境界線上の日常


 年の瀬も近い冬の日。
 幻想郷の界隈に本殿を構える博麗神の巫女、博麗霊夢は今日も今日とて家屋の縁側に腰を下ろし湯気を立てるお茶を啜っていた。
 吐く息が白い。身震いするほどに冷えた風が眼前の境内に敷き詰められた玉砂利の上を抜け、木々に僅か残った枝々を振るわせる。陽は山の向こうに姿を消そうとしており、既に温かみを失った紅い日差しが地面とほぼ水平に世界を染め上げていた。
 傍らの盆に用意した最中を食べながら、昼も短くなったわね、と霊夢は思う。
 秋口に起こった月の異変が紛いも無しに終結を向かえ、早数ヶ月。完成しない満月を維持していた月の民も既に幻想郷に溶け込むようになっており、異変らしい異変は起こっていない。
 だからこそ、博麗の巫女にとってはそのことが何よりも気がかりであった。
 近いうちに魔理沙に相談をしに行くことを決めた霊夢は熱いお茶を喉に流し込み、

 自分が後手を踏んでいることに気がついた。

 左手に湯飲みを保持したまま、霊夢は脇に備えた玉串を流れるような動作で、しかし最速の動作でもって持ち上げる。
 乾いた音は、二度。
 霊夢はず、と湯飲みの中を空にして立ち上がった。陽が暮れる。太陽は山の向こうに姿を隠し、僅かに残留した陽光だけが世界に残る。
 尤も、その残留も長くは続くまい。
 空は既に茜を削ぎ縹色に染まっている。気の早い星々が早々に瞬きを始め、半分の月が穏やかな光を纏い浮いている。
 足を踏み出せば、玉砂利が僅かな音を立てる。
 霊夢は小さく吐息。あの馬鹿、と頭を抱えたい衝動を我慢して玉串に視線を移す。その中ほど、やや先端よりにかけて見慣れたものが突き刺さっていた。
 色鮮やかな青の柄を持つ三寸ばかりのナイフ。その先端はやすやすと串を貫通し、反対側に鋭い切っ先を覗かせている。
 反応が少し遅れれば、そのナイフは間違いなく霊夢に突き刺さっていただろう。軌道を顧みるに、狙いは頚と胸か。どちらにしても致命傷だ。

「これは――ごっこ遊び、じゃ済まないわよ?」

 白銀の輝きを返すナイフを串より抜いて、霊夢はそれを砂利の上に投げ捨てる。硬質な高音が、僅かな濁りを孕みながら耳に届いた。
 そうして。
 何時からか鳥居の上に佇んでいた、見慣れたメイド服の少女に視線を向ける。

「十六夜咲夜」

 名を呟くが、答えはない。
 悪魔の狗を自称する女性は何の冗談か鳥居の上に立ち尽くしたまま、その手にナイフを携えている。
 その顔は俯いており、表情は窺えない。
 霊夢は嘆息した。またか、と。

「それで。何の用?」
「博麗霊夢」

 咲夜は霊夢の名を呼んだ。
 顔を上げれば、夜の闇に染まりつつある世界に静かに輝く双眸が覗く。
 その色は、紅。
 かつて妖の霧が湖を覆い、その中心たる悪魔の館で初めて相対した時よりも遥かに紅く、深く、遠い、隔絶された紅。
 咲夜はナイフの切っ先を霊夢へと向ける。鳥居の上から霊夢を見下ろし、否、見下し、その髪とスカートを夜風に靡かせながら淡々と告げる。

「お嬢様が焚滅されたわ」

 どこかで熱した鉄に油が跳ねるような音がしている。
 澄み切った冬夜の空気に、焼けた肉の匂いが混じる。

「聞こえているの? 霊夢」

 何も返さぬ霊夢に、咲夜はそう問うた。
 霊夢は頷こうとして、代わりに息を混ぜた呟きを放つ。

「――そう。それで?」

 驚きなど微塵も無い、感想など欠片も無いという霊夢の呟きに、咲夜はぎり、とここまで届くほど大きく歯を噛み締めた。
 霊夢はしかとその眼に捉える。
 銀のナイフを構える咲夜の指が、火傷を負っているかのように、否、火傷を負い続けているかのように醜く爛れていく様を。挟むナイフの刀身が、まるで灼熱の業火に曝された鉄であるかのように焼けていく様を。僅かに覗いたその犬歯が、異様なほどに研ぎ澄まされている様を。
 だから霊夢は嘆息した。事態なんて、全て裏の裏まで分かりきっている。ならばこれから行うのはただの作業だ。気合いが入る筈も無ければ、気が向こう由も無い。
 咲夜は告げる。淡々と。

「お嬢様はあなたを求めていた。対等な人間の友人として。自分を恐れぬ、命知らずな知人として。なのにあなたはそれに応えなかった」
「――」
「耐えていたのよ。お嬢様は。あなたを手にしたい、あなたを屈服させたいという衝動から。本能から。だけれどお嬢様はそれに耐えられていた。耐えて耐えて耐えて耐えて、」

 ふ、と咲夜の瞳から感情という名の輝きが消える。
 完璧で瀟洒な従者を自称する彼女は、疲れたように、心のそこから疲弊しきったように息を吐いた。

「耐えて――行き詰った。お嬢様は高まる衝動に耐え切れず、破裂する衝動に気付くことすらなく本能を開放されたわ」

 永遠に紅い幼き月。
咲夜の仕える主人であり、また紅魔館の主たるその少女の本質を考えるならば、咲夜の言葉の真意は容易に知れる。

 霊夢は息を吐いた。

「だから咲夜、あなたが焚滅させたのね?」
「――」

 問いに対する答えはない。
 だが時を操る少女が僅かに細めた瞳は、その答えを代弁して止まない。

「レミリアは吸血鬼。本来なら倒すにもころ――焚滅させるにも相応の手順が必要だけど、まあ、銀の武器なら有無も無いわね」
「その通りよ、博麗霊夢。たとえ500年を生きた悪魔であっても、銀のナイフは等しくお嬢様を灰に崩したわ」
「それは約束? レミリアが、あの子が理性無くあなたを眷属に堕とした時は、あなた自身の手で運命を閉じて欲しい――そういうことね?」
「ええ。聡明ね、霊夢」

 咲夜は僅かに微笑んだ。
 赤い瞳はその中心に霊夢を映し出し、一瞬たりともその姿を逃すことが無い。
 咲夜は息を吐く。それは長い責務から開放された逃亡者の如く。或いは、終わり無い行く末を目の当たりにした求道者の如く。

「それは、私とお嬢様が交わした最初の約束にして誓い。その誓いがある限り私はお嬢様の従者で、お嬢様は私の仕えるべきお方だった」

 けれどそれももう終わり、と咲夜は笑う。

「約束は終わり、誓いは潰えたわ。博麗霊夢、あなたがお嬢様を壊した」
「勝手な言い分ね。私は何をした覚えもないし、何かをするように言った覚えも無いわ。弾幕ごっこならしたけど、ね」

 付き合う必要など無い、と霊夢は思う。どうせこれは茶番だ。気付けば全てが泡と消える終わりの見えた箱庭の最果て。
 しかしそれでも敢えて彼女の言葉を聴こうと思うのは、咲夜と――そして彼女が滅ぼしたという幼い吸血鬼に、何か思うことがあるからなのかもしれない。
 そんな自分の想いに内心で苦笑し、霊夢はその顔に涼やかな笑みを浮かべる。
 それに、と霊夢は笑みのままで言葉を前置く。

「潰れたのはレミリア自身の責任でしょう。あの子が弱かったから――それとも、強かったから、自分の衝動に潰れたのかしら?」

 罪など知らぬと。責任など無いと。自分を求め、そして滅んだ吸血鬼の結末は瑣末事だと言わんばかりの物言いに、再び咲夜の瞳から表情が消える。
 霊夢は理解した。
 いまこの瞬間、咲夜は自分を手に掛ける躊躇いを無くしたと。

「博麗霊夢」

 鳥居の上に立つ彼女は巫女の名を呼ぶ。その声には、最早どんな感情も滲んでいない。
 霊夢は小さく嘆息した。なんて喜劇、と忌々しく思う。

 ――結論がそこにあるのなら、そこに至る全ての経路は最初から定まっている。
 それは何度繰り返しても変わることの無いからくりだし、理だ。世界はなるようにしかならないし、世界に手を加えても、結局はその上でなるようにしかならない。
 世界は最適解以外を容認しない。
 そんなこと、彼女は他の誰よりも分かっているはずなのに。

 霊夢は首を振って思考を切り替えた。文句は後で言いたいだけ言えばいい。
 いまはともかく、この行き詰ったメイドを相手にするのが先決だ。
 巫女は懐に手を伸ばし、札と、何本かの飛針を指の間に挟む。

「御託はもう十分よ、咲夜」

 玉砂利を鳴らし、霊夢は構えを取る。右足を一歩引き、咲夜に――敵に相対する面積を最小限に押さえ込む。

「なんだかんだ言って――結局のところ、結論は一つしかないんでしょう?」

 問い掛ければ、咲夜は僅かな苦笑を返した。

「ええ。その通りよ」

 頷き、自らの髪を掻き上げる瀟洒な従者。
 その振る舞いに、博麗の巫女はしかと見出す。
 十六夜咲夜のその首元に、並んだ小さな傷跡が二つ残っていることに。

 咲夜はナイフを構える。不浄に堕ちたその身を拒まれ、持つ指を刻一刻と焼け爛れさせながら、されど銀の刃をしかと握り締める。
 その口元に浮かんだ笑みは、間違いなく狂気であろう。

「妖怪は人間に退治されるものよ?」

 答えなどとうに承知しながら、それでも霊夢はそう問うた。
 咲夜はその笑みを僅かに深め、そうね、と肯定する。

「確かにそれは道理だけど――妖怪は、人を襲うものでもあるでしょう?」

 返された問いに、霊夢は嘆息。
 やっぱりこうなるのね、と胸の中だけで呟き、かつて人であった妖怪を見遣る。

「まったく。面倒ごとは嫌いなんだけど?」
「あらそう。でもね霊夢。私は、」

 そうして咲夜は眼を血走らせる。
 紅い瞳を更に紅く紅く紅く紅く紅く深く染め落し、その端から涙を零す。

「私は――お嬢様を壊して、私にお嬢様を殺させたあなたを殺したいほど憎んでる」

 歌うようになされた告白と同時。
 当然のように前触れは無く、世界の時間が停止した。







 咲夜は小さな挙動で腕を振るう。慣れた動作から放たれたのは三筋の銀の軌跡。不浄を払い理を整える銀のナイフは咲夜の指を拒むかの如く力強く解き放たれ、そのまま空間に停止する。

「――ッ!」

 続く動作で放ったのは、逆の手に握っていた二本のナイフ。僅かに交差する軌跡に乗るそれは、先に放たれた煌きと同様に世界に穿ちつけられる。
 しかし咲夜は構わない。時間を操る程度の能力を持つ少女は計五本のナイフを放ったあと、力強い踏足で鳥居を蹴った。
 高く高く夜空に舞う紅瞳の従者。
 軌跡が頂点に至る直前で咲夜は能力を解除。止まっていた五本のナイフが弾かれたように飛翔するのを視界の端に捉えつつ、懐から次のナイフを取り出す。
 じゅ、と指を焼く痛みに思わず息が漏れた。
 銀のナイフは吸血鬼へと堕ちた彼女を否定する。それは論理だ。世界が世界であるためで、幻想郷が幻想郷のままあり続けるための法則。
 例え彼女が人間であった時にそれを愛用していたとしても、ナイフはただ忠実に不浄の輩を拒絶する。その程度は甚だしく、柄を握っただけで手の皮が焼け爛れるのだ。もし刀身に触れれば、触れた先から炭化して虚空に舞うのかもしれない。
 そう考え、咲夜は苦笑した。なんて馬鹿げた想像、と自分を嘲り狂い笑う。
 炭化も何もあったものか。この刀身は銀ならば、それに触れた不浄は悉く灰と化す。忘れる事など出来ようものか。忠誠と忠節を尽くした幼い吸血鬼が、ごめんなさいごめんなさいと泣き謝りながら灰と崩れ、風に消えたその様を。それを成したこの自分を!

 咲夜は絶叫するように息を吐き、再びナイフを放つ。狙いは地上に佇む博麗霊夢。レミリアが求め、決して答えることの無かった巫女。
 指を焼くナイフを撃ち投げ、咲夜は時を止める。放物線を描く咲夜の軌跡は頂点でその軌道を変え、鋭角に地面へと向かう。時を操る彼女は本能的に知っているのだ。時間と空間は本質的に同一であり、どちらかを操るということは他方を操るということなのだということを。
 流星の如く地面に落ちた咲夜はその衝撃で玉砂利を弾き砕き、しかし人間を止めたが故に手に入れた身体能力でもってその反動を押し殺す。三度ナイフを放ち、それと同時に能力を解除。鳥居の上での一射から数えた時間は実際には瞬きほどの経過しかしておらず、よってほぼ同時に放たれたことになるナイフの軌跡は計十七輝。
 交差する白銀は絡新婦の巣を思わせる。三方向より至る射撃は回避の術を許さず、よってここに必殺を記す。
 筈だった。

「――」

 霊夢は僅かに瞳を細める。払い串を握る腕に僅かながらの力が篭り、身体の緊張を抜くかのように肩が下がる。
 博麗の巫女は矢より早く夜より容赦なく訪れる弾幕に対し、僅か、髪を払うかのような幽雅さで腕を振るう。
 硬い音が数度響き、
 肉を裂く音が数度届いた。

 咲夜は息を飲む。信じられない、と思考してその紅い瞳に映る現実を否定した。
 博麗霊夢が立っている。身体の節々にナイフを突き刺され、五を越える個所に墓標の如くナイフの柄を残しながら、しかし顔色一つ変えずに立っている。
 左上腕に二本、右肩に一本、左右の大腿に一本ずつのナイフを受けながら、それでも霊夢は当たり前のようにそこに居る。
 確かに、と咲夜は認める。確かにナイフは命中した。狙った個所に違うことなく突き刺さり霊夢の身体に傷を与えた。傷は与えたが、


 ――致命傷には、程遠い。


 想定できた事態ではある。人の身体に急所の数は多いが、その個所はあまりに小さすぎる。なれば他多数のナイフで注意を逸らし、本命のナイフで息の根を止めるつもりであった。放った十七の軌跡のうち、本命たるナイフは僅か三。残り十四は全て、捨て札とまでは言わないが、牽制と足止めが目的であった。

 だというのに、これはいったいどういうことか。
 狙ったナイフは間違いなく命中し、霊夢の肌を食い破った。だがその直前、自然に振るわれた玉串によって弾かれた輝きは数えで三。それはつまり昨夜の放った本命の数であり、霊夢が弾いた三本は紛いもなくその本命たちであった。
 迎撃を免れたナイフたちは狙い通り霊夢を捕らえ、霊夢はそれを抵抗無く受けた。
 回避することが出来なかったのか? 防御することが出来なかったのか?
 僅かに抱いたそんな希望は、霊夢の瞳によって打ち砕かれる。
 霊夢は――身体に刺さったナイフを抜こうともしない紅白の巫女は、視線だけでつまらなそうにこちらを見た。感情はもとより、気負いすら感じさせない淡々とした瞳で。
 故に、咲夜は理解する。
 霊夢は残ったナイフを避けられなかった訳でもなければ、防げれなかった訳でもなく。
 単に、避ける必要を感じなかったのだという、そんな事実を。
 ぞくり、と咲夜は背筋に走る悪寒を自覚。
 それは異常だ。確かに致命傷を受けなければ当面の問題にはならないだろう。だがナイフを受けているのは事実なのだ。それも五本。決して少ない数ではない。いかに本命を弾き落とそうと、だからと言って残った牽制をそのまま甘受する者が何処に居ようか。
 ざ、と乾いた音が耳に届き、咲夜は我を取り戻す。
 見れば霊夢は巫女服の所々を朱に染め上げながら、しかし淀みすら見せぬ動作で手にしていた針を放つ。

「ッ!」

 咲夜は息を飲み、再び時間を凍結させる。高速で飛翔する細い針は、吸血鬼の動体視力でも視認が不可能な速度を誇る。故に時間の凍結をもって軌跡を停滞させ、その隙を縫いながら咲夜は移動。玉砂利を蹴り飛ばし、指を焼く痛みに歯を噛み締めながらナイフを放ち右に跳ぶ。
 身体を流そうとする慣性を砂利を弾き飛ばしながら減速し、凍結を解除。右に三、左に四構えたナイフを一息で撃ち投げ、更に時間を止める。大地を蹴り、本殿の瓦の上に立ち、打ち下ろすように三本のナイフを放ったところで時間の流れを開放する。
 再び三方向から境内の霊夢に向かう白銀の軌跡、その数は二十一。指の感覚を失いながら放った斉射は既に面となり霊夢に向かう。
 三方向から矢の如く、否、矢などよりよほど早い速度で向かうナイフは今度こそ霊夢の動きを絡め取り、その息の根を止める。
 そう、願いたかった。

「――」

 霊夢は静かに息を吐く。疲労したように、或いは諦観したように。
 巫女の足が僅かに動いた。その足運びはまるで神楽舞うかのごとく緩やかに、音も無く玉砂利の上を滑る。
 振るった玉串は風に流れるように縦横へと振られ、それに頭を下げるかのごとく甲高い音が何度も響いた。
 決して素早い動作ではない。むしろその体運びから得られる印象は緩慢の一言だ。
 にも関わらず――紅白の巫女が振るった玉串は七本のナイフを弾き落とし、その身体に更に二本の刃の侵入を許す。
 これで霊夢に命中したナイフは七を数えた。それだけの刃を受ければ、常人であればひとたまりも無いだろう。否、たとえ五百年を生きた妖怪であろうと、この銀のナイフに掛かれば大人しく灰に帰すしかない。
 だが霊夢は、ただの巫女であるはずの少女は何を堪えたという様子も見せず、標的を外して地に刺さったナイフを引き抜く。
 と、それをさも当然のように手首だけで放った。

「!」

 昨夜はまたしても時間を止める。その上で自分に向かう白刃を回避しようとして、その瞬間。
 特別、耳に届くような音は無く。
 時間に縫い付けられなかったナイフが、酷くあっさりと、咲夜の喉元に突き刺さった。

「――え?」

 呟きは言葉にならず、ただ銀の刃に触れ炭化し崩れ去る喉の穴から洩れて流れる。
 咲夜は呆然と喉に手を触れる。だがそこには何も無い。ただ胡乱な穴が空いており、存在を求めて掻き毟った指先は食道の奥壁を引っかいただけだった。
 途端、思い出したかのように咳が出る。肺腑より押し出された空気はしかし喉を経由せず、首に空いた穴から直接外に溢れ、痙攣に似た衝動だけが咲夜の意識を揺さぶった。
 からん、と足元に何かが落ちる。銀の刃。巫女が拾い投げた一刀であり、咲夜の能力に従わず自らの時間に忠実であった短い刃。

 ……何故、その一刀にだけ自分の能力が通用しなかったのか。

 その疑問すら、既に虚ろ。
 風が吹いている。冬将軍の息吹。玉砂利を滑る、姿無き風童。
 咲夜は自分の能力が、時間凍結が解けているということに今更気付く。何時解けたのか。このナイフが刺さった時か、それともナイフが玉砂利に落ちたときか。
 それとも……凍結など、掛っていなかったのか。

「――」

 そんな、答えの出ない、手遅れに過ぎた思考を最後に。
 十六夜咲夜は灰となり、風に流れた。










 霊夢は淡々と身体に刺さった幾多のナイフを抜く。かしゃん、と足元に積み上げたその総数は七。傷跡は、それのおよそ倍。突き刺さらずとも皮膚を裂き掠った裂傷の方が目立つ程だ。
 しかし霊夢は顔色一つ変えず、慣れた動作で衣を裂いて手早く、だが的確に傷の処置をする。出血がことさら酷い右足と左腕はやや強めに布を縛り止血し、そうでないところは当面の手当てだけに留める。
 そうして霊夢が処置を終えたとき、顔を向ければ、そこには最早何も残って居なかった。

「咲夜」

 名前を呼んで、答える者が居よう筈もない。
 吸血鬼に堕ちた従者は既に身体を灰とし、その名残すら残っていない。
 ただ見えるのは、月明かりに淡く光る短い刃。
 十六夜咲夜を仕留めた、その一刃である。
 霊夢は傷の痛みを感じながら、しかし顔色一つ変えず歩み、そのナイフを拾い上げる。刀身には微塵の血油すら付着していない。綺麗なものだ。
 だから霊夢はそれを抱きかかえ、ふう、と息を吐いた。疲れたように、呆れたように。
 ……何故このナイフが咲夜の時間凍結を突破し、咲夜を灰に帰したのか、その全てを理解しているように。
 霊夢は身を翻す。本殿。玉砂利を踏みしめ、境内の中央に立ち、自らが属するべき博麗神社の本殿に目を向ける。

「お礼は言わないわよ」
「あら、つれないわね」

 含み笑うかのような声は、本殿の屋根から届いた。
 顔を上げれば――否、顔を上げるまでも無く。
 屋根の淵に腰を下ろし、背後に月を背負う隙間妖怪、八雲紫がそこに居る。

「せっかく助けてあげたのに。酷いわね、霊夢。私があのナイフの――ナイフの時間の境界を弄らなかったら、あなたあの従者に勝てなかったかもしれないのよ?」
「何よ、元凶の癖に。あなたが余計なことをしなければ、そもそもこんなことにはならなかったでしょう」
「正論ねぇ」

 何が楽しいのか、疲れたように吐き捨てる霊夢の言葉にくすくすと笑いを洩らす紫。その口元は扇子で隠され、ただ静かな笑い声だけが風に混じって耳に届く。

「でも、うん、余分な手伝いではあったかもしれないわね。どうせ咲夜じゃあなたには勝てなかったんだし」
「買い被りね。ご覧のとおり、這々の体よ。もう痛くて泣きそうだもの」
「あらあら、謙遜しちゃって。気付いていない筈が無いでしょうに」
「……何のことかしらね。私に出来るのは、精々空を飛ぶ程度のことなのだけど」

 苦笑の混じった霊夢の言葉に、紫は笑みを深くする。

「ええ、そうね、霊夢。あなたが持つのは空を飛ぶ程度の能力。つまり、」

 そこで紫は一旦言葉を切り、その瞳に愉悦の光を滲ませて後を続けた。

「"空と大地の中立である程度の能力"――ね。ううん、空も大地も、霊夢、あなたにとってはただの他者に過ぎない。ああ霊夢、博麗霊夢! 全てに対し同じ価値しか認めない博麗の巫女、世界に対し常に中立でしかありえない博麗霊夢! 私がどれだけ境界を弄っても、どれだけ世界を狭めても、決して影響を受けない傍観者。ねえ霊夢、それがあなたの能力でしょう?」

 霊夢は答えない。
 紅白の装束に身を包んだ少女は、静かに眼を閉じ妖怪の言葉を聞き流している。

「ううん、能力というより在り方かしらね。万事に於いて中立である存在。異なる二者の両方に属していながら、決してその他方になりえない半端者。だからあなたは地に祝福されることも、空に抱かれることも無い。ああ、なんて可愛そうなのかしら。みんなに愛されている少女は、その実その誰にも何も返してあげることができないのだから」
「……今日はやけに饒舌ね、紫。何かいいことでもあった?」

 静かな――或いは静か過ぎる、霊夢の問い。
 聞き飽きたと言わんばかりの――声音。
 それがどうしたと平素で問うような――振る舞い。
 別に、と紫は答える。ごろりと身体を横に倒し、屋根の上に寝そべりながら霊夢に語る。

「でもここのところずっと暇だったでしょう? 世界で一番小さな百鬼夜行が終わって、月の諍いもあっという間に終わっちゃって。もう暇で暇でしょうがなかったの。寝ようと思ってもなんだかやけに眼が冴えちゃって。だから、」

 隙間に潜み、境界を弄ぶ妖怪はにこりと笑う。

「だから、ちょっと悪戯したくなっちゃったの」

 紫の言葉には、気負いも罪悪感も、悪意の欠片も何も無い。
 ただ暇だったから、退屈だったから、娯楽が欲しかったから。そんな理由で幻想郷中に異変を生じさせ、瀟洒な従者に自らの主人を討たせておきながら、それでもただたおやかに世界を楽しんでいる。
 はあ、と霊夢は息を吐いた。真実、心の底から呆れながら。

「迷惑な奴ね。自分の我儘に他人を巻き込むんじゃないわよ」
「あら酷い、我儘だなんて。私はただ幻想郷中に夢を見せてあげているだけよ。私はちょっと、ほんのちょぉぉぉっとだけ"狂気と正気の境界"を弄っただけ。あとは何もしていないわ。みんなが瞑々に楽しんでいるだけよ。日常では決して起こらない、起き得ない、起こしてはいけない悪夢という茶番をね。大事にしているものを壊す楽しみとか、誇示している誇りを踏みにじる愉悦とか、護るべきものに手を下す恍惚とかね。これが迷惑と感じるのは、あなたが劇に参加していないからよ。どんなに楽しいお祭りも、外から見れば騒がしいだけですものね。尤も、」

 つい、と紫は指で空を横に切る。
 穏やかな瞳で霊夢を眺め、うん、と一人頷く。

「あなたには無理な話ね、霊夢。中立であるあなたは、中立であるが為に境界の上に属している。どれほど私が境界を弄っても、境界そのものは弄れない。演者は筋書きを違えることは出来ても、観客になることは出来ない。演者がどれほど台本から外れようと、演者は観客席には移れない。本当、残念ね」
「そう思うならこの茶番を早く止めなさい。あまり度が過ぎると、いい加減に怒るわよ」
「やん、せっかちねぇ……まあ、十分に楽しんだし、そろそろ終わらせて上げましょうかしら」

 そう言って紫は立ち上がる。扇子で空を切れば世界が裂けて、虹色の間隙が開かれる。
 そこに腰掛けた紫は懐から一枚の符を取り出し、それに口付け何かを呟いた。途端、符に書かれていた文様が光を帯び、空に向かって飛翔する。
 夜空に向かって伸びる光の尾を眺め、紫は口を開いた。

「"夢と現の境界"……それを引きなおせば、全ては泡沫の夢と消えるわ。悲劇は悪夢に、そして訓告に。感謝しなさい、博麗霊夢。私はこうやって、時折皆に悪夢を見せては背任という悦びを夢想させているのだから。愛する幻想郷の人間が、妖怪が、それ以外が、本当に悪夢を引き起こしてしまわないようにね」
「あら。そのついでに楽しんでいるのは、誰?」
「さぁて、誰かしらね?」

 霊夢の嫌味に、紫は微笑みで返す。
 ぱさ、と紫は扇を開き口元を隠す。澄んだ瞳で霊夢を見据え、子供に寝語る母親のような穏やかさで言葉を紡いだ。

「さあ眠りなさい、博麗霊夢。これは全て夢に堕ちるわ。この世界も、幼い月の凶行も、瀟洒な従者の殉誓も。さあお眠りなさい、博麗霊夢。全ては夢。弾けて消える偽りの世界」

 紫の一言一言にあわせるように、世界の輪郭がぼやけていく。それはまるで真綿に墨が染み込むように、それぞれの境界が曖昧になり、闇とも光とも着かぬ泥の海に溶けて行く。気付けば足元に広がっているのは泥の海。生暖かい、全てを含んでいるような、そんな原初の暖かさ。

「まあ、とは言っても」

 世界に唯一つ、明快な姿を保ったままで残る紫は微笑んだ。
 それは真実、憐れむように。
 それは事実、悲しむように。
 静かに、言葉を紡ぐ。

「あなたに――――か?」

 答える時間は与えられず。
 霊夢の身体は、不意に覚えた喪失感と共に泥の中に溶け消えた。










 博麗神社は今日も今日とで人間以外の参拝客が多かった。
 勝手に上がりこんでは茶を要求し、取って置きの最中を勝手に喰らいやがる妖怪を客とするのなら、だが。

「れいむー。お茶のお代わりはー?」
「はいはい、淹れて来るわよ、レミリア。だから大人しく待ってなさい」
「はーい」

 やけに絡んでくる幼い吸血鬼にそう言い残し、霊夢は和室を離れる。縁側で座り込んでなにやら話し合っている亡霊の姫と月の姫の隣を抜け、なにやら顔を真っ赤にして庭を走り回る妖夢、そしてそれから割と真剣な顔で逃げ回る魔理沙と萃香の姿を眺めながら台所に向かう。

「……あら、咲夜。ここに居たのね」
「霊夢」

 戸を開けたそこには、無言のままに茶菓子を用意しているメイド長の姿があった。はて、その手に見える盆に乗った饅頭は秘蔵の品なのだが。何処から見つけ出したのだろう。
 結構真剣にそんなことを考えながら咲夜をよくよく見れば、少女はその顔に僅かながらの疲労を覗かせていた。
 珍しい、と霊夢は思う。常に完璧で瀟洒たる彼女が、隠しきれないほどの疲労を覚えている場面はは彼女の知る限りこれが初めてだった。
 思わず興味が先に立ち、問う。

「どうしたのよ、咲夜。なんか疲れているみたいだけど」
「別に、なんでもないわ。ただ少し、夢見が悪かっただけ……あら?」

 平然と答えた咲夜は、最後に語尾を小さく上げた。

「何?」
「どうしたの、霊夢。その包帯」
「ああ、」

 言われ、霊夢は自らの腕に視線を落とす。巫女服の生地から僅かはみ出た白い布。所々が赤く……いや、既に黒く滲んだ、怪我の跡。

「ちょっとね。無茶しただけよ」
「……そう。気をつけなさい」

 柄にも無く心配した風に、或いはうろたえた風に言って、咲夜はお茶菓子を携えて台所を出て行った。
 その後姿を見ながら、霊夢は苦笑する。

 脳裏に浮かんだのは、いまは姿を見せないスキマ妖怪の最後の一言。


「あなたに、夢と現の違いはあるのかしら?」


 霊夢は服の上からまだ癒えぬ傷を撫でる。七の穿傷と、それを上回る裂傷。銀のナイフによって着けられた、鋭い鋭い夢の傷跡。
 博麗の巫女はその場に佇んだまま何度と無く妖怪の問いを繰り返し、やがて小さく呟いた。

「そんなの、決まってるじゃない」

 それは、千の苦笑と万の諦観、そして億の悟りに包まれた彼女の本心。

「どっちだって、同じだわ」

 博麗霊夢にとって、夢と現実の違いなど無い。
 ただ「いま」であり、「此処」であるのなら、それ以外の違いなどどれほどの価値があろうか。

 霊夢は嘆息一つ吐き、さて、と息を吐く。

「我儘吸血鬼には熱い緑茶でも淹れて上げるとしましょうか」

 そうして少女は茶道具に手を伸ばした。
 ずきり、と痛む傷に眉一つ動かさぬままに。






[了]