幻想郷のその境界上にある、人の訪れない博麗神社。
 その縁側で、神社の巫女たる博麗霊夢と普通の魔法使い霧雨魔理沙が差し向かい、昼間から将棋を指していた。

「そろそろ寒くなってきたわね」
「そうだな。そろそろ栗の季節も終わりだぜ」
「食欲の秋、って? 秋は食べることだけじゃないでしょ。読書とか」
「お生憎様、私にとって読書は日課だ。昨日も今日も読書の一年だぜ」
「じゃあ妖怪退治」
「それも一年中だな」

 にしし、と魔理沙は笑い銀を前に進めた。

「飛車取りだぜ」
「甘いわね」

 へ? と疑問符を上げる魔理沙。
 霊夢は二本の指で手持ちの桂馬を摘むと、それを盤の端に置いた。
 ぱちん、と心地よい音が縁側に響き、げ、と魔理沙が顔を青くする。

「なあ、これって」
「知らないの? 王手って奴ね。ついでに詰み」
「待った。ちょっと待った」
「待たない」

 にべもなく言い捨てて、霊夢はすっかり冷めてしまった緑茶をずずと啜った。
 ひょう、と不意な風が吹く。肌を撫でたそれは、思いのほか冷たかった。
 将棋盤の向こう側でうんうんと唸る声が聞こえる。腕を組んで盤を注視する魔理沙から視線を外し、霊夢は晴れ渡った空を見上げた。雲一つない空は驚くほどに澄んでいて、新たな季節の到来と同時に秋の終幕を静かに主張している。何処からか甲高い鳥の鳴き声が届き、消えた。
 ふう、と霊夢は湯飲みを置いて息を吐く。

「いい加減諦めなさい」
「うう……」

 力なく項垂れる魔理沙。
 霊夢の本日の戦歴、十三勝零敗が決定された瞬間だった。





博麗巫女は幸せな毎日の夢を見るか?






 夕日が沈み、夜の帳が下りた頃。
 馴染みの幼い吸血鬼が博麗神社に姿を見せた。

「霊夢ー」
「こんばんわ、レミリア。けど入ってくるなら玄関から入ってきなさい玄関から」

 夜空から縁側を経て直接部屋の中に入ってきたレミリアを、霊夢は食後のお茶で喉を潤しながら迎えた。
 レミリアは霊夢が着く机に近づき、その隣に当然のように腰を下ろす。そして、湯飲みと急須だけが乗った机を見て問いを発してきた。

「もう食事は終わったの?」
「今しがた、よ。それで、レミリア。今夜は何の用?」
「用というより意見ね。あの白黒が夕方からこっち、ずっとパチュリーと一緒に図書室に篭ってるんだけど、何か心当たりは?」
「無いわね」
「"霊夢にこてんぱんにやられた"とか言ってたらしいけど?」

 さすがの魔理沙も二十七戦完敗は悔しかったらしい。

「夢でも見たんでしょ」

 言ってお茶を啜る霊夢。
 レミリアは疑わしそうな視線をこちらに向けたあと、まあいいわ、と呆れたように呟いた。

「まあそんな訳で、パチュリーを取られちゃったからこっちに来たのよ」
「ん? メイド長は?」
「咲夜はいま里に下りてるわ。備品の買出しと、あと月の民にも少し言付けがあったから、それを頼んだの」
「へぇ。じゃあ、今夜は一人なんだ?」
「そうよ。嬉しい? 霊夢」
「変なこと言うんじゃないわよ」

 にこり、と笑って顔を迫らせるレミリアを片手で押さえつける霊夢。
 レミリアはつまらなそうな顔をして霊夢の手を回避し、机の上に頬杖を付く。その姿勢から顔だけでこちらを見上げるレミリアの顔を見て、観念したかのように霊夢は立ち上がった。

「今日は泊まってくの?」
「ええ。勿論」
「じゃあちょっと待ってなさい。準備してくるわ。ついでにお茶も淹れてくるわね」
「悪いわね、霊夢」

 笑顔で言うレミリアに僅か苦笑して、霊夢は立ち上がった。
 襖を開き、隣の部屋に進もうとする。寝所に繋がるその部屋の灯篭には明かりがつけられておらず、いままで居た部屋の明かりが唯一の光源となり暗闇を切り裂いていた。
 暗闇に眼が慣れるのを待って、部屋に足を踏み入れようとしたとき。
 微かな重みが背中に掛かり、れいむ、と耳元で幼い吸血鬼の柔らかな声が聞こえ、そして。
 ちくり、と微かな痛みが首筋に走った。





 埃のにおいがする図書館で、本棚に囲まれながら普通の魔法使いと不健康な知識の少女は将棋を指していた。
 天窓から差し込む星光は世界を照らすに足らず、テーブルに設けられた燭台にも明かりが灯されている。
 ゆらゆらと揺れる蝋燭の光にあわせ、二人の影もゆらゆらと揺れていた。

「それで、何回負けたの?」
「二十七回だぜ」
「それはもう聞いたわ。今日だけじゃなくて、通算で、よ」
「……百三回、だぜ」

 歩を進ませながら魔理沙が答えると、パチュリーはため息を吐いた。
 将棋盤の傍らにあるハンドベルを鳴らし、司書の小悪魔を呼ぶ。

「何ですか?」
「勝敗表、何処だったかしら?」
「"紅白対白黒将棋番付"ですね。お待ちください」
「ちょっと待て。なんだその題名は」

 遠ざかる小悪魔の背中を眺めながら、金を横に動かした魔理沙は無表情でそんなことを尋ねた。
 対するパチュリーは香車を三升進め、答える。

「聞いての通りよ」
「そんなの点けてたのか?」
「ええ。この練習戦もちゃんと記録しているわ。最近は月の民との戦歴も増えたわね」
「へぇ。あいつらも将棋やるのか」
「月の姫は将棋よりも囲碁が好みみたいね。薬師は何でもござれみたい。兎たちとは試合にならないわ」
「ふうん。じゃあ今度対戦しに行ってみるか。っと、これで飛車角両取りだぜ」
「ええと、この状況から逆転する手段は……」
「対戦中に指南書読むのは卑怯だと思うぜ」
「ならあなたも、いま袖元にしまった本を元の場所に戻しなさい」

 うふふ、と笑いながらパチュリーがそう言って本を閉じると、えへへ、と笑いながら魔理沙はくすねた本を書棚に戻す。
 パチュリーはため息一つつき盤面を見下ろすと、その顔に真剣な表情を浮かべた。それを眺めて、魔理沙は言う。

「なあ、パチュリー」
「ダメ」
「……何がだよ」
「その本も持っていくのはダメ。読むならここで読んで」
「了解。そっちはまだ掛かりそうか?」
「……悔しいけど」

 難しい顔をして答えるパチュリー。その眼は既に盤上に固定されており、こちらを見ていない。
 魔理沙はそんな友人に苦笑して、遠慮なく手近な本を手に取った。





 微かな痛みのあとすぐに訪れたのは、柔らかくくすぐったい舌の感触だった。
 小さな舌は先ほどの痛みの場所を癒すかのようにちろちろと動き、ざらりと皮膚を舐め上げる。
 その感触がむず痒く、僅かに霊夢は身をよじった。

「くすぐったいの? 霊夢」

 耳元。
 首筋に吐息が掛かる距離で、幼い吸血鬼の甘やかな声が聞こえた。
 霊夢は動かず、ただ吐息した。噛まれたかと思ったが、どうやら軽く歯を当てられただけらしい。

「ええ。止めてくれない? レミリア」
「いいわよ。霊夢の言うことなら、聞いてあげる。けど霊夢、その代わりにこっちを向いて」

 言われるがまま、霊夢は肩越しに声の方向に顔を向けた。
 すぐ後ろ。
 言葉の通り眼と鼻の先に、赤い、吸い込まれそうなほどに紅い紅魔の瞳が見える。
 レミリアは微笑んだ。

「あなたは私を恐れないのね、霊夢」
「何のこと?」
「"そのこと"よ。霊夢、あなたは何も恐れないのね。博麗の巫女にとっては吸血鬼も亡霊の姫も、月の罪人もみな同じ。何も恐れはしないし、見下しもしないのね」
「そうでもないわよ。迷惑な連中は躊躇わず片付けるわ。弾幕ごっこでね」

 霊夢の言葉に、幼い吸血鬼はくすり、と笑う。

「知っているわ。それが博麗霊夢だもの。私を恐れぬ唯一の人間よ」
「二人ほど忘れてるわよ、レミリア。魔理沙と、あなたのところのメイド長を」
「魔理沙は違うわ。あの白黒は、ちゃんと私に脅威を認識している。ついでに私があなたたちを襲うつもりがないってこともね。だからこそああも自由だし、奔放なのよ。何が危険で、何がそうじゃないのかちゃんとわかっている……人間にしても、やはり魔法使いなだけはあるわね」
「メイド長は?」
「咲夜は」

 言いかけて、一瞬、レミリアは瞳を閉じた。
 胸の前で自分の腕を抱き、慈しむように口を開く。

「咲夜は、例外よ。あの子は私にとって、そういった概念の外に立っているもの」
「本人が聞いたら狂喜しそうな台詞ね」
「かもね」

 二人は顔を見合わせ、小さく笑う。
 ふわり、とレミリアは宙に浮くようにして後ろに下がった。
 おもむろに、二人の距離が開く。

「霊夢。あなたは私を恐れないのね」

 幼い吸血鬼は、そう繰り返した。

「博麗の巫女にとっては、人間も妖怪も月の民もみんな同じものなのね」

 レミリアは憐れむように、或いは悲しむように眼を伏せた。
 沈黙する霊夢に、吸血鬼は絶対としてそのことを告げる。

「だからあなたは、何時までも孤独ひとり

 霊夢は僅かに眼を細めた。

「トップがないからボトムもない。域がないからアヴェレージもあり得ない。あなたにとっては、誰もが何処までも他人なのね」

 そうして、幼い吸血鬼は微笑んだ。

「寂しくないの?」

 私は耐えられなかったのに、と言うように。
 愁いを帯びた面持ちで、吸血鬼は微笑んでいた。
 そんなレミリアに、霊夢は思う。
 五百年を生きてきた吸血鬼は、そのどれほどの時間を一人で過ごしたのか、と。
 霊夢は苦笑した。

「寂しくはないわよ」

 謳うように、誓うように博麗の巫女はそう告げる。

「黙ってても遊びに来る知り合いは多いし、放っておいてくれるわけでもないし。それに、」

 苦笑は僅かに形を変え、自然な微笑となる。
 霊夢は頭を振って、離れた距離をゆっくりと狭めていく。
 そうして霊夢は、やさしくレミリアの身体を抱きしめた。

「それに、なんだかんだで弾幕ごっこも楽しいわ」
「それだけ?」
「凄く楽しい」
「誰と遊ぶのが一番楽しい?」
「みんな」
「……」
「……はいはい。あなたと遊ぶのが一番楽しいわよ、レミリア」

 あやすようにそう言って、霊夢はレミリアの身体を離した。
 幼い吸血鬼にくるりと背を向け歩き出し、思い出したかのように立ち止まる。
 肩越しにレミリアを振り返り、霊夢は告げた。

「話がそれたけど、お茶、飲むわよね?」
「ええ。頂くわ」

 柔らかな微笑を浮かべ、吸血鬼の令嬢は頷いた。
 霊夢も微笑を返し、今度こそ台所に向け足を進めた。
 その背中に、声が掛けられる。

「好きよ。霊夢」
「知ってるわ」

 足も止めず、博麗の巫女はそう答えた。





 三分の一ほどを読み終えて、魔理沙は本から顔を上げた。
 将棋盤の向こうでは、いまだ一手も打つことなく考え込むパチュリーの姿があった。

「そろそろ諦めたらどうだ?」
「嫌」

 にべもなく返されて、魔理沙は肩を竦めた。

「やれやれだぜ」

 小さく呟いて本の続きを読もうとした、そのとき。
 背後から突然軽やかな足音が聞こえ、こちらが反応するより早く、慣れた重みが背中に掛かった。
 振り返るまでもないが、振り返らないわけには行かない。
 魔理沙は肩越しにそちらを向いて、抱きついてきた馴染みの吸血鬼に声を掛けた。

「よう、フランドール」
「魔理沙!」

 力強く魔理沙の身体を抱きしめながら、満面の笑顔を浮かべて悪魔の妹は魔法使いの名を呼んだ。
 魔理沙はフランの頭をぐしゃぐしゃと撫で回しながら、廻された腕の力に苦笑する。

「少しは手加減してくれ。痛いぜ」
「あ、ごめんなさい」

 言われ、慌てて手を離すフラン。
 魔理沙はにしし、と笑い、フランの頭を軽く叩いた。
 フランドールは擽ったそうに眼を細めたあと、にこり、と柔らかく微笑んだ。

「ね、魔理沙。一緒に遊ぼ」
「あー? 今日はパチュリーと将棋指しに来たんだが、」

 言って、魔理沙はパチュリーを見る。
 知識と日陰の少女は腕を組み、真剣な様子で将棋盤を見下ろしていた。その様子からすると、ひょっとしたらフランドールがここに来ていることにも気付いていないのかもしれない。
 魔理沙は苦笑しながら息を吐き、そうだな、と呟いた。

「まだ時間が掛かるみたいだし、遊ぶか、フランドール」
「うん!」
「何して遊ぶ?」
「弾幕ごっこ」
「オーケィ、受けて立つぜ」

 魔理沙は頷いて席を立った。
 パチュリーが僅か顔を上げたので、少しじゃれてくる、とだけ言い残しテーブルを離れる。

「早く、魔理沙!」

 一緒に遊べるのが楽しいのか、フランドールは一人で駆け出し先に進んでいる。
 いま行くぜ、と言って、魔理沙はフランのあとを苦笑しながら追いかけた。
 そうして魔法使いの白黒と悪魔の妹が図書館から出たあと。
 パチュリーは疲れたように息を吐き、ぱちん、といともあっさり駒を動かした。

「遅いわよ」

 不満そうに呟くと、本棚の影から困ったような顔をした小悪魔が姿を見せた。

「申し訳ありません。フランドール様をお探しするのに、時間が掛かってしまいました」
「まあ、いいわ。急いでいた訳でもないし。お嬢様も咲夜も居ないから、妹様も退屈してると思ったけど、やっぱりね」

 苦笑しながら言い、パチュリーは手近に控えておいた読みかけの本を手に取った。
 あ、と子悪魔が意地悪そうに笑う。

「パチュリー様、そんなこと言っておいて、実は自分が本を読みたかっただけですね?」
「そんなんじゃないわよ……あら?」

 将棋盤で繰り広げられる形勢を見て、今更ながらにパチュリーは呟いた。

「これって……」
「詰んでますね」

 あっさりと言う小悪魔に、パチュリーは嘆息。

「魔理沙、守るのは下手だものねぇ……」

 しみじみと言って、パチュリーは窓の外を見た。
 天窓の向こうには、何時しか夜の帳が落ちている。

「とりあえず、戦歴更新頼むわね」
「承りました」





 紅魔館の上空。
 夜になってもなお紅い洋館を見下ろしながら、魔理沙とフランドールは弾幕ごっこを繰り広げていた。

「魔理沙!」

 スペルカードを取り出しながら、フランドールは笑顔で魔法使いの名前を呼ぶ。

「魔理沙、楽しい?」
「楽しいぜ、っと!」

 白黒の魔法使いはそう答え、迫る弾幕を回避した。
 悪魔の妹は頷く。

「魔理沙が楽しいなら、私も楽しい!」

 魔法使いが放ったスターダストレヴァリエをかわしながら、フランドールは言う。

「ずっと一緒に居ようね!」
「ああ、いいぜ」

 口端が歪むのを自覚しながら、魔法使いは苦笑した。



「私は、あいつとは違うからな。ずっと、友達だ」