木洩れ陽喫茶


それさえも貴き日々で





 溜まった書類仕事を片付け、クロノはようやく一息ついた。
 時空管理局内部に設けられた彼の執務室である。普段は彼が所属するL級八番艦アースラの方に設置した執務室で仕事をこなすため、部屋の中はアースラ内部のそれよりもさらに物が少ない。申し訳程度に設置した棚を除けば、ほぼ宛がわれたままの状態だ。まぁ、それもいいだろう、と彼は思っている。どうせそんなに使う部屋ではない。今日に限って言うのなら、アースラが大規模メンテナンスのためドッグ入りをしており利用できないため仕方なしにこの部屋を使っているが――いずれ返却するときに、余計な仕事が増えなくて済む。
 処理した書類を、纏めてデスクの引き出しに仕舞い込む。施錠魔法が発動したのを確認し、クロノは立ち上がった。荷物と呼ぶようなものはほとんどない。ほとんど着のままに執務室を後にしようとして、ぴたりと、その足が止まった。

「……」

 クロノは目を細め、デスクの上の一点に視線を注ぐ。其処に在るのは、薄いカード型のデバイスだ。彼の愛杖――S2Uではない。外見にそれほどの違いは無いが、そもそも魔導師補佐用のデバイスですらない、純粋なメモリデバイスだ。管理局の官給品目録の中では一番記憶領域の少ない機種だが、その分データの堅牢性には定評があり愛用者も多い。
 それをじっと見据え、何度か手を伸ばし、取りやめ、都合七度の繰り返しの末ようやく拾い上げる。軽い。携帯用のデバイスなのでそれも当然ではあるのだが、その軽さに自然と笑みが毀れた。まるで涙さえ流しているかのような、そんな苦笑。しかし、それもしばらくして消えた。
 代わりに浮かんだのは、無理矢理感情を押し殺したかのような表情。何かを振り払うように頭を振って、クロノはデバイスをポケットに押し込んだ。
 出来るだけ後ろを振り向かないようにして、執務室を出る。もし足を止めたなら、きっと躊躇ってしまうだろう、という予感があった。

「やっほー、クロノ君」

 執務室のドアを後ろ手で閉めると、横手から声が掛かった。首だけをそちらに向けると、廊下の壁に背中を預けた女性の姿がある。見慣れた顔だ。クロノは無意識のうちに込めていた肩の力を抜くと、どうしたんだ、とその女性に声をかける。

「今日はオフじゃなかったのか? エイミィ」
「えへへー、そうなんだけどね。ちょっと事情がありまして。クロノ君こそどうしたの?」
「書類仕事が溜まっててね。めでたく休日出勤さ」
「成程。大変だ、クロノ君は」
「他人事じゃ無いと思うんだけどな、僕は。……で、何の用?」

 クロノの問いには答えず、エイミィは壁に預けていた背を離すと、手にしていた紙コップの中身を一気に煽った。そのままくるりとこちらに背中を向けると、近くにあったゴミ箱まで進んで空になった紙コップを捨てる。そうして改めてクロノの前まで戻ってきたエイミィは、呆れたような苦笑を浮かべて口を開いた。

「用件は、二つかな。一つは伝言。もう一つは……忠告」
「伝言の方から聞くよ」

 やけに落ち着いた気分で、エイミィの言葉に応える。迷うように告げられた忠告という単語に対する思いは、やっぱりな、という言葉だけだ。それの正体が安心であることに気づき、クロノは苦笑した。
 どうやらその反応が気に召さなかったらしい。エイミィはクロノの額に手を伸ばすと、中指でそれを弾いた。

「痛っ」
「伝言は、フェイトちゃんとリンディ提督とアルフと……ええと、まぁ、クロノ君を除くハラオウン家一同から。"この極悪人ー"だってさ」
「……随分な伝言だな。僕が何かやったか?」

 額をさすりながらクロノは問う。エイミィの一撃は地味に痛かった。
 そんなクロノに、エイミィはがっくりと肩を落とした。ふるふると振られる頭は、真実呆れの表現だろう。オーバーリアクションだとクロノは思うが、士官学校時代からの相棒のやることである。慣れという言葉ですら不要だろう。

「クロノ君、それ、本気で言ってる?」
「本気も何も、正直心当たりが無いんだが」
「……さてここで問題です。今日は何の日でしょう?」
「平日。僕たちはアースラのメンテナンスの関係で休みなだけだろう?」
「ミッドはね。あっちは?」
「あっちって、なのはの世界か?」

 うむ、と鷹揚に頷くエイミィ。
 はて、とクロノは考える。クロノが、と言うかハラオウン家が高町なのはの生まれた世界――正確にはその中でも海鳴という街に住むようになって、既に三年が経過した。管理局での業務を考えれば一人だけミッドチルダに残って暮らすという選択が望ましかったのだが、そもそも闇の諸事件の際に前線駐屯地として見繕った海鳴のマンションにそのまま住むことを決めたのは、クロノよりなんだかんだで多忙なリンディである。ならばクロノ一人が不精とも捉えかねられない選択をする訳には行かないし、正直、新しく出来た義妹の為にも家族は出来るだけ一緒に過ごすべきだ、という思いもあった。結果クロノは海鳴のマンションで暮らすようになり、いまもそれは変わっていないが――なんだかんだで。その選択は、間違いではなかったのだろうと思う。
 彼がそう思う一番の理由はやはり、心に強いものを秘めたまま、まっすぐに育ってくれたフェイトの存在である。大きな悲しみを背負っていた少女であるからこそ、決して万能ではないクロノにとって、彼女が難関である執務官試験に向けて励む姿は確かな励みとなっていた。
 そんなフェイトも今度の春からは、

「……ん?」

 何か嫌な予感がした。クロノは首を傾げ、エイミィに疑問をぶつける。

「今日、何日だっけ?」
「三月十九日。金曜日だよ。なのはちゃんの世界ではね」
「…………ひょっとして」
「うふふー。やっと気づいたー?」

 恐る恐るエイミィを伺うと、エイミィは額に青筋さえ浮かべてこちらを見ていた。クロノは嫌な汗をかきながら、ポケットから携帯電話を取り出す。あちらの世界用、と決めたその多機能デバイスのカレンダーを表示させると、その予感は確信へと変わった。
 カレンダーの今日の日付に、予定が書き込まれている。単語のみで表現された用件は、エイミィの、そしてハラオウン家の伝言も当たり前だな、と納得せざるを得ないものだった。

「フェイトちゃん。悲しんでたんだからね」

 エイミィは怒りを隠さぬ口調で言う。
 三月十九日。
 そこには、"フェイト卒業式"という予定が書き込まれていた。



 クロノは疲れた表情で海鳴の繁華街を歩いていた。デパートやらテナントビルやらが立ち並ぶ華やかな一角で、もう二十時になろうというのに未だ開いている店舗が多い。きらびやかなネオンを仰ぐように見上げながら、途切れぬ人並みの中をてくてくと歩く。その手には一抱えほどの紙袋が全部で三つ提げられており、隣には得意げな顔で歩くエイミィの姿がある。

「ふっふーん。感謝してよね、クロノ君。私が居てよかったでしょ?」
「それは認めるけど、なんか余計に疲れた気もする……」

 紙袋を揺らしながらクロノはぼやいた。別個に放送してもらったそれらは、エイミィ曰く、お詫びの品、だそうだ。無論、出席すると以前から約束していたフェイトの卒業式を当日になって休んでしまったことへの、だ。品が三つあるのは、フェイトと同じように卒業する他二人の少女たちへのものである。
 今回の非は完全に自分にあるため、それについて弁解するつもりは無いが――それでも、アドバイスをしてあげる、という言葉の元に軽く二時間ほどデパート巡りをさせられたことについては、文句の一つぐらい口にしても怒られる謂れは無いだろう。

「あ、そんなこと言っていいの? クロノ君」

 あったらしい。
 エイミィは歩みを緩めぬまま、視線だけをこちらに向けている。その口元には小さな笑みが浮かんでいた。

「クロノ君だけじゃ、何を贈っていいか分からないなかったと思うよ?」
「それは……」

 否定できない事実だ。正直な所、一人で贈り物を選んでいたのなら、きっと未だに一件目のデパートの中をうろついていただろう。最終的に、ろくでもないものを買っていた可能性も高い。
 抗弁せずに口を閉じたクロノに、エイミィはそれみたことか、と笑みを浮かべる。クロノは諦めて息を吐いた。

「エイミィの言う通りだよ。感謝してる」
「うんうん、素直でよろしい」

 そうこう言っているうちに、二人は繁華街の外れに位置するバスのターミナルへと辿り着いた。会社帰りの社会人やこれからが一日の本番と意気込む若者でごった返す中を歩きながら、ふと思いついたふうを装い、クロノはエイミィに声をかけた。

「あ、そうだエイミィ。悪いけど、先に戻っててくれるかな」
「ん? どうしたのクロノ君。何か用事?」
「まあね。そんな所だよ」

 肩を竦めてクロノは答える。それをどう受け取ったか、エイミィはふぅん、と味気ない相槌を打った。

「どうしても外せない用事?」
「ああ」
「……そっか。じゃ、しょうがないよね。クロノ君、頑固だし」

 苦笑したエイミィは、拒む間もなくクロノの手から紙袋を二つ、奪い取った。

「エイミィ?」
「預かっといてあげる。女の子にプレゼントを渡すのに、他の子へのプレゼントを一緒に持って行くのはマナー違反だよ? さ、ほらほら。いいから行ってきなよ。フェイトちゃんには私からちゃんと言っておくからさ」

 明るく言って、現状ハラオウン家で寝泊りしている女性はクロノの肩を抱いた。わ、とうろたえるクロノを楽しむかのように笑みを浮かべた後、その瞳に急に慈しみの色を宿し、呟いた。

「――ホントに。頑固なんだから」
「……エイミィ?」
「頑張れ、男の子」

 最後にぽかりとクロノの頭を叩き、エイミィはクロノを開放した。訳が分からず立ち尽くすクロノに笑みを送り、エイミィはこちらに背を向けて歩き出す。そのまましばらく歩き続け、ふと、エイミィは足を止めた。

「言い忘れてたけど」

 言いながらクロノを振り返るエイミィ。その顔に浮かんでいるのは苦笑で、呆れだった。見慣れた表情。クロノの無茶を、ぶつくさと文句を言いながらも見守り続けてきてくれた顔だ。

「クロノ君一人が悪者になる必要なんて、無いんだからね?」
「……」

 その言葉に、クロノは思わず押し黙る。見透かされている、いいや、見抜かれている、と思った。その思いは、おそらく間違いではないだろう。そもエイミィを――もうずっと長い間、自分を支えてくれた相棒を相手に、隠し通せるようなものでもなかったのだ。
 しかし、いいや、だからこそ、クロノはありがとう、とエイミィに礼を述べた。我ながら、驚くほどの穏やかな気持ちで。

「けど、これは。僕が決着をつけないといけない、ことだから」
「まったく。変わらないね、クロノ君は。闇の書事件が終わってから、少しは肩の力を抜いてくれたと思ったんだけど」
「僕が? それこそ冗談じゃない。気を緩めるのは……エイミィに任せるさ」
「あ、ひどい。それ、どういう意味?」
「さあね。フェイトあたりにでも聞いてみればいいんじゃないか? きっと忌憚ない意見が聞けると思うよ」
「……うぅ。最近、フェイトちゃんの私を見る目がどーにもセメントな気がするんだけど、気のせいなのかなぁ」
「そう思うのなら、日頃の行いを少しは改めたらどうなのさ」
「……善処します」

 かくん、と項垂れるエイミィ。
 クロノは苦笑交じりに、まぁ、と言葉を送った。

「忠告は、ありがたく受け取っておくよ」
「そ。よかった。じゃぁクロノ君、またね」
「ああ。また後で」

 クロノは片手を上げ、歩みを再開しバス停へと向かったエイミィの背中を見送った。ちょうど滑り込んできた目的地行きのバスにその姿が乗り込み、バスが走り出したのを見届けて、はぁ、と息を吐く。
 自然と、笑みが毀れた。

「――まったく。変わらないのは君じゃないか」

 下げていた紙袋を、肩に背負うようにして持ち直し、歩き出した。小さな音を立てて紙袋が揺れる。
 背中に掛かる重さは、いつの間にか随分と軽くなっていた。



 唐突な来客の正体は、いままさに話題に上がっている人物だった。

「クロノ君?」
「こんばんは、はやて。夜分にすまない」

 そう言って玄関先で頭を下げたクロノは、手に提げていた紙袋をこちらに差し出してくる。繁華街にある有名デパートのロゴが印刷されたものだ。受け取ってみても、あまり重さは感じなかった。

「なんや、これ?」
「今日は君たちの卒業式に出られなかったからね。ささやかだけど、お詫びの品だよ」
「わ、ほんまに? ごめんな、クロノ君。ありがとう」
「気にしないでくれ。今回の非は僕にあるからな――少し上がらせてもらっていいかな。話がしたいんだ」
「うん、ええよー。遠慮しんといて」
「すまないな。お邪魔させてもらうよ」

 苦笑して廊下に上がるクロノ。
 はやては受け取った紙袋を胸に抱いて、唐突な来客をリビングへと誘った。

「おや、どうしました。ハラオウン執務官」

 リビングに居たヴォルケンリッターの面々のうち、最初にクロノへと声を掛けたのはソファに座ったシグナムだった。その足元では、すっかりその姿に馴染んだザフィーラが、子犬モードで丸くなっている。
 クロノは肩を竦めると苦笑を浮かべ、その言葉に応えた。

「今日ははやてたちに不義理をしてしまったからね。謝りに来たのさ」
「おー、なんだよ殊勝じゃねーか。甲斐性無しの癖に」

 からかうように声を上げたのは、シグナムの座ったそれとはテーブルを挟んで反対側に位置するソファに寝転んだヴィータだ。漫画の単行本を顔の前で広げながらも、その視線はこちらに、と言うかはやての隣に立つクロノに向けられている。口元には意地の悪そうな笑みが浮かんでいた。
 む、とクロノは声を上げた。少々不満そうな声で抗弁する。

「甲斐性無しとはいきなりじゃないか、ヴィータ。君にそんなことを言われる筋合いは無いんだが」
「へへーんだ。卒業式をブッチした奴が何を言っても無駄なんだよ」
「ヴィ、ヴィータ!」
「――まぁ。それに関しては言い訳は出来ない。悪かったと思っているよ」

 はやての静止を遮る形で、クロノはそう言った。
 きしし、とヴィータは小さく笑う。

「あったりめーだっつーの。これで、"仕事だから仕方ない"、とか言いやがったらラケーテンでもぶちかましてやろうかと思ってたぜ」

 茶化した風にヴィータは言うが、その目は笑っていない。加えて言うのなら、普段そのような物言いを諌める立場のシグナムが黙って雑誌に目を落としているあたり、彼女も同意見であるらしい。
 そんな家族の心遣いはありがたくあるのだが、そろそろ助け舟を出すとしよう。はやてはクロノにソファを、ヴィータの隣の位置を勧め、自分はシグナムの隣に座った。ついでに、キッチンで洗い物をしている筈のもう一人の家族にも声を掛ける。

「シャマルー。クロノ君にお茶お願いできるー?」
「はーい。分かりましたー」

 キッチンからは、妙に嬉しそうな声が返ってきた。最近シャマルはコーヒーに凝っているので、腕を振舞えるのが嬉しいのだろう。
 はやては、よろしくな、と頷いて、改めてクロノへと向き直った。

「それで、クロノ君。話ってなんや?」
「ん? ああ、まぁ、細々としたものだよ。世間話だとでも思ってくれればそれでいい」
「ふぅん――あ、ありがとな、シャマル」
「いえいえ。どうぞ、クロノさん」

 キッチンからやってきたシャマルは、クロノの前にソーサーを差し出した。その上には、湯気を燻らせるコーヒーカップが置いてある。ありがとう、とシャマルに礼を述べたクロノはカップに口をつけ、へぇ、と小さな驚きの声を上げた。

「美味しい」
「そう言って頂けるなら、腕を振るった甲斐がありました」

 嬉しそうに言うシャマル。
 続けてもう一口コーヒーを啜ったクロノは、ふとリビングの中を見回すと、その顔に苦いものを浮かべる。

「……やっぱり、もう少し時間を考えるべきだったな」
「え?」
「家族の団欒の時間だろう? 邪魔して悪い」
「いややわ、気にせんといてな、クロノ君」
「だが……」

 ばつが悪そうに言葉を濁すクロノ。
 はやては、だから気にせんといて、と言いかけて、その直前。

「まぁ、気にすんな」

 気軽そうに、ヴィータがそう言った。

「いつも世話になってんだ。この程度で文句言うほど、ベルカの騎士は狭量じゃねー」
「その通りです、ハラオウン執務官――で、ヴィータ。いい加減寝転ぶのは止めろ。行儀が悪いぞ」
「はいはい、っと」

 単行本を閉じたヴィータは、ひょい、とソファから降りる。小さな身体で伸びをした彼女は単行本をテーブルの上に置き、ヴォルケンリッターの面々を順次見回して口を開いた。

「んじゃあたしはちょっとコンビニ行ってくる」
「ん? どうしたんやヴィータ、急に」
「別に。なんでもないよ、はやて――ほら、行くぞ。シグナムたちも付き合えよな」
「私がか?」

 きょとん、とした顔で聞き返すシグナム。
 ヴィータは、ああ、と頷き、すぐ傍に居たシャマルの手を取って歩き出した。

「とっとと行こうぜ。ザフィーラも来いよ」
「――」

 呼ばれた守護獣は声も無く顔を上げると、納得したように歩き出してヴィータの隣を抜ける。最後に残されたシグナムは、やや納得が行かなさそうにしながらも広げていた新聞を畳み、立ち上がった。
 連行されるシャマルの手からシャマルが外したエプロンを受け取り、それをダイニングの椅子に掛け、はやてに声を掛ける。

「それでは行ってきます。すぐに戻るとは思いますが」
「う、うん。ありがとうな、シグナム」
「いいえ。では、ごゆっくりどうぞ。ハラオウン執務官」

 一礼したシグナムは、先に出たヴィータたちを追ってリビングを出て行った。
 その背中が廊下に消えるのを呆気に取られながら眺めていると、かちゃん、と陶器と陶器が触れる音がした。視線を正面に戻せば、クロノがコーヒーのカップをソーサーの上に戻している。
 その顔には、僅かな苦笑が浮かんでいた。

「気を使わせた、か」
「……クロノ君? なんや?」
「はやて」

 はやての問いには答えず、クロノははやての名を呼んだ。
 ん、とはやてが首を傾げると、クロノはポケットから一枚のカードを、いいや、カード型のメモリデバイスを取り出し、それをテーブルの上に置いた。

「君に、見せなくちゃいけないものがある」



 八神家を出てのんびりと歩いていると、隣を行くシグナムが憮然とした声を掛けてきた。

「いきなりどうした、ヴィータ。何か入用なのか?」
「別に、そういう訳じゃねーよ」

 鈍いからなぁ、うちのリーダーは。内心でそう思いながらもヴィータは口にせず、ザフィーラの首に繋がったリードを握ったまま歩き続ける。
 む、という不満そうな声がすぐに聞こえた。

「ならば、私たちを連れ出した理由はなんだ?」
「……ホントに気づいてなかったのかよ、シグナム。クロノがなんか居づらそうにしてたじゃんか。あたしたちが居ると話し難いことでもあるんだろ」
「ふむ」
「私もヴィータの意見に賛成だ」

 ヴィータの意見を肯定したのは、ヴィータの数歩先を行く形のザフィーラだった。
 すっかり馴染んだ子犬形態の外見とは見事にかけ離れ落ち着いた声で、言葉を続ける。

「ハラオウンの振る舞いは、確かにそのようだった。無論、本人は隠しているつもりだっただろうがな」
「そうか――いかんな。少し、気が緩んでいたか」

 自嘲するように顔を顰めるシグナム。
 変わりにヴィータは苦笑した。しょうがねーよ、と呟く。

「あたしらにクロノを疑え、って方が無理な話だろ」
「そうね。クロノさんには、随分とお世話になってますし」

 ヴィータの後ろを歩くシャマルも、苦笑しながらその言葉に同意する。
 それに、と静かにシャマルは続けた。

「クロノさんがどんな用件でやってきたのかは――彼女に喋ってもらえばいいでしょう?」

 その言葉を皮切りに、ヴォルケンリッターの全員が歩みを止めた。
 無論その一員であるヴィータとて、言われるまでその気配に気づいていなかった訳ではない。ただ、敢えて口にする必要があるとは思わなかっただけだ。自分が気づいているのと同じように全員が気づいているのだろうし、その上で、用があるのなら向こうから切り出してくるのを待とうと思っていたに過ぎない。
 ただ、シャマルはそれを良しとしなかったのだろう、というだけのこと。
 あるいは、ひょっとして。

「……やっぱり、ばれちゃったか」

 家を出たときからずっと、一定距離を置いて自分たちのあとを追跡している――声を掛けるタイミングを見計らっている彼女に、行動を促すための計らいだったのだろうか。
 近寄ってくる足跡。ヴィータがそちらを振り返ると、まばらな街灯の明かりの元へと歩みだしたエイミィ・リミエッタの姿が見えた。



 クロノがテーブルの上に差し出したメモリデバイスを、はやては首を傾げながら拾い上げた。

「なんやこれ?」
「見ての通り、メモリデバイスだ。管理局の備品だよ」
「そんなん見れば分かるよ。そうやなくて、いったい何が入ってるん? 見てもいいの?」
「……ああ、構わない」

 覚悟を決めて、クロノは頷いた。
 はやてはデバイスを操作して、内部データ読み取り用の空間ウィンドウを展開する。ライトグリーンのウィンドウに白のテキストがながれ、しかし、それは直ぐに止まった。
 はやては、躊躇うような声を上げる。

「クロノ君、これ」

 ――気のせいではないだろう。
 はやての声には、隠し切れぬ動揺が滲んでいる。

「ああ」

 懺悔をするかのように、クロノは頷いた。
 出来るだけ無感動を装って、言葉を続ける。

「闇の書事件の報告書だよ」
「……これ。見てええの? 私」
「当事者だろう? 当然だ」
「せやけどこれ、情報閉鎖レベルファイブって書かれとるよ? 関係者であっても許可された者以外の閲覧を禁ず――やったと思うけど。私、間違えとるかな?」
「いいや、正しい。だからそれは、あくまで僕の名義に閲覧許可が降りた資料だ。……まったく。随分と、遠回りになったものだよ。もっと早く許可が降りると思っていたんだけどな」

 今日のイベント――義妹たちの卒業式という大事なイベントを忘れてしまっていたのは、その閲覧許可が今朝方ようやく降りたからだ。あまりにも申請から時間が掛かっていたため、許可が降りたと知るや否や居ても立っても居られず、報告書を取りに管理局へと向かってしまった。尤も、受領の後はすっかりそのことを忘れてしまい、書類仕事を始めてしまったのは事実なので、やはり欠席の原因は自分自身であるように思う。
 それだけ待たされた理由は、やはり、この報告書にそれだけの威力が、比喩ではなく、使い方次第で時空管理局という組織に致命的な衝撃を与え得るものだからだろう。
 クロノ君、とはやてが名を呼んだ。顔を上げれば、はやてはレポートから視線を逸らすようにこちらへと顔を向けている。

「私がこれを読むと、クロノ君に迷惑が掛かると思うんやけど」
「ばれなければ平気さ」

 苦笑を返すクロノ。もしこの場にエイミィが居たのなら、普段の厳正さとは及びもつかないクロノのの物言いに、果たして呆れたか、それとも。
 クロノはソーサーに戻したカップを今一度持ち上げた。苦い液体を一口、喉に流し込む。

「君には、それを読む権利が――ひょっとしたら義務が、ある」
「クロノ君」
「そんな顔をしないでくれ。僕が勝手にやっていることだ」
「……ん。じゃぁ、読むよ?」
「ああ。そうしてくれ」

 クロノが頷くと、はやては自分の首からぶら下がるネックレスの、その先に結われた剣十字の欠片を握り締めた。自らの破壊を申し出た闇の書――否、夜天の魔導書、リインフォースが最後の主に送った唯一の物。先日までただのブランクデバイスであったそれの中には、いま、消えた管制人格の名と思いを受け継ぐ新たな存在が収まっている筈だ。まだ創造されたばかりで、一日のうちほとんどをデバイスの中で眠ったまま過ごすと言う新たな管制人格。八神家に加わった、新たな家族。
 テキストを流し始めるはやてを見て、さて、とクロノは胸中で呟いた。報告書を収めたデバイスの記憶容量は比較的小さいが、報告書の量は決して少なくない。全てに目を通すまで、今しばらく時間が掛かるだろう。
 だから、ゆっくりと待つとしよう。はやてが全てを知るまでの、残り僅かな時間が――こうして。はやてと向かい合うことを許される、最後の機会になるかもしれない時間が過ぎるのを。
 クロノはコーヒーを口に含む。いつの間にか冷えていたコーヒーは、随分と苦く感じられた。



「時折、無性に君たちを殴り飛ばしたくなるときがある――そう言われたことがあります」

 手近なファミリーレストランに入り、簡単な注文を済ませたあと、やおらシグナムはそう言った。
 エイミィは一瞬言葉につまり、それでもそれを直ぐに苦笑へと変える。

「クロノ君に?」
「ええ。……驚きませんね」
「まさか。驚いてるよ?」
「そうですか? そうは見えませんが。……まぁ、いいでしょう。昔の話でもありますしね」
「あ、やっぱり。何時?」
「そうですね。確か、闇の書事件が終わってすぐだった筈ですが」
「まだ年が明ける前でしたし、そうですね。そのくらいです」

 シグナムの言葉を、隣に座ったシャマルが補足した。

「当然だと思いましたよ、勿論――実際、そう思われても仕方の無い状況でしたから」

 涼しい顔でそう言うシャマルは、指先でテーブルの上のグラスを突いて揺らす。グラスに半分ほど継がれたアイスティーに波が立ち、からん、と氷が動いた。
 尤も、とシャマルは苦笑する。

「本当に驚かされたのは、その後。クロノさんの事情を、知ったときですけど」
「クロノ君の事情――って」
「はい。クロノさんのお父さん、クライド・ハラオウン執務官のことを知った時です。クロノさんに直接聞いた訳じゃありませんけど、あの頃、私たちのまわりには自称親切な方々がたくさんいらっしゃいましたから。色々と耳にする機会が多くて――それでも、クロノさんのお父さんについて耳にしたのは、随分と後になってからでしたけど」
「……驚いた?」
「あったりめーだろ? 驚くに決まってるじゃねーか」

 呆れたような声を返してきたのは、ドリンクコーナーから戻ってきたヴィータだった。隣にザフィーラを――獣の姿のままでは流石に入店できなかったので、人の姿をしたザフィーラを連れていて、その手には毒々しい色合いをした液体で満たされたグラスが見える。
 思わずうめいたエイミィに気づいたかどうか、ヴィータはひょいとエイミィの隣に腰掛けた。ザフィーラはその対面に腰を下ろす。
 シャマルはそこでようやくヴィータの手にした色鮮やかなグラスに気づいたか、浮かべていた笑みを引きつらせた。

「ヴィ、ヴィータちゃん? それは何?」
「ん? これか? 見りゃわかんだろ、ミックスジュースだよミックスジュース」
「そ……それにしては、酷く前衛的な色合いだな、それは」
「へへーん、いいだろー。色々あったからな。全部混ぜてみたんだ。シグナムもやってみっか?」
「いや、いい。遠慮しておく」

 無邪気な顔でそれを勧めるヴィータに、シグナムが即答する。
 ちぇー、とつまらなそうに呟いたヴィータが、グラスから伸びたストローに口をつける。ずぞぞぞ、とストローを上る不気味な液体。
 出来るだけそちらを見ないように勤めながら、それで、とエイミィはシャマルの方を見た。

「何の話だっけ?」
「え、ええっと……そう、クロノさんのお父さんの事です」
「――素直に言うとな。復讐の準備だと思ったんだ、あたしは」

 ストローに口をつけたまま、つまらなそうにヴィータが言う。

「クロノの親父、クライド・ハラオウンはあれの――闇の書の、最期の犠牲者だ。なら、闇の書の一部であったあたしたちはその仇。クロノにしてみれば、あたしらが憎くて憎くてしょうがない筈なんだ」
「……」

 淡々とした冷静な言葉に、しかしシグナムは苦笑するようにして黙ったままだ。
 エイミィもまた苦笑して、ヴィータに言葉の続きを促す。

「けど、クロノ君はあなたたちを、リインフォースの関係者全員を、きちんと擁護してくれたでしょ?」
「ああ。だからあたしらはいまこうやって、はやてと一緒に暮らせてる。これでもクロノには感謝してるんだぜ? ただ、あたしはそれを、クライドって奴が死んだ理由を聞いたとき、こう思ったんだ。ひょっとしてクロノは、自分の手で親父の仇を討つためにあたしたちを庇ったんじゃないか、って」
「ヴィータちゃん。それは、」
「最後まで喋らせろよ、シャマル。あたしはそう思ったんだ――けど、そう言ったら、本人に否定された」
「……ほう? それは初耳だな」
「だろーな。あたしも、初めて話すし。……クロノにさ。そういう風に言ったら、あいつ、最初は驚いたみたいに目を丸くして――そのあと、こつん、ってあたしの頭を叩きやがったんだぜ?」

 言いながら、その時のことを思い出したのか、ヴィータは面白くなさそうな顔をする。しかし、その瞳はどこか遠くを見ているようで、其処に灯っていたのは、明らかな慈しみの色だった。
 それに気づくことができたからこそ、エイミィは柔らかな声で問うた。

「それで。クロノ君は、なんて?」
「……細かくは覚えてねーよ。ただ、見くびるな、とか言ってたぜ」
「成程。ハラオウン執務官らしいな」

 苦笑するシグナムに、ヴィータは、だろ、と呟いた。

「まぁ、そんな訳で。あたしは、クロノの奴が望むなら、一発や二発程度殴られてもいいと思ってるよ」
「馬鹿なことを言うな。そういうのは、私の役目だろう。憎まれるのは将だけで十分だ――尤も。ハラオウン執務官は、そのような人ではないが」
「だな。良い悪いはともかく、クロノは人が良すぎんだよ。エイミィもそう思うだろ?」
「私? んーっと……そうだね。全面的に否定は出来ないかな」

 笑いながらエイミィは言う。クロノ・ハラオウンという歳若い執務官の人柄に関して語るのならば、やはり、その言葉しかないからだ。本人に直接問えば否定されることは間違いないだろうけれど、それは、本人が照れているか、或いはクロノにとってそれらの行為はごく自然な、改めて評価されるまでもないことなのだろう。
 私も同意見です、とシャマルが言葉を継いだ。

「人としての根っこの部分で、良い人過ぎるんですよ、クロノさんは。勿論、リンディさんやフェイトちゃん、なのはちゃんにレティさんに……貴方もですよ、エイミィさん」
「へ? わ、私?」

 唐突に名指しされ、エイミィは首を傾げる。いきなり何を、と言おうとしたら、何を今更、と言わんばかりの視線を複数受けてしまい思わず顔を逸らした。
 他人のことは言えませんね、とシャマルは微笑んで、アイスティーのグラスを空ける。
 そして、

「所でエイミィさん。クロノさんとは、どこまで進みました?」

 唐突に、そんな脈絡の無い問いをされ、エイミィは瞬間的に吹き出していた。

「い、いきなり何を言い出すのかなシャマル……」
「あら、本気ですよ私――と言うより、私たち。ヴィータちゃんの言った通りです。私たちは、きっとそんな資格なんて無いのに、ハラオウン執務官に色々とお世話になりました。そのお陰で、今もはやてちゃんと一緒に居ることも出来ています。本当に、いくら感謝してもしたりないくらいで――だから、今日は見逃しました」
「見逃した?」
「クロノさんを、ですよ。今日、クロノさんがうちに来て、私たちが居ると都合が悪いようで――だからエイミィさんは、いまこうして私たちの足を潰しているんでしょう?」

 にこやかな笑みのまま、シャマルは不穏なことを言う。
 しかし、エイミィはそれに苦笑を返した。否定するつもりは無い。事実だからだ。

「勘違いして欲しく無いんだけど。これは、私のお節介。クロノ君に頼まれてシャマルたちを足止めしてる訳じゃないよ?」
「でしょうね。クロノさんは、そういうのに酷く抵抗を覚えるようですし」
「そ。執務官としては甘いと思うんだけどねー、私も。けど、其処まで見抜いてるなら、どうしてクロノ君を止めないの?」
「……もう。分かってるのに、聞かないで下さい。それだけ信頼してるんですよ、クロノさんを」
「そっか。ありがと」
「いえいえ。それで、さっきの話に戻りますけど――だからこそ、クロノさんには幸せになって欲しいんです。私たちにとても大事な幸せをくれたクロノさんが、ずっと、何時までも一人で、いらない責任や悲しみを背負い込んで行く様なんて見たくありませんし、そんなの、いいはずがありませんから。だから、」

 だから、クロノさんをお願いします、と。
 シャマルは、静々と頭を下げた。



 ちびりちびりと舐めていたコーヒーが無くなる頃、はやてが報告書を読み終えたようだった。
 テキストを読み取る為のウィンドウを消したはやては、手にしていたデバイスをテーブルの上に置く。そのまま俯いてしまったはやては、しばらくしてぽつりと口を開いた。

「なんで今更――こんなんを見せに来たんや、クロノ君」
「言っただろ。君にはそれを見る責任がある。……それに。僕にはきっと、君にそれを見せる義務が、ある」

 闇の書事件に関する報告書。高い情報規制が掛けられたそれは、実際のところ、長い時間を掛け何人もの報告者によって書き足し修正されてきた、闇の書の歴史とでも言うべきものだ。確認されている――裏付けがなされている最古の事件から、あの冬の日までを追った年代記。書き記されたのは、事件に関わった者たちの名と、その何百倍、何千倍という犠牲者の名前だ。

「……やっぱり。厳しかったか、はやて」
「んー……そうでも、ないよー。覚悟はしてた、ことやし」

 はやての声は、やはり、沈んでいる。無理も無い。そのあまりに膨大すぎる死の目録は、最早見切りさえつけたクロノとってもまだ重いのだ。ならば、当事者でありそれを全て背負うことを決意した少女にとって、その重さは、一体どれほどのものであるのだろうか。

「済まないな、はやて。辛いものを見せた」
「気にせんといて。ううん、寧ろ、見せてくれてありがとう」

 そう言って、はやては顔を上げた。にこり、と笑う。
 強いな、とクロノは思った。こんなものは、きっと、闇の書に関わった被害者のほんの氷山の一角に過ぎないだろうに、そして、はやてはそれを悟っている筈なのに――それでもなお、笑顔を浮かべて礼を述べられるその心に、クロノは素直な羨望を抱いた。
 そんなクロノを察してか否か、せやけど、とはやては口を開く。その口調には戸惑うような響きが強い。

「これ……最後の、所に」
「ああ」

 クロノは頷いた。

「闇の書事件の最終顛末――君に関する報告は、それが全てで、事実だ」

 ひょっとしたら。
 これが、この少女と穏やかに交わす最後の言葉になるかもしれないと、そう思いながら。

「元時空管理局所属のギル・グレアム提督は、八神はやて、君を利用していた。故意に暴走を誘発させ、それを氷結封印することで事件の大本を絶とうとした」
「――」

 淡々と述べるクロノの言葉を、はやては硬い顔で聞いている。
 膝の上に置かれた手が、白くなるほどに強く握り締められていることを視界の端に捉え、クロノは続けた。

「ところが、その直前になって……まぁ、色々とあって、その目論見は破綻した。闇の書は夜天の魔導書へと新生され、はやて、君は彼女たちの正式な主となった。グレアム元提督は種々の違法行為の為、管理局を辞任。……おおっぴらには言えないことだから、希望退職、ということになったけどね」

 それらは皆、報告書に記されている内容だ。それは紛れも無く管理局の汚点で、それだけで情報閉鎖されるに足りうる報告である。だが、だからこそ、はやての聞きたい言葉では無いだろう。
 クロノ君、とはやてが名を呼んだ。その青い顔には、しかし悲壮よりも決意の色が強い。

「はぐらかさんで、正直に答えて欲しいんやけど」
「……なんだ?」
「その、ギル・グレアム元提督って……グレアムおじさんのことなんか?」

 はやての問いは、とても静かで、まるで答えを覚悟しているかのようだった。
 故に、クロノは頷く。

「ああ。その通りだ」
「……そっか。そなん、やね」

 何かをかみ締めるかのように俯いたはやては、小さく肩を震わせ、そして。

「――辛かったんやね、グレアムおじさんも」

 静かに静かに、そんな言葉を漏らした。

「なんだって――いや、何がだ?」
「私に、ううん、私たちに、ずっと嘘をつき続けること。グレアムおじさんは――クロノ君にとってのグレアム元提督は、悪い人やないんやろ?」
「それは、」

 それこそ、言うまでも無い事実、だ。
 幼い頃に父親を亡くしたクロノ・ハラオウンという人物にとって、たとえそれが父親を死なせた責任感に由来するものだったとしても、色々と世話を焼いてくれたギル・グレアムという人物は、見習うべき大人であり、良き父親であった。幼年期学校に通う傍ら彼の元で色々な知識を学んだ日々は掛け替えの無い記憶で、其処に共に居た二人の使い魔は、まるで実の姉であるかのようだった。
 ……殊更、言うまでも無い。ギル・グレアムは、クロノ・ハラオウンにとっていくら感謝してもし尽くせぬ恩人なのである。

「クロノ君も、私と同じみたいやね」

 考えていることが表情に出たか、はやてははにかむように微笑んだ。
 けれど、とクロノ呟く。自分とはやてでは状況が違う。グレアムの残した証言が確かなら、グレアムははやてとろくに顔も合わせていない筈だ。

「そんなに難しい顔しんといてな、クロノ君。それとも、私がおかしいだけかな? 私は、ちょう、お気楽に過ぎる?」
「それは、」
「一応、根拠もあるんやけどね。グレアムおじさんからの手紙――グレアムおじさん、ずっと私に、本名で接してくれとったよ? もし私を本当にだますつもりなら、偽名でも使うんやないかな。闇の書を調べる途中で、私が捜査線上に上らんとも限らんし……そないな時に、本名で私に関わってたら問題があるやん?」
「……確かに。それは、認める」

 第一、当時、グレアムとはやての関係を見抜いたのは自分で、その根拠は八神家で発見された、グレアムの名が綴られた封筒なのだ。あの時は焦っていたせいか、その不自然さに気がつかなかったが、少し考えれば、それがどれほどありえないことなのかが分かる。もしグレアムが自分のことを隠そうとしていたなら、きっと明らかな証拠を見つけ出すことなど出来なかっただろう。
 せやから、とはやては言葉を続ける。

「グレアムおじさんは、えらい誠実な人やと思うよ、私は。せやから、きっと、辛かったと思う。クロノ君もそう思わん?」
「……」
「あと、これは完っ璧に、私の妄想なんやけど」

 応えられずに居るクロノに、はやては恥ずかしそうに顔を赤らめてそう言った。

「グレアムおじさん、ひょっとして、誰かに止めて貰いたかったんやないかな。自分の、その、復讐を。せやから、分かりやすいように――少なくとも時空管理局の関係者にはすぐに分かるように、自分の名前を隠さずに出した。私は、そうなんやないかなと思うよ」
「――はやて」

 クロノは、対面に座る少女の名を呼んだ。
 今にも震えてしまいそうな声の色を、どうにか押さえ込みながら。

「じゃあ、君は……君は、グレアム元提督を恨んでは、いないのか?」
「恨んどらんよ。全部を知った後でも。感謝は、しとるけどね」

 きっぱりと、はやてはそう答えた。クロノはそれを聞き、はぁ、と大きく息を吐く。ソファに深く背中を預け、腕を翳して天井を仰いだ。白い電灯が、優しい光を放っている。

「……はやて」
「何や、クロノ君」
「ありがとう」

 きっと、伝えるべき言葉はそれだけで、それで十分だと思う。
 どういたしまして、と苦笑するはやてを視界の端に捉え、クロノは立ち上がった。

「ん? どうしたん、クロノ君」
「どうしたも何も、帰るのさ。すっかり遅くなってしまったしね」
「え――あ、ほんまや。もう十時回っとる。みんな何処まで買いに行ったんやろ」
「さあね。まあ、帰り道で出会ったらはやてが心配してたって伝えておくよ。……あ、これは回収させてもらう」

 テーブルの上のメモリデバイスを拾い上げる。カードサイズなので当然といえば当然で、寧ろそれが売りなのだが、それは驚くほどに軽かった。
 さて、とクロノは呟いた。

「じゃあ帰るよ、はやて。ありがとう――本当に。ありがとう」
「それは私の言葉やよ、クロノ君。教えてくれて、ほんまにありがとう」

 柔らかな微笑で、はやては祈るようにそう言った。



 玄関までの見送りを謝辞して、クロノはリビングを離れた。またなー、と手を振るはやてに小さな頷きで応え、八神の家を出る。
 すっかり暗くなった外の玄関先には、見覚えのある顔が四つほど並んでいた。

「お、もう帰るのかクロノ」
「まあね。随分と長居してしまったみたいだし……というか、何時から居たんだ、君たちは」
「ついさっきからですよ。本当です」
「……まぁ、シグナムがそう言うなら本当だろうけど」
「信じて貰えて何よりです。それでは、お休みなさい、ハラオウン執務官。……出来るなら早く帰って、テスタロッサに会ってあげてください。上辺は平気なふりをしていましたが、随分と残念そうでしたから」
「う。そうだな、そうするよ。じゃあみんな、おやすみ。これからもよろしく頼むよ」
「おー、まかせとけー」

 元気に手を振って応えるヴィータに苦笑して、クロノはヴォルケンリッターの面々と別れた。門を抜けて、道路へと出る。振り返ると、獣の姿のザフィーラが丁度器用にドアを閉めるところだった。

「……さて。バスは残ってるかな」

 無ければマンションまで歩けばいいか、と思いながら、クロノは最寄のバス停まで足を運ぶ。
 星が見えず、しかし月の綺麗な夜だ。月明かりだけでも十分明るいが、等間隔に並ぶ街灯や、家々から漏れる明かりなどで歩く分には一向に不自由しない。
 不思議と誰も、車さえ通らぬ道をてくてくと歩く。やがてバス停が見え、そして。

「や。こんばんは、クロノ君」

 備え付けられたベンチには、見慣れた女性の姿があった。
 クロノは思わず足を止め、きょとんとした声を上げる。

「エイミィ? どうしたんだ、こんな所で」
「ちょっとね。夜の散歩だよ――クロノ君は、もう帰り?」
「ああ。やっと用事が済んだ所だよ」
「ふーん……なんか嬉しそうだね、クロノ君。何かいいことでもあった?」

 からかう様な物言いのエイミィ。しかし、その瞳には隠すつもりの無さそうな、慈愛の色が見て取れた。
 確かに、とクロノは思う。報告は、必要だろう。どうせこの女性には、何を隠してもきっと見抜かれてしまうのだから。

「ああ、あったよ」

 驚くほど素直に、その言葉は口を突いた。

「はやてが、恨んでないって……言ってくれた」
「……そっか。良かったね、クロノ君」
「ああ」

 クロノが頷くと、エイミィはよいしょっとと声を上げてベンチから立ち上がった。

「じゃあ一緒に帰ろうか、クロノ君。たまには歩くのもいいでしょ?」
「バスは?」
「もう無いみたい。さっき、最後のが行っちゃったから」
「そうか。じゃあ、しょうがないな」
「そう。しょうがないんだよ」

 クロノとエイミィはお互いに苦笑して、肩を並べて歩き出した。
 誰も居ない道路が月明かりに照らされ、何処までも伸びていく中を。





[ Fin ]