木洩れ陽喫茶


それは私に別れを告げた日





 父の乗る船が堕ちたという過去の意味を理解したのは、その事件が起こってから随分と経ってからだった。
 それは、正直に言ってしょうがないと思う。こんな言い方は嫌だし、もしこんな言い分があの子の耳に入ったりしたら普通に小言とか言われそうだから決して口にはしないけど、けれども仕方が無いとも思う。なにせ当時の私はまだ五歳。花をも恥らうどころか――あ、いや、母さんは今でも思い出したかの用に、「あの頃のアンタも色気より食い気だったわねぇ」と昔を懐かしんだりするけれど、それはともかく、私は子供だった。春先に入学した幼年期学校リトルスクールにもどうにか慣れて、親しい友達も出来た。多くの新しい知識を得ることが楽しくて、そんな自分の動機が素直に自分の成績となって返って来るのが嬉しくて、毎日が楽しかった。
 だから、人の生き死になんて考えも着かなかった。
 何よりも事例が不足していたのだ。当時の私はまだ身の回りの人の死と言うものに触れたことは無く、だからそれがどういう意味を持っているのかなんていうことは、正直意識の埒外にあったのだ。
 そんな当時の私に、お父さんの乗った船が堕ちました、なんて言葉で全てを察せ、なんて無理な話だと今でも思う。

 私の父は時空管理局に所属する執務官の、その補佐という仕事に就いていた。大型艦船に専属で搭乗する通信官オペレーターでもあり、私自身時空管理局に籍を置くようになってから知ったことではあるけれど、結構エリート。腕は確かと信頼され、多くの事件に深く関わっていた。そのおかげでミッドチルダの家に帰ることはあまり無く、けれど帰る度に両手一杯にお土産を抱えて、航海の最中に起こった様々な話――隊員たちの間で流行っている話題だとか、休憩中に起こったアクシデントの話だとかを面白可笑しく話してくれたものだ。
 数が少なくなってしまうから、そのぶん濃い家族とのコミュニケーションを――そういった考えがあったのだと思う。
 当時の私は、あまり会うことは出来ないけれど、それでもいつも優しい瞳を見せてくれるそんな父さんが大好きで――その気持ちは、口にすることはさすがに恥ずかしいけれど、いまでも変わっていない。
 けれど、いいや、だからこそ。
 私は、その事件を知らせる言葉に驚かなかった。
 尤も、それには訳がある。
 父さんが乗っていた船が堕ちた、と言うのは紛れもない事実であるけれど、その事件が起こった直後はまだ情報が錯綜していて、詳しい状況は現場の上長にしか掴めていなかったのだろう。それに文句をつけてもしょうがない。それに、現場で起こった緊急事態を整理して外部、と言うか後方に正確な情報を渡すというのは凄く大変な作業なのだ。それこそ、一度味わえばもう二度と味わいたくないと思うほどに。……ちなみに私は半年前に味わいました。もうあんなのはたくさんです。

 つまり、まあ、端的に言えば。

 お父さんの乗っている船が、と言いかけた先生の言葉を遮って、その情報を否定する言葉が別の先生の口から伝えられたのだ。新情報だ、と叫びながら、教員室から走ってきたんだろう、額に汗を浮かべて肩で息をしながら、それでも顔には安心の微笑みを浮かべて、まだ幼かった私を心配させまいとして。
 先生は、私に告げたのだ。
 お父さんの乗った船が堕ちたけれど、乗員は一人を除いて全員退艦が完了していて――

「――よかったね。君のお父さんは、無事だよ」

 その言葉を呟いた先生の優しい瞳を、私は今でも覚えている。
 胸に抱いた安堵は、多分、一生忘れないと思う。


 それが、いまから十一年前の話。
 まだ何も知らなかった私の、多分、無邪気な悪意。





 父さんが帰ってきたのは、その事件があってしばらくしたあとのことだった。
 L級艦船が一隻沈むような事件だというのに、父さんに怪我らしいものはまるで無く、事実、管理局が父さんに与えた休養休暇――大変だったね、しばらく休んでていいよ、という休みの期間は、本当に設けられた期間の最低限。一週間もしないうちにすぐに現場復帰が決まっていて、聞いた話だけれど、それは他の乗員も似たり寄ったりのものだったらしい。で、挙句に数日を管理局の医療施設で検査入院していた父さんは結局のところ二日も休みが取れず、物凄い慌しい雰囲気でその提案を打ち明けた。夕食のあと家のリビングに母さんと、それまでと変わらず幼年期学校に通っていた私を集めて、苦々しい、けれど決意を決めた顔で、堂々と宣言した。

 前線を退く、と。

 それは大きなようで、小さなことでもあったと思う。父さんの言った言葉は、最早父さんは艦に乗らず、後方で情報整理などの仕事に就くということだ。現実的な話だけど、お給料はかなり下がる。それがすぐさま生活の危機に繋がるという訳でもないけれど、だからと言って瑣末事で済まされるような決定ではない。母さんは物凄く驚いて、苦い顔をする父さんとなにやら分からない議論を繰り返していたけれど、やがては諦めたようだった。仕方が無い人ね、と呟いたその顔には、諦めにも似た愛情が滲んでいたことを覚えている。
 そうして、私の父は前線を退いた。向けられたのは数多の疑問と、臆病者め、という多少の嘲笑。けれど、後に知った話では、同じように前線への復帰を拒んだ人員は多かったらしい。人事部はそのせいで頭を抱え――父さんの乗っていた船は、各方面のエリートを揃えた豪華な船だったそうだ――私に難しいことは分からず、むしろ父が家に居る時間が増えたことが嬉しく、それまで以上に毎日が楽しくなった。
 それは、本当に幸せな日々。
 だから、私がその事実に気付いたのは随分と後の話だ。本当、昔の自分を全力で罵りたくなるくらいに後の話。幼年期学校リトルスクールを卒業して、このまま何か職に就くかそれとももうちょっと頑張って士官学校アカデミーに進むか随分と迷い、結局後者を選んだあとのことになる。後方で雑務に就いていた父は、しかしその頃周囲に現役時代の技術を買われ私の通うこととなった士官学校アカデミーで教鞭をとっており、その父が士官学校アカデミーの入学試験に合格した私の祝いの席で、ふとした拍子に洩らしたのだ。
 お前は私のようにはなるなよ、と。
 誰も死なせるなよ、と。
 ……だから、それは本当に馬鹿な話。頭を抱えたくなるくらいに考えの至らない、私にとって最大の、ううん、最大の一つ手前のミス。
 私は、父の艦が堕ちたというその事件で、ただ一人の死亡者が居たという事実をその時まですっかり忘れてしまっていた。
 だって、私は幸せだったのだ。父さんが居て、母さんが居て。お爺ちゃんとお婆ちゃんは私が幼年期学校リトルスクールを卒業する直前に、まるで連れ添うように静かに息を引き取ったけど、その悲しみも乗り越えて、楽しい日々を送っていた。父が遭遇した過去の事件はあくまで過去でしかなく、それは私たちの生活を脅かすようなものではない。だからほら、こんなに幸せ。誰もが持つはずの、当たり前の幸せ――
 それを無くした少年が居たという事実に、私はその瞬間まで気付かなかったのだ。
 その事実だけでも随分と最悪だったけど、もっと最悪だったことに気付いたのはそれから更にしばらく経ったあと。士官学校アカデミーの基礎コースを履修し終え、残念ながら魔法の成績は人並み以下、けれど情報処理能力には特筆すべきものが有りとの判断を受け、後方要員コースのオペレータ養成カリキュラムに就いたばかりの頃の話。
 講義で出された課題を軽く片付けた私は父親に個人回線で呼び出され、普段は近づきだってしない貴賓室の中に招かれて、

 ――その少年と、出会った。

 部屋の中に居たのは全部で三人。父と、私ですら知っている有名人と、まるで知らない男の子。黒い髪が印象的で、驚くほどに静かな瞳した年下の少年。

「ああ、来たか。こちら――」
「初めまして、お嬢さん。私はギル・グレアムという。よろしく頼むよ」

 有名なその人は、立ち上がってそんなことを言った。私は息を飲む。よろしく頼むよ、なんて話じゃない。私はこれがどんな悪戯なのかと本気で頭を捻りかけた。
 ギル・グレアム。士官学校アカデミーに入る前は名前だけ知っていて、入った後はその偉大さを知った。過去十数年間の時空管理局の実績を顧みれば所々どころか半分以上の成績に彼の名前が見つかるし、その名前はテキストのそこかしこにも載っている。ミッドチルダでなく、それどころか明らか過ぎるほどに魔法後進世界の生まれでありながら、驚くべきほどの魔道素質を保有し、それを活用しうる人。
 簡単に言っちゃえば、有名人。或いは、いまだヒヨドリの私たちの誰もが憧れる羨望の人。
 そして――父さんが現役を退くと同時に、同じように現役を退いた、父さんの元上司。
 そんな人がどうして私なんかに――がちがちに固まる私に、ギル提督は苦笑した。

「そんなに硬くなることはないよ。実は、今日は君に折り入ってお願いがあってね」
「お願い――ですか?」
「ああ。迷惑な話だとは思っているんだが、実は、」

 言って、提督はソファの傍らに座る少年に視線を向けた。
 少年はそれに答えるように立ち上がり、真っ直ぐな目で私を見る。
 提督は口を開いた。

「実は、この子の面倒を見てもらいたいんだ」

 は、と私は思わず声を上げていた。視界の片隅で父さんが頭を抱えて馬鹿娘、とぼやく。酷い話である。そりゃ確かに礼儀を欠いた反応ではあったけれど、それも無理も無い話だと思う。突然すぎる話にも程があるというものだ。
 面倒を見るって、どういうことでしょうか。緊張に震える声で何とかそう問うと、提督は実はだね、と苦笑した。

「この子が、父親の後を継いで執務官になりたいと言うんだ。本当なら私が面倒を見てあげるべきなんだが――いかんせん、雑事が多くてね。構ってやれないことが多いのだよ。だから誰かにそれをやってもらいたいんだ」
「で、でも――私はただの学生で、」
「ああ、申し訳ない、言い方が悪かったね。面倒を見て貰いたいと言っても、何も一から十まで世話を焼いて欲しいという意味じゃないんだ。そこまで手間をかけてもらわなくても、この子は十分にここで通用するだけの実力を持っているよ」

 そこまで言って提督は、親馬鹿だね、と呟いた。

「この子に実力があるのは私が保証する。けれど、やはり歳の年齢というものはいかんともしがたくてね――入学させることは私の推薦でなんとかなったのだけど、いいや、だからこそ、私はこの子のここでの生活が心配なのだよ。過保護かもしれないが、例えば苛められたりするんじゃないか、とね。だから君には、この子のそういった意味での面倒を――ああ、いや、橋渡しを、頼みたいんだ。この子が、此処で少しでも幸いになれるように。――ほら、自己紹介しなさい」

 提督の言葉を受け、オトコノコは小さく頭を下げた。

「クロノ・ハラオウンです。よろしくお願いします」
「――え?」

 なんだろう。その言葉に、その名前に、記憶の何処かが引っかかる。
 私は思考を止めた。どう考えても柄じゃないとか、私はそんなに偉くないとか、橋渡しってつまりはみんなにこの子を紹介すればいいんだろうかとか渦巻いていた疑問がぴたりと凍結する。凍結し、それらの代わりにただただ一途に、その名前に覚えた私の引っかかりを解明しようと記憶を探る。
 顔を上げた少年は真っ直ぐに私を見ていた。真摯な瞳。真剣な瞳。純粋な瞳。けれど、その奥底に窺い知れない何かを湛えた瞳。私の知らない、私の知ることの出来ない感情を知っている少年。私より明らかに年下で、でも私より明らかに深い瞳を見せる男の子。
 彼は、口を開いた。

「エイミィさん、ですね? ――お父さんには、父がお世話になったと聞いています」
「――お父さん?」

 ダメ。聞いちゃダメ。探っちゃダメ。その問いは、きっと私が私を嫌いにさせる。
 そんな予感が確かにあったのだけれど、それでも私はそう問うた。

「クライド元艦長だ。――お前も会ったことがあっただろう。私の、昔の上司だった人だ」

 それに答えたのは、少年でもなく、提督でもなく、私の父。
 搾り出すようなその言葉が不思議と静かに耳に入って、ようやく、私は気付いた。
 少年の見せるその瞳が、随分と昔、管理局に帰港した艦船に父を迎えに行った私と母さんを出迎えてくれた優しそうな艦長のそれと、酷く似ているという事実に。
 けれど、と私は疑問を覚え、馬鹿、と自分を侮蔑した。

 ――どうして、そんなに悲しい目をしているの?

 口から出かけた疑問は、どうにか胸の中だけで溶けて消えた。
 だって、答えなんて分かりきっているんだから。
 ああ、どうして私は忘れていたのだろう。どうして一度も考えようとすらしなかったのだろう。
 父の乗る艦が沈んだあの日。他の乗員を退艦させるため、艦隊を護るため、最後まで沈み行く艦の中に残りその命を散らせた一人の艦長が居たではないか。

 ――だって。

 だから、答えなんて明白。
 私が気付かなかったほどに、簡単で、重い。

 ――父さんは、帰らなかったから。





 結局、の話で恐縮ではあるけれど、私は提督の申し出を受け入れることにした。勿論、私に何が出来るかわかりませんけど、と付け加えるのは忘れなかった。その抜け目の無さはちょっとだけ自慢である。
 尤も、だからと言って私の生活に驚くほどの変化が生まれるわけではない。クロノ君とは士官学校アカデミーの前で合流するし、履修するコースだって別々だ。私は専門、彼は初期。授業の合間にわざわざ会いに行くほど私は暇じゃないし、クロノ君だってそこまで纏わり着かれては疲れるだろう。私だったら物凄く疲れる。士官学校アカデミーに入学したばかりの頃は何かと理由をつけて私を観察しに来た父さんが物凄く恥ずかしくて、やっぱ入るの止めておけばよかったかな、と何度も思ったぐらいなのだ。親の心子知らず。けれど子供の心も親が知ることはないのです。
 私がすることはと言えば、例えばお昼休みにクロノ君の所まで行って、クロノ君が誰かと喋っていたり既に教室を離れていたらそのまま私一人で食堂へ。もし教室に居て、加えて傍に誰も居なければ仕方ない、クロノ君を誘って一緒に食堂に行き、いつも私が加わっているグループに同席させて無理矢理一緒に食事を摂らせるということぐらいだ。提督はクロノ君のことを随分と心配していたようだけれど、それはやっぱり杞憂だと思う。そんなに話したわけじゃないけれど、クロノ君は決して悪い子ではない。愛想がいいとは言わないけれど、話しかければ答えてくれるし、無表情ではあるけれど無感情と言うわけでもない。ただ、子供らしさが極端に薄いだけだ。
 事実、最初の数日間こそクロノ君を連れて食堂に行くことになったものの、それ以降には私がクロノ君の教室に就いた頃にはクロノ君の姿は既に無いことが多かった。それ以外の時間に、何かの折でクロノ君の教室を覗けば、同じ講義を受けている生徒に質問でも受けているのか、メモリデバイス片手に言葉を交わすクロノ君の姿があった。だから私は、ああ、今頃クロノ君も出来たばかりの友達と一緒にご飯食べているんだなぁと大好きなクリームスパゲティを食べながら思っていた。

 それが間違いだと気付くまで、悲しいかな、一ヶ月も掛かってしまった。

 何かのきっかけだったと思う。私はその日の講義を全部終えたあと、ふと思い立ち施設の隅にある自由練習場に足を運んだのだ。其処は生徒が自由に魔法訓練を行うことが許された場所で、屋内外に多大なスペースを持つ区画である。使用時に利用申請だけ行えば特に使用の制限は無く、ああ、そうそう、確か戦闘武官のカリキュラムを取る友人が模擬戦を行うと言うからそれを見物に行ったのだ。私が足を向けたのは室内戦闘場。キューブ型の空間が多数設けられた一角で、それぞれの空間はお互いに隔離されているが、その内部での練習風景は外部のモニタで観察することが出来る施設である。戦闘訓練がメインカリキュラムに組み込まれていない私はあまり用が無いけれど、戦闘武官の道に進もうとする生徒たちには日常生活の圏内だ。最後に来たのは何時だっけ、と思いながら私はゲートを潜って、

 そこに、大きな人だかりが出来ていた。

 え、と洩れた声は驚くほど場違い。十や二十で聞かない数の生徒たち――あ、違うや。教員も混じってる。共通点は戦闘訓練を必要とする人たちで、そんな人たちが酷く真剣にそのブースで行われているその戦闘訓練の様子に見入っていた。全部で十個並んだモニタは様々な角度からその戦闘を映し出していて、そこに写っていたのは、

「――クロノ君?」

 呟いた声は、きっと、私の耳にも届かなかった。
 モニタが映し出していた影は全部で三つ。黒く硬質な印象を受ける防護服バリアジャケットに身を包み、身体に似合わぬストレージデバイスを持つクロノ君。水色の魔力光をばら撒きながら次々と魔法陣を展開していくその様は息を飲むほどに洗練されていて、次々に繰り出される攻撃を防ぎきれずに吹き飛ばされるその様は、悲しくなる程に無様だった。

「ほら、どうしたクロ助――次行くよ?」

 モニタの向こうで囁かれた言葉を、マイクが拾ってこちらに届ける。そうして声の主は指を弾いて、それを合図にもう一人の影が放った幾つもの誘導弾を率いてクロノ君へと肉薄する。

「く――ッ!」

 届けられたのは、悔しさに満ちた呻き声。空中に留まるクロノ君はその浮揚魔法を解き重力に任せるままに落下しながら、杖を迫り来る誘導弾の群れに向ける。その先端が薄く光り、放たれた太い魔力砲撃が誘導弾のほとんどを打ち落とす。それと同時に別の魔法陣を展開。再び浮揚の力を得て体勢を立て直す――

 と、誰もが思った。

「遅いよ、クロ助」

 聞こえた声は絶望的なほどに無慈悲。
 誘導弾の支援を受けながら、ちゃっかりクロノ君の迎撃を回避していた彼女がクロノ君に蹴りを入れる。矢の様に飛んでいるその勢いを微塵も消さぬままの一撃。クロノ君はそれを防御することも出来ずに喰らい、エネルギー保存の法則にしたがって玩具みたいに吹き飛ばされる。
 けれど、その瞬間。
 何かが、何かを結ぶ音がした。

「――む?」

 疑問を声を上げたのはクロノ君を蹴り飛ばした彼女。しかし、その反応を正しさを、モニタを見る誰もがざわめきという形で肯定していた。
 空中に青白い鎖が出現していた。拘束魔法バインド。確かあのタイプは、と私は知識を探る。戦闘に疎いからこういった魔法にも詳しくない自分が恨めしい。そうだ、あれは確か、前もって設定しておいた空間に侵入した対象を拘束するための拘束魔法ディレイバインド

「――ブレイズ、」

 クロノ君が呪文を唱える。デバイスの先端が短い間隔で明滅し、どれほどの詠唱補助を行っているかを静かに主張する。
 そうして。

「――キャノン……!」

 自らをバインドで空中に固定したクロノ君は、吹き飛ばされた姿勢のまま、しかし彼女と距離を開かぬ至近距離で多大な魔力を解放した。
 白い光りが溢れる。急激な光度の上昇に、カメラが自動判断でフィルタを掛ける。時間にして一秒に満たぬ光りの氾濫が治まり、やがてモニタは視界フォーカスを取り戻す。まず見えたのは夥しい量の煙。ジャケットの色々なところを黒く焦がし、バインドの拘束を解いて、今度こそ自分の浮遊魔法で宙に浮かびながら――痛々しいほどに青い顔をした少年。
 ……それと。

「ふぅん。まあ、狙いはよかったぁねぇ」

 面白がるような声で呟く、女性の――猫を素体にしたらしい、人型使い魔の姿だった。
 彼女は空中に立ったまま、ぴこぴこと尻尾を揺らしながら言う。

「空中浮遊じゃ体勢を立て直すのが間に合わない、かといって飛翔魔法のまま逃げてもアタシとアリアの誘導弾シューターからは逃げられない。防御しても防ぎきれない、か。……うんうん、状況判断のスキルは上がってるね、クロ助。嬉しいよ」

 彼女が浮かべているのは、真実の笑顔。
 それにクロノ君が返すのは、最早笑みにすらない強がりだった。

「じゃあ、足りなかったのは反射速度、かな……? 防がれる前に入れられると思ったんだけど」
「そうだね、そんなトコロさ。けど、そのバインドの使い方は頷けないよ、クロ助」

 クロノ君の至らなかったところを認める彼女は、その顔を険しいものに変える。

「同じ拘束させるならアタシを拘束させればよかったじゃないか。なのになんで自分を、しかも一撃喰らったあとに拘束させるんだい。はっきり言うけどね、クロ助。それは自殺行為だ。実践で、しかも相手が殺そうとしてむかって来る時にそんなことやれば、良くて相打ちだよ。アタシはそんなの、認めないからね――いまだって、素直に吹き飛ばされておけばよかったのに、無理矢理動きを止めたから酷いダメージが行ったんじゃない?」
「……ロッテを拘束したって、アリアのバックアップですぐに解かれるじゃないか。確実に一撃を入れるにはこれしかないと思ったんだ。まあ、結局……その防御は、破れなかったけど」
「ふん。まあ当然さぁね。コレ、アリアの十八番だもん。そう簡単に破られてたまるもんか」

 ふふん、と自慢げにそういう彼女は、三重の結界に守られている。重なるように張られた三つの魔法陣。ラウンドシールドに類する防御魔法だとは思うけれど、見ただけで詳しいことは分からない。勿論、それがどれほど堅牢なのか、ということも。分かるのは、ただそれを張ったのがアリア、という名なのだろうか、クロノ君の前に立つ彼女の後方で静かに微笑む女性の、ロッテと呼ばれた彼女ととてもよく似た女性の魔法だということだけだ。
 惜しかったよ、とロッテはもう一度呟いた。音も無く防御魔法が消える。

「今後の課題は、状況判断能力の一層の研鑽と手数を増やすこと、それと現状使える魔法の錬度を高めること、だね。あ、魔法のことはアリアに聞いてね。勿論ココの先生方に聞いてもいいけど――いまのクロ助にアドバイスできるような人、居るかなぁ。でもクロ助、アタシから一つ言っておく。さっきの反撃、ブレイズキャノンだけど、発射速度を上げるために威力を抑えるか、速度を犠牲にして精密度を上げなきゃダメだ。そのままじゃ使用を禁じさせるしかないよ、私は。ねえ、アリア?」

 ロッテが振り返り問いかければ、アリアは当然とばかりに頷いた。

「――だってさ。アリアも同意見だ。まあ当然だよね、いくら使い勝手がいいからって、反動で自分を焼くような魔法をアタシたちは認めないよ」
「……」

 細められた瞳でされた指摘に、クロノ君はただ苦笑。
 はあ、とロッテは息を吐く。何気なくクロノ君に近づき、

「じゃあ、今日はここまで。――偶にはアタシたちから一本取ってみな」

 そんな優しい声音で囁いて、みしり、と音さえ立てて。
 ロッテの右手が、クロノ君の鳩尾に沈み込んだ。





 ……しばらくして訓練場から出てきた三人の様子を、私は遠巻きに眺めることしか出来なかった。
 猫を素体にしたらしい二人の使い魔は疲れを取るように大きく伸びをする。アリアと呼ばれていた方は近くの長椅子にクロノ君を横たえて、その傍らに腰掛けた。ロッテは自販機で三つの缶ジュースを買って、そのうちの一つをアリアに、もう一つを手元に、そして残りの一つを、

「なーに見てんだい?」

 そんな言葉と一緒に、私に向かって放り投げた。呆然としていた私は反応できず、がこん、と結構賑やかな音がした。

「……あらあら。ごめんなさいね」

 額を押さえて蹲る私に、割と本心っぽい響きでそんなことを言う彼女。その痛みで我に返った私は、視界にちらつくお星様を無視して彼女たちに近づいた。勿論、受け止め損ねた缶ジュースを拾い上げるのも忘れない。

「ええと」

 困った。近づいたはいいけれど、どうやって切り出せばいいのか分からない。疑問は山ほどある。だからこそ纏められず、形にならない。気付けばあれほどいた観戦者たちはみんな散り散りになっていて、各々の訓練を開始するためにそれぞれのブースに入っていこうとしていた。逆に訓練に一段落を着けブースから出てきた人たちは、不思議な組み合わせの私たちにいぶかしむような視線を向けながらも酷使した身体のクールダウンを始めようとしていた。助け舟は、何処からも来そうにない。
 だから私は散々散々考えて、結局、単純な問いから並べることにした。

「あなたたち、誰?」
「それは私たちも言いたい事だけど――ん? あ、ひょっとしてアンタ、エイミィかい?」
「え?」
「エイミィ・リミエッタだろ? 違うかい?」
「え、あ――うん。そうだけど」

 私は歯切れ悪く頷いた。ああ、これでまた疑問が一つ増えてしまった。誰かの使い魔に名前を知られる由縁なんて無いはずなんだけどなぁ。
 そんな私の疑問をよそに、彼女はころころと弾む笑みを私に向けた。差し出された手を思わず握り返す。

「アタシはリーゼロッテ。こっちのはリーゼアリア。アンタのことは父様から聞いてるよ。クロノの世話を任せられたんだって?」

 ぶんぶんと元気よく振られる手に、私はこくこくと頷いた。いや、頷くぐらいしか出来なかった。
 ……あれ、でも、クロノ君のことを知ってて、かつ私を知っててその役目まで知ってるってことは、この二人、もしかして。

「あの、ひょっとして」
「ん? ――ああ、そうさ。アタシたちの父様はギル・グレアム提督だよ。アンタのことは父様から聞いてるんだ。ねえ、アリア?」

 絶句、っていうのはこういうことを言うんだろう。こくん、と頷くアリアを見て、私はそんなことを思った。
 だけど、そんなことを知る由も無いアリアは平然と言葉を並べる。

「アタシたちは父様の下で雑務を請け負っているんだけど、クロノの戦闘面での手ほどきもやってるんだ。アタシが魔法担当、ロッテが体術担当、っていうふうにね。貴方と立場的には同じね。よろしく」
「全然違うと思いますよぅ……立場……」

 なにせ、片やかつて艦隊指揮官まで勤めた歴戦の勇士の使い魔で、もう片方はただの後方支援要員希望の学生である。そんな二人、いいや三人が同じ立場なんていう言葉は買い被りが過ぎるし、正直役者不足だと思う。
 けれど、そんな私の見解にアリアは首を横に振った。

「同じよ。どっちもクロノの面倒を見ているでしょう? だから気構え無いでくれると嬉しいかな。ね、ロッテ?」
「そうだね、アタシも同感だよ」

 二人はそんな激しく困ることを言って、同じように微笑んだ。私はそれをどうにか辞退出来ないかと言葉を捜したが、そんな言葉が何処にも無い、少なくとも二人のその要望を否定しきるほどの言葉は語彙ストックに無いということに気付くまでさして時間は掛からなかった。
 私は降伏代わりに苦笑して、じゃあ、と頷いた。

「これからよろしくね、リーゼアリア、リーゼロッテ」
「よろしく。あ、それからアタシのことはロッテでいいよ。アタシもエイミィって呼ばせてもらうからね」
「こちらこそよろしくね、エイミィ。アタシもアリアで構わないわ」
「うん、分かった。アリアに、ロッテ。二人とも、クロノ君にとってはお姉さんみたいなものなの?」

 私の問いに、二人は同じように頷いて、違う笑みを浮かべた。
 アリアは嬉しいような悲しいような、微笑みに似た複雑な苦笑。
 ロッテは難しいようないまいち不服なような、苦笑に近い微笑み。
 似ていて異なる笑みを浮かべた二人は、目を覚まさないクロノ君を見て視線を和らげる。

「そうね、そんなものかしら。この子のことは、それこそ生まれたころから知ってるし――まあ、正直、そんなに飲み込みがいいわけでもないんだけど。その分、教え甲斐があるのは事実かな」
「私としてはもーちょっと愛嬌があれば、と思うねぇ。頑固で一途で、うん、純粋なのはいいけれど、もっと広い視野を持って欲しいなぁとおねーさんは思うよ」

 言って肩をすくめたロッテは、けれど、と言葉を接いで私を見る。

「そういう意味ではエイミィ、アタシはアンタに期待してるよ。この子にもっと広い世界を見せてあげてやって欲しいんだ」
「……うん。正直に言うとどこまで出来るかわからないけど、頑張るね。期待されちゃ、責任重大だよ」
「よしよし、そういう心意気は好きだよ。……あ、でもエイミィ、いきなりだけど、ちょっと文句言っていいかい?」

 にこにこと微笑んだまま、唐突にロッテはそんなことを口にした。
 え、と首を傾げた私に、ロッテは幾分真面目な視線を向けてくる。

「今日の訓練見て、エイミィ、アンタはどう思った?」
「どう思った、って……」

 その終盤だけを少しだけ目の当たりにすることが出来た、あの戦い。ぼろぼろになって吹き飛ぶクロノ君。容赦の無いアリアとロッテの攻め手。基礎コースで少しだけ齧った、決して得意ではなかった戦闘訓練の内容とは次元レベルで世界の違う潰しあい。自分の身体さえ投げ打ったカウンターと、それを防いだ防御魔法。
 驚くほどに高度ではあった。
 高度ではあったけれど、それ以上に、

「容赦が無い、って、そう思ったよ」

 それが、多分一番誠実な答え。攻めも、受けも、反撃も。そこには微塵の手加減も無く……ううん、手加減はあったみたいだけど、手を抜いては居なかったように思う。何かを教えようとするための、自分で答えを掴ませるためにその手がかりを見せるような戦い方ではなく、純粋に相手を打ち倒そうとするような、そんな戦闘。教示なんて言葉は何処にも無い。
 ならば、それを表現するのに最適なのは、その言葉しかありえない。
 こくり、と頷いたのはアリアの方だった。彼女は死んだように眠るクロノ君の黒い髪を梳きながら口を開く。

「それが正解。アタシもロッテも、容赦なくクロノを叩きのめしているわ。それがクロノの頼みだしね」
「と言うか、それぐらいしか出来ないんだよね、こっちも。今の段階で――まだ出来上がってない身体の問題とか、まだまだ安定しないリンカーコア出力とかを考えると、教えられることは全部教えちゃったんだ」
「え? 全部?」

 オウム返した私の言葉に、二人は揃って頷いた。

「そう、全部。そりゃまだ教えることは山ほどあるけど、いま教えても意味が無いことばかりなんだ」
「だから、いまクロノに必要なのは判断力の訓練と実戦の想定戦なのよ。判断力は幼いうちから訓練をつめばそれが確実な下積みになるし、実戦を想定した戦いはそれを養うのに最適なの。ちなみに、さっきの訓練は前提として一体二、加えて相手は近接戦と遠距離戦に役割分担していて、両方とも自分より実力が上。課題は、その状況で五分間生き延びること。無理だとは思ったけど、三分が限界だったね、やっぱり」

 苦笑しながら言うアリアの声音には、紛れもない優しさが滲んでいた。
 ところで、と彼女は私を見て僅かに瞳を細めた。猫科の雰囲気を残した瞳が、静かな鋭さを帯びる。

「エイミィ。貴方は、その状況でどうするのが一番だと思う?」
「――そんなの、決まってるよ」

 答えは酷く簡単だ。私は自信を持ってその答えを口にした。

「五分間、とにかく逃げ回る。時間制限を課したってことは、それ以上長引けば何らかの理由でアリアたちが撤退、或いは不利になる条件が隠されているっていうことでしょ? それぞれの担当にそれぞれの分野で勝てないならそれを回避するのは前提だし、あ、それとも最初っから五分間"だけ"生き延びることを考えてとにかく牽制射撃だけやるっていうのもいいかもね」

 勝てない相手に真正面から挑むなんてのは絶対にやっちゃいけないことだ。そりゃ他に手段が無くて、どうしてもそうせざるを得ない状況になってしまえば仕方が無いけれど、それはそんな状況を作り出した人の、多分、具体的に言えば後方指示要員の責任だ。直接的な危険が少ない後方要員のお仕事は、前線で自分の命を危険に晒しながら事件の解決に当たる人たちの為に、少しでも自分たちに有利な状況を作り出し、情報を整理することである。
 私の答えを聞いたロッテがへぇ、と呟き、アリアはその視線の険を解いた。小さく頷く。

「そう、それが正解。アタシたちが課したのは時間制限であって、逆に言えば、勝利条件はそれ"しか"無いの。けどこの子は、」

 本当に、と彼女は複雑な苦笑を浮かべた。

「――真っ直ぐだから。敵が居れば倒す、っていうことしか見えてない。馬鹿正直に向かってくるなんて、それこそ命知らずなのに。それは、その。アタシたちのせいっていうのもあるんだろうけど、アタシたちにしてみれば、止めて欲しい。もっと柔軟な思考を持って、視野を広げて、世界を見て欲しい。人の上に立つ、執務官を目指すっていうことはそういう能力が必要になるってことだし、それが出来なければ、クライド君のようには、なれない」
「クライド君って――クロノ君の、お父さんですよね」

 私の確認に、アリアとロッテは揃って頷いた。
 クライド君はね、とロッテが懐かしむように口を開く。

「優秀な人だったよ。判断力と思考力、責任感があって、魔力資質は提督の中ではちょっと落ち目だったけど、それをそれ以外の資質で補ってた。曲がったことが嫌いで、でも頑固って訳じゃなくて、いつも真摯だった。本当に、立派な人だったよ。だからクロ助がクライド君を目指すっていうのも、分からない訳じゃないんだ。クライド君がどれほど素晴らしい人間だったのか、っていうのを、美化までして話し続けた私たちにも、その責任はあるしね。あ、別にクライド君を目指すのが悪いって訳じゃないんだ」

 でも。ロッテは苦い顔をして、そこに嫌悪の色を滲ませる。
 その感情の対象は、多分、自分自身。

「いくらなんでも、これはやりすぎだ。叩きのめしてるアタシたちが言えた台詞じゃないんだけど、こんなことを続けてたら、いつか壊れるよ、この子はね。そりゃ身体を鍛えるってのは、結局負傷の超回復の差分を得るってことだけど、毎日毎日、こんな体力も魔力も尽き果てるぐらいに訓練に明け暮れてたら、」
「――ちょっと待って、ロッテ」

 ロッテの苦言に、私は思わず待ったを掛ける。
 いま。
 聞き逃してはいけない単語が、確かに混じっていた。
 え? と首を傾げるロッテに、私は掴み取ったその単語の意味を問う。

「毎日、こんなことを?」
「え――ああ、そうだよ? 知ってたんだろ?」

 知らない。私はそんなこと、知らない。
 驚きは、それ自体に驚くほど静か。反応の大きさで言えば、多分、そんな私に驚いたアリアのの方が大きかっただろう。

「ひょっとして知らなかったの? エイミィ」

 こくん、と私は頷く。
 ああ。でも、それも当然だと思った。私はクロノ君のことをどれほど知っていたのだろう。どれほど知っているのだろう。……どれほど、知ろうとしたのだろう。
 私の肯定がよほど予想外だったのか、きょとんとした声でロッテが言う。

「クロノはずっと――うん、それこそココに入学する前から、ほとんど毎日こんなことを繰り返してるよ。そりゃ勿論アタシたちにだって用事があるから付き合えない日もあるけど、そういう時は自己鍛錬のメニューを延々とこなしてる。この訓練場だって、すっかり常連だよ。アタシたちはてっきり、アンタも承知の上だと思ってたんだけど、」
「ううん。私、クロノ君がこんなことをしているだなんて考えもしなかった」

 素直にそれを認めよう。そして恥じよう。過去の自分を侮蔑しよう。ああ、何が友達と一緒に食事を摂っている、だ。考えが至らなかったにも程がある、いいや、考えようとしなかった自分が本当に嫌になる。私は見たの? たった一度、たった一度でいい、食堂で誰かのグループに混ざって楽しそうに食事を摂るこのオトコノコの姿を見たことがあったの?
 答えは、勿論、考えるまでも無い。
 知らなかった、考えられなかったのではない。知ろうとせず、考えようとしなかったのだ。
 だって、私は私を好きで居たくて、自分を嫌いになんてなりたくなくて、でも私はこの少年に紛れも無い感謝を――

「――」

 ……それは、考えちゃダメ。認めちゃダメ。絶対に、頷いてはいけないことだ。
 私は思考の輪を閉ざす。首を傾げていたロッテは、まあいいや、と呟いた。

「まあ、そんなわけだからさ。最初の話に戻るけど、エイミィ、少しぐらいこの子のブレーキになってやってくれないかね。二回に一度、ううん、三回に一度でいい。今回みたいな訓練をする前に、クロ助を引き止めてやって欲しいんだ。それは多分、私たちには出来ないことだから。手加減なんかしたりしたらこの子に怒られるしね。それに、」
「――なんだかんだ言うけれど、クロノがアタシたちを頼ってくれるのは嬉しいから。ついつい、引き受けちゃうの」

 接がれたアリアの言葉に、ロッテはそういうこと、と頷いた。
 さて、と呟いて二人は立ち上がる。

「そろそろアタシたちは戻るよ。エイミィ、クロ助を頼んでいい?」
「――うん。分かった。お疲れ様、アリア、ロッテ」
「ええ。じゃあ、これからもよろしくね」

 最後に二人は一度ずつクロノ君のほっぺたを突いてから訓練場を去っていった。
 私は目を覚まさないクロノ君とただ二人、ブース前の休憩所に残される。目に付く他のブースでは色々な人が色々な戦闘訓練を行う様子がモニタ映し出されているけれど、先のクロノ君たちのそれを見たあとでは、正直な話、辛い感想を言わざるを得ない。まあ、元々求められる内容が異なる訓練なだけにそう簡単に比較させてしまうのも失礼というものだけど、それでも。さっきの三人の戦いを考えれば、いま行われている戦闘訓練は、場違い、とまでは言わないものの数段レベルが劣ってしまうのはどうやっても覆せない事実だ。
 眠りこけるクロノ君に視線を落とす。顔に掛かる前髪を払ってあげれば、その下にはあどけなさが抜け切らない子供の顔が見えてくる。顔色は、魔力の急激な消費をしたからだろう、驚くほど白いけれど、それ以外に注目しないといけない点は無いようだ。アリアが施した治療魔法のおかげだろう、呼吸や寝顔、寝汗といったものはごくごく普通である。
 だから、私は息を吐く。簡単に言うと嘆息。クロノ君の寝顔は私のよく知るクロノ君のものだ。愛想が無くて、けれど無感情と言う訳ではなく、よくよく見れば可愛い顔をしている。アリアとロッテの二人が、クロノ君に頼み込まれれば嫌とは言えないというその気持ちも、分からないではないけれど、でも、ううん、だからこそ。
 訓練の中で見たクロノ君は、私の知らないクロノ君だった。
 先ほどの戦いを思い返す。迫り来るロッテを前にしながら、どうにかアリアを倒せないかと必死で考えながら魔法を展開するクロノ君。息つく間もなく繰り広げられる魔法陣は精密の一言で、それらを的確に使いこなすその能力には脱帽するしかない。次の手を考えるクロノ君の真剣な表情、反撃を防がれて悔しそうに呻いたその声――けれど、それらは私の知らないクロノ君のものだった。
 それは、必死、という言葉がこれ以上無くよく似合う。
 ……この子は、どうして、そんなにも。
 そんな疑問が、ふと意識の縁を掠めた。お父さんを目指す。それは立派な志だと思うし、傍から見れば私もそれと同じことをしている。父親に憧れ、父親の仕事に誇りを持ち、いつか同じ場所に立つことを夢見るのは、決して悪いことじゃないだろう。けれど、それにも限度っていうものがあると思う。自分を鍛え先を目指すのはいいことだけど、自分を痛めつけすぎるのは考え物だ。それに第一、私たちは、まだ十分すぎるほどに子供なのである。いくら就職年齢の低いミッドチルダとはいえ、肉体的、精神的な成長と実年齢はある程度切り離すことなんて出来はしない。無理はいつか花咲かす種になるかもしれないが、無茶はいつか幹折る傷になるだろう。過ぎた訓練は、いつか手痛い仕返しを見舞ってくる。クロノ君がそんなことに気付かないはずも無いのだけれど。
 私は鞄の中からメモリデバイスを取り出した。私はクロノ君の面倒を見るという、全然こなせていなかった立場上、多分提督からの要請があったのだと思うけれど、クロノ君の士官学校アカデミー入学試験の成績を貰っている。勿論、本人には決して見せないように、という言付けはあったけれど。
 受け取ってから一度も開いていなかったそれを今更になって立ち上げて、目を通す。学科、実技、思想。驚いたのはそれらの成績が軒並み高かったこと、特に学科では基礎知識として網羅すべき範囲を遥かに超える知識を持っていること、満点というものが通念上存在しない実技試験ではそれに限りなく近い点を取っていること。
 そして。

「強迫症、自傷癖の疑い有り……?」

 思想検査の記されていたそのコメントに、私は思わず声を上げていた。



 クロノ君が目を覚ましたのは、アリアたちが去ってから丁度一時間ほど経ったあとだった。
 ゆっくりと目蓋を上げたクロノ君はぼんやりとした顔のまま身体を起こし、

「……あ。おはようございます、エイミィさん」

 傍らの私に気付いた瞬間、見覚えのある顔つきでそんなふうに口を開いた。

「うん、おはよう、クロノ君。大丈夫?」

 私はデバイスを閉じて鞄に戻す。クロノ君は疲れを振り払うように頭を振って、はい、と頷いた。

「大丈夫です。すみません、心配をお掛けしました」

 申し訳無さそうな顔でそんなこと言うクロノ君。私としては、全く持ってその通り、と言えないのがちょっと辛い。そりゃ心配しなかった訳じゃないけど、そんなに心配をした訳でもないからだ。戦闘訓練を見た時はそんな感情より先に驚きと疑問で一杯になっちゃったし、戻ってきたクロノ君はこれといって心配する必要がなさそうだったからだ。アリアも大丈夫、と言っていたことだし。
 だから私はその言葉には答えずに、クロノ君に質問をぶつけた。

「それはいいんだけど――クロノ君。何をやってたの?」

 ……ううん。問い質した、が正解なのかな。
 その問いに、クロノ君は返答に窮したようだった。殊勝なことである。私はクロノ君の面倒を見てくれと言われただけで、それはイコール、クロノ君の行動を制限することになる訳ではない。ぶっちゃけてしまえば、これは個人の勝手なお願いに過ぎず、私がそれに手を抜いたところで咎められるようなものではない。あ、うん、父さんには怒られるだろうけど、それはそれ。余談としておこう。
 ただ、明らかにしておかなければならないことは、私にクロノ君を制限する権利は無く、クロノ君に私の言いつけを守る義務があるわけではないということだ。だからこの問いだって、そういう考えに基づくなら何の意味も無い。クロノ君がいつ、どこで、なにをしようが、それが他の学生や教員の迷惑にならない限り、私の出番は存在しない。私の疑問は、クロノ君を縛らない。
 なのにそこで返事に窮するということは、少なくともクロノ君は、自分がやっていたことがあまり褒められたものではないという自覚があり……ああ、それともひょっとして、私に何の断りも無くこんなことをしていた、という気持ちが強いのかもしれない。
 どちらにしても、やっぱり、殊勝なことである。

「さ。答えて、クロノ君」

 答えが無いので促せば、やがて少年はええと、と前置いた。

「アリアとロッテに戦闘訓練を……あ、アリアとロッテって言うのは、僕の師匠で、」
「うん、その辺は大体聞いたよ。でも、分かってるでしょクロノ君? 私が聞いているのはそんなことじゃないよ?」
「――はい。だと思います」

 クロノ君の声が、僅かに硬くなる。
 それは多分、覚悟であって、同時に諦め。私が言おうとしている言葉は、リーゼアリアやリーゼロッテが口にした苦言は、それこそクロノ君にとっては何度も聞かされた忠告なのだろう。その結果として痛い目を見たことだって、一度や二度じゃないはずだ。にもかかわらずあんなことを繰り返しているということは、それを全部飲み込んでなおそれを選択しているということである。
 それは、ただの盲目や、思い込みなんかじゃないと思う。けど、だからこそたちが悪い。自覚のある愚行ほど、諌めるのは難しいものなのだ。

「……ねえ、クロノ君。どうしてそんなに必死になるの?」

 だから私は、代わりにその疑問をぶつけた。身体を労われだとか、無茶をするなだとかは、言っても意味が無さそうなのが明白なのでわざわざ口にするまでも無い。
 だけど、その理由だけは、なんとしてでも。私の、自分自身の言葉で問い、自分自身の耳で聞く必要があるように思われた。

「クロノ君がお父さんを目指してるのは知ってるよ。アリアとロッテの二人に聞いたし、そう言えば初めて会った時にグレアム提督もそう言ってたもんね。けど、なんで? なんでそんなに必死になってお父さんの居た場所を目指すの?」

 私は眼を閉じて、先ほどまで見ていた資料を思い出す。入学試験の結果と、それ以降の成績。後者は無理を言って担当教官にメールしてもらったものだ。面白い顔をしない教官との連絡を終え、しばらく経って届いたそれに記されていたのは、入学可能年齢をぎりぎり割り込むという低年齢ながらに既に一端の武装局員並みの技術を持つクロノ・ハラオウンという男の子の足跡だった。砲撃、誘導弾、補助、防御。何もそこまで手広くやらなくても、と思わされるほどに数多くの分野に人並みはずれた成績を残している。
 特に出来が顕著だったのは、それらを自由に組み合わせて相手と戦う自由戦闘訓練。実技試験にとんと疎い私だからこそ知らないことではあったが、士官学校アカデミー全部を対象に取る番付表ランキングに、入学して一ヶ月も経たない彼は確実にその末席に名を刻んでいた。それがどれほど異例の事態であるのか、それこそ考えるまでも無い。
 私が断言することを許されるなら、彼、クロノ・ハラオウンは既に一人前の魔道師である。それも、私よりも二つも年下であるというのに、だ。その若さでコレだけの実力を持っているのなら、二年後、つまりいまの私の年齢になる頃には、ひょっとしたら史上最年少での執務官試験に合格するかもしれない。ううん、たぶん、するだろう。根拠なんて何も無いけれど、私はなんとなくそう思う。
 クロノ君は、その年齢を考えれば不思議すぎるほどの実力を持つ少年だ。しかもそれに奢ることなく、更に高みをとを、更に上をと向上心を抱いている。自己の研鑽に予断が無く、日々の努力を欠かさない。
 だが、いや、だからこそ、

「なんで、そんなにも必死なの?」

 ……その理由が分からない。そこまで必死になって自分を高める気持ちが窺い知れない。
 クロノ君は、その問いに困ったような笑みを浮かべた。子供っぽい顔つきで、けれど子供っぽくない表情。正直に言えば、似合わない。

「僕の父は、四年前の事故で死にました」

 ぽつりと言葉が告げられる。それは知っている。私のお父さんもその事件に鉢合わせて、幸運にも、生き残った。

遺失遺産ロストロギアの暴走が原因だったそうです」
「うん、知ってるよ。私のお父さんもそれに乗り合わせたんだ」

 私の言葉に、そうでしたね、とクロノ君は呟いた。

「僕の父さんは、周りの人が言うには、とても優秀な人だったらしいです。最少年齢で提督に就任したって聞きました。そんな父さんのことは、その、正直に言えばあんまりよく覚えていないんですけど、それでも……僕の、誇りです」
「だから目指すの? お父さんのことを?」

 それは、多分真っ当な理由で、でも不釣合いな動機だ。もしそれが真実ならば、なるほど、頷けるトコロは多い。目指す人が居るならばその人と自分を比較して、自分がどれほど周囲と比べて優秀であっても、それを鼻に掛けることは無いだろう。だって基準が違うのだから。普通、基準とは自分を原点に置くものだ。けれどその場合、基準は目標、この場合ではクロノ君のお父さんに置かれている。だから自分に対する評価は常に、"自分はまだこんなにもあの人に届いていない"という減点式でしかない。その思いが積もり重なれば、うん、思想調査にあった強迫症や自傷癖という言葉も頷ける。それらはみな劣等感に後押しされているのだ。
 だから、そうなんだ。そう納得しかけた私を、けれどクロノ君の一言が引きとめた。

「――いいえ。そんなことは、別に」
「え?」

 私は声を上げる。お父さんを目指しているからではない? 嘘だ、と思い、すぐにそれを否定。覗き込んだクロノ君の瞳は、それが嘘だなんて思うほうがよほど嘘っぽいほどに真剣である。その言葉は事実なのだ、少なくとも彼にとっては。
 僕は、とクロノ君は口を開く。彼にとっての真実を、私に見せてくれる。

「別に、父さんを目標にしているわけじゃありません。まったくそうじゃない、とは言い切れませんけど、それだけが目標じゃありません」
「じゃあ、なんで?」
「父さんは、母さんを悲しませましたから」

 驚くほどに平坦な、静かな声で、まだ九歳の男の子はそう言った。

「父さんは優秀だったそうです。たくさんの事件に関わって、たくさんの悲しみを防いで、でも、母さんを悲しませました。僕は覚えてます。泣いた後を残したまま、それでも僕の為に朝ごはんを作ってくれる母さんの姿や、夜に一人で静かにお茶を飲むときの母さんの悲しそうな目を。……どんなに優秀でも、みんなに優秀って言われても、悲しみを全部止めることなんて、出来ないんです」

 だから、と少年は手を握った。その黒い、静かで深い瞳に、けれど悲しいほどの決意を滲ませながら。

「だから僕は、父さんを越えます。父さんを越えて、父さんが救えなかった人も、救って見せます。どうしても、僕がどれだけ、本当にどれだけ頑張ってもどうしても手が届かない人以外は、僕の手が届く人であるならば――その人の悲しみを、止めてあげたいんです」

 ……それは、なんて前向きで、悲しい望みだろう。
 彼は知っているのだ。どんなに訓練を積んだって、どれほどの高みに辿りついたって、いつも少なくない数の人がその手から零れ落ちるのだという事実を。変えられない現実を。それを認め、だからこそ、救えない人を一人でも減らそうとしている。救えるはずなのに救えなかった。その言葉を決して許さぬために。そのために自分を痛めつけ、少しでも高みへ、少しでも手を広げようとしているのだ。
 クロノ君、と私は彼の名を呼んだ。小柄な彼の身体を抱きしめる。

「エイミィさん――?」
「ホントはね。私、キミに言っておかないといけないことがあったんだ」

 正直に言うのなら、クロノ君のその想いに私が口を挟むことなんて出来ない。全ての人を救いたいと願っているのなら、その無理を悲しみながらも形だけの応援をしてあげることが出来ただろう。けれど彼はそうじゃない。まだ計ることはできないけれど、自分の限界と言うものが確かに存在していることを知っており、それが避けられない悲しみを産むのだということを知ってしまっている。そして彼は、きっと、その"どうしても救えない"ために引き起こした悲劇でも、自分にその責任を問うのだろう。自分の無力を嘆くのだろう。
 ……それを、少しだけ。和らげてあげられたらいいな、と思ってしまった。
 だから、私は私を嫌いになろう。

「――ありがとう。私、ずっとキミと、キミのお父さんに感謝してた」

 こんにちは、そしてさようなら、いまの私が嫌いなさっきまでの私。
 こんにちは、そして初めまして、いまの私が嫌いで、でもこれから好きになっていくだろうこれからの私。

「キミのお父さんが犠牲になってくれたおかげで、私のお父さんは助かりました」

 キミのお父さんが死んでくれたから、私はずっと幸せでした。

「……だから、ありがとう。こんなことしか言えないけど、ありがとう」

 なんて嫌な思考だろう。私は私を嫌いになる。そう、私はずっとその気持ちを抱いていた。父の艦が沈んだと聞いたその日から、多分、ずっと。誰かが犠牲になって私の父さんは助かって、だから、そう。私は、紛れも無い感謝を、犠牲になって人に向けていた。犠牲になったことを悼むでもなく、その悲劇に涙するでもなく――ただただ純粋に、自分の父親が生き残ったという事実だけだ嬉しくて、感謝したのだ。
 そんな思考をしていた自分が、本当に嫌になる。認めよう、これが私の人生で、多分二度とは無い最高にして最低の大ポカだ。
 気付かずに生きていけたなら、多分、それでも幸せだったと思う。けれど私は気付いてしまった。あの事件で犠牲が出たという事実の重さと、その犠牲で自分が幸せであるという事実の裏面に。その悲しみを踏まえ、更に酷い悲しみをいつか迎えるだろう男の子の悲しい決意に。ああ、それだけのものを見せられてどうして私だけが無関係な第三者で居られるのだろう。
 私はクロノ君の身体を離した。ぽかんとしていたクロノ君は、しかし解放されるや否や何をされたのかようやく思い当たったのか顔を真っ赤にして、初めて歳相応の反応を見せたかと思うと――そのまま、驚きの顔で私を見上げた。

「エイミィさん、泣いて――?」

 その言葉に、私はなんでもないよと答えて目じりを拭った。目が、痛い。悲しいほどに熱を持っている。
 呆然とするクロノ君を無視して、私は鞄の中からメモリデバイスを取り出した。メーラーを立ち上げ、私の指導教員へのメールを作成する。普段は優しくて、けどふざけたり遊んだりする生徒には厳しい叱責を加える女性教官の顔を頭の中に思い描き、怒られるかなぁ、とも思ったけど、ええい脅えるな私、もう決めたんだ。

「クロノ君は執務官志望、だったよね?」

 カタカタとメールを書きながら、私はクロノ君に問いかける。突然声を掛けられて驚いたらしいクロノ君は、え、と呻いたあとにこくんと頷いた。

「そうですけど、それがどうか、」
「ううん、こっちの話。っと、できたー! えい、送信!」

 ぴっ、と電子音がして、さあ覚悟完了。自分でサイコロを投げちゃいました。どんな目が出るかは分からないけれど、まあ目標値以下ならどうにかそれを目標値以上にさせるだけである。

「どうしたんですか、エイミィさん……え? これって」

 私がメーラーに残ったメールの本文を見せると、クロノ君は面食らったかのように息を飲んだ。
 だから私はにやりと笑って、クロノ君に説明してみせる。

「うん、そう。履修コース変更のお願い。オペレーター専門のつもりだったんだけど、執務官補佐コースに変更することにしましたー! うわあい、試験大変そうー! クロノ君助けてね? 特に実技」
「え、あ――そんな。どうして突然、そんな」
「そんなの決まってるじゃない、クロノ君。ダメだぞ、女心ってのは複雑なんだから。そんな決意を見せられたら、この不肖エイミィ・リミエッタ、できうる限りのお手伝いをさせてもらう所存ですってことよ」

 そして、それが私の選択。罪の意識も何も無く、ただ自分の父親の生存をのみ喜んで、少年の父親の死に感謝していた自分への罰。ううん、償い、だ。
 私はまたデバイスを鞄にしまう。そして呆然としたままのクロノ君に、初めて、自分の手を差し出した。

「改めてよろしくね、クロノ君。私はエイミィ・リミエッタ。オペレーティング専攻の、執務官補佐志望学生です」
「――よろしくお願いします、エイミィさん。クロノ・ハラオウンです。執務官を目指してます」

 私たちは出会って初めての握手を交わし、離した。

「エイミィ、でいいよクロノ君」

 柔らかにな表情を見せる男の子に、私は苦笑しながらそう言った。

「クロノ君は執務官だもんね。私にさんづけなんてしちゃダメだよ」
「え、でもそれは、」
「でも、じゃないよクロノ君。私はグレアム提督からクロノ君の面倒を見るように言われてるんだから。その私がいいって言うんだから、素直に従っておきなさい。いい?」
「……はい。分かりました、エイミィ」
「あ、ついでに敬語も禁止。丁寧語もね?」
「…………分かったよ、エイミィ」
「うん、よろしいよろしい」

 私は頷いて、立ち上がる。まだ何処と無く顔色が悪いクロノ君に手を差し出した。

「私の方が先に現場に出ると思うから、たっくさん経験積んでおくね。クロノ君はその後でゆっくりと現場に出てきて、十分に活躍してちょうだい。大丈夫、私がちゃんと補佐してあげるからね。自慢できる上司になって欲しいな」

 それは、誓いの言葉。誰にでもない、自分に対する自分の誓いだ。
 クロノ君は最初きょとんとしていたが、やがて言葉の意味を理解したのかくすぐったげに瞳を細め、その手を取った。

「こっちこそ。信頼できる部下が欲しいと思ってたんだ、エイミィ」
「お、言うじゃない、クロノ君。楽しみにしてるよ」

 そうして私たちは訓練場を後にする。
 肩を並べて、多分初めて、何気ない会話を交わしながら。





 これが、私たちの始まり。
 エイミィ・リミエッタと、クロノ・ハラオウンの馴れ初めである。





[ Fin ]