木洩れ陽喫茶


春風






 将都トルバスに事務所を構えるツゲ神曲楽士派遣事務所。
 "若き天才"ツゲ・ユフィンリーがトルバス音楽学院を卒業してすぐに開いたその事務所は、既存の神曲楽士――個人、或いは何処かの事務所(グループ)に所属しているかを問わず、神曲楽士という職業人がそれまで手がけて来なかった市場に神曲楽士という素材を提供し、その名を一躍有名にしていた。それは普段、神曲などというものに関わりが無い一般市民の耳にもその評判が届くほどで、もし神曲楽士でありながらツゲ神曲楽士派遣事務所の名を知らぬ者が居るのなら、それは間違いなくモグリであろうという程だ。
 それらの評価は無論、優秀な神曲楽士である従業員の実力あってのものだが――故に、ツゲ神曲楽士派遣事務所には多くの依頼が舞い込んでくる。順法であり報酬が妥当であるのなら依頼の内容をあまり考慮しない、という、ある意味便利屋といった側面がそれを助長しているのも事実だ。だがそれは事務所の所長、ツゲ・ユフィンリーの方針そのものであるので、その点に文句を吐ける者は居ない。同業者の中には、それを妬んだり、蔑んだりする者が皆無ではないものの、そんな者たちからの評価を気にするような者も居ない。
 ただ、悲しいかな、ツゲ神曲楽士派遣事務所に所属している神曲楽士は優秀ではあるものの数が少なく、それに対し依頼はあまりに多く、人手不足、という言葉が日常茶飯事ではある。なにせ、そもそもの構成要因が僅か四名なのだ。そのうち一人はマネージャーで、実働要因は三人しか居ない。しかもその一人は所長本人である。
 将来的には、他の正社員に負けず劣らずの才能と実力を持つ神曲楽士二人の追加がほぼ確実と見られているが、その二人は現在学生であり、アルバイトという身分である。依頼に対する戦力にはならない。宛がわれる仕事は、精々書類整理であったり掃除であったりの雑用で、その程度でありながら従業員全員にありがたがられているという現実が、人手不足という問題を何より雄弁に語っていた。
 しかし。
 物事には、不思議と例外があるものだ――そんなことを、彼、タタラ・フォロンはぼんやりと考えていた。
 件の神曲楽士派遣事務所、その事務室である。
 自分のデスクに向かっているフォロンは、しかし仕事に精を出すでもなくデスクに頬杖を着き、何も無い中空を眺めていた。
 事務室には、彼の他には――否、彼の契約精霊であるコーティカルテ・アパ・ラグランジェスを除けば、誰の姿も無い。同僚のレンバルトも、所長のユフィンリーも、アルバイトのユギリ姉妹の姿さえも、だ。普段は仕事中であれなんであれ何かと賑やかな事務所の中は、不思議なほどの静けさに包まれている。
 まぁ、その理由の幾らかは、普段の賑やかさの原因の何割かを占めるコーティカルテが来客用ソファに横になったまま静かに寝息を立てているからなのだが。
 ふぅ、とフォロンは息を吐き、椅子に深く腰掛けた。背もたれが軋む小さな音が耳に届く。

「どうしよう……」

 そもそも今日は、社会的には休日なのだ。その証拠にレンバルト、ユフィンリーは出勤していないし、フォロンが事務所に居はするものの、表のドアには休業中(クローズド)の看板が掛かっている。ユギリ姉妹が出勤してくる予定も無い。
 ならば何故フォロンが一人で出勤しているかと言えば、単純に、昨日終わらせるべきだった仕事が終わっていなかったからだ。休日出勤そのものである。ただ、フォロンにとっても予想外だったのは、残っていた仕事が思ったよりも――と言うか出勤して僅か一時間で終わってしまったことだ。結構な量の書類仕事であったため、てっきり今日一日掛かると思っていたのだが、実際にこなすべき工程そのものが少なかった為である。
 かくて午前中にその日すべきことを終わらせてしまったフォロンは、手持ち無沙汰もいいところに時間を潰していた。勿論明日からの仕事が予定(スケジュール)に無い訳ではないが、それは明日以降でなければそもそも手をつけることが出来ない類の仕事だ。他に何かやれることは無いかと一通り探してみたが、普段のユギリ姉妹(アルバイター)の仕事のおかげで、それも見つからない。
 詰まる所、暇なのだ。驚くほどに。
 フォロンはコーティカルテへと顔を向ける。自身の髪に埋もれるかの様にソファーで眠りこける紅い精霊は、しかし目覚める気配が欠片も無い。
 そんな自らの契約精霊に、彼は小さく苦笑した。

「まぁ、この陽気じゃ」

 仕方ないよな、と思う。
 将都トルバスが穏やかな春の陽気に包まれ始めたのは、本当につい先日のことだ。将都ニコンで発生した連続器物損壊事件を筆頭とした、冬の間にあった色々なことを全て緩やかに包み込むようなその気配は、こうして屋内に居ても十分に感じ取ることが出来る。窓から差し込む日差しは柔らかみを孕んでいるようで、硝子の向こう、灰色のビルに掛かった青い空は、冬の間広がっていた澄んだ高いそれと比べて何処かぼやけているようで、だからこそ親しみを感じることが出来る。
 こんな日に仕事とは何事だ、とは今朝時点でのコーティカルテの主張だ。今にしてみればフォロンもそれに同調できる。
 確かに、こんな時間に事務所でじっとしているのは勿体無い。どうせやることも無いのだ。
 ならば。
 フォロンは時計へと顔を向ける。昼食時、と呼ぶには少し早いが、それほど時間外れという訳でもなさそうだ。
 よし、と頷いてフォロンは立ち上がった。読むでもなく机の上に広げていた雑誌を(ラック)に戻し、寝たままのコーティカルテの元へと向かう。

「コーティ。起きてよ、コーティってば」
「……ん」

 呼びかけながら身体を揺すると、暫くしてコーティカルテがゆっくりを目を開けた。寝起きだから当然ではあるが、ぼんやりとした――けれどどきりとするほど深い紅の瞳が、こちらを捉える。

「む……ふぉろん。仕事はどうした?」
「もう終わったよ」
「……ふむ」

 頷きながら身体を起こしたコーティカルテは、先ほどフォロンがそうしたように背筋を伸ばす。紅い髪がさらりと流れた。
 続く動作で二度三度頭を振ったコーティカルテは、どうやら完全に眠気を払拭したらしく、見慣れた鋭い、けれど厳しくは無い芯の通った視線をこちらに向けてくる。

「それで、どうしたのだフォロン。私に何か用事か?」
「用事、って程でもないけどね」

 コーティカルテはフォロンの契約精霊ではあるが、逆に言えば、だからこそ普段の事務仕事であまり出番は無い。
 本人もそれを重々承知しているのだろう、向けられた視線には、気持ちよく寝ていたのに、という何処か非難めいたものが混ざっているようにも感じられる。
 尤も、それを感じ取れる程この少女の姿をした精霊に親しいのは、フォロンぐらいであるのだが。本人の自覚は別として。

「そろそろお昼だし。天気もいいから、何処かでお弁当でも買って公園でも行かない?」
「成る程。ピクニック、ということか」
「そんなに立派なものでもないけどね。遠出したいならハーメルンを出すけど、どうする?」
「近場で構わん。ほら、行くならさっさと――」

 ソファから離れながら何かを言いかけたコーティカルテは、歩き出しかけた姿勢のままぴたりとその動きを止める。

「コーティ?」

 呼びかけても返事が無い。
 どうしたんだろう、と思いながらフォロンが暫く少女を眺めていると、やがてコーティカルテはぎぎぎと錆付いたブリキの玩具のような動作でこちらを振り向いた。
 その顔には、まるでこれから決戦に向かうかのように真剣そうな表情が浮かんでいる。

「おいフォロン」
「何?」
「あの双子はどうした? 居ないのか?」
「そりゃ、まぁ。今日は休日だし」
「そうか――うむ。そうだったな。ふふふ」
「……コーティ?」

 なにやら肩を小さく震わせるコーティカルテ。
 フォロンはそんな少女に嫌な予感を覚え、しかし、

「よし。ならば行くぞ――邪魔されないうちに」
「邪魔? って、うわコーティ、引っ張らないでよ。引っ張らないでってば!」
「五月蝿い。ならばさっさと歩けフォロン」

 唐突に手を掴まれ、ぐいぐいと引かれるままに歩き出す。
 振りほどくことは簡単に出来そうだったが、その必要が感じられる筈も無く、フォロンはなされるがままツダ神曲楽士派遣事務所を後にした。

「せ、せめて戸締りぐらいさせてよコーティ」
「無論だ。しかし片手で出来るだろう?」





 将都ニコンのそれに比べればその規模は遥かに劣るものの、将都トルバスにも自然公園というものはある。造りはニコンのそれとほぼ等しく、ケセラテ自然公園をそのまま縮小化(ダウンサイジング)したようなものだ。無論、その過程で幾つかの施設は撤去せざるを得なかったり、そもそも設置が不可能だったりはするものの、全体から受ける印象としては、やはりケセラテ自然公園のそれと大差ない。
 ならば市民にとってその公園の利用目的はやはり休養(レクリエーション)であり――しかし、経済的に大規模なトルバスである。休養という言葉はそのままの意味であるより、どちらかといえば"遊ぶ"という意味に捉えられることが多く、休養を求める者、特に若者は、身体を休めるための自然公園より、遊戯施設(アミューズメントセンター)の多い繁華街へと足を運ぶこととなる。
 その結果――初春の昼下がり、という時節でありながら、フォロンたちが訪れた自然公園は酷く閑散としていた。調達した昼食を摂る場所を探して遊歩道を歩いても、すれ違うのは初老か、それを過ぎた辺りの人々がごく少数、といった程度だ。時折犬を連れた若者がリードを掴みながらジョギング気味に抜けては行くものの、そんな者の方が例外になってしまうのだろう。

「静かだね」
「ああ。尤も、車の排気音が無粋だがな」

 公園の中心に設えられた大きな池の周りをぐるりと取り囲む道をてくてくと歩きながらフォロンが問うと、その横を同じペースで進むコーティカルテは苦笑気味にそう答えた。
 その答えに、フォロンもまた苦笑する。

「仕方ないよ。すぐそこが道路だからね」
「だからこそ無粋だと言うのだ」

 フォロンの言葉をにべも無く切って捨てるコーティカルテ。それは、言葉こそ不機嫌そうではあるものの、口調は不思議と柔らかい物言いだった。
 そのことに気付き、フォロンはコーティカルテがこの小さなピクニックに満足しているのだと――ある意味ではいつも通りの勘違いを――思う。そうだね、と苦笑しながら同意を返し、歩みを止めぬまま周囲を見渡した。遊歩道から池の淵までは芝生の敷かれた緩やかな下り坂となっており、畔には、まだ学生と思しき男女(カップル)の姿が散見される。芝生に座り、肩を寄せ合いながら水面を眺めているその姿は酷く長閑で、見ているだけで心穏やかにさせるようだった。
 と。

「――ん?」

 コーティカルテが声を上げ、その足をぴたりと止めた。フォロンもそれにあわせて足を止め、どうしたの、と傍らの少女に問いかける。
 いや、と口篭るように苦笑したコーティカルテの視線を追えば、池の畔、まばらに植えられた木の袂に肩を寄り添え座る男女の姿が見えた。茶色の髪の若者と、紫苑の長髪を携えた女性。会話をしているようで、時折、その肩が小さく揺れている。
 小さいながらも、おそらくは本人たちにとって何よりも至福の象徴であるかのようなそれ。見る者に幸福を分け与えるかのような光景だ。
 フォロンはそんな二人に我知らず微笑みを浮かべ――それは、すぐに小さな疑問へと姿を変えた。
 恋人然として、いいや、真実その通りだろう、慈しみ合うように寄り添う二人。
 その後姿に、見覚えがある、ような?

「コーティ?」
「……」

 誰かな、あれ。そう続けようとして、しかし、出来なかった。フォロンの呼び声に返って来たのは、不貞腐れたような、不機嫌そうな沈黙だったからだ。
 と、視線の先、男女の片方――女性の方が不意にこちらを振り向いた。あ、とフォロンは納得する。その背姿に見覚えがあるのも当然だ。そして、声も掛けていないのに彼女がこちらに、いいや、コーティカルテに気付いたのも当然だと思われた。
 こちらに向けた顔を苦笑とも微笑みともつかぬ曖昧な笑みを浮かべる女性に気付いたか、その隣に居た若者もこちらを振り向く。その顔に小さな驚きが広がり、消える。代わりに浮かんだのは子供らしい、まだ垢抜けぬ微笑だ。
 若者は立ち上がり、こちらに向けて手を振った。

「フォロンさん」
「こんにちは、カティオム。……邪魔しちゃったかな?」

 二人に歩み寄りながら、フォロンは若者――先の冬に起こった事件で知り合ったオミ・カティオムに申し訳なさそうな顔で尋ねた。普段から朴念仁とからかわれ、いい加減諦め混じりの自覚もあるフォロンだが、二人の事情や先の雰囲気を考えればその程度のことは察することが出来る。
 完全なお邪魔虫だよなぁ、と思うフォロンに、しかしカティオムは一瞬きょとんとした顔を見せた後、苦笑しながら首を振った。

「いいえ、気にしないで下さい」
「でも……」
「フォロンさんには本当にお世話になりましたから。邪魔だなんて、とんでもありませんよ」
「……そう? ごめんね」
「気にしないで下さいってば。それよりフォロンさん、それは?」

 カティオムが指で示したのは、フォロンが手にした紙袋だ。表面に簡略化(デフォルメ)された山羊のイラストが描かれており、その上には軽快(ポップ)な文字で"レオナルド・バーガー"とある。

「僕たちのお昼ご飯だよ」
「今日もお仕事だったんですか?」
「うん。もう終わったけどね。カティオムたちは?」
「僕たちは――その。さ、散歩です」

 照れたように答えるカティオム。先ほどの雰囲気を考えれば、それはまさにデートと呼んでなんら差し支えが無いようだったが、それを堂々と肯定できるほど図太くは無いらしい。
 ある意味では若く、ある意味では幼いと言うべきなのだろうか。

「え、ええと、フォロンさんたちは何を?」
「ピクニック、かな。暇になっちゃったから」

 露骨な話題逸らしに、しかしフォロンは苦笑しながら応じた。レンバルトか、或いはユフィンリーあたりならばもう少しこの人の善い少年をからかって話題の種にするのかもしれないが、フォロンはそこまで意地が悪い訳ではない。と言うか、根本的に過剰なほど善人であるだけなのだが――故に、本人にそんな自覚は欠片も無い。

「あ、それならどうぞ、食べてってください」
「此処で? でも、邪魔じゃないかな」
「いえ、気にしないで下さい。僕も少しお聞きしたいことがありますし」
「でも――いいの?」
「くどいぞ、フォロン。そいつがいいと言っているのだ。気にすることなどなかろう」

 お互いに遠慮しあう二人の会話に割り込んだのは、呆れたような響きを孕んだコーティカルテの声だった。
 でも、と言い掛けたフォロンは、その言葉に先んじて紡がれたカティオムの、そうですよ、という言葉に止められる。更にコーティカルテが勝手に腰を下ろしてしまった。ある意味、逃げ道を封じられた形になる。
 やれやれ、と苦笑してフォロンもその場に腰を下ろした。レオナルド・バーガーの紙袋を開け、中から個別に包装されたハンバーガーを二つ取り出す。
 その一つをコーティカルテに差し出すと、ん、とコーティカルテは満足そうに頷いてそれを受け取った。
 乾いた音を立てながらコーティカルテがバーガーの包装を解くと、焼いた肉の臭いと――その全てをぶち壊すかのような唐辛子のにおいが辺りに漂った。
 う、と声を漏らしたのは、カティオムに身体を預けるように寄りかかっていたシェルウートゥだ。
 彼女は信じられないものを見るかのような目でコーティカルテを、否、コーティカルテが持つハンバーガーを見た。

「な……なんですか、それ」
「ん? なんだ、知らないのか。レオナルド・バーガー(レイガー)の煉獄バーガーだ――と、フォロン、アレはどうした?」
「ちょっと待って……はい、コーティ。これでしょ?」
「ああ、すまんなフォロン」

 フォロンが続けて紙袋から取り出しコーティカルテに手渡したのは、小さなプラスチックの容器(カップ)である。コーティカルテがそれをバーガーに向けて二つ折りにすると、中に入っていた緑色の調味料(トッピング)がバーガーに掛けられた。
 しかし。

「う、うわぁ……」

 見なければよかった――心底そう思っているのだろう声でカティオムが呻く。
 当たり前だよね、とフォロンは苦笑しながらそう思った。コーティカルテの手に見える煉獄バーガー山葵トッピングへと視線を向ける。元々が不自然なまでに赤い、具体的に言うと唐辛子等の香辛料が過剰に用いられているせいで意味も無く赤いバーガーに、緑色の山葵が加えられているのだ。ある意味でそれは彩を添えているのかもしれないが、食べ物として見るのなら、あらゆる意味で色々なものをぶち壊してしまっているとしか思えない。
 フォロンにしてみれば、最早コーティカルテが毎回のように注文するそれは既に見慣れたものなのだが――行き先がレオナルド・バーガーだと知ると、レンバルトやユフィンリーはおろかユギリ姉妹まで昼食を一緒に摂るのを辞退するという現状には、多少、思うところが無いでもない。しかしそれも、まぁ、コーティが好きならそれでいいか、と思うとどうでもよくなってしまう。

「美味しい? コーティ」
「うむ」

 大きなバーガーに小さな口で齧りついたコーティカルテを見ながらフォロンはそう問い、コーティカルテは満足そうにそう答えた。
 その受け答えは、二人が食餌をする時にいつも交わされる当然のような会話なのだが、そうは思わなかった人物が若干名居たようだ。

「ほ、本当なのかな……」
「……試してみる? シェルウートゥ」
「そ、そんな酷いこと言わないでよカティオム」
「…………散々な物言いだなおまえたち」

 稀有なモノを見るかのような視線を向けられていたコーティカルテが、不機嫌そうに呟いた。
 フォロンはまあまあとそんなコーティカルテに割って入りながら、二人分のドリンクを地面に並べ、自分の分のバーガーを取り出した。カティオムとシェルウートゥがひっ、と小さく息を呑み、その顔が安堵に変わった。包み紙の中から出てきたのが、ごく普通のチキンサンドだったためだろう。
 それを一口齧り、慣れた味を感じながら、フォロンはカティオムに問いかける。

「それで、聞きたいことって?」
「あ――はい。その、単身楽団に関してなんですけど」

 フォロンの問いに、カティオムは急にその顔つきを真面目なものにした。

「ペルセたちが、単身楽団の扱いに関してはフォロンさんが一番だって言ってましたから」
「そんなことは無いよ。あ、でも単身楽団ってことは、」
「はい」

 溢れんばかりの笑みで頷くカティオム。
 その隣では、シェルウートゥが顔を赤く染め、恥ずかしそうに微笑んでいる。

「今年の春から、トルバス音楽学院に通うことにしました」
「……そっか、もうそんな時期だったね。遅くなっちゃったけど、おめでとう」
「ありがとうございます」

 苦笑するカティオムの顔は、しかし憂いや不安というものとは無縁の様に見える。
 それだけ、自分の道に――神曲楽士、ではなく、シェルウートゥと共に在る、という決断を信じているのだろう。トルバス音楽学院に通うというのも、きっと、その職に憧れた訳ではなく、シェルウートゥの為であるという面が大きいのだろう。
 それは、決して、悪いことではない筈だ。
 シェルウートゥは、淡々と、しかし静かな決意に満ちたカティオムの言葉に顔を綻ばせている。先の二人を思い出せば、この二人が何時如何なる時も共にあるだろうことは想像に難くない。いつかカティオムが奏でるだろう神曲はシェルウートゥの為に捧げられるだろうし、シェルウートゥは、自らに捧げられた神曲(おもい)に自らの存在(おもい)を返すのだろう。それに値する神曲を奏でらる才能が、カティオムの中にはきっと眠っている。
 昨年の冬、飢餓による暴走状態にあったシェルウートゥを、拙いとすら呼べない、故に純粋すぎる神曲で掬ったこの少年には、神曲楽士としての溢れんばかりの才能があるのだと思う。誰かを、自分ではない異なる誰かの為を思い、心の底から曲を奏でられることのだろうと思う。
 そこまで考え、ふと、フォロンは気付いた。
 才能云々は、兎も角として。

「……ああ、そうか」
「? どうしました?」

 なんでもないよ、とカティオムの声に答えながら、フォロンは思う。
 そうか。
 この二人の在り方は、あまりにも。

「……よし」

 胸の中に広がる、暖かな気持ち。充実感とか、満足感とか、期待感とか――そのどれでもありそうな感覚を抱きながら、フォロンは頷いた。

「そういうことなら、協力するよ。僕に答えられることなら何でも答えるから、どんどん質問して」
「あ――はい! ありがとうございます!!」

 溢れんばかりの笑顔を浮かべるカティオムに、フォロンは同じような笑顔で頷いた。





 カティオムからの質問は神曲楽士として必要な知識の中でもまだ基本的な内容が多く、学院時代を思い出させるものだった。
 ペルセやプリネにもこうやって質問されていたな、と当時のことを思い出しながら、フォロンは記憶にある学院時代の知識と、社会に出てから経験し学んだことをカティオムに伝えていく。
 カティオムは真剣な顔でその一つ一つに頷いているが――その半分も理解できては、否、実感できては居ないのだろうな、とフォロンは思う。それはカティオムのことを蔑んでいる訳ではなく、そういうものだ、というだけだ。どれだけ言葉を連ねた所で、神曲を奏でるのがどういうことなのか、ということを実感するには自分でそれに気付かねばならない。尤も、そんな心配はカティオムには最早不要かもしれないが。
 カティオムの繰り出す質問にフォロンが答えているうち、次第にその内容は専門的なものになっていった。最初は精霊史やその周辺の――フォロンの個人的な感想を述べるなら興味深くはあったけれどあまり実技に結びつかない――理論や知識であったのに、焦点は次第に理論から技術へと移り、単身楽団の操作方法についての質問へとなっていた。

「そっか。カティオムは鍵盤だっけ」
「はい。やっぱり、一番慣れてますから」

 照れたように答えるカティオム。しかしその質問は止まらず、容赦が無かった。
 フォロンはフォロンで、同じ鍵盤型(オルガンタイプ)の単身楽団を使う後輩に好感を抱き、自分の持つ知識を隠すことなくカティオムに伝える。が、カティオムの質問が具体的なそれ――単身楽団の展開方式だったり、より効果的なエフェクタとスピーカーの組み合わせだったりに及ぶと、フォロンは申し訳なさそうな顔で頭を下げた。

「ごめんね。最近の単身楽団については分からないや」
「え? でも――あ」
「うん、そういうこと。僕はずっとハーメルンを使ってるから」

 苦笑しながら答えるフォロン。
 一年ほど前に事務所から試験機(テストタイプ)という意味合いも含め支給された自走式可変単身楽団(ホイールド・トランスフォーマティブ・ワンマン・オーケストラ)――<ハーメルン>は、その基本理念(コンセプト)の時点で既存の単身楽団と大きく違っている。度々のマイナーチェンジを繰り返し、楽団部位(オーケストラユニット)が常に最新型であるというのもその一つだが、試験機(テストタイプ)であるが故にワンオフ機であるため、その調整(バランス)は限りなくフォロンのそれに合わされているのだ。
 無論、フォロンとてその性能をただ甘受するだけではない。常日頃からより自分の望む音を出せるように、ハーメルンの習熟に熱を入れているが――それでも、やはり量産品である通常の単身楽団とは勝手が違うのも事実だ。
 そうでしたね、と苦笑したカティオムの言葉に僅かながらの羨望が滲んでいたのは、この少年が神曲楽士としての感性を身に着けつつある証拠だろう。
 カティオムは疲れたように息を吐くと、ぺこりと頭を下げた。

「ありがとうございます。参考になりました」
「いいよ、気にしないで。僕も久しぶりで、楽しかったから。もう他に質問は無い?」
「無い、とは言いませんけど……」

 フォロンの言葉に口篭るカティオム。周囲を見回すカティオムの視線を追うようにフォロンも辺りを見回し、

「え?」

 と、酷く間の抜けた声を上げた。
 辺りが、暗い。温かみを帯びていた空はいつの間にか藍に染まり、所々には音も無く瞬く星々の姿が見て取れる。遊歩道にそって等間隔で設置された電灯が、無機質な明かりを携えていた。
 どう考えても夕方、いや、夜である。

「も、もうこんな時間!?」
「はい。もうすぐ八時ですね」

 腕時計に視線をとして頷くカティオム。此処を訪れたのがお昼時だったから、軽く七時間以上こうしていたことになる。
 延々と質問に答え続けたフォロンもそうだが、同じだけ質問をし続けたカティオムも相当なものだろう。
 あちゃぁ、とフォロンは呻き、カティオムとシェルウートゥの二人に謝罪した。

「ごめんね。結局、邪魔しちゃったみたいで」
「気にしないで下さい。僕がお引止めしてしまったんですから」
「そうですよ。でも――」

 言いながら、シェルウートゥは背後からカティオムにしな垂れかかる。
 うわ、と声を上げながら顔を赤くするカティオムに微笑みながら、紫苑の精霊は言葉を続けた。

「カティったら、凄く熱心で。ちょっと妬けちゃいます」
「シェ、シェル!」
「あは、あはは、あはははは……」

 照れ隠しなのだろう、焦ったように声を荒げるカティオムと、思わず乾いた笑いを浮かべるフォロン。
 と言うのも――シェルウートゥの言葉があまり冗談に聞こえなかったからなのだが。いま向けられた視線には、間違いなく本気のそれが滲んでいた気がする。

「え、ええと!」

 なんとかシェルウートゥの腕から逃れたカティオムは、そう声を上げながら立ち上がった。
 暗闇の中ではあるが、その顔にはまだ赤みが残っているのが見受けられる。

「と、ともかく、僕たちはそろそろ戻りますね。フォロンさん」
「えっと、うん。お疲れさま」

 一杯一杯らしいカティオムの気配に押されるように、何処か頓珍漢な応えを返すフォロン。
 と、それにシェルウートゥが口を挟んだ。

「あ、駄目ですよフォロンさん。動いちゃ」
「え?」
「だって――ほら」

 シェルウートゥが細い指で示したのは、芝生の上に投げ出されたフォロンの足だった。
 あれ、とフォロンは間の抜けた声を上げる。フォロンの膝の上に、見覚えのある緋色の髪の少女の頭があった。

「起こしたら可哀想ですよ?」

 にこにこと微笑むシェルウートゥ。その隣では、立ち上がったカティオムが苦笑したような呆れたような顔を浮かべている。
 二人の視線に晒されて、う、とフォロンは呻いた。顔が赤くなるのが分かる。ただ、それでもシェルウートゥの言葉通り、下手に動いて起こしてしまっては悪いので、微動だには出来なかった。
 その代わり、つい、とその少女――いつの間にかフォロンの膝を枕代わりに寝入っていたコーティカルテへと視線を下ろす。
 小さな呼吸を繰り返すその姿は、本当に幸せそうで――ふと、フォロンは心が休まるのを感じた。この紅い、誰よりも気高く、そして誰よりも孤独だった精霊と精霊契約を交わしてはや三年、いいや、そろそろ四年になろうとしている。結構な年月ではあると思うが、同時に、まだそれだけなのか、と思う自分が居ることも否めない。
 それほどまでに、自分の中でこの精霊は、いいや、コーティカルテ・アパ・ラグランジェスという存在は、大きなものなのだ。
 お互いが抱えた闇を知っている。誰にも知られたくは無い、自分ですら振り返りたくは無い過去を抱えていることをお互いに理解している。
 理解して、そして――受け入れ、許し、或いは許されている。

「……そうだね」

 応えた声は、自分でも驚くほどに穏やかだった。
 ひょう、と風が吹く。木々を揺らし、頬を撫でるそれはひんやりとした夜気に染まっており、酷く心地よかった。

「起こしちゃ、かわいそうだ」
「そうですよ。……それじゃあ行きましょう? カティ」
「あ――うん。じゃあ、失礼しますね、フォロンさん」
「うん。またね」

 座ったまま、フォロンは去っていく二人の背中を見送る。
 確りと手を握り合いながら歩んでいくその姿は仲睦まじく、しかし、あーあ、羨ましいな、後で私にも膝枕してくれる、という言葉や、それに対してえ、と驚いたような焦ったような声を返すため、色々な意味で見た目相応の恋人たちのようだった。
 そんな二人の背中が見えなくなると、周囲は急に静かになる。風に漣を起こす池では、黒い水面に下限の月が写りこんでいた。

「……コーティ」

 起こすつもりは無く、故に返事を期待せぬ声音で、フォロンは自らの契約精霊の名を呼んだ。

「ありがとう」

 紡いだのは、感謝の言葉。特別な意味は無い、ただそれだけの言葉だ。もしコーティカルテが起きていたら、何の話だ、と言うのかも知れないが――全てのものを。あらゆるものを突き詰めれば、やはり、フォロンにはこの言葉が当然だと思える。
 ありがとう。
 ありがとう。君が居たから、僕は。

「ん……」

 コーティカルテが、フォロンの膝の上で小さく呻く。力の抜けたその寝顔は、酷く幸せそうだ。
 フォロンはふと、先日知り合った一組の精霊警官のことを思い出した。翼を欠いた黒い精霊と、そのパートナーである天才楽士。単身楽団を必要とせず、ただのハーモニカだけで神曲を奏でてみせる幼くも天賦の才を持つ神曲楽士。
 その名を、マチア・マティアといい、その契約精霊をマナガマナガリアスティノークル・ラグ・エデュライケリアスという。
 彼女にハーモニカを習ってみようかな、と思った。自分の得意とする楽器は鍵盤で、ましてやマティアのようにハーモニカだけで神曲を奏でられるような才能が自分にあるとは微塵も思っては居ないけれど――
 例えば、こんなとき。
 魂の全てを捧げて欲しいと言ってくれた少女が、安らかな眠りに着いてるとき。
 そして、少女が穏やかに眠りから覚めたとき――
 目覚めの挨拶の代わりに一曲を捧げられたなら、それはきっと素敵なことだと思うのだ。
 ……尤も。

「コーティなら」

 神曲にもならぬ曲を奏でるくらいなら、ちゃんとした単身楽団を使って曲を弾け――とぐらい、言うのかもしれない。
 けれどきっとそう文句をつける紅い少女の顔は、困ったような、或いはくすぐったい様な笑みが浮かんでいるのだろう。
 そんなことを考えながら、フォロンはコーティカルテの紅い髪を手で梳いた。一本一本が上質な絹を思わせるそれらは、流れるようにフォロンの指の間を滑る。
 ん、とコーティカルテが小さく呻いた。気のせいか、その寝顔が僅かに満足そうな、嬉しそうなそれに変わる。それはまるで喉元を撫でられた猫のような反応で、いつもの尊大な振る舞いとの差異(ギャップ)に、フォロンは小さく苦笑した。
 と――不意に。

「ああああああああああああああああああああああああああ!?」

 夜のしじまを引き裂いて、妙に聞き覚えのある悲鳴が自然公園の空気を切り裂いた。

「な、何!? 何があったの!?」

 突然のことに、フォロンは思わず声を上げて辺りを見回す。悲鳴の主は、割と簡単に知れた――と言うより、直ぐ傍にその姿が見えた。
 遊歩道に並ぶ伝統のうち、すぐ傍に立つ一本。その根元に、一組の少女の姿がある。それぞれ金と銀の長い髪を持つ少女で、フォロンにとっては近しい以前に親しい相手だ。
 二人は大きな紙袋を抱えるようにして持っており、その口からは食料品の端らしきものが見て取れる。どうやら休日を利用して大掛かりな買出しをしていたらしい。

「ふぉ、フォロン先輩――何やってるんですか!?」
「ペルセ、もう夜中だからちょっと静かに……」

 金髪の少女、ユギリ・ペルセルテは紙袋を抱えたまま器用にこちらを――と言うか、フォロンの膝の上で眠ったままのコーティカルテを指差して声を張り上げる。そんな双子の姉を恥ずかしそうに嗜めるのは銀髪の少女、ユギリ・プリネシカだが、その声はどうにも姉には届いていないようだった。

「フォロン先輩!!」

 ペルセルテは、いっそ形相と表現してもよさそうな表情でこちらに駆け寄ってくる。途中で紙袋から零れたレモンが坂を下り池に飛び込んだが、それに気付いたのはフォロンとプリネシカだけのようだった。
 フォロンの膝で、くかー、と眠り続けるコーティカルテを指差してペルセルテは言う。もとい、叫ぶ。

「ど、どういうことですかこれ!? なんでコーティカルテさんがフォロン先輩のひ、膝枕で寝てるんですか!?」
「どうして、って……」

 気付かれたら寝られていたのだが、素直に説明しても聞いてくれなさそうな気がした。

「説明を要求します! なんでコーティカルテさんだけそんな美味しいことが許されるんですか!?」
「――は?」
「ずるいです! ずるいったらずるいんですー!!」

 むきー、という擬音が似合いそうな雰囲気で喚きたてるペルセルテ。
 ひょっとしてお酒入ってるのかな。そんなことを思いながらフォロンはプリネシカに顔を向けるが、視線の合った銀髪の少女は悟ったように首を横に振る。

 ――ペルセは素です。
 ――そう。これで、素なんだ。やけに、その……元気みたいだけど。
 ――ご迷惑をお掛けしますが、頑張ってください。

 ぺこり、と小さく頭を下げるプリネシカ。
 不思議と、視線だけで会話が成立したような気がした。

「聞いてるんですかフォロン先輩!?」
「は、はいっ!」

 ペルセルテの剣幕にフォロンは思わず返事を返し――それが、決定的だったのだろう。

「……ん。む……ぅ?」

 もぞり、とフォロンの膝の上で気配が動き、コーティカルテが身体を起こす。眠気を払拭仕切れていない、ぼやけた瞳がフォロンを捉えた。

「あ――おはよう、コーティ。よく眠れた?」
「……?」

 フォロンの問いに、小さく首を傾げるコーティカルテ。
 まだ周囲の状況が理解できていないのか、ゆっくりと周囲を見回した紅の少女はこくり、と小さく頷いて、

「――」

 ぽそり、とフォロンに抱きついた。

「ちょ、ちょっとコーティ!?」
「な――ッ!?」

 悲鳴のような声を上げるペルセルテ。フォロンも慌ててコーティカルテを離そうとするが、首の裏で妙にがっちり手を組まれてしまい、遠慮の抜け切らないフォロンの力では振り払えそうも無かった。それを承知しているのかどうか、コーティカルテはフォロンの首筋に自分の鼻をこすりつけるようにもぞもぞと動きながら幸せそうに呟く。

「んー……ふぉーろーんー……」
「――――は、離れてくださいコーティカルテさんっ!?」

 一瞬の呆然を経て我に返ったペルセルテが、ついに実力行使でフォロンの首に絡まったコーティカルテの腕を解き解こうとしているのを、恥ずかしさで停止一歩前の意識が捕らえる。
 そのままフォロンは、傍から見ればコーティカルテとペルセルテとにそれぞれ前後から挟まれるような姿勢で、それでも一縷の望みを求めて傍観者を気取るプリネシカへと視線を向けた。

 ――ご愁傷様です。

 銀の少女が、寧ろ諦めきった顔でこちらを見ているのにがくりと失望しながら――

 トルバスの夜は、更けていった。





[ End ]