木洩れ陽喫茶

 

Happy New Year


 アパートのドアにしっかりと鍵を掛け、フォロンは廊下で待つコーティカルテに声を掛けた。

「お待たせ」
「うむ。行くぞ」

 鷹揚に頷いて歩き出すコーティカルテ。
 その隣に並ぶと、ひょう、とアパートの廊下を一陣の風が吹き抜けた。首筋を擦った風の冷たさに、フォロンは思わず小さな声を上げた。

「流石に……寒いね」

 呟きと共に漏れる吐息は白く曇り、消える。

「まあな」

 フォロンの言葉にコーティカルテは頷くが、その顔には寒そうな気配など微塵も感じられない。
 それも当然だろう。コーティカルテ――コーティカルテ・アパ・ラグランジェスは人間ではない。"人間の善き隣人"である精霊の一柱であり、神曲楽士であるタタラ・フォロンの契約精霊である。人間よりよほど精神的な存在である精霊にとって、寒さは、まったく感じないと言うものではないのだろうが、人間のそれよりもよほど許容範囲が広い。

「何せ年の瀬だ。日も落ちているし、寒くなければおかしいだろう」
「そうだね」

 指先に息を吐いて暖めながら、フォロンはコーティカルテの言葉を肯定する。彼女の言う通り、確かに周囲は既に暗い。普段であれば、アパートの中からでも近くにある大通りを行きかう車の騒音が聞こえるのだが、今日はそれも控えめだ。流石に、年の暮れくらいは家族と一緒に暖かい家で過ごそうと思う者が多いのだろう。

「ハーメルンはどうする?」

 アパートを出る直前、契約駐車場の方を一瞥したコーティカルテがそう問うた。

「置いていくよ。今日はお酒も入るだろうし……それに、さ」

 フォロンは小さく苦笑する。
 ん、と首を傾げながらこちらを仰いだコーティカルテに、フォロンは僅かに頬を赤らめながら答えた。

「偶には、コーティとゆっくり歩きたいかな、って」
「……」

 その言葉に、コーティカルテは一瞬虚を突かれたかのようにきょとんとした顔をして、

「――そ、そうか」

 上ずったような声でそう言い、顔を前に向けた。

「ほ、ほら。早く行くぞ」
「あ、ちょっと待ってよ、コーティ」

 自らが契約を結んだ神曲楽士の言葉を無視して、すたすたと歩いていくコーティカルテ。
 フォロンは小走りでその横に並び、小柄なコーティカルテに足並みを合わせる。フォロンにとっては普段と変わらぬごく自然な行為であり、故に、コーティカルテの反応は特異と言えた。

「ん」
「……?」

 歩く速度を緩めぬまま――いいや、いつものそれと比べると若干早足気味に歩みを続けながら、コーティカルテが呻く様に呟いた。それと一緒に右手が僅かに持ち上げられ、硬く握られた拳がフォロンのコートに押し付けられる。
 訳が分からずフォロンが反応できずに居ると、コーティカルテはだんだんとコートに拳を押し付ける力を強めてきた。ただ触れているだけだったそれは、いつかフォロンを押しのけるような強さになっていた。

「え、えーと、コーティ……?」
「……ばかもの。寒いのだろう?」

 降参とばかりに挙げた声に、コーティカルテは小さな声でそう問うた。え、と声を上げたフォロンは、うん、と素直に頷く。コートを着ては居るが手袋をしている訳ではないから、袖口から先は外気に触れているし、そもそも指先は細い器官であるため冷えやすい。
 はぁ、と諦めるように息を吐くコーティカルテ。その吐息には、何故か、若干の苦笑が含まれている。

「暖めてやる。手を出せ」
「……え?」

 その言葉で、ようやくフォロンはコーティカルテの行為の意味を察し――それと同時に、驚きの声を上げた。

「ええと」

 歩みを止めぬまま、フォロンはコーティに問う。

「手を繋ごう、ってこと?」
「馬鹿者」

 拗ねたような口調で、コーティカルテは吐き捨てた。

「……言わせるな」

 その物言いにフォロンは小さく苦笑して、コートのポケットに突っ込んでいた手を出した。
 ん、と無言の催促をしてくるコーティカルテの拳に触れると、コーティカルテの細い指はまるで花が開くように解け、フォロンの指と絡まった。
 フォロンはその感触に何かをコメントしようとして、止めた。
 コーティカルテはそんなフォロンに何かを言おうとしたようだが、何も言ってこなかった。
 唐突な沈黙が、フォロンとコーティカルテの間に落ちた。学院時代からの、いいや、子供の頃からの長い付き合いではあるが、学院時代の再開からは一度も経験したことの無い、不思議な沈黙。
 ただ、絡まった指先に力を込めると、同じように小さな指がフォロンの手を握り締めてくる。
 てくてくと、夜の町並みを赤い契約精霊の少女と同じ速度で歩きながらフォロンは思う。
 ……多分。
 お互いに、この手のひらの感触だけで、十分なのだろう、と。



 フォロンたちのアパートから徒歩でおよそ三十分。
 先日のコア強奪事件でますます知名度を挙げた小さな神曲楽士派遣事務所――ツゲ神曲楽士派遣事務所が、そこにある。

「こんばんはー」

 休業中(クローズド)の札が掛かった扉を押しながら中に入ると、先に到着していたらしい面々がいっせいにこちらを振り向いた。

「あ、フォロン先輩!」

 顔を輝かせながら真っ先に声を上げたのは、事務所の壁に飾り付けをしていたペルセルテだ。
 その隣に立ち、同じように壁にテープリングやらなにやらを取り付けていたプリネシカは、静かな微笑を浮かべてこちらに頭を下げる。

「こんばんは。今年もお疲れ様でした」
「ありがとう。ペルセルテもお疲れ様。プリネシカもね」
「いえ、こちらこそお世話になりました」

 フォロンがユギリ姉妹と年末恒例の会話をしている間、フォロンの手を握ったままのコーティカルテは小さく顔を動かし、飾り付けのされた事務所の中を見回していた。
 ふむ、と赤い少女は小さく頷く。

「パーティーをやると聞いていたが、思ったよりも質素な飾り付けだな」
「あんま派手にやると後片付けが面倒でしょ?」

 苦笑交じりの返答は、テーブルにグラスを並べていたユフィンリーのものだ。
 下ろしたてなのか、フォロンにとっては初めて見る赤いスーツを着たツゲ神曲楽士派遣事務所の若き所長は、肩を竦めるようにして周囲に視線を動かす。

「ホントはもっとぱーっとやりたかったんだけど。もう何処も一杯だって言うし、四日からはもう仕事だしね」
「……所長は、もう少し事前に計画を立てておくべきだと思います」

 疲れたように言うプリネシカ。確かに、いまこの場に居る面子――フォロン、コーティカルテ、ユフィンリー、そしてユギリ姉妹といった面々の中では、一番そういったことをきちんと踏まえそうな少女ではある。ユフィンリーも普段は決して無計画などではないのだが、偶にこう、突発的に何かをしたがる癖があるのが欠点と言えば欠点だろう。尤もそれは行動力の表れであり、フォロンにしてみれば、学生時代からずっと先輩でもあったユフィンリーのそんな強引とも言える行動力に助けられた経験も多いので、別に苦言しようとは思わないのだが。

「飾り付け、僕も手伝いますよ」
「別にいいわよ。気にしないで。フォロンには力仕事を任せるから」

 自分も飾り付けに参加しようとしたフォロンに、ユフィンリーはそう告げる。

「いまレンバルトがヤーディオと一緒に買い出しに行ってるから、それが戻ってきたら――って、丁度来たみたいね」

 ユフィンリーの言葉に被さるように、外から聞き覚えのある車の排気音が聞こえてきた。フォロンのハーメルンと同種の機構を組み込んだ自走式可変型単身楽団、シンクラヴァスの音である。
 排気音が止まって暫くすると、階段を上る足音が複数聞こえ、やがて事務所のドアが外から開けられた。
 姿を見せたのは、フォロンの学生時代の同級生であり、現在の同僚でもある友人、サイキ・レンバルトである。大きな紙袋を抱え、なにやらご機嫌そうだ。

「サイキ・レンバルトただいま戻りました〜……っと、フォロン、来てたのか」
「うん。お疲れ様、レンバルト」
「おう、サンキュな――っと、フォロンも運ぶの手伝え。割と量が多いんだ」
「いいよ。下?」
「ああ。ま、でかい荷物はヤーディオにも運んでもらうけどな。……とまあ、そんな訳で」

 瓶類が入っているのか、レンバルトが手近なテーブルに置いた紙袋からは硬質な音が上がった。紙袋を置いたあと改めてこちらに向けられたレンバルトの顔には、フォロンにとっては見慣れたものではあるものの、どこか悪戯を思いつた子供のような笑みが浮かんでいる。

「ちょいとばかしフォロンを借りてもいいか? コーティカルテ」
「好きにするがいい。……しかし、改めてどうした。何故今更そんなことを問う」
「そりゃぁ、だってなぁ」

 鼠を追い詰める猫のような色を瞳に浮かべながらも、名言はしないレンバルト。
 その視線は不可解そうに眉を顰めるコーティカルテに注がれているようで、しかし微妙に焦点はずれていて、

「……あ」
「あーーーーっ!?」

 フォロンがレンバルトの言いたいことに気づくのと、ペルセルテが悲鳴じみた絶叫を上げるのはほとんど同時だった。

「コ、コーティカルテさん、手、手手、その手はっ!!」
「んむ? ……おぉ」

 一瞬で詰め寄ってきたペルセルテに気圧されながらも、コーティカルテもようやくそのことを思い出したか、自分の手を――フォロンと繋いだままの手を見て、妙にほのぼのとした声を上げた。

「すまんな、フォロン。忘れていた」
「え? あ、いや。うん。ありがとう」

 コーティカルテにしては稀有とさえ言っても差し支えない殊勝な態度に、フォロンは訳も分からず礼を述べてしまう。
 流れるようにフォロンの手を解いたコーティカルテは、ふむ、と呟いたあと、それまでフォロンの手を握っていた自分の手のひらにもう片方の手のひらを重ね、まるで祈るように胸の前で合わせて瞳を閉じる。
 ややあってゆっくりと瞳を開いた赤の少女は、不満そうな顔でコーティカルテを見るペルセルテに視線を向け、

「……ふっ」
「――っ!?」

 うわぁ、とペルセルテの後ろでプリネシカが冷や汗をかきながら呟くが、それは姉の耳に届いたかどうか。
 鼻で笑われたペルセルテは、最早半泣きに近い形でフォロンに向き直った。

「ふぉ、フォロン先輩いまの見ました!?」
「……いや、まあ、ええと。どうだろう」

 見たかと言えばしっかりと見たのだが、果たしてそれを正直に述べていいものか。

「ふふん」

 涙目のペルセルテを尻目に、コーティカルテが思案中のフォロンの腰に横から抱きついた。
 あー、とまたしてもペルセルテの悲鳴が上がる。

「な、なにやってるんですかコーティカルテさん!! 離れてください!!」
「断る。何故私がフォロンから離れればならん。フォロンは私のものだ――そして私はフォロンのものだ。どんな問題がある」
「おおありですっ! フォロン先輩はみんなのものなんですから! コーティカルテさんの占有物じゃありません!!」
「ほほう? ならば逆に私がこうしていても問題は無いわけだ」
「大有りですよ、なんでそうなるんですかっ! 早く離れてください! フォロン先輩も困ってるじゃないですか!!」
「なに? そうなのかフォロン?」
「……えーと……僕は、別に」
「……ふん。だ、そうだが?」
「そ、そんなフォロン先輩っ!? と、とにかく駄目なものは駄目なんですー!!」
「……とりあえず二人とも、人を物扱いするのは止めたほうがいいと思うけど……」

 おずおずとプリネシカが進言するが、当事者二人に聞く気配が無いのは明らかだった。
 ますます加熱しようという様相を呈するコーティカルテとペルセルテを尻目に、レンバルトが運んできた紙袋を覗き込んだユフィンリーが、お、と声を上げた。

「どうしたのよレンバルト、このお酒」
「なかなかのもんでしょ。この間実家に帰る機会があったんで、その時にちょろまかしといたんです。買出しのついでに取って来たんですよ」
「おー、偉い偉い。やるじゃない」
「いやいや、所長ほどでも」

 二人揃って、ふふふ、となにやら邪悪な笑みを交わすレンバルトとユフィンリー。どうやらコーティカルテとペルセルテの口論はいつものことと認識しているらしく、今更口を挟むつもりは無いらしい。
 いまもなにやら言い合っている二人に囲まれ、どうしようかなぁ、と途方に暮れるフォロン。
 と、そのとき。

「……おい、てめーら」

 押し殺したような低い声が、事務所の入り口から聞こえた。
 フォロンはそちらへと顔を向け、あ、と声を上げた。事務所の入り口、ドアを開けたままの格好で、大小の紙袋を抱えた若者が其処に立っている。
 一瞬誰かと思ったが、先の声には聞き覚えがあった。しかしその正体に最初に気づいたのは、やはり、彼の契約者たるユフィンリーだ。

「なにやってんのよ、ヤーディオ。新手の仮装?」
「ははは、面白いこと言ってくれんじゃねーか――投げ飛ばすぞコレ」

 朗らかとさえ表現できそうな声でそう言って、声の主、ヤーディオは抱えた紙袋の山をテーブルの上に置いた。その途端、紙袋の口からごろごろと何かが毀れ出る。
 テーブルから落ちて床に転がったそれを拾い上げ、げ、とユフィンリーは不満げに呟いた。

「ちょっと、何よこの缶詰の山は」
「仕方ねーだろ、こんな時期なんだから。何処の店も閉まってるか、もう食い物なんて残ってねーっつーの」
「じゃあ何? せっかくの忘年会兼新年会だってのに、お酒と缶詰だけで過ごせっていうの?」
「カリカリすんな。別に皆無って訳でもねえよ。ほら坊主、おめーらも運ぶの手伝え。でないとこの腹ペコ熊が何しでかすか分かんね――もとい、何言い出すか分かんねーぞ」
「……あー」
「ちょっとレンバルト。何よその納得したような声は」
「いえ別に。さて。んじゃフォロン、おまえも手伝え」
「うん」
「ほれほれ、急げ急げ。でねぇと何時まで経っても始めらんねーぞ」

 不貞腐れたようなヤーディオに急かされ、フォロンはようやくコーティカルテとペルセルテから開放された。尤も、あっさりとコーティカルテが離れたあたり、コーティカルテにしてみればただじゃれていただけなのかも知れない。
 暫く前に起こったコア強奪事件の際のコーティカルテの不調と、そこからの快復を経て以来、微妙にコーティカルテの振る舞いに余裕が生まれたような気がする。ペルセルテとの言い合いも、開き直ったかのような振る舞いが目立つようになり、その勝率は五分五分にまで持ち直している。それが幸か不幸かは、本人ですら分からないのかも知れないが。
 尤も。

「……ん?」

 腕を組み、勝ち誇ったような笑みを浮かべていたコーティカルテが疑問の声を上げた。
 扉に手を掛けたまま事務所の中を――いいや、コーティカルテを眺めていたフォロンと視線が合うと、はて、と首を傾げる。

「どうした、フォロン。行かないのか?」
「うん、行くけどね」

 変わったのはきっと、彼女だけではないのだろう。
 確証なんて何処にも無い筈なのに、フォロンは不思議と、そう思う。

「おーい、フォロンー。どうしたー?」
「あ、いま行くよレンバルト」

 疑問符を浮かべたままのコーティカルテに笑みを残し、フォロンはレンバルトの呼ぶ方へと足を進めた。



 全員のグラスに飲み物が注がれたのを見て、ユフィンリーが音頭を取った。

「さて」

 事務所に居た全員――ペルセルテ、プリネシカ、ヤーディオ、コーティカルテ、そしてフォロンが、その言葉に視線をユフィンリーへと集中させた。事務所の一番奥、普段ユフィンリーが座っている机の直ぐ傍に立つユフィンリーはぐるりと面々を見渡すと、満足そうに頷いてグラスを掲げる。

「今年も一年間、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」

 社交辞令的な意味合いの強いユフィンリーの言葉に、しかし、その場に居た精霊でない者は声を揃えてそう返した。
 言葉を返さなかった精霊たちも、コーティカルテは鷹揚に頷き、ヤーディオは皮肉気に小さく笑う。

「今年も相変わらず色々あったし、来年もまた懲りずに色々あるだろうけど、これからも一緒に頑張って行きましょう。……レンバルト、いつもありがとう。助かってるよ」
「いえいえ、俺なんてまだまだですよ」
「フォロン、随分としっかりしてきたじゃない。これからも頼りにさせて貰うわ」
「こちらこそよろしくお願いします」
「ペルセルテ、プリネシカ、いつも雑用を押し付けちゃって悪かったわね。二人とももう卒業だけど、資格が取れるまでここに居ていいからね。現役神曲楽士(ダンティスト)の講師も無料でつけるから。勿論、資格を取ったら正式に此処の登録楽師になってもらうけどね?」
「は……はいっ!」
「これからもお世話になります」
「……ま、硬い挨拶はこの辺にして」

 表情を崩し、ユフィンリーはにこりと笑った。

「正真正銘、今年もこれで終わり。最後に楽しみましょう? ――乾杯!」
「乾杯!」

 唱和して、互いに傍に居る者とグラスを合わせる。硬質な音が何度か響き、それは直ぐに談笑に変わった。

「――ほぅ」

 グラスに注がれた琥珀色の液体に口を着けたコーティカルテが、グラスから口を離して小さく呟いた。その瞳には、僅かに驚きの色が浮かんでいる。

「思ったよりもいい酒だな」
「だろ? 親父の部屋から持ち出したもんばっかだからな」

 得意げに言うレンバルト。彼はグラスに注がれたシャンパンを一口で開けてしまい、二杯目を自分で注いでいる。
 そんなレンバルトに、ペルセルテが不満げに口を開いた。

「先輩たちだけずるいです」
「いや、流石にペルセたちにはまだ飲ませられないかな……」

 苦笑しながら、フォロン。普段アルコールをあまり嗜む方ではないのだが、今日ばかりはということでその手のグラスにはレンバルトと同じシャンパンが注がれている。片や未だ学生であるペルセルテとプリネシカのグラスに注がれているのは、ノンアルコールのオレンジジュースだ。
 それはそうですけど、と何故か納得いかなげなペルセルテに苦笑しながら、フォロンも二口目を喉に流し込む。酒の味が分かるほど飲みなれているわけではないが、するりと喉を抜ける清々しさは、成程、レンバルトの父親が秘蔵と呼ぶに相応しい品質(グレード)の品だと分かる。

「――っかぁ! たまんねぇ!!」

 その声に視線を向ければ、こちらはグラスではなく不恰好な椀を手にしたヤーディオが、曇った一升瓶を抱え込みながら悲鳴にも似た歓声を上げていた。

「そうねぇ」

 しみじみと頷くのは、そんなヤーディオと差し向かうようにしてグラスをくゆらせるユフィンリーである。

「ホント、美味しいお酒だわ……けどヤーディオ、アンタそれ一人で飲んだら怒るからね私」
「んならさっさと飲んじまえよな。注いでやっからよ」
「馬鹿。グラスにライスワインなんて邪道でしょうが」
「あー、そりゃそうだ。けど他に椀なんてあっか?」
「ふふふ、その辺は抜かりないわ」

 きらーん、と目を光らせるユフィンリー。そんな契約主に、ヤーディオは呆れと親しみが混じった苦笑を浮かべ、事務所のテーブルに所狭しと並べられた有り合わせの料理に手を伸ばす。
 ヤーディオが小皿に取った料理を隣からぱくつくユフィンリーに、おずおずと声を掛けたのはプリネシカだった。

「あ、あの、所長……ちょっといいですか?」
「ん? なに、プリネシカ」
「グラスがまだ、ええと、五つも余ってるんですけど、これは?」
「ああ、それ? 兄貴の分と、あとはゲストの分」
「……ゲストなんて居たんですか?」

 驚きと言うより今度こそ呆れしか含まないレンバルトの言葉に、ユフィンリーは、そうよ、と頷いた。

「ま、みんな忙しい人たちばっかだけどねー……兄貴は兄貴で相変わらずだし」
「……あ。ひょっとして、その中にカティとシェルちゃん、含まれてます?」
「よく分かったわね、ペルセルテ」
「今日、昼間に擦れ違った時に行けたら行きます、って言ってましたから」
「ふぅん……ま、期待せずに待ちましょう」

 言って、ユフィンリーはグラスの中身を空けた。そのままテーブルを離れ、隣の部屋へと向かう。抜かりない、という言葉を証明するために何かを取りに行ったのだろう。
 その背中を恨めしげに見遣るヤーディオ。理由は、多分、ヤーディオの口には一本も入らなかった春巻きだろう。

「フォロン、そっちはどうだ?」
「え?」

 ちびりちびりとウィスキーを舐めていたコーティカルテが不意にそう言い、フォロンを仰いだ。
 フォロンは一瞬なんのことだか分からず、しかし直ぐに自分が飲んでいるシャンパンの味のことだと悟り――そして、いつの間にか自分のグラスが空になっていることに気付いた。
 思わず、え、と声を上げてしまう。

「何時の間に……」
「やれやれ。どうしたフォロン、幾らなんでも酔うには早いぞ」

 フォロンを嗜めるように微笑むコーティカルテ。と、何を思いついたか、自分の手にしているグラスに視線を落とすと、二度三度その水面をくゆらせたあと、そのグラスをフォロンへと差し出した。
 どこかとろみのある光沢の液体に、フォロンの顔が映し出された。

「飲んでみるか? 中々に美味だぞ?」
「え? ……えーと」

 その提案に思わず思考が停止しかけるが、グラスを勧めるコーティカルテの顔に邪気は無い。
 ならば気構えるのも失礼か――と言うより、そんな思考をしてしまう自分が恥ずかしくなり、フォロンは照れたようにコーティカルテからグラスを受け取った。
 香りを確かめると鼻腔に刺激が走り、相当アルコール度数が高いのだと知れる。なのでフォロンはグラスの縁に口をつけると、舐めるようにウィスキーを口に含んだ。その瞬間、焼けるような熱が舌の上に広がり――けれどそれは、直ぐに芳醇な香りとまろやかな舌触りへと変わる。

「――へぇ」

 こういうのも意外と、と思いながら二口目を口に着けるフォロン。
 と。

「あああああああああああああっ!?」

 本日二度目の、ペルセルテの悲鳴もどきが響いた。
 突然の声にフォロンはむせて――そのせいで更にウィスキーが器官に入り込み涙と咳で酷いことになりながら、それでもフォロンは声の主の立つほうへと顔を向けた。
 プリネシカの傍でテーブルに並べられていた料理をぱくついていたペルセルテが、微妙に啄ばんだ跡のあるサンドイッチを手にしながら、その指をこちらに向けている。指先が微妙に震えているのは、やはり、彼女の驚きと動揺の現れなのだろうか。

「フォ、フォロン先輩、なにやってるんですかぁ!?」
「な、なにって、べ、べつ、に……」

 げほげほと盛大に咳き込みながら、なんとかフォロンは答える。
 しかしその返答はペルセルテにとっては不十分だったのか、彼女は顔を赤くさせてどもりながら叫ぶ。

「そ、そそ、それ!」

 ペルセルテが震える指で示すのは、フォロンの手にしたグラスだ。
 ん、とコーティカルテが見た目相応の子供のように首を傾げ、その代わり、フォロンは、う、と小さく呟いた。

「それじゃあかかか間接キスじゃないですか――っ!?」

 絶叫に近いペルセルテの言葉。
 コーティカルテはその言葉にぴくりと眉を顰めたあと、ゆっくりとフォロンのグラスを――先ほどまで自分が口をつけていたグラスをじっくりと凝視し、やがて、

「……まぁ、なんだ」

 その頬を一瞬で赤く染め、視線を所在無さげに動かしながらしどろもどろに口を開いた。

「飲み終わったら返してもらうからな。……そのグラス」
「そ、そんなことさせません――っ!!」

 ぼそりとした呟きをしっかりと捕らえるペルセルテ。
 ようやく咳が落ち着いたフォロンが目元を拭うと、いつの間にかペルセルテが目の前まで詰め寄っていた。

「フォロン先輩、私にもそれくださいっ!」
「え? でもそれは、」
「なっ!? 何を言い出す小娘!」

 問題があるんじゃ、と言いかけたフォロンを遮り、コーティカルテが声を上げた。
 コーティカルテは横からフォロンとペルセルテの間に割り込み、ペルセルテと向かい合う。身長で明らかに劣っているコーティカルテは踵を離し、ペルセルテとにらみ合うようにしてお互いの硬直状況を作り出した。

「どいてください、コーティカルテさん!」
「嫌だ。断る。誰がどくか」

 ペルセルテの言葉を容赦なく切り捨てるコーティカルテ。うぅ、とペルセルテは呻くようにしてコーティカルテに詰め寄るが、コーティカルテも胸を張るように上体を反らし、一歩も引く気配が無い。
 静かながらも妙に鬼気迫る対峙ではあるが、それもいつものことと言ってしまえばいつものことであり、慣れているのだろう、レンバルトはシャンパン片手にこちらを見ながらけたけたと笑っている。ユフィンリーとヤーディオは差し向かってなにやらぐちぐちと言いながらも酒とつまみに手を出しており、こちらに干渉するつもりはなさそうだ。
 こういうときにペルセルテのブレーキ役になる筈のプリネシカはと言えば、珍しいことに姉のペルセルテを見るでもなく、マイペースにちまちまと料理を啄ばんでいた。尤も、その手に覗くグラスの中身がいつの間にかジュースではなく、どう見ても未成年お断りの液体になっていることと、微妙にその頬が赤くなっていること、更にはおっとりとしたその瞳がいつも以上にとろんとして見えるのは、色々と考慮すべきかもしれない。
 と言うか脇に開けたばかりのブランデーの瓶が見える。
 さも当然のようにアルコールを摂取するプリネシカに一抹の不安を覚えながらも、当面、目の前の二人を止められる人間が居ないのだということだけは明白のようだった。

「……ふぅ」

 小さく息を吐くが、にらみ合う二人はそれに気付いた様子すらない。
 フォロンはとりあえずグラスに三度目の口を着け、滑らかな液体を喉に流し込んだ。



 宴とも魔境とも呼べそうな催しが開始されてから二時間程が経った頃、不意に事務所のドアが叩かれた。

「はい? どうぞー」

 かなりの量を開けているにも関わらず一向に酔う気配の無いユフィンリーが、訪問者を招く。
 おずおずと開かれたドアから中に入ってきたのは、一組の男女だった。但し女のほうは背が低く、それこそコーティカルテよりやや背が高いといった程度でしかない。一方、その背後に付き添うように姿を見せた男は、身長二メートルはあろうかという巨漢だ。二人とも黒の衣装で統一しており、どちらかと言うとフォーマルな雰囲気である。
 無表情に近い少女の代わりに、巨漢がにこりと笑って口を開いた。雰囲気と佇まいからは想像も出来ない程の親しみを持つ笑顔である。

「や、どもツゲ先生。お呼ばれして参りました」
「マナガ、マティア! よく来てくれたわ」

 来客二人の名を呼んだユフィンリーは、手にした杯を軽く掲げて歓迎の意を示した。

「お二人とも、もう上がり?」
「そうでもないんですよ、これが。夜が明ける頃にはまた出なくちゃ行けないんで。ホント、年中暇無しですよ」
「そっか、お疲れ様。じゃあお酒は拙いか。ま、ジュースも揃えてあるし、まだ料理も残ってるから、適当に食べてってよ」
「そうさせてもらいます。なにせ今朝からまだ何にも食べてなくて」
「お世話になります」

 苦笑するマナガに、静々と頭を下げたマティアが続いた。
 マナガは空いているグラス二つにジュースをそれぞれ注ぐと、その片方をマティアへと渡す。ろくに水分補給する暇すら無かったのか、マティアはそれをあっという間に飲み干してしまった。
 言われる前にお代わりを注いだマナガは、事務所の中を見回して呟く。

「しかしまぁ……死屍累々ですな」
「まあねー。皆、思ったより下戸みたい」

 くい、と杯を開けながら拍子抜けしたようにユフィンリーが呟く。
 それに対し、いや、と呆れた顔で呟いたのはヤーディオだ。

「おまえがザルなだけだと思うぞ、俺は……」

 言いながら自分の周囲を見回すヤーディオ。テーブルの上には空になった一升瓶がもう直ぐ二桁に届きそうな本数転がっているので、あながち間違いとは言えない意見だろう。
 しかし、いえ、と口を挟んだのはマティアだった。齢十五でありながら警部という地位に着く少女は冷めた目で周囲を見回し、淡々と言葉を紡ぐ。

「一応、未成年の飲酒は法律で禁止されているんですが……」
「……あははー」

 流石に自分に分が無いと理解しているのか、乾いた笑いと共に明後日を向くユフィンリー。それも当然だろう。明らかに未成年、というか学生であるユギリ姉妹のうち、妹はマイペースに量を摘みながら、決して遅くは無いペースでグラスに入ったアルコールを空けている。一方、姉の方は来客用ソファーで小さくうねりながら沈没中だ。フォロンから奪い取ったグラスを一気飲みして以来、そのままである。
 酒には強いと思われたレンバルトもいつの間にか自分のデスクに突っ伏しており、微動だにしない。
 そしてフォロンはと言えば、

「……ん」

 来客用のソファ――ペルセルテが呻くのとは別のソファに腰掛けたまま、小さな寝息を立てている。
 肩に寄りかかってくるフォロンの重さを心地よく思いながら、コーティカルテは手の中のグラスをくゆらせ、その視線がこちらを向いたマナガのそれとぶつかった。

「……何か言いたいことでもあるのか?」
「いや別に。まぁお互い言いたいことも言わないってコトで」

 苦笑しながら肩を竦めるマナガ。しかしその提案は魅力的だったので、コーティカルテは頷いて肯定を返した。
 さぁて、とマナガは呟く。

「私もご馳走になるとしますかね」
「残しても仕方ないからね。どんどん食べてって」

 焼き鳥の串を咥えながら促すユフィンリー。
 既に料理に手を着け始めているマティアをぼんやりと眺めたあと、コーティカルテはもぞりと横で動いた気配に、視線を自らの契約相手へと戻した。

「フォロン?」

 呼びかけるが、返事は無い。気持ちよさそうに眠っているだけだ。
 どうやら寝返りのようなものだったらしい。コーティカルテは自分が微笑んでいることに苦笑しながら、グラスを反対の手に持ち替え、空いた右手でフォロンの髪を梳いた。入念な手入れなどしている訳ではないのだが、まるで若い娘のものであるかのような手触りである。そう言えば以前、ユフィンリーが恨めしげにそう評していたのを覚えている。
 ……ゆっくりとした呼吸。自然に閉じた瞼。アルコールのせいだろう、普段よりも血色もよさそうだ。
 叶うならば何時までも眺めていても飽きないだろう、その光景。
 しかし、それらの一つが間違えば――その瞬間、全ては絶望に変わるのだろうという思いがある。
 思考を掠めるのは、先日、少なくとも精霊である彼女にとっては先日と評して差し支えの無いあの日に起こった、一連の事件。強制的に調律をずらされ、倒れた自分。深い深い森の中から、まるで手引かれるように眠りから目覚めたあの時。
 目の前にあった、フォロンの顔。音さえ出なくなった単身楽団で、鍵盤に血さえ滲ませて、しかし何処までも真摯な神曲を奏でてくれたフォロン。
 ――あの時。心から、この人に全てを捧げようと思った。
 誓いではない。誓いなどではない。そんな格式ばった言葉なんて、きっと不相応だ。
 だからそれは、ただの思い。あの日交わした、一番最初の約束と同じくらいに価値があり、意味がある、想い。

「……ん……コーティ……」

 寝ぼけたまま、フォロンはコーティカルテの名を呼んだ。
 答えるはずが無いと分かりながらも、コーティカルテは、なんだ、と聞いてやる。
 と、コーティカルテの言葉に応えた訳ではないだろうが、コーティカルテの肩に預けられていたフォロンの頭が小さく動き、こてん、と身体ごと倒れてきた。身体を捻るように顔を上へと向け、その頭がコーティカルテの膝の上に納まる。
 あ、とコーティカルテは呟いた。あの日と同じだ。自分が眠りから目覚め、代わりに、フォロンが安堵の眠りに落ちたあの日。尤も、あの時は自分が本当の姿を晒していて、服も簡素な病院服だったが。
 小さく呻きながら二度三度小さく動いたフォロンは、やがて頭の位置が安定したか、再び安らかな寝息を立て始めた。
 コーティカルテはグラスを床に下ろし、膝の上のフォロンの頭を抱えるように支える。幸せそうな寝顔だ。まるで穢れを知らない子供のよう。毎朝フォロンを起こす役目を負っているだけあってフォロンの寝顔を見るのは初めてではないし、白状するのなら、時々起こす前に暫く見入ってしまうこともあるのだが、それでもやはり、見飽きる、ということはない。
 ……本当に。こうしていると、コア強奪事件の時を思い出してしまう。
 目が覚めた自分は、ずっと呼びかけていてくれたフォロンのことがとても大事に思えて、きっとそれは、ずっと自分に呼びかけてきてくれた、目を覚まして欲しいと、帰ってきて欲しいと、切ないほどの真摯さで詠い続けたフォロンにあっても同じことで。
 だから、自然と自分たちはお互いを抱きしめて、それでも足りず、お互いの存在を確かめようとして――不幸にも、我に返ってしまった。
 多分口にすることは無いと思うが、そのことに関しては、少しだけフォロンを恨んでもいる。あと少し、ほんの数秒、フォロンが我に返るのが遅ければ、きっと自分とフォロンは、その、キスをしていたのかもしれないのだ。
 あの事件が終わって暫くが経つが、それ以降、フォロンとそのような空気になったことはない。なりかけたことなら何度か、或いは何度もあるのだが、その度にフォロンか、或いは自分から、その空気を否定してしまう。その度にフォロンに向かって、このばかもの、と胸の中で呟いたり、同じように、臆病者、と自分に毒づくのだが、きっとそれが知られる日はまだ来ないと思う。
 ただ、それでも――自分とフォロンとの距離が変わりつつあることを、コーティカルテはしっかりと感じていた。急激な変化ではないし、目に見えて何かが変わったわけではないけれど、それでもゆっくりと、フォロンの自分を見る目が、そして自分がフォロンを見る目が変わりつつあることは、確かだと思う。
 ……だから、という訳ではないけれど。
 そろそろ、人間の恋人同士のように接吻の一つもかわして文句は言われないと思うのだが……それが、どうにもできない。
 こんなにも傍に居るのに。
 こんなにも近くに居て、触れ合えるのに。
 こんなにも信頼してくれているのに。
 こんなにも、愛しいのに。
 たったこれだけの距離が、そう、あとちょっと屈めばもう無くなってしまうような、たったこれだけの距離が――

「――なぁ、コーティカルテよ」

 熱にうなされていたかのような思考は、野太いマナガの声で冷水を浴びせられたかのように理性を取り戻した。
 はっと顔を上げれば、目の前に腰を屈めて視線を同じ高さに合わせたマナガの姿がある。
 マナガリアスティノークル・ラグ・エデュライケリアスは沈痛そうな言葉で重々しく呟いた。

「それ以上は、流石に強制猥褻になりかねんと思うんだが、どうよ」
「――ッ!?」

 その言葉で、ようやく――或いは、今更。
 自分が身を屈め、フォロンの顔を間近で覗き込んでいたことにコーティカルテは気付いた。それこそ、あと数センチで、お互いの唇が触れ合ってしまいそうなそんな距離。
 ばっ、と音さえ立てかねない勢いで、コーティカルテは姿勢を正した。そしてようやく、他の面々、意識のあるユフィンリーとヤーディオ、挙句に無関心を装うマティアまでもがこちらを見ていることに気付く。視線が合うと、ユフィンリーとヤーディオはそれぞれ腹を抱えて笑い出し、マティアは何事も無かったかのようにそっぽを向いた。ただ、その頬が僅かに赤くなっているのをコーティカルテは見逃さない。
 ちなみにプリネシカはまだなんか食べてる。

「く、くぅ……」

 何たる不覚、と頬を真っ赤にして呻くコーティカルテ。
 がはは、とマナガは豪快に笑った。

「ま、お前さんが入れ込むのも分かるが、その辺は程ほどにな」
「う、うるさいっ! ……ええいフォロン、何時まで寝てるか! さっさと起きろ!」

 恥ずかしさを紛らわせるように、膝上のフォロンに怒鳴りつけるコーティカルテ。ぺちぺちと頬をはたくと、小さな声でフォロンが呻いた。その瞳がゆっくりと開き、まだ意識の覚醒しきらぬ、焦点の定まっていない視線がコーティカルテのそれと重なった。

「……コーティカルテ?」
「……たわけ、さっさと起きろ。一人で酒を飲んでも――っ!?」

 つまらんのだぞ、と言いかけた言葉は欠片も口から出ることは無かった。
 寝ぼけたままのフォロンがむくりと身体を起こし、不満げに文句をつけるコーティカルテを抱きしめたかと思うと、そのままお互いの唇を重ねたからだ。

「――――っ!?」
「おや」
「まあ」
「……うわぁ」
「ほぉう」

 一瞬で顔を真っ赤にするコーティカルテの視界に、それぞれがどこかずれた感想を洩らす姿が映る。コーティカルテはそんな観客たちに文句をつけようとして、舌がいつの間にかこちらの口腔内に進入していたフォロンのそれと絡まり、更に思考を停止させた。
 粘質な音さえ洩らす濃厚な口付けに、それぞれが更に感想を述べる。

「……凄いわねー。ひょっとしてフォロンって意外とテクニシャン?」
「いや、単にコーティカルテが初心なだけじゃねーかな」
「あー、こら、マティア。見るな見るな。まだ早い」
「…………そ、そんなこと、無いもん」
「情熱的ですね、先輩は」

 延々と何か食べてたプリネシカまで騒ぎに気付いたのか、それともこっちの方がいい肴だとでも思ったのか、グラスを艶やかに傾けながらそんな寝ぼけたことをのたまった。
 が、コーティカルテはそれらの言葉に微塵も反応を返せなかった。舌が絡まって、吸われて、甘噛みされて、融けるように混ざり合って、何も考えられなくて――そんな一瞬が何時間にも、何日にも、いや何年にも感じられて、時間軸は何処までも引き伸ばされて、けれどたいした時間は経ってなくて。
 数分ほどしてフォロンの唇が離れると、コーティカルテの唇との間に透明な糸を引いた。真ん中から自重でぷつりとちぎれたそれは、考えるまでも無くフォロンとコーティカルテの唾液で、何回も飲み込んで、何回も飲み込まれたそれらが混ざり合ったもので。
 こてん、と倒れこむように膝枕の格好に戻ったフォロンは動くことは無く、再び穏やかな寝息を立て始めた。憂いの欠片も無い寝顔だ。
 呆然としていたコーティカルテは、その寝顔を見てようやく事態を正確に理解し――髪の色もかくや、とばかりに顔を染め上げ、再び硬直した。

「……あー」

 ぴくりともしないコーティカルテを見て、困ったようにマナガが周囲に意見を求める。

「どうします、これ」
「そのままにしておけばいいんじゃない? ……っと、電話だ。ヤーディオ、出ろ」
「とうとう命令形かよ、おい……へいへい、取りますよっと」

 事務所に鳴り響いた電話の音に、ユフィンリーはヤーディオをあごで使って応対させる。
 そんな事務所の所長とその契約精霊を傍目に見ながら、プリネシカは新しい瓶の封を切りながらしみじみと呟いた。

「まあ、ペルセが見てないからいいと思いますよ」
「そういうものですかい……?」
「そういうものですよ――あ、これも美味しい」

 実はユフィンリーと負けず劣らずの量を一人で空けているプリネシカだが、あまりにも自然に嗜んでいるためマナガも注意するつもりにならないらしい。はぁ、と気の抜けた返事を返すだけだ。
 と、電話口に出ていたヤーディオが受話器を顔から離してユフィンリーを呼ぶ。

「おーい、ユフィンリー」
「何?」
「あの坊主だ。いまから行ってもいいか、ってよ」
「どの坊主よ、どの」
「だからあの坊主だよ。この間のコアの時のよ」
「……ああ、カティオムね。了解、歓迎するわ、って伝えなさい」
「はいよ」
「カティオムって、オミ・カティオムさんですかい?」

 ユフィンリーが挙げた名前に、マナガが疑問を挟んだ。

「そうだけど?」
「流石に物騒じゃありませんかね。こんな時間に」

 壁に掛かった時計を見ながら言うマナガ。時計の針は、あと十分足らずで日付が変わろうとしていることを示していた。

「よかったら、私が迎えに行きますよ」
「んー……じゃあ頼めるかな、マナガさん」
「はは、ツゲ先生の頼みなら喜んで。ヤーディオさん、カティオムさんにそう告げて貰えますかい?」
「あいよ」
「マナガ、私も」
「いや、一人で大丈夫だ。直ぐに戻ってくるから、マティアはみんなとゆっくりしててくれ――あ、しかし」

 マティアの保護者然とした態度でそう言ったマナガは、最後に表情を崩すとその顔をコーティカルテたちへと向けた。ちなみにコーティカルテはまだ顔を赤くしたまま思考停止状態である。

「あの二人をどうにかしといてくれますかね、ツゲ先生。憧れの二人があんなじゃ、カティオム君が可愛そうだ」
「ヤーディオー」
「ああもう、わぁったよ。やりゃいいんだろやりゃ」
「そういうこと。よろしくー」

 冷奴を橋で突きながら気軽に言うユフィンリー。受話器を戻したヤーディオは、諦めたように項垂れる。
 そんな一人と一柱には欠片も気を払わず、相変わらずプリネシカは料理を突きながら酒で喉を湿していた。



 身体を揺すられて目が覚めた。
 がくがくと乱雑に肩を揺すられて、がっくんがっくんと前後に動く頭がその度にずきずきと痛む。

「おー。起きたか、坊主」
「あ……ヤーディオ?」

 想像した相手とは違う起こし主に、フォロンは寝起きの頭ながら疑問の声を上げる。その理由を正確に汲み取ったか、ヤーディオはけけけと意地が悪そうに笑った。

「コーティカルテじゃなくて悪かったな」
「えっと、別にそういう訳じゃ……」

 一応の弁解をしてみるが、欠片も効果は無さそうだった。
 ヤーディオはやれやれと肩を竦める。

「お姫様ならさっきからトリップ中だ。ほれ、見てみろ」
「え?」

 言われ、ようやく自分が誰かに――いいや、間違いなくコーティカルテに膝枕をされていることに気付き、フォロンは顔を赤くしながら跳ね上がるように身体を起こした。頭が触れていた柔らかかった感触が消えていることを残念に思う自分が居ることに気付き、フォロンは更に顔を赤くする。
 間違いなくコーティカルテから文句の一つも飛んでくるのだろうと思って首を竦めたが――何も飛んでこない。寧ろ何の反応も無い。

「え、えーと……コーティ?」

 おずおずと声を挙げながら、フォロンは背後を、コーティカルテを振り返る。赤い髪の可愛らしい精霊は、しかし顔を真っ赤にしたままどこか焦点の合わぬ視線を彷徨わせている。
 一瞬覚えた嫌な予感の正体は、果たして何であったのだろう。

「コーティ? どうしたの、コーティ?」

 フォロンは自らの契約精霊の名を呼びながら、少女の肩に手を掛ける。その瞬間、びくりとコーティカルテの身体が震え、その瞳に理性の色が戻った。
 あ、とも、え、ともつかぬ呟きを洩らしたコーティカルテは、怯えるようにフォロンへと顔を向け、

「……ふぉ、ふぉろん?」

 泣きそうな声で、契約相手の名を呼んだ。

「どうしたの、コーティ?」
「どうしたって……ふぉろん、おまえ、覚えていないのか……!?」
「え? ……何を?」
「――」

 その言葉で、コーティカルテはすっと我に返ったらしい。二度三度大きく息を吐いて、やがて、ぽこん、とフォロンの頭を叩いた。

「痛っ」
「……」

 ぽこん。ぽこん。ぽこん。ぽこん。……ぽこん。

「痛い、痛いってばコーティ」
「うるさい。うるさい、うるさい! え、ええいフォロン、おまえ、私に何か言うことがあるのではないのか……っ!?」
「え? えーっと……?」

 小さな拳に頭を叩かれながら、フォロンはコーティカルテの言葉の意味を考える。助けを求めるように周囲を見回すが、誰も当てには出来なさそうだった。ユフィンリーは面白そうにこちらを見ながら笑っているだけだし、ヤーディオも同じくだ。ペルセルテはまだ立ち直っていないらしくうんうんと唸っているし、プリネシカはなんか食べてる。いつの間にか来ていたらしいマティアはちらちらと興味深げにこちらを伺っているが、自分からアクションを起こすつもりは無さそうだ。
 ただ、だからと言って答えないという選択が許される筈も無く、涙目のコーティカルテに睨まれるのも堪えられそうにないのでフォロンは必死で答えを探し――やがて、あ、と呟いた。
 改めて、フォロンは自らの契約精霊に、コーティカルテ・アパ・ラグランジェスに向き直った。

「コーティカルテ」
「……う、うむ」
「その、言うタイミングがずれちゃったみたいだけど」
「……た、確かにそうだな」
「でも、ちゃんと言いたいから。言わせて貰うね」
「うむ……頼む。聞かせてくれ」

 躊躇うような、恥ずかしがるような、願うような、祈るような、そんな言葉。
 フォロンは曇りの無い笑顔でコーティカルテに告げた。

「今年もよろしく、コーティカルテ」
「……え?」
「本当は日付が変わった瞬間に言いたかったんだけど、僕、寝ちゃってたみたいだし……ごめんね」

 言いながら、フォロンは壁の時計へと視線をやった。その長針と短針の重なりは僅かにずれており、日付が変わって――年が明けて、数分が経っていることが示されていた。

「……他に」

 ぽつり、とコーティカルテが呟く。
 驚くほど静かな声だった。

「他に何か、言うことは無いのか?」
「他に? ええと……」

 改めて言わねばならないことは、特に見当たらないが――ただ、言っておくべきことなら、あるかもしれない。

「……僕は、まだまだ未熟だし、どんくさいままだけど」

 苦笑しながら告げるフォロン。
 それは、別の意味でコーティカルテにとっては予想外だったようで、赤の精霊は僅かに困惑の視線を向けてきた。

「フォロン?」
「でも、頑張るから。僕の歌を……聞きたいって言ってくれた、コーティの為に、頑張るから。だから、」

 だから。
 フォロンは、僅かに照れたように。

「だから、これからもずっと――僕の傍に、居て欲しい」
「……」

 それがどれほど単純で、難しい願いなのか、いまのフォロンにはよく分かる。コア強奪事件で、その願いがどれほど困難なものなのか……それを思い知らされてしまったが故に。
 だが、それでもフォロンはコーティカルテと共に居たいと思う。これからの苦難を。道のりを。時間の全てを。共に過ごせる全ての時間を、少しでも多く取りたいと思う。
 きょとんとしたコーティカルテは、ややあって言葉の意味を理解したか、戸惑うように視線を泳がせた。
 フォロンも、自分の言葉がどれほど恥ずかしいものなのかを今更理解して、照れたような笑みを浮かべ、その時。

「カティオムさんとシェルウートゥさんをお連れしましたよ」

 野太い声が聞こえ、事務所のドアが開き見知った三人が姿を現した。正確には一人と二柱なのだが、それは些細なことだろう。
 目が合うと、カティオムとシェルウートゥは小さな一礼をしてきた。
 フォロンはそんな二人に声を掛けようとして、

「――コーティ?」

 胸に飛び込んできた小さな身体に、困惑の声を上げた。

「どうし――」

 たの、という言葉は、しかし紡がれない。
 ひょいと飛び込んできたコーティカルテの身体は止まらず、そのまま、ついと背伸びをするように背筋を伸ばし――ちょん、と、赤い少女の唇がフォロンの唇に触れたからだ。
 お、とか、あら、とか様々な声が周囲から聞こえ、一瞬呆然としたフォロンはふと我に返って声を上げた。

「コ、コーティ!?」
「私もだ」

 周りの状況も、フォロンの声も、なにもかも気にしていないとばかりに。
 赤い精霊は、恋する乙女の用にはにかんだ微笑を浮かべ、フォロンに告げた。

「私も、フォロンとずっと一緒に居たいぞ」

 そう言ったコーティカルテは、身体をくたりとフォロンに預けてくる。
 手を離したらそのまま倒れてしまいそうで、フォロンはあわててコーティカルテの身体を抱きしめて――改めて、見物人の存在を思い出した。

「……フォロンさん」

 色々な意味で様々な視線を向けてくる見物人たちに、どんな反応をしようかと戸惑うフォロンに、邪気の無い満面の笑顔を浮かべたカティオムが声を掛けてきた。
 その隣では、顔に朱を差したシェルウートゥが、真剣な瞳でこちらを見ている。

「応援してます。頑張ってください」
「……ええと。うん。ありがとう」

 他に、どんな答えを返せと言うのだろう。
 フォロンの呟いた当たり障りの無い返事に、まずユフィンリーが吹き出した。次いでそれはヤーディオに伝染し、そのままマナガ、カティオムへと移り、やがて事務所に居るほぼ全員が笑い声を挙げた。例外は、いまだのびたままのペルセルテとレンバルト、そして、

「……私は、両方応援すべきなんでしょうね」

 などと、グラスの中の液体で喉を湿しながら怖いことを言うプリネシカだけだった。
 フォロンはどう反応すべきか迷い――結局、コーティカルテを抱きしめたまま、曖昧な笑みを浮かべた。

「ん……フォロン」

 フォロンの首筋に顔を埋めるかのように首に回した手を離さぬコーティカルテ。
 その感触に、フォロンは穏やかな心地を覚え――だから。
 まるでねだられたかのように、フォロンはコーティカルテを抱きしめる手に力を入れた。
 自分はいま、間違いなく幸せなのだと、そんな思いを抱えながら。

[ End ]