木洩れ陽喫茶
一連の出来事は、いまだ記憶に新しい。
朝に立ち込める靄は郊外の森を想起させ、夕暮れの赤い世界はあの剣戟を思い出させる。
俺の生き方に真正面から答えた理想を、俺自身が否定することで終わりを見せた小さな小さな戦争。
失ったものは、たぶん、想像がつかないほどに多い。
そのくせ手に入れたものはあまりに少なくて、本当に笑ってしまいたいぐらいだ。
――――ああ、でも。
失ったもの、残らなかったものはそも数えることもできはしない。
けれど、否、だからこそ。いま手元にある些細な幸せが、何物にも代え難いと感じている。
季節はあの冬から一巡し、もうすぐ二度目の春を迎えようとしている。
戦争の記憶は傷跡と共に薄れ、やがて思い出す回数も減っていくだろう。
後悔はないし、未練もない。
魔術師として半人前の俺は、たぶん、そんな上等なものを抱けるほどに成熟していない。
だからこそ。いまだ半人前だからそ、早く一人前になりたいと思う。
そうすれば、いまある幸せを、より深く実感できるはずだから。
なのに。
俺の幸せは、割と簡単に波乱に取って代わってくれやがりましたとさ。
Fate/stay night after story...
いい日、旅立ち 前編
衛宮邸の居間には五つの人影があった。
まず当然、俺。んでその向かいには俺の師匠であり赤いあくまである遠坂。その隣には金髪の少女、セイバーが位置している。俺の隣にはいまテーブルに用意されている夕餉、シチューの調理人たる桜の姿。残る一人は桜を挟んで一つ向こうの藤ねえだ。
かちゃかちゃと、居間には箸の立てる小さな音が響く。会話らしい会話は無いが、それは今更のこと。食事時に意味も無く会話を交わすほど、ここに集った人間は無作法ではない。
だからというか、当然というか。食事はさっさと終わり、食後のお茶会へと移行する。
俺は全員分の食器を流しで洗いながら、居間の喧騒に耳を傾けていた。
「遠坂さんももうすぐ卒業ねー」
湯飲みの緑茶を両手で包みながら、どこか他人事のように藤ねえが呟いた。
そうですね、と頷く遠坂。
「早かったなー。もう三年経っちゃうのかー。
遠坂さんみたいな優等生はそうそう見れないから貴重だったよぅ」
遠坂の本性を知っているくせに変なことをぼやく藤ねえ。いや、或いは知ってなおそう呟いているのかもしれない。その本質が徹底的ないじめっ子で悪戯っ子で、かなり容赦無いものだとしても、遠坂が模試で全国上位者に毎回君臨していたのは事実なのだ。
「遠坂先輩は何処に進学されるんです?」
お茶が美味しいよぅと口から魂を出す藤ねえをよそに、桜がそんなことを尋ねる。
ん、と首をかしげる遠坂。
「桜には言ってなかったっけ? わたし、卒業したら倫敦の美大に行くの」
「倫敦、じゃあ英国ですか……!?」
驚きの声を上げる桜。
だけど美大、なんてのは勿論真っ赤な嘘だ。
――――時計塔。それは魔術師にとっての最高学府であり、同時に天の鎖でもある魔術師の穴倉。一年前の聖杯戦争で最後まで残った遠坂は、其処に無条件入学で招かれている。その事実は誇らしいものなのだが、当の遠坂は、その評価が自分だけのものではないと未だに納得がいっていないご様子。
無論、そんな素振りは微塵も見せていないが。
「ええ、そうよ。あっちの方に、そうね、五年ぐらいはいるのかな。やりたいことは多いし、あっちにはそれを可能にするだけの環境があるんだもの」
その言葉に嘘は無い。遠坂は、魔術師協会最大の学府を、自分の目標達成のための一手段としてしか見ていない。
自分の感情とは別に、そういってものを利用できるという点は素直に感心できるはずだ。
「ん?」
「どうしました、藤村先生。突然首をかしげて」
「ううん、いま思ったけど、遠坂さん渡英するのよね」
「そうですよ。先生も先刻ご承知のはずですが」
「そりゃ知ってるわよぅ、担任なんだから。私が言いたいのは、その間セイバーちゃんはどうするのかなってコト」
「――――私ですか?」
突然話題を振られ、それまで我関せずとお茶を飲んでいたセイバーが不意を突かれたように目を開いた。
「そ。セイバーちゃん。いまセイバーちゃんは遠坂さんの家に居候してるでしょ? なら遠坂さんが渡英している間はまた士郎の家に戻るのかなって」
人差し指をぴこぴこ揺らしながら藤ねえは言う。
俺との契約が破棄され、凛と改めて契約したセイバー。聖杯戦争を終え、目的を失ったはずの彼女は遠坂の使い魔としていまだ現界している。その新たな住処となったのは、新たなマスターである遠坂の屋敷だ。本来ならもう俺に関わる義理はそれほど無いはずなのに、先に立てた強制力の無い誓いに従い、未だにセイバーは俺の傍にいてくれる。
夕食時に遠坂の姿がこの一年で日常として見れるようになったのは、偏にそれが原因である。遠坂の使い魔であるはずのセイバーは、義理に従い何かと俺の傍にいようとする。で、そんなセイバーを一人で放っておくわけにも行かず、またお互いに都合がいいので遠坂もこの家に入り浸ることになっているのだ。あと絶対に食事をたかりに来てもいる。
セイバーは首を横に振り、いつものとおり凛々しい声で答えた。
「いいえ、それはありません、タイガ。私はリンと共に英国に渡ります」
「え? そうなの?」
「はい。私はリンに着いていくつもりですし、ブリテンは私の故郷ですから」
「へー……」
感心しながらお茶を啜る藤ねえ。
「じゃあ春になったら、また三人に戻っちゃうんですね」
どこか寂しげな笑みを浮かべ、桜が呟いた。
その言葉に「?」と首を傾げる遠坂とセイバー。ついでに俺。
「え? 私何か変なこと言いました?」
二人の反応が予想外だったのか、狼狽したように桜が問う。
「変って……」
……あれ? そういえば。
「あー、遠坂。すまん、俺、すっかり言い忘れてた」
洗物終了。エプロンを外し、俺も話の輪に加わる。
「えっ……ど、どういうことですか先輩」
どういうことって。
「俺も遠坂と一緒に渡英するぞ。うん、五年ぐらい」
「――――」
「――――」
息を飲む桜と藤ねえ。
……あ、なんかライブで小ピンチ。遠坂は照れた顔でそっぽを向いているくせに、セイバーは完全に諦めの顔でため息なんてついてくれてる。
耳を塞いだ方がいいかなー、なんて考える暇もあればこそ。
「なんですってーーーー!?」
「それどういうことですかせんぱいーーーー!?」
二人の大声が、俺の鼓膜以上に居間の空気を震わせた。
で。
もう夜も遅いっていうのに、居間で繰り広げられる異端審問ていうか宗教裁判。
被告は勿論俺。検事は桜、裁判長は藤ねえだ。
「で、詳しく話してもらうわよ士郎」
にっこり笑いながら、藤ねえはそんなことをのたまう。その隣には昏い瞳でこちらを睨む、否、見つめる桜。表情も剣幕も正対象だが、その殺気は同等でランクAな気がしてならない。
遠坂もセイバーも、気付けば部屋の隅で我関せずって態度でお茶続けてるし。
「ほらほら、よそ見しないで士郎ー」
「そうですよ先輩。どうかここで誠意を見せてください」
二人の言葉に、嫌でも意識をそちらに向けさせられる。
……あー、なんかこの空気、覚えがあるぞ。一年ぐらい前に。俎板の上の鯉とか、そんな感じのもう何したって無駄ですようふふって雰囲気。
「先輩が遠坂先輩と一緒に渡英するってどういうことですか」
「どう、って……言葉の通りだけど」
「答えになっていません!」
異議あり、とばかりに机を叩く桜。
「どうして先輩が遠坂先輩と一緒に渡英しなくちゃいけないんですか!」
「ぅ……」
どうして、って、答えは一つか二つぐらいしかない。
遠坂は魔術の師匠だし、俺はまだ半人前もいいところだ。学ばなければならないことはごまんとあるのだから、ずっと傍にいるのが道理ってものだろう。
「どうして、って……」
それだけじゃない。遠坂はサーヴァントであったセイバーとの契約を続行している。聖杯によって呼び出されたセイバーを現界させておくのは骨だし、遠坂にとっては同じく使い魔であるらしい俺が、セイバーの現界に力を注ぐ遠坂のフォローをするのも当然だろう。
「ちゃんと答えてください」
段々と桜は迫力が増していく。しかもヒートアップする迫力じゃなくて、クールダウンし続ける迫力だ。腕を組む藤ねえに突きつけられているのが大口径の拳銃、いやむしろ大砲なのだしたら、桜が突きつけているのは一振りで骨ごと裁断しそうな鋭利すぎる剃刀だろう。
「あ――――う」
空気は余分な弁明を許していない。
無駄に口を利けば、喉の動きが勝手に刃物に触れますよー、と頭の中で何かが告げている。
「先輩」
「士郎」
「……分かった。答える。ちゃんと答えるから、頼む、落ち着いてくれ」
両手を挙げて全面降伏を示しながら、せめて身の安全を求める。
「大丈夫です。私は物凄く落ち着いていますから」
「私もだよー」
……まあ、無理な要求だってのは承知してたけど。
桜の殺気に真正面から答えないようにしながら、俺は言葉を紡いだ。
「俺の目標、藤ねえは知ってるよな?」
「切嗣さんのあとを継いで正義の味方になることでしょ?」
「ああ。でも俺はまだ半人前もいいところだし、この機会に外国に行くのもいいなって思って遠坂に無理言ったんだ。俺も連れてってくれってな。ほら、セイバーの件でも何かとフォローできるはずだし」
嘘は、まあ、言ってないはず。
けどこれだけの理由では、二人の理解は到底得られなかったらしい。桜は絶世の笑みで、疑問を口にしてくれる。
「でも先輩、一人前になりたいなら別にここでもいいじゃないですか。いままでもずっとそうだったんですから」
「いや、桜、そうもいかないんだ。確かに俺はずっと一人でやってきた。だからこそ、そろそろ現状を打破しないとこれ以上先には進めないと思う。それにセイバーだって」
「セイバーさんに関してはどうでもいいんです。遠坂先輩に着いて行って、そのフォローが必要というのなら、セイバーさんにはまたこの家に残って下さればいいんですし」
うわ、なんか桜が暴走している。視界の端で傍観者を決め込む遠坂とセイバーも揃って目を丸くしているし。
「そうよそうよ。この家がまた空家になるなんて、お姉ちゃん許しません」
「――――? 藤ねえ、聞いてないのか?」
「なにをよ」
「いや、この家の管理。ライガ爺さんにお願いしたら、笑いながら請け負ってくれたぞ」
「そんなお爺さま!? 愛孫より太いパイプを士郎にっ!?」
本気で聞いてなかったのか、藤ねえは愕然とする。その瞳には、きっと豪快に笑う爺さんの姿が映っているのだろう。
とりあえず敵一機撃破だろう。うん。
愕然を呆然に移した藤ねえはとりあえず置いておくとして、残った敵、桜に向き合う。
桜は全然承知していなさそうな顔でこちらを見ていた。物凄く不満げに、口を開く。
「私はまだ納得してません。先輩、なんでよりによって美大なんですか」
「え? いや、それは。ええと」
――――困った。確かに、それに答える言葉は無い。手先の器用さは自負しても構わないと思うが、それは美術センスと無関係だ。俺と美大を結びつけるのは、確かに難しいだろう。
だけど。
「でも、もう他に選択肢なんて無いぞ。俺センター試験受けてないし、私大の願書もだしてない。もう後期試験の願書受付も終わっただろ」
「浪人、いえ、留年すればいいんです!」
…………は?
だん、と机を叩きつける桜に今度こそ目を点にする俺と遠坂。微妙に意味を理解していないセイバーは僅かに首をかしげているだけだ。
「それもそうね。私、今年は士郎たちの担任になれなかったし。もう一年士郎が高校に残ってくれるなら、桜ちゃんも士郎を先輩扱いする必要も無いし」
復活し、なんだかただならぬコトを口にする失格教師。出席日数ならなんとでもできるしねー、と呟く様はどう見ても人に教えを施す人種じゃない。
「いや、二人とも」
「先輩は黙ってください。不満があるならちゃんと論理的な反論をお願いします」
ぴしゃり、と俺の抗議を切り捨てる桜。
あー、前言撤回。ライブで危機一髪です。
「遠坂さんも別に構わないわよねー?」
藤ねえは笑顔で遠坂に言葉を振る。俺も釣られてそちらに視線を移し、
「……あれ?」
桜を含む三人で、いっせいに首をかしげた。視線の先にいたのはセイバー一人。遠坂の姿は既にそこにはなく、セイバーだけがお茶を飲んでいる。
……でも、なんというか。その顔が、物凄く疲れたような、呆れたような表情なのがとても気になるというかなんと言うか。
「あれ? 遠坂さん、いつのまに」
藤ねえの声に導かれ、視線をそちら、俺の後ろに向ける。消えたと思った遠坂は、俺の背後に涼しげに佇んでいた。
「――――」
思わず息を飲む。
ヤバイ。何かわからないけど、とにかくヤバイ。
遠坂の笑顔は最高に見覚えのあるものだ。聖杯戦争の合間に数度、そしてそのあと一年間で更に数度だけ見た戦慄の微笑。
理性が逃げろと警鐘を鳴らしているが――――何処に? 前門の虎後門の狼じゃないかこれ……!
硬直した俺はまさに蛇に睨まれた蛙。微動だに出来ない俺に、これ以上ないぐらい優しい微笑を向け、改めて遠坂は二人に向き直った。
「う。なによ」
「藤村先生、弱いものいじめは様になりませんよ」
淑然たる顔で、遠坂はそんなことを言う。
その言葉は誰よりも当人に突きつけたいのだけど、ここで下手に動くとそれこそ日の目が拝めそうにないので大人しく縮こまる俺。うわ、立つ瀬無ぇ……
「ふ、ふーんだ。いじめてなんかありませんっ。私は士郎の保護者として、士郎の行動を監視する義務があるんですっ」
「そうですか? 衛宮くんももう立派な一個人なんですから、その意思は尊重すべきだと思います」
「そんな台詞は二十歳になってから! 参政権も無い学徒に、そんなものはありません」
うわこの教師なんか色々なものに喧嘩を売ったぞいま。
「――――そうですか。じゃあ、仕方ありませんね」
静かに、あくまで静かに遠坂は言う。
「――――」
それがトドメだった。世界から色が失われる。さっきまで逃げろ逃げろと狂い叫んでいた心臓はその向こう側の諦観に突入し、理性はぴたりと思考を停止する。
死ぬ。殺される。誰が誰にって、俺が、あの二人に殺される。
何故そう思ったのかは分からない。ただ、この直感だけは何よりも信じられる――――
「二人とも」
遠坂が俺の後ろで膝たちになる。
ふぁさ、という音は遠坂の髪が俺の頬を撫でる音。
身体を乗り出し、俺にしなだれた遠坂の顔がすぐそこにある。
顔には微笑。
でも、その瞳には鋭い輝きがある。
「私から、士郎を取るのは許さないから」
遠坂は一年前、他のマスターに向けた視線――――いやそれ以上に敵意の篭もった瞳を二人に向ける。
それを受けて硬直する藤ねえと桜。
いや、あれは違う。
二人は遠坂の視線ではなく、その動作と台詞に固まったのだ。
だから、殺される。二人の硬直が解けたとき、それが俺の寿命だ。生き延びたいなら今すぐ遠坂を押しのけどこかに、それこそ柳堂寺とかその辺に逃げ込まないといけないのに、身体が動いてくれない。
それも当然。
絶対意図的だろう。背中には服越しに柔らかなものが押し付けられているし、その腕は俺の首に廻されている。前者はともかく後者はあれだ。この場から絶対に逃がさないっていう意思の表れに違いない。
そこに、遠坂のあまりといえばあまりの動作に動転した理性という因子が加われば、ほら簡単、微動だに出来ない俺の出来上がり。
「士郎は、私が連れて行きます」
身体を密着させたまま、遠坂は挑戦するように二人を見る。
「向こうに着いても絶対離しませんから、ご心配なく。
ほら士郎、貴方からもちゃんと口にしなさいよ。貴方からの言葉じゃないと、この二人絶対に納得しないわよ」
「あ――――う」
思わずうめく。というか他にどうしろと。
伺うように二人を見て、いい加減腹を括るべきかな、と思った。いままでなんだかんだで明言せず引き伸ばしていたツケが廻ってきたのだろう。いや、その。最悪なタイミングで。
「士郎」
二度名を呼ばれ、うう、と頷く。
「藤ねえ、桜。実は、さっき言った理由なんてホントはどうでもいいんだ」
すぐ横で遠坂の息遣いを感じながら、なるべく平静を保って俺は言う。
「一人前になるとか、セイバーに関するフォローとか、嘘じゃないんだけど、どうやったって一番の理由じゃない。俺が遠坂と一緒に倫敦に渡るのは、遠坂と離れたくないからなんだ」
「――――」
「――――」
二人は何も言わない。
ただ、その瞳が、それまで冷徹に俺を見つめるだけだった視線が、この瞬間敵を見るそれに変わった気がした。それが向けられている先は俺と、いまだ俺に抱きついたままの遠坂。
で、遠坂も似たような視線を二人に返しているし。一対二のはずなのに、全然引けを取らない眼光の遠坂はさすがというかなんというか。三人の間に、静かすぎる緊張と、明確な火花が飛んでいる気がする。
それは見えないながらも着実に迫力を増し、やがて臨界を迎えようとし、
「そこまでです、桜、タイガ」
呆れたようなセイバーの声に防がれた。
「セイバーちゃん」
「セイバーさん」
ふと我に返る二人。身体から緊張を抜き、その視線から力が失せる。
「シロウは相応の動機でもってリンを選んだのです。その選択自体を否定するのは筋違いだと思いますが」
「な、なによ、セイバーちゃんも遠坂さんの味方なの?」
「はい。私はシロウとリンの仲を応援します。老婆心かもしれませんが、二人の仲は非常に睦まじい。周囲すらも幸せに出来る組み合わせだと思います」
毅然としたその台詞は、当事者である俺たちをして唖然とさせられるほどの潔さだった。
しかし二人ともそれで止まるほど華奢じゃない。何か言い抗おうとした藤ねえを手で制し、桜が冷めた口調で反論する。
「だとしても、私には認めることは出来ません。これが我侭なんだってことぐらい、先刻承知です」
「自覚があるなら取り立てて言うべきことはありません。ですが桜、勝利はあくまで戦いを前提としていることを忘れないでください。そして不戦敗という言葉があるということも」
「――――」
憎々しげに桜は唇を噛む。
「リンもです。いつまでも二人を挑発するような真似は止めた方がいいと思います」
「――――そうね。言って欲しかったことは言ってもらったし、これ以上抱きつく必要は無いかな」
言葉と一緒にするりと解かれる腕。立ち上がった遠坂を見上げると、遠坂はすぐさま視線を逸らして明後日の方を見た。ひどく冷静な動作だが、その顔はこれ以上ないってぐらいに紅潮していたりする。
……さすがに恥ずかしかったのか。いくら遠坂でも。
「先輩、何を笑っているんですか」
にやけていたのか、桜の冷たい声で俺は視線を二人に戻す。藤ねえは不満そうな、けれどこれ以上言うことが無いというふうにこちらを見ている。でも桜が向けているのは相変わらずな視線だ。
……どうでもいいけど、なんで二人ともそんなに必死なんだ。
「先輩、最後に一つ聞かせてください」
極限まで引き絞った弦のような雰囲気で、桜は問いを発した。
「遠坂先輩の、どこがいいんですか」
どこ、って。
「全部、かな」
「――――バカ。真面目な顔で即答するんじゃないわよ」
不満は何故か遠坂から。限界まで赤くなったと思ったその顔が、更に赤くなっているのを視界の端が捕らえる。
……いや、でも。紛れもない本心な訳だし。
桜は無言。その瞳は幽鬼を思わせる動きで俺を捕らえ、遠坂に飛び、俺に戻る。
そして不承不承、この一刀でもって全てを断ち切るといった雰囲気で、小さく頷いた。
「分かりました。先輩を連れて行くことを認めます」
「そんな桜ちゃんまで!?」
一人愕然とする藤ねえ。
ふっ、と弱まった迫力に俺は思わず安堵の息を吐く。藤ねえが眼中に入っていないのは言うまでも無いことだろう。
桜は無言で立ち上がると台所に向かい、お盆に全員分の湯飲みを載せて戻ってきた。セイバー含む全員に湯飲みを配ると、いま起こったこと全てが無かったかのようにお茶を飲む。
その自然さたるや、遠坂までもが目を丸くするほどだ。
「……えーと、桜?」
「何ですか先輩。変なこというと、いくら私でも怒りますよ」
半眼でこちらを見ながら、桜はそんなことを言う。
いや、それでも一応、聞いておかないと。
「藤ねえもだけど、なんで桜、そこまで俺の進路に関心があるんだ?」
瞬間。
真面目に、世界が凍った。
ぴきりと。なんかその瞬間を立体カメラで撮影して現像しました、ってな具合に微動だにしない桜。
それを見て口端をひきつらせ、若干逃げ腰になっている藤ねえ。
愕然と俺を見、信じられないものでも見たような顔をする遠坂。
そして、もはや処置なしと嘆息するセイバー。
……えっと。
「俺、なんか変なこと言ったか……?」
恐る恐る、遠坂に尋ねる。
遠坂は数秒の沈黙のあと我に返り、
「こんのバカっ……!
言ったに決まってるじゃない……!」
だなんてことをのたまってくださった。
「ええと……桜?」
桜は答えない。ついでに言えば俺を見てもいないし、誰も見ていない。
ただ魂が抜けたかのように微動だにしないだけだ。
「桜」
その名を呼んだのは、疲れきった声音のセイバー。
「シロウはあとで手加減無く徹底的にしごいておきますから、とりあえずいまは見逃してあげてください」
「――――大丈夫ですよセイバーさん。私怒ってなんていませんから」
硬直から解けた桜はそんなことを言う。
ただ、その笑顔は。
「桜、落ち着きなさいね」
遠坂の声すら若干震えている。あの傍若無人、天上天下唯我独尊のあかいあくまをも震わせる迫力が、桜の笑顔にはあった。
まるで遠坂のあの笑顔みたいなそれは、桜というキャラクターに不釣合いなくせに、その反面ひどく似合っているような気さえする。
見れば藤ねえは完全に硬直し、さっきの俺みたいに蛇に睨まれた蛙をライブで再現中。
「大丈夫ですよ、遠坂先輩」
笑顔のまま、桜は言う。
「でも、これだけやって二人が幸せにならなかったら、私一生許しませんからね?」
にこやかな笑みのまま。
喉元にナイフを突きつける迫力で、桜は宣言して見せた。
そしてこの話はこれで終わりとばかりに、再びお茶をすすり始める。セイバーは仏頂面でそれに続き、藤ねえは完全に怯えた様子で自分の湯飲みに手を伸ばす。
遠坂は心なし臨戦体勢のまま、じと目で俺を睨んでいた。
――――ええと。
俺、やっぱなにかマズいこと言ったんだろうか……?
吐く息が白かった。
遠坂の屋敷に続く道を、俺と遠坂、そしてセイバーで歩く。
先ほどまでは桜の姿もあったのだが、道中の間桐家で離脱した。故にいまは三人だけである。
「……けど、本当に呆れたわ」
足を動かしながら、遠坂は顔を押さえる。それは遠坂が心から呆れているときの癖だ。
「む。何がだよ」
「そういうところよ。ううん、私たちの関係を未だに暗黙の了解で済ませてたってところもアレだけど、それよりも貴方の朴訥ぶりには改めて考えさせられるわ」
なんかさり気に酷いこと言われている気がする。
どうにか反論しようと口を開いたとき、セイバーが先に言葉を継いだ。
「同感です。シロウは人の心に機敏なくせに感情に疎い」
「? なんだそれ、矛盾してないか?」
「しています。だから不思議なんです。何故シロウはそこまで朴念になれるんですか」
セイバーの瞳には容赦が無い。反論しようとした言葉は、その瞳に射抜かれ霧散した。
「――――」
「ま、いいわ。いつか明かさなきゃいけないことだったし、それが今日だったってことで大目に見ましょう。
それよりも士郎、今夜はどうするの?」
「泊まってく。ていうか帰らせる気無いだろ、お前」
「当たり前じゃない。セイバーがああ言った以上、のこのこと帰すわけにはいかないわ。セイバーの担当は午前の戦闘術だから、今夜は私がとことんしぼってあげる」
それが物凄く楽しみなのか、遠坂は悪戯っ子が浮かべる満面の笑みでそう言う。
仕方ない。今夜は徹底的にいびられることを覚悟するとしよう。
――――あ、忘れてた。
「すまん遠坂、明日用事があるの忘れてた」
「え? なに?」
「明日、俺学校に用事があったんだ。なんか知らないけど、美綴から呼び出されてる」
「――――え? 士郎も?」
足を止め、きょとんとする遠坂。
「なんだ、遠坂も呼び出されてるのか?」
「ええ。明日の正午に弓道場って。もう自由登校だから、呼び出す以上何か大事な話でもあると思ったんだけど」
俺と遠坂、二人してはて、と首を傾げる。
「二人とも、とりあえず家に急ぎましょう。ここは寒い」
そんな俺達に冷静に抗議するセイバー。
「そうね。考えても仕方ないし。明日行けば分かるか」
「そうだな」
遠坂の言葉に頷き、また三人で歩き出す。
春を目前に控えた夜空はそれでもまだ冴え切って、相変わらず綺麗だ。
そんな星空を見上げながら、既に第二の我家となった遠坂邸へ歩を進める。
しかし、このとき。
遠坂だけは、明日の波乱を予想してても不思議は無かったはずだった。
【続く】