木洩れ陽喫茶    



   

羽音





 東京湾に続く道路を、一台の赤い車が走っていた。









 運転席には、一人の女が座っていた。馴染んだスーツに身を包み、顎を引いて、真っ直ぐに。延々と連なる街路灯の、うすらぼんやりとした光が照らすアスファルトを、見つめていた。暗い空には星も、月も見えず、バックミラーに写る後続車もない。遥か前方に、あまりに遠くに、街の明かりが見える。女が見慣れ、一度は好きになった明かりから、女は、なぜか、寂れた田舎町の、寂れたカジノを連想した。アメリカのどこかにあるだろう、客の一人もいないカジノ。







 カーステレオからは、あの時と同じFM放送が聞こえてきていた。あの人が好んで聞いていた番組は、女には悲しすぎた。

 女の脳裏に、不意に、微笑む男の顔が浮かぶ。浮かび、消える。泡のように。

「……ッ!」

 女は下唇を強く噛み、力いっぱいハンドルを握り締めた。アクセルを踏む足を弱め、道路の脇に車を止める。ハンドルに顔を埋め、形のよい肩を震わせ、小さく。女は泣いた。誰にも見られることはないのに、声も上げず、嗚咽さえ限りなく押さえたのは、女が生まれ持ったプライドの賜物だったのかもしれない。あまりに儚く、脆く、風の一吹きで崩れ去りそうなプライドではあったが。

 長い、長い時間をかけ、女は泣くのを止めた。ステレオを切り、前を向いた顔は、職場でキャリアと呼ばれる女のそれだった。

 忘れなさい、と女は自分に言い聞かせた。忘れなさい。私を捨てた、あんな男のことなんて。



 あんな男。



 自分が彼をそう呼んでいることに、女は、ひどい悲しみを覚えた。自虐にも似た悲しみだ。ゆるゆると車を発進させる。相変わらず、他の車は見えない。カジノは、忘れられた夢のように、色あせた光を放っている。









 男は、女の冷却材だった。ともすれば自分に無理を課そうとする女を、何も言わず、しかし優しく支え、女の心の空白を充たしていった。女自身がそれに気づかぬほど、早く、静かに。職場で出会い、仕事をすること以外に興味のなかった女に、拒まれようと、無視されようと、諦めることなく、仕事以外にも楽しみを教えてくれたヒト。

「だって、もったいないじゃないですか」よく、笑いながら男は言った。「先輩、そんな美人なのに、根っからの仕事人間だなんて」

 そして、実際……男と出会い、女も、気付かぬ内に、人並みに趣味を持つようになった。

 

 そう、気付くべきだったのだ。そのころ、既に自分が男のことを、以前とは比較にならないほどよく見ていたことに。いや、見つめていたことに。

 ゆっくり先に進む車は、交差点に指しかかった。女はさらにスピードを落とし、車を止め、窓を空けた。冷たい夜気が、風が、車内に滑り込んでくる。信号は赤い光を放っているが、目の前を横切る車など、影も見えない。

 そう、あまりに遅すぎたのだ――――哀れなほどに未練たらしく、女は思った。信号が色を代え、車をゆっくりと発進させる。車はすぐスピードに乗る。遅すぎたのだ。

 気付くのが遅かったから、彼は離れていった。

 気付くのが遅かったから、彼を悲しませることになった。

 気付くのがあまりに遅すぎたから、忘れられない。

 しっかりと前を見つめる女の目から、不意に涙がこぼれた。ほんの少しの涙。あの時は、あんなに流れたのにね――――苦笑しながら思い、女はスーツの袖で涙を拭った。







 その時だった。

 突然、どん、と鈍く、重い音が耳に届き、気が付いたときには、女は既にブレーキを踏みしめていた。制動が、女の細い身体をハンドルに押し付ける。タイヤが悲鳴を上げ、アスファルトに濃い跡を残しながら、それでも十メートル近く空走したのち、車はようやく止まった。

 荒い息を吐きながら、女はゆっくりと顔を上げ――――息を呑んだ。

 丸みを帯びたボンネットが大きくひしゃげ、透明だったはずのフロントガラスに、大きな白い線が、皹が走っていた。

 まさか。女の背中を、何かが、冷たいものが、滑り落ちた。まさか、事故を起こしたの? 私が? 見上げれば、夜空をバックに、信号機が、赤いランプを灯す信号機が見えた。車は、いつの間にか十字路に飛び込んでいたのだ。

 女は、慌てて車から飛び降りた。街路灯の照らす茫洋とした明かりで、あたりは思ったほど明瞭に見渡せた。それが幸か不幸かはいざ知らず。

 少し離れたところで、大型のオフロードバイクが転倒していた。綺麗に横倒しになった車体は、フレームに大きな歪みが生じ、ミラーも割れてなくなっていた。踏みしめるべきものをなくした車輪が、からからと乾いた音を立て、空転している。どこ、と、女は脅迫にも似た思いを抱いた。乗っていた人は、どこにいるの?

 果たして、ライダーは、車体のすぐ傍に倒れていた。女は息を呑み、黒いジャケットを着こんだライダーに駆け寄る。あたりには、見たことがないほどの量の血液が、冷めた血溜りを作っていた。フルフェイスのヘルメットが、少し離れたところで、忘れられたかのように、ぽつんと転がっていた。

 大丈夫ですか、と声をかけようとして、女は思わず息を呑んだ。うつ伏せに転がったライダーの身体。その傍らに、見覚えのあるロケットが転がっているのが見えたからだ。まさか。









 まさか。

 







 女は恐る恐る、女はライダーの身体を起こした。いつの間にか溜まっていた生唾を飲み込みながら、顔を覗きこみ、そのまま、女は泣き出しそうになった。

 彼だ。女を捨て、女の元を去った男が、ぐったりとした様子で、眠るように――――但し悪夢を見ているように――――意識を失っていた。

 どうしよう。妙に冷静に、女は思った。このまま放っておけば、ひょっとして、男は死ぬかもしれない。それでいいじゃない、と頭の中で誰かが言った。だって、私を捨てたのよ、こいつは。今度は私が捨ててあげればいいじゃない。

 そうか、それもいいかもしれない。やけにぼんやりと、女は男の顔を、血の一滴も流していない、あのときのまま、変わることのない男の顔を見つめた。血は、ぶらりと垂れ下がった右腕から流れている。折れているのかも知れない。

 そうしよう、と、女は呟いた。少なくとも女はそのつもりだった。これは、復讐なの。私を捨てた、この人が悪いのよ。

 女が、男の身体から手を離そうとしたとき――――男の口が、小さく動いた。弱々しい声が聞こえる。意識があるわけではないだろうから、きっと、寝言のようなものだろう。だけど。

 ぽたり、と、女の目から流れた涙が、乾いたアスファルトに黒いしみを描いた。ぽた、ぽた。涙は、留まることなくあふれ出る。男の口が、もう一度動き、またしても、女の耳にそれが聞こえた。













 弱々しい、女の名を呼ぶ声。











「……ッ!」

 女は、強く、唇を噛み締めた。先ほど抱いた念が、一転、嫌悪に変わる。自分は、何をしようとしていたのだろう。私は、この人を、どうしようとしていたのだろう。

 女は強く頭を振って、男の身体を抱きかかえた。幾ら年下とは言っても、いっぱしの青年男子の重さは、女には少し重すぎた。息も絶え絶えになりながら、なんとか、男の身体を車の助手席に乗せる。力なく、がくんと傾いだ顔は、いま男が置かれている状況とは裏腹に、ひどく穏やかだった。一瞬、状況も忘れ、女が微笑みながら見入ってしまうほどに。

 だが、女はすぐに我に返り、慌てて運転席に見を滑らせた。シートからは、低いエンジンの駆動が、振動として伝わってくる。大丈夫、車は動ける。少なくとも、病院まで運ぶことが出来る。

 女は、力いっぱい、アクセルを踏み込んだ。前をしっかりと見つめる女の脳裏に、あのときの男の言葉が流る。やけに鮮明な記憶と、共に。







「僕は、先輩から美しさを奪ってしまったような気がするんです」

 夜のお台場で。本来なら、男女がその想いを深めるであろう場所で。先を歩いていた男は、不意に足を止め、そう切り出した。声に、この上ない悲しみと――――自虐を、含めて。

「どういう意味?」

 いつも通り気丈に、女は聞き返した。けれどその態度が、単なる虚勢に過ぎないことは、女自身がとてもよく判っていた。きっと、男も悟っているだろう。

 男はゆっくりと空を仰ぎ、流れるように言葉を紡いだ。

「僕は、先輩のことを愛してます――――ホントですよ? 抱きしめたいくらい、愛してます。先輩は、本当に綺麗な人なんですよ。僕が保証します。でもね、先輩が一番輝いているのは、仕事にのめりこんでいるときなんですよ。他のことなんかには目もくれず、ただひたすら、走っているときなんですよ。僕は、入社してすぐに、そんな先輩の美しさに惹かれたんです」

「……」

 女は、何も答えなかった。けれど、その奥歯は強く噛み締められ、何かに耐えているのは明白だった――――何に? 女自身にも、それはよく判らなかった。

 男は続ける。さらに、声に自嘲の響きを含ませて。

「僕、ずいぶんと気障なこと喋ってますよね。気に障ったなら謝ります。けれど、本当ですよ。僕はいま、たぶん、今までで一番正直に話そうとしているんです。先輩は、りんごなんですよ。まだ腐ってないりんごです。僕はきっと、先輩に近づくべきじゃあなかったんですよ。近づかないで、ずっと、遠くから見ているだけにすれば良かったって、今更、本当に後悔してます。そうすれば、先輩は僕らなんかみたいに――――腐ったりんごにはならずに済んだんです。ほら、言うでしょう? 一つの箱の中に綺麗なりんごと、腐ったりんごを一緒に入れると、綺麗なりんごまで腐ってしまうって。僕は、先輩に近づくべきじゃなかったんです。そうすれば、先輩は先輩のまま、先輩自身の美しさを、いつまでも保っていることが出来たんです」

 そこまで言って、男は大きく息を吐いた。

 しばしの沈黙。

 続ける。

「いま、僕がどれだけ自分勝手なことを喋ってるか、一応、理解はしてるつもりです。だってそうですよね? 先輩にどう思われようと、先輩の傍にいて、先輩を腐った箱の中に導いたのは、僕なんですから。ホント、なんであんな馬鹿なことしたんだろう……? 先輩に無視されたときに、そのまま、素直に引き下がれば良かったんです。引き下がって、ただ、眺めているだけにすれば良かったんです。そうすれば、先輩は先輩自身の美しさを保っていられたし、僕も……僕もいま、こんなこと言わずに済んでいたんです。本当に、馬鹿な男ですよね、僕……」

 女は不意に、男が空を仰いでいる理由がわかったような気がした。空にはただ、満月が浮かんでいるだけなのだ。そんなものを好んで見るとも思えない。なんだ、と女は思った。やけに優しく、柔らかく。この人も、結局、意地っ張りなだけなのね。

 いつの間にか、隠されてはいるが、震えを含んでいた男の声。こちらを振り返り、続く。俯いた顔は、陰になって見えない。首から下がった金色のロケットが、かすかに揺れていた。

「僕を恨んでくれて、構いませんよ。むしろ、恨んでくれたほうが僕としても気が楽です。恨んでください。でも、それで――――陥れた張本人が言うのもなんですけど、自虐的にはならないで下さい。自分自身に同情しないで下さい。そんなの、先輩らしくな――――」

 い、と男は続けるつもりだったのだろう。だが、その言葉が放たれることはなかった。

 女の手が、高く、振り上げられていた。はっ、としたのは女のほう。私はいま、何をしたの? 手のひらが痛いような気がする。視界が滲んでいるような気がする。頬を、何か冷たいものが流れているような気がする。気がするだけで、実感が妙に乏しかった。

 男は、ゆっくりと、右の頬に手を当てた。かすかに赤くなっているようにも思えるそれを見て、女は、はたと気がついた。ああ、そうか。私は、この人に手を上げたんだ、と。

 しばらくして、男は、ゆっくりと手を離した。その顔に、相変わらず、自嘲と悲しみの笑みを、いや、いまにも泣き出しそうな笑みを浮かべて。男は小さく息を吐き、満足そうに告げた。

「杞憂(きゆう)、みたいですね。さすがは先輩だ」

「……ふざけないで」

 やっと、やっと、女の口から言葉が流れる。一度出してしまえば、それは、次から次へと流れ出た。いままで溜め込んでいたものを――――実際その通りなのだが――――一度に、吐き出すように。

「ふざけないで。そんな理由で、あなた、私を馬鹿にしてるの?」

 男は、なにも答えない。

 女の声に、くぐもりと、震えが混じる。

「私は、あなたに感謝してる。本当よ、嘘じゃないわ。あなたは、私に、本当にいろいろなことを教えてくれた。それがくだらないもの、腐ったものだって言うの? 私は、そうは思わないわ。私にしてみれば、それこそ、綺麗なりんごよ。私が腐ったりんごだったのよ」

「そんなことはない!」

 男の叫び声に、女は、びくっ、と身体を竦めた。らしくない。そう思いながらも、なにも出来ない。涙が、身体の制御を奪ってしまったような錯覚を、女は覚えた。男は続ける。叫びにも近い声だ。はじめて聞く類の声。

「先輩は、自分がどれだけ綺麗だったのか、気付いていないだけなんだ。いまどき、先輩ほどに綺麗な人なんてめったにいない。お願いだから、自分の美しさに自信を持ってよ。いまなら、今ならまだ、その美しさを取り戻せるんだ。そのことに、お願いだから、気付いてくれよ!」

「いらないわよ、そんなもの!」

 男と同じように。

 女も叫ぶ。

「そんなもの、大事でもなんでもない! ただの塵よ!」

「違う!」

「違わないわ。あなたは、私のことを愛してくれると言った。私だって、あなたのことが好き。あなたを愛してる。ねえ、なんで、そんな悲しいことを言うの?」

 男が、唇を噛み締めるのが見えた。いつからだろう、その目から涙が流れ出ていたのは。これでお相子ね、と妙に皮肉げに、女は思った。

「あなたが、私のことを思ってくれるのはとても嬉しいわ。でも――――」

 私は、あなたを悲しませたくない。あなただって、悲しいんでしょう?

 そう続けるつもりだった言葉は、とうとう、女の口からは流れなかった。そう言えば、男はきっと折れるだろうと言う確信が、女の中に、ぼんやりとながらではあったが、存在していた。きっと、そのことを男にも悟られたのだろう。

 男は、無言のまま女を抱きしめ、その唇を奪っていた。女が息を呑むのも、身体をこわばらせるのも構わずに。妙にしょっぱい、涙の味がするキスも、そう長くは続かなかった。

「――――バイバイ、先輩」

 走り去る、離れる直前に、男が残した一言。卑怯よ、と女は思った。その場に膝をつきながら、嗚咽を上げながら。男の走り去った方向から、大型バイクの排気音が聞こえる。行ってしまう。ここで止めなければ、きっと、彼はもう戻らない。その確信は、女の中に充分過ぎるほどにあった。そして事実、男はこのとき、既に会社に辞表をたたき出しており――――皮肉にも、受理されてばかりであった。

 卑怯よ、こんなの。目から涙がこぼれる。ぼろぼろと、ぼろぼろと。女は空を仰いだ。いつの間にか、女の気付かぬ内に、満月は雲に隠れようとしていた。まさに、そう、逃げるかのように。

 バイクの音が遠ざかっていく。届かないところに行ってしまう。

 月は、完全に雲に隠れてしまった。











 女が泣き止み、どうにか立ちあがるまでには、ひどく時間が掛かった。実際には……そう、一時間か、その程度。だが女にとっては、それこそ、世界が終わるまでの時間に等しかった。

 あたりは、相変わらず闇に包まれている。だが、そこにもう、男の姿はない。女はさんざんに膨れ上がった目元を擦り、ふらふらと、いまにも倒れそうな様で車に辿り着く。並んで留まっていたはずの、男のバイクの姿は無論、見えるはずもない。倒れこむように運転席に身体を収め、額に手の甲を当て、ぼんやりと、女は空を見上げた。

 どこまでも続きそうな、否、どこまでも続いている夜空。

 最初は、薄紙を通した蝋燭のように、それは女の心に忍び寄っていた。はっきりとした姿は見えず、だが、そこには確実にそれがあり――――同時に、ゆっくりと、存在を覆い隠す薄紙を燃やしていった。

 もう、世界は終わってしまったのだ。

 それが紙を焼き尽くし、水面に頭角をあらわすまで、さほどの時間は掛からなかった。そして、一度姿をあらわしてしまえば、それはまるで神仏の後光のように、女の意識を惹きつけた。妖艶に。魅惑的に。そして、はてしなく甘美に。









 もう、世界は終わってしまったのだ。









 















 そのあと、どうしたのだろう? 車を緊急病院の外来受付に横付けし、運転席を飛び出しながら、ぼんやりと、女は思った。そのあと、私はどうしたのだ? よく覚えていない。いや、覚えている必要もない。

 受付けの部屋には、全部で三人の看護婦が、毒にもならない会話に花を咲かせていた。突然叫ぶように声を上げた女に、一度は驚いたものの、慣れなのかどうなのか、看護婦たちは統制のとれた動きでぱきぱきと職務を果たす。一人が内線電話を手に取り、他の二人が車の元まで走る。女は一瞬ためらったが、外に向かった二人の後を追った。

 外に出ると、既に看護婦たちが男の身体を運ぼうとしていた。小さな掛け声と共に、軽々と、看護婦たちが男の身体を持ち上げる。拍子で首が大きく揺れ、何かがアスファルトの上に転がった。なにかを叫びながら男の身体を運ぶ看護婦たち。女はすぐに付いていこうとしたが、転がったなにかが気になり、アスファルトに屈みこんだ。

 車のすぐ傍に、金色のロケットが転がっていた。女は息を呑み、なにかを堪えるように――――あるいは耐えるように、ロケットを拾い上げた。昔から、男が提げていたものだ。男がそんなものをして、恥ずかしくないのか、と尋ねたことがある。すると、男は笑いながらこう言ったのだ。

「僕って、意外と臆病なんですよ。誰かの写真を持っているだけで、ずいぶんと楽になるんです」

 そんな言葉の真偽も、いまやもう判らない。尋ねたときには、たしか、家族の写真が入っていたはずだ。女は親指で蓋を弾き、瞬間、苦笑した。そこには、自分がいた――――正確には、男と肩を並べている自分がいた。場所は……どこだろう。背後には真っ青な空と、海が広がっている。夏? ああ、あのときの……。写真で、女は、穏やかな微笑を浮かべ、こちらを見ていた。今の私は、こんな風に笑えるのだろうか……?

 女は首を振り、ぱちん、とロケットを閉じた。スーツのポケットに入れ、立ちあがる。そこに、これまで漂っていた未練はなかった。そうよ、と女は思う。いまの私は、こんな風には笑えない。笑えていたあのときが、私が一番輝いていたんだ。そのことを、あいつにも判らせないと。

 女は、走り出した。胸に、なにか、小さな棘を感じながら。











 女が病棟に戻ったとき、既に男の身体は手術室に運ばれていた。

 暗い廊下に、ぽつん、と赤いランプが灯っている。手術中を示すランプは、一向に消える気配を見せない。もう二時間が経過していると言うのに。

 廊下のソファに座り、女は黙ったまま手術室のドアを見つめて、いや、睨んでいた。額には、幾つもの汗が浮かんでいる。夜の病棟に、聞こえる音など何もなかった。沈黙と言う名の獣と、女は必死になって戦っていたのだ。ともすれば砕け散りそうな理性を、理性そのものと、なによりもプライドが守っていた。

 脳裏に浮かぶのは、飛び交うのは、男と過ごした日々の軌跡。足跡。残像。なごり。あるいは、それらのどれとも違う、より鮮明で、甘美で、儚く、貴重ななにか。

 新入社員の歓迎コンパで出会った。

 判らないことがあれば、いつも尋ねに来た。

 いつの間にか、食事に誘うようになった。

 いつの間にか、気にならなくなっていた。

 いつの間にか、すぐそこにいる存在になっていた。

 いつの間にか、傍にいてほしいと思い始めていた。

 いつの間にか、遠くに離れていこうとしていた。











 やめなさい、と女は声に出さず呟き、振り払うように頭を振った。あいつは、いま、そこにいる。それは紛れもない現実だ。遠くになんて、行っていなかった。それだけで、私は充分。そうよ、離れたって、もう逢わないとは、逢えないなんてことはない。なんで、そんな簡単なことにすら気付かなかったのかしら?

 不意に、なんの音もなく、ランプが消えた。一瞬の間に、女が気付かぬほど静かに、さりげなく。女は息を呑み、思わず立ちあがった。少しの間を置き、男を乗せた担架が数人の看護婦たちに押され、部屋から出てくる。女はすぐに声をかけようとしたが、思いとどまり、看護婦たちのあとを黙って着いていった。

 きゃりきゃりと、無音だった病室に場違いなほど軽い音が混じる。女は苦笑しながら、黙って、歩み続けた。担架を押す看護婦たちはエレベーターに乗り、ボタンを押し、階を昇り、廊下へ出て、なんの淀みもなく先へ進む。

 集中治療室。男が運び込まれた病室には、そう、プレートが掛かっていた。女は部屋の前で佇み、やがて看護婦たちが、ほっとしたような顔で部屋を出ていったあと、ゆっくりとドアをくぐり、部屋の中へと歩みを進めた。











 思ったよりも、狭い部屋だった。テレビで見たイメージよりも、若干狭い。そう思いながら、女はニュース以外のテレビ番組の楽しさを教えてくれたのが、他でもない彼だったと、不意に思い出していた。顔に、またしても苦笑が浮かぶ。

 男は酸素供給のマスクを被せられ、まるで死んでいるように――――縁起でもない――――微動だにしない。まだ麻酔が効いているのだろうから、当然と思えなくもないが、それでも女は少し悲しくなった。ベッドの隣には大きな白い機械が、おそらく生命維持装置が、男の身体を守る番犬のように、小さな鳴き声を繰り返していた。ピッ、ピッ、ピッ……

 死ぬんじゃないわよ、と女は呟いた。死んで見なさい。私は、絶対にあなたを許さないわよ。あなた(・・・)は(・)、あなた(・・・)は(・)絶対(・・)に(・)――――

 突然、女は自分の口を押さえた。微かな疑問が、頭の中を駆け巡っている。なにか違和感があった。起きたら、そう、自分の部屋と同じように作られた、まったく精巧に作られた別の部屋にいるような、そんな違和感。ここにいるべきじゃない、と不意に女は思った。ここにいてはいけない!

 女は頭を振り、その思いを、疑問を吹き飛ばした。妙に息が荒くなるが、気にしない。気にならない。女はふらつく足取りでベッドの脇まで進み、スーツから取り出したロケットを眺め、微笑んだ。



 優しい、写真の中の笑みそのものだった。



 女はロケットを男の胸に置き、身を屈め、男の額に口付けした。

「……バイバイ」

 呟いた言葉は、彼に伝わっただろうか?























































 彼女と別れた次の日、アパートの玄関を叩くやかましい音で、僕は目を覚ました。鈍痛が縦横無尽に走り回る頭を無理矢理に働かせ、なんとか玄関まで辿り着き、開ける。一瞬、青空の眩しさに目がくらんだ。そして、空気の冷たさに凍えた。

「お前、まだ寝てたのか? もう昼廻ったぜ」

 片手にビニール袋を提げ、玄関の前に立っていた友人が言った。五月蝿い、と僕は答え、何の用だ、と尋ねた。

「いやなに、幾らお前でも沈んでんじゃないかと思ってよ。様子見もかねて、な」

「……勝手にしろよ」

 吐き捨てるように呟き、僕は部屋の中に戻った。所詮はワンルーム、玄関の次はすぐに居間だ。足元に気を付けながら、なんとかテレビの正面まできて腰を下ろす。リモコンはどこだっけか……?

「おいおい、ひどい有様だな」声にそちらを向けば、友人がビニール袋を床に置きながら、呆れた顔で部屋の中を見まわしていた。「そこまで好きだったなら、別に別れなくたって良かっただろうに」

「馬鹿言うなよ」かぶりを振って、僕は答えた。「別れるのが、最良の選択なんだよ、先輩にとっては。先輩は気付いてないんだ。自分の仕事がさ、最近疎かになってたことに」

 その理由が僕にあるということは、想像に硬くない。事実だけを見るなら、先輩の仕事の内容は、確かに以前に比べ悪くなった。けど、それは単に先輩の仕事が他の社員に並んだと言うだけだ。それのどこが悪いのか、僕にはわからない。けど。

「クソッ……」

 脳裏に、先輩の陰口を叩く同僚の顔が浮かんだ。ぶん殴りたいほどに忌々しい顔だ。そいつの代わりに、床を思いっきり殴ると、どん、と鈍い音がした。

 手のひらを振りながら、僕はゆっくりと部屋の中を見まわした。なるほど、確かにあいつの言い分ももっとものような気がする。あたりにはところ構わずビールの缶が散乱し、その内の幾らかは中身が残っていたらしく、にごった黄色い液体を床の上に広げている。みんな、昨夜の僕の残した戦跡だ。このあと掃除をするのかと思うと、ずいぶんと気が滅入った。

「……まあ、お前の選んだ道だ。後悔だろうが何だろうが、気が済むまでやってくれ。ああ、だけど、一つだけ聞かせてくれ」

 言って、友人は急に真剣な顔つきを僕に向けた。心構えはしていたつもりだけど、僕のほうも、そんなコイツの顔を見て、妙に頭がすっきりする。想像していたよりも弱い緊張が、僕の頭をどうにか正常に働かせようとしていた。

「ライターの仕事、引き受けてくれるんだな?」

「……ああ。もう辞表も叩きつけたよ」

 そう、僕は、こいつが進めたライターに成るため、旅行記事を書くために、いまの、違う、昨日までの仕事をやめたのだ。そういった仕事に前々から興味があったし、なにより、彼女の元を離れるなら会社を辞めるほかに道はない。先月コイツが持ちかけて来た話は、僕にしてみれば、まさに願ったり叶ったりの話だったのだ。コイツの勤める雑誌編集者が、驚くことに僕を名指しで指名したらしい。僕が大学にいた頃の知り合いが、じきじきに進言したと聞いた。ちなみに、コイツではない。

「そうか」言って、友人はほっとしたように顔を緩めた。「それならいいんだ。――――ほれ、せっかく買ってきたんだ、読めよ」

 言いながら、友人はビニール袋の中から新聞を取り出し、僕に差し出した。スポーツ新聞だ。あいにくと文字が読める心持ちだとは思えなかったけど、とりあえず、僕は一面に目を走らせた。

「他にも、一応いろいろと買ってきたんだぜ」

 面白い記事はない。ページをめくる。

「サンドイッチ、コーヒー、二日酔いの薬……」

 二面にもたいした記事はなかった。三面へ。

「あと、今度行ってもらう北海道の旅行ガイドだ。別の会社だけど、結構出来てて役に立つんだよ、これが」

「…………」

「しかしまあ、やっぱ会社が違うからな。こんなことが知れたら、部長にこってり絞られそうだなぁ……ああ、そうそう。その、北海道の記事が初仕事になるわけだけど、俺も同行するからな。と言うか、俺たちでやるんだ。先輩の手順をよく見ておけよ?

 ……なあ、おい。聞いてるか?」

 肩をゆすぶられ、僕は、不意に我に帰った。友人が不思議そうな目で僕を見ているが、あいにく、僕はそれどころじゃなかった。三面記事。大して重要ではないはずの欄に、僕は小さな、小さな記事を見つけていた。

「……悪い」なんとか、僕は声を搾り出していた。押し殺した声だ。でなければ、震えが出てしまうのはよくわかっていた。「帰ってくれ」

「なに? 突然、何を――――」

「帰ってくれ。頼む」

 もう一度、僕は声を上げた。なにかを感じたか、友人はしばし黙ったあと、黙って立ちあがった。

「いつまでも」ドアを出るとき、肩越しにこちらを振り返り、友人は言った。「沈んでんじゃねぇぞ」

 それがアイツなりの親切心というか、思いやりだと言うのはわかったけれど、僕はなにもできず、ただ、自分の膝を抱きかかえることしか出来なかった。ドアが閉まる。僕は、部屋に一人になった。

 頭の中を、訳のわからないなにかが飛び回っていた。ぶわんぶわんと、まるで巣を悪戯された蜂のように、それは僕の中を飛び回った。蜂、と言うのは言い得て妙だったかもしれない。それは確かに、僕を突き刺して、ぼろぼろにしていったのだから。

 それは、後悔の念だった。お前が、お前が、お前が……蜂がわめく。先輩を、先輩を、先輩を……

 手に握り締めた新聞は、いつの間にかくしゃくしゃに歪んでいた。紙面が黒く染まり、爪が突き立った個所が破れ、僕自身の手に食い込んでいた。僕は泣いていた。























 おまえがおまえがおまえがおまおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまえがおまがえおまえがおまえがおまえががおまえがおまえが



















 

 蜂がわめく。頭にぐわんぐわんと羽音が響く。





















 せんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいをせんぱいを





























 僕は叫んだ。なりふり構わず、ただ、叫んだ。

 絶叫した。

















































 手術から三日後、男は意識を取り戻した。



 男はベッドの上で上体を起こし、様子を見に来た医師と看護婦に対応していた。医師は脇に挟んだカルテを覗き、安堵の息と共に言葉を吐いた。

「本当に、早く運ばれてきてよかったですね。下手をしたら出血過多で亡くなっていましたよ」

「お世話かけます」右手は折れているので、左手で後頭部を掻きながら、男は言った。そのまま、呟くように先を続ける。「だけど、なんで僕、あんなところで転んだんだろう……?」

 男の言葉に、医師はん、と声を上げた。

「転んだんじゃありませんよ。あなたは、車とぶつかったんです」

「え? そんな、あの時周りに車なんて」

「いえ、確かですよ。あなたを撥ねてしまった、と言って来た女性がいましたから。もっとも、その女性があなたを運んできたんですが」

「……感謝すべきかどうなのか、悩みますね」

 ぼやくように言った男に、医師と看護婦は揃って失笑した。医師は隣の看護婦に目をやり、「まあ、どちらにしろ、一度お礼を言っておくべきでしょう。どんな人でしたっけ?」と言った。

「さあ、私は……」困ったように看護婦は言って、そして、何かを思い出したかのように先を続けた。「あ、そうそう、これはあなたのものですか?」

 看護婦が差し出したのは、男にとってはなによりも大切な、金色のロケットだった。男は驚いたようにそれを見つめ、驚きとも、悲しみとつかない顔で言葉を紡いだ。

「はい、そうです。……でも、誰が?」

「あなたが運び込まれた次の日、あなたの体の上に乗っていたそうです。見まわりの娘(こ)が見つけたんですよ」

 言って差し出されたロケットを、男は懐かしむような顔で受け取った。しばらく眺めたのち、おもむろに親指で蓋を弾く。小さな音を立て、中の写真が白日の元にさらされた。

「まあ、恋人さんですか?」と看護婦。

 男は困ったように微笑み、やがて一言、「だった人です」とだけ言った。

「し、失礼しました」

「いえ、構いませんよ」男は言って、ふと、黙り込んでいる医師に気がついた。「どうしたんです? 先生」

「……やっぱりそうだ、その人ですよ」なにかを思い出したかのように、医師は嬉々として声を上げた。「その人が、あなたを運んできたんです。間違いありません」

「馬鹿な」苦笑したように、男は言った。「そんなことは、絶対にありません」

「なんで、そんなに自信をもって言えるんです?」

 困惑したように声を掛けてきたのは看護婦。男は苦笑し――――本当に、本当に悲しそうに苦笑し、涙をたたえた瞳でロケットの中の女性を見つめ、答えた。







































「だって先輩は、一年前、車ごと……東京湾に、飛び込んだんですから」









































 答えながら、僕は不意に、一年前のスポーツ新聞を思い出していた。



 お前が



 東京湾から、一台の赤い車が引き上げられたと言う記事。運転手は女性で、警察は自殺の面で操作を開始。小さな見出しの下に、さらに小さな写真が載っていた。



 先輩を



 あの日から、僕の頭の中に巣を作った蜂が、今日も羽音を立てる。



 殺したんだ



 羽音の休まるときなど、ない。







 お前が先輩を殺したんだ





  ぐわん、ぐわん、ぐわん、ぐわん、ぐわん、ぐわん……





































 東京湾に続く道路を、一台の赤い車が走っていた



 運転席に、スーツを着た女を乗せ



 車は東京湾へと向け、進んでいた



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