喰人鬼









 煤の焦げる微かな音が耳に届いている。
 脆弱な西洋灯(ランプ)の光が、部屋を呑み込もうと触手を伸ばす夜闇に甲斐甲斐しくも抗っている。
 いまにも消えてしまいそうな光と、光すらも呑み込まんとする闇の境界で、彼女は重い口を開いた。

「鬼鎮め、というものをご存知ですか?」

 言葉は静かに闇に消える。

「私たちは、端的に申せば、そういった異形のもの、人ではないものを専門に扱う退魔師でございます。ええ……この身を怪しみなさるのも仕方なきこと、存分にお嘲笑(わら)いになってくださって結構です。この私も、幼少の砌には己の道に疑問を覚え、自らが学び磨く業の意味合いを疑っておりました。ですが洋一様、一つだけ、一つだけ胸に刻んでくださいませ。この世には、如何な観念も如何な記憶も如何な常識も如何な理解も超越した、踏みにじった悪夢のような出来事があり、その原因となるものがあるということを」

 悪夢のような出来事。
 それは、つまり。

「私はそれを、修練の終に師より示されました。この世の影に転がり、闇に蠢く異形たちの姿と、その凄惨さを思い知りました」

 血に染まった野原だったり、

「私のことをどうお思いになられようと、それは結構です」

 顔を潰された父だったり、

「ですが洋一さん、いま一度申し上げます」

 四肢をもがれた母だったり、

「どうか、ゆめゆめ、現世の闇をお忘れなきよう、お願い申し上げます」

 腹を開かれ臓腑を蹂躙された妹だったり、

「――知っています」
「え?」
「私は、そう言うものを――嫌というほど、覚えています」



 身体中を血に染め上げ、三つの死体に囲まれながら童女(わらめ)のように微笑む彼女のことなのか――









 外はまだ昼間だというのに、小屋の中は薄い闇に埋もれていた。
 鼻をつくのは土の匂いと黴の臭い。そして乾燥しきっていない多種多様な薬草から薫る野のにおいだ。
 小屋の中には老婆の姿が一つある。
 土間の向こう。座敷に座り、ただ黙々と薬草を擂り潰している。

「婆さん」

 私の呼びかけで、老婆は顔を上げる。どうやら私の訪問にも気付いていなかったらしい。
 私は里の者から預かってきた荷を座敷に下ろし、代わりに老婆から歪な形の錠剤が詰められた壜を受け取る。と、老婆は壜を差し出した手で私の腕を掴み、その、もはやろくに見えていないであろう落ち窪んだ瞳を私に向けた。

「洋一や」

 紡がれた声に力はなく、注意深く耳を傾けなければ聞き取れそうにもなかった。

「あんた、本当にそれでいいのかい? やっと八分が解けたんだ、わざわざそんなことをするだけの意味が、するだけの理由があるっていうのかい?」

 淡々と紡がれた言葉は、そう、まさに言葉だけ。そこに私を説得しようなどという意思は微塵も見て取れない。それも当然。なぜなら、これは儀式だから。私がこれを、祖母が調合した弱い弱い毒を受け取るために必要な儀式。死には至らず、しかし分解されることもなく、着実に人体に溜り淀み凝り固まる毒。六年間、私が十二のときから延々と続けられてきた、もはや当初の意義さえ磨り減った確認の儀式。
 問われたのは決意。求められてのは背信。差し出したのは恩義。得られたのは毒。
 だから私は、沈黙でもって肯定を示す。祖母の目を見返すような愚はしない。ありもしない希望を、紛いもなしに私を養ってくれた祖母に示すわけにはいかない。
 祖母はしばらくの間私の腕を握っていたが、やがて弱々しくその手を離した。
 私は受け取った透明な壜をズボンに仕舞い、薬師である祖母の小屋を離れた。





 幾つかの夏野菜を菜園で収穫し、私は里の外れにある旧寮に向かった。高かった日も、既に山の向こうに消えている。誰彼時と呼ぶにはまだ早いが、山に囲まれたこの里の昼間は夏冬を問わず短い。
 里を迂回するように流れている川の土手を歩いていると、前方、夕闇と夕陽の狭間に佇む女性の姿があった。薄手の単に身を包み、腰上までの艶やかな黒髪を風に任せて靡かせている。
 女性は私の姿を認めると、話に聞く氷の花を思わせる足取りで私に歩み寄って来た。私は歩みを止め、そんな彼女を迎える。
 彼女は私の目の前で足を止めると、それまでの凛とした佇まいなど幻影と言わんばかりに輝かしい笑顔を浮かべ、私の名を呼んだ。
「洋一、いま帰り?」
「ええ。朱鷺子さんは何処に?」

 私の問いに、彼女、庭囲朱鷺子は眉根を寄せた。
 なに言ってるのよ、と私を小突く。

「あなたを待ってたに決まってるでしょ? まったく、せっかくお屋敷を抜け出してきた私に、そんなつれないことを言うんだ」 「……冗談だよ。こんにちは、朱鷺子。いや、こんばんは、かな?」
「どっちでもいいじゃない、そんなの」

 不満そうな顔を一転させ、機嫌よさそうに朱鷺子は言う。
 庭囲朱鷺子。代々この里の長を勤めることを命じられた庭囲家の長女。私と同い年であり、その縁は幼少の頃から途切れることなく続いている。私の場合、母が余所者という関係で家族ぐるみの村八分にあい、里の子供とは口をきいた覚えもないが、この女性だけは例外だった。

「今日も薬師様のところに行ってきたの?」
「うん。そろそろ薬が切れる頃だったからね。というわけで、はい、これ」

 僕は肩に提げた古い鞄の中から小さな薬壜を取り出し、それを朱鷺子に渡した。
 朱鷺子はさっそく壜の蓋を開け、中からそれを、不揃いの錠剤を幾つか取り出した。曇った硝子壜の中から取り出されたそれは、深い植物の色。里の周囲に自生する種々の薬草から精製されたそれは、この里唯一の薬師である私の祖母の仕事だ。

「時間と量はいつもと同じ。朝と夜の一日二度、三錠か四錠。あまり頼り過ぎないように」
「ええ、分かってるわ。だいたいこれ、苦いから進んで飲みたいだなんて思わないもの」

 朱鷺子は錠剤を壜に戻し、それを袖に仕舞う。袖口から覗く手首は冗談のように白く、この夏の日にあっても日焼け一つしていない。もっともそれは手に限ったことではなく、全身がそうであるのだが。
 私の視線に気付いたか、朱鷺子は顔を上げて私を見た。にこり、と彼女は童女のように邪気の無い笑みを浮かべる。

「じゃあ洋一、私はそろそろ戻るわね。お父様が心配してるでしょうから」
「うん、じゃあね。身体に気をつけて」
「ええ。会えてよかったわ、洋一。今夜、また会いましょう?」

 僅か目を逸らし、顔に赤味を差す朱鷺子に小さく頷いて、私は朱鷺子と別れた。
 朱鷺子が向かう庭囲家の屋敷――村長の邸宅と、私に宛がわれた旧寮は里を挟んでちょうど反対側に位置している。
 次に朱鷺子と会うのは、草木も眠る丑三つ時。
 周囲に伏せられた、秘密の逢瀬となるだろう。



 簡単な夕食を終え、部屋の補修を終えたころ、意外な人物が旧寮を訪れた。
 戸を開けると、初老を迎えたばかりの老人がそこに立っていた。簡単な、しかし確実に質の良い衣類に身を包んだ老人は、その顔に浮かんだ不快な表情を隠しもしない。

「洋一」
「はい、なんでしょうか、村長」

 老人、村長は不躾に私の名を呼ぶ。それも当然。私に気を遣うという理由が、この老人には欠如しているのだから。いや、例え村長でなくとも、村八分にあっていた人間と対等に口をきく村人など居ないだろう。

「部屋は空いておるな?」

 有無を言わせぬ物言いはもはや聞きなれたもの。
 私はできる限りの無表情で頷いた。

「はい。一応、三部屋ほど空いていますが、それが何か?」
「客人だ。世話を任せる」

 村長の言葉で、私はようやく玄関に立つ二人目の姿に気が付いた。彼女は小柄で、年の割には大柄な村長の陰に隠れていたので、簡単には見つけられなかったのだ。
 彼女――そう、女性。白い旅装束に身を包み、傍らに小さな鞄を提げている。年のころは私と同じか、或いはそれよりも少し下。申し訳無さそうに伏せられた顔から上目遣いに覗く瞳は、しかし彼女が強い芯を持つ女性であることを訴えている。

「わかりました。確かに」
「粗相の無いようにな。このお方には、娘の記念日を祝ってもらわねばならん」

 村長は私を詰るように睨むと、何の感情も篭めずにそう言い残し旧寮を後にした。その足取りに迷いは無く、流されるままに此処を訪れることになったのであろう旅人に対する気配りも無い。
 私は嘆息し、とりあえず、と旅人に声を掛けた。

「この辺りの山道はさぞ大変でしたでしょう。まあもてなすと言っても茶の一杯ぐらいしか出せませんが、どうぞおくつろぎ下さい」
「え、あ……感謝します。ありがとう」

 彼女は顔を上げて口の端に笑みを浮かべる。
 私は彼女を居間に導いた。古い木製テーブルの上には、夕食に使用した食器がそのまま残っていた。

「お恥ずかしい。少し待ってください、いま片付けますから」
「いえ、そんな、お構いなく。屋根があるところで寝れるだけ僥倖ですから」

 本気でそう思っているのか、彼女の言葉には謙遜の響きが無い。
 けれどそれを鵜呑みにするわけにも行かず、私は手早く食器を片付けた。保温壜の中に残っていたお湯でお茶を淹れ、彼女の前に出す。

「ありがとうございます」
「いえ。……ところで、名前をお伺いしても宜しいですか?」
「あ、そうでしたね。失礼しました。私は氷上。氷上留美と申します」
「氷上さん、ですか。私は烏丸洋一と申します。村長の命ですので、用事があればなんなりと申してくださいね。夕食はどうなさいます?」
「いえ、もう摂ったので結構です。烏丸さんは、お一人で此処に?」

 部屋の中を見回しながら、留美はそんなことを訊いてくる。

「はい。しばらく前に家族を亡くしていましてね。村長の好意で此処に住まわせて頂いております」

 私は頷き、予め用意されていた答え、既に何度となく繰り返したその答えをまた口にする。少なくとも嘘は言っていない。家族が、父が母が妹が死んだのは紛れもない事実だし、本来なら口封じさせられたはずの私を生かし、この旧寮の管理人として飼うことを選択したのは村長に違いない。
 仮に――其処には、廃品利用という意味合いが強いのだとしても。
 私の返事に、留美は僅か息を飲んだようだった。留美は申し訳無さそうに顔を伏せる。

「……すみません」
「謝らないで下さい。もう昔の話ですよ。さて……先に部屋を案内させていただきますね」

 私は立ち上がり、留美を居間の奥に導く。

「部屋は一階に三つ、二階(うえ)に五つあります。ですが上の五つはまだ補修中ですから、使うなら一階の部屋にしてください。手入れはしてありますから、すぐにでも使えるはずです」
「わかりました。親切にありがとうございます」

 頭を下げる留美に、私は微笑んだ。

「いいえ、これが仕事ですから」

 そう。
 こうして、良心の呵責も何も無く人を陥れるのが、私に許されたただ一つの生存方法(じんせい)に他ならない。





 夜遅く。月が頂点を越し、夜半を数刻越えた時分。
 旧寮に戻ると、居間で留美が書物を読んでいた。

「まだ起きてらしたんですか?」

 西洋灯の放つ弱々しい光に目を向けながら、私は留美に声を掛ける。どうやら私には気がついていなかったらしく、留美は私を確認すると慌てたように読んでいた書物を鞄に仕舞った。

「そ、そちらこそ、まだ起きてらしたんですね」
「私は用事がありますからね。何を読んでいたんですか? かなり古い物のようでしたが」

 満足な光源とは到底言えないため、十分に観察することは出来なかったが、その本が年代物であるということは容易に知れた。色あせた紙に、一目で手書きと知れる文字の羅列。文字と理解できても単語と認識できなかったので、おそらく草書の類だろう。中身に加えて、綴じられ方は紐による簡易なものだ。間違いなく古書の類だろう。
 私の問いに、留美は僅か眉を潜めた。

「……申し訳ありませんが、答えることは出来ません」
「答えることが出来ない?」

 ええ、と頷く留美。

「これは、その……あまり、人目に晒すものではありませんから」

 すまなそうに言い、目を伏せる。
 そうですか、と私は肩を竦めた。

「わかりました。ならば無理にとは言いません」
「本当に申し訳ありません……」
「いえ、気にしないで下さい。人は秘密の一つや二つ、持っていて当然ですから」

 殊、私や、この里のものにしてみれば、秘密の数は一つや二つでは効かないだろう。
 そうでなければ――ただ余所者と子をなしたという理由だけで、両親が阻害されることも無いのだから。

「洋一さんは、その、どちらに?」

 話題を変えるためか、留美はおずおずとそんなことを問うてくる。
 だから私は、なんでもないことのように答えた。

「少しばかり、女性と会ってきました」
「え?」
「あまり他所様に喜ばれる関係ではないので、当面こうして、水面下で……ですけど、ね」
「……よろしいのですか? そのようなことを、私のような旅の者に話して」

 驚いたかのように言う留美。
 けれどその問いは、何処までも無意味だ。

「構いませんよ」

 それは本音。

「既に公然の秘密に近いものでもありますし……それに、わざわざ吹聴するような方でもありませんでしょう、貴方は」
「それは……そうですが」

 納得がいかないのか、難しい顔をする留美。
 その様子があまりに滑稽なので、私は思わず笑ってしまった。

「気にしないで下さいよ。私は話したいから話しただけです。貴方に非は無い」
「……」

 私の言葉を聞いているのかどうか、留美は無言で机を睨んでいる。
 どうやら、私の秘密を聞いたという事実が何物にも代えがたい負い目だと思い込んでいるようだ。
 本当。殊勝な、コトだ。

「そうですね」

 黙られていても面白くない。私は妥協案を提示する。

「先の本に関して教えていただけないのなら、貴方の旅の目的を教えて頂けませんか?」
「――」

 その、なんでもない筈の問いに。
 留美は、きつく――きつく、手を握り締めた。

「……どうかしましたか?」

 留美は答えない。答えず、ただニ、三度口をわなわなと震わせ、やがて長い煩悶という沈黙の後に――



「鬼鎮め、というものをご存知ですか?」



 静かな静かな、言い逃れを許さぬ声音で、留美はそう問うた。







 翌朝。
 薬草園の手入れをしている私の元に、村長が訪れた。

「おはようございます」

 声を掛けても返事は無い。
 ただ村長は私のことを物でも見るかのように見やったあと、前置きも何も無く、

「手筈はどうなっている?」

 と低い声で尋ねてきた。

「……万事抜かりなく」

 ここは里が所有する薬草園。里の周囲に自生する種々の貴重な薬草を集め栽培させている人口の園だ。この場所を知っているのは、代々薬師を努める家系の当代と庭囲家の人間のみである。
故に声をひそめるなどという行為はあまり理由が無いのだが、それでもとりあえず、僕は小さな声でそう答えた。

「祭りは今夜だ。粗相の無いようにな」
「承知しています」

 その答えは満足のいくものだったのかどうか。村長は私に鋭い一瞥を向けるとそれ以上の言葉も無く身を翻し、園を後にした。
 誰も居ない園に、鬱蒼とした木々に囲まれた地面を縫うように広がる園に一人残った私は、村長の背中が見えなくなったのを確認したあと、小さく息を吐いた。

「祭り、か……ふん。よく言う」

 思い起こすのは丁度六年前の今日。
 留美の言うところの、如何な観念も如何な記憶も如何な常識も如何な理解も超越した、踏みにじった悪夢のような出来事。それが私の身に降りかかり、私の目の前で展開したその日。
 そして、間違いなく朱鷺子が私にとっての特別として焼き付けられた、夏の日。
 瞼を閉じれば、今でも赤い光景を思い描くことができる。
 息絶えた家族。血に染まった草原。戻ってきた私。破片に格下げされた母親。微笑。顔そのものが醜悪に潰された父親。何も知らない子供のように。現実を認識することを放棄した顔のまま腹を暴かれた妹。無邪気に。本当にそれを楽しむように。水音を立て。妖艶に。切り開かれた妹の腹に手を差し込み。悪夢のように。幻のように。水音を立て。単を黒ずんだ赤に染めながら。水音を立て。無尽に。恍惚の表情で。水音を立て。水音を立て。童女のように。黒髪すらも赤に染まり。如何な罪も知らぬと。如何な罰も受けぬと。水音を立て。縦横に。妹。愉しみながら。水音。全身を血に染め。童女の如く微笑みながら。遠慮も考慮も思慮も躊躇いも。全て無く。水音。赤い手を舐め。声も上げずに微笑み。暴力的に。慈悲の欠片も見せず。悪夢のように。それが蜜であるかのように。加虐の欠片もなく。赤の下は病的な白。ただ愉しむように。当然の如く。妹の臓物を掻き回し。つかみ出した腸を食み。恍惚に染まりながら。童女のように。

 水音。

「――」

 僕は目を開いた。山の向こうに潜んでいた太陽が、浅いながらも姿を見せている。朝の涼しさも次第に薄れ、じき耐えがたい暑さを浴びることになるだろう。
 握りこんでいた掌を、ぎこちなく、自分の指とは思えない不自由さで開ける。
 開いた口から漏れたのは感嘆の吐息。
 全身が熱かった。記憶。僕が家族を失い、私が薬師の跡を継ぐ原因となったあの光景。
 それを思い返すたび、僕は耐え難い程に激しい、押さえ難い程に狂おしい激情に襲われる。鼓動は急ぎ呼吸は荒くなり、居ても立ってもいられなくなってしまう。
 僕から家族を奪った少女。

 その名は、庭囲朱鷺子と言う。

 私は喉の奥で声を殺し、額に浮いた汗を拭うとゆっくりとした足取りでその場を後にした。





 留美に宛がったのは、二階の一番奥の部屋だ。
 私は水差しと握り飯を盆に載せ、旧寮の廊下を歩いていた。古びた床は歩を進めるごとに耳障りな音を立て、利用者を警告する。黒ずんだ床。どれだけ換気しようともなお空気は淀み、濁った、そして饐えたにおいを漂わせている。
 私は奥の扉の前で足を止め、扉の下部に設けられている差し入れ口を開いた。
 手にした盆を、そこから中にすべり込ませる。

「洋一さん?」

 部屋の中から声。私は小さく息を吐いた。

「起きてらしたんですか」
「ええ、先ほど。……これはどういう意味なのか、教えていただけませんか?」

 言葉に続き、鉄と鉄が軋む低い音が耳に届く。

「見て分かりませんか?」

 言いながら、私は外側からしか掛けられない鍵を開け、部屋の中に侵入する。
 それほど広い部屋ではない。家具らしきものは木製の寝台と丸机が一つずつ。尤も、この旧寮は決して人を逗留させるため施設ではないので、この程度の調度品でも上等と言えるだろう。
 寝台の上には、細めた瞳で私を睨む留美の姿がある。
 その装いは昨夜のままだが、手首にだけ違いがある。

「日暮れまで目が覚めないと思いましたが……手枷、つけておいて正解でしたね」
「これは何の真似ですか?」

 静かな声で、顔に似合わぬ鋭さで留美は言い、自身の片腕に括られたそれを目で示した。

「見てお分かりでしょう? 拘束させていただきました」

 留美の腕に括られているのは、錆の浮いた年代物の手錠だ。手首をまるまる覆うそれからは鎖が伸びており、その先は壁に打ち込まれた杭に繋がっている。鎖の長さは、この部屋の中をうろつくには差し障りないといった程度。しかし部屋の外に出るには明らかに足りない長さだ。
 私は盆を机に置き、改めて留美に向き直った。

「昨夜、私がなんと答えたか覚えていますか?」
「――?」

 目の鋭さは失わないまま、留美は僅かに眉を潜める。

「観念も記憶も常識も理解も踏みにじった悪夢のような出来事。私はそれを、よく覚えています。――この土地にはね、氷上さん。実に信じがたい、実に悪趣味な話が伝わっているのですよ」

 思い返す文脈は、かつて父が私に語った物語。
 当時一笑に伏し、後に目の当たりにすることとなる、現実を侵食した御伽噺。

「この土地は、もともと人の物ではなかったのです。この山はそも獣たちの、そして山神のものとされていました。ですが、」

 私は携帯している小壜を取り出した。軽く振れば、中で錠剤同士がぶつかる小さな音がする。

「ですが――この里の周囲には、酷く貴重で高価な薬草が自生していましてね。無視するには惜しかったそうです。そこで当時の村人達は旅の法師にこの里の守り神――いいえ、違いますね。正しくはこの土地の守り神です。私たちの祖先は、ここを蹂躙するためにやってきた侵略者にすぎないのですから。彼らは旅の法師に依頼し、土地の守り神を人の身に封じることに成功しました」

 一旦言葉を切り、留美を見やる。
 留美は驚いたような、けれど青ざめた顔でこちらを見ていた。その瞳にもはや私を睨む鋭さはなく、その口の端が小さく震えている。
 先を続ける。

「封じられた神というのは山神、獣の神でしてね――それが男神なのか女神なのか私は知りませんが、おそらく女神なのでしょう。人の身に封じられた山神は拠り代となった家系に憑き、以後血の繋がりを無視し、その家に生まれる最初の女子の裏として里の者に危害を加えているのです」
「山神――獣――まさか」

 震える声で呟く留美。私の話を疑いもしないと言うことは、彼女の言うとおり、彼女はその道の人間なのだろうか。

 鬼鎮め。

 その言葉を聞いたのは昨夜が初めてだが、その意味の程は知れる。

「ええ、おそらく貴方の想像は正しいのでしょう」

 それは、自分でも驚くほどに軽やかな声だった。

「封じたのが獣の神だからなのかどうかは存じませんが――彼女は、月に一度酷く虚になる。その時はまだ押さえが効きますし、屋敷に閉じ込めておけば里の者を襲うこともないのですけどね。ですが年に一度、どうしても押さえが効かなくなる時があります。酷く人間味を失い、束縛しようとすれば束縛しようとする者全てを殺め、喰らう時が」

 記憶に残るのは水音。
 何か柔らかいものを、ただ無心に、意味もなく意義もなく掻き回す彼女の指。
 それらを無視し、私は留美に笑いかけた。

「それが偶々今日なんですよ。ですから氷上さん、貴方には――今年の供物になっていただこうと、そういう趣向です」

 私は服から壜を取り出し、それをテーブルに載せた。

「暴れられても困りますからね。薬、飲んでもらいますよ」





 日が暮れた。
 里の外れ。里を迂回して流れる川の淵でかがり火が焚かれている。火は音を立てながら火の粉を撒き散らし、川から吹く風に勢いを増しながら夕闇に染まった世界を半端に照らす。
 揺らめく炎を背に、白い単の朱鷺子が立っていた。
 朱鷺子の、正確にはかがり火の周囲には一定の距離を保ちながら、彼女の様子を伺う人影が幾つか。みな顔を古びた面で隠し、その振る舞いや存在に、一片足りとも生物らしさ、人間らしさを滲ませていない。

「お待たせしました」

 故に私は異端。
 面もつけず、なんら特別な振る舞いも見せず。ただ日常の延長戦として、この狂宴に身を晒す。

「……」

 近くにいた男が、何も言わずに顎で朱鷺子を示した。私はそれに黙って頷き、面をつけた者達、この里の有力者達の輪に割って入る。仮の顔により隠された双眸から向けられる、忌諱と嫌悪と畏怖の視線を感じながら私は朱鷺子の前に立つ。
 朱鷺子は虚ろな目で私を見返す。昨日見せた明るさも、昨夜見せた女性らしさもいまは皆無。焦点の合わない視線は私ではなく私の腕の中、薬で意識すら曖昧な留美に注がれている。
 だから私はいっそ微笑んで、そっと留美の身体を川原に横たえる。四肢を投げ出す留美の身体は微塵の抵抗も見せることなく、力なく其処に転がった。
 音も無く。
 朱鷺子が、一歩を歩んだ。

「ご賞味あれ」

 私は言って、懐の短刀を取り出した。刃に塗った薬物のせいか、短い直刃は炎の不安定な光に光沢無く照らし出される。私はそれを、紛れもなく人の肌を裂くための刃を、躊躇い無く留美の首筋に這わせた。僅かな抵抗が手に返り、薄い刃の軌跡を赤い水が内部から塗りつぶす。
 急所ではない。私は薬草の調達とその調合による製薬だ。外科は専門ではないが――それでも、その程度の知識ならばある。
急所ではなく、しかし出血は多い。ならば薬が効くのもそう遠くないだろう。
 私は出血する留美をその場に残し、そのまま後退した。朱鷺子の注意は既に私には欠片も向けられていない。その目はただただ横たわった留美に、その首筋から溢れる血に注がれている。
 そうして、私が面男たちの輪の外まで下がったとき。
 まるでそれを心待ちにしていたかのように朱鷺子は微笑むと、自然な、まるで倒れた子供を母親が介抱するかのような慈愛に満ちた素振りで留美の下に屈み、その首筋に舌を這わせた。
 僅かに覗く赤い舌が、信じられないほどに艶やかな肉が留美の傷跡を、蜜の染み出る亀裂とばかりに舐めまわし、

「破!」

 という掛け声と共に身体を跳ね上げた留美に、朱鷺子は思いのほか軽く突き飛ばされた。
 瞬間、面の者達の間に動揺が驚愕が、悪夢が走る。
 なぜならそれはありえない光景だからだ。いま彼らが囲っているのは、円陣の真中に在られるのは間違いなく人の身に――代々庭囲家長女に封じられる土地神であり、或いは人を喰らう鬼女なのだ。今宵捧げられた彼女はただの供物で、蹂躙され租借され嚥下されるだけの存在のはずなのに、その食事が反旗を翻したのだ。

 その事実を誰が信じられよう。

 ただ、遠くは無いはずだ。誰かが気付く。力を失っていた留美、その振る舞いに演技は無い。当然だ、身体の自由を奪う薬を盛ったのは紛れもない私なのだから。私が留美に飲ませたのは、身体の自由を奪うというただそれだけの薬。加えて言えば、解毒剤さえ盛れば直ぐにでも薬の効果が抜けるという一品でもある。
 解毒剤を盛る。
 経口でも構わないし、仮に血管に直接投与したならばそれこそあっという間に薬は抜け、留美は自由になるだろう。

 例えば。

 解毒剤を塗布した刃で血管を傷つけられるとか、そういった簡単なことで、留美の身体から障害は消える。
 私は走った。手には抜き放ったままの短刀。
 比較的近くに居た、留美の反撃に驚き、いまだ立ち尽くしたままの男に最短距離で掛けより、疾駆の衝撃を全てぶつける形で男の脇腹に短刀を突き刺す。

「――」

 男が口から嘆息にも似た悲鳴を漏らす。私はそれを無視して手首を捻り、肉を掻き回すようにして力任せに刃を引き抜く。狐の面をつけた男は前のめりに川原に倒れ、そのまま動かなくなった。
何気なく袂を見る。短刀を握った手が、傷口から流れ出た血に染まっていた。

「洋一、貴様何を――」

 声を上げたのは、残り二人の面をつけた男達、その一人。
 私は何も答えず、再び走り始めた。視界の端に、炎に照らされながらお互いにお互いを押さえつけようと無様に立ち回る朱鷺子と留美の姿が見える。
 迫る私を見て、男は僅か身構えたようだった。その仮面は狸。私は別段構えるでもなく、ただ足を速め男との距離を詰める。
 近づけば近づくほど、男の身体が如何に矮小であるかが知れた。けれどそれも当然の話。この場に居るのは、この宴を知るのは里の実力者のみだ。それは例えば村長だったり、里有数の地主だったり、里唯一の医家だったり。いまこの場に私より若い者はなく、また私が体力的に劣るような若者もまた、居ない。
 それが、この宴を神聖なもの、神掛かったものだと認識する老年の慣習と傲慢だとすれば、私はそれを徹底的に利用するだけだ。
 私は足を緩めず男に飛び掛り、何の障害も抵抗も躊躇いも無く、短刀で男の首を切り裂いた。巧い具合に動脈が切れたらしく、傷口からは壊れた蛇口の如く赤い水が噴き出す。
 倒れた狸の面をした男には目もくれず、私は残った一人に足を向ける。最後の一人、狗の面をつけた男は私を見ると身を翻し逃げようとして、無様にも足をもつれさせその場に転んだ。
 面が取れ、星明りとかがり火に初老の男が照らされる。
 その男。恐怖に歪んだ、現実から逃避した、死から逃げた男の顔はとても見覚えのあるものだ。
 私の想い人であり、私の子を産むと何度も宣言した女性であり、事実何度も人目をはばかり肌を重ねた女、庭囲朱鷺子。
 私の両親を潰し殺め蹂躙し、私の妹を、その臓腑を満足そうに喰らった化生の親。

「村長」

 私は彼の地位を呼び、そして遠慮なく短刀を振るった。
 刃は問題なく村長の胸に突き刺さり、そうして彼は息絶えた。
 悲鳴もなく絶命した村長から短刀を抜き去り、私は朱鷺子たちに顔を向けた。
 かがり火のすぐ近く。地面に伏し、上下を必死に入れ替えながら相手を組み伏せようとしている二人の少女が目に映る。純粋な力では、旅をしていた留美の方に分があるのだろうが、気負い、或いは気迫といった面では鬼掛かった朱鷺子の方が圧倒的に優位だった。加えるならば留美は首筋に傷を負っており、その出血は確実に彼女の意識を削ぐだろう。
 事実、見ているうちに朱鷺子はあっさりと留美の身体を地面に押さえつけた。留美の血で単を汚しながら、しかし長髪の少女は童女のように笑う。朱鷺子は留美を仰向けに寝かせ、その腹の上に馬乗りになると、小さく笑ったあと、留美の首筋に舌を這わせた。
 溢れ出ていた赤い血を、水音を立てて舐めて拭う。
 その幼くも艶かしい行為が嫌悪を催したのか、留美の顔が泣きそうに歪んだ。
 だから私は二人に近づき、背後から朱鷺子を抱き起こす。

「さ、そこまでにしようね」

 掛けた言葉は、自分でも驚くほどに穏やかだった。
 腕の中でこちらを向いた朱鷺子は、子供のように不機嫌そうな顔をする。頬を膨らませ眉を寄せたその顔は、ああ、昼の朱鷺子が見せる拗ねた顔を当たり前のように同一。
 その事実が何故かおかしくて、私は――僕は、思わず笑ってしまう。
 朱鷺子は腕の中で数度身じろぎしたあと、ゆっくりと僕の肩筋に口を当てた。断ち切られる感触と焼けるような痛みが走り、僕は眉を潜める。

「な、何をしているんですか、洋一さん!」

 起き上がった留美がそんなことを叫んだ。留美は服の一部を破り傷に止血処理をすると、懐から符のような紙切れを取り出す。

「離れてください、洋一さん。その人は、私が」
「嫌ですよ。あなたこそどこかに行ってください」

 留美の言葉を遮って、僕はそう告げる。
 朱鷺子の口が僕の肉を租借しているのを感じる。閉じた口から洩れる音と気配は筋肉質を断ち切るときのもの。口を離した肩には、綺麗に弧を描く喪失がある。
 滲み出る血を洩らさぬと舌で舐め取り、朱鷺子は二口目を噛み千切った。

「これはね、氷上さん。僕の夢なんです。僕の悲願なんですよ」
「何を言っているんですか! 早く離れてくださいよ!!」

 悲痛な顔で留美が叫ぶ。おそらく彼女は、こんな僕を本気で心配しているのだろう。僕はあくまで朱鷺子に襲われている被害者だと認識しているのだろう。

 だとしたら、酷い侮辱だ。

「離れるのはあなたですよ、氷上さん。安心してください。朱鷺子は、ちゃんと僕が連れて行きます」
「え」

 留美が呆けた顔で僕を見た。何を言っているのか分からない、とその表情が語っている。
 僕は朱鷺子を抱く腕に力を込めた。けれど朱鷺子は気にした風もなく、淀むこともなく食事を続けている。
 鈍い音がして、左腕から力が抜けた。骨が砕け腱が切れたか、或いは神経が食いちぎられたのか。
 自由にならなくなった左手は、だらりと地面に向かって伸びる。洩れる血は朱鷺子の舌に収まる筈もなく、僕の足元に小さな水溜りを作っていく。
 立ち込める血の匂いに、僕は我が事ながら顔をしかめた。僕の血は血と呼ぶには余りに生臭く、余りに毒々しい。
 夜風がその匂いを留美に運んだか、呆けていた留美の顔に精気が宿り、次の瞬間驚きに歪む。

「洋一さん、あなた、まさか」
「ああ、お分かりですか」

 震える声に、笑顔で返した。
 自由になる右腕で、肩の骨についた肉をこそぐ朱鷺子の頭を撫でる。

「あなた、まさか自分を毒物に?」

 ああ、朱鷺子の髪は本当に綺麗だ。闇のように黒く、所々血で赤くなってるあたり、快感に近い優雅さを感じてしまう。

「ええ。朱鷺子に直接毒を盛ることなんて出来ませんからね。なら私が毒になるしかないでしょう?」

 そのために六年間、毒を飲みつづけた。
 祖母の調合する、微弱で、しかし決して人体では解体できず、溜り淀む特殊な毒を。

「何故ですか。何故、あなたがそんな真似を」

 信じられない、と留美は頭を振る。
 朱鷺子は陶然とした顔で私の肩甲骨を砕いた。
 理由? 理由を問うたのだろうか、彼女は。

「そうです、ね」

 理由。理由理由理由理由理由。
 我が身を犯し、この身喰らわれ、回りの人間全てを贄と支払い、それでもなお貫きたいその理由。
 そんなもの、考えるまでもない。

「僕は」

 それは血に染まった草原。
 家族だった人たちの残骸が散らかるなか、柔らかく微笑んでいた朱鷺子。

「僕は――」

 それが、酷く網膜に焼き付いて。
 正気を失うほどに。
 この身を焦がすかのように。
 一時たりとも忘れることが出来ないほどに。

「――僕は」

 本当に、悪夢。
 それこそが幸い。
 ああ、そう。
 認めよう。

「僕は、彼女が好きなんだ」

 例え、それが僕の死と直結する道だとしても。
 仮に、その望みのせいでこの里の人間全てが犠牲になるとしても。
 そんな事実が、容易に想像できるその結果が、全て瑣末事だと思えるほどに。
 僕という人間は、朱鷺子に惹かれている。
 だからこれは、ただそれだけの話。

「朱鷺子が誰かと話すのが気に喰わない。誰かと会うのが気に喰わない。誰かと笑い合うのが我慢ならない」

 誰よりも、死んだ母よりも守れなかった妹よりも憧れた父よりも、誰よりも愛しい朱鷺子を抱いて、僕は本心を述べる。

「朱鷺子が誰かの目に映るのが気に喰わない。誰かの話題に上るのが気に喰わない。誰かが彼女を意識するのが許せない」

 呟いた言葉に嘘はないけれど、たぶんそれは些細な理由。
 本当に。居ても立ってもいられないほどに耐えがたい理由は、おそらくたった一つだけ。

「僕は、彼女が誰かを食べるのがどうしようもないほどに妬ましい」

 そうして僕は朱鷺子の顔を上げさせ、その額に口付けをした。
 朱鷺子はくすぐったそうに身を捩り、何事もなかったかのように食事を再開する。

「なんですか、それ。信じ、られません」

 留美が、振るえた声で僕を非難する。
 僕は肩を竦めようとして、今更左肩が動かないことを自覚した。

「信じてくれなくて構いませんよ」

 そろそろ血が足りなくなってきたらしい。
 僕はふらつきそうになる足を制御して、朱鷺子の髪を梳いてやる。
 僕の肉を美味しそうに食む朱鷺子の瞳は、何時しか眠そうに緩んでいた。

「ただ、氷上さん」

 ああ、そろそろ限界みたいだ。
 視界を覆う死の帳を微笑みながら見据えて、僕は最期に微笑んだ。

「僕は、朱鷺子が好きなんです」

 そうして僕は崩れ落ちた。
 いつもの草原でそうしたように、朱鷺子を地面に押し倒し抱きかかえる。
 最期に見た横顔は、僕の身体の下で、けれど幼子のように微笑んでいた朱鷺子の姿。

 ああ。



 僕は、幸せだ。





(完)


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