木洩れ陽喫茶


彼女たちの言い分






 彼女たちの言い分

 日差し穏やかな春の午後。
 白銀家のテラスに集まり、火乃香が焼き上げたシュークリームの表面のカルメラが香らせる甘いにおいを味と共に楽しみながら心地よい午後の休息(アフタヌーンティー)を楽しんでいる最中、不意に朱音が口を開いた。

「こたろーって、ずるいよね」
「……は?」

 唐突といえば余りに唐突なその物言いに、紅茶の入ったカップに口をつけようとしていた胡太郎はその動きを止め、間の抜けた声を返していた。反応こそ少なかったものの、鳥羽莉も同じ思いなのか、きょとんとしたような目で自らの姉、朱音を見ている。

「ずるいって、何がだよ。言っておくけど、僕はまだシュークリーム一個しか食べてないからな」
「ちーがーうーよー。もう、何を勘違いしてるのさ、こたろー」

 他に何があるんだよ。胸のうちで思わずそう突っ込む胡太郎に、朱音はテーブルの上にぺたりと身体を伏し、顔だけを向けてそう続ける。

「姉さん、行儀が悪いわよ」
「もー、いまはそんなことどうでもいいの。ねぇ、鳥羽莉ちゃんもずるいと思うよね?」

 すまし顔で注意する鳥羽莉をもまるで相手にせず、寧ろより身体の力を抜きテーブルに身体を預けながら朱音は言葉を続ける。
 鳥羽莉は呆れたように首を左右に振った。

「私も胡太郎と同じ意見よ。何がずるいというのかしら?」
「だってー。こたろー、いまはもう私たちと同じ、吸血鬼でしょ?」
「まぁ、そうだけどな」

 朱音の真意が分からぬまま、それでも胡太郎は頷いた。
 ……それは、半年ほど前の話である。文化祭を明日に控えた秋の日の出来事。血の飢えに苛まれた鳥羽莉はとうとう衝動を堪え切れずに胡太郎を襲い、あわや殺しかけ、すんでの所で火乃香に止められた。その後、色々とあって――ある意味冗談みたいな展開の結果、吸血鬼の家系である白銀の生まれでありながら普通の人間であった兎月胡太郎は、双子の姉がそうであるように吸血鬼へとその在り方を変えていた。
 そういう意味では、胡太郎は未だ吸血鬼として半人前ですらない。五年、いいや、そろそろ六年も前になるだろう、それほど以前に吸血鬼となっていた朱音、鳥羽莉に比べたら、まだまだ生まれたばかりの赤ん坊にも等しいだろう。吸血鬼の先輩として、二人の姉には到底頭が上がりそうにない。
 尤も、吸血鬼云々を抜きにしたとしても、果たして二人に頭が上がるかと聞かれれば、それは全力で言葉を濁すしかないのだが。

「胡太郎が吸血鬼になったのが不満なの? 姉さん」
「違うよー。私が言いたいのは、転化があっさりと済んじゃってずるいっていうコト」
「……なるほど、ね」

 苦笑する鳥羽莉。その瞳は納得の色を灯し、こちらへと向けられる。
 確かに、と頷く鳥羽莉の表情は、ここ暫くご無沙汰だった、けれどとても見慣れた小悪魔然としたそれで、それを向けられた胡太郎は条件反射的に冷や汗を浮かべてしまう。
 ゆったりとした動作で自分の小さな唇に指を当て、鳥羽莉は言葉を続けた。

「確かに、私と姉さんが吸血鬼に転化したときに比べたら、ちょっと物足りないわね」
「物足りないって言われても……」
「そーそー。鳥羽莉ちゃんだって結構時間掛かったし、私なんてまるまる一年掛かったんだよー? なのにこたろーってばほんの数時間も掛かってなかったし。ずーるーいーよー」

 テーブルに突っ伏し、テーブルをばんばんと叩きながら朱音が抗議する。その振動でカップに入った紅茶の表面が波打ち、胡太郎は慌ててカップを持ち上げた。
 そんな胡太郎に気付いたかどうか、朱音はぶちぶちと愚痴を続ける。

「なんか話を聞くと特に痛くもなんとも無かったみたいだしー。なんか、こー、得しただけじゃんかー」
「……何を馬鹿なことを言っている」

 背後から聞こえたのは、呆れたような火乃香の声だ。首だけでそちらを見れば、家の中へと続くドアの処に一階から戻って来たらしい火乃香の姿がある。手には皿を抱えており、どうやら追加のシュークリームを焼いてきたらしかった。
 テーブルの元まで歩み寄った火乃香は猫をそうするように朱音の後ろ首を掴み、ひょいと簡単そうにテーブルから離れさせる。空いたスペースに持ってきた皿を置くと、首根っこを掴まれたまま、ぱぁっ、と朱音の表情が輝いた。

「痛みの有無など関係無い。第一、吸血鬼化(それ)が得かどうかも分からないだろう」
「えー、でもさー」
「でもさー、ではない。……まぁ、気持ちも分からないではないがな。お代わりはどうだ?」

 言ってちらりとこちらを見た火乃香は、カップの中が空になっていることに気付いたか、白磁のティーポットを軽く掲げてそう問うて来る。
 お願いします、と胡太郎は答えた。
 火乃香は胡太郎が手渡したカップに紅茶を注ぎながら言葉を続ける。

「あの時の胡太郎の件に関しては、上の方でも判別が難しかったらしいが……胡太郎は転化した訳ではない、というのが結論らしい」
「転化したわけではない?」

 差し出し返されたカップを受け取りながら鸚鵡返しにそう問うと、ああ、と火乃香は頷いた。

「胡太郎は、確かに吸血鬼の一族ではあるが、ただの人間だったからな。朱音や鳥羽莉のように、自発的に吸血鬼に転んだわけではない」
「胡太郎を吸血鬼に"した"のは、あくまで私だものね」

 顔に微笑を浮かべたまま、鳥羽莉が涼やかにそう言った。
 火乃香は小さく頷く。

「そういう事だ。あくまで人間だったが胡太郎が、吸血鬼としての在り方、鳥羽莉の在り方を受け入れて、血液を交換することで吸血鬼へと変化した。端的に言えば自発的か否か、と言うより、受動的か能動的かの違い、か。まあ何にせよ、魔女狩り全盛期ならまだしも、最近は吸血鬼化のサンプルも少ないらしくてな。そういう意味では、胡太郎の一件は貴重だよ」
「そう言えばあの時、大切なモルモットとか言われたなぁ」
「あぁ、そんなこともあったな」

 当時のことを思い出して苦笑する胡太郎に、火乃香も僅かに苦笑して頷いた。
 と、そんな会話を聞いていた朱音がひょいと火乃香の手を離れ、新たに補充されたシュークリームに手を伸ばす。遠慮なくそれを口に含むが、その顔はまだ何処か不機嫌そうだった。

「もう、そんなことはどーでもいーんだよ、火乃香」
「ならばなんだと言うんだ。胡太郎が吸血鬼に転化した訳ではない、というのは事実だぞ?」
「こたろーが吸血鬼になったコトについては、まー、痛くなくてずるいってのはホントだけど、嬉しいよ。これでずっとこたろーと、鳥羽莉ちゃんと一緒に居られるんだからね。ただ、こたろーにおねーちゃんとして言いたいのは、こたろーが、ううん、正確には鳥羽莉ちゃんがずるいってコトだよ」
「私?」

 朱音と共謀し胡太郎を責める側に回っていると思っていたのだろう、朱音の言葉を受けて鳥羽莉が驚いたように声を上げた。朱音はうん、と頷くと、恨めしそうな目で朱音と胡太郎を交互に見やる。

「だって鳥羽莉ちゃん、こたろーを独り占めしてばっかだし」
「そうか? 別に朱音とも話して、」
「――ね、ねねね姉さん、いきなり何を言い出すのよ!」

 るじゃないか、と言おうとした胡太郎を遮り、慌てたように鳥羽莉が声を上げた。いや、ように、ではなく実際に慌てているのだろう。見れば、普段の振る舞いとしては珍しいことに鳥羽莉はその頬を僅かに赤く染め、椅子から身を乗り出しかけていた。
 そんな姉の反応に、胡太郎は朱音の言葉の意味を悟った。つまり、独り占めとは普段のそれではなく、端的に言うのなら、

「そりゃ、もうこたろーは食餌の対象じゃないけどさー」

 怒ったような顔を赤く染め何かを言おうとする鳥羽莉を眺めながら、朱音は意地の悪い声で言う。
 そう、つまりはそういうことだ。食餌――吸血鬼としての食餌。簡単に言うのなら、性行為。

「でもこうもあからさまに鳥羽莉ちゃんだけ構われると、同じおねーちゃんとしてはちょっとじぇらしー感じちゃうなー」
「ジェラシーって、朱音。お、おまえなぁ……」

 いきなり何を言い出すんだコイツ。話題の突然性と内容、その両方に辟易しながら、胡太郎は疲れた声を上げた。隣では、いい加減色々な意味で限界なのか、鳥羽莉が酸欠の金魚のように口をぱくぱくと指せている。
 火乃香が口を開いた。

「鳥羽莉、人を指でさすな。行儀が悪いぞ」
「いや火乃香さん、そういうレベルの会話でも……」
「こたろーも、だよ。そりゃまだ吸血鬼になって半年だし、相手から直に血を吸う方法が良く分からないってのも分かるけれど、何も鳥羽莉ちゃんとばっか練習しなくてもいいじゃんかー」
「し、知ってたのか朱音!?」

 鳥羽莉の言い出した、姉さんには秘密だよ、という約束を思い出しながら絶叫する胡太郎。確かに練習(それ)はしている。大体二日に一度ぐらい。でも一週間だと確実に三回以上。
 勿論だよ、と頷いた朱音は皿の上から新しいシュークリームを手に取り口に含む。その瞳は相変わらず不機嫌そうなままだ。

「あんな大きな声上げちゃってさー。こたろーも吸血鬼なら、どの程度の声なら私に聞こえるか分かりそうなものなのにねー」
「え、あ、いや、えと。朱音……?」
「なのにもー、いつもいつもいつもいつもいっつも、鳥羽莉ちゃんとばっかり。それなのに一度始めると軽く四時間ぐらい続けるしさー」
「そうなのか。激しいな、胡太郎」
「しみじみと言わないでください火乃香さん」

 火乃香の向けてくる、半分ぐらい尊敬が入ってるんじゃないかと思しき視線が堪らなく痛い。なんかこう、軽く半年ぐらい前に捨ててしまった純粋さとか、その辺のものがあった辺りにじんわりと染みる。
 ああ、爛れちまってたんだなぁ、僕。
 心の中で涙する胡太郎に、朱音は容赦なく追い討ちを浴びせた。

「時間だけじゃないよー」
「ほう?」
「回数は大体十回前後? 鳥羽莉ちゃんはその倍ぐらいイっちゃってるけどー」
「なんでそんなトコまで数えてるんだよおまえは!?」
「だって暇だしー。前に私も混ぜてもらおうと思って鳥羽莉ちゃんの部屋まで行ったら、ドアに"姉さんは絶対入室禁止"ってプレート掛かってたし」
「ああ、私も見たな、そのプレートは。何に使うのかと思えば、なるほど、そういう用途か。今度からは色々と考慮、もとい配慮しよう」
「それだけじゃないんだよ、火乃香。終わったあとにはいつも二人でお風呂に入って、其処でも二回ぐらいヤっちゃうんだから」

 ホント底無しだよね、と締めた朱音の言葉には、彼女にしては珍しい呆れの響きすら含まれていた。

「タフだな、二人とも……どうした、胡太郎。テーブルに突っ伏して。行儀が悪いぞ、朱音じゃあるまいに」
「……火乃香さんのマイペースさがちょっと妬ましくなっただけです、気にしないでください」
「ふむ? マイペースかどうかは私には分からないが、胡太郎は鳥羽莉を見習うべきだな。見ろ、何も動じて居ないぞ?」
「え?」

 嘘、と思いながら胡太郎は鳥羽莉を見遣り、そして火乃香の言葉に納得した。なるほど、動じてはいない。と言うか、動じて、ではなく、動いていない。

「鳥羽莉、意外と初心だからなぁ……」

 椅子に座りなおしたかのように見える鳥羽莉はぴくりとも動いておらず、ただその顔に紅潮の名残が見て取れる程度だった。ただその顔は寝苦しい夏の夜のそれのようで、身体は全体的にぐったりとしている。
 限界だったのだろう。
 色々と。

「ねぇこたろー、なんで鳥羽莉ちゃんとばっか練習するの? おねーちゃんじゃダメ?」
「いや、ちょっと落ち着いてよ朱音」
「だーめ。答えなさい、こたろー。おねーちゃん権限だよ。答えないと、」

 にこり、と笑った朱音の瞳が赤く染まる。透明感のある、驚くほど純粋な紅の色。初めて目にした時、あれほど息を呑んだその変化は、この状況下でただただ不吉だった。

「――襲っちゃうぞ? 此処で」
「お、落ち着け朱音。まだ昼間だぞ? て言うか一応屋外だぞ此処!?」
「関係ないよーだ。一度お外でやってみたかったし、それにこたろーだって昼間からずっとくんずほぐれつの時があるじゃん」
「だからおまえはもうちょっと恥じらいってものを」
「はいはい、話題逸らしはダメだよー。さ、答えてこたろー。なんでおねーちゃんじゃダメなの? 身体はほとんど鳥羽莉ちゃんと同じだよ?」
「うぅ……」

 にこにこと迫られる胡太郎は、助けを求めて火乃香を見遣る。が、火乃香は姉弟の問答など知らぬとばかりに涼しい顔で自分の紅茶を飲んでいた。
 もう一度、視線を朱音に向ける。そこに浮かんだ笑みは変わらず、染まった瞳の色もそのままだ。それだけなら酷く無邪気に思えるが、胡太郎の胸には確かな予感があった。
 ――襲われる。
 はぐらかせば、絶対に"喰べられる"。
 それもまあ割りと今更だよな、という思いは全力で無視する事にした。自分はまだ比較的清純派なのだ、と思い込むように勤める。思い込むように、と、勤める、という単語が思い浮かぶあたりでもう駄目だと思わなくもなかった。

「さ、答えて、こたろー」
「うぅ……だ、だってほら、朱音も言ってたじゃないか。同じ吸血鬼は食餌の対象にならないって」
「でもそれは鳥羽莉ちゃんだって同じでしょー?」
「た、タイミングが」
「そりゃ鳥羽莉ちゃんは留学を一年先延ばししたから絶賛ニート生活中だけど」

 地味に酷いこと言うなこいつ。胡太郎はそんなことを思うが、口に出すとまた何か藪から蛇が出て来そうなので何も言わないことにする。

「でも忙しさで言うなら演劇部に残ったこたろーが一番で、次は帰宅部の私だよ? こたろーが暇な時は大体私も暇だってこと、こたろーなら分かってるでしょ?」
「それはそうだけど……」
「それにこたろーってば、鳥羽莉ちゃんとたっくさん練習してるくせに、まだ一度も本番をやってないじゃんかー」
「本番って、朱音」

 その意味は、勿論口に出すまでも無い。
 その通りだけど、と胡太郎は口ごもるように苦く答えた。確かに自分は、吸血鬼になって以来、ただの一度も――鳥羽莉を除くのならば――他者から血液を搾取した事が無い。勿論吸血衝動は覚えるし、それは時に耐えがたいほどの飢えではあるが、そういう時は白銀家に常備されている輸血用パックで凌いでいる。初めて衝動を覚えた時は嫌悪もあったが、それに勝る欲求が確かに存在し、今ではごく当たり前に血液を口にすることが出来る。
 素直な話。
 誰かの血を吸えと言われれば、おそらく、出来るだろう。練習の数や質など関係ない。それは、きっとそういうもの(・・・・・・)なのだ。吸血鬼が吸血鬼である所以。自分を形作る根幹に、他者の血を吸うための術が刻み込まれてしまったのだろう。
 だって、ほら。その光景は、酷く自然に想像できる。自分が誰かの首筋に牙を立て、濃密で甘美な血液(ジュース)をごくりごくりと嚥下する、そんな情景は。
 ただ――相手の顔が、いつも霞んでいるだけなのだ。食餌をしている自分を想像することは出来ても、食餌にさせられている相手の顔は思い浮かばない。

「本番は本番だよ」

 そんな思いを見抜かれたか、それまでとは打って変わって平坦な声で朱音が言った。

「こたろーが吸血鬼になって、もう半年だよ? いつまで輸血パックに頼ってるのさー。そりゃ輸血用パックはお手軽だけど、味も落ちるし、あんまり満足できないでしょ?」
「う」

 図星だ。確かに輸血用パックでも喉の渇きは癒されるが、それが満足感と結びついたことは無い。火乃香に初めてパックを手渡されたときに聞いた、一時凌ぎだ、という言葉は、まさに真実なのだろう。

「駄目だよ、直接吸わないと。いつか壊れちゃうよ?」
「物騒な言葉だなぁ」
「ホントだよ? 加工品に慣れすぎちゃうと、ね。身体が欲しがっても、受け入れられなくなっちゃうんだって」
「けど、直接吸うって……誰から吸えって言うのさ」
「え?」

 きょとん、とした風に朱音は声を上げる。
 その素朴な反応に、胡太郎は底知れない嫌な予感を覚えた。

「誰、って。ほらそこに」
「ああ、やっぱり……」

 ぴ、と朱音が指で示したのは、我関せずとばかりに紅茶を味わっていた火乃香だ。
 突然話題を振られた火乃香は、しかし慌てた様子も無く顔を向けてくる。

「まあ、それが私の仕事だからな。と言うか、何度も尋ねた筈だが?」
「そりゃそうですけど、でも火乃香さんは」

 常日頃からこうして顔を合わせ、身の回りの世話をしてもらっている訳で。
 吸血鬼(じぶんたち)にとっての食餌が吸血と性交である以上、血を吸うという行為がそれだけで終わる筈も無く。朱音が――そして鳥羽莉が火乃香の血を吸っていることは知っているが、そう思うと、やはり吸血意欲より先に気恥ずかしさが沸いてしまう。
 火乃香の首元、襟口から覗く白い肌に自然と目を向けている自分に気付き、胡太郎は慌てて視線を逸らした。

「私では駄目なのか、胡太郎」
「い、いえ、駄目って訳じゃないんですが」
「火乃香相手に気が引けるならー、そうだねぇ、せせりちゃんとかどうなの?」
「――はぁ!?」

 火乃香相手に言い淀んでいた胡太郎は、いきなり過ぎる朱音の提案に思わず大声を上げていた。
 しかし朱音は気にした風は無く、にこにこと言葉を続ける。

「だーかーらー、せせりちゃん。あの子も健気だよねー。まだこたろーのコト狙ってるし」
「ちょ、ちょっと待てよ朱音。なんでそこでせせりの名前が出てくるのさ」
「え? だから、こたろーが血を吸う相手だよ。だいじょーぶ、せせりちゃんならきっとオッケーしてくれるってば」
「だからなんでせせりが」
「あ、せせりちゃんがダメなら涼月ちゃんとかどう? あの子もきっとオッケーしてくれると思うよ?」
「いや、それは無いだろう」

 せせりはともかくとして、次に出てきた涼月の名前に思わず素で返す胡太郎。
 むぅ、と朱音は不機嫌そうに唸る。

「そうかなー? 涼月ちゃん、こたろーのコトが好きだよ、きっと」
「だから何処を見ればそんな言葉が出てくるんだよ。朱音だって見てるだろ? あいつ、相変わらず毎日僕に突っかかって来るんだぞ?」

 それも、半分以上は言い掛かりだ。
 尤も、胡太郎は元々去年の文化祭に合わせて急遽演劇部に入らされたという事情持ちだ。なのに文化祭が終わった後も結局演劇部に居残った挙句、卒業した鳥羽莉の跡を継ぐ形で部長に納まり、挙句に男でありながら公演の機会がある度にメインヒロインを演じている。その辺りも涼月にとっては面白くないのだろうな、と胡太郎も思ってはいるが、生憎これからもヒロインの座を譲るつもりはない。いや、別に女装が癖になったとかそういう訳ではないのだが。
 今年の入学式後に行われたレクリエーションで執り行った講演でも胡太郎は、特にせせりの強い推薦の元ヒロインへとキャストされ、逆に主役を張った涼月と立派に劇を成功させている。その成果かどうか、今年の進入部員は二桁に届くかどうか、といった程度であった。さすが部長っすね、とは丹波の談だ。
 なお、入部を希望し部室を訪れた新入生の多くが、胡太郎の性別を知って唖然としたのはいまの所笑い話である。
 苦い顔で述べる胡太郎を、朱音は呆れたように笑う。

「相変わらずにぶいねー、こたろーは。まあいいんだけど。じゃあ佳推ちゃんとか? それとも櫻子ちゃん?」
「おいおい、下手なことは勧めないでくれよ朱音。世間一般様を巻き込めばただでは済まないんだからな」

 火乃香が嗜めるように口を挟む。
 すると朱音はにやりと笑い、じゃあさ、と切り替えした。

「火乃香にはちゃんとこたろーを誘惑してもらわなきゃダメだねー。元々火乃香がこたろーを誘惑し切れてないのが原因なんだし」
「だから朱音、それは」
「それに関しては言うことが無いのだがな。事実だ。職務怠慢と思われても仕方ない」
「いえ別に火乃香さんのせいじゃ」
「もー、ダメだよこたろー、火乃香を困らせちゃー」

 顔を顰める火乃香にうろたえる胡太郎と、そんな胡太郎を茶化す朱音。
 そんな二人を無視して、しかしだな、と火乃香は苦い口調で言う。

「朱音の言う事にも一理ある。輸血用パックで凌ぐというのは確かに簡単だが、何時までもそうは行かないぞ?」
「それは分かってますけど……」
「ダメだよ火乃香。こたろーってば、いつも臆病者なんだもん。口で言ったって意味が無いよ」
「む。何だよ朱音、臆病者って」
「言葉の通りだよーだ。でもねこたろー、私にいい案があるよ。火乃香も聞いてくれる?」
「なんだ?」
「……なにさ」

 脈絡の無い提案に、正直嫌な予感を覚えながら、それでも一応の礼儀で胡太郎は朱音の言葉を促した。
 朱音はにやりと笑うと、それはねー、と指を立てる。

「これから私と鳥羽莉ちゃんと火乃香で、こたろーに正しい吸血鬼の食餌の仕方を教えてあげるのさー。みっちり三日間ぐらい?」
「――ああ、もう」

 この馬鹿姉は。なんてコトを言い出すのか。
 頭を抱えて蹲りたい――あるいはそれこそ三日間ほど、誰にも知られること無くのんびりとしてみたい。色々な意味で叶いそうも無い夢を抱きながら、胡太郎は呆れ混じりに朱音を嗜めようとした。

「あのなぁ、朱音」
「どうかな、火乃香」
「頼むから人の話を聞いてくれよ!」
「ふむ――三日間は正直厳しいな。おまえたちは構わないのかも知れないが、私がもたん」
「って火乃香さんもそっちなんですか突っ込む所は!?」

 思わず一頻り絶叫して、ふと横で何かが動く気配を感じ、胡太郎は我に返る。
 いつの間にか気を失っていたらしい鳥羽莉が、ゆっくりと身じろぎをして目を覚ましたようだった。

「あ、鳥羽莉ちゃんおはよー」
「目が覚めたか、鳥羽莉」
「姉さん……火乃香? 私、なんで、」

 言いかけて、気を失う直前の記憶を取り戻したのだろう。その顔に険が走り、それはすぐに呆れに変わった。
 しかし、朱音はそんな鳥羽莉をまるで気にした風も無く笑顔を浮かべる。

「鳥羽莉ちゃん、ぐーっどたーいみーんっ」
「もう、なんなのよ姉さん……」
「実はねー――」

 ちょいちょい、と朱音が鳥羽莉を手招きする。鳥羽莉は一瞬嫌そうな顔をするも、素直に朱音に耳を貸す。
 朱音はにんまりと笑い、ごにょごにょと鳥羽莉の耳元で何かを――まぁ、大体予想できる内容ではあるのだが――呟き、その瞬間、色白な鳥羽莉の顔が先ほどと同じか、或いはそれ以上に赤くなった。
 鳥羽莉は慌てたように朱音の下を飛びのき、な、な、と赤い顔のまま呻くように呟き、叫んだ。

「何を考えてるの姉さんはっ!?」
「何って――」

 きょとん、とした朱音は少し考え、

「……気持ちイイこと?」
「だからなんでそんなにあっさり答えられるのよ!? ああもう、火乃香もなんとか言ったらどう!?」
「なんとか、と言われてもな」

 ふむ、と火乃香は考えるような素振りを見せ、

「朱音の言うことも最もだろう。喉の渇きは時に発作的だからな。堪らないときもあるだろう、ほら、こう、むらむらと」
「なんなのよ、なんなのよその修飾語は!?」

 平然と受け答える二人に鳥羽莉は既に泣きそうな勢いで声を上げる。
 えー、と不満げに呟くのは朱音だ。

「そりゃ鳥羽莉ちゃんはいまの状況で満足してるかもしれないけどー。私もこたろーがほーしーいー。具体的にはいま鳥羽莉ちゃんのお腹の中にあるのが欲しい」
「――ッ!!」

 ああ、そういや今朝もやったもんな。もはや完全に他人事のような感慨でそう思いながら、胡太郎は火乃香に新たに注がれた紅茶を啜る。 茶葉そのものが持つ薄っすらとした甘みが色々な意味で疲れた心に心地よい。
 ……なんか、こう。すぐ隣で、常人の数倍か数十倍かぐらいに焦られると、逆に冷静になるのだな、とか思った。

「ね、姉さん!!」
「あはは、駄目だよ鳥羽莉、怒っちゃ。そんなに怒ってばっかだと――」

 朱音は憎らしくなるほどに輝かしい微笑を浮かべた。

「――毀れちゃうよ?」
「――ッ!!」

 いい加減抑えるのも限界だったのだろう。
 鳥羽莉は瞳を紅く染めながら地面を蹴り、朱音へと掴みかかり、

「うわ、危ない危ない」

 同じように瞳を紅くした朱音に、あっさりと回避されてしまう。
 たん、と軽いステップでテラスの手すりのすぐ傍に移動した朱音は、うふ、うふふ、と静かな、そして不気味な笑みを浮かべる鳥羽莉と数メートル離れて対峙する。

「姉さん、もう疲れたでしょう? そろそろ部屋に戻ったらどうかしら――今なら丁重に連れて行ってあげるわよ」
「もー、鳥羽莉ちゃんったらムキになってー。そんなにこたろーのコト独り占めしたいなら、そだねー、7:3ぐらいでいいよ?」
「駄目。渡さないわ、姉さんには」
「むー。じゃぁ6:4でいいよ」
「なんで増えてんだよ」

 思わずそう突っ込んで、ふと胡太郎は思った。ひょっとして、「7」の方が自分のつもりだったんだろうか、朱音は。
 鳥羽莉は微笑んで、目だけ笑わず、じりじりと朱音との距離を詰める。

「ふふふ、遠慮しないで姉さん――きっと痛くないから」
「うわ、凄く微妙な言い回しだねそれ。……あ」

 ぽつり、と。
 鳥羽莉の足を指差して、朱音が呟いた。

「垂れて来た」
「――ッ!?」

 鳥羽莉はその指摘に顔を紅くして、反射的に足を閉じ、

「あははっ、嘘だよーっ」

 朱音は弾けるような笑みでそう言って、ひょい、と手すりを飛び越えた。

「ね、姉さん――!!」

 堪忍袋の緒はとうに切れていたのだろう、怒りか羞恥か、或いは、と言うか多分その両方で顔を顔を紅くしたまま、鳥羽莉も朱音の後を追って手すりを飛び越える。
 一応ココ二階だよなぁ、と胡太郎は思うが、吸血鬼化したいまの自分にしてみればそれは些細なことで、ならば吸血鬼として先輩である二人の姉にとってもそれは同様だろう。階下から聞こえる、あははー、鳥羽莉ちゃんこっちだよー、という声や、姉さん、という叫び声は聞かないことにする。
 はぁ、と心底疲労の吐息を吐けば、火乃香が声を掛けてきた。

「止めないのか? 胡太郎」
「止めて止まるなら止めますけどね」

 あそこまで楽しんでいる朱音と楽しまれている鳥羽莉を止めるような自信は、正直、無い。
 まぁ、放っておいても大丈夫だろう。どの程度追いかけっこが続くかは分からないが、終わった所で何が変わるとも思えない。あの二人のパワーバランスがそう簡単に崩れ去るようなことは無いだろう。
 ただ、唯一の頭痛の種と言えば――最終的には、朱音の申し出が受理されてしまうこと程度だ。

「まあ、頑張ってくれ」

 色々と見透かされているのだろう、まるっきり他人事の様に火乃香が言った。

「何度も言ったが、私の血を吸ってくれても構わないぞ」
「ですからそれは」
「それにだな、胡太郎。私は確か以前に言ったと思うのだが」

 こちらの言葉を聴く気配も無く、火乃香はこちらを流し見る。それは何処か責めるような視線で、何処か拗ねたような視線だった。

「私は君とずっと一緒に居る、と言った筈なのだが」
「それは」

 確かに、言われた気がするが――その時、自分はまだ全うな人間だった訳で。

「言っておくが、吸血鬼云々は関係無いぞ。勿論、いまとあの時では事情が違うのは承知しているが、だからと言ってその言葉が無効になる訳ではない。それは覚えておいてくれ」
「……はい」

 苦笑しながら胡太郎が頷くと、そうか、と言って火乃香は立ち上がる。

「行くんですか?」
「野放しにしておくのもアレだろう。あまり暴れられて掃除の手間が増えるのも考え物だ」
「手伝いましょうか?」
「何、気にするな。朱音の世話も、鳥羽莉の世話も私の役目だからな――胡太郎の世話も、だが」

 くすくすと笑い、火乃香はテラスを後にした。
 椅子に座ったまま一人残され、しかしすぐ傍に気配を感じ、そちらを――椅子の下を覗き込む。
 其処には何時から存在していたのか、見慣れた黒猫が座り込んでいた。

「やれやれ」

 椅子に座りなおして呟くと、にゃお、と椅子の下で黒猫が鳴いた。
 鳥羽莉。朱音。そして火乃香。或いは、せせり、涼月。
 彼女たちの流儀(生き方)には――やはり、振り回されるしかなさそうだった。





[ Curtain Fall ]