冬の夜
これは、俗に魔法使い(INACEP)と呼ばれる彼らが己の国を造るため、この国を切り崩しに掛かるほんの数週間前の話。酷く冷え込んだ夜の話である。
* * *
予備校の門を出たところで、彼女はふうと白い息を吐いた。同じように予備校からの帰路につく戦友たちの流れに乗りながら、先ほど終わってしまった模試の内容を振り返る。物理の最後の一問に手も足も出なかったことを忌々しく思いながら、それでも手応えはあったなと自分を元気付けた。
駅前に向かう流れに従いながら、左右の煌びやかな装飾(イルミネーション)に目を奪われる。なんだろう、と疑問に思い、街角に佇み笑顔を振り撒く赤服の老人を見て、今日が何の日だか思い出した。
そう、今日はクリスマス。一年の中でも一、二を争う大きなイベントであり、受験生である自分もこんな日ぐらいは色々なしがらみを捨てて笑いたい――――そう思っていたはずなのに。
(なんで今日に限って模試なのよ)
愚痴は予備校というシステムに対してか、それとも模試に気を取られてクリスマス(こんなこと)をすっかり忘れていた自分に対してか。
彼女はやりきれない悔しさを抱えたまま駅に辿り着き、そして自分の町に戻っていった。
繁華街の明るさも、住宅街には届いていないようだった。
時刻はたぶん、一〇時を過ぎたか過ぎないかといったあたり。コートのポケットに放置してある携帯で確認すれば確かなのだが、わざわざそんなことをする気も起きない。
人気の無い住宅街を、ひとり歩く。見える家々には明かりが灯り、その前を行き過ぎれば僅かに陽気な、心底幸せそうな笑い声が風に乗って届く。
私は何をしているんだろう。受験生という立場を忘れて、彼女はそう思う。本当ならば今すぐ街に舞い戻り、適当な店に入って、少しでも構わないから逃しかけたクリスマスを味わいたい。一生に一度しかない、高校三年生のクリスマスを、たとえ一人とはいえ味わいたい。
それが叶うなら、なんと幸せなのだろう。
彼女は理解している。自分にそんなことはできはしない。いかにそれを望もうと、自分の理性はすぐに帰宅し、模試を見直すことを要求している。いつしか身に付けていた優等生の仮面は本当に強固で、自分ひとりの力ではとても剥せそうになかった。
彼女は自分自身を皮肉気に笑い、それでもその足を一路家へと向ける。
その足が、ぴたりと止まった。
見通しの悪い交差点。それは小中学校、そして高校に渡り何度も繰り返し警告された危険な地点だ。これ見よがしに設置されたカーブミラーは街灯の白いスポットライトの中に佇み、立ち看板には赤い文字で交通事故多発地域という文字が見える。
そんな場所にも、いまばかりは人気が無い。いや、正確に言うのなら人の姿はあるのだが――――
交差点の片隅に、忘れ去られたかのように黒い猫が死んでいる。
その猫はおそらく、車にはねられたのだろう。実はといえば、それは大して珍しいことではない。住宅街の傍らにあり、よくよく車の通るこの交差点で動物が死んでいるのを見るのは、これでいったい何度目になるのだろうか。
彼女はむしろ醒めた感覚で、その動かない獣に目をやった。首輪が無いのなら、それは野良猫。そもそも家人に愛される飼い猫ならば、いまごろ暖かい家の中で七面鳥でも齧っているのではなかろうか。
猫に対する興味は、本心を言えばそれで尽きた。なのに何故其処から動かないのかといえば、そこに居る人影に興味が残ったからに過ぎない。
それは、少年。彼女と同じように厚手のコートに身を包み、脇には小さな鞄を抱えている。その中には多分、今日の模試の受験票と筆記用具、あとは筆箱あたりが入っているのだろう。
同級生の少年だった。同じクラスで、期末試験のたびにクラスで頂点を争う仲の少年だ。
その彼が、いま猫の亡骸の傍らに屈み込み、慈しむような笑顔を浮かべている。それは命を見取るというには薄すぎて、クリスマスを祝うにしては悲しすぎた笑み。
声を掛けようか否か、珍しく、彼女は躊躇った。聞きたいことがあるのは事実。何故今日の模試に来なかったのかとか、なのに何故こんな処にいるのかとか、それは裏切られた仲間に対する憤りに近い感情の問いかけ。
しばらく佇んでいると、やおら彼は猫に手を伸ばした。あ、と彼女は息を漏らす。それに気付いたか否か、そもそも自分がここに居ることに気付いているのか否か、彼は何も反応を返さず、ただ血まみれの猫の亡骸をその胸に抱く。
ほんの少し、時隙があった。
だがそれは、本当に僅かな隙間。彼女が疑問を抱くより早く、少年の腕の中に僅かな光が生まれる。蛍の光より柔らかで、されど背筋を凍らすほどに恐怖を覚える、緑の光。
そうして、泣き声が聞こえた。短く届いたそれは、まるで眠りから覚めたばかりのように穏やかで、静か。
彼は微笑みを深くし、抱いた猫を地面に下ろした。死んでいたはずの猫は何も無かったかのようにその足でしかとアスファルトに立ち、もう一度小さな、しかし暖かい声で鳴くと軽やかに身を翻し、道の先、夜の闇へと溶けていった。
「――――さて」
彼の呟きで、彼女は我に返った。先ほどとは別の理由で声を掛けようか迷っていると、彼は静かに立ち上がり歩き出す。その進む先は自分とは別方向で、自分がこのまま帰ってしまえば次に会うのはきっと予備校。そのときにはいつもの、どこか軽薄な顔を見せてくれることだろう。
今宵のことは、たぶん、見なかったことにした方がいい。
聡い彼女はそれを悟りながら、それでも彼の後を追った。
* * *
彼は、町の外れに向かっているようだった。
彼女は彼の少し後ろを歩きながら、声を掛けることも出来ないでいた。知らない仲ではない。話し掛けることは簡単だし、彼も多分、それを待っているのだと思う。
それでも、彼女は彼に声を掛けることを躊躇っていた。正確に言うなら、十年近い面識の末に知ったその事実に、自分の見解をもてないでいた。
「INACEP…」
小さく呟く。
それは、偏見の対象だ。法の下では平等と謡われ、世間からは白い目で見られる不遇な者たちの総称だ。
確かに彼女は知っていた。日本にもINCEPは、魔法使いは居るし、その数も決して少ない訳ではない。そんなことは現代社会の基礎知識だし、時事問題に絡めて試験でよく問われる内容ですらある。
だから彼女は、彼らをよく知っている。彼らは人間ではなく、正確には人間という種からほんの少し脇にそれた亜種。先天的能力(インボーンアビリティ)を使い、世界を思い通りの形に組替える者達。多くの国で人権に制限を架せられ、声高に自分がそうだと叫ぶことさえ出来ない者達。
自分の幼馴染がそうであるなんて、何故信じられようか。
声を掛けることは躊躇われたが、このまま引き返すことはより躊躇われた。
結果、何も出来ずにただついていく。彼の足は淀みなく、目的地があるということは間違い無さそうだった。
どれだけ歩いたか知れない。
ふと、視界をよぎる白いものに気が付いた。
あ、と彼女は声を上げた。視界を、世界をゆっくりと縦断する白い結晶。雪。今年もそろそろ雪が近いということは知っていたが、それが丁度クリスマスに重なるなんて、神様も随分と粋なことをしてくるものだと思う。
言葉もなく歩みを続ける。雪は深々と降り続き、空気はより鋭さと寒さを増していく。
やがて住宅街が終わり、大きな公園に辿り着いた。桜公園と呼ばれる、昔からあるただ広いだけの公園。その名の通り、敷地をぐるりと囲むように桜の木が植えられ、春ともなれば多数の花見客で始終宴会が開かれる場所だ。
そんな公園も、いまは死んだように眠り返っている。人の姿は一つもなく、葉を落とした桜は地面から飛び出た骨のようだ。生き物の気配も、音すらもない、静寂だけが降り積もった土地。
彼は入り口で僅かに足を止め、並んだ骨たちを仰ぎ見る。その口端は小さく噛み締められ、瞳には決意の色が見える。
しばし佇んだあと、彼はまた歩き出した。公園の中心を通る道を、足音もなく進んでいく。
やがて彼は足を止めた。其処はまさに、骨ばかりの庭園の中心地。
くるりとこちらを振り返る。その顔には不敵な笑み。
「君に見せるためじゃないんだけどね」
「え?」
彼女は疑問の声を上げる。やはりこちらに気付いて彼は、しかし何も言わず、ゆっくりと両手を広げた。その様はまるで翼を広げる鳥のように穏やかで、全てを包み込む聖母のように暖かい。
何をするのか、と思った刹那、光が溢れた。広げた両腕の中に、抱きかかえるようにして緑色の光が生まれた。
彼女は息を飲む。それは先ほど見た光。死んだ黒猫を生き返らせた、彼が人間ではないという何よりの証。
光は透き通った水晶のように輝き、光を放っていたが、やおら彼が何かを呟くと、爆発でもするかのようにその体積を広げていく。それはあっという間に彼自身を包み、彼女を包み、そしてドーム状の光となり公園全体を包み込んだ。
あまりの眩しさに、彼女は思わず目を閉じる。瞼を通してなおその光は鮮明で、容赦がない。
しばらくして、光が収まった。恐る恐る目を開くと、其処には変わらぬ冬の夜の闇。そして其処に舞う白い六花。
――――否。
彼女は息を飲んだ。ざぁ、と風が吹く。降る雪を舞い上げるかのように吹き上がった強い風は、世界をかき混ぜるかのように雪を躍らせる。
彼女は信じられないといった面持ちで、周囲を、公園を囲うように並んだ桜の木々を見廻した。
葉の一枚も残っていなかった木々に、いま、満開の花が咲き誇っている。
周囲に舞っているのは、いまや雪だけではない。
白い六花に混じり、あるいは勝るかのように、白い花弁が優雅に舞っている。
信じられない光景だった。今日はクリスマス。桜など、花はおろか芽さえもまだ出ていないだろうに。
それを引き起こした原因は、無論、幼馴染の彼。
人間ではない、彼。
抱いたのは恐れ。だがそれは、すぐに吹き飛んだ。
顔を向けた先、公園の真中で、彼が倒れていた。
* * *
彼女は慌てて彼のもとに駆け寄り、その肩を揺さぶった。
「ちょっと!」
「……そんな大声出さなくても大丈夫だよ。聞こえているから」
言って、彼は顔を上げる。その顔は土気色となり、唇は明らかな血行不良(チアノーゼ)を起こしている。口調も、いつもとは比べ物にならないほどに弱々しい。
ただ、その顔には笑みがある。瞳には強い輝きがある。
それを認め、心配する程の事はないだろうと、ほっと安堵の息を吐く。そのまま、ぺたりと彼女は彼の傍らに座り込んだ。
「――――」
「え?」
「驚いた?」
こちらを見上げながら、彼はそんなことを尋ねてくる。その顔に浮かんだ笑みも、いまは少し力無い。
しばらく迷って、小さく頷いた。
「……だよね。騙すつもりはなかったんだけど」
声には若干の寂しさ。そして苦笑。
「……別に、騙されたとは思ってないわよ」
呟いたそれは、多分本心。
彼は驚いたように目を丸くし、やがてありがとう、と小さく呟いた。
夜の闇に、雪と桜の白が舞う。
今度は彼女が質問を掛けた。
「今日はどうしたの?」
「お婆ちゃんの具合がね、ちょっと悪くて。模試どころじゃなかったんだ」
僅かに顔を歪めながら、彼は言う。
彼の祖母――――彼女はその顔を思い出そうとして、諦めた。最後に会ったのがいつだったかも覚えていない。ただ、昔、それこそ幼稚園とか小学生だった頃、とてもよくしてもらっていたのは覚えている。
「危険なの?」
「とりあえず峠は越えたって、お医者さんが。でも、そんなに長くない、って」
淡々と語る彼の胸のうちは、いったい如何なものなのだろう。
ここのところ疎遠になっていたが、それでも、この少年が生粋のお婆ちゃんっ子だということは記憶に鮮明だ。
彼の顔に、泣き出しそうな悲しみはない。むしろ微笑みすら浮かんでいる。
でも多分、それは嘘。
「あなた、魔法使いなの?」
「うん。どうやら、そうみたいなんだ」
「何が出来るの?」
「指定区域内に存在する任意対象の時間を遡らせること、かな。僕の判断だけど」
「――――じゃあ、この桜は」
「今年の春の桜だよ。厳密に言えば多分違うんだろうけど、その辺は僕にとっても知ったことじゃないからね」
さて、と言って彼は身を起こした。立ち上がることはせず、彼女と肩を並べるように地面に座り、たったいま自分が巻き戻した桜を眺める。
雪は音もなく降り積もり、桜は囃子も成しに舞い踊る。
六花も桜花も白すぎて、どれがどれだか区別がつかないほどだ。
「……なんで、こんなことを?」
「ちょっと、試してみたかったんだよ。僕に、これが出来るかどうか」
彼は軽く肩を竦めた。肩越しに背後を振り返る。その視線の先にはただの闇、否――――
「本当に、本当に春に間に合わなかったら――――僕の力で、最期の桜を、ってね」
彼が視線を馳せているのは、暗闇の向こう、闇の中にかすか輪郭のうかがえる総合病院。
升目のように並んだ窓のどれか一つが、彼の祖母が眠る部屋なのだろう。
「で、君はなんでこんな処に?」
「模試の帰り。今回は不戦勝ね」
「違いない」
「問題、コピーしとく?」
「いや、いいよ。どうにか手に入れるさ」
小さく首を振る彼。
彼女はそう、と言って、再び世界を埋め尽くす白い乱舞に見入った。
桜と、雪と、夜の闇。
それは全部別々のはずで、なのにまったく違和感なく世界を埋め尽くしている。
そして彼女は、自分が彼に、なんら畏怖を抱いていないことに気が付いた。
(ああ、つまり)
雪と桜。
この白は、どちらであっても大差ない。
(違いなんて、些細なものなんだ)
そう思うと、彼を魔法使いと知り偏見を当てはめそうになった自分がどうにも可笑しくなった。
笑う。声を上げて笑う。
彼が怪訝そうな顔を向けた。
「どうしたのさ」
「別に。ああ、そうそう、言い忘れてたけど」
「ん?」
首を傾げる彼に向け、右手を軽く掲げる。
満面の笑みで持って、彼女は祝った。
「メリークリスマス」
彼はきょとんとして、すぐに笑みを浮かべる。
「メリークリスマス」
ぱあん、と手が打ち付けられた。
気持ちがいいほどのハイタッチ。二人は同時に苦笑して、そして声を上げて笑った。
冬も深まる師走の終わり。
眠る街の片隅の、死んだ園に命が戻る。
世界を舞台に雅に舞うは六花と桜花。
その様の、なんと――――
(終幕)
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