているにすぎない。でなければ筋肉の無いそんな身体で動けたりするものか。肉体の死は精神の死の呼び水とはならず、精神は仮死に至る。そして肉体は基準点に戻り再構築され、精神は再び花開く。だが、そこに」
がくり、と膝の力が抜ける。がつ、と杖を突き、倒れそうになった身体を必死で支える。
振り返ったラーシャが、驚愕に息を飲むのを見る。ああ、自分の身体は間違いなく酷使されているなと思いながら、シリウスは最後の言葉を繋いだ。
「だが、そこに、仮にとはいえ貴方が死ぬ瞬間が、僕が呪いから開放される瞬間が来る。
だから僕は、貴方をその瞬間に固定しよう」
ああ、もう限界。
会話に廻していた意識をカット、全身全霊を、自分ですら考えたことの無かった魔道式の構築と演算に傾ける。頬を伝う汗は明らかに量を増し、足元には小さな水溜りが出来ている。だが、それでも、少年は計算を続けようとして、
「――――ラーシャ、アヤ」
掠れた声で、心からの信頼を。
「三十秒だけ、アイツを頼む」
驚愕に見開いたラーシャの瞳に理解の色が浮かんだのを確認し、シリウスの意識は完全に演算に向けられた。
ラーシャは剣を構えなおし、目の前の敵、オシリスに向き直った。
不死の王。滲み出す重圧と、見た目が催す嫌悪。それに真正面から耐えながら、ラーシャは剣を構えた。
ぽつりとオシリスが、自分など見もせず、シリウスだけを危険対象として見るオシリスが呟いた。
「馬鹿なことを」
その言葉はシリウスに届いたのだろうか。
いいや、おそらくは、否。
ラーシャはシリウスの表情を思い出す。先ほど振り返ったときに見たシリウスの笑みを思い出す。笑みと、其処に浮かんだ幾つもの脂汗を。紫に染まったその唇を。死人のように生気無かったその顔を。
シリウスはいま、必死だ。そんな彼に、こんな奴の言葉が届くはずが無い。
「時間を止めるとでも言うつもりか?」
オシリスの声には嘲笑の色が濃い。
それは、確かにラーシャの神経を逆撫でる。
だからラーシャは、静かに走った。
「まあ、何であるにせよ、それほどまでに計算に集中するのはどうかと思うぞ」
アヤがこちらの名を呼び、刹那に舌打ちした。
制止など、もとより聞くつもりが無い。
「教訓だ。阻ませていただく」
「させない」
短く、ラーシャは呟いた。
詰めた距離の最後に、右足でたんっ、と床を蹴りながら剣を振り上げる。
白銀の細刃は、シリウスに向け伸ばされた腕を半ばほどで叩き切った。
む、とオシリスが不快気にうめく。
「邪魔をするな、小娘」
「貴方に、シリウスの邪魔は、させない」
振り上げの斬撃は、あくまで次に繋がる予備動作。表情の読めないオシリスの顔に、明確な侮蔑を感じ取りながら、ラーシャはそれを断ち切るように剣を振り下ろした。真正面からの真正直な一撃は、オシリスの頭頂から胸板までを一直線に両断する。
たん、と降り立った時には、切り捨てたその傷が塞がっている。目に映ったのは、邪魔なこちらを叩き潰そうとするオシリスの右腕。その付け根に矢が突き立ち、脆い身体はぼろりと腕を落とす。
横に低く飛びながら、ついでとばかりに剣を水平に構え片足を切断する。僅かに崩れたバランスは、されど見たときには既に元通り。
だが、その顔は、確実にこちらとアヤを見ていた。
苛立たしげに、王は呟く。
「不快だ。何故、その程度の技量で我の邪魔をする」
煙を払うかのような動作で、オシリスは大きく腕を振るった。広く、放射状に広がる破細が床に細かい穴を穿ちながら迫る。右に飛んでも、左に飛んでもおそらくは無駄。ならば残った道は一つしかない。
ラーシャは足の腱を見限る決意で大きく後退し、破細の波が自分のいた場所で止まったことを確認する。着地の慣性を無理やり殺し、刹那の時隙で前に跳ぶ。足首に鈍い痛みがあったが、いまは無視。剣の間合いに入る直前、オシリスの足に矢が突き刺さり、そのバランスを大きく崩させる。
気合と共に薙がれた剣は、オシリスの身体を逆袈裟に叩き切った。
乾燥した骨を砕く手応えをしかと感じながら、だがそのまま横に飛び退くラーシャ。感じた悪寒は正しく、しかし遅く、ばぢっ、と鈍い音が耳に届き、気が狂いそうな痛みが脳裏に響いた。
床に降り立ち、頬を伝う血に気付いた。出血場所は左側頭部。髪の一房が無残にも切り取られ、舞い散るようにオシリスの足元に落ちている。傷は――――深くは無いが、最高に痛い。
ああ、でも。気が狂いそうな痛みに、逆に意識を明瞭にされながらラーシャは思う。
(シリウスの言葉通り)
ぽたりぽたりと、顎を伝った血が床に落ちる。傷口は見えないが、たぶん、皮膚がささくれ立ったようになっているのだろう。それほど広い範囲ではないのがせめてもの救いか。
(戦闘技術だけなら――――私達の方が、上)
気休めに傷口を拭う。べたりと付着した血液を己の服の端で拭い、改めてラーシャはオシリスに向かい直った。
その口が、自然と言葉を結ぶ。
「何故って、それは」
拭った筈の血液は、すぐにまた傷口から溢れて頬を伝う。
ああ、とラーシャは己の怒りを自覚した。こんな顔ではシリウスに顔向けできないではないかと、泣きそうなほどに恥ずかしい思いで自認した。
「私達が、シリウスの仲間だからに決まっているでしょう」
ちらりと伺ったシリウスはかすかに俯き、杖で身体を支えながら小さく何かを呟いている。呟きの内容までは聞き取れないが、彼が必死で、それこそ周囲に気を配る余裕すらないほどに集中しているのが分かる。
剣を構える。血を流した意識は、恐怖という鎖からこの身体を開放する。
最後に一度息を吐き、ラーシャは疾走を開始した。
意識の九割九分九厘――――全てを傾けたと思っていながらも、こびり付いた意識の欠片。意識を一杯のコップにたゆたう水と喩えたなら、その全てを溢したあとコップの内側に僅かに残った水滴。
それがシリウスに夢見せたのは、不思議とラーシャではなく、かつての義姉の記憶だった。
あれは、いつのことだったか。
記憶が混同している。過去と現在とそして未来と、その全てがまぜこぜになり混沌とした意識を形成する。
砂漠での出会い。
姉弟子。
シモンズ家の長女。
稀代の魔術師の秘蔵っ子。
それは喩えるなら、どろどろに融けた飴のよう。
他愛無い日々。
塵溜めからの救済。
ああ、それは、確か。
思い出す。
師匠を殺してしばらく経ったあの朝を。
冗句でもなく死にかけ、何故か起きていた姉に問い詰められはぐらかしたその翌朝を。
思い出す。
目覚めたとき、この身のために泣いてくれた愛しい少女を。
――――ああ、覚えている。
紛れもなく九死に一生を得た翌朝、驚愕に目を見開き、やがて泣きながらこの身体を抱きしめた金髪の少女を。
手にしていた盆を取り落とし、それまでの押し殺した怒りも忘れ、ただごめんなさいと喚くパンドラの姿を。
(僕の、罪?)
脳が灼熱している。膨大な量の計算を前に、脳が、脳神経が悲鳴をあげている。
シリウスは強く瞳を閉じたまま、意識することなく静かに頭を振った。
(彼女は謝る必要があったのか。僕に謝られる権利があったのか)
否。
(僕の結末だ。僕の結論だ。僕の責任だ。師匠を殺したのも、姉さんに憎まれたのも、結局嫌われ切れなかったことも、求められ、応えたことも――――)
パンドラは幸せだったのか。不幸にさせた覚えは無いが、幸せにした覚えも無い。
姉の最期の顔を思い出す。恐怖に染まったその顔と、満面の笑みを浮かべた笑顔が交互に浮かんで消えた。
(これは罪じゃない。傷だ。僕が負った、僕が負わせた消えない傷だ)
意識に余裕が生まれる。計算のほぼ全てが終了し、式の見直しが始まる。
それまでの負荷が急減し、その差異に耐え切れず、ばきん、と音を立て、姉のアークワンドが半ばほどで二つに折れた。
小さく、シリウスは口の端を歪めた。笑うように、泣くように。
(僕はそれを忘れない。仮にどれだけ幸せになっても、姉さん、あなたと、あなたと過ごした日々と、あなたを殺したことを絶対に忘れない)
だから。
(だから、そろそろ)
ゆっくりと、手をかざし。
(だから、そろそろ、僕は道化の奇術師をやめようと思う――――)
会心の笑みと共に、シリウスは力強く指を弾いた。
ぱちん、と聞きなれた音が聞こえた。
ラーシャはオシリスの肩を撫でるように切り、そのまま後ろに飛び退き顔を少年に向ける。青い、否、白い光を放つ魔方陣の中心に佇んだ少年は、足元に折れた杖を従え、その瞳を硬く閉じ、右腕をオシリスに向け突き出していた。
「――――む?」
その姿に、オシリスが一瞬、動きを止めた。
「ラーシャ!」
シリウスの叫び声。そしてオシリスに掲げたのとは別の手が、真っ直ぐこちらに突き出される。
不思議と、その意思はすぐに悟れた。ラーシャは口に浮かんだ笑みを自覚しながら、剣を、精神修行の為に海の東の国で打たれたという剣を、シリウスに向かい投げつける。
シリウスはそれを、瞳を閉じたまま受けめた。くるり、と細身の白銀は空中で一回転、少年は柄を両手で握り、その切っ先をオシリスに向けた。
「失せ行く御霊に、」
剣が光る。
剣の表面に刻まれた呪詞が、積年の杖と同じだけの魔力補助を実行する。
オシリスが腕を振り上げた。
その肩を、アヤの放った矢が寸分たがわず打ち抜く。
口を突いたのは、定型句。
いまの自分がいまの自分であるという、最も簡単な存在表明。
「安らぎあれ――――」
無造作に、シリウスは足元の魔方陣に剣を突きたてた。ただの鉄が石の床に、不思議と抵抗もなく突き立つ。
ぐおん、と空気が震えた。魔方陣の中で選出され演算された幾星霜の星より多量の魔力素子が、縄から解き放たれた獣のように一直線にオシリスに向かう。本来見えないはずのそれらは、その存在を歪められたが故に白く光り或いは黒く染まり、その間にある全ての色に染まる。
粒子はオシリスを捕らえ、その身体を包み込む。そしてその足元に、周囲に、等間隔に密に散らばり、あるものは時計回りを、あるものは逆時計回りを始める。
「ふむ?」
オシリスの声。
「見たところ攻撃魔術では無さそうだが、これが君の最終手段かね?」
「アヤ!」
シリウスは答えず、シーフの名を呼んだ。
それだけでアヤは察したか、刹那、どっ、という音と共に銀の矢がオシリスの額を貫いた。
シリウスは知覚する。己の身体を、限界まで消耗した身体を襲う、最後の疲労を。
だから、シリウスは叫んだ。
「ワープポータル!!」
え、と驚いたような声が耳に届く。
だが構わず、シリウスは魔力を展開した。ぎぢぃ、という、異界との扉を繋いだときを遥かに上回る不快な音が空間に木霊する。
オシリスとその周囲に展開した魔力素子の一部が転移をはじめ、転移した先から逆にこちらに残った素子を召還しようとする。大量の素子は空間に歪みを生み、そして――――
シリウスは風船の弾けるような音を聞きながら、その口元に笑みを浮かべた。
それは、あぎと。
歪んだ世界はやがて切り裂かれ、その空白を補うようにどこかの風景が姿を覗かせる。
ラーシャは息を飲んだ。
それは風景などではない。黒く淀んだ、或いは虹色に光る融けた墨。世界が切れた其処から除いているのは、そんな、理解の出来ない異界の風景。
墨はじりじりと現世にはみ出し、やがて一つの形を取った。
それがつまり――――あぎと。
鰐のそれを思わせる闇は二つに分かれ、その表現が適切であると言わんばかりにオシリスの半身を呑込んだ。
オシリスは、佇んでいる。
闇は消えた。七色に光っていた闇は、オシリスの身体を覆っていた光の粒と共に分解されるかのように解け、空気に消えた。
残ったのは、右肩を辛うじて残し斜めに食いちぎられたオシリスの下半身。
その様子を、ラーシャは食い入るように見つめていた。
多分それは、僅か数秒の空白。
思いのほか軽い音を立て、オシリスの身体が倒れた。床に倒れたそれは刹那にざさぁ、と音を立て砂となる。
僅か一盛の砂となった不死の王は、もう、何も変化しない。
それでも動くことが出来ず、オシリスだったものを睨みつけるラーシャに、シリウスの声が掛けられた。
「大丈夫だよ」
それはいつもと同じような、柔らかい、安堵の声。
「なんとか、成功した」
「本当?」
シリウスに顔を向ける。少年は床に方膝をつき、肩を揺らして呼吸をしながら答えた。
「うん――――僕が言うんだから間違いないよ。あいつは死んで、その瞬間に固定された」
「ポータルを使って? どうやったの?」
足が痛む。それまで無視していたその痛みに僅か顔をしかめながら、ラーシャはシリウスに歩み寄った。反対の側から、緊張のせいか、げっそりとした様子のアヤが歩み寄ってくる。
立ち上がる気力も残っていないのか、そのままの姿勢でシリウスは言った。
「固定したというか、時間の無い世界に送り込んだんだ」
虚数空間って知ってる? と、シリウスは尋ねた。
「存在しない世界。正と負が同値となりそれら同士では大小の比較すら出来ない世界」
シリウスが杖代わりに使っていた剣が、音もなく砕けた。柄だけになったそれをごめんね、と言いながらラーシャに返し、シリウスは続ける。
「それは、全てが否定される世界。存在することすら許されず、全てが虚ろになる偽の世界」
不意にラーシャは、シリウスが泣いていることに気が付いた。
(――――涙?)
「勿論、そんな世界が存在するわけじゃない。理論上存在すると仮定された、本当の偽の世界だ。そんなものを実在させ、其処に道を繋げたんだ。本当に、疲れたよ」
いや、違う。
それは、閉じた瞳の端から流れているそれは決して涙などではない。
震える声で、ラーシャは問うた。
「シリウス、あなた、まさか――――」
少年が浮かべたのは、照れたような微笑。
アヤが、苦渋に顔をしかめる。
「この程度の跳ね返りで済んだんだから、歓迎すべきだよ」
「シリウス」
疲れた顔で言うシリウスのその肩を、ラーシャは力強く掴んだ。
「痛いよ、ラーシャ」
少年の不平を無視して、ラーシャは尋ねた。
「シリウス、あなた、目が、まさか」
少年の照れたような笑み。
ああ、でも、分かる。その瞼が妙に落ち窪んでいる。そこにあるべきものがないせいだ。
「……まあ、目ぐらい」
観念したか、シリウスは呟いた。
「無くても、何とかなるさ――――」
くい、と少年が指で、自分の瞼を上げさせる。
其処に広がっていたのは虚ろな空間。
本来眼球があるべき場所に、いまはただ喰らい虚が広がっている。
何かを続けようとしたシリウスを、ラーシャは両手で抱きしめた。
シリウスは何かを言おうとして、しかし何も言えず、その背中に片手を廻し優しき抱き返す。
その姿勢のまま、シリウスは顔を上げた。見えないが、其処にアヤがいるということは気配で知れる。笑みを、紛れもない心からの笑みを浮かべながら、シリウスは慇懃に告げた。
「さて依頼主、これで契約完了、お仕事終了でよろしいかな?」
「ん? ああ、勿論」
笑いを含んだようにアヤは言う。
釣られて笑みを浮かべながら、シリウスは心からの安らいだ声を、おそらくは生まれて初めて口にした。
僅かに動いた部屋の空気に触れたか、砂の山が崩れ、微細に舞った。
それをしかと見届けて、ラーシャはシリウスを抱く手に力を込めた。その耳元で、少年が声を上げる。
「さあ、じゃあ帰るとしましょうか――――――――」
そうして一行は、アヤの持つ蝶の羽を使いピラミッドから脱出した。
外に出れば、周囲は冷え込んだ夜の砂漠。
星が、本当に綺麗に光っていた。