小夜曲
かくて、シリウス=シンシリティーという人間は世界の様々な裏から姿を消し、
そしてシリウス=シモンズという人間が表舞台に立つこととなる。
広い部屋に、欠けたる所無い望月の静かな光が差し込んでいた。
部屋の広さに反し、その調度品は決して多くは無い。鏡台と机、本棚、衣装箪笥、天蓋付きの寝台が目に付くだけで、それ以外の煌びやかな家財は一切見当たらない。四年前。家人が、特に愛孫が伴侶を連れて帰ってきたことに感涙した祖父があれもこれもと揃えようとしたが、それを拒んだのは他でもない、当人達だった。
周囲の好意をよそにした、実務的な家財ばかりが目に付く部屋。そこいるのは、その愛孫の、彼にとっては妹の、伴侶となることを決めた一人の青年。視力亡き、いつも笑みを浮かべている青年だ。
ノックもなく部屋に入った彼は、何の前置きもなく青年に、義弟に声をかけた。
「失礼する」
「どうしました?」
驚いた風もなく、義弟はその顔をこちらに向けた。其処に浮かんでいるのは静かな笑み。
「どうしたじゃないだろう。パーティーはまだまだ続いているぞ?」
「知ってます。ちょっと休んでただけですよ」
彼の言葉に、義弟は苦笑した。
軽く目を閉じて耳を澄ませば、廊下から或いは開かれた窓の外から、賑やかな喧騒が伝わってくる。それは喜びによって構成された本物の賑やかさで、聞いているだけで心が躍るような、そんな気にさえさせるものだ。
袖を引かれ、彼は我に帰った。傍らに立つ小さな姿を見下ろし、そうだったな、と一人頷く。
「どうしました?」
「お前を探している人間を連れてきただけだ」
首を傾げる義弟を尻目に、彼は小さく頷いた。
彼の傍らに立っていた少女が、軽く部屋を駆け、シリウスの傍に――――彼女の父親の傍に近寄る。
ああ、と義弟は、誰よりも深みある、愛しげな声で呟いた。
「シスカ」
義弟が名を呼ぶと、少女は、まだ齢三つを数える程度の少女は、馴れた動作で義弟の膝の上に腰掛ける。
僅か苦笑したような義弟の顔が、それでも幸せを噛み締めているのを確認し、彼は身を翻した。部屋のドアを開け、肩越しに呟いて廊下に出る。
「暫くしたら戻って来い。妹にはそう伝えておく」
義弟が苦笑を返すのを気配で知りながら、彼は義弟の――――正確に言えば妹夫婦の部屋を出た。
流れるような髪を手で梳きながら、ああ、これは絶対に母親譲りだな、と思う。
「お父さん」
膝の上に背中を向けて座った少女が振り返る気配。
シリウスは少女が落ちないように身体の重心を調整しながら、なに、と聞きなおす。
「お父さんはパーティー、出ないの?」
「出るよ。少し疲れただけだからね。
……ラーシャはどうしてる?」
「お母さんは、お父さんを探してたよ」
さも当然の如く言ってくる愛娘に苦笑して、シリウスは腕の中にすっぽりと収まってしまう少女を優しく抱きしめた。僕が親か、と皮肉交じりに思う自分と、親馬鹿確実だな、と苦笑交じりに思う二人の自分がいる。
そう、と頷き、シリウスは流れている空気を頼りに顔を窓に向けた。頬を冷やりと撫でるのはあの日から何度目かになる冬の夜気。
暫くそうしていると、どうしたの、と腕の中で娘が声を上げた。
「どうしたの、お父さん」
「どうした、って?」
「考え事?」
言われ、シリウスは息を飲んだ。飲み込んだそれは、ため息と一緒に排出される。
隠せないな、と小さく呟く。この子が聡いのか、それとも家族とはそういうものなのか――――両方だろうとシリウスは思考。なにせこの子は自分とラーシャの血を、それぞれ半分ずつ引いているのだから。
「ちょっとね。悩んでるんだ」
「どうしたの?」
「シスカは――――お父さんの目が見えないってこと、知ってるよね?」
シリウスの問いに、うん、と平然と答えるシスカ=シモンズ。それを感じ、強いな、と思う。
窓の外に顔を向け、頬に当たる月明かりを感じながらシリウスは続けた。
「これはね、僕が失敗したから、その罰なんだ。
僕は、君のお父さんは、みんなに責められても仕方ないことをした。だから、このぐらいの罰は仕方ないと思ったし、受け入れようと思っていたんだけど」
呟きながら思うのは、妻、ラーシャの姿。最後にそれを見たのは四年も前で、つまり千日以上前の話となる。それを改めて認識し、シリウスは気が遠くなるのを感じた。
「お父さんは悪いことをしたの?」
「うん。ごめんなさいって何回謝っても許してもらえないぐらいに、いけないことを。
でもね、シスカ。お父さんはもう、我慢できないんだ」
ぎゅ、と、愛娘を身体を優しく抱きしめる。
「こんなことをすれば、また馬鹿なことを、って怒られるかもしれない。でも、僕はもう我慢できないんだ。ラーシャと君を、これ以上――――見ないでいる、こと、なんて」
その衝動は、長い間、それこそこの目が爆ぜたときからずっと存在し、静かに咆哮を挙げていた。その存在を主張していた。それを覆い隠したのは、罪の意識に他ならない。しかしどれだけ隠したところでそれは確実に存在し、挙句砂に水が吸い込まれるように静かに強く大きく、耐えがたくなっていっていた。
だから単に、その限界が来ただけの話。
(それに)
「僕は君の、父親だから」
シリウスはシスカを畏れている。自分の能力を、そっくりそのまま受け継いでしまった愛娘を、泣きそうなほどに畏れている。
「僕は君を、導かなきゃいけないんだ――――僕と同じ蹉跌をきたさぬように。僕と同じ苦しみを味あわないように。それが、父親ってものだから」
腕の中でシスカが、ん、と首をかしげている。いまだ苦しみを知らぬ愛娘。いずれ、いずれ必ず、自分の能力に恐怖し、悲しむことがあるだろう。それを回避することなど出来ない。その悲しみの種類はわからないし、程度だって、その実自分には知れない。だが、もしその悲しみを味わったとき、この少女が道を間違えそうになるのなら、自分はそれを正さなければならない。それが父親としての役目で、同時に、
(多分、僕にしか出来ないこと)
かつて道化の奇術師と呼ばれた、この自分にしかできないこと。
少女の才能の元となり、大きな悲しみと間違いを経験した自分にしか、できぬこと。
だからそのときのため、自分は万全の状態にならなければならない。何よりも、真正面から――――この少女と向き合うために。
「お父さん?」
不審気なシスカ。
シリウスは微笑んで、自分の顔に手を触れた。
計算は、実に一瞬。
小さく指を弾けば、すっかり慣れてしまった二つの洞に、久方ぶりの充実感が戻る。
何かが、懐かしすぎる何かが、頬を伝った気がした。
「お父さん? 泣いてるの?」
違う。これは単なる生体反応に過ぎない。
実に四年ぶりに復活した眼球が、網膜が、神経が、その反動に自動的に反応しただけの話。
――――ああ、だとしても。
「そうかも、しれないね」
涙を拭い、シリウスは言った。
「あまりに――――自分が幸せだって、思えたから」
自分の膝の上に座り、肩越しにこちらを見ている少女。
一本一本が針のように真っ直ぐで、しかし硬さを微塵も感じさせないその髪を見て、思う。
子供らしい丸い顔つきに、どこか真っ直な、凛々しさを醸し出す瞳を見て、思う。
「シスカは、本当に――――ラーシャ似だね」
シスカは嬉しそうにうん、と答え、こちらが何かを言う前にふわりと膝の上から降りた。腕を取るシスカに向かい、シリウスは優しく言う。
「じゃあシスカ、お母さんの所まで案内してもらえるかな?」
「うん!」
満面の笑みで頷いたシスカに、シリウスは思う。
ああ、そう。
この笑顔が、見たかったんだ――――
自慢したことはないし、自慢に思ったこともないが、シモンズ邸の庭はかなり広い。
パーティー会場を一周し、ラーシャは疲れた息を吐いた。母親に押し付けられたドレスは鴉の如く漆黒の、重厚でありながら動きやすいという不思議な代物だった。それに感謝しなければならないだろう――――近くのテーブルの水差しで喉を湿し、ラーシャは思う。会場をぐるりと廻ってみたが、彼女が求める者の、夫の姿は見当たらなかった。尤も、こう人数が多くては見逃したということも十分にありえるだろう。彼女の知人は言うに及ばず、かつて騎士団一の腕前と言われた祖父、やけに顔の広い母、まだまだ現役近衛兵の父、そして元騎士団きっての有望株と期待される兄。その友人知人上司部下達が、いまこの庭に集っているのだ。その人数はとても一〇〇で足る程度の話ではない。
(今日の主役は、私たちなのだけれど)
パーティー自体も、時刻も既に宵。存分に世間話などに花を咲かせるゲストたちを見て、ラーシャは苦笑交じりにそう思う。このパーティーの主役は、名目的な招待主は紛れもなく自分とシリウスなのだ。
そう、今日は、自分とシリウスの結婚記念日。
まあ、その片割れが行方不明では主役も何もない――――そう思いながら、改めて周囲を見回す。
そして、ラーシャは自分の夫を見つけた。あれだけ探し回ったのが馬鹿馬鹿しく思えるぐらいにいつも通りに優しい笑みを浮かべ、シリウスはシスカに腕を引かれ歩いている。その向かう先が自分だということは、シスカの目線で簡単に知れた。満面の笑みを浮かべたシスカは堂々と胸を張り、父親譲りの優しい微笑を浮かべながら人の間を抜け、淀むことなく前に進む。
道中声を掛けた幾名かのゲストに軽く応対を返し、シリウスはほんの少しの時間を掛けてどうにかラーシャの前に辿り着いた。
「……どこに行ってたの?」
「ちょっと疲れたから、部屋で休んでたんだよ」
悪びれも何もない返事。
(私がどれだけ心配したと――――)
言いかけて、ラーシャは息を飲んだ。
ぐいと廻されたシリウスの手が頭を固定し、少しだけ距離を詰めた青年のその唇が、ラーシャのそれをぴたりと塞いだからだ。
心の準備も何もしていなかったラーシャは、瞬間的に紅潮する自分を認めた。未だに新婚気分が抜けないと揶揄される自分達だけど、ああ、まさか未だにこんなにうぶだなんて――――
「どうしたの、ラーシャ」
微笑みながらのシリウスの問いに、ラーシャはようやく我に返った。既にシリウスは唇を離し、何事もなかったかのように微笑んでいる。
「どうしたのって、シリウス、あなたこんな場所で」
恥ずかしくないの、と責めようとした句が、続かない。
ラーシャは呆然と、シリウスの顔を見た。正確には、そこに光る二つの輝きを。
随分と懐かしい、真っ直ぐにこちらを見つめてくる、瞳を。
言葉が浮かんでこないこちらを察したか、シリウスが苦笑混じりに言葉を紡いだ。
「治そうかどうか、本当、迷ったんだけどね」
「お父さんは、お母さんと私を見ないでいるのが耐えられなかったんだって!」
大きな声で、割と恥ずかしい言葉を叫んでくれる愛娘。
それまではせいぜい数名しかこちらの様子を見てなかったが、その言葉のあまりの大きさに、自分達に向けられた視線が急増する。
あっという間に衆人環視の状況におかれ、間違いなく元凶のシリウスですら、どこか恥ずかしげに頬を緩めた。
ええと、と呟き、シリウスは今更な事を口走った。
「そんなわけだから、改めて、よろしく」
「……馬鹿」
え、とシリウスが疑問符を挙げたときにはもう遅い。
衆人環視だろうがすぐ傍ににこやかに笑う愛娘がいようが、少し離れたところでにやける母に感涙する祖父、嘆息する兄――――そして実は最後まで足掻き反対した父が卒倒するのが見えようが――――知ったことか。
ラーシャは仕返しとばかりにシリウスの首に腕を廻し、
瞬くばかりの素早さで、
涙ながらのキスをした――――――――
(【永久に唄わるセレナード】 完結)