木洩れ陽喫茶


少女嗜好な後日談





 都心を電車で離れること、三時間。そこから更にバスと私鉄を一時間と少しばかり乗り継いで、ようやく、彼女はその町へと辿りついた。
 中部地方の山間部に位置する町である。地図で確かめた時はどれほど辺鄙な場所なのだろうかと思ったが、実際に訪れてしまえば、その思いが杞憂だったのだとすぐに知れた。駅前は――勿論都心のそれとは比較する気も起きないが、地方であることを踏まえればまずまず立派だし、人の姿も多い。尤も、行き来している彼ら彼女らの中に本当の、つまりは混じり気の無い人間がどれほど居るのかと聞かれれば、彼女としては苦笑交じりに首を傾げるしかないのだが。

「――やれやれ。すっかり遅くなっちゃったな」

 携帯電話の表示で時間を確認して、彼女は呟く。時刻は既に十七時を過ぎ、西の空はゆっくりと茜色に染まりつつあった。本当はもう少し早くに到着する予定だったのだが、思いの他出発に手間取ったのがその理由だ。従順であった頃の自分ならまだしも、ここ数年間は決して彼にとって理想の――都合の良い娘ではなかっただろうに、よもや別れを惜しまれるとは露とも思っていなかった。耄碌した頭では、自分が誰なのかと認識することさえ難しいだろうに。まあ、こんな自分であり、あんな養父ではあった訳だが、だからこそ、一応なりにも父と娘だったということなのだろうか。
 別に、今生の別れでもないんだけどな。胸の内だけでそう呟いて、彼女は歩き出した。表示に従って、バスのロータリーを目指す。学校帰りらしい学生たちの流れに逆らわぬように目的のバスに乗り込んだ。
 今度の移動は短かった。所詮は市内を巡回するだけのバスである。十分ほどしてバスを降りたとき、ふと彼女は手引かれるような感覚を覚え、そのまま歩みだすのを取りやめた。
 同じようにバスを降りた学生たちが、その日々を十分に楽しんでいるということを窺わせるに足る笑顔で何事かを喋りながら、バス停から続く繁華街のモールへと流れていく。その背中を微笑ましく見守っている自分に気付き苦笑して、彼女はその視線を横、モールの入り口に佇む少女へと向けた。
 否。
 そこに居たのは、少女(アリス)のような外見をこそしているが、十分すぎる程に淑女(レディ)の気品と風格を纏った女性だ。金色の髪を二つに結え、ややゆったりとしたワンピースに身を包んでいる。服の趣味が少し変わったのかな、とは思ったが、それ以外のところ――殊、鋭い紅色(あか)の瞳は、あの頃の彼女とまったく変わっていないようだった。
 驚きを滲ませた紅の瞳に笑みを返し、彼女は件の女性の元へと歩みを進めた。三歩目を踏み出したころには女性の瞳から驚きが消え、代わりにその顔には苦笑のようなものが浮かぶ。そして、彼女が女性の目前――手を伸ばせばお互いが触れ合える程の位置に辿り着いた頃、その苦笑は、ふてぶてしいまでの微笑みに変わっていた。

「お久しぶり、だね。元気そうで、なによりだ」
「あなたもね。あの頃と変わっていないわ」

 呆れさえ混じったようなその声に、酷いな、と彼女は苦笑する。

「皮肉かい?」
「いいえ、本心よ。まあ、装いはだいぶ変わったようだけれど。瞳は、本当に。あの頃のままね」
「……瞳?」

 不思議な物言いに問い返す彼女に、女性は、ええ、と頷いた。

「少し付き合いなさい、塚本耀。ちょうど喉が渇いていたの」
「……驚いた。随分とあけすけになったものだね」

 苦笑すべきかどうなのか彼女――耀が躊躇っていると、その言葉にきょとんとしていた女性は、ややあって合点がいったように首を振る。

「違うわよ、耀。そういう意味じゃなくて、純粋に、お茶のお誘いのつもりだったのだけれど」
「ああ、それは失礼。どうにも、まだ、仕事の癖が抜けなくて」
「それは仕方のないことよ。一朝一夕で人となりが変わることなんて、そんなに多くは無いのだし。あなたの場合、一朝一夕どころの話ですらないでしょう?」
「――やれやれ。僕が調査室を辞めたこと、知っているんだ?」
「ええ。幸いなことに、耳の早い者が居るわ」
「夕月さん、か。参ったな」

 僅かに顔を顰めた耀に、女性はくすくすと笑う。

「心配しなくても大丈夫よ。あなたのことは、まだ伏せてあるから」
「……僕としては、お礼を言うべき、なのかな?」
「あら、結構よ。そんなものは、ね」
「なら、代わりにお茶に付き合えってことかな」
「……ふふ。頭の回転が早い人は楽でいいわ」
「それはどうも」

 肩を竦める耀。女性は耀を先導するように歩を進めようとして、ああ、と思い出したかのように声を上げた。

「言い忘れていたのだけれど」
「なに?」
「私、春也以外の血を吸う気はないの。いままでも、これからも、ずっとね」
「――それは、まあ。結構なことで」

 先の自分に対する皮肉に苦笑を返し、耀はその女性――霧生紅雪の後について、モール街へと足を進めた。



 耀が案内されたのは、モール街に入って暫くした所にあった喫茶店だった。小さいながらも落ち着いた雰囲気で、差し込む夕日が薄暗い店内を仄かな茜に染めている。客の大半は学生のようで、町の性質を考えれば、当然のように女性ばかりだった。
 アルバイトらしきウェイトレスに、紅雪と共に窓際の奥の席へと通される。アイスコーヒーを注文し、耀は向かいに座った紅雪へと問うた。

「ここにはよく来るみたいだね」
「あら。どうして?」
「慣れているようだから。あなたが、ではなく、ウェイトレスが」
「成程。そうね、正解。よく二人で来るの」
「それはそれは」

 誰と――とは問わない。考えるまでもないことだし、紅雪のはにかんだような微笑を目の当たりにすれば、その問いがあまりに無粋であると思わざるを得ないからだ。
 暫くの間、耀は紅雪と他愛の無い会話を楽しんだ。例えば、天気のこと。例えば、この町のこと。例えば、季節のこと。あまりに普通過ぎる話題は、逆に滑稽だった。
 届けられたアイスコーヒーで喉を湿らせる。考えてみれば、向こうを出発してから何も口にしていなかった。それが緊張のせいなのかそうでないのかは、自分でも、よく分からない。
 気が抜けたのを見抜かれたか、紅雪は苦笑する。仕方ないわね、という笑みだった。

「――まぁ、あまり焦らすのも趣味ではないし。お互い、腹の探りあいは止めましょうか」
「そうだね。その方が、僕も気楽だ。もうあなたを監視するような立場でもないし」

 耀は肩を竦め、尤も、と苦笑する。

「到着早々にあんな目に合わされると、内心穏やかじゃないんだけどね。正直な話」
「あら、なんのことかしら」
「さっきの話だよ。力、使ったでしょう?」
「……ふ、不可抗力よ」

 子供じみた言い訳は、しかし、彼女にとっては紛れも無い事実なのか。紅雪は頬を高潮させ、恥じるように自分の髪を梳く。

「私だって、不用意に使うつもりは無かったのだけれど。驚いて思わず、ね。恥ずかしい話なのだけれど」
「何も変わっていない、って言ったくせに」
「そ、それは言葉の文というものよ。確かに、変わっていないところもあるけれど……想像していたのと、まったく違う恰好なんですもの。驚きもするわ」
「それで、ついつい、ということかい? 随分と気軽に力を使うようになったものだね――ああ、いや、勘違いして欲しくはないのだけれど」

 グラスをかすかに揺らすと、中の氷が微かに動いて小さな音を立てた。
 いいお店だな、と耀は思う。これほどおいしいコーヒーを飲んだのは久しぶりだった。

「別に、そのことに対して怒っているとか、軽蔑しているとかじゃないんだ。ただ、」
「呆れている?」
「……簡単に言えば、ね。半分は君に、半分は、僕自身に。君のその力に関して、僕たちがどれだけ気を揉んだと思っているのさ。なのにそうあっけらかんと使われるようになってしまってはね。寝不足だったあの日々を返して欲しいよ」
「……そうね。それに関しては、一度、ちゃんと謝罪をしようと思っていたわ」
「紅雪さん?」

 紅雪の予想外の言葉に思わず疑問符を上げる耀。しかし紅雪は、そんな耀の様子を気にした風でもなく、ただ静かな――ある意味沈痛そうな面持ちで、目を伏せるようにして僅かに頭を下げた。

「ごめんなさい、塚原耀。あの時は、私のせいで随分と迷惑をかけてしまったわ」
「……困ったな。改まってそう言われると、どうにも居心地が悪いや。僕には僕の事情があった訳だし」
「そうではないわ。あなたと、春也に関してのことよ」

 言いながら、紅雪は顔を上げる。そこには、紛れも無い苦渋の色が浮かんでいた。

「正直、楽観していたわ。あなたたちには時間が必要だとは思ったけれど、まさかこんなに長くなるとは思わなかったもの」
「それは……別に。紅雪さんのせいじゃないでしょう」
「そうかしら。あの時、私がもっと強くあなたを引き止めていたら……と思うときはあるわよ」
「多分、変わらなかったと思うよ。僕には帰る必要があった訳だからね。でも、まあ、それを言うのなら……逆かな。僕は、君に感謝しなくちゃいけない」
「え?」

 耀の言葉がよほど予想外だったのか、紅雪はさきほど耀のような声を上げ、呆けたような顔を見せた。
 耀は空になったグラスをテーブルに戻し、まあね、と苦笑する。

「だって、そうでしょう? そもそも君があの町に……春也の元に行くことにならなければ、僕もまた、春也の元を訪れることもなかった。春也に出逢えさえしなかった」
「それは、そうかもしれないけれど。けど、四年は……長かったでしょう?」
「……どうかな。あっという間だった気もするし、そうでなかった気もする。よく分からないよ」

 強がりでも、なんでもなく。ただ淡々と、耀はそう答えた。
 その言葉は、少なくとも耀本人にとっては、嘘ではない。春也たちに別れを告げてから、確かに、四年もの月日が流れている。それは、冷静に考えれば、決して短い時間ではないだろう。けれど、その時間が空白でないのなら、やるべきこと、やりたいと願ったことに費やした日々であるのなら。その年月は、断じて、無為なものでも、無感動なものでもない。
 無論。春也たちのことを考えない訳ではなかったし、その時間を懐かしく思い返したことが無いではないが。

「一日千秋、とまではいかなかったよ」
「……意外と淡白なのね。私なら、とても耐えられないわ」
「惚気かい?」
「ええ」

 からかうように問うと、紅雪は涼やかな笑みで頷いた。
 あまりに自然な肯定に耀があっけに取られると、紅雪は笑みを浮かべたままで言葉を続けた。

「私には、春也の居ない生活なんて考えられないもの。春也が隣に居ないまま、四年間だなんて……寂しくて、死んでしまいそう」
「……本当に。随分とあけすけになったようだね」
「ええ、お蔭様で。だから、こういう余裕を持つことが出来たんですもの。そうでなければ、恋敵になろうであろう女性を笑顔で出迎えるなんて出来ないわ」
「恋敵だなんて、そんな。この僕が?」

 失笑を漏らしながら耀は問うが、紅雪は涼しい笑みのまま頷いた。

「それで誤魔化しているつもり? あなたが春也のことを想っているのは知っているわ。別れ際にちゃっかり唇まで奪ったそうじゃない」
「……参ったな。まさか、春也の口がそんなに軽いとは思わなかった」
「ふふ。春也を責めないで頂戴。無理矢理に聞きだしたのは私たちですもの。何もせずに分かれたはずが無い、ってね。それで――四年も掛かってしまったけれど。私たちと同じ場所に、立ちに来たんでしょう?」

 笑みを消し、まっすぐにこちらを見据えながら問うて――いや。確認してくる、紅雪。
 耀は肩を竦め、答えた。

「まあ、ね。本当は、僕なんかが来ていいのかどうか、随分と迷ったけれど。でも、あんなものを送りつけられたら、どうにも我慢が出来なくてね」
「いいのよ、それで。あなただって恋する乙女ですもの。そのくらいの行動力がなければ、嘘というものだわ」
「……参ったな。君の前だと、自分がどうしようもない子供に思えてくる」
「これでも一応、最年長だもの。あなたより年上の、ね」

 言いながら片目を瞑った紅雪の姿は、しかし、自分よりも年上とはとても思えそうにないほどに可愛らしいものだ。しかし、その振る舞い、雰囲気には確かに自分よりも穏やかで、そして、柔らかなものがある。
 確か、と耀は口を開いた。

「あの時、言っていたよね。あなたが春也の主人で、夕月さんがお姉さんで。華凜ちゃんが、妹だって」
「ええ。……ちなみに、鳥子も居るわよ。知っているでしょうけれど」
「勿論。まあ、だろうな、とは思っていたよ。初めて知った時にもね。鳥さんが……奥さん、だっけ?」
「そいうことになるわね。尤も、伴侶、という立場は全員等しいのだけれど」

 気後れも何もなく告げる紅雪。確かに妖魔の社会では重婚は一般的なことだし、耀とてそれを十分に承知している。しかし、いいや、だからこそ耀は、そんな吸血鬼の姫君に隠しようのない羨望を覚えた。自分の立場を、想いを振り返り、苦笑する。苦笑することしか、出来ない。

「耀?」
「実はね、紅雪さん。言うまでもないことだけれど、僕も、春也に気持ちを伝えに来たんだ」

 既に空になったグラスを弄びながら、耀はそう切り出した。残った氷が、音もなくグラスの中で一回転する。

「いや、正確には返事を聞きに来た、かな。気持ちだけなら、別れ際に告げたから」
「……まったく。春也ときたら、そういうことに関してはてんで鈍感ね。返事を四年も待たせるなんて」
「あはは。仕方ないよ、そう簡単に連絡なんて取れなかった訳だし。それに、僕もその方が都合が良かった」
「あら、どうして? 返事を待つのが?」
「ええ。だって、利子が沢山溜まりましたから。こうやって、直に返事を聞きに来る……いや。返事なんて関係ないって、思えるほどに、ね」
「……やっぱり。変わっていないわね、塚原耀。その目は、本当に、あの頃のまま。恋を知った乙女の瞳ね」
「あ、あまり恥ずかしいことを言わないでくれるかな。僕は君ほどあけすけにはなれないよ」

 微笑ましそうにこちらを見る紅雪から視線を逸らす耀。
 紅雪は、ごめんなさいね、と小さく笑った。

「からかうつもりはないのだけれど。不快だったかしら?」
「……別に。これから君たちと張り合おうとしたら、こんなことで躊躇っては居られないんだろうな、とは思っているよ」
「ふふ。その覚悟は、あるみたいね」
「まあね。ほら――まだ愛人の席は、空いているみたいだし」
「あ、愛人ってあなた……もう少し、真っ当な立場のほうがいいのではなくて?」
「いいや、僕にはそのくらいがお似合いだよ。それに、春也を助けようっていうのなら、そういう……そうだね、内縁の妻みたいな立場の方が、色々と便利だろうし、ね」
「――」

 耀のその言葉に、紅雪の顔から笑みが消えた。代わりに覗いたのは、静かな、気品と冷たさを纏った、統治者としての顔だ。
 無言のまま言葉の続きを促す紅雪に、耀は小さく肩を竦めて見せた。

「この四年間、僕がただ書類整理だけしていたとでも思ったかい? 僕にもそれなりの人脈というものがあるのさ……おそらくは、君たちにとって都合の良い性質の奴が、ね」
「耀」
「直の担当からは外されていたけれど。色々と、情報は集めていたからね。君たちの企みも、少しは耳にしているよ。僕は僕で勝手に動かせてもらった――迷惑だったかな?」
「……多少、疑問に感じてはいたのよ。あまりにも横槍が少なすぎる、とね。私たちが働きかけていたのは主にこちら側ばかりだったけれど、だからこそ、外部から手を出されると思っていたわ。なのに、それがあまりにも少なすぎた。私たちにとって、都合が良すぎるほどに」
「少しは感謝して欲しいんだけどね。危ない橋が無いではなかったから」

 言いながら、耀は自分の苦笑が深くなるのを止められなかった。それほど目立って動いた記憶は無いが、それでも、気付く人間ならば用意に気付く程度には力を振るっていた。いくら左遷されたとは言え、組織の長たる者の義理の娘という立場は、それなりに有効だったのだ。おそらくは、自分を祭り上げてそのおこぼれを頂戴しようとしていた輩とか、そもそも自分にそれまでの発言力が残っていないことに気付いていないような者たちには、特に。
 そう思いながら、ああ、と耀は呟いた、そうか、という合点の言葉が口をつく。

「ある意味、僕は紅雪さんと同じという訳か」
「同じ――ああ、立場が、ということかしら?」
「ああ。君は妖魔(そちら)側、僕は人間(こちら)側。それなりの発言力を持って、それなりの無茶ができて。そして、」
「その力を、ただ一人のために使おうとしている?」

 からかうような紅雪の言葉に、耀は肩を竦めるだけに留めた。それで十分だろうと思った。
 まぁ、と耀は言葉を続ける。

「持参金代わりですよ。まだ生きている人脈――それも、あなたたちにしてみれば、喉から手が出るほどに欲しい人脈の筈だ。利用してくれるなら、僕の四年間も無駄ではなかったということになる」
「それは有り難いのだけれど。でも、着の身着のまま来てくれても良かったのよ?」
「それは僕の矜持が許しませんよ。面倒な性格だとは思いますけどね、我ながら」
「……まあ、いいのではないかしら。春也も、あなたのそういう所を気に入っているようだし」
「どうかな。厄介な奴だと思われてなければいいのだけれど」
「――あは。随分と可愛らしいことを言うのね。やはり春也には良く思われたい?」
「それは勿論。これでも恋する乙女ですから」

 臆面なく言ってのけた耀に、紅雪は一瞬きょとんとした顔を見せて、次の瞬間小さく笑った。
 ちらり、と視線を窓の外、赤く染まったアーケードへと向ける。
 いいや。

「成程、それはそうね――ならば塚原耀、あなたは再会を果たしなさい。待ち人が来たようよ」
「――つまり、それがあなたの目論見だった訳か。伝えていない、と言ったくせに」
「あら、心外ね。それは本当のことよ。私――私たちは、あなたが来たとは伝えていないわ。客人が来ている、と告げただけで」

 くすり、と紅雪は悪戯を目論んだ子供のように笑みを浮かべた。

「私たちは基本的に春也の味方なのだけれど――四年も一途な想いを抱き続けた女性には、少しぐらい、仕返しの機会があってしかるべきだと思うの」
「見てきたように言いますね。僕が一途だなんて、そんな」
「あら、違うのかしら? あなた自身が言ったでしょう。私とあなたは同じだ、とね」
「……参ったな」

 笑顔でそんな風に言われてしまっては、口先だけの否定すらできなくなってしまう。なにせ目の前に居る吸血鬼のお姫様は、子供の頃に交わした拙い約束だけを頼りに、自分の倍、八年もの間、その相手を思い続けたという純粋すぎる想いを持っているのだ。
 耀は窓の外へと視線を向ける。先ほど紅雪が見遣っていた方向。それぞれの帰途につく人々の中に、見慣れた、そして待ちわびた人と、その左右を取り巻く見知った女性たちの姿があった。

「夕月は――言うまでもないわね。花凛はいま、こちら側の大学に通っているわ。鳥子は調理師の専門学校ね」

 紅雪が、耀が見ているのと同じ方向に顔を向けながらそんなことを言う。しかし、その言葉は半分も耀の意識に届かなかった。
 その一団は、ゆっくりとこちらへと近づいて来る。紅雪が小さく手を振ると、その中心に居る青年――彼は紅雪に気付いたようだった。耀は慌てて視線を逸らし、その瞬間、何故自分がそんなことをしなければならないのだろう、と他人事のようにそう思った。
 顔を上げれば、紅雪が微笑ましいものを見るような顔でこちらを見ている。それが、どうにも気恥ずかしかった。

「――それで。言葉は、考えてあるの?」

 その問いかけの意味を理解するまでに、優に数秒を要した。
 え、とも、あ、とも着かぬ声が洩れて、辛うじて、耀は頷く。

「一応、ね。君たちに対する、意趣返し程度には」
「それは楽しみね。がつんとやってあげなさい」

 柔らかい微笑みでそう促す紅雪。
 やがて店のドアが開き、件の一団が姿を見せる。ウェイトレスと何かを話した彼女たちはこちらへと歩み寄って来て、そしてやはり、最初に反応したのは瀟洒としたメイド姿の女性、夕月だった。

「――お久しぶりです。お元気なようで、何よりです」
「あはは。あなたにそう言って貰えるとは思わなかったな」

 本心から耀がそう告げると、夕月は少し困ったような、不服そうな顔を覗かせた。しかし無理も無いと思ったのか、代わりに紅雪へと声をかける。

「お加減は大丈夫ですか、お嬢様」
「ええ、心配しないで、夕月。まだそんなに負担がある訳じゃないもの。大丈夫よ」
「それはそうかもしれませんが……お体に障りがあっては困ります。言ってくだされば、私が代わりましたのに」
「いいのよ、夕月。話したいことがあったのだから」
「……そうですか。それで、お医者様は何と?」
「順調ですって。まだ性別は分からないそうだけれど」
「あの、えっと。夕月さんと、紅雪さん?」

 なにやら二人だけで会話をしている紅雪と夕月に、困惑顔の花凛が声をかけた。その隣では、鳥子が同じような顔をしている。

「訳が分からないんだけど……その人、誰?」
「あら、酷いわね花凛。知人の顔を忘れるだなんて」
「ち、知人……? 私の記憶に、こんな綺麗な人は居ないのですが……?」
「――まあ、鳥子は、ほら。鳥頭だから」

 首を傾げた鳥子にさらりとそう言い放つ青年――森崎春也。彼は驚きを隠せぬ顔で、しかし、紅雪と夕月に恨めしそうな視線を向ける。隣でなにやら文句を口にする鳥子を軽く無視しているようだった。

「けど、酷いな、姫。夕月さんも。こんな大事なことを黙っているなんて」
「少々の驚きは日々を彩るスパイスよ。効いたでしょう?」
「それは、まあ。完膚なきまでに」

 言って、春也はこちらへと視線を向けてくる。驚きを隠せぬその色は、しかし、あの頃のそれと変わっていない。馬鹿なことを、軽薄そうなことを口にしながらも、際限の無い――そして見返りを知らぬ優しさを宿した瞳だった。
 暫くの間困惑を隠さないでいた春也は、やがて諦めたかのように嘆息を吐いた。

「参ったな。こんなときに、恰好のつけた台詞の一つでも言えればいいんだけど」
「……無理は良くないよ、春也。第一、そんなの春也のキャラじゃないだろう?」
「む。どういうことだそれは」
「そのままの意味だよ。気取るとか、恰好をつけるだとか……そういうのは、らしくない。自然体が一番だよ、君はね」
「……ま、その言葉はそのままおまえに返しておく」
「ありがとう。どうかな、この恰好。同一人物だって、理解できた?」

 問いかけながら、耀は笑みを浮かべるのを止められない。
 だって、その答えならば。

「当たり前だ」

 呆れたような物言いで、春也はそう頷いた。
 きょとんとしたままの二人――花凛と鳥子に苦笑を向けて、耀は言葉を続ける。

「それは残念。少しぐらい春也を驚かせたかったんだけど」
「……ああ、いや、それは十分すぎる。これでも結構驚いてるんだぞ」
「みたいだね。あの頃みたいに切れが無いよ、春也」
「むぅ。まさかおまえに駄目出しをされるとはな。俺も鈍ったか」
「それは……あるかもね」

 言って、耀は立ち上がった。見れば、紅雪は静かな微笑でこちらを見て――その手を、自分の腹部へと添えている。はぁ、と耀は顔には出さずにため息を吐いた。先の紅雪と夕月の会話を思い出し、ようやく、その理由――紅雪から感じた、あの頃とはまるで違う柔らかさ、優しさの雰囲気の理由を悟る。なにが僕と同じ、だ。僕よりも遥かにリードしているじゃないか。恨み言は、けれど、我ながらなぜか微笑ましささえ感じてしまう。それはおそらく、紅雪が、いいや、花凛が、夕月が、鳥子が、そして春也が、紛れも無い母の色を滲ませつつある紅雪を、静かに見守っているように感じられるからだろう。
 ただ。
 それを、ほんの少しだけ。羨ましいと、思った。

「――耀?」

 訝しむように名を呼ぶ春也。その名に、花凛と鳥子がそれぞれ疑問符を上げるのを耳にしながら。
 つい、と、耀は春也へと近づいた。

「――あら」
「――」
「え? えぇっ? ええええっ!?」
「え、えと、うわ、みゃ、ミャンマーの秘術――!?」

 なにやら訳の分からないことを口走る二人を無視することを心に決めながら、耀は口付けを終えた。
 思わず、むぅ、と不満が口をつく。

「慣れてるみたいだね、春也。全然動揺してくれないなんてさ」
「――いや、そうでも無いんだけどな。これでも、結構、驚いてる」
「そうかい? なら、良かった。似合わない恰好をしてきた意味があるよ」

 顔を顰めながら言う春也。その頬に僅かな赤みが見て取れる辺り、その言葉に嘘はないのだろう。
 そのことを確認し、少しだけ気分が軽くなって、耀は周囲を、自分より先に自分が望んだ場所に立った女性たちを見遣った。
 静かに、けれどその口端に小さな微笑を浮かべて立つ夕月。
 驚きを隠せぬまま、ぽかんとこちらを見ている花凛。
 記憶と現実と、ひょっとしたらそれ以外の何かとのギャップを埋められずに苦悩しているらしい鳥子。
 そして、憎らしいまでの余裕でこちらを見上げている桐生紅雪。
 それらの全員と一度ずつ視線を合わせ、耀は、改めて春也へと顔を向けた。
 黒い瞳。何処までも深くて、優しい色。自分はいつからこの瞳に捕らわれていたのだろうという疑問がふと脳裏を過ぎる。関係ないか、と耀は微笑んだ。何時からだとか、どうしてだとか、きっと、尽く意味が無い。紆余曲折もあったし、ずいぶんと時間も掛けてしまったけれど……自分は、こうやって、望む場所に立とうとしているのだから。
 春也、と耀はその名を呼んだ。覚えがあるのだろうか、春也はどこかはにかむような、気恥ずかしいような、そんな顔をしながら、しかししっかりとこちらを見ている。これから告げる言葉を、受け止めようとしてくれている。
 その事実が、何よりも嬉しい。
 だから、自分は勇気が持てる。その言葉を、最後の勇気を振り絞る、決意を持てる。
 ――実はと言えば。
 告白の言葉だけは、ずっと前。それこそ、そう、紅雪が春也にそう告げたその瞬間から、ぼんやりと、暖め続けていたのだ。

「あなたに貰われに参りましたっ!」

 叫ぶように、そう告げて。
 塚原耀は、力強く森崎春也の腕の中へと飛び込んだ。





[ End ]