木洩れ陽喫茶



 遠坂、セイバーと一緒に渡英して、もうじき初めての冬が訪れようとしていた。

 一人前の魔術師として招かれた遠坂は先人達の知識を学び研究を続ける傍ら、俺への師事を欠かさないでいてくれている。

 片や俺はと言えば、遠坂が日本を立つ前に言っていたとおり、協会の学徒でありながら協会には所属していないという半端な立場のまま、遠坂の世話役としての日々を送っている。師であり、その、恋人でもある遠坂が自分の研究に熱中できるよう、その生活費を稼ぐのも俺の役目だ。


 テムズ川を望む洋館が、倫敦での俺のバイト先。

 仕事の内容は、一言で言えば丁稚兼茶坊主。もうちょっと詳しく言えば、掃除と客人への一時的な対応、そしてお茶会の準備とかだ。

 ただし、掃除といっても範囲は半端ではない。なにせ一口に洋館、と言っても、間桐邸を一回りか二回りほど大きくしたような館なのだ。挙句雇われてる丁稚――――名目上は執事バトラー――――は、俺一人。侍女メイドも数名居るが、彼女達は主に食事担当なので、実質掃除に廻されるのは俺一人だったりする。

 そんなこんなで、午前の仕事はただひたすらに掃除である。館の中を、それこそ西の隅から東の隅まで。本来なら庭の植木の世話もしなければならないのだが、それはさすがに無理なので素直に庭師に頼むよう断ってある。

 そして今日も黙々と仕事をこなし、窓拭きや階段の手摺磨き等を含む掃除が一通り終わった頃、


「シロウ? ちょっとよろしいかしら?」


 だなんて言いながら、俺の雇い主、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト嬢が姿を現した。













 Fate/stay night after story...

 倫敦遊紀 前編


















 呼びつけられた部屋は、先ほど掃除したばかりの居間の一つ。

 俺は言われるがままに紅茶とお茶請けの支度をして、それらを盆に載せ居間に戻る。

 部屋の中には、大きな窓から差し込む日の光を一身に浴び、椅子に腰を下ろしながら優雅に微笑むルヴィアゼリッタ嬢の姿があった。

 俺はカップを二つ用意し、片方をルヴィアゼリッタ嬢に、もう片方をテーブルを挟んで反対側に用意し、陶製ポットの中から淹れたばかりの紅茶を注ぐ。切り分けたミンスパイをフォークと共に準備すれば、即席アフタヌーンティーの完成だ。

「ご苦労様でした」

「いいえ」

 微笑みながら労うルヴィアゼリッタ嬢に慇懃に答え、俺は席に座った。

 執事と雇い主が午後のひと時を共に過ごす。本来ならこんな行為は言語道断、それどころか一発でクビにされそうな愚行なのだが、ルヴィアゼリッタ嬢に限っては少しばかり勝手が違うらしい。

 と言うのも、

「シロウ、自己研鑽は順調ですか?」

 カップに口を付けながら、そんなことを尋ねてくるルヴィアゼリッタ嬢。

 自己研鑽、というのはあれだ。魔術の修行のこと。

「順調かどうかは分かりませんが、まだ半人前には違いありません」

 同じように紅茶を啜りながら、きっちりとした言葉使いで返す。

 ……バイトが決まって、まずやらされた言葉使いの研修は酷かった。どのくらい酷いかって、そろそろここで働き始めて数ヶ月が経つのに、つい昨日のことのように思い出せるほどの悪夢だった。あの日々の記憶は、多分生涯ついて回ると思う。

「そうですか。魔術に近道はありません。しっかりと修行を積むことです」

 俺の返事がお気に召したのか、嬉しそうにルヴィアゼリッタ嬢は言う。





 ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。

 俺の雇い主であり、同時に時計塔の主席候補の片割れ。

 詰まるところ、彼女も俺や遠坂と同じ魔術師なのである。それも、文句なしの一流の。

 軽く耳に挟んだところによれば、その魔術は遠坂と同じ宝石を道具とするモノ。ガント撃ちの達人であり、その振る舞いは完璧なお嬢様であるらしい。

 そんな一人前の魔術師が、何故俺なんかを雇ったのか。いや、こんな広い洋館だし、確かに召使の一人や二人も居なければやっていけないだろう。

俺が言っているのは、何故魔術師おれなんかを雇ったかということだ。

 魔術師とは、孤立するモノである。尤も、とは言ったところで魔術師とて人の子。気のあった者同士は協力し合ったりもする。だがそれはあくまで協力者であって、友人ではない。貸しがあれば手を借りるし、借りがあれば手を貸す。そういった間柄である。

 なぜかと言えば、魔術師は己の研究成果を己の弟子にしか見せないためだ。魔術そのものを他の魔術師の前で行使するのはそれほど問題ではない。だが、その技術。その魔術を扱うに至った過程は、魔術師にとって最も大事なもの、隠すべきものである。

 故に魔術師の工房は隠される。部外者の侵入を許さず、仮に侵入されたなら生きては帰さない。

 それは全て、己の技術を守るため。己の知識を守るためだ。

 そんな場所に、例え半人前とはいえ魔術師、しかも他の魔術師に師事する部外者の侵入を許すものだろうか。

 一目で俺を魔術師だと看破し、それでもあえて俺を採用したルヴィアゼリッタ嬢。俺のそんな疑問に、彼女は微笑みながら答えたことがある。

 簡単に言ってしまえば、俺如きに見抜かれるような秘密ちしきはここにはないということだ。俺がどれだけ探ったところで見つけられるようなものはここには無いし、また、それ故俺が誰に師事しているのかなんてこともまったく興味が無いとのコト。見られたらまずいものが存在しないから、仮に何かを見たとして、それを報告されても痛く痒くも無いらしい。

 ……なんと言うか。まったくもって正当性のある理由だけに、思わず納得しかけたのを覚えている。





「また上達しましたね、シロウ」

 小さなナイフとフォークでミンスパイを突付いていたルヴィアゼリッタ嬢が、嬉しそうにそんなことを言う。

 上達した、とはこの場合あれだ。魔術の腕じゃなくて、料理の腕。

 料理番の召使は俺とは別にちゃんといるのだが、以前ひょんなことでご馳走した俺の料理はルヴィアゼリッタ嬢の好みにあったらしく、それ以降ちょくちょく料理やらお菓子やらを作らされている。

「お嬢様のお口にあえば幸いです」

「……シロウ、言いましたわよね? 他の者がいないときは、特に遜ることもないと」

 言って、静かにこちらを見つめるルヴィアゼリッタ嬢。

 俺はその視線に小さく息を吐いて、はいはい、とバイトの顔を崩した。

「了解、ルヴィア。けど、俺としては勤務時間内だけでも礼儀を尽くすものだと思うんだけど」

「その心掛けは感心しますわ。ですがシロウ、この館で気兼ねなく会話ができるのは貴方だけですのよ。下世話な勘ぐりも腹の探り合いもしようとしない魔術師は、貴重です。そんな貴重な時間を提供するのも、執事の役目ではなくて?」

 にこりと笑いながらルヴィアは言う。

 バイトの顔を崩す、とはつまりそう言うコト。一般の人間が見ていない場面では、お互いが外向きの顔を外し、魔術師として語り合おうということだ。その気持ち――――こんな広い洋館で、腹を割って話せる相手が誰もいないという寂しさは分かるし、俺としても遠坂と切嗣おやじ以外の魔術師とはあまり仲がいい訳ではない。なんでこんな半人前が最高学府とけいとうに、といった顔をされることも多々ある。

 そんなわけで、確かに半人前扱いだけど、それでも一人の魔術師として扱おうとしてくれているルヴィアの心遣いは、正直ありがたい。

「まあ、俺もこの方が疲れないから助かるけど」

「ふふふ、そうですわね。貴方は格式ばるよりそうやって自然でいたほうが似合います」

 思わずもれた俺の本心に、ルヴィアは微笑みながらそう言う。

「む。それは、俺はやはり庶民だって言いたいのか?」

「あら、違いまして?」

 ルヴィアの確認には邪気が無い。にこにこと微笑みながらいうそれは、微塵の疑問も抱いていない証明だ。

「……違わない。確かに俺は、庶民だ」

 はあ、と息を吐く。

 広場の市に毎日通い、より良い品をより安く購入しようとして身を粉にする俺は、傍から見ずとも庶民なのだろう。というか、そんな風に各屋台を見て回ることを楽しみにしているあたり、既に主夫というかなんというか。

「……おかしいな。俺、魔術の修行の為にくっついてきたはずなんだが」

 いや、まあ。確かに遠坂と離れるなんていう選択肢を思いもしなかった、ってのもあるけど。

 毎日やっていることはといえば、ただただ花婿修行のような気がしてならない。

「シロウ? どうしました」

「――――あ、いや、なんでもない」

 ルヴィアの声で我に返る。

……できるだけ考えないようにするのが一番だろう、うん。なんだかんだで魔術の修行もしているし、何より遠坂と一緒にいられるのだから、文句なんてあろう筈も無い。

「ところでシロウ、時間はよろしいの?」

「え? って、もうこんな時間か」

 部屋の時計を見れば、時刻は既に17時を回っている。

 外は既に薄暗い。倫敦は秋口からずっと、昼がやけに短いのだ。

 道中で買い物もしなければならないし、帰ったら帰ったで夕食の準備に掛からなければならない。あまりのんびりしていることはできないだろう。

「悪い、ルヴィア。俺、そろそろ戻らないと」

「ですわね。今日もお勤めご苦労様でした」

 俺は二人の食器を手早く片付け、既に来ていた料理長に軽く挨拶を交わす。控え室で制服のスーツから普段着に着替え、さあ帰ろう、というとき、

「ではシロウ、さようなら」

 そう言って玄関ホールの二階部分にルヴィアが顔を出した。

「――――ああ。じゃあルヴィア、また明日」

そんな雇い主に分かれ挨拶を残し、俺は夕闇に染まった倫敦の街に出た。
































 協会から一人前の魔術師に宛がわれる部屋は、魔術師にとって研究を重ねる工房であり、同時に生活のための空間である。

 何が言いたいのかといえば、ぶっちゃけ、広い。

 衛宮邸の庭ほどの面積を、壁で幾つかの部屋に区切っているのだ。

「おかえりなさい、シロウ」

 バイトから帰った俺を居間で出迎えたのは、なにやら書籍に目を通していたセイバー。

「あれ、セイバー、今日は遠坂と一緒じゃないのか?」

 俺は帰り道に寄った市場での戦利品をとりあえずテーブルの上に下ろす。大きな紙袋に入った幾つもの品物の仕分けを始めると、何もいわずにセイバーが手伝ってくれた。

「リンはもうしばらく掛かるそうです。翻訳が進まないそうで」

「古書解読だっけ? 古代神聖文字ヒエログリフや錬金術書と同じぐらいひらめきが必要、とか言ってたの聞いたんだけど」

「ええ。いまリンが取り組んでいるのはさる原典の解読です。その文章が回りくどい上に寓意が頻出していますから、リンが梃子摺るのも無理がありません。……今日は魚料理ですか?」

「ん? ああ、そうだよ。まだパイ生地も残ってたし、和風にどうにかできないかなって」

「はあ。その、シロウの料理は美味しく手も込んでいるので満足なのですが、どうしてそうまで和風にこだわるのですか」

 いや、なんで、って。

「味噌がない、しょうゆがない、純米酢もない。普通の店じゃまず見かけない。確かにセイバーの言うとおり、素直に洋風料理作れば楽なんだけどさ、その、できなければ余計にやってやろうと思うっていうか」

疑問の視線を向けてくるセイバーの顔を見ないようにしながら、しどろもどろに答える俺。

セイバーはなるほど、と頷いたあと、

「つまり意地になっているのですね」

 だなんて、容赦なくずばりと核心を突いてきやがった。

「……セイバー、おまえ、やっぱり遠坂に似ただろ」

「さあ、それはどうでしょう。尤も、リンの影響だけを受けたとは思っていませんが」

 言って微笑むセイバー。その振る舞いや言葉からすると、自分が周囲に影響を受けているのは認めているらしい。

 ああ、と俺は内心うめいた。心から真に願う。


 ――――かみさま。どうかセイバーをあおいあくまにだけはしないでください。

     その、もう手遅れかもしれませんけど。


「シロウ? どうしました?」

「……いや、なんでもない。じゃあ俺は料理の支度始めるけど、セイバーはどうする?」

「手伝います。私とて、いつまでも食べるばかりではありませんから」

 微笑みながらそう言うセイバー。

 その笑みは本当に自然で、馴れたはずの俺も思わず息を飲んでしまうぐらいに可憐だった。

「――――んじゃ、始めようか」

 動揺を悟られないように顔を背け、台所に向かって歩き出す。

 時刻は夜の7時を回ったあたり。

 お腹をすかせて帰ってくるだろう遠坂に、是非とも美味しい晩御飯を用意してやるとしましょうか――――




























 遠坂が帰ってきたのは、思いのほか遅く、10時を回ったあとだった。

「う、ごめん」

 よほど疲れたのだろう、帰ってくるなり遠坂はそんなことを言った。

「御飯、食べちゃったよね?」

 恐る恐るといった様子で問い掛けてくる遠坂。

 俺は答える代わりに席を立ち、

「んじゃ、仕上げに掛かろうか」

 英国年鑑に目を通していたセイバーに声を掛けた。

「――――え?」

「もう少し待ってろな、遠坂。いま作っちゃうから」

「あとは火を通すだけですから。リンはゆっくり休んでいてください」

 エプロンを身につけ、セイバーは遠坂に微笑む。

 遠坂は驚いたような顔をしたあと、

「嘘。待っててくれたの……!?」

 だなんて、戯けたことをのたまった。

「何が嘘、だよ。言っただろ? 食事はみんなでするものだって」

 適度に加熱を加えつづけたオーブンは、既に適正温度に達している。

 スズキをハーブと一緒にパイ生地で包んだ一品が今日の主菜だ。俺は人数分の料理をオーブンに装填し、焼きあがるのを待つ。

「……バカ。セイバーに、先に食べててって伝えておいたでしょ?」

「ああ、聞いた。でもそんなことしたら遠坂が一人で食べる羽目になるじゃないか」

「シロウ、このサラダはどこに?」

「ん、それはそのままテーブルの中央辺りに置いてくれ」

 セイバーに軽く指示を飛ばしながら、俺はオーブンの火加減に注意を傾ける。

 ……む。ちょっと温度が高いかな。

 俺はオーブンの温度調整ダイヤルに手を伸ばして、


 とさ、と。背中に誰かが身体を預けるのを感じた。


「と、遠坂? いきなりどうし――――」

「どうした、じゃないわよバカ」

 背中越しに聞こえる声はどこか不機嫌。

「先に食べてていいって私が言ったんだから、先に食べてるのが当然じゃない」

「だから、それは」

「その辺がバカだって言ってるの。まったく、私だって子供じゃないんだから、一人で食べるのぐらいどうとも思わないわよ」

 文句を垂れる遠坂の声に、ふと、柔らかさが混じる。

「けど、ありがと。その、すっごく嬉しかった」

 そして遠坂が離れる気配。背中の重みがなくなる。

 遠坂は明るい声で、

「じゃあ士郎、晩御飯の準備急いでね」

 だなんて、明らかに照れ隠しだとわかる言葉を述べてくれた。







 結果から言えば、スズキのパイ皮包みは好評だった。もっとも、その理由が味なのか、それとも空腹に拠るのかは微妙に判別がつかない。遠坂はともかくとして、セイバーは二時間ほどお預けを食ってたわけだし。

「随分と手間取ったようですね、リン」

 食後のお茶を飲みながら、セイバーが遠坂に問う。セイバーが飲んでいるのは紅茶でなく、れっきとした日本茶だ。郷に入れば郷に従え、という言葉があるが、俺はどうにもそれができない性質らしい。わざわざ輸入食品店で日本茶を揃えていたりするのだから。ちなみに味噌やしょうゆなどの日本料理に欠かせないものも同じ輸入食品店で仕入れていたりする。

「ううん。解読のほうは順調に進んだんだけどね」

 苦い顔をして遠坂は言う。

「いざ帰ろうって時に、どこかのバカが変な魔術礼装マジックアイテムを持ち込んでさ。かなり希少な宝石って話だから、それについて調べているうちにこんな時間になっちゃったってわけ」

「宝石? 貴重って、どんな?」

 尋ねたのは俺。遠坂は首を横に振り、

「ちょっと調べただけじゃ分からなかったわよ。分かったのはかなり年代ものだってことと、紛れもなく一級品の品だってこと。あと表面にこれでもかって位ルーンが掘り込んであるってことね」

「ルーン?」

「ええ。大体が抑制ニィドだったわ。多分何かの封印に使われた儀式用の品だと思うんだけど……」

 言う遠坂の言葉には、珍しく断定の響きがない。

「どうしました、リン。調子が悪そうですが」

「ん、ちょっと眠くて……お腹が一杯になったからかな、急に眠くなっちゃった」

「んじゃさっさと風呂の支度するか。セイバー、洗物頼めるか?」

 こくん、と頷くセイバーを確認して、俺は風呂場に向かう。

 浴槽を洗剤とスポンジでごしごしと洗ってシャワーで流す。タイマーをセットすれば、それでもう準備は完了だ。

 俺は洗物を任せてしまったセイバーを手伝おうとリビングに戻り、

「……あれ、遠坂。寝ちゃったのか?」

 ソファでくてん、と横になった遠坂を見て足を止めた。

 遠坂はソファに仰向けに寝転び、その瞼を閉じている。

「おい遠坂。寝るなら自分の部屋で寝てくれ」

 呼びかけるも返事はない。ただその胸が規則正しく上下しているだけだ。

「どうしました? シロウ」

 何かに気付いたか、キッチンのほうからセイバーが顔を覗かせる。

「ん、遠坂が寝ちゃってさ。よほど疲れてたのかな」

「かもしれませんね。シロウ、リンを部屋まで運んでもらえますか。洗物は一人でもできますから」

「――――ん。じゃあ、そっちは頼んだ、セイバー」

「はい。では、シロウはリンを。悪戯はしないように」

「……セイバー、おまえやっぱり遠坂に似てきたぞ」

 そうやってさらりと人をからかうあたり、特に。

 俺の言葉にセイバーは僅か微笑むと、何も言わずにキッチンに戻った。

 俺は思わずため息をつき、遠坂の身体に手を廻す。背と足の二点を保持したその抱え方は、俗に言うお姫様抱っこに他ならなかったり。

「――――ッ」

 緊張の欠片もないその寝顔に、思わず息を飲む。

 ……セイバーがあんなコト言ったからか、その寝顔がやけに艶やかに見えて仕方がない。ぴんとはねた睫毛も、毎日手入れを欠かさない長い髪も、健康そうな唇も――――

「落ち着け、俺」

 揺れかけていた理性を必死に補強し、遠坂の部屋に向かう。

 できるだけ静かに、ゆっくりと。遠坂を起こしてしまわないように。

 部屋のドアを足で開け、薄暗い部屋に滑り込む。見慣れたベッドの手前で足を止め、遠坂を下ろそうとしたとき、


「あれ……? 士郎……?」


 ぼんやりと。明らかな寝ぼけ眼で、遠坂が俺の名を呼んだ。

「ん。いいから寝てろ。明日は少し早めに起こしてやるから、シャワーはそのときでいいな」

「……?」

 どうやら頭が上手く働いていないらしい。と言うか、完全に寝ぼけている状態だ

 遠坂はかわいらしく首をかしげ、やがてうん、と頷き、ごく自然な動作で俺に抱きついてきた。

「って遠坂いきなり何を!?」

「ん……しろうー」

 まるで猫のように甘えてくる遠坂。

 俺は瓦解しようとする意識を必死に押し留める。落ち着け俺。いいから落ち着け。いくら今更とはいえ、寝ぼけている遠坂を襲いなんてしたら明日何を言われるやら。

 すりすりと頬擦りしてくる遠坂を、とりあえずベッドに下ろそうとして、









「士郎……だーいすき……」









 ぽつり、と呟かれたその言葉が耳に届いた。

「――――」

 ヤバイ。理性の抵抗なんて一蹴されて、なんか一瞬で堕とされた。

 そんな、半分寝ているような顔で、最高に柔らかい微笑みと一緒に言われたら、一秒だって耐えれるわけないじゃないか……!

「……」

 遠坂は動かない。ベッドに下ろされたのがスイッチだったのか、当たり前のように眠りに落ち、緩やかな呼吸を再開している。

 その動作はあまりに自然で、あまりに無防備で、

「――――はぁ。なんて、呑気な」

 俺は呆れて呟いていた。遠坂に毛布をかけてやり、部屋を出る。

 ……なんと言うか。いまのは、本当に不意打ちだった。落ち着こうと奮戦していた俺の理性を嘲笑うかのように蹂躙してくれた。

 けれど、まあ。そのあまりに構えない、俺に対する好意があまりにあけすけすぎて、堕ちた理性も一周したようにすとんと元通りになってくれたのだが。

「シロウ? どうしました?」

「いや、なんでもない。すぐにそっち行くよ」

 俺は先程の動揺を振り払うように頭を振って、セイバーの呼ぶリビングに歩き出した。

 ……さて。

 当面の問題は、

「明日どんな顔しろっていうんだか……」

 そんな些細な、けれど割と重要な事柄。

 とりあえず明日のお弁当はちょっと手を凝らしたものにしてやろうと決意し、俺は遠坂の部屋の前を後にした。





【続く】