Schnee Regen



 悪い夢から醒めるかのように、八神はやてはベッドの上で跳ね起きた。

「――ッ」

 どくりどくりと、心臓が嫌な動悸を繰り返す。思わず力を込めて、胸の上からその臓器を握り締めた。パジャマが皺になり、胸に爪の食い込む鋭い痛みが走る。
 部屋の中は驚くほどに暗い。何かを求めるように、誰かに謝るために視線を巡らし、何もかもが判然としない闇の中、枕元の目覚まし時計に目が止まった。デジタルの表示が示すのは、今日が十二月の二十四日、クリスマスイブだということ。そして、まだ日付が変わって数時間も経過していないということだった。
 しかし。
 はやては、思わず慟哭の叫びを上げかけて、その代わりに自分の身体を強く強く抱きしめた。震えるな、と自分に言い聞かせる。
 泣いてしまいたい。
 叫んでしまいたい。
 みっともなく喚き散らして、誰彼構わず抱きついて、この感情を少しでも薄めてもらいたい。
 自分の胸の中に確かにこびり付くその澱をしっかりと見つめたまま、それでもはやては嗚咽を噛み殺す。冬の寒さなどに起因しない身体の震えを最小限に押さえつけ、毀れそうな涙は目をきつく瞑って押さえつける。
 何故ならば。

(それは、あかん)

 確りと、そう思うのだ。

(そんなことは、絶対に、したらあかん)

 決して少なくはない、思うことがあって。
 誰にも明かしたくはない、明かしてはいけないそれらは、きっと、自分の中で決着をつけなければいけないもので。
 考えれば、胸が軋むことではあるけれど。
 それこそが自分にとっての戒めで、悔恨で、何より大事な思い出で。
 だから。

(誰にも、知られたらあかん)

 例えその相手が、仲の良いあの四人であったとしても。
 例えその相手が、何かとこちらのことを気遣って手を廻してくれる、提督まであと一歩という執務官であったとしても。
 例えその相手が、

「……ん……はやて……?」
「あ――ごめんな、ヴィータ。起こしてもうて」

 不意に横でもぞりと動いた気配に、はやては申し訳なさそうな声で答えた。
 気配の相手、同じベッドで寝ている赤髪の少女は寝転んだまま、眠そうな眼でこちらを見上げてくる。

「あれ……はやて、いまなんじ……?」
「まだ夜中やよ。ちょう眼が覚めてもうただけやから、気にせんといて、はよう寝た方がええよ。ヴィータ、明日もお仕事さんやろ?」
「うん……そうだね、はやて。おやすみな……」

 のっぺりとした物言いが終わるかどうかといった辺りから、小さな寝息が聞こえ始める。ほ、とはやては思わず安堵の息を吐いた。ヴィータは寝ぼけていたようだし、この暗さだ。こちらの顔など、満足に見ることも出来なかっただろう。だから安心だ。こんな顔を、鏡を見るまでもない、こんな青ざめて血の気が引いた顔を、護らねばならないこの子達に見せることなんて出来る筈が無い。
 ……そう。
 例え、その相手が、家族――そう読んでも何も構うことの無い、大事な大事なこの子たちであったとしても。
 はやては胸の動悸が納まるのを待って、ベッドサイドの窓を覆うカーテンを少しだけ開いた。外の夜光が照らし出した自分の指の色白さに思わず息を飲みかけたが、窓の外に覗いた風景がより大きな驚きとなって呼吸を止めさせた。

「道理で、寒い訳や」

 夜闇の世界に、白い欠片が舞っている。
 ちらちらと。
 ひらひらと。
 深々と。
 淡々と。
 音も無く、少しずつ、けれど世界を白に染めていく。
 あぁ、とはやては息を吐いた。動悸が納まり、代わりに胸の痛みがぶり返す。ちくり、とも、ずくり、とも着かぬ鈍く重い痛み。決して忘れてはいけない棘の形。三年前に刻まれて、抜くことは出来ただろうけれど、頑なにそれを拒んだ意思の表れ。
 普段は、思い出すことすら許されないのだろうけれど。
 だから、だったなら、せめてこの季節、この日だけはこの痛みを忘れてはいけないと思うのだ。
 胸に手を置いたまま外を眺めていたはやては、不意に隣で寝返りを打つ気配を感じた。見れば、ヴィータが布団を抱きしめるように背中を丸めている。隣で自分が身体を起こしたままで居るのだ。このままではろくに暖も取れないのだろう。
 そう感じたはやては小さく微笑み、カーテンを閉じてベッドに寝転んだ。寝る前につけておいた暖房は、当然タイマーが切れて稼動を止めている。もう一度つけようかとも思ったけれど、布団の中に残った暖かさは冬の夜気を気にせずとも済むものだった。

「おやすみな、ヴィータ」

 囁いて、はやては隣で眠りこける少女の身体を抱きしめた。ん、とヴィータが身じろぎするが、眼を覚ます気配は無い。そのことに安心し、はやてはゆっくりと眼を閉じた。自分が使っているのと同じシャンプーの香りがするヴィータの髪に顔を埋め、眠りという名の薄い闇を求める。
 随分疲れていたらしい。
 はやての意識は、あっという間に深い深い闇の底へと落ちていった。



 正直に言うのなら、いまでも偶に夢に見る。
 それは、間違いなくその季節であるこの時節に多く、その夢を見た次の日は、どんなに頑張っても巧く笑うことが出来ないのだ。
 無理やろうなぁ、とは思うけれど、それでも、誰にも気づいていて欲しくは無いと思う。
 だって、自分の周りには、あまりに心優しすぎるおせっかいさんが多すぎるのだ。傷ついたとき、転んだとき、手を貸してくれるときもあるけれど、本当に、本当に心から一人にしておいて欲しいと願うとき、言葉を掛けることも無く、手を伸ばしてくることも無く、ただただ一歩離れた所で微笑んでくれて、立ち上がる勇気が沸いたとき、泣き止む決意を持ったとき、優しく隣に並んでくれる友達が何人も居るのだ。
 それは本当に嬉しいことで、幸せなことで、だからこそ、そんな彼女たちに心配を掛けたくないと思う。
 なにせこれは、その夢は、この棘は、自分ひとりのものなのだ。自分だけで決着をつけねばならず、誰か他人に、例えそれが決して無関係と居えないヴォルケンリッターのみんなであったとしても、出来うるのなら、そっとしておいて欲しい。あの子たちはみんな、涙が出るほど心優しい子たちだから、決して私を放っていてはくれないけれど、それでも。

 この痛みだけは、自分のものだと思うのだ。



 十二月二十四日、朝。
 夜の間振り続けた雪は弱くではありながらも未だに止むことは無く、空にはその源である分厚い鉛色の空が広がっていた。天気予報が告げるところによると、この雪は強くはならないが長く続くらしく、今日と明日に限って言うのならば、まず止むことはないらしい。それが吉報なのか悲報なのかは、それこそ個人に拠るだろう。

「では、行って参ります、我が主」
「うん。気をつけてなー」

 順々に家を出て行ったヴォルケンリッターの面々のうち、今日は一番を遅く家を出ることになったシグナムを玄関まで見送る。コートとマフラーを身に着けたシグナムは微笑みながら一礼し、ドアを潜ろうとする。その腕がノブを掴んで押し開き、生まれた隙間から冷たい風が玄関に吹き込んだ。
 不意の冷気にはやては思わず身体を竦め、あ、とその確認を思い出した。先に家を出ているヴィータとそれに同行したザフィーラ、それとは少し遅れて出発したシャマルにそれぞれ告げた連絡事項を、いま一度思い出す。

「昨日もゆうたけど、シグナム。今日は夕方から翠屋さんでパーティーやからね。遅れたらあかんよ?」
「心得ています。五時からだと思いましたが、良かったでしょうか?」
「うん、そうやよ。その時間に、現地集合。一応皆にも言ってあるけど、シグナムはみんなのリーダーやからちゃんと声を掛けてあげてな」
「了解しました。テスタロッサにも言付けておきます」
「あ――そっか、今日はシグナム、フェイトちゃんと行動が一緒なんやね」
「はい」
「せやったら、ついでにクロノ君も誘って来てな。最近、クロノ君忙しいみたいやし。たまには息抜きも必要や」
「そういうことでしたら、是が非にでも」

 そんな台詞を、冗談とも本気とも着かぬ調子で口にするシグナム。
 苦笑して、そんならそうしてな、とはやてはシグナムを送り出す。ポニーテールの後姿が見えなくなるまで見送ってしまうと、家の中が急に広くなってしまったように感じられた。

「さて、と」

 わざわざ声に出し、はやてはリビングへと自分の足で歩いて戻った。闇の書事件から早三年。少なからず動くようになった足を更に使いこなすために必要だったリハビリ生活が一区切りを見せたのはこの冬の初めの話だ。それまででも魔力で補助をするならばとりわけ不便の無かった足を、魔力の補助無しに、つまり学校や商店街といったこちらの世界、魔法を知らぬ世界での日常生活を満喫するためにリハビリを続け、まだ普通の生活を送るには億劫な箇所があるにはあるけれど、それでも「日常生活」という単語で括られる範囲での行動なら魔力を必要としない程度には足の機能が回復している。言うまでも無いことかもしれないが、その回復を一番喜んでくれたのは、八神はやての大切な家族、ヴォルケンリッターの面々である。
 綺麗に片付けのなされたテーブルを見て、うーん、とはやては小さく唸った。朝食に使った食器は管理局に向かうまでの短い時間でシャマルが全部片付けてしまっているし、最近はやけに手伝いを申し出てくるヴィータのおかげで洗濯機も既にお仕事中だ。部屋の掃除は昨日してしまったばかりである。今すぐに片付けてしまわねばならぬ仕事、というものが見つからない。
 はやては眉を顰める。家の中に誰も居らず、且つやるべきことが何も無いという状況は久しぶりだった。本分であるはずの学校は数日前から冬休みに入っているし、何時もは何らかの用事で出向くことになる管理局でのお勤めも今日は休み(オフ)だ。
 はやてはソファに腰を下ろして自分の胸元に視線を下ろす。普段ならそこにあるはずの剣十字のペンダントが、今は無い。闇の書事件――数だけでものを言うのなら、その規模の割りにごくごく小さな、ほとんど無視しても問題がなさそうな程度の被害で終わったその事件。それが終わったときに手に残ったあの子の証。残してくれたもの。空っぽの、魔導の器。その日以来、一日として身に着けることを欠かしたことの無いそのペンダントは、先日から管理局のメンテナンスセンターに預けたままなのだ。そのせいで、胸元が妙に心もとなく感じてしまう。まるでブラジャーを付け忘れているみたい。
 どれだけ弄っても空を切るだけの胸元に、はやては小さなため息をついた。理由なんて、それこそ考えるまでもない。家族の不在。局に預けたままのペンダント。昨夜見た夢。胸に残った、残っていた消えない後悔がぷかりと意識の海に顔を出している。

「あかんなぁ」

 ぼやいても、一旦頭角を現した後悔はそう簡単に消えてはくれない。目元を拭えば、いつの間にか毀れていた涙が指を湿らせた。
 ……今でも。いいや、今だからこそ。
 その思いは、その仮定は、後悔という仮面を被ってこの胸を埋め屈すのだ。



 シグナムがそのマンションの入り口前に到着すると、まるでそれに合わせたかのように背後から足音が聞こえて来た。軽やかに一定のペースを維持する駆け足。それに付随するのは二つの気配だ。それらの気配の片方はひどく特徴的で、故にシグナムはさほどの驚きも無く背後を振り返った。
 しかし、彼女が覚えた予感は半分正しく、もう半分は間違いだった。まず見えたのは、四本足の小さな赤い獣である。それはいい。この獣の――正確には使い魔の気配は、人間のそれとも、勿論、プログラムである自分たちのそれとも異なる。だから、この獣は、アルフの存在は予想のうち。予想外だったのは、その使い魔の首輪に繋がるリードを手にした女性の姿である。てっきりアルフの飼い主、もとい主である金髪の少女がリードの端を手にしていると思ったのだが、予想に反して、アルフのリードを握っていたのは栗色の髪をした女性だった。
 こちらの小さな驚きに気付いたかどうか、その女性は足を止める。白い息を吐き、大きな呼吸を何度か繰り返した。どうやらアルフと一緒にこの近所を軽く走ってきたらしい。

「おはよう、シグナム。どうしたの、こんな時間に」
「おはようございます、リミエッタ執務官補佐。今日はテスタロッサと同じ所に出向なので、昨日、テスタロッサの方から一緒に行きませんかと連絡が」
「あー、そういえばフェイトちゃん言ってたなぁ、そんなコト。ま、いいや。どうせまだ時間あるでしょ? 真面目な二人のことだもんねー。ほら、上がって上がって」
「は、ですが」
「いいからいいから。ほら、アルフも手伝って」

 にこにこ顔のエイミィと、なにやら身体を押し付けてくるアルフに促されるままにシグナムはマンションのドアを潜った。セキュリティはエイミィが手持ちのキーで解除したらしい。
 ホールを抜けて、エレベーターに乗り、廊下に出る。エイミィとアルフが先に歩き出し、ここまで来て拒むのも失礼かと諦めて、シグナムもフェイトの、ハラオウン家が借りている部屋へと向かって歩き出した。来るのが初めてという訳でもないので、迷うことなくそのドアの前に辿り着く。

「そう言えば、リミエッタ執務官補佐。昨夜はテスタロッサの所に?」
「うん、そうだよー」

 自前の鍵でドアを開けるエイミィに、シグナムは思い出したかのようにそう問うた。
 エイミィはドアノブに手を掛け、はて、と首を傾げた。

「変かな?」
「いえ、そういう訳では。ですが、最近はエイミィが顔を見せないとテスタロッサから聞いていましたから」
「ああ、そういうコトね。うーん、まぁ、最近は確かにちょっとご無沙汰してたかなぁ」
「何故?」
「フェイトちゃんの執務官試験も近いからあんまり邪魔しちゃうのもあれだし、それに、まぁ、なんだ。そろそろそう無邪気に泊り込むのも許されないかなー、なんて、ね」

 苦笑しながら答えるエイミィ。
 シグナムはその意味を考え、直ぐに答えに至った。

「世間体ですか」
「端的に言うと、ね。そろそろやっかみが強くなってきたのですよ。クロノ君もそういうのを少し意識するようになってきたし、あんまりあけすけなのもねー、と」
「なるほど。では、何故昨夜は?」
「それは――まぁ、見てのお楽しみ、ってコトで」
「リミエッタ執務官補佐?」

 答えをはぐらかして部屋の中に入っていったエイミィに続き、疑問を残したままシグナムも部屋の中に入る。鼻腔を擽ったのは焼けたトーストのにおいだ。耳にはフライパンが油を弾く音が届き、それに乗るように着けっぱなしにされているのだろうテレビが垂れ流す朝のニュースが聞こえていた。

「ただいま戻りましたー」
「ただいまー」

 エイミィとアルフが口々に言い、アルフは玄関口で人間の姿にその外見を変化させた。そんな一人と一匹に引き続き、彼女はお邪魔しますと告げてハラオウン家の中に入る。廊下を抜けて奥のリビングへ。キッチンの方に顔を向けると、エプロンを身に着けたリンディが朝食の準備をしていた。
 反射的にシグナムは頭を下げる。

「申し訳ありません。朝早くからお邪魔させて頂いています」
「いいわよ、気にしないで、シグナムさん。それから、おはよう」
「おはようございます、リンディ提督」

 改めて挨拶を告げると、リンディは小さな苦笑を浮かべた。

「ごめんなさいね、シグナムさん。うちの子、まだ二人とも寝てるの」
「は? い、いえ、お気になさらず」
「リンディ提督、二人ともまだ起きてないんですか?」

 驚いたように、或いは呆れたようにそう言ったのは、洗面所の方に引っ込んでいたエイミィだ。廊下に顔だけ出してそう問うて来る彼女に、リンディは苦笑しながら肩をすくめて見せた。

「ええ、二人ともまだ夢の中よ。日頃のことを考えればもう少し寝かせてあげたいけれど、そろそろ時間的に厳しいでしょうね。エイミィ、シャワーを浴びたらフェイトを起こしてあげてくれる?」
「はーい、わっかりましたー」
「シグナムさんには、クロノを起こしてもらおうかしら」
「了解しました。ハラオウン執務官の部屋は、どちらに?」

 シグナムの問いに、リンディは苦笑のまま手にした菜箸でリビングのソファを指差した。首を傾げながらそちらに顔を向ければ、ソファの背もたれの影、此処からでは少々見えにくい所に、厚手の毛布に包まって眠る少年の姿があった。寒かったのか、肩口まで毛布を手繰り上げている。静かに寝息を立てるその顔は年相応のそれなのだが、ソファの端で今にも落ちそうな所をかろうじて耐えているふうにしか見えないその姿は、普段の彼を知る物ならば失笑を禁じえないものだった。尤も、その失笑はどちらかといえば微笑みに近いのだろうが。
 シグナムはソファに近づき、眠りこけるクロノの肩を揺さぶった。幾ら熟睡しているとはいえ、緊急出動も少なくない時空管理局執務官である。その肩書きは伊達では無く、直ぐに反応が現れて、

「あ、ちょっと待ってシグナムさん」

 リンディの言葉を受け、シグナムはクロノを揺さぶる手を止めた。そちらを見れば、菜箸を置いたリンディがエプロンの裾で手を拭きながらこちらへと小走りで駆け寄ってくるのが見える。
 ソファへと辿り着いたリンディは笑顔のまま自分の息子の寝顔を覗き込み、おもむろにエプロンのポケットから携帯電話を取り出した。
 ぱしゃり、と音がする。

「ありがとう、シグナムさん。もう起こしていいわよ」
「は、はぁ。分かりました」

 何が起こったのか、もとい、何をしたのか深くは考えないようにして、シグナムは今一度クロノの身体を揺さぶった。二度三度と繰り返すと、うっすらとではあるものの、クロノが瞳を開く。

「……?」

 流石に寝起きは意識も鈍いのか、クロノはぼんやりとした顔でこちらを見上げてくる。が、それも数秒のことだ。黒い瞳には直ぐに理性の光が灯り、その口からは、え、と疑問とも驚きとも着かぬ声が上がった。

「シグナム? どうしてこんな所に?」
「今日はテスタロッサに一緒に行こうと誘われていましたから」

 端的に返すが、どうやらそれで十分だったらしい。なるほど、と呟いたクロノはソファの上で身体を起こし背筋を伸ばす。毛布の下から現れたのは、少年の防護服(バリアジャケット)をより簡素にしたような寝巻きだった。黒一色、というのがいかにもこの少年らしい。
 不意にシグナムは、クロノの瞳の下に残る隈に気付いた。そう濃いものではないが、見逃せられるほど浅いものでもない。改めて観察すれば、クロノの様子は寝起きと呼ぶには不自然なほどに疲労感を纏っている。あまり寝ていないのだろう。それが分かったからこそ、シグナムは世辞ではない労いの言葉を掛けた。

「お疲れのようですね、ハラオウン執務官」
「そうでもない……とはちょっと言えないかな。あんまり寝ていないんだ」

 苦笑するように言うクロノ。
 シグナムはそうですか、と慇懃に頷いた。

「どうか身体を大事にしてください。貴方が倒れになると、何かと悲しむ人が多い」
「そうも言っていられないよ。重要な時期だからね……っと」

 小さく声を上げてクロノは立ち上がった。不自然な姿勢で寝ていたのが祟っているのか、肩を鳴らして洗面台の方へと向かって歩き出す。歩みはゆっくりだが、それでも倒れそうな気配を見せるほど足取りがおぼつかない訳でもない。
 故にシグナムはクロノの背中を見送り、

「ところでシグナムさん」

 横手から掛かった呑気な声に反応した。

「いま洗面所でエイミィが着替えていると思うんだけど」
「――あ」

 思わず声が上がったが、色々と遅いようだった。
 ふらふらとした足取りのクロノはごく自然に洗面所のドアを開け、そして。

「……ちょ――ってうわうあうきゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?」

 全ての眠気を吹き飛ばすかのような悲鳴が、何かを張り飛ばす音と一緒になってハラオウン家のリビングを震わせた。



 向かって右側の頬が綺麗に赤く腫れていた。
 目下のところ最年少での提督昇進を果たすのではないかと噂される歳若い執務官は、そんな下馬評からは想像もつかない歳相応の不機嫌そうな顔で食後のコーヒーを啜る。その理由は考えるまでも無く頬についた赤い手形なのだが、その原因に関しては本人も自分に少なくない非があることを承知しているのか、特に文句を口にしたりはしない。だがそれでも思う所はあるのだろう、不機嫌そうな、と言うか、不貞腐れたような表情は崩れない。
 そんなクロノに、手形の主であるエイミィが気まずそうに笑いながら声を掛けた。

「あ、あは、あはははは……クロノ君、大丈夫? ごめんねー、手加減できなくて」
「気にしないでくれ。非は僕にある」
「意外と抜けてるからね、私のお兄ちゃんは」

 二人に口を挟んだのは、クロノと同じように食後のコーヒーを嗜んでいるフェイトだ。
 ミルクと砂糖(シュガー)をたっぷりと入れた甘そうなそれをちびりびちりと口にしながら、くすくすと彼女は笑う。

「そう思いませんか? シグナム」
「……私に話を振るな」

 ただ待たせるのも失礼だから、とリンディに押し付けられたコーヒーの入ったマグカップを両手で持ちながら、シグナムはフェイトの言葉に顔を顰める。答えられないのだ。普段の振る舞いはともあれ、こうして素の姿を見せられてしまうと。
 シグナムの言葉にしない返事を正確に汲み取ったのだろう、フェイトは、ごめんなさい、と笑いながら謝った。
 はぁ、とシグナムは息を吐く。時計に視線をやり、残り少なかったマグカップの中のコーヒーを飲み干した。

「そろそろ時間だぞ、テスタロッサ。急げ」
「あ、そうですね」

 時計を見て頷いたフェイトは、カップの中に並々と残っていたミルクコーヒーを一口で飲み干してしまう。それを見て、そのコーヒーにどれだけの砂糖が入れられていたかを思い出したシグナムは思わず胸焼けのようなものを感じてしまうが、フェイトは特にこれと言って感想のようなものを見せなければ、顔色を変えた訳でもなかった。この少女がハラオウン家の子となって三年が経つが、どうやらその月日はこの少女の嗜好に大分方向性をつけてしまったらしい。口を挟もうとは思わないが。

「じゃあ、行ってきますね、母さん。お兄ちゃん」
「ええ、行ってらっしゃい」
「気をつけてくれ」
「また後でねー」

 口々の見送りを受け、フェイトは傍らの小さな鞄を手に取ってリビングを出た。シグナムもそれに続き、右手側にある手前の部屋の中へと入る。一見何の変哲も無い部屋だが、ドアを閉めてしまえば固定式の移送装置(ポータル)が姿を現した。
 手のひらサイズの操作卓(コンソール)を扱うフェイトの後姿を眺めながら、シグナムはその背中に声を掛ける。

「テスタロッサ。その鞄の中身は何だ?」
「執務官試験対策の参考書です。試験が近くて」

 ぽん、と最後の操作を終えたフェイトがこちらを向きながらそう答える。その顔には小さな苦笑が浮かんでいた。

「なるほど。言われてみれば、武装隊の隊員の中にも試験に備えて準備をしている者が居たな」
「試験日、ある程度重なってますから。局全体を見ても、結構、なんだかんだで試験を受ける人は多いと思いますよ。なのはも受けるって言ってましたから」
「高町が?」
「はい。教導官補佐の資格試験らしいです。教導官資格を取るためには必要なんだとか」

 教導隊――武装隊員に自らが持つ戦闘技術(スキル)を教え、導く存在。シグナムが所属する武装隊にしてみれば、雲の上のようなものではあるが、あの白い砲撃魔導師がそれを志しているということは、少女に親しい者ならば誰もが知っていることである。誰もがそれを知っており、同時に、そのことをあざ笑うでもなく素直に応援しているという事実は、高町なのはという少女がどれほど周囲の者に親しまれているのかということを物語っているだろう。
 なるほどな、と頷くシグナム。と、こちらから視線を外さぬフェイトに疑問を覚え、どうした、と問うた。

「私の顔に何かついているか?」
「いえ、そういう訳じゃ……でも、その。何かありましたか?」
「――ふむ。何故そう思う?」

 いきなりと言えばいきなりで、しかし紛れも無く核心を突いてくる少女に、シグナムは苦笑を浮かべないように努めながら聞き返した。腕を組み、伺うように視線を向ければ、フェイトは困ったように微笑む。

「何故、って聞かれても困りますけど。その、シグナム、何か考えごとがあるみたいですから」
「考え事、か。……参ったな。これでも、一応隠していたつもりなんだが」

 自然に口から漏れた言葉は、フェイトの疑問を肯定するものだった。それを素直に認めたという事実にシグナム自身が小さな驚きを覚える。確かに、それほど、特にこの少女に対しては隠そうと思っていた訳ではないが、それでもその隠しごとの内容は身内に関することである。軽々しく吹聴するわけにはいかない。
 なのに何故、こうも簡単に。シグナムは自身に問い、ああ、と直ぐに納得の行く答えを得た。簡単な話だ。つまり、

「隠しても分かりますよ」

 はにかむように言うフェイトは、照れくさいのか、その頬を若干赤く染めている。

「もうシグナムともそれなりに長いじゃないですか。そのくらい、分かります」

 つまり、そういうことだ。
 自分は、ヴォルケンリッター烈火の将、シグナムは、いつの間にか、思いのほかにこのフェイト・T・ハラオウンという少女のことを信頼するようになっていたらしい。
 シグナムは、そんな自分に苦笑する。随分と変わったものだ、と胸の中で呟いた。かつて、あまりに長い時間を闇の書と共に流転し続けたあの日々がまるで他人の記憶のように感じられてしまう。あの当時、信じられるもの、信頼できるものはといえば、同じ主と闇の書を護る騎士であるヴォルケンリッターズの面々を除けば、主と、闇の書の管制プログラム、そして己の魔剣(デバイス)であるレヴァンティンだけだったのだ。それを不満に感じたことなど無かったし、むしろ、それだけあれば十分だという思いさえあった。
 それが、いまはどうだろう。
 考えれば、直ぐに思い浮かぶ名前が幾つもある。そして、それらの幾許かは、戦いの場で背中を預けてもよいと思える相手だ。
 例えば高町なのは。硬い装甲と、強力な射撃を誇る砲撃魔術師。
 例えばフェイト・T・ハラオウン。高い機動性と、研ぎ澄ました鋭い一撃を誇る高機動魔術師。
 例えばクロノ・ハラオウン。万能故の決め手の無さを、万能故の手広さで補うことに長けた戦術魔術師。
 そのような相手を望んだことが、かつてあっただろうか。いいや、望もうとしたことすらあったであろうか。
 勿論、答えは考えるまでも無く否定(ナイン)だけど。
 それでも、いいや、だからこそ、そんな彼彼女らが居るという事実が、居てくれるという現実が、ひどく、嬉しいのだ。
 成る程な、とシグナムは呟いた。

「テスタロッサになら話しても問題はなさそうだ」
「そうですよ。私、口は堅いほうですから」
「その言葉、信じるとするぞ」

 苦笑を浮かべ、言葉を一旦そこで切り。
 改めて、シグナムは言葉を切り出した。

「実は、我が主が少々、気を落とされていてな」
「はやてが?」
「ああ」
「そんな、なんで――あ」

 心配そうに質問を重ねてくるフェイトだが、直ぐにその理由に至ったらしい。
 シグナムはフェイトが手にした解答を確かめる必要も感じず、ただ、頷いた。

「そう、闇の書の意思――リインフォースのことだ。昔に比べれば随分とその回数も減ったが、この時期になるとどうしても、な」
「丁度三年前になりますからね……リインフォースさんが、空に還ってから」
「そういうことだ。しかも、今年はあの時のような雪も降っている。主はやてがリインフォースのことを思い出すのも、仕方がないことではあるのだが」
「でもはやて、普段はそんなそぶりも見せないのに。魔導師としての実力だって、ぐんぐんと伸びてますし」
「だから、というのもあるのだろうな。なんと言っても我が主は、心のお強い方だ。それはテスタロッサ、おまえも承知していることだろう?」

 シグナムの確認に、フェイトは小さく頷いた。

「我が主の魔導適正は、夜天の魔導書が転生先に選んだだけあって、人並み外れたものがある。それに加え、主はやて本人の素質も十分過ぎるほどだ。この三年間、ハラオウン執務官のご好意で主はやてから離れることなくその成長を見守らせて貰ったが、我が主の魔導師としての成長は、私たちヴォルケンリッターからしても驚くに十分で、それ以上に誇らしいものだった。もちろん、管制人格が残した技術(スキル)のおかげというのも多くあっただろうが、だが、それを差し引いても我が主、八神はやては、酷く稀有な才能を持つ魔導師だ。それについてはテスタロッサ、おまえも異論が無いだろう?」
「はい。正直に言わせて貰うと、私とはやてが一対一で戦ったら、大分苦戦すると思います。広域支援型魔導師相手なら、私みたいな近接戦闘型魔導師の方が有利な筈なんですけど」
「だろうな。私が主と刃を交えるなどということは訓練以外ではあり得ないが、それでも、同感だ。主はやてはそれだけ優秀な魔導騎士であるのは確かなのだが――いや、だからこそ、思い悩むことも多いのだろう」

 そこで一旦言葉を切り、シグナムはフェイトの顔を伺った。痛ましい顔をするフェイトは、真剣に、心からはやてのことを案じているようだ。
 問うべきか、と迷い、問おう、と決めた。おそらくそれは、フェイトか、或いは、

「ハラオウン執務官になら、問う意味もあるか」
「何がです?」
「つまらんことだ。そして、非礼を先に詫びておく。すまないな、テスタロッサ」
「え?」

 きょとんと首を傾げるフェイト。
 シグナムは苦笑して、問いを投げかけた。

「これから失礼なことを問う。答えたくなければ、答えてくれなくても構わない」
「シグナム?」
「テスタロッサ。いまのおまえは強い、優秀な魔導師だ。だが、」

 それは、きっと。

「だが、何時か。何時か、かつての日に、いまの自分と同じだけの力を持つ自分が居たのなら」

 誰もが、少なからず胸に抱くことではあろうけれど。

「そう考えたことは無いか?」
「――」

 シグナムの静かな問いかけに、フェイトは無言を返した。その顔に、痛ましいような、張り詰めたような何かが浮かび、消える。シグナムとて知らない訳では無い。闇の書事件より半年ほど早く起こった、古代遺産(ロストロギア)を巡る一連の事件。俗にPT事件と呼ばれるそれの内容と顛末は、以前、その当事者であるフェイト自身の口から聞かせられた。本来ならばこの問いは、この少女には、実の母親に代替物として用意されてしまっていたこの少女には、決して問うてはならなものだろう。
 だが、それでも敢えて、シグナムはフェイトに問うた。それは、結局のところシグナムのフェイトに対する信頼故である。この少女は、自らのそれを、目を覆いたくなるようなその事件をしっかりと見据え、立ち直っているのだという思い故だ。勿論それは、この少女が生まれ持った素直さの故でもあるのだろうが、それほどの過去を持ちながらも誰からも愛されるほど愛らしく素直に、真っ直ぐに育っているこの少女に対して、シグナムは尊敬の念を抱いている。
 ややあって、そうですね、と頷いたフェイトが浮かべていた微笑みは、シグナムの良く知る、幼くも優秀な魔導師のものだった。

「考えたことはあります。それも、割と」
「そうか。……すまんな、テスタロッサ」
「気にしないでください。けれど、それじゃあ」
「ああ。我が主はそう思われている。三年前の自分に、いまの自分と同じだけの力があったなら、あの子を――リインフォースを空に還す必要もなかったのではないか、とな」

 それは、丁度三年前の冬。
 自分たちヴォルケンリッターが新たな主、八神はやての下で具現化し、奇妙な共同生活を営み始めたあの日。それから色々とあって、自分たちがはやてと出会ったおよそ半年後の冬に、永い永い時間を渡り歩いてきた闇の書、夜天の魔導書は自ら空に返ることを望んだ。てっきりそれに同行するものだと考えていた自分たちは、しかし、あの子の――リインフォースという新たな名を授かった管制人格のおかげで、こうして、はやてと共に時を過ごすことを許されている。それは本当に、考えることすら出来なかった幸せで、だからこそ。
 あの雪の日、一人空に返ったリインフォースに対する想いが、胸の中に残っている。
 シグナムにとって、それは後悔とは呼べないものだ。リインフォースが居なくなったことは、夜天の魔導書の、そして彼女自身を護る騎士であった自分にとって、確かに胸が痛むものであった。リインフォースが歩んだ時間は、そのまま自分たちが歩んだ時間に等しい。その孤独、その悲しみとて同様だ。いや、夜天の魔導書が闇の書となったあとでは、リインフォースが胸に溜めた悲しみは、自分たちのそれよりもよほど色濃く、深いものだったのだろうと思う。
 しかし、それを今世の主は、八神はやてという少女は、そんなリインフォースを救ってみせた。呪われた名を捨てさせ、祝福された新たな名を与えた。それは、彼女にとってどれだけの幸福だったのだろう。ただ破壊のみを許された、長すぎた安寧の時間。それに終止符を打った少女に対する感謝は、いったい、どれだけのものだったのだろう。
 ……そんなもの。考えるまでもない。
 リインフォースは、その感謝を、自らの破壊という形で主へと返したのだ。破壊された防衛プログラムが修復されてしまうより早く、自分を、いずれまた暴走し、八神はやてを喰らい尽くすだろう自分を、そうなる前に破壊するという形で阻止し、それによってはやてを護ったのだ。
 その選択を、誰かは嘆き、誰かは憐れみ、誰かは苦々しくも妥当と受け入れたが――シグナムにしてみれば、それは、決して否定の出来ぬ、リインフォースの救済だったように思う。確認を取ったことこそ無いが、他の者たち、ヴォルケンリッターの面々は皆、同じ感想を抱いているだろう。
 自分たちヴォルケンリッターはそもそも夜天の魔導書の、リインフォースの一部であり、その人格は、一部で精神的なリンクを構築していたのだ。故に、完全ではないし、そもそも権限的に上位に位置する管制人格のそれを全て知るということは不可能ではあるのだが、管制人格がそう望んだとき、そして特に必要としなかったときは、完成人格の感情を読み取ることも叶わなくなかった。淡々と進む儀式呪文を止めるためにその場を訪れたはやてに、自らの選択を諭すリインフォースから伝わって来ていた感情は、紛れも無い感謝の気持ち。綺麗な名前を頂きました。その言葉にどれほどの重みと、どれほどの幸福が含まれていたのか。それを知る者は、自分たち以外には、

「……いや」

 はやてなら。夜天の王、八神はやてであるのなら。リインフォースの感情を全て汲み取り、その上で、彼女を引き止めていたのかも知れない。
 だが、仮にそうであったとしても。

「全ては仮定の話だ。考えても栓が無い。それに、たとえ」
「はやてがそのとき、今と同じだけの力を持っていたとしても。リインフォースさんは自分を破壊することを進言してきたと思います」

 シグナムの言葉を、フェイトが推測という形で、しかし正確に辿り上げた。
 故に、ああ、とシグナムはその言葉を肯定した。

「私も同意見だ。……他に、リインフォースを救う方法など無いからな」

 それは、紛れも無い事実。
 その選択は、限りなく最悪に近くはあったけれど、それでもリインフォースにとっては最上に等しい結末だったのだ。
 そうである、筈なのに。

「我が主は、未だにそのことを悔やんでいる。あれを救うことは出来なかったのか、とな」
「……はやては、優しい子だから。でも、」
「ああ。何時までもそのことを悔やんでいるのは、あまりよくないことだ。我が主の心遣いには痛みいるが、それでも、悔やみ続けられては我々としても居た堪れない」

 それに。

管制人格(あの子)は、微笑んで空に還って行ったのだ。そんなあの子が、いまの主を見て納得するとも思えん。私は、リインフォースが浮かべた微笑に嘘はなかったのだと思いたい」
「……やっぱり、シグナムもちゃんとはやての家族なんですね」

 不意に口調を和らげたフェイトは、柔らかな微笑を浮かべてそんなことを口にした。
 シグナムはそんなフェイトに微かな狼狽を覚える。フェイトの言葉が、あまりに唐突だったからだ。

「どうした、テスタロッサ。いきなりにも程があるぞ」
「ごめんなさい。でも、思ったんです。シグナムも、やっぱりはやての家族で、とても優しいんだな、って」

 遠くを見るような、そんな優しさに溢れた瞳でフェイトは告げる。

「でも、きっと大丈夫ですよ。はやてなら」
「それに関しては私も異存はない。だが、」
「はい。はやては、ずっとリインフォースさんのことを忘れないと思うけど、でも、きっとその悲しみは、今日から微笑みに変わりますよ」
「――何?」

 フェイトの不思議な物言いに、シグナムは眉を顰めて問いを返した。
 しかしフェイトは苦笑するように微笑むだけで、その問いには答えようとしない。ただ、歌うように言葉を紡いだ。

「はやても、きっと分かってると思うんです。自分の後悔が意味の無いもので、どれだけ願ったって過去は変わらなくて、けれど、その悲しい思い出の先に、幸せないまがあって。だから、その過去を悔やむことは結局いまの自分を否定することで、それと一緒に、同じように幸せな周りの皆の時間を否定してしまうことなんだ、っていうことぐらい」

 だから、とフェイトは微笑む。

「必要なのは、切っ掛けだと思います。もう悩んでる暇なんて無い、もう悔やんでる暇なんて無い、って考えられるだけの、切っ掛け」
「そんなものがあれば、とっくに主はやては立ち直っているだろう」

 そんな切っ掛けが無いからこそ、はやては未だ心引かれるものを残してしまっているのだ。
 シグナムの胸中のぼやきが聞こえたのかどうか、フェイトはそれでも微笑んでいた。

「大丈夫ですよ。はやてが悲しむのは、今日で終わりです」
「何を根拠にそう言う?」
「だって、今日はクリスマス・イブじゃないですか」

 にこり、と金髪の少女は笑顔を見せた。

「きっと、素敵な、寝不足のサンタさんたちが、自分の睡眠時間を切り詰めてまでこの日に間に合わせたプレゼントを運んでくれますよ」



 流石に二時間だけの睡眠時間では色々と足りなかったのか、薄く引き延ばしたかのようにしぶとく残っていた眠気が意識から完全に消えてくれたのは、そろそろ午前十時になろうかという頃合だった。既に朝と呼ぶような時間ではない。そろそろ昼と呼んでも問題はなさそうだが、窓の外に除く空は未だに分厚い雪雲だ。ちらちらと舞い続ける白い雪は、まだしばらく降り続けるらしい。
 リビングでテレビのニュースを流し見していたクロノは、自分の中の眠気が完全に消えたことを確認し、改めて大きく背筋を伸ばした。ぼきぼきと嫌な音がする。流石にリビングのソファでは満足に身体を休めることなど出来なかったらしい。

(まあ、どっちにしろ満足には寝ていないんだけどな)

 昨夜のことを思い出し、クロノはひとり苦笑する。管理局でのデスクワークを終わらせたのが、こちらの時間で二十一時だった。その後メンテナンスセンターに顔を出し、先に自分の仕事を終わらせて仕上げの手伝いに入っていたエイミィに合流し、同じように設定の仕上げと機能チェックテストを繰り返すこと数時間。なんとか果たすべき項目全てを終わらせて帰路に着いたのは、日付も変わって久しい頃合だった。それまでずっとテストに付きっ切りだったエイミィは一足先に眠りの世界に旅立っており、メンテナンスセンターの局員に礼を述べたクロノはそんなエイミィを背負ってこのマンションへと戻ってきたのだ。尤も、クロノ自身も大分疲労が頂点に達しており、その辺りの記憶は大分怪しいものだ。正確に覚えていることは、目を覚まさないエイミィをそこしか空いていなかった自分の部屋のベッドに放り投げ、自分はリビングのソファで引っ張り出してきた毛布に包まりながら横たわったことだけである。眠りに落ちたのが結局何時ごろなのかも覚えていない。
 随分と無茶をしたものだ、と思う。今日が休み(オフ)なのは幸いだ。こちらの世界と管理局では、当然のことだが暦に対する概念が異なる。あちらの世界にもこちらの世界のクリスマスに相応する行事が無いではないが、それらの日付が一致している訳でもない。こちらの世界のクリスマスである今日という日に、自分とエイミィがそろって休暇(オフ)であるのは嬉しい偶然だろう。

「クロノ君、準備出来たー?」
「ああ。もう出来てる」

 背後から掛けられた声に答えて振り向けば、そこには赤い女物のスーツに着替えたエイミィが立っていた。へぇ、とクロノは思わず息を漏らす。明るい色だがけばけばしい程ではなく、自己主張をしてはいるが煩くはない。シンプルな作りだが、作りそのものは確りとしているようだ。随分と上質のスーツである。エイミィという人物の人柄をよくよく表現していると言えた。
 あら、と驚いたような声が耳に届く。声のした方を見遣ると、キッチンで洗い物の仕上げをしていたリンディがエイミィの服装に気付いたらしく、小走りでこちらに近づいてきていた。

「綺麗な服ね。どうしたの?」
「実は、今日のためにお給料はたいて買っちゃいました。似合ってますか?」
「安心して。似合ってるわ。でも、今日って――ああ、そう言えば今日はクリスマスパーティーをやるって言ってたわね」
「はい。翠屋で、午後五時からの予定です。参加予定者は、基本的には何時もの面子だとか」

 答えたのはエイミィではなくクロノだ。
 リンディはそう、と頷いてから自分の息子に改めて視線を移し、今一度、驚いたような声を上げた。

「クロノも正装なのね。何時の間に?」
「エイミィが改めてシャワー浴びている間に。まあ、パーティーとは言えカジュアルだから、好きな格好で来てくれ、とは言われているんですけれど」
「一応私たち、年長者ですから。少しぐらい決めておかないとなー、って」
「なるほど。そういうことだったのね」
「飛び入り参加も歓迎だそうですから、母さんも如何ですか?」
「そうね、考えさせてもらうわ」
「絶対遊びに来てください。待ってますから。じゃあクロノ君、そろそろ行こっか」
「ああ。それでは、行って来ます」
「あら、随分と早いのね?」
「行くところがありますから。――あ、それと艦長」

 時計を見上げ首を傾げたリンディに、思い出したかのようにエイミィが耳打ちをした。ぼそぼそと何やら囁く声が聞こえ、にこり、とリンディが満面の笑みを浮かべる。

「はいはい、分かってます。あとでメールに添付して送っておくわね」
「ありがとうございます、艦長」

 リンディの手を掴み嬉しそうに感謝の言葉を述べるエイミィに、何故か、クロノは嫌な予感を覚えずには居られなかった。
 気にするな、とクロノは頭を振って自分に言い聞かせる。テーブルの上に置いた一抱えほどの荷物を手に取り、立ち上がった。

「ほら、行くよ。エイミィ」
「あ、うん。じゃ、行こうか。行って来まーす」
「行って来ます」
「はい、行ってらっしゃい。気をつけてね」

 笑顔で手を振るリンディに見送られ、クロノはエイミィと並んでリビングを出た。そのまま一言二言と会話を交わしながら廊下を抜け、ドアを潜る。
 ひやりとした外気に、クロノは思わず身体を震わせる。吐いた息が白かった。寒いと感じたのはクロノだけではなかったのか、横を見ればエイミィは身体を温めるかのように腕を摩っていた。

「うひゃ。寒いねぇ」
「まぁ、冬だしな。コートを取ってこようか?」
「ううん、大丈夫。けど、その代わりエアコン代わりお願いね」
「……まったく。執務官を顎で使うな顎で」

 無礼と言えばあまりに無礼な申し出に、しかしクロノは呆れながらも慣れた風に呟いた。ポケットの中でカード状のまま待機しているS2Uにコマンドを送り、簡単な、けれど特にこの季節は使用頻度が高い呪文を選択し、代替詠唱(ダムキャスト)させる。ポケットの中に一瞬魔力光が溢れ、納まると、周囲の寒さが幾分緩和されていた。

「これでいいだろう?」
「うん。ありがとね、クロノ君」

 言ったエイミィは、クロノが抱える小包を見て小さく頷いた。

「さて。それじゃあ――はやてちゃんに、三年越しのプレゼントを届けに行くとしましょうか」



 ばたん、とドアが閉まる音が聞こえ、視界からクロノとエイミィの姿が消えた。
 その背中を笑顔で見送ったリンディは、ドアが閉まってしまうとエプロンのポケットから携帯電話を取り出しメーラーを立ち上げた。アドレス帳からエイミィのそれを選択し、本文の無い(ブランク)メールを作成する。その代わり、先ほど撮影した息子の寝顔を添付する。加えて、それだけでは味気ないので件名(サブジェクト)をつけることにした。いつもの通りに。

「No.286、っと」

 ぴ、と送信ボタンを押せば、本文のない添付ファイルだけのメールがエイミィの携帯電話に向かって発信された。

「何時になったら孫の顔が見れるのかしらねぇ」

 もう名前も考えてあるのに。誰にでもなくそう言って、リンディは洗い物に戻った。



 その客人が訪れたのは、正午を目前に控えた昼前だった。
 何をするでもなくリビングでぼうっとしていたはやては、突然鳴り響いたインタフォンの音に身を竦ませる。その音が意味するところを数秒掛けてようやく理解し、ソファから立ち上がった。
 リビングを離れ、玄関に向かう。

「誰やろ。何も聞いとらんけどなぁ」

 首を傾げながら玄関のドアを開けると、其処には見知った顔が二つ、見慣れぬ格好で立っていた。

「突然で済まない。少し寄らせてもらっても構わないか?」
「ごめんねー、連絡もしないで。てっきりしたものだとばっか思ってて」
「あ、構わんですよ。クロノ君、エイミィさん。いらっしゃい」

 はやては微笑んで、殊勝な顔つきのクロノと苦笑いのエイミィを招き入れる。

「二人とも、寒かったやろ? 暖かいものでも飲むかー?」
「いや、大丈夫だ。気にしないでくれ」
「そーいう訳にもいかん。お客様には労いを欠かさないのが八神家の掟や」
「あ、そういうことなら私ホットミルクが欲しいな。お願いしていい?」
「構いませんよー。ほらクロノ君、観念してな」

 にこにこと笑顔で問い詰めると、う、とクロノは呻いて一歩を下がった。
 だからはやては一歩進んで、更にクロノを追い詰める。

「ささ、どうする?」

 クロノにはそれでも彼なりの矜持があったのか、しばらくの間黙っていたが、こちらに引くつもりが欠片も無いことにようやく気付いたらしく、観念したように大きく息を吐いた。

「僕も同じものを」
「うん、分かったよ。リビングで待っててな。すぐ行くから」

 二人をリビングに通し、はやてはキッチンへと向かった。来客用のマグカップを二つ取り出し、ついでに自分用のマグカップも取り出して、小鍋に牛乳を注いで火に掛ける。しばらくして牛乳が煮立ち始めると、その中に蜂蜜を一匙入れてかき混ぜた。火を止め、三つのカップに同じだけ注いでトレイに乗せる。
 なんかお茶菓子あったかなあと周囲を見渡すけれど、目ぼしいものは見つからなかった。しゃあないな、と諦めてトレイを手にリビングに戻る。

「ごめんな、待たせてもうて。どうぞ召し上がれー」
「ありがとう」
「ありがとね、はやてちゃん」

 並んで座った二人にそれぞれカップを手渡し、はやてはテーブルを挟んで反対側のソファに腰を下ろした。こくり、と熱いミルクを一口含み、ところで、と切り出す。

「二人とも、ちょー気合の入ってる服装やけど、どうかしたん?」
「だって今日はみんなと一緒にクリスマスパーティーでしょ? 久しぶりに気合入れてみようかなー、ってね」
「僕はそれのとばっちりだ。あんまり気にしないでくれ」

 赤い色鮮やかなスーツに身を包んだエイミィが答えれば、黒い、彼のバリアジャケットを簡素にしたかのようなスーツ姿のクロノが疲れたように言葉を続けた。なるほどな、とはやては頷き、そして苦笑する。

「せやけどエイミィさん、多分みんな私服で来ると思いますよ? パーティーゆうても、あくまで身内のものやから」
「うーん、私もそうは思うんだけどねぇ。こういうときでもないと、着飾る機会なんて無いんだ」
「だからそれに僕を巻き込むな……」

 はやてにとって初めて目にすることとなる正装が気に入らないのか、クロノは嘆息交じりにそう言った。それにエイミィが、えー、と不満げに声を上げ、クロノは更に疲労の色を濃くする。見慣れたと言えば見慣れたクロノとエイミィの掛け合いは、今日という日であっても特に変わりが無いようだった。
 そんな二人にはやては自然と笑みを浮かべ、ふと、その物体に注意が向いた。テーブルの上に置かれた小包。白く色気の無い包装がなされたそれは、その上からとってつけたかのように緑色のリボンが巻かれている。そんなに大きくは無い。片手で持ち上げることが十分可能なサイズだ。

「それ、なんです?」

 何やら言い合う二人の間に割り込むように、はやてはその疑問をぶつけた。すると二人は口論とも言えぬ口論を一瞬で収め、お互いに目配せをしあう。
 ややあって、それは、とクロノが口を開いた。

「クリスマスプレゼントだ。僕たちから」
「え――? 私に、ですか?」
「当たり前じゃない」

 微笑んで肯定したのはエイミィだ。
 彼女はテーブルの上の小包を手に取ると、それをこちらに向けた。

「はい、どうぞはやてちゃん。開けてみて」
「ありがとうです」

 受け取ったそれは、意外なほど軽かった。箱を裏返し、リボンを解いて白い包装を外す。その下から現れたのは、見覚えのあるプラスチックのケースだった。

「――え?」

 思わず、声が漏れた。まさか、という思いが脳裏を過ぎる。顔を上げて二人を見れば、クロノもエイミィも微笑んでこちらを見ているだけだ。だがそれが、それだけだという事実が、何よりもはやての覚えた予感を肯定する。
 ケースをテーブルの上に置き、その蓋に手を掛ける。手が震えて、何度も失敗した。ようやく蓋をしっかりと掴むことが出来たのは、果たして何度目のことだっただろう。傍から見れば酷く滑稽な筈の自分を、しかし二人は野次を飛ばすようなことも無く見守ってくれている。

「開けて、いいんかな」

 問うた声は、自分の腕以上に震えていた。

「どうぞ」
「そのために持ってきたんだからね」

 微笑むように促すクロノと、苦笑しながら肯定するエイミィ。
 はやては目を閉じ、開いて、蓋を持ち上げた。思いのほか簡単に蓋が外れ、ケースの中身が露になる。ケースの容積の一番を閉めているのは、軟質素材で形成された緩衝材だ。容積のほぼ全てを占める緩衝材の海の中に、静かに光る銀がある。
 恐る恐る、それに手を伸ばした。固い感触。冷たい感触。馴染んだ手触り。慣れた温度。一度、手が触れてしまえば振るえは消えた。緩衝材に埋まるように収められたそれをケースから取り出し、手に握り締める。尖った部分が、少し、手に痛かった。

「これ――もう、完成したんか?」
「ああ。長い間預からせて貰って、悪かったね。いかんせん融合型(ユニゾン)デバイスなんて局でも作った前例が無いから、手間取ったそうだ」

 手の中のそれに視線を落としたまま問うが、気にした風でもなくクロノが答えた。
 せやけど、とはやては言葉を続ける。

「これ、出来るまであと一ヶ月は掛かるゆうん話じゃなかったんか?」
「頑張ってもらったんだよ、みんなに。特にメンテナンススタッフにね」

 クロノの代わりに答えたのはエイミィだ。
 苦笑するように彼女は続ける。

「マリー、リリーナ、ヴェイクにロザミー。あとでみんなにお礼を言っておいてね? みんなサービス残業で頑張ってくれたんだから」
「は……はいっ。絶対、絶対お礼を言わせて貰います!」

 両の瞳から涙が零れるのを止められず、拭うこともせず――震える声で、はやては頷いた。頬を伝った涙がはやての手の中に、そこに握られた剣十字のペンダントに落ちる。

「起動してみるといい」

 不意にクロノがそう言った。はやては弾かれたかのように顔を上げ、そんなはやてにクロノは苦笑を返した。

「もうチェックは全部終わっている。出力の微調整はこれからだけど、君が初期化してしまえば、そのデバイスは正式に君のものになる」
「せ、せやけど……起動しても、いいんですか?」
「何も躊躇う必要は無いさ。それは君のものだ、八神はやて。君のデバイスだ。君が育てていく、君の新しい家族だよ」
「――ッ」

 新しい家族。その言葉に、再び涙が溢れ出る。
 当然の用に脳裏を過ぎったのは、三年前の冬の光景。まるで今日の用に雪の降るあの日、空に還って行った一人の女性。それまでの歴史と比べれば似合わないほどひっそりと、静かな終わりを迎えた彼女。
 自分に新たな家族をくれた人。
 自分が救わなければいけなかった人。
 自分が幸せにしなければいけなかった人。
 小さな小さな欠片を残し、微笑みながら空に溶けた人。
 色褪せない記憶が、忘れることなど出来ない思いが胸の中に溢れる。すぐにそれは感情という名の許容量を超えて、嗚咽となって外に現れた。それでも、必死になってそれをかみ殺し、手の中の剣十字に視線を落とす。
 涙が零れ、剣十字にを塗らした。
 ああ、とはやては思う。私は、こんなにもあの子のことを大切に思っていたのか。

「――はやて」
「……ん。大丈夫や、大丈夫やよ、クロノ君。気にせんといて。起動パスは?」

 精一杯の虚勢でそう答え、はやては涙を拭った。剣十字を胸に抱き、クロノの告げた起動用パスワードを紡ぐ。
 音も無く。
 白い、はやての魔力光と同じ色の光がリビングを満たし、引いた。ストロボに似たそれが消えたあと其処にあったのは、胸の前で本を抱く一人の少女の姿だ。身長二十センチほどのその少女ははやての視線とほぼ同じ高さに浮かんでおり、まるで眠っているかのように穏やかな顔つきで瞳を閉じている。
 はやてはゆっくりと、少女の頬に手を伸ばした。涙を拭いて、精一杯の微笑を浮かべてみせる。

「さぁ。起きる時間やで」
「――システム起動(System bootet.)

 答えたのは、クロノでもエイミィでも無く、少女本人でもなく、はやての手の中の剣十字だった。

行使者認証(Anvender bestatigung...)――完了(Vollstaendig.)
 言語設定(Sprache Konfigration...)――完了(Vollstaendig.)
 共振制御機構動作確認(Resonaz Filter...)――完了(Vollstaendig.)
 魔力制御機構動作確認(Zauberkraft Controller...)――完了(Vollstaendig.)
 魔導式破損検査(Zauberspruche Index...)――完了(Vollstaendig.)
 過侵食制御機構動作検査(Sicherung...)――完了(Vollstaendig.)。」

 淡々としたシステム音声は、止める間もなく次から次へと自己検査(セルフチェック)項目を消化していく。やがてその項目が百七番目のそれを数え、小さな沈黙が訪れた。
 そして。

「――全機構検査完了(Alle Untersuchung abshlieszen.)全機能異常無し(System alle Gruen.)
 管制人格システムを起動します(Ich boote maine Persoenlichkeit System.)

 最後まで調子を変えずに紡がれた報告が終わり、少女がゆっくりと瞳を開いた。
 そこに覗いたのは、純粋な、あまりに澄み切った瞳。目の前の者に全幅の信頼を預けているのだと主張して止まない、そんな瞳だ。

「――ッ」

 はやては嗚咽を噛み殺す。似合わない、と思ったのだ。こんな場に。空に消えたあの子が残した器に、新たな命が吹き込まれたその目覚めのときに、涙はきっと、似合わない。
 目を覚ました少女は二度三度瞬きをし、ぐるりと周囲を見渡した。その視線がはやてを捕らえ、クロノを捕らえ、エイミィに移り、またはやてに戻った。
 はやては目尻を拭い、笑顔で声を掛けた。

「はじめまして――になるんかな。うちが八神はやてや。わかるかー?」
「はい、マイスターはやて」

 少女は外見相応の声で答え、ぺこり、と一礼した。

「不束者ですが、よろしくお願いします」
「あ、ええんよええんよ、そんなに硬くならんといて。あなたは私のリンカーコアのコピーをコアにしとるんや。そういう意味では、私たち親子みたいなもんや。もっと気楽に。な?」
「はい、わかりました」

 本当に分かってるんかいな、と思いながらもはやては微笑む。少女の、はやて自身のリンカーコアを使い作られたその制御プログラムの振る舞いには、自然と笑みを浮かべさせるだけの力があった。
 と、少女が再びぺこりと頭を下げた。

「マイスターはやて。伝言を預かっています。再生しますか?」
「伝言? 誰やろ。マリーさんかな?」

 首をクロノとエイミィに向けて問うが、二人は知らないと首を横に振る。
 ふむ、とはやては呟くが、考える必要はなさそうだった。好奇心はそう簡単に抑えられるようなものではない。

「じゃあ、再生、頼めるかー?」
「了解しました。再生します。――『かつての私から、いまの私と、我が主へ』」

 その言葉に、思考が止まった。
 かつての私。
 それは誰だ。
 勿論決まっている。
 考える必要なんて無い。

「『この伝言は、私のハードそのものに残させて頂きました。まずは新しい中身を得ただろう、いまの私へ。貴方は幸せものだ。貴方には祝福を受けた素晴らしい名前があり、愛すべき家族が沢山居る。我が騎士、ヴォルケンリッターと心優しき夜天の王、八神はやてだ。願わくばいまの私が得る力を、家族と、家族が護りたいと願う者たちを護るために使うことを』」

 その伝言は起伏の無い、静かな語りだったけれど。
 それは紛れも無く、あの女性のもので。

「『次に、我が主、八神はやてへ。ありがとうございました。呪われた名前を捨てさせ、新たな、祝福された名を下さったことは決して忘れません。本当に、ありがとうございます。私は本当に充足しています。だからどうか、どうかあの時の約束を果たされますよう、お願いします。私の残したこの器に宿った新たな命に、私が得た幸せ以上の幸せを、どうか与えてあげてください。それではみんな、どうか、幸せな日々を』――以上です」

 気付けば終わってしまっていた伝言は、疑うことなんて出来ないほどにあの日のようで。
 だから、彼女の言う約束が、酷く鮮明に耳に蘇って。

「……そう、やな」

 ぽつり、とはやては呟いた。いつの間にかまた零れていた涙を、袖口で強く拭い去る。

「はやて?」

 心配そうに声を掛けてきたのはクロノだった。隣に座るエイミィ共々、この伝言の存在は予想外だったのか、驚きの顔でこちらを見ている。
 はやては答えず、しかし、微笑んだ。息を詰まらせるクロノから視線を外し、目の前の少女へと、空になった剣十字に新たに宿った命へと視線を向ける。
 短く、問うた。

「きみの名前は?」
「私は――」

 少女が口にした名称は、局のメンテナンスセンターが仮に登録するシリアルだった。
 故にはやては少女がその番号を最後まで口にするより早く、その名乗りを止めさせた。

「管理者権限、発動や」
「はい。ご要望をどうぞ、マイスター」
「名称変更」

 短く答え、はやては両手を少女へと差し出した。首を傾げる少女に微笑んで、その身体を抱きしめるようにして目を閉じる。

「夜天の主の名において、汝に新たな名を送る。強く支えるもの、幸運の追い風、祝福のエール」

 一句一句、間違えぬように。あの日をなぞる様に。
 はやては、告げた。

「――リインフォース。それが、きみの名前や」
「……新名称、リインフォースを認識しました。以降、この名称が適応されます。改めて、よろしくお願いします、マイスターはやて」
「うん。こっちこそ、よろしくな」

 ぺこりとまた頭を下げた少女に、リインフォースに微笑んで、はやてはその顔をクロノとエイミィに向ける。知りえなかった伝言にこそ呆然としたものの、いまではその驚きも去ったらしく、全てを見守るような微笑を浮かべている二人に、はやてははっきりと宣言した。

「わたし、決めたよ。クロノ君、エイミィさん」
「何をだ?」
「私、きっとこの子を幸せにしてあげる。ううん、この子だけや無い。ヴォルケンリッターのみんなも、なのはちゃんもフェイトちゃんも、すずかちゃんもアリサちゃんも、みんな、みんな――私とリインフォースが、幸せにしてあげるんや。もうこの子はリインフォースなんやしな。私が、みんなの主の私が、いつまでもくよくよしてたらあかんもんな」

 涙を拭ったはやては、ひょいと立ち上がった。時計を見れば、時刻は二時を回っている。パーティーまでにはまだ時間があるが、すっかり昼食を食べ損ねた気分だ。
 まあしゃあないか、とはやては思う。確かに昼食は食べることが出来なかったけど、それ以上に、いいや、比べ物にならないほどのものを貰ったのだ。文句なんてある筈もない。

「リインフォース、私の肩に乗れるかー?」
「はい」

 頷いたリインフォースはふよふよと移動し、はやての肩の上に座る形で姿勢を安定させた。直ぐ横に見える銀の髪が妙にくすぐったく感じ、はやては微笑を浮かべながら窓の外に視線を向ける。
 分厚い雲に覆われた空は、まだしばらく晴れることが無いという。
 だけど、その中を。その灰色の大空の下を。
 白い雪が、ちらちらと待っていた。

「一緒に、頑張っていこう。な、リインフォース?」



[ Fin ]







 あとがき

 こんにちは、四条あやです。お久しぶりですね。普段は作品紹介のコメント以外で自作について語ることは無いのですけれど、今回はこの企画(Yagamiマガジン)の趣向ということで、柄にも無くあとがきなんぞというものを書かせてもらっています。
 果てさて、近作「SchneeRegen」はいかがでしたでしょうか。舞台はA's本編終了(6年後は除く)から三年後の冬で、各々の人となりが本編とは多少違っていると思われます。具体的にはクロノとエイミィの周りとか。フェイトとか。そしてごめん、今度も出番無かったよなのは&ユーノ。おかしいな。この二人、一応主人公格の筈なのに。なんで僕が書く話はこうも内容とか焦点がずれているんだろう。
 まあ、そんな愚痴はともあれ。Yagamiマガジンという心躍る企画に参加できたことを主催者の月咬様に感謝しつつ、これにて閉幕とさせていただきます。
 どうか、そう願う全ての人に、幸せな夢があらんことを。

四条あや



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