喰人鬼




 薄暗い小屋の中に、薄汚い身なりをした少女の姿があった。
 黴と土の臭いが鼻を突く。いったいどれだけの期間を放置されていたのか、小屋の床には埃が層を形成し、天井の至る所に蜘蛛の巣が張られていた。空気は永い眠りから覚まされた蛇神のようにどろりと流れ、僕が開けた戸から吹き込む秋風と混ざり合う。
 そして。
 見知らぬ少女は、自分の身体を護るように抱きかかえながら怯えた瞳で僕を見上げた。



 僕の名前は月払つきはらえ和泉いずみ。市内の私立進学校に通う高校二年生だ。
 家族構成は両親と三つ離れた姉が一人の計四人。姉は中学生のころにやりたいこと、人生の目標を見つけたらしく、高校は私立の三流校、大学も無名な私大に通うことを選び、自分の道に没頭していた。そんな姉に対する周囲の評価は酷いもので、子供の学力を自身の評価と勘違いした両親に至っては、姉を勘当同然に扱っていた。
 いったい何度親の愚痴を聞かされただろう。姉の成果を無価値と決め付け、存在を無意味と断じたあいつらは、そのしわ寄せを僕に強制した。
 あの二人は、今でも狂ったかのように口にする。

「お前はあいつのようにはなるな」

 好きに言えばいいと思う。どうせその願いは杞憂だ。僕には姉のように全てを投げ打ってまで打ち込みたいと思う趣味など無いし、これからもずっと存在しないと理解している。
 ただ勘違いを避けるために言っておくのなら、僕は決して姉を嫌ってはいなかったし、姉も僕を嫌ってはいなかった。僕たちの在り方は同じ親を持つ子供にしては違いすぎていたくせに、その根本は合同――いや、相似だったのか。僕と姉はお互いにお互いを評価していたし、尊敬していた。
 もっとも、今となっては全てが全て世迷いごとなのかもしれない。
 月払雨深うみ
 僕が尊敬し親愛した姉が失踪して、もうじき一ヶ月が過ぎようとしていた。



 高校からの帰り道。
 自転車を手で押しながら、ゆるい上り坂をゆっくりと進む。
 時刻は午後六時を少し廻ったところ。夏の終わりを告げる冷たい風が吹いている。日の入りも随分と早くなったようで、この時間にも関わらず、周囲は既に薄暗くなっていた。
 ここは、通学路の途中にある小さな山を一直線に伸びる道路だ。市の中心近くに頓挫したそれは再開発計画においてなお無価値のレッテルを貼られ、満足な手入れもされぬままに放置されている。新しく作られた道はこの山をぐるりと迂回する形で整備され、実際問題、この山を通る価値なんていうものは無い。

「……」

 ならば何故僕がこうしているかと言えば、少しばかり気になることがあるからだ。
 その事柄は、目下失踪中の姉。とはいっても、姉自身を心配している訳ではない。三つ上の姉は既に成人しているし、かなり要領のいい人だったから、この失踪が家族に何も言わずに行われた上京だとしても僕は別に驚かない。その程度には、姉を信用している。
 でも、両親は姉を毛嫌いしていた。自分で自分たちのことを「優秀な遺伝子」と称するのは、その「成果」であるところの僕からしてもどうかと思うが、とにかく両親にしてみれば絵ばかり描いていた姉はまったくの異端、完全なる駄人間だったらしい。
 両親は、本当に姉の価値を評価しなかった。だからおそらくは、いや確実に、両親は姉がイラストレーターとして活躍していたことを知らないだろう。姉は姉で巧妙にそのことを隠していたようだし、両親はそんな姉に無関心すぎた。
 親から評価されない代わりに貫きたいと思えるものを得た姉。
 親から評価される代償に興味を持つものが欠片も存在しない僕。
 果たして、どちらがより滑稽なのだろう。

「……あー、糞」

 足を止め、僕は小さく毒づいた。下らない考察を排除するために頭を振る。
 やれやれ。どうやら姉の失踪は、僕にとって随分と大きな衝撃だったらしい。一ヶ月も経ってそれに気づくのもどうかしているが、気づけただけでも僥倖だろう。

「帰ろう。模試の見直ししなくちゃいけないし、もうじき実力考査だ」

 僕は重い頭を上げて、残り少ない上り坂を一気に進もうと自転車に跨って、



 道路の脇に転がった、見覚えのある靴を見つけてしまった。



 え、と呟いていた。
 慌てて自転車を降りる。スタンドを立てるのももどかしく、三年来の愛車がそのまま道路に倒れるのも気にしないで僕はガードレールの向こう側、湿った土の上にぽつんと置かれたその靴を拾い上げた。
 遠目では判らなかったが、その靴は随分と汚れていた。土がこびりつき、風雨に曝された跡も窺える。
 けれど、そんなもので僕が見間違えるはずもない。

「姉さんの、靴」

 手の平から少しはみ出るサイズの白い靴。
 それは紛うことない、姉の履いていた靴だった。
 僕は顔を上げる。
 目の前には鬱蒼とした林。
 日の入りが近い。空は菫色に染まっていて、もうじき夜という名の幕を下ろすだろう。
 だがこの周辺。記憶にある。確かこの近くに、誰も住んでいない、何年前からあるのかも判らない小屋があったはずだ。

「そこに、居るって?」

 馬鹿馬鹿しい。そんなのは、予想ですらない妄想だ。
 姉の失踪から一ヶ月が経つ。警察は、事件に巻き込まれたのではないのかと妥当なあたりをつけている。両親は家出と決め付けている。探そうという気配は微塵も無い。
 愛用の画材道具も、好んで読んでいた文庫本も、携帯電話すら家に置いたまま出奔した僕の姉。
 家出? それこそ、冗談じゃない。
 冗談じゃない、筈なのに。

「……糞」

 小さく吐き捨てて、暗い林の中に足を踏み入れた。アスファルトとは異なった地面の感触を靴越しに感じ、湿り気を帯びた空気を肌で感じ取る。
 足を滑らせないように斜面を下り、錆付いた記憶に全てを預けながら木々の間を進む。 そうこうしている内に日が落ちて、世界は完全な闇に包まれた。僕は制服のズボンから携帯電話を取り出して、それをライト代わりにさらに足を進めた。
 どれだけ歩いただろう。山の大きさから考えて、せいぜい十分といったところか。不安定な足元と不明瞭な視界のせいで何時間も歩いたような錯覚を抱いたが、現実的に考えればそんなところだ。
 開けた場所に出る。小さな公園程度の平地が、山の斜面を削り取るようにして広がっている。
 そして――その中心に、苔むした古い小屋が見えた。



 翌日。
 昇降口で靴を履き替えていると、クラスメイトの神凪雅人に声を掛けられた。

「あれ? 月払、もう帰るのか?」
「用事だよ。お前は出てくのか? 補習」

 僕の問いに神凪は首を振った。脇に抱えた物理の参考書を掲げる。

「俺は図書室で自習だよ。英語の補習は受ける必要ねーし」
「それはそれは。羨ましい限りで」
「何だよ、お前だって大差ないだろ? クラス二番君」
「学年十七位と八位じゃ言葉の重みが違うさ」

 適当に答え、昇降口を出る。

「じゃ、また明日」
「ああ」

 軽く手を振って別れの挨拶をして、僕は駐輪場へ。愛車に乗って、夕焼けの中を下校する。
 その途中、通学路沿いのコンビニで幾らかの買い物をした。サンドイッチを二つとおむすびを三つ。ペットボトルのお茶を二つ買って、全部まとめてビニール袋ごと鞄に突っ込む。
 そうして。
 再び僕は、その小屋を訪れた。

「や、こんにちは。入るよ」

 一応断ってから、立て付けの悪い戸を開く。
 薄暗い部屋の中に夕日の赤が差し込んで、埃の充満する小屋の中を照らし出した。中に舞う埃が光を纏い輝いている。
 そんな、光の乱舞の中で。
 一人の少女が、膝を抱えて俯いていた。
 年齢は、多分、僕と同じかそれより少し下。全体的に小柄な身体つきで、黒い髪が背中の下まで伸びて、床にだらしなく散らばっている。ちゃんと手入れをすれば目に映えるだろうその髪も、床に積もっていた埃を巻き込んで無残な有様だった。
 少女は顔を上げない。赤いニット帽を目深に被り、自分の身体を拘束するかのように強く膝を抱えている。着ている服も長いスカートも土に汚れ雨の跡が染み付いていたが、どうやら少女は自分の格好に興味は無いらしく、ただただ俯き、沈黙を守っている。

「とりあえず食事、買ってきたから。ここ、置いとくよ」
「……」

 その言葉に、少女は僅かに視線を上げて、下げた。
 僕は息を吐く。まあ、いいさ。まともな返事なんてはなから期待していない。

「じゃあ、僕は行くね。また明日来るよ。バイバイ」

 まったく無反応の少女にそう言い残して小屋を出る。立て付けの悪い戸を両手で閉めて、鬱蒼とした林の中へ。十分ほど歩いて旧道に合流し、そこに止めた自転車の元へ歩み寄った。
 僕は鞄を籠に入れ、後輪のロックを外して自転車を押し始めた。
 カナカナカナ、とヒグラシが鳴く夕焼けの道を、ゆっくり、確かめるように歩く。
 否。
 僕は僕自身の正気を確かめるように、一歩一歩論理を踏みしめていた。

「僕は何故こんなことをしているんだ?」

 昨夜、いいや、昨日のあの瞬間から今日この瞬間に至るまで何度となく繰り返したその問いを口に出して呟く。
 その答えは、僕の中で未だ出ていない。

「彼女は何処から来たんだ?」

 これも不明。
 昨日も今日も、彼女は一言も口を利いていない。

「彼女は何故あんなところに居たんだ?」

 それも判らない。
 彼女が明確な目的の元にあの小屋に辿り着いたのか、それとも偶然あの場所に行き着いたのか、それすらも不明瞭だ。
 僕は頭を振った。駄目だ、と思う。手持ちの情報はあまりに少なすぎて、事態を考察するには材料が決定的に足りていない。
 だから、そう、明確な事実はただひとつ。

「僕は、何をしたいんだ?」

 その答えだけは、とっくの昔に決まっていた。
 僕は。僕は、彼女を。

「――僕は、何故、彼女を助けたいと思うんだ?」

 何故、そんな厄介ごとを。
 得られる利益なんて何にも無いのに。

「……違う」

 呟いて、自転車に跨る。上り坂は終わりを告げ、薄暗い夜の世界の中を、緩やかな下り坂が麓の新道まで延々と続いていた。
 軽くペダルを漕げば、車輪は重力に従って次第に回転する速度を上げる。

「利益なら、ある」

 呟きは耳元で唸る風に混じって、しかし、しっかりと耳に届いた。

「僕は彼女を見ていたい。彼女がどうなるのか、その行く末を知りたい」

 昨日の出会いを回帰する。
 薄暗い廃屋。黴と土の匂いが充満する狭い空間で、彼女は怯えの色を滲ませながら僕を見上げていた。
 その瞳。恐怖に揺れる輝きの奥底に横たわる、熟れ過ぎた果物じみた諦観を、僕は瞬間的に感じ取っていた。

「同じじゃないか」

 知らぬうちに漏れていた呟きは、自分でも驚くほど苦渋に満ちていた。
 彼女の瞳は、同じなのだ。この僕と。
 うすら汚れたあの少女は、生まれてこの方目標という概念を理解せず目的という通念を持ち得なかったこの僕と、まったく同じ闇を孕んでいる。
 周囲から与えられた課題のみをこなし、自分から何かをしようとは終ぞ思えなかった僕。
 そんな僕が、果たしてどうなるのか。
 その例示を、類似の彼女に望む。

「……ふん。つまるところ、僕は」

 自分自身を彼女に投影している訳で。
 そんな彼女を助けるという行為は、単純明快、ただの自己満足に過ぎない訳である。



 それからしばらくの間、僕はこの訪問を続けることとなる。
 当たり前だが、僕は廃屋での少女との逢瀬を誰にも漏らしていない。訪問はあくまで僕の自己決定に拠る行為で、それを隠し通そうと思ったのは、僕たちの間に他者が介入するのを良しとしなかったからだ。
 彼女は自力で立ち上がるべきである。今の彼女は目的を失い、あるいは目標を手放したその瞬間で停止している。その地点から彼女はどのように動き出すのか。目下のところ、それが僕の唯一の興味対象だ。



 そうして、都合十と二日程が経過したあと。
 いつものように廃屋を訪れ、コンビニのビニール袋を床に置いた僕に、少女は座り込んだまま顔を上げ、初めて声を掛けてきた。
 それは深い地底湖に立った波紋のように、ひっそりと、しかししっかりとした声音で僕の耳に届く。

「……何で、そんなことをするの?」
「何で、って」

 僕は顔を上げ、少女の方を見る。
 小屋の中央。
 少女は、初めて出会ったときからまったく動いていないのではないかと思わせるほどにあの時のままだった。二週間前と同じ世界の中で、彼女は目深に被ったニット帽の奥から視線だけをこちらに向けて問いを繰り返した。

「答えて。何故、私の世話をしてくれるの?」

 一瞬、答えに迷った。
 嘘をつくことは、出来たと思う。何せ動機が動機だ。不純とは思わないが不埒ではある。
 だがそれでも、何故か僕は嘘を是としなかった。

「自己満足だよ」

 短く、はっきりと。それが事実であると証明するかのように、僕は答えた。
 え、と短く声が上がる。少女は僅かに顔を上げ、そこに驚きの表情を浮かべた。

「自己、満足?」
「そう。君は僕の同類みたいだからね。君がそこからどうなるのか、興味がある」

 我ながらなんて言い分だ、と苦笑する。少女はしばらくの間、自分の眼を疑うように僕を観察し、やがて苦笑にも似た弱い笑みを浮かべた。

「おかしな人。普通、そういうことは黙っているものなのに」
「生憎、普通って言葉に縁が無くてね。これでも周囲に合わせるのに苦労してるんだ」

 クラスメイトの誰もが抱く、大学現役合格という理想。それに対しての特別な思いなど何も無い。
 ただ僕は、そんな周囲(クラスメイト)に疎外感を覚えている。
 僕には目標という概念が欠落している。生来持ち得なかったのか、成長の過程で自ら捨て去ったのか、それは判らない。ただ事実として、僕はこれまで自発的に何かをしたことが無いという話だ。
 だから僕は、周囲のクラスメイトが理解できない。

「僕の周りには意欲的な連中ばかりでね。正直、外国に居るみたいだよ」

 大学に入るために点数を稼ぐ、手段が目的に昇華された彼ら。
 叶えたい目標を持ち、そのために大学を踏み台と認識する彼女たち。
 そんな大半を嘲笑いながら自分の成果から眼をそらす脱落者たち。
 そして、そのどれにも属せない月払和泉。

「いまの君は僕と同じだ。目的を失って、目標を取りこぼした場所に居る」
「一緒にしないで。私は目的を達成して、目標が不必要になっただけよ」
「でも、同じだろ?」

 僕の言葉に、彼女は顔をしかめた。その場に座り込んだまま、くいくい、と手で僕を呼ぶ。

「ん?」

 来い、ということだろう。
 僕はコンビニの袋を床に置き、彼女の目の前まで歩み寄る。
 すると彼女は顔を上げ、にこり、と邪気無く笑って、

「ばーか」

 と言った。
 そして。

「――え?」

 気付けば、僕と彼女との距離が大きく離れていた。
 づん、と背中から突き抜ける衝撃に、呼吸が出来なくなる。背中に痺れるような痛みを感じ、ようやく僕は、力任せに後方の壁まで吹き飛ばされていたと思い知った。
 涙に滲んだ視界の中で、彼女が腕を振りぬいたままの姿勢を取っている。
 ……おいおい。

「冗談、だろ」

 彼女は座った姿勢のまま、掌で僕の身体を押し出しただけなのだ。

「驚いた?」

 動けない僕を見ながら、からかうように彼女は言う。
 彼女は立ち上がり、先ほど僕がそうしたように歩み寄ってくる。顔には笑み。しかし僅かに釣りあがった口の端には、確かな嗜虐の影を滲ませて。

「私はあなたとは違うわ。目的がない? 目標がない? 大した物言いじゃない、私たちが何なのかも知らないくせに」

 そうして彼女は僕を見下ろす。
 身体は…無理か。よほど強く打ち付けたのか、身体が痺れたかのように動かない。
 彼女は僕を見下している。その視線に滲んでいるのは紛れもない嫌悪と、隠しようもない憤りだった。

「目的や目標が無いってことは、自分一人じゃ動けないってことじゃない。腑抜けにも程があるわ」

 ……いやはや、耳に、痛い。

「ちょっと。何が可笑しいのよ」

 苦笑を見て取られたか、彼女は僕の頭を掴んで自分の方を向かせる。年齢相応の大きさしかない手の平は、しかし僕の頭蓋を悪夢みたいな力で締め付ける。

「悟ったふりしてるんじゃないわよ、馬鹿。目標が無いとか目的が無いとか、その程度のことで私と同じ? ふざけないで。私はあなたなんかと同じじゃないし――あなたは、私なんかと同じじゃないわ。絶対」

 それは、不思議な物言いだった。
 何かを期待しているようで、全てに諦めを覚えているかのような発言。
 ……諦め?
 何を諦めているって言うんだ?

「君は」

 何故か僕は声を上げていた。その先に続く言葉なんて、一つも持っていなかったのに。
 彼女は顔を顰めて舌を打つ。余計なことを言ってしまった、と言わんばかりに。
 不意に頭蓋に掛かる圧力が緩んだ。彼女は僕の頭から手を離し、今度は僕の首を掴む。頚椎すら砕かんと力を込められ、僕の意識はあっという間に混濁する。
 何なんだ、この力。火事場の馬鹿力なんて目じゃないぞ。僕よりも細い腕をしてるくせに、どうしてこんなに力が強いんだ。
 そんな疑問などお構い無しに、ぐい、と力任せに立ち上がらされた。抵抗なんて出来よう筈もない。呼吸困難の鈍い苦しみと血流を妨げられる恐怖で、身体が自動的に意識をシャットダウンしようとしている。

「私の名前は葛葉くずは瑞葉みずは

 彼女は詠うように明朗に、そう名乗った。
 瑞葉は自分の帽子を取る。赤い、古いニット帽。
 その下には、黒い髪の毛と。

「俗に言う、鬼ってやつよ」

 冗談みたいな、二本の小さな角が見て取れた。



 姉についての話をしよう。
 その女性の名は月払雨深。失踪当時の年齢は二十歳で、市内の大学に通う二年生だった。イラストに興味を持ち始めたのは中学生のころで、高校生のころに、自分はこれで飯を食っていくのだと決めたそうだ。
 親の目を欺くかのように大学に通い、その影で堂々とイラストレーターの仕事をしていた。矛盾した表現だが、そんな姉を間近で見ていた僕は、これ以外に適切な表現を持たない。
 そして僕が姉の描いたイラストを出版物という形で目にしたのは、高校に入って二ヶ月ほどが経った頃だった。参考書を買いに行った折、文庫本コーナーに平積みにされた新刊の表紙にそれを見つけたのだ。
 出版元は、僕ですら知っているティーン文庫の大御所。どうやら新人のデビュー作らしく、帯にはその旨がコメントされていた。
 買おうか買うまいか大分迷って、結局購入した。目的であった参考書も無事入手し、帰り道に手近なマクドナルドに足を運ぶ。
 適当にセットを注文し、窓側の席に腰を下ろす。床に置いた鞄の中から件の文庫本を取り出し、コーラで口を湿してからページを捲る。本文を書いた人には悪いが、まずはイラストをチェックする。ごめんなさい。
 ぱらぱらと全てのイラストをチェックして思ったことは、

「癖が強いな」

 という点。ほとんどのイラストはちゃんと人間のバランスを考えて描かれているのに、時折、明らかにデフォルメを掛けたイラストが混じっている。どちらが姉の本当の手法なのかは僕には判らないが、何と言うか。

「楽しそうだ」

 いや、違う。そうではなくて、

「楽しんで描いていそう、か」

 つまりは、そういうこと。イラストの一枚一枚から、姉がそれらを本当に楽しみながら描いたということが伝わってくる。
 本当に。徹頭徹尾、あの人らしい。
 僕は本をテーブルに置いた。しばらくは食事に専念するとする。慣れた味付けに慣れた満足感を感じ、再び読書開始。イラストだけ拝見するというわけにも行かないので、本文にも目を通すことにする。
 残った食事を片付けながらページを捲ることおよそ二時間。まあこんなものか、なんていう味気ない感慨と共に本を閉じる。次回作に期待します、とだけコメントしておこう。
 読み終わったそれを鞄に戻し、すっかり水っぽくなってしまったコーラを片付ける。

「どうだった?」
「癖が強いね。本文もイラストも。イラストは方向性が定まってない感じだし、本文の方は奇を衒いすぎてなんか見当外れになってる気がする」

 そうして僕は空になった紙コップをトレイにと置き、隣に座った姉に問いかける。

「で。何時から居たの」
「十分ぐらい前。偶然ここ通ったら見覚えのある弟が見覚えのある本読んでるじゃない。姉としては気になるってものなのよ、うん」

 一人で頷きながらポテトをぱくつく姉さん。
 はあ、と僕は息を吐いた。

「つまり、ずっと僕の反応を観察してた訳? 趣味悪いよ、姉さん。だから彼氏に逃げられるんじゃないか」
「失礼ね。なら言わせてもらうけど、それ、わざわざ買うなんてどういうつもりよ。私にしてみれば羞恥プレイもいいところなんだけど?」
「……なら描くなよ、イラスト」
「アンタは別なの」

 苦笑するように言って、姉は席を立った。

「もう行くの?」
「バイトよ、バイト」

 姉は僕に背を向け、ああ、そうそう、と呟き再びこちらに向き直る。手持ちの鞄を漁ったかと思えば、何かを親指で弾いてきた。ぱし、と顔面目掛けて飛んできたそれを受け取る。
 五百円玉。

「身内からお金取るのも癪だしね。ま、ここのお勘定ぐらいにはなったでしょ」
「……まあ、ありがたく貰っておく」
「素直でよろしい。じゃあね、和泉。――それと」

 去りかけた姉は再び足を止め、にこり、とこちらを振り返る。いや、なんていうか。眼だけマジなまま微笑まれると結構怖いんだけど、姉さん。

「逃げられたんじゃなくて私が振ったの。わーたーしーがーふーったーのー! 判った?」
「わ、判りました」

 判ったからそんなに声を大きくしないで欲しい。混んでいないからって客は僕らだけじゃないし、そもそも店員はちゃんと居るんだ。変な目で見られてるじゃないか。
 そんな僕の訴えが通じたのか、姉さんは満足そうに頷いて今度こそ店を出て行った。あの様子じゃ、変に注目されていたことにも気付いていないだろう。

「……やれやれ」

 一人呟き、トレイを持って立ち上がる。好機と疑問の視線を無視して、僕も店の外に出た。
 本当に。
 時折、僕と本当に血が繋がっているのかと疑いたくなるほどに僕と正反対の人だ。



「って、記憶のほとんどが食べ物屋かよ」

 既に慣れた山道を歩きながら僕は苦笑した。姉との思い出、と称してもいい記憶は、そのほとんどが飲食店でのものだ。まあ仕方あるまい。姉は家に居る時は自室に篭ってイラストを描いていたし、そうでなければ大学かバイトに行っていた。加え、両親は姉を嫌悪していたし、姉はそんな彼らを嫌悪しないまでも煙たがっては居たようだ。外でなければ腹を割った話など出来なかったのだろう。

「家じゃろくに話さなかったしな」

 胸の高さに生えた枝の下を潜れば、すぐそこに見慣れた空間が広がっている。季節はすっかり秋に移り変わっていた。地面には色付いた葉が落ち広がり、風には涼しさを行き過ぎた寒さが滲んでいる。
 尤も、そんな季節の推移など、この廃屋には無関係なのだろう。
 おそらくは、いまそこを不法占拠している彼女にとっても。

「しかし、僕も何を考えているのやら」

 手に提げたビニール袋に視線を下ろし、昨日の記憶を思い返す。
 葛葉瑞葉と名乗った彼女。殺されかけた僕。彼女の帽子の下に覗いた、偽りようのない二本の角。
 鬼、と彼女は自称していたか。

「やれやれ」

 最早、嘆息しか出てこない。
 昨日、あのあと。首を絞められ気絶した僕が眼を覚ましたのは、既に日も落ちて久しい真夜中、廃屋の扉の外でのことだった。どうやら彼女は気を失った僕を適当に外に投げ出しておいたらしく、身体は完全に冷え切っていたが、驚くべきことに外傷らしい外傷は存在しなかった。

「だからって、何で次の日にも来るかね、僕は」

 懲りないにも程がある。が、だからと言って。
 今の僕には、これ以外にするべきことなど無いのだけの話。
 第一、ここまで来て今更どうしようと言うのか。むしろ堂々と廃屋へと歩み、ドアを開けて見せる。

「……」

 そうして。
 部屋の中央に座り込んでいた彼女は、まるで幽霊でも見るかのような顔つきで僕を見た。

「や。また来たよ」

 僕は笑顔さえ浮かべながら廃屋の中に足を踏み入れ、食料品やら何やらで膨れたコンビニ袋を地面に置く。唖然としたままの瑞葉の視線を無視し、閉めた戸に背中を預けた。
 腕を組み、真正面から見返す形で瑞葉を見遣る。
 視線が絡み、瑞葉はようやく我に返ったようだ。苦々しく顔を歪める。

「何しに来たの」
「言ったろ? 僕は、君がこれからどうするのかに興味があるって」

 彼女は顔を更に顰める。鋭い視線を僕に向け、吐き捨てるかのように告げた。

「まだそんなことを言っているの? あなた、昨日何があったのか覚えてないみたいね。それともショックで忘れたのかしら?」
「冗談。僕、記憶力はいいんだぜ」

 僕の言葉に、彼女はあらそう、とまるで信じてない様子で口調を打った。

「もう一度教えてあげる。私は鬼よ。下手に関わろうとするのなら、私は――殺す、わよ。あなたを」
「そうは言われてもね。他に選択肢もないし、僕」

 肩を竦めてそう返し、僕はコンビニ袋の中から紙パックのコーヒーを取り出す。ストローを差し、飲もうとしたところで、瑞葉が立ち上がってこちらを睨んでいることに気付いた。

「あなた、本当に判っているの? 殺すって言ったのよ、私は」
「言っただろ。他に選択肢も、」

 無い、と言うより早く。
 一瞬身を屈めたかのように見えた瑞葉が、いつの間にか僕の前に立っていた。
 僕の目線よりほんの低い場所から、葛葉瑞葉は睨み上げてくる。

「昨日も言ったと思うんだけど。あなたみたいな人と一緒にして欲しくないわ」
「……そりゃ失礼。でも、」
「黙りなさい」

 僕の言葉を遮って瑞葉は言い放ち、それとほぼ同時。
 衝撃、としか言いようの無いものが僕の身体を貫いた。
 何と言えばいいのだろう。あまりのことに、それを形容する言葉が一片も浮かんでこない。だからそれは、そう、ただの衝撃。さも当然のように繰り出されたボディーブロウ。
 身体の感覚が一瞬で消失し、糸の切れた人形のようにその場に膝を着く。頭蓋に真綿をぎゅうぎゅうに詰め込まれたような感覚。全てが茫洋としていて、意識も身体の感覚も全てが希薄だ。
 そう理解したところで、ようやく脳髄が痛覚を取り戻した。ずれていた神経系が繋ぎ直リセットされるのを知覚。がは、と自分のものとは思えないような呼吸が耳に届いて、激しく咳き込んでしまう。
 そんな僕の髪を掴み、俯かぬように無理やり顔を上げさせながら、瑞葉は告げた。

「これで理解した? 私が何で、あなたをどうするつもりなのか」

 咳が止まらない。胃にバスケットボールを埋め込まれたかのような圧迫感。昼に食べたサンドイッチが喉元まで逆流して、酸いた唾と一緒にそれを飲み下した。
 瑞葉は諦観と侮蔑の混ざったような瞳で僕の瞳を覗き込んでいる。

「苦しいでしょ。身体の中が大掃除してるみたいじゃない? それとも模様替え、かな?」

 ああ、どちらかといえば後者に賛同しよう。肺の左右が入れ替わり胃が縮小し肝臓が肥大化し、腎臓が絡み合って食道が腸の外側を二周り。心臓が逆順に伸縮し静脈と動脈の意義がごっそりと――

「まだ私に関わるって言うなら、今度は下半身ごと殴り散らしてあげる」

 ああ、なんだ。
 僕の下半身、まだ残ってたのか。

「判ったらさっさと逃げなさい。いい? もし次、私に近づいたりしたら」

 ぐわんぐわんと世界が廻っている。
 がらんがらんと世界が廻っている。

「次こそあなたを殺すわ。もう私も限界よ。耐え切れない。忠告を聞かない人を許容できるほど、今の私は寛容じゃない。だから逃げなさい。逃げて、」

 瑞葉は言う。

「逃げて、暇なときにでも考えてない。目的が無いだとか目標が無いだとか、そんな下らないことは暇なときにでも考えていなさいよ。あなたは、」
「だったら」

 ……あれ?
 おかしいな。なんで、僕は。

「君がこれを下らない、って思うなら」

 何で僕は、こんなに、怒っているのだろう。

「これを下らないって思うなら、今すぐ解決してくれよ」

 瑞葉の瞳に驚きが混じる。
 僕はどうにか繋がったままの足で立ち上がり、感覚すら不明瞭な腕で僕の髪を掴む瑞葉の手首を握った。
 ぶちぶち、と髪が抜け千切れる音が聞こえたけど、不思議と痛くない。

「息が詰まるんだ。先が見えないんだ」

 例えば翼を失った航空機。航空機である以上それは飛んでいるが、翼が無い為に落下している。だが地表は何処にもない。終わりの無い空と鏡写しの地表。何処まで落ちても墜落することは無く、いずれ自分が落ちているのかどうかすらあやふやになる。けれど事実として自分は落下しており、飛び出さねばいつかは地面に激突してゲームオーバーだ。なのに、それを回避するための翼など最初から無い。
 飛んでいるのに落ちているという事実。
 落ちていると理解しながら落ち続けるしかない未来。
 その虚無感が君に判るのか?

「君にとっての下らない問いが」

 何故か瑞葉は小さく息を呑んで、ほんの少し、その瞳に恐怖を灯した。

「僕には、どうしても解けない難題なんだ」
「――ッ」

 瑞葉は傍から見て明らかなほど顔を恐怖に歪めた。
 僕らの間に不意の沈黙が訪れる。
脅迫じみた嘔吐感はいらぬ名残を残しながらどうにか鳴りを潜めたが、拳を喰らった鳩尾には内臓を石臼で磨り潰されるような鈍痛が残った。毛細血管を走破する血液の音が耳に届き、感覚器官が未だ不十分であることを知覚する。
 ……だからだろう。瑞葉の腕があまりに細く、華奢に感じられたのは。
 どれだけそうしていたのか。やがて瑞葉は俯いて、小さな声で、痛い、と呟いた。

「え?」
「痛い。……離して」

 驚くほどに弱々しい声。僕は面食らい、反射的に掴んでいた瑞葉の手を離した。
 瑞葉は赤くなった手を胸の前で抱き、俯いたまま数歩後ずさった。……力、込めすぎたかな。腫れてるや。  瑞葉は僕に背を向けた。ぱさり、と髪の毛が僅かに揺れて、収まる。

「帰って」

 それは拒絶だけで形成された言葉。

「……帰って」

 繰り返す瑞葉。
 僕は何か言おうとして、言うことが無いことに気がついた。
 ――やれやれ。惨めじゃないか。
 僕は彼女に背中を向けて、扉を潜って外に出る。秋が終わろうとしているのか、つい先ほどまで夕暮れだった筈の周囲は既に夜の帳に覆われていた。

「……」

 やれやれ。
 僕は胸中だけで再び呟いて、暗い山道に入っていった。



 僕についての話をしよう。
 僕の名前は月払和泉。十月十六日生まれの十六歳。血液型はA型。市内にある進学校に通う二年生で、クラスは一組。理系。得意科目は特になく、不得意科目もこれといって無い。先日の実力考査ではクラス二位、学年三位の成績を収めることとなった。
 学内における友達は少ない。いや、学内に限ったことではなく、基本的に僕には友達と呼べるような関係の人間がいない。それの原因は僕にもあるし、同時に親にも存在する。
 両親は僕が友達と遊ぶことを是とせず、それどころか友人を持つことすら諾としなかった。小学生の頃、父親が真面目な顔で語ったこと曰く、ちゃんとした所に進めばもっといい友達が出来るから、それまでは我慢しなさい、とかなんとか。まあ別に親の言いつけを守ったわけではないが、生来友達というものを必要としない人間なのか、僕は友達というものを特別必要とは感じず、友達を作らぬまま高校に進学し、更にそういったものと無縁になった。
 僕に友達というものは存在しない。だがそれはいま通っている高校においてはそれほど珍しい状況でもない。全国的にも高い偏差値を持つあの高校において、クラスメイトとは志を同じくして日々をすごす戦友ではなく、一番身近にいる敵として定義されている。どのクラスにも四六時中緊張した雰囲気が走っており、授業時間外では雑談やら何やらが行われるとはいえ、それが表面的でしかないということには誰もが気付いている。薄氷を踏み抜けば、そこはお互いを敵と看做しあう決闘場だ。足を引き合い妨害しあう環境ではないというのがせめてもの救いだろうか。
 元から友人というものを必要としなかった僕がその環境でそういったものを獲得できよう筈もなく、またそれに特別感慨も抱かずに三年間を過ごすと思っていた。
 ……少なくとも、入学最初の一ヶ月は。
 天網恢恢疎にして洩らさず――とは違うが、入学式当日の実力考査から一ヵ月後の二度目の考査。二回連続でクラス二番の成績を収めた僕に、二回連続クラス一位を執り続けたそいつは声を掛けてきた。

「何処ミスったんだ? お前」
「古典の最後の問題」

 同じクラスになって初めて口を利いた癖に、僕たちは不思議とそれが当然のように会話を始めた。おそらく僕らは二度続けて数点しか違わなかったお互いに少なからずの興味があり、同時にこの学園において友達というものが虚像に過ぎないといったことを理解していたのだろう。だからこそ気休めとしての相手を求めたのだし、気紛れとしての知人を望んでいたのかもしれない。
 そいつの名前は神凪雅人。後にひょんなことから知ったことによると、入試成績一位の最優良生。将来は医者になると宣言してやまない、県外から来た期待の新入生。得意科目は数学、不得意科目は特になし。現在、趣味でドイツ語を独学勉強中。
 学生寮を住処とするそいつとの付き合いはそうして始まり、毎月の実力考査と隔月の校内外の模試、数度の定期試験を経て相変わらずの間柄だった。神凪は常に僕の数点上に位置し、僕は神凪の数点下に位置していた。二年に進級し、成績順クラス編成の中で予定調和のように同じクラスに籍を置き、今に至っている。
 そんな神凪が、今日、五時間ある授業が全て終わったあとおもむろに声を掛けてきた。

「お前、その腹どうしたんだ?」
「腹?」

 着替えたばかりの制服の皺を伸ばしながら、僕は鸚鵡返しにそう聞き返した。
五時間目は受験科目に比べると明らかに軽んじられている体育だったので、教室の中にはいつもの放課後とは違う僅かなざわめきが転がっている。鼻につくのは乾かぬ汗と制汗剤の刺激臭。換気の為に開けられた窓から吹き込む風が肌に冷たく、夏はとうの昔に終わっていたことを再認識させる。
 僕は首を傾げ、ややあって神凪の言いたいことに思い当たった。

「ああ、この痣?」

 制服の上から鳩尾を押さえた僕に、神凪は頷く。
 言うまでもなく、昨日瑞葉に一発を喰らわされた個所だ。風呂に入るときに初めて気付いたのだが、鳩尾の辺りに大きな青痣が浮かんでいた。

「帰り道に自転車で転んでね。排水溝に落ちかけて、こうなった」

 僕の嘘八百に神凪は顔を顰め、気をつけろよ、と忠告する。

「痣で済んだならそれでいいけどな。車道側に倒れていたら洒落にもならないぞ」
「気をつけるよ。けど、よく気付いたな。見られないように着替えてたんだけど」
「授業が始まる前にちらっと見えたんだよ。何だと思ってたら、お前授業中ずっと調子悪そうだったし。で、着替えのときに注意深く観察してたら、今度ははっきりと」
「……おかしいな。周囲の視線はちゃんとチェックした筈なんだけど」

 神凪は呵々と笑った。

「そりゃお前の認識不足だ。次からは注意しとけ」
「次、ね。無けりゃいいけど」

 僕は肩を竦めてそう返し、教科書と参考書で埋まった鞄を肩に下げた。
 途端、ずきり、と筋肉を引きちぎるような痛みが腹部に走る。出来るだけ顔に出さないようにしたつもりだが、どうやら無駄だったようだ。
 神凪は驚いたような表情を浮かべ、おいおいと声を掛けてきた。

「マジで大丈夫か?」
「大丈夫だって。気にするな」
「気にするな、ってお前、そんな顔で言っても説得力無いぞ。素直に病院行っとけ」
「はいはい」

 僕は苦笑しながら手を振って、神凪の下を去る。名前と顔を知っているだけのクラスメイトたちと形だけの挨拶を交わし、今度こそ教室の外に。鈍い痛みが残る腹部に顔を顰めながら駐輪場に向かい、いつものように下校して、昨日のようにその場所を訪れた。



 小屋の中には冷たい空気が満ちていた。安普請なのか建物が歪んでいるのか、何処からか冷たい隙間風が吹き込んでくる。開けた扉からは赤い光が浅い角度で差し込んでおり、こんなところにも季節の変移を見て取ることが出来た。
 戸口から差す夕日に照らされた彼女は、悠然と僕を待っていた。小屋の中央に佇み、腕さえ組みながら、みすぼらしい少女はその瞳に強い意志の光を湛え、気高く僕を待ち構えていた。

「やっぱり、来たのね」

 呆れたように、あるいは諦めたかのように瑞葉は呟いた。

「昨日も言ったけど。他に選択肢が無くてね」
「でしょうね。あれほど痛めつけられておいて、それでものこのこ来るだなんて。いいわよ、もう。勝手にしなさい」

 瑞葉の言葉には苦笑の響きがある。
 僕は毎度おなじみのコンビニ袋からポカリのペットボトルを取り出して、それを瑞葉に向けて放った。
 難なくそれを受け止めて口にする瑞葉。ふう、と一息をついて、ペットボトルを口から放す。

「ありがと」
「……なんか、初めてお礼聞いたな、僕」

 なんとなく呟きながら、僕は自分用の烏龍茶で喉を潤す。
 瑞葉はそうね、と呟いて意地の悪い笑みを浮かべた。

「けど私は何も頼んで無いわよ。全部あなたが勝手にやったことでしょう?」
「まあ、それは確かに」

 別にお礼が言われたくて毎日通っていた訳じゃない。これはあくまで自己利益の為の自己満足による行為だ。見返りを見込んではいるが、彼女の行為にそれを望んではいない。

「けど、正直助かったのも事実ね。持ち合わせなんて無かったし、あまり人に会いたいとも思わなかったし。ところであなた、名前は?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」

 ええ、と頷く瑞葉。
 ……言われてみれば確かに、名乗った記憶は無い。そもそも会話を交わすようになったのは三日前からだし、その日も昨日も自己紹介をする機会も必要性も無かったのだから。

「教えてくれないかしら?」

 特に自分のことを説明する必要性は感じられなかったが、同時に、説明しない必要も考えられなかった。
「月払和泉。近くの高校に通う二年だよ」
「ツキハラエ・イズミ、ね。二年ってことは、十七?」
「いや、まだ誕生日前だから十六。それが?」
「ううん。やけに大人びてるから、ちょっと疑問だったの。高校生だろうなとは思ったけど、私とタメなんだ」
「同じ(タメ)、ね。まあ、その前後だとは思ってたよ」
「和泉って呼んでいい?」
「ご自由に」

 瑞葉は素直ね、などと呟いたあと、髪を掻き揚げるようにして梳きながらにかりと笑う。
 その邪気の無い笑顔に、一瞬、久方ぶりの嫌な予感を覚えたのは気のせいだっただろうか。

「じゃあ和泉。折り入ってお願いがあるんだけど」



 瑞葉の言うお願いは、簡単で、しかし当人にとってはかなり切実なものだった。

「お風呂貸して。お願い」
 ……いや、まあ。言葉にすると非常に些細なことに聞こえるが、実際問題あの小屋に水道が通っている筈も無く、瑞葉は長い間入浴という行為から遠ざかっていたとのことだ。近くに小さな沢があり、そこでタオルを湿して身体を拭いていたらしいが、それも最近は厳しくなってきた、とのこと。
 そんな訳で、自転車の後ろに瑞葉を乗せておよそ十五分。
 直に日も暮れようと言う頃、当たり前のように僕たちはマンションへと到着した。

「結構いいとこに住んでるのね」
「見てくれはね。こっちだよ」

 駐輪場に自転車を置いて、待たせておいた瑞葉に合流。オートロックを抜け、無駄に広いエントランスに。そのままエレベーターに乗り込み、六階のボタンを押す。
 十数秒の上昇で、僕らは目指す階層に辿り着いた。狭い箱を降りて、通路を右手の方向に向かう。

「静かね」
「このマンションの住人は共働きばっかりだよ。この時間じゃほとんど無人じゃないかな。ん、到着」

 通路の行き詰まりから二つ手前の扉の前で、僕は足を止めた。
 鞄から取り出した鍵で錠を外し、両親が留守のことを確認する。二人は共働きであり、帰るのはいつも日付が変わろうという時間だというのは重々承知しているのだが、それでも一応、という奴だ。

「うん、やっぱ二人ともまだ仕事みたいだ。いいよ、入って」
「お邪魔しまーす」

 小さな声で呟きながら、瑞葉はぼろぼろの靴を玄関に脱いで廊下に上がる。
 きょろきょろと物珍しそうに視線を巡らす瑞葉をとりあえずリビングに連れて行き、紙とペンを手渡した。

「ん?」
「必要なものがあるなら書いといて。買ってくるから」
「いいの?」
「何を今更」
「えーと、それはありがたいんだけど、私お金が……」
「いいよ、別に。お風呂の準備してくるから、その間に書いておいてね」

 僕は紙片を瑞葉に押し付けてリビングを離れた。
 バスルームに行き、バスタブにお湯を張る。蛇口から排出されるお湯が白い水蒸気を上げながら洋式のタブに溜まっていくのをぼんやりと眺めながら、何やってるのかな、と僕は自嘲した。

「忘れるな」

 壁のタイルに背中を預け、腕を組んで僕は呟く。

「僕はあの子の味方じゃない。僕はただ、目的を失った瑞葉がどんな行動に出るのか、それを知りたいだけだ」

 回想する。瑞葉との出会い。二週間ほど時間を遡るあの時の、恐怖に怯え、絶望に諦観した少女の瞳。
 あの瞳を見て、僕は理解した。自分と彼女が同じだと。それは確信に近い思いだったし、いまでもそれが間違いだとは思わない。
 けれど。
 それが本当に、一〇〇パーセント事実なのかと問われれば、僕は口を閉ざすしかない。
 三日前。ただの訪問者であった僕と、そんな僕を無視する逃亡者でしかなかった彼女。
 その彼女と、いまの彼女は果たして同一人物なのだろうか。

「いまの瑞葉は、既にそこから抜け出したのではないか」

 そんな疑問が頭をよぎる。
 出会ったばかりの頃の彼女がその瞳に湛えていた、怯えというなの震え。
 訪問を始めたばかりの頃に彼女が抱いていた、絶望という名の諦め。
 その二つは、いまの彼女にも健在なのだろうか。

「健在、って言い方は変だけど」

 言わんとすることは変わるまい。
 最近の彼女は見違えるほどに変わってしまっている。それまでの沈黙が偽りのように喋るし、その瞳にはなぜか酷く懐かしいような、毅然とした輝きすら携えている。
 その彼女を観察することで、僕にとって利益はあるのだろうか?

「……はてさて」

 呟きはバスタブにお湯が溜まる音に紛れ、自分の耳にすらよく届かなかった。



 湯船にお湯が溜まったのを見届け、僕はリビングに戻った。
 ソファに座って顔を顰めていた瑞葉に用意が出来たことを告げ、代わりとばかりに何故か無表情で差し出されたメモ用紙を受け取る。瑞葉が洗面所に入っていったのを確認したあと、僕は渡れたメモに書かれた品に目を通し、

「あっちゃー……」

 久しぶりに失敗したなぁ、と自分の浅はかさを悔やんだ。
 まあこれなら確かに、瑞葉が無表情だったのも頷けるわけで、えーと。
 ……順番、間違えたかな?



 色々な買い物を終えてマンションに戻れば、辺りはとっくに夜になっていた。本当、自分がどれだけ買い物に時間をかけたのかを考えるとさすがに情けなくなる。
 あー、けど、服だけじゃなくて下着まで買いに行かされるとかいう経験はもうお腹一杯なので情けないままで十分です。

「あ、おかえり」

 リビングに入ると、見覚えのある服に着替えた瑞葉が見覚えのあるズボンを履いて、見覚えのある姿勢でソファに座ってテレビなんぞを眺めていた。

「……」
「ちゃんと買って来てくれたんだ。ありがと」
「その服、何処で?」

 僕は瑞葉に答えるより先に、自分の問いを発していた。
 瑞葉は、当たり前のように答えた。

「何処って、洗面所」

 そんなことは知っている。瑞葉が着ているのは家族の一人が寝間着代わりに着ていた服で、それが収められているのは洗面所のクリアボックスの中なのだ。
 だから、おそらく。
 僕は、混乱していたのだろう。

「どうしたの?」

 不審げにこちらを見る瑞葉。
 僕は何かを言いかけて、何を口走ろうとしているのかに気付き、口から出かけた言葉を噛み砕かずに飲み込んだ。
 その代わりに、どうにか、当たり障りの無いことを口にする。

「少し、疲れた。部屋に居るから、何かあったら、呼んでくれるかな」
「ちょ、和泉?」

 疑問の声を上げる瑞葉を無視して、僕はリビングを離れた。逃げるように、否、まさに言葉の通り瑞葉から逃亡して、自分の部屋に向かう。後ろ手でドアを閉め、ベッドに倒れこんだ。
 硬いスプリングの感触がする。ベッドはほんの少しだけ形を変えて、それ以上僕に沈み込むことを許さなかった。

「あー……」

 漏れた声は、おそらくは自己嫌悪。
 僕はごろりと身体を転がし、平坦な天井を視界一杯にするかのように仰向いた。
 自分の腕で視界を隠し、はあ、と息を吐く。酷い脱力感が、身体を包んでいた。
 いままで体験したことも無いような睡魔が、ゆっくりと僕の意識を染め上げていく。

「そういうことか」

 呟いた声は、自分のものとは思えないほどに薄っぺらくて頼りない。
 ふう、と吐息。
 目蓋に被せた右腕の手の平が痛く、爪が食い込むほど強く手を握り締めていたことに気がついた。

「滑稽だ」

 気付いたことがあって、気付きたくなかったことがあった。
 その辺りの諸々を頭の中で整理しようとして、虚脱感にも似た睡魔が現界まで上り詰めていた事実を知る。
 ……考えるのは後にしよう。

「どうせ」

 僕がどれだけ惨めなのかは、考えるまでもなく明白なのだから。



 どれだけ眠っていたのだろう。眼は覚めたが、頭の中に深い霧が立ち込めているようで意識が判然としない。

「疲れてるのかな」

 呟いてみるが、その言葉が間違いだということは僕自身が限りなく理解している。
 ふと、控えめなノックの音に気がついた。こんこん、と一定のリズムで続けられているその音が、僕を眠りから覚ました張本人らしい。
 ベッドから立ち上がり、まだ寝ぼけている身体をなんとか制御してドアの前に立つ。ロックを掛けた覚えは無いので、ノブをひねってそのままドアを外側に向けて押し開いた。

「やっぱり寝てたのね。起きた?」

 ドアの前に立っていた彼女はそう言った。
 見覚えのある服。
 当たり前だ。なにせそれは、姉の所有物なのだから。

「電話、鳴ってるわよ。私が取るわけにはいかないから、知らせに来たんだけど」
「あ、うん。ありがとう」

 どうにかそうとだけ返し、僕は瑞葉の横を抜けるようにして部屋を出た。
 背後で瑞葉が首を傾げる気配がするが、無視する。
 きっと。いまの僕に、瑞葉に向けれる顔なんて無い。
 泣きたい程の自己嫌悪を感じながら、僕はリビングに到着。りりり、と鈴の音に似た電子音を立てる受話器を手に取った。

「もしもし……月払ですが」

 電話の相手は母だった。勤務先だろうからか、受話器の向こう側では慌しい人の気配がする。受話器を通して聞こえる誰かの話し声や電話のコール音が十重二十重に連なり重なり響き合い、耳に煩わしかった。

「うん、大丈夫。ちょっと部屋で休んでただけだよ。ああ、判ってるって」

 電話線を通じ母の口から紡がれたのは、最早テンプレートと化したお決まりの確認だった。それに対し、僕も形式化した肯定を示す。
 受話器の向こう側で、母は満足そうに頷いたようだった。そこまでいって、ようやく母からの電話は本題に移る。

「今日は泊まり? ん、了解。夕飯は適当に食べておくよ。……あれ? 父さんも今日、泊まりだっけ? ああ、うん。忘れてた」

 母の言葉に、その事柄を思い出す。カレンダーにちらりと眼をやれば、今日の日付のところには「父、宿直」と赤いペンで書かれていた。
 僕は母の言葉に適当な相槌を繰り返し、ややあって電話を切った。接続切れを示す甲高い電信音が一瞬響き、直後、部屋の中に満ちていた静寂が僕を受け入れる。
 心地よい静寂の中で、僕はふう、と息を吐いた。さぁ、という僅かな音が、世界は静寂でありながら無音ではないという事実を控えめに知らしめており、その事実がなおいっそう心地よい。
 ……ん?

「まさか」

 僕は窓の外に視線を向けた。外が暗いのは既に日が落ちたからという理由だけではなく、空が曇っているからだった。挙句ただの曇り空ではなく、静かな小雨が霧雨のように降り頻っている。
 どうやら僕が寝ている間に降り出していたらしい。空を埋め尽くす雲は厚く灰色で、雨足は強くなりこそすれ止むような気配は微塵も見せていなかった。
 あちゃあ、と僕は呟く。

「どうしようかな」

 何を、と言えば、勿論瑞葉のこと。
 風呂は貸したし買い物も済ませたので、瑞葉をマンションに招いた理由は全て完了している。このまま帰しても約束を破ったことにはならないし、予想ではあるけれど、言えば多分彼女はあの廃屋に戻るだろう。
 たださすがに、僕が何故瑞葉に興味を持ったのか、その理由を理解してしまったからこそ。
 彼女をこの雨の中に瑞葉を放り出すのは、気が退けた。
 どうしようか、と思いながら時計を見れば、時刻は既に夜の七時。

「……考えても仕方ないか」

 誰にでもなく呟く。色々と考えるのは後にして、とりあえず腹ごなしをするとしよう。
両親の不在は珍しくない。そんなときは大抵近隣のファーストフードかファミレス、或いはより手軽にコンビニで済ませるのだが、はてさて、今日はどうするとしようか。
 僕はそんなことを考えながら廊下に戻り、瑞葉の姿を探す。廊下はそれ程長くはないし、直線なのだから見つからない筈が無い。
 見つからない筈が無いのだが、瑞葉の姿はそこには無かった。

「あれ?」

 一瞬、帰ったのかな、と思ったがそれは無いだろう。電話をしている間、僕はずっと顔を廊下のほうに向けていたが、誰かが玄関から出て行ったような気配は無かった。しかし、そうであるならば廊下に居た瑞葉が何処に行ったのかを覚えていてもよさそうなものだが、不思議とそれは記憶に無い。
 つまり。

「入れ替わりで僕の部屋に入った、か」

 僕は短い廊下を進み、自分の部屋の前に立つ。ドアは僅かに開いており、付けた覚えの無い蛍光灯の明かりがその隙間から漏れていた。
 ドアを開けて中に入る。
 部屋の中には、やはり瑞葉の姿があった。久しく眼にしていなかった服装で身を包み、相変わらず赤いニット帽を被った彼女は部屋の中央に立ち、静かに、或いは呆然と部屋の模様を眺めていた。
 ……呆然、と?

「瑞葉?」

 瑞葉は僕の呼び声にびくりと身体を震わせた。
 彼女はゆっくりとこちらを振り返る。
 その瞳に、紛れも無い、いつか見た恐怖の色を滲ませながら。

「和泉?」

 確認するように、否定を望むかのように瑞葉は呟いた。

「和泉、和泉よね?」
「そうだけど。どうしたの?」

 どうしたのじゃないわよ、と瑞葉は静かすぎる、掠れた声で発音した。

「何なの、この部屋。こんな部屋で、誰かが生活してるっていうの?」
「随分な物言いじゃないか。こんな部屋、だなんて。ここ、一応僕の部屋なんだけどね」

 部屋の中を見回しながら、僕は肩を竦めてそう答えた。
 瑞葉は小さく息を呑み、嘘、と僕の言葉を否定した。

「信じられない。だって、こんな、こんな部屋」
「そんなに変かな? 別に汚れてる訳でも無いだろ?」

 何故瑞葉がそれ程までに愕然としているのか判らず、僕は部屋の中を見回した。
 小学生の頃から使っている部屋で、それほど広くはない。その形は正方形より長方形に近く、目に付く調度品はベッドと机、それと二つの本棚。机の上には手元を照らすためのスタンド。フローリングの上には安物のカーペットが敷かれており、ドアに近い部屋の隅に小さなゴミ箱が佇んでいた。
 語るべきことといえばただそれだけの、とりわけ特徴のない部屋だ。
 しかし。
 違う、と瑞葉は呟いた。

「ただ特徴のない部屋、ってのなら私も見たことがあるわ。けど、違う。特徴がない部屋って言うのは、その在り方が普遍だからこそ特徴が霞んで見えるの。特徴がなくても、個性があるのが普通なの。けど、この部屋は」

 そこで一旦、瑞葉は言葉を切った。俯いて胸の前で手を抱き、小さな深呼吸を繰り返す。
ややあって上げられた顔には、鋭い、厳しさにも似た表情が浮かんでいた。その瞳に、先ほど見られた恐怖は無い。

「この部屋は、まるで偽者みたい。特徴どころか、個性も無い。一見整ってるようだけど、その実何も無いじゃない。全部が取り繕った偽者。息を吹きかけただけで全部崩れてしまいそうに感じるわよ」
「……」

 ああ、それは。
 それは、いつか誰かに聞かされた感想ではなかったか。
 僕は頭を抑えた。はあ、と何故かため息が出てしまう。

「それが、どうかしたの?」

 え、と声が聞こえた。
 ぽかんとする瑞葉に、僕は続ける。

「特徴が無いとか個性が無いとか、偽者だとか崩れそうだとか」

 そんなのは。

「とっくに承知してるよ。いや、教えられた、かな」

 失踪した姉が、随分と昔に指摘した事実。
 僕は肩を竦めた。

「そんなことより、食事どうする? 今夜父さんも母さんも帰ってこないみたいだから、ついでだし、奢るよ。ファミレスでも行こうか?」
「ちょ、ちょっと和泉?」
「手近で済ませたいならコンビニでもいいけど、いい加減飽きたろ? ちょっと歩くけど、別にいいよね?」
「……」

 瑞葉は何も答えない。
 彼女はただ僕に睨むような視線を向けている。その中に含まれているのは、明快な、出会ったばかりの頃に彼女が僕に向けていた敵意そのものだ。
 ああ、つまるところ。
 この少女は、この僕をまるで理解していなかったということなのか。
 結局のところ、僕という人間が彼女という鬼を何も理解していないのと同じように。 

「瑞葉」

 僕は彼女の名を呼んだ。
 鬼の少女は僅かに身を震わせ、腰を落とす。おそらくそれは、僕の行動に即座に反応するための予備動作。逃げるか、それとも僕を……どうにかするのか。
 けれど多分、それは無駄な心配だ。

「とりあえずファミレスに行こうか」

 僕の提案に、瑞葉はやはり口を閉ざしたままだった。
 けれど構うことはない。僕は部屋の中の鞄から財布を取り出して、カードキーを収めたカードケースと一緒にズボンのポケットに突っ込む。敵意ばかりの視線に、僅かながら怪訝な色を滲ませた瑞葉に苦笑して、部屋を出た。
 その間際。
 ドアを半分ほど開いたまま、僕は部屋の中で立ち尽くしたままの瑞葉に告げる。

「言いたいことがあるなら、ちゃんと聞くよ。僕も君に聞きたいことがあったのを思い出したんだ」

 逡巡は、多分、数秒ほどは掛かっただろう。
 瑞葉は厳しい目つきのまま、けれど確かに頷いた。
 僕は多分、そんな彼女に微笑んだだろう。

「じゃあ、行こうか。少し歩くことになるけれど、我慢してね」

 そうして僕はドアを開け、

「――え?」

 そこに佇んでいた人影に、瑞葉がぽつりと声を洩らした。



 薄いベージュ色のコートを羽織った青年だった。歳の頃は二十代前半だろう。柔和な顔つきと、清潔そうな頭髪。背はあまり高くなく、右の手に小さな鞄を提げていた。丈の長いコートは雨を浴びたのか、その裾が黒く湿っている。
 青年はにこりと笑った。感情の感じられない、インスタントな表情で。

「やあ、瑞葉。迎えに来たよ」

 その言葉が引き金だったのだろう。
 僕の背後で瑞葉の息を飲む気配がして、刹那、たん、という小さな足音が聞こえた。その後ほとんど間を置かず、リビングの方から耳障りな音が響く。

「瑞葉?」

 呼びかけ振り向いても、返事はない。
 いいや、そもそも求める少女の姿がない。
 廊下の先に見えたのは、開け放たれたリビングに続くドアと、その向こう側で割れ砕かれた窓ガラス。風通しの良くなったリビングに、強まりつつある雨足が土足で入り込んでいる。
 僕が、その現状から何が起こったのかを理解するより早く。
 やれやれ、という呟きが聞こえた。

「まあ普通は逃げるよな。見つからないように必死だった訳だから」

 それは弾むような口調で、紛れもなく、いまこの瞬間を楽しんでいる響きだった。

「でも、だからって普通ベランダから飛び降りるか? ここ六階だぜ? これ以上人目についてどーすんだっての。なあ少年、君もそう思わないか?」

 言って、男は初めて僕に視線を向けた。
 その視線。あまりにも人間じみたその視線に、僕は思わず息を呑む。
或いはそれがもっと無機質なものだったら。より非人間的なものだったら、僕はおそらく即座に我に返ることが出来ただろう。だがしかし、男の視線はあまりに人間じみすぎていた。しかもそれは、そう、子供が弱った小動物や昆虫を明確な意思の元で殺害する、そんな狂気に最も近い理性という名の人間性の塊。

「ん? どうした少年。何か言いたいことがあるなら言った方がいいぞ?」

 男は言うが、僕は何も言えやしない。
 白状すれば、こんな体験、初めてだった。信じられないほど喉が渇いて、乾きすぎているからこそ自分の唾さえ飲み込めない。
 実も蓋も恥も外見も名誉も誇りもなく、一言で言えば。
 怖い。

「まあいいさ。ここから先は俺たちの問題だからな。一般市民にはお引取り願おう」

 おどけるような台詞と共に、男は懐から小さく黒い何かを取り出す。
 かちり、と男がボタンを押せば、それから飛び出た金属の端子間に青白い閃光が走って消える。耳に届いたのは、テレビの中でしか聞いたことのない現実感を欠いた音。
 スタンガン。
 男の動作は素早かった。柔和な顔つきのその男は眉の色ひとつ変えず僕首筋にスタンガンを押し付ける。その動作は洗練されていて、同じ行動を何度も経験しているような雰囲気があった。
 繰り返すが、男の動作は素早かった。躊躇いもなければ迷いもなく、だからこそ失敗と言うものもあり得ない。スタンガンの端子が僕の首筋に触れた瞬間、間違いなく僕は気を失うことだろう。
 だから、機会はこの一瞬しかなかった。
 僕は僕を支配する全ての恐れをその諦観で切り捨てて、ただ一言の問いを発する。

「お前は、誰だ」

 男は微かに、口の端を歪めた。
 かちり、と耳元でスタンガンのスイッチが押される音を聞く。

「俺の名前は葛葉枝葉という」

 そうして言葉にできない衝撃が脊髄を蹂躙し、

「あの出来損ないの兄ってヤツだ」

 あまりにあっさりと、僕は気を失った。



 考えるべきことでありながら、考えることを放棄していた幾つかの事柄。
 瑞葉の言っていた鬼とは何なのか。
 瑞葉は何故あんな廃屋に隠れていたのか。
 出会った時の瑞葉が浮かべていた恐怖は、何に依存する感情なのか。
 何故それらの考察を放棄していたのかと言えば、答えはひとつ。それらの解答が、僕にとってまるで無価値だったからに他ならない。僕の興味はあくまで瑞葉がどのようにして諦観を抜け出すかであり、絶望を克服するかである。確かにこれらの事柄は彼女の絶望と諦観に深く関わっているだろうが、僕の興味はその後の出来事だ。彼女の抱く絶望の種類に興味などないし、諦観の内容など知っても意味がない。
 しかし、いまの状況を理解するにはそれらの事柄について考えざるを得ないだろう。
 唐突に姿を見せた葛葉枝葉という人間。瑞葉の兄だと名乗り、彼女を出来損ないと呼んだ男。そんな彼から逃げた瑞葉。気を失わされた僕。一般人はここまでだ、という台詞。
 考えられることは少ないし、考えるべきことはそもそもゼロだ。けれど考えろ。何故瑞葉は身を隠し、何を恐れていたというのか。さあ思考しろ、時間は無い。もうすぐその場所に辿り着く。それまでに、枝葉から逃げた瑞葉を前にして自分に自信を持つことが出来るように、その結論を手に入れろ。

「何してるのかな、まったく……!」

 僕は呟きながらペダルを漕ぐ足に力を込めた。気を失っていたのは僅か三十分。その間に雨粒はだいぶ大きくなり勢いも増したが、ただそれだけ。まだいまいち身体の調子がおかしくて、鈍い頭痛がするけれどそれすらも瑣事と切り捨てる。切り捨て切り捨て切り捨てて、雨に濡れることも構わずひたすら自転車を進ませる。
 小山に入り上り坂を半ば意地で駆け上がり、いつもの場所で自転車を乗り捨てる。雨でぬかるむ山道を進み、ほとんど何も見えない中を記憶と勘だけを頼りに潜り抜ける。
 辿り着いたのは、無論、僕と瑞葉が出会ったその廃屋だ。夕日も無ければ月明かりも望めないいま、その小屋は夜の闇に溶けるように存在していた。
 僕は肩を上下させながら、呼吸が収まるのを待つ。火照った身体は、冷たい雨が急速に冷却してくれる。濡れた髪がべたりと額に張り付くが、そんなものを気にする余裕などありはしない。
 はあ、と大きく息を吐き、僕は顔を上げた。顔に打ち付ける雨を無視して、ぬかるんだ地面を歩みだす。一歩、二歩、三歩。四歩目で躊躇いが消えた。僕は廃屋の扉に辿り着き、錆付いたそれをゆっくりと開放する。
 世闇に隠れる廃屋の中には、より深い闇が漂っていた。
 けれど、そんなもの。自覚があるほどに暴走している僕に、どんな意味がある。
 僕は廃屋の闇に足を踏み入れた。ドアを閉め、ほとんど漆黒に近いこの暗闇に眼が慣れるまでおよそ一分。次第に周囲の輪郭の判断がつき始め、そうして。



 そうして僕は、闇の深淵に座り込む彼女の姿を見出した。



 その姿をなんと言い表せばいいのだろう。思いつく限りのどんな言葉も適切なようで、根本的に何かを履き違えているという思いが拭えない。いつも右の手に持っている筆記用具が、気付けば左の手の中にあったようなそんな違和感。歩き出すとき普段どちらの足から踏み出しているのかを考え込んでしまったかのようなもどかしさ。
 一言で言うのなら、現実感が決定的に欠落している。
 闇の一番濃い個所で座り込んだ鬼少女。右の手で自分の膝を抱き、左の手は薄汚れたニット帽を押さえ込んでいる。顔は伏せられており、前髪の庇の向こう側には感情の無い瞳が二つ、覗いていた。
 その口が、呪いごとでもするかのように同じ言葉を繰り返し繰り返し紡いでいる。

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!」

 その顔に込められた感情を、僕はなんと表現すればいいのだろう。
 最適な解は、おそらく、狂気。けれど、その答えに自信なんて欠片もない。当然だ。僕はこんなにも必死になれる狂気というものを微塵も理解なんて出来やしない。
 理解できないから、僕は正真正銘、天に誓って戸惑わなかった。

「瑞葉」

 怯える少女の名を呼んで、ニット帽を抑える手を掴む。
 びくり、と少女の身体が大きく震えた。

「僕だ。判るか?」

 瑞葉は答えない。ただ腕を掴んだ僕を仰ぎ、眼を見開く。
 僅かに開いた口から、あ、あ、という喘ぎにも似た嗚咽が漏れた。

「落ち着け、瑞葉。僕の言っていることが判るか?」

 語気を強め、言い聞かせるように呟く。視線を少女の瞳に合わせ、開かれた瞳孔のその奥を覗き込むように見つめる。
 瑞葉は小さく息を呑み、やがて、恐る恐るといった感じで僕の眼を見た。

「いず、み?」

 僕は頷き、握っていた瑞葉の手を離した。
 瑞葉は、嘘、と呟く。

「なんで? なんで和泉がここに居るの?」
「別に。ここ以外に居そうな場所の心当たりが無かっただけだよ」

 湿った髪を掻き揚げる。ああもう、洋服どころか下着までぐしょぐしょだ。乾くまでには時間が掛かるぞ、これ。

「正直、もうこの街には居ないかもと思ったんだけどね。居るとしたらここしかないと思って、急いだ」

 瑞葉は唖然と僕を見ている。
 僕は頭を振って、言葉を紡いだ。

「教えて欲しいんだ、瑞葉。君の言うところの鬼って奴や、あの男について」
「……そんなの、あなたの興味の埒外じゃなかったの?」

 掠れた声で搾り出すように問う瑞葉。
 僕は頷き、そうさ、と肯定した。

「けど、気が変わったんだ」

 僕はいまこの瞬間、僕に立てた誓いを破る。

「僕は君に関わるぞ、葛葉瑞葉」

 その理由は、別に大したことじゃない。
 月払和泉が当初の誓いを破ってさえ葛葉瑞葉を手助けしようという動機。

「どうして、私を助けようとしてくれるの?」

 私は人間じゃないのにと続ける少女に、僕は多分、苦笑した。

「そんなに大げさな理由じゃないよ」

 それは多分、口にしてはいけない理由。失踪した姉と目の前の少女には、決して言ってはならない侮辱。
 けれど、構うものか。

「君は僕の姉さんに似てるんだ。そんな君が堂々と傍若無人に振舞っていないなんて、とてもじゃないけど認められない」

 それに気付いたのは何時だったのだろうか。自覚したのはさっき。けれど、きっと、出会ったときから僕は気付いていたのかもしれない。
 この少女は姉に似ている、と。
 そうでなければ、どうして僕が彼女の観察を選んだりするだろう。絶望や諦観なんて、そんなのは所詮付属品だ。第一、絶望も諦観も僕の周りではそんなに珍しいことではない。
 何故瑞葉が絶望し諦観しているのを一瞬で見抜けたのかと言えば、彼女の瞳に合ったその粘質な墨のような闇が、僕にとって普段から見慣れたものだからに他ならない。

「お姉さん――か」
「目下失踪中だけどね」

 苦笑して、さて、と僕は呟く。

「理由は誠実に話したぞ、葛葉瑞葉。僕は君に力を貸す。だから、君の事を教えてくれ」

 瑞葉は息を呑む。縮こませた身体を小さく震わせ、視線を逸らすように天井を仰いだ。気まずそうに視線を右に遣り、俯くようにして左へと移す。
 そうして、少女は頷いた。

「いいわ」

 毅然とした、恐怖を押し殺した視線を僕に向ける。

「月払和泉。私を、助けなさい」

 僕は多分、微笑んだだろう。

「喜んで」



 淡々とした口調で、瑞葉は訥々と言葉を紡いだ。
 東海地方はその山奥。高い山に囲まれた線路も通らぬその盆地に、瑞葉の生活地域は根付いていたらしい。人口三千人にも満たぬ小さな町。廃校間際ながら小学校も中学校も存在したが高校は無く、スーパーはあったがコンビニは無かったという。
 そして、住人の多くは人間ではなく鬼。
 そういった諸々の話を、僕は瑞葉と肩を並べて座りながら聞いていた。

「鬼っていうのはね、和泉。言葉のあやでもなんでもない、言葉の通り鬼って奴よ」

 自分のニット帽を忌々しげに握り締める瑞葉。

「当然のように人を食べる存在。主食とは言わないけれど、偶のご馳走くらいの間隔で人を襲う人でない存在。私はそんな町から逃げ出したの」
「鬼が怖かったから?」

 瑞葉は首を横に振り、否定を示す。

「違うわ。ううん、でもある意味、正しいのかもしれない」
「どっちだよ」
「見て、和泉」

 消えそうな声でそう言って、瑞葉は自分のニット帽を取り払った。僕と同じように雨で湿った黒い髪。その流れの中からまるで浮き島のように飛び出た二本の小さな白い角。

「言ったわよね、和泉。私は鬼だって。私は、その町の住民の中の大多数、鬼の方に属するの」

 そして、と言葉を継ぐ鬼少女。

「私たちには、通過儀礼があったわ。通過儀礼、判るわよね?」
「個人が集団の中で相応の責任を負うに足る人物であることを集団が認めるために課される試験、試練」
「その通り。私の町では、一人前と認められるためにしなければならないことがあった」

 十七歳で一人前、か。元服じゃないか、それじゃあ。

「それで。その、通過儀礼ってのは?」
「喰人行為」
「喰人?」

 あまりにも判り易い言葉で、あまりにも理解しにくい概念に僕は言葉を返した。
 頷く少女。

「鬼は、人を喰べて初めて一人前になれる。ようやく一人前と判ぜられる。人間と決定的に決別することが出来る。だから私たちは十六の誕生日に誰かを喰べなければならない」
「随分とまた、飛躍した話だね」

 僕のコメントに、瑞葉は力なく苦笑した。

「同感よ。でも、ずっと長い間、疑問に思ってなんていなかった。早く人を食べたいって思っていたし、人を喰べた友達が凄く羨ましかった。でもいざ自分の番になって、食べる相手を選べって言われた時に、突然怖くなったの。だって凄く小さな町なのよ? 顔見知りなんてそこら中に居るし、ううん、顔を知らない人間なんて居なかった」

 言って、瑞葉は天井を仰いだ。思いを巡らすように瞳を閉じて、息を吐く。

「一番怖かったのはね。食べられる人たちが、それを当然と思っていることなの」
「――それって」

 自然、言葉が堅くなる。
 そんな僕を窺うように見て、瑞葉は弱々しい笑みを浮かべた。

「そういうことよ、和泉。喰人行為を必要なことだと受け入れているのは、私たちだけじゃない。むしろ積極的なのはあの人たちの方だった。鬼に食べられるということは選ばれるということであり、それは喜ばしいことなのだと本心で、心の底からそう感じていた。信じられる? 私が十六歳の誕生日を迎えた次の日、それまで仲の良かった子が私を食べてって言って来て――私がそれを渋ったら、その子、急に怒り出したわ。私はあなたの友達じゃなかったのか、って」

 可笑しいでしょ、と瑞葉は震える声で呟く。

「友達だから失いたくなかったのに、あの子の言い分は私とまったく逆だった。……あの子は泣いて、私を罵ったわ。嘘吐き、裏切り者、って。だから、だから私は、」
「……逃げ出した?」

 僕の言葉に、少女は弱々しく頷いた。

「――」

 なんとも――コメントに困る、経歴だった。

「可笑しかったら笑ってよ、和泉。情けない話でしょ?」
「情けないかどうかは分からないけどね。正直、何て言えばいいのか分からないよ。人を喰べるのが当然、っていう概念も理解できないし、それを当然と受け入れる人たちの価値観もよく分からない」

 だから、僕が問いたいことは一つだけだ。

「それで、君はこれからどうするつもりなのさ? 葛葉瑞葉」
「どう、って。……どうしろ、って言うのよ」
「聞いてるのは僕だよ。どうしたいんだ、瑞葉」
「ぁ……」

 瑞葉は躊躇うような視線を向けたあと、私は、と呟いた。

「私は、生きたい。ちゃんと、ちゃんと生きていたい」
「それだけ?」
「それで十分よ。和泉だって見たでしょ? さっきの人」
「コートを着ていた人?」

 こくり、と頷く瑞葉。

「あの人は私を連れ戻しに来たの」

 淡々と、瑞葉はそんなことを口走る。
 え、と僕は声を上げていた。

「でも、あの人は君の、」
「うん、そう。あの人は私の兄さん」

 瑞葉は僕に笑顔を見せる。いまにも泣き出しそうな、そんな弱々しい作り物の微笑み。

条件ルール、って言えばいいのかな。私たちは自由と、その、喰人行為を認められる代わりに全てが管理下に置かれているの。許可無しで町の外には出られないし、もしそれに背いて勝手に街を逃げれば追っ手が掛かる。それが、兄さん」
「どうしてそんなことを?」
「分からないわよ。私は管理されてる側だったんだもの」

 そう言って俯く瑞葉。
 ふむ、と口の中だけで呟く僕。まあ色々考えられるけど……いま関係ない、か。
 僕は立ち上がり、こちらを仰ぐ瑞葉の視線を真っ直ぐに見返した。

「さて、瑞葉。必要なものは?」
「……本当に、助けてくれるの?」
「言ったよ。僕は、君に手を貸すって」
「それは私が和泉のお姉さんに似ているから?」
「――うん」

 素直に、僕は頷いた。それは事実だ。でも同時に、僕がこの少女の手助けをしようと決めたことと、僕自身、この少女が俯いているのが甚く我慢ならない――という、それだけのことでもある。
 分かっている。それは酷く失礼な話だ。僕は瑞葉に行方の知れぬ姉の姿を見て、そのあり方に一方的な期待を押し付けている。そんなもの、あの人たちと何処が違おうと言うのか。
 自己嫌悪にも、程がある。
 でも、それでも僕は――この少女に、姉を、慕って止まなかった姉を見てしまっているのだ。

「……馬鹿」

 瑞葉は本心から詰るように呟く。それでもいいさ、と思った。僕は姉の面影を拭えないし、瑞葉にしたって、そういった理由で協力する相手の方が利用しやすいだろう。
 ――と。
 そんな僕の思惑を裏切るように、少女は座ったまま力無く僕のシャツを掴んだ。

「ここに居て」

 雨の音に掻き消えそうなほど小さな声が、耳に届く。

「もう少しでいいから、ここに居て」
「――」

 何かを言おうとして、言えなかった。
 それは、多分。
 恐怖を押し殺すように強く握られたシャツと、それでもなお押し殺せぬ恐怖に震えた腕が見えたからだと思う。
 ……やれやれ、だ。僕はもう少し論理的(クール)な奴だと思っていたんだけど、どうにも自己分析を改めなければならないらしい。

「お願い。もう少し、もう少しで収まるから、だから、」

 掠れるような瑞葉の言葉を聞きながら、僕は再び腰を下ろそうとして、

「――いや、それは無理だろ?」

 そんな、酷くあっけらかんとした台詞が聞こえた。





 男が立っていた。
 小屋の入り口。古くなった戸を開き、しかし小屋の中に入ることは無く、その男は一人佇んでいた。
 覗く小屋の外は暗い。雨は勢いをそのままに、止む気配など微塵も見せずに降り敷いている。
 ……だから、なのだろう。僕も瑞葉も、男が扉を開けたことに気付かなかったのは。音と気配のその両方が、この激しい雨足にかき消されてしまったという話。

「話だけ聞くと」

 気軽な風に男は言う。雨の中、眼も眩むほどの真紅の傘を片手に、もう片方の手を体の後ろに廻したポーズを取り、傘をくるくると廻しながら。

「青春してるじゃないか――とは思うがな」
「あ……あ、あ……!」

 男の言葉一つ一つに反応するかのように、瑞葉が途切れ途切れに息を洩らす。シャツを掴む腕に力が篭り、その瞳に明らかな恐怖の色が灯り出す。怯えている、という表現ですら生易しい狼狽ぶりだ。
 そうして――そうして。
 瑞葉の兄、葛葉枝葉は笑いかけるように自分の妹を嘲笑った。

「惨めだな、瑞葉」
「に……兄さん、どうして……!?」
「ここが分かったか――って? おいおい瑞葉、肉親を侮るな。こんな場所、とっくの昔に見つけてたに決まってるだろう」
「――え?」

 あっさりと。
 今日の空模様を告げるかのようなその告白に、瑞葉は表情を取り落とす。
 枝葉は、そんな妹の反応を楽しむかのように笑みを噛み殺して続けた。

「こんな場所に閉じこもっていれば見つからないとでも思っていたのか? 甘いと言わざるを得ないぞ。俺ならこんな場所、一週間もあれば探し出せる」
「じゃ――じゃあなんでいままで放っておいたの?」
「答えるまでも無いんだがな、我が妹」

 呆然とした問いかけに、やはり枝葉は当然と答える。

「俺たちは許可が無ければ外部にだって自由に出ることが出来ない。一生あの狭い町の中で退屈に幸せに過ごすのが定めって奴だ。鳥は籠の外を望んじゃいけないのさ。確かにそこは自由かもしれないが――誰もが自由の中で生きていけるとは限らんぞ」
「それは」

 耐え切れず、僕は口を開いた。

「それは――勝手な言い分、じゃないのか。それに、答えになっていない」

 僕は出来る限り静かにそう問うた。ほう、と枝葉が面白そうに眼を細め、僕のシャツを握る瑞葉が驚いたように僕を見る。

「和泉……?」

 掠れたような問いかけを、僕は無視した。
 そうしなければ破裂しそうなのだ。いま、この瞬間にも。

「答えろよ、枝葉。なんで、放っておいた?」

 口調が尖るのを自覚。ああ、もう、何が冷淡クールだ。思い違いも甚だしい。
 僕は――怒っている。この男に対し、形容しがたい怒りを抱いている。

「いやいや、少年、そう思うなら最後まで言葉を聞くべきだな。別にもったいぶろうって訳じゃない。教えてやるよ、少年。おまえがどうして瑞葉に惹かれたのか、その理由もな」
「何――だって?」

 僕が瑞葉に惹かれた理由?
 どうして、突然そんなことを言い出すのか。

「止め――止めて、兄さん……!」

 何をそんなに恐れるのか、悲痛に瑞葉は懇願する。
 僕ですら。それほど親しくない僕ですらも無視できないほどのその慟哭に、しかし枝葉は笑みを浮かべるだけだった。

「瑞葉を放って置いた理由だが、簡単に言うなら、それが丁度いい外出の理由になったからだ。こういった逃亡者の処分、っていうのは一番楽な外出の理由になるんだよ」
「つまり――簡単に見つけると、すぐに帰ることになるから、だからしばらく放って置いたって言うのか?」
「そういう訳さ、少年。簡単な理由だろ?」
「……同意するけどね。吐き気がする。あんたは、」

 僕は躊躇わず、戸口に立つ枝葉を睨みつけた。

「あんたは、瑞葉の兄なんだろ?」

 つまりは――そういうこと。
 僕の怒りの理由。この月払和泉が柄にも無く腹に据えかねたその訳。
 結局のところ、僕は。
 兄が妹を手助けせずに放っておいたというその一点が、言葉に出来ないほどに我慢ならないのだ。

「確かに血は繋がっているがね。だからこそ、我慢ならないこともままあるものさ。ああ、そういえば瑞葉、一つ教えておくことがあった」

 言って、枝葉はその視線を瑞葉に向ける。身を竦める瑞葉とは対照的に朗らかな笑みを浮かべ、告げた。

「美世子ちゃんな。自殺したぞ」
「……え?」

 少女の口から洩れた言葉は、あまりに脆弱。
 それに気付いているのかどうか――いいや、おそらくはどちらにしても変わるまい。枝葉は変わらぬ口調で語る。

「おまえが喰べずに逃げたから、恥ずかしさのあまり、な」
「嘘……嘘でしょ?」
「本当だとも。可哀想に。おまえが喰べてやれば、ずっと一緒に居られたのにな」

 そうして、枝葉は意味ありげな視線を僕に向ける。肩を落とし、瞳から理性の光さえ無くし失意に沈んだ瑞葉など興味無いと言わんばかりに。
 玩具を目の前にした子供のような、楽しみを目前に控えたそんな視線。最後の一歩を踏み出せずに居る誰かが、いつ踏み出すのかを期待しながら待っているような、そんな視線だ。

「少年に説明しよう。俺たちのこと、瑞葉から聞いているな?」

 僕は無言を返す。
 枝葉はそれを肯定と受け取ったか、笑みを浮かべて言葉を続けた。

「俺たちは言葉の通り人を喰らう訳だ。だがこの場合の喰べるってのは、何も言葉の通り摂取するという意味だけじゃない」
「……?」
「そんな不思議そうな顔をするな、少年。俺たちにとって喰べたるというのは、相手の持つ知識、思考、経験に至るまで、相手の全てを自分のものとして取り込む行為なのさ」

 言って、くるり、と枝葉は手にした傘を廻す。
 あ、と瑞葉が弱い息を吐いたが、僕は枝葉から視線を逸らせない。
 ……何故だろう。酷く、嫌な予感がしていた。

「例えば俺。今年で二十二だが、いままでに三人町の人間を喰らっている。勿論合意の上でだ。そいつらが持っていた知識は全部受け継いでいるし、体格も、ははは、そちらに引き摺られてしまった。本当はもう少し背が高かったんだが、いまとなっては混じる前の俺に実感がわかない始末だ。……っと、話が逸れたな。まあ俺が言いたいことは一つな訳だ。つまり、人を喰った鬼は、喰べた相手に影響される。精神だけじゃない、体格や顔つきまで、その全てがな」
「――――ッ」

 それは、つまり。そういう、話、なのか。
 枝葉が口にしようとしていた、もう一つの理由。
 どうしてこの僕が。
 他人のみならず、自分にすら無関心であったこの僕が。
 どのような理由で――瑞葉に協力しようとしたのかという、その根拠。

「ほれ、瑞葉」

 身体を硬くした僕を笑うかのように、枝葉は身体の後ろに隠していたそれを、まるで空き缶でも捨てるかのように軽く放り投げた。

「裏の沢で拾ったぞ」

 それは音も無く地面に転がり、僕の足に当たって止まった。

「父さん母さんから何度も言われただろ?」

 含み嗤うかのような枝葉の言葉。

「食べ残しは良くないぞ、ってな」



 それは――
 ただ慣性のままに地面を転がった挙句僕の足に当たって止まり、濁った瞳でぼんやりと僕を見上げるそれは――
 ……見間違えるはずも無く。
 眼を見開いたまま絶命した、愛しい雨深あねの生首だった。



 思わず、駆け出していた。

「あ――」

 シャツを掴んでいた瑞葉が弱い声を上げるが、僕はその腕を振り払って走る。
 短い距離だ。狭い小屋の、その戸口に建つ枝葉。直線距離にして十メートルも無ければ、到達までほんの数秒も掛からない。
 僕は――僕は腹の底に横たわる何かを全てぶちまけるかのように、にやけた笑みを浮かべる枝葉を殴りつけようと腕を振り上げ、

「はい残念」

 含み笑いのまま小さく動いた枝葉が、いとも簡単に僕の腕をもぎ取った。

「あ――え――――?」

 均衡が、崩れた。
 僕は肩から――既にそこから先を失った右肩から、受身も取れずに地面に倒れこむ。
 何も分からず、事態の把握も出来ないままに――
 痛みが来た。激痛という言葉ですらも虚構めいた、あまりに激しい痛覚信号。
 喉元まで上がりかかった悲鳴を飲み込む。それは決して見栄なんていう格好いいものじゃなく、ただ単純に、あまりの痛みに言葉さえ洩らせれなかっただけだ。
 僕は涙で滲む視界を拭うこともせず、地面に倒れたまま痛みの元を見遣る。本来ならある筈の腕。つい数秒前まで繋がっていた筈の右腕は、まるで蟹や海老といった節足動物のそれをもぐように酷くあっさりと外し取られてしまっていた。肩に覗く断面には赤やピンク、白みがかかった黄色など、冗談みたいにカラフルな色が揃っている。
 尤も――言うまでもなく、そこから滲み止め処無く広がるのは問答無用に赤一色だ。

「ふむ」

 のんきな声に、僕はそちらを仰ぎ見遣る。

「情けないと言うべきか、頑張りましたと言うべきか。微妙だね?」

 枝葉はそんなことを言いながら、もぎ取った僕の右腕で自分の肩を叩く。自分のものの筈なのに――そうやって、他人にさも道具のように扱われる自分の腕は、何処か偽物のように感じられてしまう。
 と、そんな僕の視線に気付いたか、枝葉は小さく笑った。

「ああ、すまないね。どうにも力加減が出来なくて」

 枝葉は屈みこんで僕の頭を掴んだ。いいや、正確には僕の髪を掴んで、
 ぐい、と力任せに持ち上げる。

「……ッ!」
「おー。これでも声を上げないとは流石。ああ、もう悲鳴を上げる体力も残ってないのか」

 悔しいけれど……枝葉の言葉は、間違いなく正鵠を射ている。
 僕にもはっきりと判るのだ。生々しい傷口からだくだくと流れ滴る赤い血液。容赦の無い出血はまるで搾取と呼んでも問題がなさそうで、でも一番問題なのは、血が流れるにつれ次第に痛みが薄れているという点だった。
 つまり、残っていないのだ。
 喪われつつあるのだ。
 この僕を構成している――おそらくは、全てが。
 枝葉は鼻で笑う。

「ま、持ってあと三十分ってトコか。――瑞葉!」

 鋭い呼び声に、遥か彼方で誰かが身体を震わせる気配がする。
 ……って、何が「遥か彼方」だ。そんなに離れてなんかいる筈がない。
 筈がないのだが――それでも、僕はそれを遥か彼方(届かない)と認識してしまった。
 枝葉は言う。歌うように。

「おまえが頼ろうとした少年はいまこうして短い人生を終えようとしている訳だが、さて瑞葉、おまえには何か言うことがあるんじゃないか?」
「…………」
「おいおい、しっかりしろよ瑞葉。呆けている場合じゃないだろ? 紛いも無しに手を貸してくれようとした少年だぞ? このままじゃ死んじまうぞ? まあどうやっても助かるとは思わないけどな」
「……嫌。そんなの……そんなの、いやぁ……!」

 誰かが立ち上がる気配がして――そうして、足音が、惑うような、迷うような、躊躇うような足音が、一歩ずつ、一歩ずつ僕に迫ってくる。

「嫌なら、分かってるな? ほれ」

 軽く言って、枝葉は僕の右手を軽く放る。

「もう我慢の限界だろう?」
「――ぁ」

 そんな枝葉の囁きに――
 求道者が真理を得たような吐息が聞こえ――
 誰かが、何かにかぶりつく音がした。

「……」

 見えないことが幸いなのか、それすら僕には判らない。
 枝葉は笑う。楽しいな、と心から笑う。

「いやいや、これは傑作だ。そうは思わないか少年。あんなに人を喰べることを嫌っていた瑞葉が、あんなに上手そうにしゃぶりついているぞ。あのまま人を喰べないとか言い張るようだったら本気で殺さなくちゃいけなくなっていたが、これならその心配も無いな。よしよし、これで長老共に顔向けできるってもんだ。いやいや、感謝しているぞ少年。よくあの妹の人間嫌いを治してくれた。ああ、勿論、少年の姉にも感謝している」
「なん……だって?」

 僕は驚きのままに、おそらくは最後の問い掛けをしていた。

「少年の姉のことか? さっき言っただろう? 俺はもうずっと前からこの場所を見つけて、監視してたわけだ。勿論――勿論、見てたぞ。散歩の延長線上か何かは知らんが、ほいほいとこの部屋を覗き込んで、瑞葉に喰われたおまえの姉の一部始終もな」

 ――。

「なあ少年。一つ教えてやる。俺たちにとって喰人行為ってのは呼吸に等しいんだ。しなくても多少は耐えていけるが、まったく無しで過ごせる訳じゃない。呼吸ってのは我慢は出来るが我慢しか出来ないよな? そういう訳だ。俺たち鬼は、人を食べずには生きていけない訳だ」

 ――――。

「ああ、だからそういう意味でもおまえの姉には感謝してるぞ。あのまま放置しておいたら数日もしないうちに瑞葉は餓死していただろうからな。まさに身をもって瑞葉を救ってくれた訳だ。……ああ、そうそう。さっきの瑞葉の傍に居てくれって台詞な、多分おまえが思っているような意味じゃねぇぞ」

 ――――――。

「あれはまあ、また我慢が効かなくなっていたんだろうな。だから傍にいてほしかったんだと思うぜ? ほら、誰だって――」

 何処かで、何か硬いものを、軽い棒を投げ捨てたような音がする。
 枝葉は満足そうに頬を緩め、頷いた。

「誰だって、美味しいものは手の届く場所に置いておきたいよなぁ?」

 ――――――――この野郎。
 僕は文句の一つも言おうとして、言えない自分に気がついた。
 ……言うことさえ出来なくなっている自分に、気がついた。
 誰かが僕の脇に手を差し入れ、ころん、と僕を仰向けに寝かす。
 痛みは無い。いや、「痛い」ということは意識がちゃんと認識しているが、僕にはそれを理解するだけの体力が残っていない。
 まさに、死に体だ。先細りの命。終わりが見えた道のり。
 そうして、瑞葉は僕に馬乗りになる。両腕で僕の肩を……ああ、右の方は無事な場所を掴み、僕の顔を覗き込む。その瞳に浮かんでいるのは躊躇いと、悲しみと、怒りと、それらを全て覆い隠すかのような、飢え、だった。
 僕は最早――彼女の重みさえ、感じることが出来ない。

「……ぁ」

 赤く染まった唇が、小さく動く。
 その赤は、おそらくきっと、僕の赤。

「……ごめん、なさい」
「おいおい、違うだろう」

 何かを堪えるかのように呟かれた謝罪を、枝葉は笑いながら否定する。

「こんな時に言うべき台詞は、別にあるだろ」

 瑞葉はその瞳に躊躇いを濃くし、二度三度視線を彷徨わせたあと、

「――い」

 もう耐えられないと。
 もう我慢の限界だと、その言葉を口にした。

「――いただきます」

 口も聞けぬ僕の代わりに答えたのは、人でなしの兄。
 彼は聖者のような柔らかい笑みを浮かべ、小さく頷いた。

「召し上がれ」



 そうして、私は和泉を喰べ終えた。
 言葉の通り完膚なきまでに、一切の食べ残しを許さず、……骨とかその辺の極々少量を残骸として残し、私は月払和泉という少年を喰らいつくした。
 ぱん、ぱん、と乾いた拍手が耳に届く。
 見るまでも無いけれど、一応確認するならば――私の食事を笑顔で見守っていた、兄の枝葉のものだった。
 枝葉は残った残骸を――和泉だったものを見下ろして、満足げに呟く。

「いやいや、見事なものだね。誰に教わったでもないくせに、こうまで満足に喰らいつくすなんて、もう花丸ものだ」
「兄さん」

 静かな声で、私は問う。
 腹を探るような茶番になんて――付き合う、気分じゃなかった。

「私を、どうするつもり?」
「ふむ。まあ一応は捕縛命令が来てる訳だから街に戻って貰わなきゃな。まさかまだ逃げるとか言わないよな? これ以上引き伸ばしたらいい加減捕縛が殺害に変更されそうだ」

 軽く言う兄だが、そこに嘘の響きは感じられない。
 だからおそらく、これで私が町に戻れば全てが丸く収まるのだろう。
 私の脱走も、美世子の自殺も。
 自分を抑えきれずに襲ってしまったあの女性も、
 ……初めて、私が好きになりそうだったこの少年のことも。

「瑞葉?」

 怪訝そうに兄が私を呼んだ。
 私はなんでもないと首を振り、口元を拭う。
 べとり、とこびりつくのは和泉の血液だ。はしたない、と思いながらも、私はそれを残すことが出来ず――拭ったそれを、全て舐めて飲み込む。
 喉に張り付くような、鉄臭い赤の液体。
 それを――美味しいと、感じてしまう。

「ああ」

 だから私は、その想いを確信に変える。
 私は――和泉のことが、好きだったのだと。
 兄の言うとおり、私たちは食べた相手の思考や在り方に影響を受けてしまう。だからこの想いが全て私一人のものかと問われれば、それを全肯定することなんて出来ない。これはひょっとしたらあの人が――私が最初に食べてしまったあの人が抱いていた、肉親の情なのかもしれないからだ。
 でも、と思う。
 私は和泉のことが好きだったのだと思う。たとえその根本にあったのが、私の未来に対する単純な興味だったということを踏まえても、それでも何も言わず何も聞かず、あくまで協力者を演じようとしてくれていたあの少年が――私は、好きだったのだ。
 だから。
 だから私は、この思いを止めることなんてできない。
 私が和泉から受け継いだもの。
 和泉を喰らうことで受け入れたもの。
 それは、

「――兄さん」

 紛うことなき――

「ん?」
「――ごめんなさい」

 ――怒りと、絶望。

「……ぁ?」

 不思議そうな顔で、兄は私を見る。
 正確に言うのなら、兄の背後に立った私と――自分の胸から生え出でた、私の腕を。

「瑞、葉?」
「ごめんなさいね、兄さん。でも言っていたのは兄さんでしょう? 私たちは、喰べた相手に引きずられるって。だから――ううん、きっと、和泉を喰べても喰べなくても、きっとこうしてたと思う」

 兄さんを貫いた私の腕は、確実に一つの臓器を掴みぬいていた。手の中に納まってしまうほどに小さな、どくりどくりと鼓動を収めぬ心の臓。

「いまの私は兄さんを憎んでいる。和泉をあんな目に合わせて、あの人の首を――私が私であるために残しておいたあの首をあんな風に扱った兄さんを、心の底から憎んでる」

 あの人――雨深の首を残しておいたのは、それが私の最後の理性だったからだ。
 私は雨深を襲った。襲い、喰らい、我に返り、その行為に嫌悪した。
 私は人間だと思いたかった。好きな人を、大事な人を嬉々として喰らう鬼になんてなりたくないと思っていた。
 なのに私は雨深を襲ってしまった。そんな自分の願いを、自分で踏みにじってしまった。
 ……傑作だったのは、そこまでしてなお、この私が人間に踏みとどまろうとしたということだろう。飢えに耐え切れず人を襲っておきながら、全部食べ切れなかったのはそれが原因だ。私は頭を、かつて御頭とまで呼ばれたその部位を残すことで、人を喰べていないと自分に言い聞かせようとしたのだ。
 でも結局、それは私の立ち位置を曖昧にするだけで――飢えを満たしきることさえ、出来なかった。

「これから――どうするつもりだ?」

 心臓を私に鷲掴みにされたまま、兄はそんなことを問う。
 私は肩を竦め、気軽に答えた。

「どうも。私はもう鬼の側に来てしまったもの。自由に振舞い、鬼らしく過ごすわ」
「は。茶番だぞ、瑞葉。そんなことすれば直ぐに管理者が」

 手に残ったのは、ぐしゃり、という感触。
 私は兄の身体を……ああ、いや、亡骸を捨てる。完全に息絶えたそれには興味の欠片も沸くことは無く、私は開いたままの戸口を潜って外に出た。
 あれだけ降り敷いていた雨はいつの間にか止んでおり、空は曇り空でありながら、その所々に覗く切れ目から夜の空が窺える。
 湿った土を踏みしめ、ああ、と苦笑した。

「鬼としてなんて、生きていける筈がない」

 もし私が鬼として生きていくのなら、誰かを喰べずに居られる筈が無い。
 それは定義。定められた、運命と呼んでも一向に差し支えないものだ。
 でも私は、それを是としない。なぜなら、

「私はこれ以上、混ざりたくなんてない」

 誰かを喰べるとは誰かを取り込むということで、誰かと混ざり合うということに他ならない。
 だから私はそれを否定する。これ以上――人を喰べてなんか、やるものか。たとえその選択が愚かで矛盾していようとも、この結末が惨めで哀れな餓死だとしても、私はそれを否定する。
 だって、私はいまとても満足しているのだ。
 月払雨深と月払和泉。
 まったく逆方向の生き方ベクトルを持ちながら、互いに互いを称えあっていた二人。
 私が口にした、たった二人の生きた人間。
 ……だから、それで十分。
 私はこれ以上誰も喰べなくてもやっていける。その二人のことを覚えてさえ居れば、私はそれ以上何も求めることなく進んでいける。

「――ありがとう。それと、ごめんなさい、和泉、雨深」

 私は小屋を振り返り、僅かに残った亡骸に言葉を掛ける。

「私はもう一人でも――ああ、」

 とんだ勘違いだ。私は苦笑して、自分のおなかに手を当てる。
 そこに感じるのは――決して肉体的なそれだけではない、満足感。

「私は、ずっとあなたたちと一緒だから」

 いまの私が何処に行き着くのかは分からないけれど。
 それでも私は、あなたたちと一緒に在れればそれで満足だ。



 そうして私は夜の闇に足を踏み出した。
 愛した少年の重みを、身体の内に残留させながら。





(完)






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