木洩れ陽喫茶



 ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトという魔術師がいる。

 優雅な物腰、気品を醸し出す立ち礼儀作法。更に魔術師としての腕と、それを裏付ける成績を持つ、万人が納得する“優等生”だ。

 無論私とて、それについての異論などはない。同じ宝石魔術を学ぶ者として、ルヴィアゼリッタの能力は高く評価している。魔力という流れを一点に集中させるという点においては、彼女のほうが数歩先を行くと言ってもいいだろう。

 しかし。

 時計塔でその姿を一目見たときから、遠坂凛わたし遠坂凛わたしたらしめている全てが、頭の中でガンガンと警鐘を鳴らしている。




 ――――気をつけろ。

     あの女は、猫を被ったとんでもないヤツだ――――














 Fate/stay night after story...

 倫敦遊紀 中編


















 英国は倫敦。時計塔の二つ名で知られる魔術師の最高学府、大英博物館。

 その敷地のすぐ傍にあるブルームズベリ公園スクウェアで、私は不甲斐ない士郎でしを待っていた。

 いまは昼食休憩の時間。時計塔の時間振りが一般社会とそうずれているという訳でもないので、ここブルームズベリ公園には私たち魔術師だけではなく、ごく一般の人たちが憩いを求めている姿も多々目に映る。或いは普通企業の会社員、或いは倫敦大学の学生。そしてそんな彼らの林に紛れるように、時計塔で見た魔術師がちらほらと休息を取っている。

 私は息を吐き、手近な芝生に腰を下ろした。服を通して伝わってくる冷たさは、それが自然のものであるという証。


 倫敦は、日本人の私にしてみれば驚くことしかできないほどに自然が多い。冬木も確かに自然を多く残した土地だったけど、その馴染み具合はこの街の足元にも及ばない。この公園のような大規模な公園が街中の至るところにあり、街の景色に溶け込んでいる。更に驚いたのは、公園に住み着く小動物たちだ。ウサギやリス、イタチにキツネ。彼らは人間社会に僅か接しながら、それでも倫敦第二の住民としてこの都市を謳歌しているらしい。

「倫敦が魔術の都なのも頷ける、かな」

 人間と動物。

 自然と人工。

 過去と現在。

 異なる二つのモノが、ここまで見事に融和している。

 それらの一致は一見空きが無いようで、その実至る所が歪んでしまっている。もっとも、世間はその歪みを歪みとして認識することができない。何故ならそれは歪んでいるからこそ存在する街によって形成された観測者自身の姿であるからだ。

 観測者は自身を観測することはできない――――そんな、魔術の基本。

 それを心得る魔術師わたしたちは、この街の歪みに身を隠す。言ってしまえば、ただそれだけの簡単な話。

「けど、遅いわね」

 ぽつり、と不平が口を付いて出る。

 仰いだ空は爽やかなほどに晴れていて、私は思わず見入ってしまった。

 ……だからだろう。

 最高の天敵の接近を、ここまで許してしまったのは。




「ごきげんよう、ミストオサカ。いかがなさいました?」




 掛けられた声に、私は我に帰る。

 いつの間に近づいたのか、目の前に立っていたのは長い金髪を湛えた見目麗しき一人の女性。

 私は驚きを微塵も顔に出すこともなく、冬木で培った淑然たる微笑で彼女の挨拶に答える。

「こんにちは、ミスルヴィアゼリッタ。貴方こそ、このような場所に何か用事でもございまして?」

「あら、用があるのはこの場所にではなく貴方にですわ。お見受けすればお一人のご様子。彼の高名な使い魔はどうなさいました?」

 微笑みながらそんなことを聞いてくるルヴィアゼリッタ。

 ……ははあ、なるほど。そういうワケね。

「ご心配には及びませんわ、ミスルヴィアゼリッタ。セイバーは私の工房で、今ごろ資料整理を代行しているはずです」

「あら、そうでしたの。ですがミストオサカ、あのような高度な使い魔を維持するのは大変なのではありませんか?」

「ええ、それは認めます。ですが光栄ですわ、ミスルヴィアゼリッタ。彼の高名なエーデルフェルト家のご息女たる貴方にそこまで興味を持たれるだなんて、契約に苦心しただけの価値はありますわ」

 正確に言えば契約したのは本来士郎で、私はどちらかというとそれを横からかっさらった形になるのだけど、それは言えない。いや、この女の前じゃ絶対に口にできない。

 私たちは柔らかく微笑んだままお互いを見る。視線すらも柔らかく、敵意の欠片もない振る舞い。


 ……なのに、何故だろう。

 特に人払いの結界が張られたわけでもないのに、さっきまでたくさんいた筈の公園利用者が、いつの間にか一人もいなくなっているのは。


 ルヴィアゼリッタは微笑んでいる。

 私もそれに負けじと微笑を浮かべる。

 傍から見れば、私たちはにこやかに会話を交わす二人組みに見えたかもしれない。けれどその実態は言わずもがな、だ。さっきの言葉だって上品なのは言葉遣いだけで、その内容はお互い嫌味でしかない。

 つまり、ルヴィアゼリッタは私が一人でいる事実から、セイバーという使い魔を扱うには私のキャパシティが足りないのではないかと言ったのだ。

 ……まあ、その指摘に関しては私は何も言えない。確かにセイバーを現界させておくのは一苦労だし、聖杯戦争のときのような激しい戦いなんてされたら、それこそ私の魔力なんてあっという間に空になってしまうだろう。

 ならば何故、私は常日頃時計塔にセイバーを連れて行っているのか。



 答えは単純。

 それが、遠坂凛わたしという魔術師を時計塔で評価するのに最適なモノだからである。



 日本とは極東の小国に過ぎない。挙句独自の魔術組織を擁している関係から、協会でも十分にカバーできていないのが現状だ。にも関わらず、極東の日本、さらにその地方で起こる聖杯戦争という名の儀式と、その内容は多くの者が知識の端に留めている。無論、その最中で召還される7騎の最高の使い魔、サーヴァントと、その中でも最高ベストオブベスツを謳われるセイバーの存在も周知の事実だ。

 だから私は時計塔にセイバーを同行させた。他の何者でもない、私の使い魔として。私にはサーヴァントなどというものを、聖杯戦争が終わってなおこの世に留めるだけの実力がありますよ、と示すために、私はセイバーを利用した。

 その結果、私を島国の田舎者と思い込み貶そうとしていた二流三流魔術師は、私の前から綺麗さっぱり姿を消してくれた。

 故に私に接触してくるのは、私の実力を認め、有用と判断した学府高官や相応の等価交換ギブアンドテイクを持ちかけてくる一流魔術師のみ。

 私はセイバーという宣伝塔を利用し、時計塔で最適な権利を手に入れたのだ。


 なのに。

 当面のところ一番大きな問題である女性が、いま目の前で微笑んでいる。

 ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。

 色々な修飾語をつけたくなる容姿や物腰だが、その魔術の腕を見込んでなお“優等生”と周囲に思わしめる逸材だ。

 もし彼女が見かけだけの魔術師ならば、私は歯牙にも掛けなかっただろう。しかし彼女の実力もあり方も、魔術師として一級品だ。

 私は何よりも自分の誇りの為にルヴィアゼリッタを認めないわけにはいかず、そしてルヴィアゼリッタは何かと私にちょっかいを掛けてくる。

 それは決して友好を求める接触ではなく、隙あらば相手の喉首を掻っ切ろうという静かな迫力に満ちた接触だ。

 尤も、私のほうも似たような心持ちでルヴィアゼリッタに接しているから、彼女を一方的に責めるわけにもいかない。




 ――――認めよう。

     遠坂凛とルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは、似た者同士なのである。




 私がこの場から動く気がないということを悟ったか、ルヴィアは静かに断りを入れ、私の隣に腰を下ろした。

「どなたを待たれていらっしゃるのですか?」

「不甲斐ない弟子です。今日の昼食はできたてを届けるからと言って、私にここで待つように言われましたわ。ミスルヴィアゼリッタ、貴方、昼食はいかがされました?」

「もう済ませてまいりましたわ、ミストオサカ。それよりも、よろしければ貴方のお弟子をここで見させてもらってもよろしいかしら? 貴方が直接師事なされているのですもの、さぞ有能な方なのでしょうね」

 にこやかに言うルヴィアゼリッタだが、その瞳には僅か獲物を狙う肉食獣の輝きがある。

 ……ふん。私の弟子って聞いた瞬間にそんな反応を見せるだなんて。士郎を笑いものにしようとしているのがまる分かりじゃない。

 私がどれだけ冷ややかな目で見られようとそれは構わないが、士郎が笑いものにされるのは不快だ。私はルヴィアゼリッタにお引取り願おうと思い、

「――――ええ、構いませんわミスルヴィアゼリッタ。けれど私たち、これから食事ですの。お見苦しい場面を見せてしまい、申し訳ありませんね」

 一瞬で考えを改め、そんなことを答えていた。

「いいえ、お気遣いなく、ミストオサカ」

 ルヴィアゼリッタはそう言うが、一瞬確かに驚いたのを見逃す私ではない。

 まあ、私が彼女の立場なら、間違いなく驚くだろう。なにせ、天敵にわざわざ嫌味のネタを提供しようというのだから。

 けれど、それは私の弟子が普通の弟子である場合。士郎は特別だ。具体的に言えば、料理の腕とかが特に。

……さて。

じゃあ、士郎があれだけ張り切ったお弁当がどれだけ美味しいのか、この女がこの場に留まったことを後悔するぐらい美味しくいただいてやるとしましょうか。


















倫敦は地下鉄とバスによって網目が張られた都市である。

基本的な移動手段は地下鉄。目的地に一番近い駅で地上に上がり、そこから先はバスに乗るというのが一般的な手法だ。

「まあ、バスに乗るような距離でもないか」

「ええ。この距離なら歩くのが当然でしょう」

 俺の呟きに、傍らのセイバーが短く返す。

 場所は昼の喧騒に沸く大英博物館の最寄駅、ホルボーン。俺は割と大きなバスケットを片手に持ち、セイバーと共にそこに居た。

「んじゃ歩こうか。少し早かったみたいだし、着く頃には丁度いい時間だと思う」

 セイバーはこくりと首肯する。

 俺たちは人ごみをすり抜けるように駅を抜け、通りに出る。俺自身時計塔の学生であり、基礎科目だけとはいえ受講しているので、時計塔に向かう道筋はもう馴れたものだ。

 左右の街並みを軽く見ながら先に進む。時折道に向かって飛び出たパブの看板やらエールハウスのポールやらが目に付くが、それもまたこの倫敦という街の特色だと思う。

「シロウ、本当に私も着いて来てよかったのですか?」

 しばらく歩いたあと、ぽつりとセイバーがそんなことを言った。

「なに言ってるんだよ。せっかく外で食べれるようにサンドイッチにしたんだ、セイバーも外で食べたほうがいいだろ?」

「はぁ、それはそうなのですが……私が言いたいのは、シロウはリンと二人だけで食事をしたほうがいいのではないですか、ということです」

「三人で食べられるなら三人で食べるにこしたことはないだろ? それに、セイバーをわざわざ一人っきりにする理由なんてないじゃないか」

「……わかりました。どうやら私はまだまだ配慮が足りないようです」

 参った、というか、やれやれ、というか。諦めと苦笑の両方が絶妙にカクテルされた微笑でセイバーは言う。

「よく分からないけど。わざわざ気を使う必要もないんじゃないか?」

「シロウのそういった所が、私に気を使わせている原因だとそろそろ気付いてください」

 今度はあっさりと言い切るセイバー。

「……?」

「いえ、いいです。そういった朴訥さがシロウのシロウたる所以なのだと分かってはいますから」

「……なんかさり気なく酷いこと言わなかったか、いま」

「さあ。それはどうでしょう。それよりもシロウ、少し急ぐとしましょう。私も少し、空腹です」

 明らかに名答を避けながら、はにかむように言ってセイバーは駆け出した。

「ほら、シロウ、早くしてください」

「あ、おい、待てよセイバー!」

 ああ、アイツこっちの言うことなんて聞いちゃいない。

 たたた、と軽やかに、しかしこちらが余裕で追いつけるだけのペースで駆け出したセイバーを追い、俺も倫敦の街を駆け出した。


























 そして、その異界に至る。

「――――」

「――――」

 セイバーと俺。二人して、ブルームズベリ公園の一角に足を踏み入れた瞬間、それまでの軽い談笑も微笑も一瞬で消え、ぴたりと足を止めていた。

 風景に、別段おかしいところはない。人が倒れているわけでもなければ、何かの争いがあったような形跡もない。ただ些細な問題は、同時に決定的なそれは、この空間に他者の気配がしないということだ。広々とした公園。その敷地に、日常ならば溢れているはずの一般の人の姿とか、この公園を活動領域テリトリーにしているはずの小動物たちの気配が微塵も感じられない。

 だから、それは異界だ。現実世界から、ほんの少し脇に逸れてしまいまったく違う場所に辿り着いてしまったという、そんな感覚。

 遠坂ならば、これを三流と呼ぶだろう。こんな、瞬間的に異変を悟らせる結界など下の下の仕事だと。

 ああ、確かに俺もそう思う。確かにこれは雑な仕事だ。




 ――――でもさ遠坂。

     これ、たぶん、魔術ですらないだろ。




「なあ、セイバー」

「……なんでしょうか、シロウ」

「あそこにいるのって、やっぱ、遠坂かな」

 指を差すのも怖いので、目線だけでそちらを示す。

 それはこの異界の――――なんかねっとりとした敵意というか、オブラートを何重にも包んだ結果訳がわからなくなった敵意というか。そんな感じの、冷や汗を感じ得ないこの結界の中心部に座り込む、二人の女性。

 セイバーはしばらく沈黙を続けたあと、しぶしぶ、苦りきった表情で頷く。

「……ええ、それは間違いありません。何故か比類なく機嫌が悪いようにも見えますが」

 ああ、やっぱセイバーにもそう見えるのか。俺の見間違いじゃないんだな。

 その、できれば見間違いであってほしかったんだが。

「俺、なんかまずいことやったか?」

「いえ、シロウが原因ではないでしょう。リンも今朝は機嫌が良かった」

 出掛けの遠坂の様子は俺も覚えている。

 昨日運び込まれた宝石に関する調査の進展具合を確かめるとかなんとか言いながら、それでもどこかご機嫌だったのは、多分俺が今日は弁当を持っていくと告げたからだろう。その程度のことであそこまで機嫌が良くなってもらえるなら俺としても本望なのだが、その辺魔術師としてはどうなのか。

 まあとりあえず、考えても仕方ない。出掛けに機嫌がよく、いま機嫌が悪いというのなら、それは午前中に何かがあった証拠だろう。


 しかし。


「シロウ、行かないのですか?」

「そう言うセイバーこそ、さっきから一歩も歩いてないじゃないか」

 俺たちは地面に縫い付けられてしまったかのように、その場から一歩も動いていなかった。

 いや、だってアレだし。これ以上先に進んだら、重圧プレッシャーだけでどうにかなるんじゃないかっていう空間だぞ。

 その中心に行くだなんて、正直自殺行為にしか思えないんですが。

「……シロウは私に、アレに近づけ、と言うのですか」

 僅か俯き、苦渋の顔でセイバーは言う。

 って、セイバー、自分のマスターをアレ呼ばわりか。いやまあ、俺も完全にアレ呼ばわりしているけど。

 けれど、なんにせよこのままここで立ち尽くしていても仕方がないのは事実。

 というか、なんかじわりじわりと重圧が増している気さえする。

「とりあえず、二人で行くか」

「……ええ、それが賢明だ。私一人では太刀打ちできない」

 俺たちは一度顔を見合わせると、決死の覚悟で小さく頷き、一歩を踏み出した。

 目指すは遠坂、ただ一人。

















 ――――だから、つまり。

     俺は遠坂と一緒に居た女性が誰なのか、確認することを忘れていた。

















 足を緩めない。歩みを止めれば、もう二度と歩き出せないということを知っていた。

 だから俺は歩く。この異界の中心、これ以上なく不機嫌そうな遠坂に向かい、セイバーと一緒に歩いてく。

 何かを考える前に其処に辿り着き、何かを考える前にその名を呼んでいた。

「おい、遠坂」

「――――遅いわよ、士郎。待ちくたびれたじゃない」

 こちらを見て、にこりと笑う遠坂。

 その笑顔はいつもの笑顔で――――つまり、あかいあくま。

「あら、セイバーも一緒だったんだ」

「ええ。出刃亀になることは承知で、ここまで来てしまいました」

「いいのよ、そんなの気にしないでも。あからさまに気を使ってくれなくてもいいわ」

 セイバーの言葉に、遠坂は苦笑して返す。

 俺はとりあえず遠坂の隣に座ろうとして、

「――――あなたは」

 僅かな緊張を含んだセイバーの声が聞こえた。

 その時、ようやく俺は、この場にいたのが遠坂一人ではなかったことを思い出す。

 俺は遠坂の影に隠れてよく見えなかったその人を見ようとして、

「こちらは、」

 俺はぴたりと動作を止めていた。

「魔術師、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトよ」

「――――」

 目の前で、ルヴィアが驚いたように目を見開いている。

 それは驚愕、或いは困惑といった表情だ。

 ああ、まあ、分からなくもない。

 なんでこんな処に俺がいるのか、理屈では分かっていても理由として納得がいかないのだろう。

 それに、俺自身外で、というか、時計塔でルヴィアに出会うのは初めてだ。俺は基本的に基本講座しか受けていないし、受けれないけれど、ルヴィアは違う。彼女は既に一流の魔術師であり、受け持っている科目は専門学課ばかりのはずだ。

 だから自然、学府で顔を合わせることがなくいまに至った。

「ではミスルヴィアゼリッタ、改めて紹介いたしますわ」

 多分この空間を作っている原因だろう。何故か背筋が寒くなるほど淑然とした口調で、遠坂が言った。

「こちらが私の使い魔、セイバー。彼女がどのような存在なのかは、改めて説明するまでもありませんわね」

「――――」

 ルヴィアは答えない。

 ただ、驚きに目を開いて俺を見ている。

「そしてこちらが、私の弟子である――――」

 遠坂が俺を紹介するより、ほんの少しだけ早く。


「――――シロウ?」


 呆然と、ぽつりと。

 ルヴィアゼリッタは俺の名を呟いていた。


























 ――――待て。

 いま、なんて言ったコイツ。

「シロウ……ですわよね? 何故貴方がこんな処にいらっしゃるのです?」

 先程までの必要以上な礼儀正しさはどこに行ったのか、ルヴィアは呆然とした様子で再度士郎の名を呼んだ。

「なんで、って聞かれると困るけど。遠坂に弁当届に来たんだ」

 ほら、と片手に提げたバスケットを示す士郎。

 ルヴィアはますます困惑した様子で言う。

「それは見れば分かります。私が聞きたいのは、何故貴方がトオサカに食事を持ってきているのかということです」

 あ、よほど混乱しているみたい。とうとう私にミスをつけるのを忘れてくれた。

「何故も何もありませんわ、ミスルヴィアゼリッタ」

 私はミスを強調し、士郎の代わりに答える。

「士郎が私の弟子だからです」

「――――」

 今度こそ。

 今度こそ本当に、ルヴィアゼリッタが息を飲む。

 その目は隠すこともできないほど驚愕に見開かれ、その唇はわなわなと振るえている。

 ……やった。完全勝利みたい。

 ――――って、そうじゃなくて。

「士郎、なんで貴方がルヴィアのこと知ってるのよ」

「あれ、言わなかったっけ。俺、ルヴィアの屋敷でバイトしてるんだけど」






 ――――何か。

     何かいま、聞いてはいけないことを聞いた気がする。






「リン? まさか、知らなかったのですか?」

「あ、え、ええっと」

 しどろもどろに答える私。

 ああ、でも確か、士郎が魔術師の館で働いていることは知っていたけれど、その館の主人を尋ねた覚えはない。下手に突付いて士郎にその主人を意識させ、士郎が排除されることを恐れた故の選択だ。仮にも魔術師の弟子が、師とは異なる魔術師の下で働こうというのだ。余計なことに首を突っ込むのは間違いなく命の危険を意味するのだから、他に選択肢なんてなかった。




 だって、ほら。

士郎のお給料、はっきり言って驚くぐらいに魅力的だから。




「――――まずった。確かにこれは私の落ち度ね」

 思わずぼやく。何が落ち度って、士郎の雇い主をいまのいままで微塵も考えようとしなかったことが、これ以上ない落ち度だ。

 士郎をルヴィアに自慢するどころの話じゃない。むしろ話はまるで逆。士郎を雇っているルヴィアは、その点で私を攻撃するカードを得たことになる。これからまた、あのオブラートに包んで包んで包んで包んだ嫌味合戦が始まるのかと思うと正直気が滅入るけど、仕方ない。これもわが身の錆と覚悟しよう。

 私は覚悟を決めてルヴィアを見、

「――――」

 なんだか、物凄くかちんと来た。

 気に食わない。とりあえず気に食わない。

 例えば本気で驚いて、未だに我に返っていないルヴィアの表情とか、けれどその僅かに緩んだ頬とか、私に向けていたのとは明らかに違う雰囲気とか。

 ……ああ、なんだ、考えるまでも無いことじゃない。それが何であろうと、ルヴィアゼリッタが私の敵であるというだけだ。

 いつの間にか、四人の間に沈黙と緊張が落ちていた。

 呆然としたままのルヴィア。

私とルヴィアを見比べ、なんか疲れたように息を吐いているセイバー。

この沈黙をどうにかしようと考えを巡らせているっぽい士郎。

で、自分でもはっきり不機嫌だなとわかるこの私。

沈黙はこのままずっと続くように思えて、










「――――とりあえず飯にしよう。ルヴィアもどうだ?」












 士郎の、これ以上ないってくらい馬鹿げた台詞であっさりと幕を引いた。

 ……いや、ほんと。さすが私が惚れた男、ってのろける隙もないみたい。

 士郎の一言で、ようやくこっちに戻ってきたらしいルヴィアは僅かに首を振る。

「残念ですがシロウ、私、もうお食事は済ませてきましたの。また今度誘ってくださいね」

「じゃあ明日の昼食は俺が作るよ。コック長に伝えておいてくれ」

「ええ、分かりました。――――ではミストオサカ、お互い言いたいことがあるのでしょうけど、私はこれで失礼させていただきますね」

「――――いえ、その必要は無いわ。士郎、セイバー、私ご飯いらない。先に戻ってるわね」

「は? え、おい、遠坂!」

 止める士郎も驚くルヴィアも嘆息するセイバーも全部無視して、私は一人歩き出す。

 ああ、もう。

 本当に、不機嫌だ。私。



























 あっという間に遠坂は行ってしまった。しかも俺のご飯はいらないと言い残して。

「俺、遠坂を怒らせるようなことしたか……?」

「……やはり一度、シロウにはそのあたりのことを教え込む必要があると感じました。ですがいまは、とりあえず追いかけるべきですね」

 ああ、もう、と言わんばかりの動作で嘆息しながらセイバーは言う。

 俺はそうだな、と頷き、駆け出そうとして、


「お待ちなさい、シロウ」


 ルヴィアゼリッタに止められた。

「えと、急いでるんだけど、ルヴィア」

「ええ、承知しています。ですから、一言だけ」

 そうしてルヴィアは、思わず見とれるぐらいの柔らかい笑みを浮かべた。



「――――雇用関係は続いています。明日は、私の屋敷で会いましょう」



「ああ、了解」

 ごきげんよう、と言うルヴィアに片手で返し、俺は立ち行った。








 すっかり人のいなくなった公園を抜け、通りに出る。

 ……遠坂の帰り道なんて、先刻承知だ。何度同じ道を通ったと思ってるんだか。

 俺は駆け足で道を行き、割合あっさりと、

「――――遠坂!」

 先を行く師に追い付いた。

 呼びかけても足を止めてくれないので、後ろからその腕を取って無理やり止まらせる。

「遠坂、どうしたんだよ」

「……」

 遠坂は答えない。ただ静かにこちらを見ているだけで、不意にその瞳が、


「……バカ」


 不意に、じわっと潤んだ。

「バカ、バカ、バカバカバカばかばかぁ……!」

 論理も何も無く。ただバカバカと俺を罵倒する遠坂。

 その。ええと。なのに全然腹が立たない、それどころか俺が一方的に悪くて、遠坂の言い分は一から十まで全部真実なのだろうな、と思えてしまうのはその涙を見たが故か。

「……遠坂、できればなんで怒ってるのか教えて欲しいんだが」

「そのあたりがバカだって言ってるのよ、バカ! なによルヴィアゼリッタに愛想使って!」

 遠坂にしては珍しく、感情をぶちまけながら罵倒を続ける。

 って、俺が、ルヴィアに愛想を?

「俺、別にそんなつもりは無かったけど」

「知ってるわよ、そんなこと!」

 どうしろって言うんだ。

「知ってるわよ、そのくらい。それが士郎なんだもの。ああ、もう、最悪……これじゃあ本当に子供じゃない」

「……ええと、遠坂?」

「何よ。下手な慰めなんていらないからね。私、いま物凄く不機嫌だから、近寄らないほうがいいわよ」

 言って、潤んだ瞳のままじっと俺を睨む遠坂。

 遠坂が不機嫌だってことぐらい、とっくに承知してるんだけど、

「ごめん、遠坂」

 それでも、謝るべきなんだろう、ここは。

「なんか俺、知らないうちに迷惑掛けてたみたいだ。相変わらず情けない弟子で、ごめん」

「……」

 下げた頭をそのままに、俺は言う。

 遠坂がなんで怒っているのか、その理由は正直、ようとして知れない。ただその原因が間違いなく俺であるのは確かだ。遠坂をこれだけ悲しませたのは、間違いなく俺なのだ。

 だから、その罰は受けないといけないだろう。いや、受けねば気がすまない。

 精一杯の誠意を示すため、一歩も動かず。どんな罵倒が来るのも覚悟していた、そのとき、














「……じゃあ、私のこと名前で呼んだら許してあげる」















 だなんていう、柔らかい声音が耳に届いた。

「遠坂?」

「だから。私のことを名前で呼んだら、今日のことは不問にしてあげるって言ってるの」

 顔を上げれば、其処には顔を赤くしながら、それでもどこか不機嫌そうに俺を見る遠坂の姿。

 ……ああ、なんか俺、勘違いしていたらしい。

 遠坂は不機嫌なだけじゃなくて、拗ねていたんだ。

「士郎? どうしたの? まさか、ルヴィアは名前ファーストネームで呼べて、私は呼べないって言うつもり?」

「え。いや、そんなことは無い、けど」

 今更気恥ずかしいというか。

 ルヴィアをルヴィアと呼んでいるのは当然というか、それがこちらの慣習というか。

「……ええと」

 遠坂は待っている。

 腕を組み、拗ねた顔を必死に不機嫌そうにしながら、ただその一言を待っている。

 ……気恥ずかしいとか、慣習だとか。どちらかといえばその理由のほうが、どうやら“今更”であるらしい。

「凛」

「……声が小さいわよ」

「凛」

「……もっとはっきり言いなさい。聞こえないわ」

「――――凛!」

 恥ずかしい気持ちとか、すまない気持ちとか、ああ、そして日頃の感謝とか。

 その辺全ての気持ちと、間違いなく俺が遠さかに抱いている感情を全て乗せて、その名を呼ぶ。

 遠坂はしばらくそのままの姿勢で目を瞑り、やがて見間違え様も無いほどご機嫌そうに微笑み、


「――――合格。じゃあ、許してあげるね、士郎」


 だなんてことを言ってくれた。

「さ、じゃあ戻りましょ、士郎。せっかく持ってきてくれたんだもの、食べなきゃ損だものね」

「……ああ、そうだな」

 まったく。誰の為にここまで来て、そしてわざわざ戻らなくちゃいけないのか、コイツは本当に分かっているのだろうか。

「どうしたの?」

「え? ああ、いや」

 けど、たぶん、そんなのは全部些細な理由なのだろう。

 結局のところ、俺は、

「やっぱ俺、とう、じゃない、凛に惚れてるな、って思って」

 そのころころと代わる機嫌も感情も、我侭も甘えも、全部ひっくるめて、衛宮士郎という人間は遠坂凛という女性にぞっこんらしい。

 俺がそう言うと、凛は最高の微笑で、


「当たり前じゃない。私だって貴方に惚れてるんだもの」


 だなんて、これ以上なく嬉しいことを言ってくれた。

 そうして俺たちは歩き出す。目指すのはセイバーとお弁当が待つ、ブルームズベリ公園。

 凛はやけにご機嫌で、それは今朝の焼き直しみたい。

 俺は頬が緩むのを自覚しながら、凛の歩調に合わせゆっくりと、倫敦の街並みを歩き出した。
































 ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトとという魔術師がいる。

 容姿端麗、成績優秀、素質天性。宝石を媒介とした魔術を好む、自他共に認める一流の魔術師。

 そんなルヴィアわたしに、こんな少女の、女の部分があるだなんて、今日になるまで知らなかった。

「シロウ」

 自宅、自室。夜景と、それを映し出すテムズ川の流れを窓から眺め、私はその名を呼んでいた。

「――――絶対、振り向かせて差し上げます」

 何故あんな半人前が。

 何故あんな朴念仁が。

 何故あんな半端者が。

 私の中の魔術師である理性が、訥々とそんなことを説いてくる。

 確かにそれは正論。けれど、どんな正論も事実の前には空論に落ちるもの。

「まさか、トオサカがあれほど入れ込む相手だなんて――――無理もありませんわね」

 そう、私とトオサカは似た者同士。私はトオサカを評価はできても認めることはできないし、それはトオサカにとっても同じことだろう。

 多分私たちは、人間として、魔術師として、女として、悉く細部まで同じなのだ。

 だから、理由なんてそれで十分。

 いや、そも理由なんて必要ない。

 だってこれは、紛れも無い感情の渦なのだから。

「私はシロウを手に入れます」

 それは、誓い。

 誰にでもなく、己に立てる絶対の誓い。

 聞く者も、見届ける者も必要としない、己に対する不文の約束だった。
















 時計塔から緊急の連絡が舞い込んでくるのは、この誓いから半刻ほどあとのコトとなる。





【続く】