木洩れ陽喫茶


愛玩王女の憂鬱






 その光景は、悲惨と言うより凄惨だった。
 彼女、リ・ルクル・エルブワードは部屋の中を見回して息を吐く。縦横無尽に引き裂かれた、或いは引っ掻かれたような跡を残す壁。真ん中で綺麗に両断されたテーブルと、ただの材木と区別のつかなくなった、つける必要の無くなった椅子。ささくれ立ち捲れ上がったカーペットに無残な欠片となって転がっているのは、いつぞやブラッドがお気に入りだと口にしていたティーカップだろうか。割と気に入っていた暖炉は見る影も無く瓦礫と化しており、壁際に立っていた棚はことごとく倒されるか砕かれるかしていて、中に収められていた品々もそれらのほぼ全てが外に投げ出されてしまっていた。
 もはや残骸と成り果てた調度品の数々を、十人近いメイド姿の魔族たちが走り回って片付けている。だが、無事なものなど本当に数えるほどしか残っていない。小さな竜巻が暴れたか、それとも子供が派手な癇癪を起こしたあとのようだ――そんな感想を抱きながら、ドアを潜った所で立ち尽くしていたルクルは改めて部屋の中へと足を踏み入れた。割れた花瓶から洩れた水を踏まぬように迂回して、部屋の隅で頭を抱えて立っている執事の格好をした魔族、クーの元へと歩み寄る。

「クー。どうしたんだ、これは」
「あ、ルクル様。ようこそいらっしゃいました」

 こちらに気付いたクーが、それまでの悩ましげな表情を一変させ笑顔で歓迎の言葉を口にする。ルクルは小さく頷いて、改めて部屋の中を見回しながらクーへと尋ねた。

「それで、何があった? 模様替えだとしたら酷く豪儀だが」
「……ルクル様。嫌味ですか、それは」

 半眼でこちらを見つめてくるクーをルクルは無視。代わりに部屋の中で唯一まともな形を残したソファへと視線を移し、そこに寝転ぶ者の姿を見て眉を顰めた。

「あれはひょっとしてブラッドか?」
「ええ、ご主人様ですね。ただいま全力で気絶中ですけど」
「……何があった?」

 ルクルの問いに、はぁ、とため息をつくクー。

「何があった、と聞かれますと答えづらいんですけど……それよりもルクル様、ここに来る途中、誰かとお会いしませんでした?」
「誰か? いや、特に会ってはいない。――ああ、そういえばこの部屋に着く少し前に、案内のメイドたちに突然暗がりへと引き込まれたな。突然のことなので驚いたが、結局何もされなかった。なんだったんだあれは? メイドたちに聞いても、メイドレーダーに感ありですとしか答えてもらえなかったのだが」
「それは言葉の通りですね。ギュンギュスカー商会に仕えるメイドたちの必須技能の一つです。研修期間の必修科目ですよ」
「……メイドレーダーが、か?」
「メイドレーダーが、です」

 コメントに詰まるルクルを知ってか知らずか、こめかみを押さえながらクーは続ける。

「実は先ほどまでリュミス様がいらっしゃってたんですけど、ええと、その、なんと言いますか」
「リュミス?」
「はい――あれ? ルクル様、リュミス様とお会いしたことありませんでしたか?」

 きょとんとした顔で問い返してくるクーに、ルクルは黙って首を横に振る。しかし、首を振った後でそれらしい人物の顔が脳裏に浮かんだ。以前、今日と同じようにブラッドの巣を訪れた時に巣の中で対面した一人の女性。赤い服を身に纏った、気の強そうな金髪の女性だ。
 ひょっとしてあれが、と思い、ルクルはクーに該当人物の特徴を簡潔に述べる。
 間違いありませんね、と執事姿の魔族は頷いた。

「そのお方がリュミス様――リュミスベルン様です」
「何者なのだあいつは。魔族か?」
「いえ、竜族の方です。古代竜の流れを汲む純血のお方で、その、」

 以前に相対した時の、人非ざる雰囲気を思い出しながら尋ねたルクルに、クーはなぜか言い淀む。視線が泳ぎ、言い難そうに笑みを浮かべるその表情を見て、どうした、とルクルは言を促した。

「言い難い事なのか? それとも、私には聞かせられないことか」
「いえ、そういう訳ではないんですけど」
「なら言うがいい。……安心しろ、何を聞いたところでどうにも出来ん。私に出来るのは、大人しく聞いていることぐらいだ」
「はあ、そうまで仰るなら私は構いませんけど」

 苦笑交じりのルクルに、クーは渋々といった様子で頷いた。
 執事姿の少女は一旦目を閉じ、嘆息。実はですね、と紡ぎだされた言葉に、ルクルは静かに耳を傾けた。

「リュミス様はブラッド様の許婚で――」
「ちょっと待てなんと言ったいま!?」

 先ほどの自分の言葉を思考の彼方へ全力で放り投げ、ルクルは思わず声を荒げ問い正した。

「ほ、本当なのかそれは!?」

 クーの肩に両手を置いて、小柄な身体をがっくんがっくんと容赦なく、否、容赦と言う言葉すら思いつかずにシェイクする。

「ほ、ほほほ本当ですよぉ! ちょっと色々あったらしいですけど、お二人はちゃんとした許婚同士ですだからおちついてくださいルクルさまてをはなしてくださいゆさぶらないでめが、」

 まわりますぅ、と次第に力なく呟くクーがぐったりとしているのを見て、ようやくルクルは我に返った。クーに掛けていた手を慌てて離すが、短い間とはいえ全力で前後に揺すられていた彼女はその場にぐったりと座り込む。あうう、と呻く執事姿の少女を見下ろし、ルクルはええと、と呟いた。

「その、すまない。やりすぎた」
「いえ……別に構いません……構いませんよー……?」

 揺すられていた名残が消えぬのか、小さく前後に頭を揺らしながらなぜか疑問系で答えるクー。しかしそれもやがて収まり、うー、と気持ち悪そうに呻きながら立ち上がった。

「酷いですよ、ルクル様」
「すまなかったな。大丈夫か?」

 心持ち青い顔をしたクーに、ルクルはもう一度謝罪の言葉を口にした。
 クーは大丈夫です、と頷き、一度息を吐く。気持ちを切り替えたのか、刹那のあとに見せた顔はルクルにとっても見慣れた魔族少女のものだった。

「それで、その――何があったのだ?」

 ルクルは自らを落ち着かせ、改めてクーに疑問を浴びせた。なぜか裏返りそうになる声を意識して押さえ、ソファの上で目を廻しているブラッドについつい視線を向けそうになっている自分をしっかりと自覚しながら、それでも全力で視線を目の前の少女に固定する。別にブラッドに視線を向けたところで何があるという訳ではないのだが、だからこそ、彼に目を向けてしまえば何かに負けるような気がしてならなかった。思いつく辺りでは、自らの誇りとか矜持とかに。
 彼女のそんな思いを察したか否か、実は、とクーは口を開く。心底、疲れたように。

「ご主人様がリュミス様を怒らせてしまいまして……」
「……それで?」
「いえ、それだけです」

 それ以上は聞かないで下さい、と言外に語りかねない口調のクーに、逆にルクルは眉を顰めた。

「怒らせただけ、か?」
「はい」
「……それで、この惨事なのか?」
「いえいえ、惨事というほどではありませんよ。被害は調度品だけですし」

 さらりと返されたクーの言葉を耳にして、ルクルは僅かに息を詰まらせた。それはクーの言葉を一瞬理解できなかったからであり、同時に慣れた風でもある少女の振る舞いが、その言葉が紛れもない事実であるということを示していると察したからでもあった。
 コメントに窮するルクルに、クーは気にしないで下さい、と苦笑する。

「今更、という言い方は変ですけど、実際目立った被害があったわけではありませんでしたから」
「そ、そうか」
「はい――それに、今回の原因はご主人様ですから。あまり文句を言うわけにも行かないんです。まあ、仮に道理があったとしてもリュミス様に直接文句を言えるのは、竜族の長老たちぐらいですけど」
「何をやったんだ? こいつは」

 クーは首を横に振り、わかりません、と答えた。

「特にリュミス様を怒らせるようなことをした訳ではないと思いますけれど……そうですね、ご主人様はご主人様で、そろそろリュミス様に脅えて暮らすのも嫌だ、と言ってましたから、頑張って一歩近づいてみただけだと思いますけど……その。リュミス様、結構恥ずかしがりやですから。ひょっとしたらリュミス様が恥ずかしがったのかもしれません」
「恥ずかしがったって、ただそれだけの理由でここまで、」

 やるものなのか、とルクルが言い切るより早く。
 高い高い音が、部屋の中に大きく響いた。

「――」

 クーが僅かに目を細める。大方の片づけを終えていたメイドたちはぴたりとその動きを止め、お互いに頷きあって行動を開始した。その様子を眺めながら、ルクルは僅かに緊張を覚える。ぴぃ、と何処からか鳴り響いている高い音。メイドたちはあっという間に部屋を出て行き、ドアの向こう側の巣が俄かに騒がしくなる。
 その理由を、ルクルは知っていた。
 耳に障る高い音。この巣の周辺に張り巡らされた、魔界製の警戒網の反応音だ。

「連隊長。侵入者です」

 ルクルが入ってきたドアを開け、一人のメイド魔族が姿を見せる。
 緑の髪をした彼女の報告に、クーは小さく頷いた。

「規模は?」
「少数です。計八名。冒険者のようですね」

 手にした資料に視線を落としながら、メイドは短く、しかし的確に答えていく。

「数日前から巣の近くで野営をしていたようです。リュミス様がお帰りになった後、急いで荷物を纏めて行動に移ったと観測班から報告が来ています。他の冒険者たちと結託している様子はありません」
「分かったわ。けど、そういうことなら心配する必要はなそうね。小物だわ」
「同感です。ご采配は?」

 クーはちらりとブラッドに視線を落とし、疲れたように吐息した。

「いつも通りで。けれど、そうね、いい機会だわ。フェイ様に指揮を取ってもらって、新入りたちに経験を積ませましょう」
「分かりました。では、失礼します」

 一礼して退室するメイド。閉じられたドアを見遣り、ルクルはその疑問を口にした。

「どうして小物だと思ったのだ?」
「このタイミングですから。リュミス様が巣を出てすぐに竜の姿になって飛んで行かれたことは既に報告を受けています。それでいて、そのすぐあとにこうして行動を開始したということは、リュミス様とご主人様を勘違いしたんでしょうね。それ自体がまず情報収集が出来ていない証拠ですし、早期警戒網にひっかかったということは、その存在を知らなかったということです。実際、それを掻い潜って肉薄してくる方たちもいらっしゃいますし。そして、これが決め手ですけど――慌てて行動を起こした、という点があります。先に上げた点から、侵入者が素人なのは間違いないでしょう。なら、そんな素人たちが竜が巣から出て行くのを確認して思わず起こしうる行動と言えば、」
「空き巣、か」
「そういうことです。でも、万が一と言うこともありますから私も戦闘管理室のほうに詰めさせていただきますね。失礼とは思いますが、ルクル様にはご主人様の介抱をお願いします」
「ふむ――って、わ、私がか!?」
「はい。それでは、よろしくお願いしますね」

 憎たらしいほどの営業スマイルでそう言って、一礼と共にクーは部屋を出て行く。
 ルクルは自分の顔が赤くなっているのに気付かないようにしている自分に気付きながら、それでも吐息をしながら頷いて、執事服を着た少女の背中に感想を述べた。

「有能だな。ブラッドが傍に置いておくだけのことはある」
「――いえ、それはちょっと違います」

 気付かぬうちに皮肉気な響きを孕んでいたルクルの言葉に、足を止めたクーは苦笑を滲ませた声でそう答えた。

「なに?」
「私はご主人様に置いて頂いている訳ではなく、自分が望んで此処に居るんですよ。……あ。いまの、ご主人様やメイドたちには秘密でお願いしますね」

 肩越しにこちらを振り返ったクーは、照れたような、こそばゆいような、そしてそれらを隠すような苦笑を浮かべながら小さく舌を出し、それでは、と改めて応接間を後にした。
 部屋に一人――いや、ブラッドも居るには居るが、まだ目を覚まさないので数えないことにする――残されて、ルクルは憮然と部屋の中を見回した。壊された調度品はあらかた片付けられており、やけに伽藍とした印象を受ける部屋。残されたのは撤去する暇の無かっただろうカーペットと、現在ベッド代わりになっているソファ、そしてその上に寝転ぶブラッドだけだ。

「殺風景になったものだな」

 呟いて、ルクルはソファへと足を伸ばす。ブラッドが寝ている頭の方のスペースに腰を下ろし、何とはなしにその頬に手を当てた。見慣れた顔。毎夜毎夜、一度は思い出さずに居られない顔。大抵は朴訥な表情をしていながら、大部分で意地悪そうな表情を浮かべ、たまに、本当にごくたまに、息を飲むほど優しく微笑んでくれる、そんな顔。
 手慰みだ――胸の内でそんな言い訳をしながら、ルクルはブラッドの頭を撫でる。息をつかせぬほどに激しい情事のあとにしてもらえるように、ゆっくりと、優しく。そして彼女は自分が笑みを浮かべていることに気がついて、直後、その笑みを硬くした。
 自分の笑みが意外だったから、ではない。
 ブラッドの寝顔を眺め、微笑んでいる自分の浮かべているそれが――最近、よく見かけるものだと気づいたからだ。

 ……例えばそれは、執事服の魔族少女が先ほど浮かべたそれ。
 ……例えばそれは、竜を護るため同じ人間相手に剣を振るうと誓った娘が浮かべていたそれ。
 ……例えばそれは、料理番として存分にその腕を振るう獣人の娘が浮かべているそれで、
 また、前回ルクルが此処を訪れたとき初めて出会った赤い服の女性が最初に浮かべていたそれでもある。

 この笑みが、どんな心の動きに由来しているのか、正直まだ掴みきれていない。
 ただ――ブラッドの傍に、そんな笑みを浮かべる娘が多いと思うと、少しだけ、やりきれない。

「……まったく」

 胸に溜まった嫌なものを吐き出すように呟いて、ルクルはブラッドの寝顔を覗き込む。気持ちの答えを求めているわけではないけれど、何故だろう、そうすれば答えの片鱗に触れられるような、そんな気がしたからだ。
 ふわり、と馴染みの深いにおいが鼻腔を擽り、ルクルは、ん、と首を傾げる。このにおいは、
「紅茶……?」

 此処を訪れた際に振舞われる紅茶のそれと同じだ。
 どうして、とルクルは疑問を抱きながらさらに覗き込もうとして、その瞬間。
 何の脈絡も無く後ろ首に手を廻されて、身体をぐいと引き寄せられた。

「――っ!?」

 反応する間もあればこそ。
 気づいた時には既に遅く、ルクルの唇はブラッドのそれに寸分の狂いも無く重ねさせられていた。

「な――何をするいきなりっ!?」

 首の後ろに回された手を慌てて払いのけ、思わず数歩後ずさりながらルクルは怒鳴った。頭に血が上るのが驚くほど簡単に知れる。ついでに頬が熱くなり顔が赤くなっているだろうことは――まあ、頭に血が上ったおまけと願いたい。

「何って、こういうものなのだろう?」

 やけに呑気な言葉を、ベッドに寝転んだままのブラッドが口にする。
 いったい何時から気が付いていたのだろうか。この部屋の、否、この巣の主であるドラゴンは薄目を明けてこちらを見ていた。
 ルクルは自分の唇に手を遣り、そこに残った自分のものではない唇の感触を思い出し――思わずそれを手放したことを惜しんでいる自分に気付き、慌てて思考を切り替えた。裏返りそうになる声を必死で抑えながら早口に言葉を紡ぐ。

「な、何の話だ!?」
「物語でよくあるだろう。眠る者の目を覚ますのは王女の口付けじゃないのか?」
「そ、それは物語の中の話だというかお前と私の役割が逆だ!」
「なんだ。キスで目覚めさせて欲しかったのか?」
「――ッ!」

 思考が感情に追いつかず、口を開いても言葉が声に変換されない。それでも何とか反論しようと口を開くが、そもそも言葉が思い浮かばなかった。
 そんなこちらを楽しそうに眺め、ブラッドはソファの上で身体を起こす。ん、と身体を伸ばし、首を何度か鳴らしたあとで痛そうに自分の頬を撫でた。よくよく見れば、ブラッドの向かって右側の頬にはうっすらと赤い跡があり、纏った服には乾きかけた何かの染みが残っていた。紅葉の葉に似たその跡は、どうしてそんな跡が残ったのかということを雄弁に語って止まない。
 自分の頬を撫でながら部屋の中をぐるりと見回し、しっかし、とブラッドは疲れたように呟いた。

「綺麗になったな、本当。此処まで何も残らないとは思わなかったぞ、実際のところ」
「知ったことか。――と、そうだ。侵入者らしいぞ。どうする?」
「ああ、聞いてた。クーの判断に疑問は無いし、放っておいてもじきに片付くだろう。俺が何かする必要は無い」

 こいつ何時から寝たふりしてたんだ。かなり本気でそんな疑問を抱いたルクルの視線を、しかしブラッドは涼しい顔で流してみせた。
 その代わりとばかりに自分の身体を見下ろし、服に残った盛大な染みにやれやれ、とブラッドは呟く。

「湯浴みをしてくる。少し待っててくれ」
「言われなくてもそうする。いいから早く行って来い」
「そうする」

 ルクルが手で追い払う仕草をすると、ブラッドはソファから立ち上がり、大きな伸びをしながら部屋を出て行った。
 ぱたん、とドアが閉じられたのをしっかりと確認した後で、ルクルは改めてソファの上に腰を下ろす。腕を組み、ブラッドが出て行ったドアを穴が空くほどに見つめ、否、睨みつけ――ブラッドが戻って来そうにないという確信を得たあと、大きな息を吐いて身体中の緊張を解いた。
 ぱたり、と身体を横に倒す。上質なソファが身体を抱え込み、沈み、少しだけ押し返した。どくんどくんと早鐘を打つ己の鼓動を聞きながら、ルクルは頬の熱が未だに引かぬことを知る。
 馬鹿者、と罵倒が口から滑りでた。

「少しは雰囲気というものを気にしたらどうなのだ。私が……拒むわけなど、無かろう」

 寝転んだソファには、自分のものではないぬくもりが残っている。
 それを逃すまいと、ルクルは目を閉じた。髪が乱れるのも、服に皺がつくのも厭わず、いまこの瞬間にも拡散してゆくぬくもりを一時でも多く留めようとソファの上で身体を丸めた。
 このまま眠れば、文句のつけようもないいい夢が見られるだろう。そうは思いながらも、ルクルはその甘美な提案を拒否。寝るわけには行かない。寝てしまうなんて、もったいない。
 自分は――エルブワード王国王女、リ・ルクル・エルブワードは、ブラッドを囲む多くの娘たちとは立場が違う。曰く生け贄と差し出された筈の獣人の娘。曰く竜を堕とし騎士に返り咲こうとした没落騎士の跡取り娘。曰く商会から派遣されているだけの筈の魔族少女。
 自分は、そんな彼女たちは違う。願えば――否、願わずともブラッドの傍に居ることを選べる彼女たちとは違い、願わねば、行動に移さねば、そして誰かの力を借りなければ、こうしてブラッドの巣を訪れることさえ出来ず、挙句にそう長い時間は留まれず、いつかは城に戻らなければならない。
 だから、素直に羨ましいと思う。

「――私は、嫉妬しているのか」

 ぽつり、と彼女は呟いた。
 嫉妬。
 嫉み、妬む。
 は、と彼女は胸の中で自嘲した。
 真実、その通りではないか。
 ルクルは王家のことを第一に考えていた。王家を、そして王家が守るべき臣民のことを至上と考え、それを守るためにこそこの身は尽くされるものだと信じていた。それが王家の、王女たる者の務めだと理解していたし、今回の戦乱に至ってはそれを回避するための政略結婚すら厭わないと思っていた。もし仮に王女しか居ない隣国のどちらかが王子であったとしたのなら、自分はそれが明らかな戦争回避のためであったとしても喜んで縁談を結んでいただろう。済まなさそうな面持ちで臣下がその話を持ちかけて来たならば、その苦労を労い逆にその進言に感謝さえして見せただろう。
 それが間違いだとは思わなかったし、正直な話をするのなら、いまでも間違っているとは思っていない。
 ただ、と彼女は胸の内で呟く。
 もし隣国のどちらかに政略結婚として嫁いでいたのなら――自分は、きっとこんな気持ちを抱かなかっただろう。
 いまの幸せかと聞かれれば、多分、自分は幸せと答えることが出来るだろう。ライトナとハッサンとの戦争はいまだ終結の気配を見せていない。何時その火の子が降りかかるとも分からない。戦争のことを考えれば頭が痛くなる。
 だがそれでも、自分は幸せだと、リ・ルクル・エルブワードはそう思う。
 それは国内に巣を持つドラゴンが居るからだし、それは居着いたドラゴンが、明言こそしないものの、この国に侵攻した軍を瞬く間に蹴散らしてくれるからだし、そして、何よりも。
 自分がこれほど――ブラッドを、好いてしまっているからだ。
 仮に何処かの軍や冒険者が何かの間違いで、否、万に一つの悪夢を手繰り寄せブラッドを討ったなどと耳にしたならば――自分はおそらく、いいや間違いなく、自分の権限全てを用いてブラッドを討ったと誇る者を殺すだろう。その相手が他国の軍だとしたならば、たとえ負けることが明白でも、それがどれほど臣民に被害を与えるかを理解していながらも、躊躇うことなく戦争を仕掛けるだろう。反対する臣下の首を落とし、必要ならば父さえも切り捨てて、ただそう願うがままに戦火の火蓋を切るだろう。
 そんな自分を、きっと、心の奥底で詰り軽蔑し罵倒しながらも、必ず。

「まったく」

 ルクルは目を閉じたまま苦笑する。

「私は、いつの間にこれほど――弱くなったのかな」
「そうでもないと思いますよ?」
「なに?」

 返事を期待しなかった言葉へと、しかし当然のように返されたその声に、ルクルは思わず声を挙げ目を開く。
 目の前。いつの間にそこに立っていたのか、トレイを手にしながら微笑む獣人の娘の姿があった。
 ルクルは慌てて身を起こす。だるさを覚えた身体に、自分がいつの間にかまどろんでいたらしいことを知った。気を抜いていた自分に小さく舌を打ち、乱れていた髪とスカートを手早く整える。

「ブラッドさんに言われて、紅茶を運んできました。隣、座らせてもらいますね?」

 笑顔のままそう言って、彼女、ユメ・サイオンはルクルの隣に腰を下ろした。手にしていたトレイを間に置き、そのままテーブル代わりとする。トレイの上に乗っていたのは、本人の言う通りティーセット一式と、出来たてと思しきクッキーの入った皿だった。
 淀みない手つきで紅茶を淹れるユメを見ながら、ルクルは自分の不快さを隠さぬままに問う。

「何時から見ていた?」
「ルクルさんが呟く少し前からです。そんなに長い間見ていた訳じゃありませんよ」

 どこまで本当なのやら。涼しい顔のユメの言葉を微塵も信じず、ルクルは差し出された紅茶に口を付ける。馴染んだ味と、その香り。芳醇で、それでいて爽やかなそれは、間違いなくブラッドが纏わせたいたそれと同じものだ。

「ブラッドに言われたと言ったな。何処でだ?」
「厨房で、ですよ。これから湯浴みをしてくるから、ルクルさんの相手をしておけ、って言われました」
「――わざわざ言いに行ったのか。あいつが、お前に」

 何故だろう。そう思うと、自然口調がきつくなり声が低くなる。
 それはおそらく、先ほどまでのあんな思考が――明らかに自分らしくない、あのような思考が原因だと理性の何処かで理解してはいるものの、それを止めようという気になれない。
 ルクルの視線を受け、ユメはそうですよ、と頷いた。

「まあ湯浴み場は厨房までの通り道ですから。特別なことではないと思いますけど」
「……そうなのか?」
「はい。メイドさんたちか、クーさんか、それかブラッドさんに聞いてみてください。ちゃんと答えてくれますよ」

 言って、ユメは自分で淹れた紅茶を啜る。その動作は至極自然で、何かを隠していたり、偽っていたりする雰囲気は微塵も感じられなかった。
 ルクルはそんなユメを見ながら、もう一度紅茶を口に含む。彼女の言い分をきちんと理解していながらも、何故だろう、警戒せずには居られなかった。

 ――ユメ・サイオン。
 ルクルは、彼女の正体を知っている。

 それは何時だったか聞かされた、この獣娘の本質。竜狩りの血脈という、本来ならば古代に滅んだはずの系譜。気紛れで教えられた、ブラッドとこの娘との出会い。生け贄として差し出されておきながら、ブラッドに一矢報いようと戦いを挑み、それでおいてちゃっかりとブラッドの使用人に納まっている、おそらくは幸運な娘。
 ユメと出会ったその時の戦いで自分は片翼を失ったと、そう本人に聞かされた。傷の完治までは数ヶ月が掛かり、その間は満足に空を飛べなかったとも耳にした。
 だが、そこまでされておきながら、どうしてこの娘の命を救い、挙句手元に置いておこうとしたのかについて、ルクルは何も聞かされていない。それはブラッドがはっきりと聞くなと言ったからだし、ブラッド自身があまり口にしたくはなさそうな雰囲気を滲ませいたからだ。
 その理由を、ブラッドがユメを生かした理由を知りたいと、ルクルは思う。
 その思いが、この不快感の原因だと――彼女は、自分の思考をこじつけた。

「ユメ。聞かせてもらってもいいか?」
「何をですか?」

 カップをトレイの上に置き、きょとん、と首を傾げるユメ。
 ルクルはその瞳を真正面から見詰め、そして問うた。

「お前は、ブラッドの命を狙ったのだろう? なのに、どうして生かされている?」
「――」

 瞬間的に、ユメが瞳を細めた。それまでの田舎娘然とした雰囲気が一瞬だけ掻き消え、その代わりに針にすら似た鋭い視線がこちらを射抜くが、しかしルクルは言葉を止めない。

「理由を聞かせて欲しい。まさかあいつが死にたがりという訳ではないだろう。なら、お前が生かされたのは、」
「どうして、そんなことを聞くんですか?」

 ルクルの言葉を遮って、竜殺しの血を引き継いだ娘はそんなことを口にした。別段凄む訳でもなく、言い詰める訳でもなく。極々自然に、当たり前の会話のように。
 だが、ルクルはそんなユメの言葉に口を噤んだ。思わず呼吸さえも止めてしまう。目を逸らしこそしなかったものの、ユメが短い言葉の中で微かに見せた抜き身の剣に、ルクルは一瞬にして彼我の戦力差を悟り背筋が冷える。

「……確かに、私は最初、ブラッドさんを殺そうとしました。でも、」

 反応できないこちらに微笑みを向けながら、懐かしむかのようにユメは言う。声に顰めた刃を、欠片も隠そうとはせずに。
 不意に、そして今更ながらにルクルは知った。そんなことをする筈がない、という前提こそあるものの――
「でも、いま私はブラッドさんの使用人です」

 ――ユメ・サイオンは、いまこの瞬間にも簡単にリ・ルクル・エルブワードを殺害しうるのだという、そんな事実を。

「そうですね、もし誰かが万が一……万が一ですよ? 万が一、そんな悪夢みたいな偶然を引き寄せて、ブラッドさんを殺したのなら、」

 淡々と、まるで幼子にこの世の理を告げるかのようにユメは語る。夜はいずれ明け朝が訪れ、秋の次には冬がくるのだと言うかの如く、躊躇いも迷いも何もなく。
 ただ、それはとっくに掲げた誓いだと言うかのように。

「私がその人を殺します。容赦なんてしません。そのせいで誰が悲しもうと、どんな大きな戦が起きようと興味がありません。私は私の持つ全てを投げ打ってその人を殺し、」

 そこまで言って、ユメは少しだけ表情を崩した。親とはぐれた子供が浮かべるような、そんな色を見せる。

「ブラッドさんを想って、少しだけ泣きます。そのあと、自分でこの命を断つでしょう」
「――」

 ルクルは我が耳を疑い、次に驚愕の息を吐いた。
 彼女の言葉が予想外だったから、ではない。

「なにせ、私はブラッドさんの所有物ですから――それで、ルクルさん」

 ユメの言葉が、紛れもない事実だと、この娘ならば間違いなくそうするだろうと確信出来たが為に、息を飲んだのだ。

「どうして、そんなことを尋ねるんですか?」

 それを、娘のその覚悟を忠誠と呼ぶことは容易いだろう。
 だが、その決意が決してそんな言葉で表されるべきではないということぐらい、ルクルにとて簡単に知れた。

「――私は」

 ぽつり、とルクルは呟く。恫喝された訳ではない。そもそもユメがこちらの質問に答えた訳ではないのだから、答える必要だって無いはずだ。
 だが、それでも答えない訳には行かないと思ったのは……それが、せめてもの意地だからだろうか。

「私は、」

 いま一度、ルクルはそう繰り返す。理由。自分がそれを知りたがった動機。
 嫉妬? それもある。いや、間違いなくそれが一番の要因だろう。だが、とルクルは思う。そんな理由で、こんなことを問う筈が無い。その程度の理由で、そんな重いことを聞き訊ねるほど、自分は下賤ではないとルクルは知っている。
 きぃ、と背後で小さな音がした。それとほぼ同時にユメが僅か眉を顰めるが、しかし自らの思考そのものを探るルクルは目前の娘のそんな反応に気付かない。ただただ素直に、自分の中を探し求め、やがてその言葉を口にした。

「私は、多分、知りたかったのだな」
「ブラッドさんが私を殺さなかった理由を、ですか?」
「いいや。違う。そうではなくて――私は、私がブラッドにとって何なのか、知りたかったのだな」

 ブラッドの周りには多くの者が居る。
 例えば、婚約者のリュミス。
 例えば、執事のクー。
 例えば、騎士のフェイ。
 例えば、使用人のユメ。
 そんな彼女たちと比べ、果たして自分はブラッドの何なのか――そう思えばこその、その答えが出なかったからこその、不快感だったのか。
 まったく、と彼女は自嘲するように苦笑する。そんな疑問で心を乱すなど、王族としてあるまじき振る舞いだ。

「すまんな。どうやら、詰まらんことを聞いたらしい」
「……つまらないこと、ですか? 自分が、ブラッドさんにとって何なのか、ということが?」
「いや、そうではないが――そうでもある、か。なんにせよ、お前に聞いたところで詮無きことだろう」

 はぁ、とルクルは息を吐く。全ての淀みを、残らず吐き出してしまうかのように。

「つまらない感傷だ。忘れてくれ」
「それは別に構いませんけど、」

 歯切れ悪く答え、ユメはちらりと視線を逸らす。その先はこちらの背後、肩の辺り。
 ん、とルクルが疑問を抱くのとほぼ同時に、ユメは苦笑にも似た笑みを浮かべた。

「どうせなら直接聞いてみたらどうですか?」
「――それは、」

 どういうことだ、と問い返すより早く。
 背後から回された二本の腕が、拒否するまもなくルクルの身体を抱きかかえた。

「――」

 さほど驚かずに済んだのは、このような不意打ちが今日だけで三度目になるからだろう。そんなことを考えながら、ルクルは肩越しに背後へと顔を向ける。そこに立っているのは、無論、この巣の主で、ユメの主人であるところのドラゴン、ブラッド・ライン。
 湯浴みを終えたばかりなのだろう。紅茶のそれとは違う爽やかな香草の香りを纏ったブラッドは、着替えたばかりの真新しい服でこちらを背後から抱きしめたまま、呆れたような顔で口を開いた。

「ルクル、言ったはずだぞ。お前は俺の、」

 ブラッドは一瞬だけ苦笑するかのように口元を歪めた。

「――ペットだ、とな。忘れるな」
「…………馬鹿者」

 酷い物言いだ。そう思いながらも、ルクルは胸の内に広がる暖かいものの存在を知る。長い冬の終わりを告げる春の暁のような何か。それを逃さぬように目を閉じて、彼女は力を抜いて身体をブラッドに預けた。

「ならば、しっかりと責任を持て」
「何?」
「……私に、こんな思いをさせるな、ばかもの。私は我侭だからな。寂しければ――死んでしまうかもしれないぞ?」

 呟いて、目を開ける。そこに見えたブラッドの顔には、驚いたような、呆気に取られたような愉快な表情が浮かんでいた。
 そんなブラッドが愉快で、ルクルは微笑みを浮かべる。視界の片隅で紅茶を啜るユメが羨むような苦笑を浮かべているが、まあ気にすることはないだろう。
 それに、いま離れてしまうのは惜しすぎる。普段から傍に居ることの出来るほかの連中とは違うのだ、と自分の中で理由を並べる。
 ただ、まあ、どれほど言葉を並べたところで結局のところ、求めるのは唯一つ。
 もう少しでいい。堪能していたいのだ。

 想い人に抱かれる、この熱を。





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