抜けない棘と白い部屋


 僕は、彼女の部屋にいた。小さな、やけに白い部屋。壁紙はもちろんのこと、床一面に敷き詰められたカーペットも、味気のない天井も、部屋を照らす明かりも、大きめな窓を隠すカーテンも、玄関に並んだ幾つかの靴も、部屋の隅にかけられたスーツですら、真っ白だった。

 すべてが白で統一されていた。



 部屋の中を白くしたのは、僕が彼女の部屋に来てから三日ほどが経った頃だった。最初に小さなテレビが部屋から持ち去られ、順次、部屋から家具が消えていった。その代わりに持ち込まれた物が、白い、白いだけの家具だった。

「これは、あなたのためなのよ」

 やけにさっぱりとした、壁紙を張り替えたばかりの部屋の中で彼女は言った。僕の頭の傍に腰を下ろし、息もかからんばかりに顔を近づけて。その声は悲しいほどに優しく、美しく。また、魅力的で、扇情的だった。

「こうしないと、あなたが不自然になってしまうから」

 言って、彼女はゆっくりと僕に口付けをし、舌で口を無理やりこじ開け、からからに乾いた僕の口に暖かい唾液を流しこんできた。長い、長いキスを終えたあとで、彼女が顔を離したとき、その顔には必ず恍惚の笑みが、ぼんやりとした瞳とともに存在していた。







 一ヶ月ほどして、部屋の所々に四角い冷蔵庫用の消臭剤が目立つようになった。

「ごめんなさいね」

 仕事から帰ってくるたび、暗闇に明かりを灯し僕を見つめるたび、彼女の目には罪悪のそれが浮かび、揺らめく。そして彼女は僕に口付けをし、いつも告げるのだ。

「こうしないと、あなたが連れて行かれてしまうの。だから、許して」

 許すも何も、僕にはなかった。部屋の中は清潔そうだったし、事実そうだった。純白の部屋は、虫歯予防習慣のポスターに使ってもよさそうなほどに清潔で、白かった。僕はそのことが誇らしかったし、彼女といるともうなにも、感じはしなかった。



 彼女は、毎日、本当に一日も欠かすことなく僕の身体を磨き、抱きしめ、キスをした。僕はもう彼女に応えることは出来なかったけど、もし出来たなら、僕はそんな彼女に毎回心から応えていただろう。

 僕は彼女の部屋の隅、大き目のベッドの上に広げられたシェラフに身体を横たえ、日々を送る彼女を眺めていた。朝が来てあたりが白み始めれば、彼女は僕の隣で身体を起こし、洗面所に消えた後しばらくして戻ってきて、焼いたパンを音もなく食べ、同じようにトーストを僕の枕元に起き、スーツに身を包んで部屋を出ていった。部屋、といってもアパートの一室なので、彼女が開けたドアの向こうには青い空が――――いつもではないにしろ――――広がっていた。吹く風は部屋のカーテンを揺らし、僕の寝るシェラフを軽くはためかせた。

「行ってくるね。ご飯、ちゃんと食べなきゃだめだよ」

 微笑みながらそう行って、彼女は毎朝会社に出かけていった。

 そして、ドアが閉まると、部屋の中は暗闇に包まれ僕は一人になった。



 大体彼女が帰ってくるのは、夜の七時か八時といった頃だった。

 彼女は帰ってくるとドアを閉めて鍵を掛け、部屋に明かりを灯すとすぐにスーツを脱ぎ、薄いシャツ姿になった。そして「だめじゃない」と言いながらまったく手付かずの冷えたトースト――――今朝、彼女が用意していったものだ――――を片付け、僕の隣に身体を横たえ、僕の硬い頬をゆっくりと、優しく撫でながらその日にあった事を話すのだ。会社の周りの桜が咲き始めたこと、仕事が上司に誉められたこと、同僚との楽しい会話の数々……僕はただ聞いているだけだったけれど、それを話す彼女は本当に楽しそうで、嬉しそうで、そして優しそうだった。以前、彼女に覚えた「原子聖母」という言葉は、間違いではなかったな、と思うほどに。

 すべてを話し終えたあと、彼女はシャワーを浴びて服を着替え、僕の隣に身体を滑り込ませる。そして僕の身体を抱きしめ、何度も何度も口付けを繰り返したあとで眠りに落ちる。

 それが、彼女の一日だった。

そして僕は、たぶん、幸せなのだ。



 もちろん、何も問題がなかったというわけではない。僕が彼女の部屋にいることで、何度か、彼女に迷惑が掛かりそうになったときがあった。そんな時僕は、彼女に弁解はもちろん、彼女がその困難に耐えきったときに賛辞を贈ることさえ出来なかった。僕は、いつも彼女を眺めてだけいたのだ。

時折、そんな自分にどうしようもない憤りを感じたものだが、その都度、彼女は僕の思いを察したかのように、優しい瞳で僕を眺めるのだ。

「大丈夫。私は、あなたといて幸せよ」

 彼女はよくそう言ってくれた。そう言って、僕に唇を重ねるのだ。彼女の柔らかく暖かい唇は、僕の冷え切った唇とはあまりに違っていた。始めてキスをしたあの頃とは、まるですべてが違ってしまっていた。

 主に――――そう、僕と、僕を取り巻く環境が。







 僕と彼女は、同じ会社の採用試験を受けただけの仲だった。少なくとも、最初はそうだったのだ。だけどそこ、つまり就職を希望した会社の中で僕らは出会い、僕は彼女に――――彼女が持つ、気品にも似た静かな美しさと、そして氷にも似た静寂さに惹かれ、喜ぶべきことに彼女も僕に興味を持ってくれたことは事実なのだ。現実だったのだ。僕たちは数回のデートを経て、そして初めて唇を重ねた。十二月の、寒い、世界のすべてを凍らせてしまいそうなほどに寒い夜。彼女はしばらく呆然としたあとで、不意に顔を歪めたかと思うと、僕の着ていたコートに顔を埋めるようにして抱き着いてきた。僕はそんな彼女をとてもいとおしく思い、彼女の嗚咽が収まったあとで、もう一度キスをした。



 しょっぱい、涙の味がしたことをぼんやりと覚えている。





 僕は彼女を愛していた。それは自信をもって言える。自分がそこまで他人を好きになれるとは思ってもみなかったし、それは彼女にしてみても同じようだった。僕は彼女のすべての期待に応えたし、少なくとも最大限の努力をした。そして彼女もまた、僕の期待にすべて応えてくれた。

 僕たちの関係は、なんの問題もなく最後まで――――結婚まで進むと、僕たちばかりでなく周りの人間もそう思っていた。

確実に、僕と彼女は幸せの絶頂にいたのだ。





 僕が彼女に微かな疑問を覚えたのは、いつのことだっただろうか。

 それは、最初小さな取っ掛かりに過ぎなかった。小さな木の棘が指先に刺さったような、気付こうと思わなければ気付くことさえ出来ないであろう小さな違和感。でも、そんな違和感すら、当時の僕たちにとっては決定的な亀裂だったのだ。僕は彼女に疑問を、猜疑心を抱き、そして、その日を迎えた。

 確かに、僕たちは絶頂にいたのだ。絶頂にいたが故に、あとは、僕たちはその関係をつぶすしかなかったのだ。絶頂の先にあるのは、まぎれない崩壊だけなのだ。

 そしてそれ以来――――僕は、彼女の部屋に住みつくこととなった。





 彼女は確かに美人だったし、性格もよかった。男女を問わず、同僚の中にも彼女に興味を持つ人間は山のようにいたし、持つなというほうが無理だったのだろう。

 だけど、世の中に「完全」という言葉がありはしないように、彼女もまた「完全」ではなかったのだ。もちろん、そんなことを言えば僕のほうが彼女より遥かに「不完全」であったのだろう。でも、たぶんだからこそ僕は彼女の「完全」さに心惹かれたのだろうと思う。

 そして――――それは同時に、僕が彼女の「不完全」性に感づいたときに大きな反動となり僕たちを襲った。いや、襲ったのは僕だけだったのかもしれない。彼女はおそらく自分自信のそのことに気付いていないだろうし、これからも一生気付くことはないのだろう。それが彼女の魅力であるとも言えるし、同時に欠点でもあると言えるのだ。





 彼女は、独占欲が強かった。自分のものを他人に触られることを極端に嫌っていたし、逆に、自分の興味の範疇外にはまったく関知しなかった。

 そんな彼女が、なぜ僕には普通に接しているのかとても不思議に思った。そして、さんざん考え――――僕は一つの考えに辿り着いた。



 彼女は僕を所有物としか、玩具としか思っていないのだ、と。



 もちろん、そんな馬鹿な考えはすぐに捨てた。けど、深く刺さった棘がいつまでも抜けぬように、その考えはことあるごとに僕の脳裏に浮かび、その都度僕たちの溝を深めていった。

 いや……違う。溝を作っていたのは僕のほうだし、僕のほうから彼女の元を離れていったのだ。

 もちろん、彼女は悲しんだ。悲しみ、ヒステリーを起こし、叫び、僕に向かって何度か物を投げたことさえあった。同僚たちは僕がなにかをしたのだと思いこみ、皆で僕を責めた。そして、厄介なことに彼女は僕を責める奴らを罵り、嫌い、気が狂ったように叫んだのだ。



 ……あなたたちに、何がわかるの

 ……彼のどこが悪いって言うの

 ……彼がいつ私を傷つけたって言うの



 そして、僕たちの周りには誰もいなくなった。当然だろう。こんな厄介な状況の中に、誰だっていたくはないのだ。それは僕も同じ思いだった。だが、僕にその道は残されていなかった。

 いや、正確に言えば僕はまだ、その道を選ぶほど腐ってはいなかった、ということだ。彼女自身がなんと言おうと、彼女が荒れていたのは僕が彼女から離れていったからだし、なぜ離れていったのかといえば、僕が彼女の本当の姿を見れなかったからだ。

すべての責任は僕にあったのだ。



 少なくとも、そう考えなければ僕自身が罪悪感で押しつぶされそうになっていた。

 だから僕は、まだ寒い二月のある日、彼女を呼び出してきっぱりと告げた。僕はもう、君の傍には居られない。君にはもう、付き合ってはいられない……と。

 そんな僕らの行動が、今の関係を築き上げる礎となった。



 僕が彼女の部屋に居座り、彼女は普通に戻ったようだった。少なくとも、仕事から帰ってきた彼女の話を聞く限りではそうだった。彼女は普通に戻り、元の、綺麗で魅力的な女性に戻ったのだ。

 以前との相違点と言えば、もはや異性になにも求めなくなった、ということだろう。だって彼女には僕が居るのだ。そして、彼女がそのことにとても満足しているのだ。

 もちろん、この状況がとても異常だと言うことはとっくに気付いていた。もっとも、そうは言っても僕は手を出すことが出来ず、また、彼女はそんな異常性にすら気付かなかった。





 ひょっとして、彼女の精神はとっくの昔に壊れていたのかもしれない。僕は彼女の過去を知らない。以前に何があったのか知る術はない。だから、彼女がどんな環境の元で育ったかは知らないが、そこに発狂の要因がないだなんて誰が言えよう? いや、過去に原因がなくたって、心なんていつでも壊れてしまう危険性を秘めたものなのだ。まして、僕たちはとても脆い存在だ。風の一吹きで吹き飛び、壊れてしまうような存在なのだ。

 そんな彼女に、いや、人間に「完璧」を求め期待した僕にそもそもの原因があったのかもしれない。でも、そんなことも今となってはどうでもいい。僕は彼女とずっと一緒に、この部屋で時間を共有していくのだ。







 そう、僕はいまとなっても彼女を愛しているのだ。

 ひどく愚かな、馬鹿なことだとは思う。だけど、僕の心の中でその思いはいまとなっても日に日に大きくなるだけであり、萎えたり、しぼんだりする事はなかった。そのことはとても誇らしくあったし、また、喜ばしくもあった。

 彼女もまた、こんな僕を日に日にさらに好きになっていってくれていた。最初はそれでも服を着て僕の隣で寝ていたにも関わらず、最近は一糸纏わぬ姿で僕に体を預けるのだ。すべてを信じきった、安心しきった安らかな顔で。僕に応えることはできなくても、彼女は気にしない。彼女ののそんな行為は僕の心をとても満たしてくれる。とても幸せな空気が、僕たちの周りを包むのだ。

 僕たちは、再び幸せの中に戻ってきていた。





 そしてそのことが、何よりの問題でもあった。

 僕が彼女のことを愛していると言うこと。

 彼女が、こんな僕をいまだに愛してくれていると言うこと。

 問題ではあったが、それを解決する手段が存在しない場合、それは問題と呼ぶに耐えうるのだろうか?

 でも、ただ一つ言えることはあった。





























 どんなことにも、終わりはやってくるのだ。





 そして、予想通り、僕たちの生活はある日、突然の乱入者によって打ち破られた。

「誰ですか、あなた方は!」

 ドアを少しだけ開け、ヒステリックな声で彼女が叫んだ。ドアの外には二人の人間がいるようだった。

 彼女と乱入者は、しばらくの間激しい口論をしていた。内容は聞き取れない。彼女の言葉はひどく支離滅裂で、また、僕には彼女の言葉以外は聞こえないのだ。

やがて彼女は無理やり部屋の中に押し込まれ、二人の中年の男が無遠慮そうに入ってきた。

 その二人には、なんとも言えない共通点があった。大差なさそうな歳もそうなのだろうけど、なんと言えば良いのだろう、奇妙な、緊張感とも言えぬ何か。かすかに引きつった顔が、彼女を、そして――――僕を見ていた。



はは、こんにちは。

彼女以外の人と会うのはとても久しぶりですよ。



 僕は試しにそう言ってみた。けど、やはり声は出なかった。判っていたことだ。いまの僕には声を出すことなんて出来ない、と。

「彼に何か御用ですか!?」

 僕を庇うように抱きしめながら、彼女は男たちを睨み付けて叫んだ。彼らは一瞬顔を見合わせ、小さく頷き、僕と彼女とを交互に眺めた。その中にあったのは、紛れもない同情と――――憐れみの色。

 彼らの一人が、ゆっくりとした動作で彼女に歩み寄り、うずくまった彼女の腕に鉄製の丸い拘束具をはめた。乾いた音が僕の神経に触り、無遠慮で、機械的なその動作に激しい怒りを覚えたが、こんな奴に僕の気持ちがわかるはずもなく――――彼女ですら判りはしなかったのだ――――、彼は顔を歪めて僕を見た。



 ひどく悲しそうな顔だった。



 その一方で、もう一人が携帯電話を顔に当て何かを喋っていた。会話は一分も掛からず、電話を切って十分もしないうちに数人の男たちが部屋の中に現れた。皆一様に青い制服に身を包み、同じ色の帽子をかぶっていた。

 彼らには特徴と言う特徴はなかった。本当に、同じ服装に身を包んでいる、ということだけだった。ただ、僕を見ての反応にはちゃんと個性があった。顔を青くする者、口を押さえて部屋を出て行く者、大きく目をそらす者、面白そうにじろじろと視線を注いで来る者……

 私服の男がニ、三度何かを言い、二人の青い男が僕の元まで嫌々そうに歩み寄った。気乗りしていないのは明らかだった。

「止めて、その人に触らないで!!」

 彼女が叫んだ。見れば、拘束具はもう片方を男の腕につながれ、その男は必死になって彼女の身体を押さえていた。

ああ、やっぱり、彼女は彼女なんだな……妙に安心した思いで、僕はそう思った。僕は、名実共に彼女の物だったのだ。

青い男たちは何度か顔を見合わせた後、やがて決意をしたかのように頷き合い、シェラフのジッパーを閉じて僕の身体を包んだ。でもジッパーは僕の首元までしか届かず、僕の頭だけはそのままになった。彼らは嫌そうに、そして申し訳なさそうな顔を一瞬僕に向けた後、シェラフの足元と肩とを持って僕の身体を持ち上げた。

ひどく軽い身体だったと思う。少しは感謝してほしいものだ。





 隣を通りすぎるとき、ふと、すべてを諦めたように座りこんだ彼女の顔が見えた。意気消沈、なんて生易しい話じゃない。すべてが終わってしまったような、すべてを諦めてしまったような、そんな顔だ。



おいおい、そんな顔、しないでくれよ。



 僕は動くはずのない喉を使い、上がるはずのない声を上げた。

 きっと、彼女には通じるはずだ。その自信と、確信の元に。



君はまだチャンスがある。そんな顔は止めてくれよ。



 僕の声が、いや、思いが届いたかどうかは判らない。でも、僕は通じたと、彼女がすべてをやり直す決意をしてくれると考えることにした。







 不意に、視界がぐらり、と揺れた。僕の足を持った青い男が、どうやら落ちていた雑誌を踏んでバランスを崩したらしい。肩を持った男がどうに均衡を保とうとするが、僕の身体は平行を失い、ひどく傾いた形となった。



 そして、視界が急に落下していった。あ、外れたな、とひどく他人事のように僕は思った。白いカーペットの上に僕は頭をぶつけ、ニ、三度回転して部屋の隅にある姿見のカガミの元まで転がり、ちょうど顔がカガミを向く形となった。



 カガミを通し、部屋の中にいるすべての人間が見渡せた。顔を青くし、いまにも泣き出さんばかりの彼女。顔に苦渋を満たしている二人の私服の男たち。げっそりとした、そして悪夢でも見るような顔の青い男たち。その帽子に、金色の、桜をかたどったバッチが見える。彼らにしてみれば、きっと悪夢の方が遥かにマシだったのだろう。けど、残念なことにこれは現実なのだ。



 彼彼女たちの視線は、皆、僕に注がれていた。

 カガミに写った自分の顔を見て、無性におかしさがこみ上げてきた。



おいおい……ずいぶんと変わっちまったものだな。



 苦笑交じりに、僕は思った。



 カガミの隅には、綺麗に磨かれた真っ白な頭蓋骨が写っていた。



本当に、変わっちまったなぁ、おい。



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