木洩れ陽喫茶


終ノ話





 いつかの日のように、夜中にふと目が覚めた。
 春の気配も近い夜である。窓から差し込む月の光は思いのほか明るく、しかし、かすかに開いたそこからは普段なら聞こえるであろう夜鳥の声が届かない。ただ風だけが吹く、驚くほどに静かな夜。
 夜明けは雨雲と共に訪れるかもしれない。湿り気を帯びた風に、私はぼんやりとそんなことを考えた。

 私は上着だけに袖を通して部屋を出た。向かう先はリビングへだ。寝直そうと思わなかったのは、多分、何かの予感があったからだろう。リビング、とは言っても所詮小さな教会に併設された小さく質素な家である。小さいながらも部屋が幾つか用意されていたから、土間に一番近いそこをリビングとしたに過ぎない。
 ひやりとした空気が横たわった短い廊下を抜け、ドアを開ければ、或いは予想通りに、襤褸のケープを羽織り窓から外を眺める彼女の姿があった。桟の上にて共をするランプはゆらゆらと揺らめき、その光が彼女の影を壁に映し出している。
 私のことには気付いているだろう。しかし彼女は何も言わず、だから私も何も問わず、ただ、こんばんは、と声を掛けた。

「何を見ているの?」
「お星様よ。今日はとても――綺麗な空、だから」

 たおやかな声で彼女は答えた。ちらり、と此方に視線を向けてくる。蛍色の光に照らされて浮かび上がるのは、上品な、たとえどんな貧しい暮らしにあろうと決して消すことの出来ない気品を孕んだ黄金の髪と、深い深い碧の瞳。私よりも年下だからというのもあるだろうけれど、それはまるで、お話に聞くお姫様を思わせる。
 光の加減だろうか。一瞬揺らいだその瞳は、しかし、次の瞬間には見慣れた色を取り戻している。丸みを帯びた、歳相応の、そしてある程度の貧しさを知った瞳。
 どうしたの、と彼女は問うた。

「こんな時間に起きるだなんて。恐い夢でも見たのかしら?」
「いいえ。ただの気まぐれよ」

 その言葉に他意はない。そう、と頷き、彼女は再び顔を夜空へと向けた。もう寝なさい、という言葉は、きっと、掛けても無駄なのだろう。
 だから私は、代わりに別の言葉を掛けた。

「何か用意しましょうか?」
「え?」
「こんな時間に目が覚めて、少し、お腹が空いてしまったの」

 私がそういうと、彼女はくすりと笑い、お願いするわ、と言った。
 土間に行き、二人分のカップを用意する。本当はお茶でも入れたいところだけれど、決して潤沢とは言えない薪を使うのは少し躊躇われた。代わりに香草で風味をつけた香水を用意する。村の子供たちには変な味と不評だが、あの娘は思いのほかこれがお気に入りのようだ。
 ――そういえば。私は、戸棚から昼にあの子が焼いてくれた焼き菓子を取り出しながら思い出す。あの子も、私の淹れた香水を気に入ってくれたっけ。
 ふと脳裏をよぎったのは、あの日、一緒に村を出た少女。誰よりも綺麗で、誰よりも可愛くて、それなのに、こんな私の友達になってくれた優しい子。こんな私を、素敵な人と言ってくれた人。いま夜空を見上げている少女とは似ても似つかない子だったのに。好みが同じだなんて、どこか皮肉で、素敵な話だ。
 用意したのは二人分の香水と二つの焼き菓子。シンプルな味付けのそれは、最近彼女が覚えた料理だ。一緒に暮らし始めた頃は料理はおろか水汲みもまともに出来ない子だったのに、いまでは料理も覚え、こうやってお菓子を作ることも覚えた。裁縫もずっと上手になったし、きっと、女性としては私よりもずっと彼女のほうが素敵なのだろう。
 ……尤も。それは、考えるまでも無く、当然のことなのだろうけれど。
 リビングに戻っても、彼女は先ほど変わらぬ姿勢で星を眺めていた。この季節、この時間、この方角に見える夜空には幾つかの星座が撒かれている。曰く、神に謀反を起こし空へと追放された荒くれ者。曰く、その荒くれ者を刺し殺したとする蠍。そして、

「お気に入りの星は見える?」
「ええ。今夜もとても綺麗」

 彼女の視線は、ずっと、夜空の一点に注がれて揺るがない。その先にあるのは、寄り添うように浮かんだ二つの光。
 曰く――引き裂かれたが故に、永久に共に居ることを許された、幼い双子の星座。
 私は彼女の隣に立ち、彼女にお菓子とカップを手渡した。ありがとう、と彼女は微笑む。その言葉が自然に出るようになったのは、いったいいつからだっただろうか?
 女二人で肩を並べ、同じ夜空に視線を向ける。深い空。虫の音さえ聞こえぬ夜は、確かに雨の気配を孕んでいた。
 焼き菓子に口を着ける。お菓子、とは言っても砂糖なんて使えるはずも無い。小麦とバターを使っただけのそれは、普通のパンとあまり変わらない。お腹に溜まるし、保存も利くから、そういう意味ではありがたくはあるのだけれど。
 ぼそりとした触感に、私は苦笑する。お世辞にも上手に出来ているとは言えないけれど、料理の初歩も知らなかった頃に比べれば格段の進歩だ。それに、私だって人のことは言えはしない。私も、料理を始めたばかりの頃、あの子に教えて貰ったばかりのころは、いっそこれよりもずっと酷い出来のものしか作れなかったのだから。にも関わらず、そんな私の料理を一緒に苦笑しながら食べて、根気強く私に料理を教えてくれたあの子には、感謝以外の念を抱けない。
 ……そんな私も、いまこうやって他人の作ったお菓子に文句をつけ、それどころか彼女に料理を初めとした様々な知識を授ける立場にある。人は、変われば変わるものらしい。いや、それとも。変わらずには居られないのだろうか。
 私も。
 きっと、彼女も。
 お菓子の出来に満足していないのは、どうやら彼女も同じであるらしい。小鳥が果実を啄ばむように焼き菓子に口をつけた彼女は、しかしあからさまに顔を顰めた。それは不満げというよりかは悔しげな表情だ。
 うまくいかないわね、と彼女はぼやいた。

「何度作っても何度作っても、うまくいかないわ」
「そんなことはないわ。随分と上手に焼けるようになったじゃない」
「そう? ……でも、私の食べたい味とは違うの」

 彼女の顔に笑みが浮かんだ。朝露を浴びて開いた花のように柔らかな、どこまでもどこまでも、泣きそうな苦笑。

「どうしてかしらね。あの頃食べていたものも、そんなに手の込んだものじゃなかった筈なのに……」
「目指す味があるの?」
「ええ。昔――よく、これを作ってくれた人が居て。もっと甘い、ずっと美味しいお菓子もあったのに、何故かこれが好きだったわ」

 彼女は笑みを消さぬまま、何処か遠くを見るような瞳を見せた。夜空の星よりも遥かに遠い場所。おそらくはずっと昔に過ぎ去った場所を顧みるような、そんな顔。
 ……人は変わる。変わってしまう。望まれて変わる者もあれば、望まずに変わる者もあり、望まれずに変わる者もあるだろう。望んで変わる、変われる者などほんの一握りであることを私は知っている。彼女が私を変えてくれるまで、何も変われなかった私のように。
 けれど。だとしたら、この少女はどうなのだろう。夜空に視線を馳せ、過ぎ去った過去を思う少女は。遺恨ではなく後悔を、羨望ではなく悲しみを、憎しみではなく寂しさを滲ませたこの少女は、はたして、変わることを許されたのだろうか?
 私には何も分からない。だから私は何も言えずにお菓子を食べ終え、香水を飲み干した。羽織っていた上着を彼女に被せた。

「なに?」
「まだ寝るつもりは無いのでしょう? まだ夜は冷えるわ。風邪を引かないようにね」
「……ありがとう。おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」

 それ以上掛ける言葉は見当たらなかった。私はリビングを後にする。廊下に出るとき、最後に見た彼女は、最後まで一人夜空を見上げていた。
 部屋に戻り、すっかり熱の抜けてしまったベッドに潜り込む。ほどよい満腹感は心地よい眠りに最適だろう。そうそうできるような贅沢ではないが、たまにはこんな夜も許されると願いたい。
 ――彼女は。自分の瞼の裏側を眺めながら、私は思う。彼女は。彼女は、変わることを許されるのだろうか?
 私には分からない。きっと。きっと、彼女を許す人は居ると思う。けれど、それと同じか、それ以上に、彼女が許されることを、彼女が変わってしまうことを許さぬ人が居ると思う。そのどちらが正しいのかなんて、私なんかに分かる筈がない。
 私に出来ることなんて、何も無い。
 ……けれど。けれど、そんな私を、素敵な人だと言ってくれた人が居た。私よりもずっと可愛くて、素敵だったあの少女は、卑しい私を誰よりも素敵だと言ってくれたのだ。
 だから、私は信じる。私は変われる。私は、私には、何かが出来る。そう信じるのではなく、そうであると言ってくれたあの子を信じる。もう何年も前に雲の上へと行ってしまった親友の言葉は、無抵抗に信じるに値するものだから。
 私は、私がなすべきことを。そう思いながら、私の意識は夢の海へと沈んでいった。



 私を眠りから覚ましたのは、戸に打ち付ける激しい雨の音だった。やはり昨夜の予想は当たっていたらしい。最近、心なしか雨が多い気がするが、その思いが間違っていないのなら、それは喜ばしいことだろう。雨が増えると言うことは、春が近づいているということなのだから。
 普段着に着替え、上着を羽織って部屋を出る。昨夜彼女に預けた上着は、目覚めたときベッドの上に布団と共に被せられていた。
 雨のせいもあるだろうけれど、今朝はいつもより肌寒い。けれど、不思議とそれを辛いとは思わなかった。久しぶりに懐かしい夢を見たからだろうか? こんなに寒い朝なのに、胸の中は穏やかだ。私は暖炉に火をくべて、朝食の準備に取り掛かる。あまり贅沢はできないけれど、スープを温めるぐらいの我侭は許して欲しい。
 彼女が顔を見せたのは、簡単な朝食の準備を終えた頃だった。まだ眠そうな目をした彼女は、寝癖のとりきれていない髪のまま、おはようございます、と私に告げてテーブルにつく。

「おはよう。寝足りないみたいね」
「そうね……夜更かしなんてするものじゃないわ」

 苦笑しながら彼女は固いパンに手をつけた。私も同じように朝食を開始する。

「今日はどうするの?」

 雨音を聞きながら、私は彼女にそう尋ねた。彼女は野菜の端切れのスープで口の中を潤しながら答える。

「いつも通りよ。そろそろまた一冊終わりそうね」
「ならまた街に持って行ってもらわないといけないわね。いつもありがとう」
「それは私の台詞よ。居させて貰っているのは私の方なのだから」

 私の感謝を、しかし彼女は確りと否定した。私が何度口にしても、彼女は自分が居候であるという立場を崩そうとはしない。彼女には彼女なりの教示があるらしい。
 だから私はそれ以上なにも言わず、代わりに胸の中で今一度感謝の言葉を呟いた。単純な畑仕事や裁縫、教会の掃除ぐらいしかできない――何せ私には修道士の資格すらないのだから――私と違い、彼女には立派な仕事がある。写本作業。書き写した聖書や物語を行商人に売るという仕事だが、現状、私たちの生活における貴重な現金収入だ。私自身近くの港町では余所者であり、寂れ見捨てられた教会の修繕維持という立場でこの家に住むことを認められているが、そんな私が男手も無い女二人で、それでも生活できている理由は、彼女が写した本から得られる現金収入の占める割合が少なくない。
 文字の読み書きができる――教養があるということは、それだけで価値のあることなのだと思い知らされる。
 彼女には彼女にしか出来ないことが、少なくとも私には出来ないことがある。それはとても素晴らしいことだと思うのだけれど、彼女自身はそうは思っていないようだった。

「あなたはどうするの?」

 小ぶりのパンを平らげて、彼女はそう問うて来た。

「この雨じゃ畑仕事なんて出来ないでしょう?」
「そうね。今日は、お菓子を焼こうと思ってるの」
「お菓子?」

 首を傾げて言葉を返してくる彼女。
 ええ、と私は頷いた。

「いつもあなたに作って貰ってばかりだし、たまには私に作らせて頂戴」

 別に畑仕事が出来ないからといってやるべきことが無いではない。ただ、懐かしい夢を見たからだろう。今日はどうしてもお菓子を、あの子が教えてくれて、あの子が美味しいと言ってくれた焼き菓子を作りたいと思ったのだ。
 私の言葉に、そうね、と答えた彼女は、それでもどこか物足りなさそうで、私は思わず小さく笑ってしまった。



 今朝見た夢は、正に夢のような日々だった。
 それは希望でも、嘆願でも、幻想ですらなく、実際にあった日々の記憶。そう長くは続かなかったけれど、懐かしむほど昔でもないあの頃、当たり前のようにそこにあった日常。
 礼拝堂しか無い古く小さな教会の掃除を終え家に戻った私は、今朝彼女に告げた通りお菓子作りの準備を始めた。それほど手の込んだものではないし、高価な材料を使うものでもない。裏の畑の隅で育てた香草と、以前港町の住人に教会を管理するお礼として頂いたブランデー。あとは取って置きの蜂蜜。あの頃作ったものよりは見劣りするかもしれないけれど、いまの私にはこれでも十分に贅沢品だ。
 小麦粉をバターと一緒に混ぜて作った生地を捏ねながら、私はあの日々を回顧する。友人と、何も出来なかったこんな私と友達になってくれたあの子と一緒に生まれ育った村を飛び出して、遠くの街で暮らし始めていたあの頃。裕福な商人の、その妻の使用人。生きていくために選んだ、私たちの仕事。失敗も多く、辛いこともたくさんあったけど、それでも、いままで人生の中で一番輝いていた、満たされていた時間だと確信を持って言える。
 いま作っているのは、その頃、同じ使用人だった初老の女性に教えて貰った焼き菓子だ。思えば私が初めて身に付けたお菓子の作り方で、今にして思えば滑稽なほどに繰り返し繰り返し焼いていた。その一因は、私の焼いたお菓子を食べた彼女が、心から美味しいと言ってくれたことに違いないだろう。
 大した工夫なんてしていない、とりわけ凝った作りでもないのに、あの子はとても美味しいと言ってくれた。それだけでなく、周りの人にも薦めていてくれて、恥ずかしいから止めてと言ったのに、彼女はそんな私に微笑を残し、美味しそうにこの焼き菓子を頬張ってくれたのだ。ああ、そういえば、同じ使用人仲間に留まらず、屋敷に訪れた私達にとって比較的気楽な客人、他の屋敷からの使いの人たちにも振舞っていたような気もする。
 最後に作ったのは何時だろう? 確かあの戦争が始まる前だ。ある日突然始まった戦争は本物の火よりもずっと早く全てを飲み込んで、地獄の悪魔のようにぺろりと暖かな日々を平らげた。
 残ったのは私だけ。
 何も出来ない私だけ。
 ……そう思っていたのだけれど。
 形を整えた生地を、熱したオーブンへと入れる。何も考えずに使えるほど薪は安くは無いのだけれど、この薪の代金はほぼ全て彼女が稼いでくれたお金で賄われている。自分がよく使うから、と彼女は言っていた。
 オーブンの扉を閉めて、あとは焼きあがるのを待つだけだ。どれくらい掛かるの、とあのとき彼女は私に尋ねた。ああ、そうか。そう言えばつい最近、このお菓子を焼いたっけ。お菓子の作り方を教えて欲しいと、それまで満足に笑顔も見せなかった彼女が、初めて自分から言い出したお願いごと。尤も、あの時はもっと簡単に、包丁も握ったことが無いという彼女のために色々と作業を省いて説明したから、随分と簡単な味になってしまったけれど。
 程なくして、生地の焼けるにおいが漂ってきた。焼きあがったお菓子を皿に取ってテーブルに置き、私は彼女を呼びに部屋へと向かう。ドア越しに声を掛けると、すぐに行くわ、という返事が返ってきた。
 リビングで待っていると、言葉の通り、やがて彼女がやってきた。気のせいか、彼女は心持ち嬉しそうな表情で席に着く。

「写本、また一冊終わったわ。そろそろ溜まって来たし、近いうちに持っていってくれないかしら?」
「ええ、分かったわ。いつもありがとうね」

 ある程度写本が溜まったら、それを港町に立ち寄る行商人のところまで持って行って現金に換える。その作業は私の役目だ。文字が満足に読めない私より、彼女が直接売りに行った方がいいと思うのだが、その提案に彼女は決して首を縦に振らない。それどころか、彼女は一度たりとも自ら進んで街に足を向けたことが無い。出向く先はと言えば、香草を積んだり薪を拾ったりするために向かう近くの森か、裏の小さな畑だけだ。そのどちらにしても、出向くときにはフードを目深に被り、肌の露出を可能な限り抑えているように見える。
 その暮らし方は、まるで隠遁者だ。……そして、おそらく。その比喩は、限りなく、正解に近いのだろう。

「……随分といいにおいね。私が作るのとは段違いだわ」
「あなたも上手になったわよ。よかったら食べて」
「ええ、いただきます」

 苦笑しながらそう言った彼女は、小さな口で焼き菓子に可愛らしい噛み跡をつけた。彼女の顔に、僅かな驚きの色が浮かんだ。

「美味しい?」

 私の問いかけに、しかし彼女は答えない。ただただゆっくりと咀嚼し、嚥下して、もう一度、今度は先ほどよりもほんの少し大きな歯型を、焼きあがった生地に刻んだ。
 そんな動作を何回か、出来の悪い人形劇のように繰り返し、ふと、彼女は呟く。

「どうして……?」

 それは、とても平坦な問いかけ。掠れて、掠れて、裏地が見えそうな程にぼろぼろに擦り切れた、薄っぺらな声。

「どうして……この味、なの? どうしてあなたが、この味を知っているの?」
「どうして、って……どこかで食べたことがあったの?」

 彼女は私の問いには答えず、二つ目の焼き菓子に手を伸ばした。
 俯いてしまったその姿からは、表情が伺えない。

「……ううん。こんな味、初めて」

 ゆっくりとゆっくりと二つ目を平らげた彼女は、やがてぽつりとそう言った。力の無い手が、またお皿に伸びる。

「あの子が作ってくれたのはもっと柔らかかったし、甘かったわ。これとは全然違う。もっと、もっとずっと、美味しかった。こんなに、こんなにも全然違うのに、」

 なんで、と紡がれた声は、弱々しく震えたものだった。

「なんでこんなに、似ているの」

 呟いた言葉は、まるで嘆きのよう。
 彼女は顔を上げる。その表情は、何かを喪ったかのように色の無い、虚ろなものだった。ただ、その瞳。感情を灯さぬ碧に私だけを映した瞳の縁に、透明な何かが覗いていた。

「どうしてあなたが、この味を知っているの?」
「それは、」

 知らない。そんなことを問われても、私に返すべき言葉は無い。
 だから、その代わりに、私は質問を投げることしか出来なかった。

「あの子って、誰?」
「――」

 私の問いに、彼女の口が小さく戦慄いた。まるで言葉を覚える前の赤子のように。許されないと。その言葉を口にすることは、決して許されないのだと悟っているかのように。何度も何度もその口は形を作り、しかし音を紡がずに。
 けれど。
 けれど、決して。決してそれは忘れてはならぬのだと。たとえその言葉が己の腸を引き裂き骨子を磨り潰そうと、それだけは決して譲れぬと、紛れも無い決意と共に。
 彼女は、その言葉を口にした。

「おとうと」

 ……音もなく。彼女の瞳を満たした揺らぎが溢れ、頬を伝う。それは止まる気配を見せず、彼女もそれを拭おうともせず、ただただ流れるままに涙を零し、言葉を紡ぐ。

「私の、双子の弟。私の弟よ。とてもいい子だったの。私なんかよりずっと賢くて、ずっと優しくて、ずっとみんなに好かれていて、私の、こんな私の我儘をいつもいつも、なんで、なんで私なんかのことばっかりいつも――」

 答えは何時しか吐露となり、懺悔へと変わっていた。ごめんなさい。彼女の唇は何度もそう動き、けれど決してその言葉を紡ぐことはなく、ただただ、なぜ、どうしてと疑問を、いいや、己へと向けた断罪をのみ紡ぎだす。

「あの子は、私なんかよりずっと――」

 その言葉を最後まで聞くことも出来ず、私は席を立っていた。



 日が完全に暮れてしまうまで、私は自分の部屋で一人時間を過ごしていた。
 机の上には、手元が見づらくなった時点で投げ出してしまった刺繍の道具が投げ出されている。こういうとき、細かい作業は一種の救済にも似ている。そちらに集中している間はほかの事を考えることが出来ないからだ。
 ……それが逃避なのだということは承知している。けれど、私に何が出来るだろう。何も知らない、何も知ってはいないと彼女が思っている私に、どんな言葉を返すことが出来ただろう。
 世界は夜の闇に沈んでいる。どうやら、いつの間にか雨は止んでしまっていたらしい。分厚い雲の代わりに月も星も覗いた空は、夜とは思えないほどに明るく綺麗だ。だから、余計に思い出してしまう。あの日、あのとき。古びた教会の、小さな小さな懺悔室。其処から聞こえた彼女の告白を。
 何も知らない私にも、想像は出来る。出来てしまう。革命から数年が過ぎたいまをして『悪』とのみ評されるあの女王。当時齢僅か十四にして国の頂にあり、立ち上がった民衆によって処刑された暴君。その傍らには、常によく似た顔の召使の姿があった。その程度のことは、おそらくは、あの戦火に巻き込まれ、女王の処刑を心から喜んだ者ならば誰しも知っている噂話でしかない。
 けれど。彼女の告白と、彼女の吐露と、彼女の反応と。それらはきっと、誰にとっても望ましくない、ある種の喜劇を暗示している。
 ……喜劇。そう、喜劇だ。道化が笑い、王が崩れ、民が惑わされ、最後に道化が地平線の向こうへと子供たちを率いていくような、そんな喜劇。誰もが笑い、笑い、笑うことしかできないような、そんな結末。
 だとしたら、私は間違いなく、その一端を担ってしまっている。私の味を知っていると言った彼女。その味を作ったという双子の弟。顔の良く似た召使。屋敷に訪れた誰か。彼にそれを振舞ったかもしれない彼女。全ては空想でしかなく、妄想ですらあるだろう。だからそれは喜劇だ。喜劇であるべきだと思う。
 でなければ、こんな因果にどんな意味があるというのだろうか?
 私は部屋を出てリビングへと向かった。その部屋には既に誰の姿も無い。彼女が自分の部屋に戻ったことは気配で察していた。
 部屋の中、テーブルの上には僅かに残った焼き菓子がある。私が今日焼いたものではなく、昨日、彼女が焼いたものの残りだ。私はその一つを手にとって外に出た。隣にある小さな教会へと足を踏み入れる。
 薄汚い礼拝堂は、ステンドグラスを通る月明かりによってのみ照らされていた。休日の祈り以外ではおそらく誰も近づかないであろうそこを抜け、礼拝堂の奥、こじんまりとした部屋へと足を踏み入れる。部屋と言っても、其処にあるのは小さな机と椅子だけだ。机の上にはついたてがあり、声を通すための穴だけがそのついたてに空いている。
 懺悔室。迷える子羊が己の罪を吐露するべき場所。
 尤も、いま、この教会に主たる者の姿はなく、どれほどの意味があるのかは判らないのだけれど。
 私は椅子に座った。テーブルの上に肘を突く。取った姿勢は、自然、誰かが何かを吐露するような格好だった。けれど、言葉は浮かばない。吐露すべき罪、懺悔したいと思わせる罪過はあるけれど、それをどうやって言葉にすればいいのかが分からない。
 だから、代わりに私は思考する。思うのは彼女のこと。弟を思い、偲び、涙をぼろぼろと零しながら、とうとう謝罪の言葉を紡ぐことをしかった彼女。
 何故謝罪しなかったのかと言えば、その理由は、実のところ、想像に難くない。
 おそらく。
 あくまでおそらくの仮定ではあるが、彼女はきっと、謝罪することによって彼女の弟がもたらした結末を否定することを拒んだのだろう。経緯は知らない。詳細な結末にもそれほど興味がある訳ではないが、それでも、彼女が招き、彼女の弟が描いた結末がどのようなものであるかは、人々の噂で十分に推し量ることが可能だ。
 もし彼女が弟の決定を、結末を否定したのなら。それは、彼の決意をも否定し、その終末の意味を奪い去ってしまうだろう。
 故に彼女は決して謝罪しない。謝罪することを許していない。他でもない彼女自身が、彼女の謝罪を許可していない。
 ……それは、とても辛いことではないだろうか。
 隠し事とは仮面だ。大小、厚薄の違いはあれ、すべての隠し事はその本人を覆う仮面足りうる。
 もしも。
 もしも彼女が、何かを、大きな、決して誰にもあかすことが出来ず、許さず、言葉の通り棺桶の中まで持ち込むことを義務付けられた秘密を有しているのなら。彼女は、それほどに強固な仮面を身につけているのだということに他ならない。
 どれほど彼女が願い、嘆いたとしても、決して剥がれることの無い仮面。やがてそれは彼女の一部となり、生身の皮膚と変わらぬものとなるだろう。けれど、たとえその仮面が痛みを覚えるほど彼女に馴染んだとしても、それはやはり彼女の本当の顔ではないのだ。
 だからこそ、彼女はいつまでも一人。彼女を知る誰しもが、仮面をつけた彼女しか知らず、彼女自身、自ら仮面を取る事も、そも仮面の存在を教えることもないだろうから。
 ……その末路に、ぞっとする。いまは隠遁者のような日々を送っている彼女だが、今すぐではないいつか、誰かと恋に落ちることがあるかもしれない。それが神様の気まぐれか、悪魔の囁きかは分からないけれど、それぐらいの顛末は、彼女にも許されているのかもしれない。
 けれど、もし仮に彼女が伴侶と出会い、結ばれ、子供を成したとして――

 ――彼女は、己の仮面を脱ぐことを許すのか?

 ごく個人的な見解を述べさせて貰うなら、彼女は恐らく、素顔を晒すことは無いだろうと思う。或いは、もし彼女の嘘が、彼女の罪を隠すためだけのものならば、彼女の罪を全て受け止め背負うと誓う誰かが現れたとき、彼女はその素顔を見せることを己に許したかもしれない。
 けれど、彼女の仮面を構成するのは彼女自身の罪だけではない。彼女の仮面は、寧ろ彼女自身ではなく、悪と呼ばれた何処かの誰かを救うために、顔の良く似た酔狂な少年が用意したものだ。周囲の目を欺くため。周囲を騙し、彼女の命を救うために。
 ならば。彼女にとって、その仮面を脱ぐと言うことは、彼女の罪だけでなく、何処かの少年が命さえ掛けた願いを捨て去ると言うことに他ならない。
 だからこそ、彼女はいつまでも独りだ。誰かと恋に落ちたとしても。誰かと結ばれたとしても。誰かの子の母となったとしても。そして、いまこの瞬間も。
 最愛の誰かに連れ添われたとしても、彼女はその身体が土となるまで――いいや、土となり不特定な誰かたちの記憶にのみ残った後でさえ、本当の彼女は誰にも知られないままだ。
 それを苦行と言わずなんと言う。
 私ならば、恐らくは一年と耐えられないだろう。それほどまで容易に、孤独は人の心を殺しうる。……それは推測でもなんでもない、ただの経験則でしかないけれど。
 首を断たれた誰かは、この顛末を予測していただろうか? 悪であった彼女を救い、悪であることを、その悪を一身に受け止めることを肯定したどこかの誰かは、その後の彼女がどうなるのかをほんの少しでも想像しえただろうか?
 ……きっと。それは、本当に底意地の悪い、問いかけだけど。
 それでも。仮にその誰かが、彼女が永遠の孤独に苛まれることとなったとしても、それでも、と思ったのだろう。願ったのだろう。
 どうか。
 どうか彼女に、幸があらんことを、と。
 むしのいい話だ、と言い捨てる権利が私にはあるだろうか? あるとは思うし、無かったとしても、きっとあの国には、いいや、その周辺諸国の多くに、その権利を叫ぶ者が居るだろう。先の戦争で喪われた者は少なくなく、ならば、喪った者はその数倍に及ぶのが道理だ。犠牲者と被害者でしかない彼ら彼女らは、その原因たる誰かが救われることなど、そしてその末路にほんの少しでも幸いがあることなど、決して認めず、許しはしないだろう。
 私自身が、そうであったように。
 奪った者は奪ったことを忘れるかもしれない。けれど、奪われた者はいつまでもそのことを忘れない。許さない。それは言い古された文句であるが、だからこその真実だ。
 ……故に私は、沈黙を保とうと思う。見たことを忘れ、聞いたことを流し、ただの傍観者として彼女の傍に居ようと思う。全ての罪を、悪を許せるほどに私は聖人ではないけれど、同時に、喪った者代表を騙り彼女に罪を突きつけるほどの気概は無い。私に出来るのは、ただ傍で素知らぬふりを貫くことだけだ。
 それは結局、我が身可愛さから来るどうしようもない感傷だけど。
 詰まる所。私は彼女に同情し、彼女を哀れんでいるのだ。永劫の孤独が約束された少女に、孤独から救われた者として、ほんの少しの憐憫を抱いているに過ぎない。
 そんな私を、果たして、彼女は笑うだろうか? 私を孤独から救ってくれた緑の髪の女の子。誰よりも素敵だった少女。彼女によって喪われた少女。あの娘は、あの娘が喪われる原因となった戦火を焚きつけた少女の罪を糾弾しない私を許してくれるだろうか。蔑みはしないだろうか。
 ――愚考にも程がある、と私は思わず苦笑した。考えるまでもない、とはまさにこの事だ。
 死者は笑わない。微笑まない。けれど、そんな当たり前の事実を踏まえてなお、私は思うのだ。
 彼女ならば。彼女ならばきっと、そんな私に苦笑して、仕方のない人ね、とだけ呟くのだろう、と。
 ふと、背後から硬い音がした。振り向けば、懺悔室の古びた扉の影に、驚いた様子でこちらを見る彼女の姿がある。
 慌てたような、ばつが悪いような顔で何かを言いかける彼女に先んじて、私は、こんばんは、と声を掛けた。

「どうしたの? こんな所で」
「そ……それは、こっちの台詞よ」

 昼間のことを引き摺っているのだろう。居心地の悪そうな響きでそう答えた彼女は、それでも瞳に気丈な輝きを取り戻す。
 強い娘だな、と思った。

「こんな場所に、何の用? あなたに懺悔するような罪があるとは思えないのだけれど」
「――そうでもないわ。買い被らないで頂戴」

 嫌味の欠片も無い彼女の言葉に、私は思わず苦笑してしまう。私は決して聖人でも、ましてや聖女ではない。神に懺悔すべき罪なんて、それこそ市が開けそうなほどに抱え込んでいる。
 そう、例えば――とてもとても大事な人が喪われたのに、その敵を取る事を放棄して、ただの傍観者であろうとしていることであるとか、だ。
 私の言葉はそれこそ信じるに値しなかったのか、そうなの、と彼女は首を傾げた。

「とてもそうとは思えないのだけれど」
「そう言ってくれるのは嬉しいけれどね。貴女こそ、どうしてここに?」
「……別に。用なんて無いわ」

 懺悔室を訪れる理由なんて、多くは無い。しかし彼女はそう言い残し、私に背を向けた。

「いつまで居るつもりか知らないけれど、程ほどにしておいたほうが良いわよ。暖かくなってきたとは言っても、まだ冷えるし、ここは特に冷えるから」
「ええ、すぐに戻るわ。ありがとう」

 それは言外に、彼女が何度と無くこの懺悔室を訪れているという告白なのだけれど、そのことを指摘するつもりもなく、私は私の身体を案じてくれた彼女に礼を述べた。
 懺悔室を去ろうとする彼女に、ああ、と声をかける。

「そうだ――よかったら明日、お菓子の作り方を教えてくれないかしら?」
「……私が?」
「ええ。あの焼き菓子も、もう貴女のほうがずっと上手に作れるみたいだし、寧ろ私に貴女の味の出し方を教えて頂戴」
「それは別に……構わないけれど。本当に私なんかが?」
「そうよ」

 私の申し出がよほど意外だったのか、彼女は礼拝堂を出てしまうまでずっと首を傾げたままだった。
 その背中を見送って、私は一人で苦笑する。家から持ち出してきた焼き菓子を取り出し、齧り付いた。私が今日焼いたものではなく、昨日彼女が焼いたものの残りだ。勿論冷え切ってしまっているけれど、バターと小麦粉の風味が心地よい。
 私の言葉に嘘は無い。私の作った焼き菓子は、成程、これよりも上手に出来ているかもしれないが、それは端的に言えば材料の差でしかない。同じ材料を同じだけ使って私にこれよりも美味しい焼き菓子が作れるかと問われれば、それは疑問だ。
 初めは料理の初歩も知らない女の子だったのに。これが生まれの差か、育ちの差か、あるいはその両方か。そんなコトは、所詮、考えても意味が無いことだけど。
 また来るわね、と誰かに言い残し、私は懺悔のための場所を出た。誰も居ない礼拝堂を抜け、外に出る。ひやりとした空気は、確かに彼女の心配を裏付け得るものかもしれないが、けれど同時に、冬の盛りを振り返れば遥かに穏やかだ。春が近づきつつあるのは、拭えぬ事実なのだ。
 そろそろ見納めとなる冬の星座を仰ぎながら、私は私たちの家へと戻る。歪ながらも、私たちが今を過ごすための場所。
 立て付けの悪いドアに手を伸ばすのと同時、残った焼き菓子の最後の一欠けらを口の中に放り込む。口の中に広がる素朴な甘みは、春風を連想させるに十分だ。
 ……ああ、本当に。
 このブリオーシュは、よく焼けている。





[ Fin ]