木洩れ陽喫茶






 一ヶ月はあっという間に過ぎ去って、そろそろ桜の季節も終わろうとしている。

 俺と遠坂は無事高校を卒業し、あとは三日後に控えた渡英日を待つだけになっていた。

 もっとも、だからといって俺の鍛錬が変化するわけでもなく――――







首を狙って跳ね上がってきた一撃を、右に持った竹刀で防ぐ。

引く隙すら見せず、次いで放たれたのは逆の胴を狙った横薙ぎの一撃。

それを左の竹刀で受けようとして、やめた。足のばねを最大限に使い、一気に後ろに飛び退き間合いを離脱してみせる。目の前で空を切った切っ先は突然その動きを止め、一転し喉を狙う突きとなる。

その一撃を今度こそ左の竹刀で弾くも、そこまでだった。

がっ、と音がして、鳩尾に鈍い衝撃。一瞬で距離を詰めた相手の、肩を存分に使った体当たりだ。先ほどの剣戟など、全てはこのための布石に過ぎない。

「――――か」

 息が漏れる。呼吸が出来ない。砲撃のような衝撃を喰らったこの身体は簡単に吹き飛ばされ、背中から地面に叩き付けられる。

 視界を覆う空の青さに息を飲みそうになりながらも、起き上がろうとして起き上がれないことに気が付いた。四肢は無事、体力だって残っている。なのに起き上がれない理由はといえば、そんなのは一つしかない。

 呼吸を落ち着けるように大きく息を吸う。

 そして、



「……俺の負け」



 喉元に突きつけられた竹刀の切っ先を見ながら、俺はセイバーに降伏した。























 Fate/stay night after story…

 いい日、旅立ち 後編



































 自身の負けを認める俺の一言で、セイバーは俺に突きつけていた竹刀を引いてくれた。

 俺は全身に疲労を感じながらも身を起こし、すぐ傍の木の幹に背中を預ける。

時刻は昼少し前。場所は遠坂邸の庭。俺自身既に剣道という戦い方ではなく、剣術を扱うレベルになっている。ならば道場という限定空間ではなく、屋外という状況も想定すべきだというセイバーの意見に従い、ここ数ヶ月、セイバーとの戦闘訓練は道場で行うよりもこういった場所で行う回数の方が多くなっていた。

急激に酸素を欲する身体をどうにか押さえ込み、小さな呼吸を繰り返す。その僅かな呼吸でも鳩尾に苦い痛みが走り、背に受けた衝撃で視界がちかちかするのだ。

「大丈夫ですか? シロウ」

 こちらの疲労なんてどこ吹く風か。構えを解いたセイバーは心配する素振りを微塵も見せず、俺を見下ろしながらそんなことを聞いてくる。

 それに手を振って返しながら、俺は答えた。

「大丈夫だ。いまは呼吸がしづらいってだけだからな、すぐに回復する」

「そうですか。なら手加減しなくても問題ありませんでしたね」

「……嘘付け。容赦なかった癖に」

 肩で息をして呼吸を整えながらも、俺はどうにか減らず口をたたく。

 するとセイバーは、心外だ、と言わんばかりの表情を浮かべ口を尖らせた。

「容赦はしませんでしたが手加減はしていました。でなければシロウに私の太刀筋が見切れると思いますか?」

「それは……そうだけど」

 情けない話だが、それは事実。一撃に反応するのも、それをかわすのも、前提としてその太刀筋を見切っていなければお話にならない。

 そしてセイバーの太刀筋は、必死で集中すればどうにか見切れるといった限界の程度だ。それは無論、セイバーの実力がそうであるというわけではなく、セイバーが俺の実力を計り、その上限ぎりぎりの程度を保ってくれているだけにすぎない。

 つまりセイバーは俺の実力に合わせてくれていたわけで、それは確かに手加減といえるだろう。

「ですが上達しましたね、シロウ。私は嬉しいです」

「え?」

「先ほどの体当たりですが、私はシロウの身体をその幹に叩きつけるつもりでした。ですが予想以上にシロウが間合いを離し、体勢を崩さなかったので、狙いどおりにはいきませんでした」

 どこか嬉しそうにセイバーは言う。いや、戦闘術の師であるセイバーがそういうからには俺の実力も多少は上昇しているのだろう。けれど、言葉の後半に俺は思わずぞくりとした。

 木に叩き付けるって――――ああ、うん、それこそ容赦がない。

 俺の実力が上昇するのは喜ばしいことだが、それに対応してセイバーの一撃が酷くなるのは――――仕方ないことだけれど、できれば遠慮したいというかなんと言うか。

「どうしました、シロウ。難しい顔をして」

「え? あ、いや、ちょっと情けないことを考えてた。気にしないでくれ」

 頭を振って弱気な考えを振り払う。セイバーの手加減が少なくなるというのは、俺の実力がついていくという何よりの証じゃないか。それをそんな理由で遠慮するだなんて、腑抜けにも程がある。

 俺は二度三度息を吐き、さて、と腰を上げた。脇に投げ出しておいた二本の竹刀を手にとる。いや、それは竹刀と呼ぶにはあまりに特異なものだ。刃渡りおよそ40センチの二刀流――――言うまでもない。干将莫耶を想定し、商店街の剣道道具店に特注したものだ。



「昼まであと二三本はできるだろ。よろしく頼む」

「――――はい。その意欲は、素晴らしい」



 セイバーは僅かに微笑み、次の瞬間毅然とした表情で静かに竹刀を構えた。

































 数本を打ち合い、そのたびに打ち負かされて時刻は昼食時。

 当番である遠坂が昼食の準備が整ったことを伝えに来て、俺とセイバーは居間に向かう。俺は途中で汗を流すためシャワーを借りて、その後二人に合流。テーブルの上に広げられていた昼食を三人で囲み、あっという間に食後のお茶会に突入した。



「じゃあ、士郎はまだ上達の余地があるんだ」

「はい。下地は元から申し分ありませんし、覚悟は聖杯戦争を経て手に入った。自分が目指すべき太刀筋も身体が覚えたようですし、あとは各動作の錬度を上げるだけだと思います」

 レモンティーの入ったカップを優雅に傾けながら言葉を交わす遠坂とセイバー。

 で、遠坂の隣で何故か一人だけ緑茶をすすっている俺。仲間外れにされているのか気を使われているのか、遠坂といまの関係になって一年以上経つのに未だに掴みきれていない今日この頃。

「身体が覚えたって、あれはある意味反則よね。お手本どころか先に完成品を見せられたんだから」

「そうですね。アーチャーは弓兵にあるまじき剣技を持っていた。ですから、士郎も最低限あのレベルまではいくはずです」

「え? 最低限?」

「はい」

「アーチャーの剣技が完成形じゃないの?」

「それは、」

「ん? 違うぞ遠坂」

 何か言おうとしたセイバーを遮り、俺は口を開いた。

「確かにあれは俺が長い年月を経て手に入れるだろう技術だけどな。でも、俺はそれを“知って”しまったから、多分それ以上に行けると思う。いや、いけなきゃ辻褄が合わないんだ」

「辻褄、って」

「あれは俺がアーチャーを打ち負かさなかった場合の剣技だろ。もし道中なんらかの手違いで、アーチャーが俺を殺そうとしなければ、俺がアーチャーの剣技まで模倣しなければ、確かにあの技術に追いついたと思う。

でも、俺はアーチャーの剣技を知ってしまった。長い年月の果てにあるものを、下地にしてしまったんだ。だから俺はその先に行ける。下地にしたものは、どうやったって越えるものだろ?」

「そういうことですね。アーチャーにとって最高の剣技であったそれも、いまのシロウにとっては参考資料の一つでしかないわけです。いいとこ取り、と言うと聞こえが悪いですが、アーチャーの剣技を更に研鑚し向上するだけの機会を得た、といえば分かりやすいですか」

「……なるほどね。でも、それってやっぱり反則じゃない」

 遠坂は難しい顔をして、じと眼で俺を睨む。

「遠坂?」

「なんでもないわ。ただ、ずるいなぁ、って。だって士郎、魔術だって一点においては既に完成しているわけでしょ?」

アンリミテッドブレイドワークスリアリティマーブル?」

「そう、それ。固有結界なんて普通なら何年何十年って修行を積んだ末に手に入るものでしょ? ううん、それだけ修行を積んだって身に着かない人には絶対に身に着かない。そうでなきゃ禁呪だなんて呼ばれないわ。なのに士郎はもうそれを習得しているんだもの。師匠としては言うことがないというか、なんと言うか」

「……?」



 遠坂の言いたいことはよく分からない。

 いや、言葉だけ聞けば羨ましがっているんだろうけど、遠坂に限ってそれは当てはまらない。遠坂は他人を羨むような人間じゃないし、そもそんな考え思いもつかないだろう。

 ただ、なんか物凄い勘違いしているぞ、こいつ。



「なに言ってるんだよ、遠坂。いくら技術を知ってるって言っても、それを実行するだけの実力がなければ宝の持ち腐れだろ。俺はまだ固有結界なんて使いこなせないし、それにあんなのを使ったら遠坂に負担が掛かりすぎる」

「――――バカ。真顔でそんな心配そうに言わないでよ。

 そんなこと分かってるわ。貴方の今後の課題は、魔術師としての一般技能の向上と魔術回路の強化。でも、それは半分以上自力でやるべきことだから、その……」

 どうにも遠坂の言葉は歯切れが悪い。

 首を傾げる俺を見てか、それとも微妙に顔を背けようとした遠坂を見てか。

セイバーはカップをテーブルに戻すと、何の含みもない声で、



「つまりリンは、シロウに関われることが減って寂しい、と」



 そんなことを断言してくださいました。

 みるみる間に赤くなる遠坂。赤面した顔のまま机を叩き、きしゃーといったふうに叫ぶ。

「ばっ、セイバー! なに言い出すのよ突然!」

「違うのですか? 私はてっきり」

「ダメ、それ以上言っちゃダメ。言ったら怒るわよ本気で」

 冷静に続けようとしたセイバーを真っ赤な顔で言い伏せる遠坂。

 セイバーは僅か口の端に笑みを浮かべながら、苦笑交じりにカップを空ける。

 ……強くなったなぁ、セイバー。さすがに一年も遠坂の所にいると強くなれるのだろうか。いろいろと。そして遠坂。いい加減、その不意を突かれるとすぐに感情を撒き散らす悪癖は制御した方がいいと思うのだが。

 勝者の余裕を見せつけるセイバーと顔を赤くして使い魔を睨む遠坂を見て、思わずそんなことを思う俺。

「ちょっと、なに笑ってるのよ」

「ん? いや、なんでもない」

 飛んで来た火の粉を軽く払う。飲み干した湯飲みをことり、とテーブルに戻し、俺は立ち上がった。

「シロウ?」

「ちょっと出かけてくる。一時間もしたら戻るから、魔術講義はそのあとにしてもらっていいか?」

「ええ、いいわよ。あ、じゃあついでに夕食の材料も買ってきてもらえる?」

「わかった」

 すっかり馴染んだ言葉を交わしつつ居間を出る俺。

 そしてドアをくぐる瞬間、



「早く帰ってきなさいよ」



 どこか上ずった、いつもどおりの言葉が掛けられた。











































 徒歩で俺が向かったのは、遠坂邸から少し離れた場所にある洋館、間桐邸だった。

 インタフォンを押し、招かれるまま居間に向かう。



「――――やあ衛宮、待ってたよ」



 部屋の奥。

 薄闇の中、いつかのように笑みを浮かべた間桐慎二が待っていた。













 慎二に勧められるままに椅子に腰掛けると、開口一番、慎二は用件を切り出した。

「いつ発つんだ?」

「明後日。昼前の便で出国するから、この街を発つのは朝一だな」

 用意されていた紅茶で喉を湿しながら俺は答える。

「じゃあ明日がこの街で過ごす最後の日って訳だ。それなのに一日中遠坂の家に入り浸るだなんて、正気かオマエ」

「む。どういうことだよ」

「だから、そういうトコロ。明後日発って、暫くは帰ってこないんだろ? ならこの街ですることは全部しておくのがスジってものじゃないか」

 やれやれ、なんて呆れたような眼で慎二は俺を見る。

「することなんて、もうそんなに残ってないぞ。あとは墓参りぐらいだ」

 口にした言葉が、僅か震えた。

 それに気付いたか否か、慎二は少しだけ驚いたような顔をする。

「殊勝だね。父親の?」

「ああ、それと――――イリヤの」

 一年前。聖杯戦争の最中で命を落とした少女の名を、俺は口にした。

 

目を閉じればつい昨日のように思い返すことができる白い少女。

 無邪気で、残酷で、俺を兄と呼び、俺を殺しにやってきた幼いマスター。

 善悪の判断がつかないほど子供で――――慎二のサーバントによって命を立たれた、俺の妹。



 俺がその名を出した瞬間、慎二は僅かに顔をしかめ、視線を伏せた。

「――――」

「悪い。口に出すことじゃなかった」

 詫びながら、残っていた紅茶を一口で飲みきる。

 慎二は暫く何も言わなかったが、やがて小さく口を開き、搾り出すように言葉を口にした。

「衛宮、こんなこと頼むのは都合のいいことだって分かってるけど。

僕の分の花も、供えてきてくれないか」

「慎二、別に」

 気に病むな、と言おうとして、言えなかった。

 そんな半端な慰めなんて意味がないし、何より――――その罪は、許せない。俺も、慎二自身も。

「やれやれ。まいったな。そんな話題を出されたら、軽口が叩けないじゃないか」

「――――」

 普段どおりに。

 この世全ての悪アンリ・マユの核とされ、無事開放され――――以来憑き物が落ちたかのように素直になった慎二は、どこか苦笑するようにそんなことを言う。

「慎二、なんなら一緒に行かないか」

 そんな親友の振る舞いに耐えられず、俺は無駄と知りつつ慎二を誘った。

その勧誘を、慎二は小さく首を振るだけで拒否した。口端を歪め、笑うように言う。

「おいおい衛宮、僕にそんな資格があるとでも思ってるのかい?」

「……イリヤを殺したのは、ギルガメッシュだ。お前じゃない」

「いや、僕だよ。僕がどれだけ踊らされていたとはいえ、結局アレを止めなかったのは僕なんだからね」

 慎二は言う。だから僕には、あの子を弔う資格なんて無いと。

「あぁ、もういいや、衛宮。オマエが桜に構ってやらないなら嫌味の一つでも言おうと思ったけど、そんな用事があるんじゃ何も言えないじゃないか」

 帰った帰った、と振り払うように手を振る慎二。

 その動作で、俺にも聞かなければならないことがあったのを思い出した。

 無論。今ごろは部活にいそしんでいるであろう、後輩のことだ。

「最近の桜の様子は? その、この家での」

「……まだ爺の影に怯えてるよ。アイツは臆病だからね。姿が見えないなら、今度はその影に怯えるわけだ。まったく救いようがない」

 忌々そうに吐き捨てる慎二だが、その顔に邪気はない。その口調だって、慎二という人間を知っている者なら一目で看破できるほど本心のこもっていない、安っぽいハリボテだ。





























 ――――慎二が俺に全ての罪を告白したのは、実に半年以上前のこととなる。

 自分が桜にしてきたこと。桜がおかれている現状。桜を縛り付けている間桐家という呪縛。その元凶たる臓硯という老人。

 その全てを洗いざらい吐き出し、慎二は、俺の知る限り誰よりも誇りの高い親友は、俺と遠坂に頭を下げた。

 桜を救ってくれと。自分ひとりだけでは罪の贖いすらできないと。

 その決意。

 自らの行いを罪と判じ、その誇りも何もかも捨てて頭を下げた慎二の決意は、どれほどのものだったのか。

 聖杯、この世全ての悪アンリ・マユ。俺はそれをよく知らない。また、それに取り込まれた慎二が何を見たかはなんて想像もつかない。ただ、遠坂の言うところによると、アレは言葉の通りこの世56億の人間の罪を全て内包した代物だという。その闇、一個人の闇なんてあっという間に飲み込み吸収してしまうそれを見て、慎二が何を感じたのか想像に難くない。

もしその闇を否定したのなら、人は己の罪科に蝕まれることになる。悪を抱かぬ人間など居ない。故にアレを否定することは己を否定することで、その齟齬は呪いという形で自身へと返る。

 普通の人間ならば、そこで終わっていただろう。己の罪に負けていただろう。

 だが、この慎二という人間は――――思いのほか強く、予想通りに誇り高かった。

 だから、それはただそれだけの話。

 いまとなって確かなのは、慎二はやはり慎二で、妹の桜を誰よりも大事に考えているというだけ。











 だから俺たちが貸した手など、特に言うべきほどのものはない。

 元凶の老人、マキリ臓硯。

 齢500を越えるという妖生は遠坂の手によって魔術師として葬られ、

 もはや契約という呪いの形をしていた桜と蟲の関係は、俺が投影した破壊すべき全ての符ルールブレイカーによって跡形もなくなかったことにリセットされた。

 間桐家というものに関しても、残ったものはそう多くない。

 俺も一度だけ足を踏み入れることになった蟲掘は、全ての蟲が“消毒”されたあとで封印されている。500年の歴史を持つ間桐、マキリの魔術はこれで言葉どおり死に絶えた。

 残ったのは、結局――――虐げられていた後継者と、その罪を嘆く兄。

 その二人がこれからどういった道を歩んでいくのか、俺には分からない。

 ただ、その道は、間違いなく光のあたるものだと思う。

































「衛宮」

「ん?」

 改まって慎二は言う。俺はいつしか俯いていた顔を上げ、親友に向き直った。

「桜を救うには、オマエの手助けが必要なんだ」

「? どうしたんだよ、突然」

「いいから聞けよ。勿論僕だって手を抜くつもりはない。でも、それでも、桜が爺の影に怯えずに済むようになるには、衛宮、オマエの力が必要なんだ」

 慎二が何を言おうとしているのか。

 なんとなく予想はつきながらも、黙って先を促す。

「時計塔がどんなトコロか知らないけどさ。たまには桜に連絡をつけてやってくれ」

「――――そんなこと、分かってる」

 俺の言葉に満足したのか、慎二は嬉しそうに頷いた。

 じゃあ衛宮、と言って慎二は席を立った。俺も立ち上がり、差し出された右手を握り返す。

「次に会うのがいつか知らないけど、せいぜい遠坂にとって喰われないようにな」

「ああ。慎二もしっかりな」

 それだけ交わし、俺は間桐邸を後にした。次に向かったのは、坂の下にある商店街。

 坂を下る俺の耳には、慎二の言葉がいつまでも残っていた。

……別れらしい言葉なんて、ほんの少しでいい。

 だって当然。

 俺たちは、これから先も絶対親友のままなのだろうから――――









































 夕食を終え、洗物も終わった。

 キャベツが安かったのでメニューは特製ロールキャベツと相成ったのだが、思いのほか好評だったのでかなり上機嫌である。

 エプロンを外し、俺と遠坂のお茶を持って居間に向かう。セイバーは一足先に風呂に入っているはずだから用意は後でいい。

テーブルを挟み遠坂と向かい合って座ると、遠坂は何も言わないまま席を立ち、カップと一緒に俺の隣に移動した。

 その真意が知れず、でも焦りはできるだけ外に出さず、俺は尋ねる。

「遠坂?」

「士郎、今日はどこ行ってたの?」

 俺の言葉には答えず、遠坂はそんなことを言う。その顔は俺には向けられず、テーブルの向こう側、つい先ほどまで遠坂自身が座っていたあたりを見据えている。

「――――」

「答えて」

 遠坂の言葉には容赦がない。決して冷たいわけではないが、言い逃れを許さない真摯さがあった。

「……なんで分かった?」

「見てれば分かるわよ。時々、凄く厳しい顔になるんだもの。何かあったって思わない方がどうかしてるわ」

 言って遠坂はお茶を一口すする。

 それは無言の催促だ。俺は息を吐き、心を決めて口を開いた。

「慎二のところに行ってきた」

「慎二はなんて?」

「桜に構ってやれって。あと、桜を立ち直らせるためには俺の力が必要だ、とも言ってた」

「……そう」

 しおらしく遠坂は言う。

 遠坂と桜――――二人の関係は、俺も知っている。桜の背負っていたものを知り、誰よりも激昂した姉の姿を知っている。

 しばし、沈黙が流れた。柱時計が刻む秒針の音だけが耳に届く。

 ……遠坂の言いたいことも、慎二の言っていることも、ついでに言えば後輩の気持ちも、実はといえばとうに察しがついてる。そして遠坂は、おそらくそれを言うだろう。一人前の魔術師で、そのくせ不意打ちに弱くて、物凄く嫉妬深い癖に、遠坂はそれを言うだろう。

 なぜならば。遠坂は、桜の姉なのだから。

「士郎――――」

 だから、俺はそこから先を言わせる気はなかった。

 湯飲みを置き、何か言おうとした遠坂の肩を抱く。

 遠坂は冷めた眼で俺を見返したあと、力を抜くように微笑んだ。

「いきなり、何するのよ」

「俺は不器用だからな。二人に惚れるなんて、できないんだ」

「――――」

 遠坂は僅かに口の端を歪める。

「桜の力には、なる。でも、俺が惚れてるのはやっぱり遠坂だから。

それだけは、覚えておいてくれ」

「……知ってるわよ、バカ」

 泣きそうな顔でそう言って、遠坂は身体の力を抜いた。

 そのままもたれるように俺の肩に頭を乗せる。

「士郎は、誰にも渡さないんだから」

 そして再び、沈黙。

 耳に届くのは秒針の音と、それとお互いの呼吸だけ。

 俺は遠坂を抱きしめたまま、遠坂は俺にしなだれたまま、そうやって沈黙を過ごす。

「士郎」

 やおら。

 どこか熱を持った声で、遠坂が俺の名前を呼ぶ。

 俺は何も言わず、ただ遠坂の顔を上げさせて――――































「お風呂、空きましたが」























 ――――冷たい声が、割り込んでくれた。





遠坂は弾かれように身体を離し、一瞬で顔を赤くして声の来た方、ドアの方に顔を向ける。そこに佇んでいたのは、濡れた髪を纏めたセイバー。

わなわなと振るえる指をセイバーに向け、遠坂は啖呵を切った。

「せ、セイバー! いつからそこに居たの!?」

 その台詞に思うことでもあったのか、セイバーは一瞬目を伏せると、刹那の後にこともなく、

「……“知ってるわよ、バカ”のあたりからでしょうか」

 なんて、平然と言ってのけた。

 ぼんっ、と音すら立てて更に赤くなる遠坂。ついでに俺。

 セイバーは呆れた眼で俺達を見ると、見せつけるように嘆息する。

「リン、恋人同士愛を語るのは当然だと思いますが、人の目は気にするべきだと思います。近々寄宿舎に移ろうというのなら、一層注意をするべきだと思うのですが」

「う……煩いっ。分かってるわよそんなコト!」

「そうですか。それは――――よかった」

「……ッ! なんかアンタ、段々とアイツに似てきてるわよ」

 セイバーを睨みながら、憎々しげに言う遠坂。言うまでもないが、アイツってのはアーチャーのことだろう。多分。

 マスターの恨み言なんてどこ吹く風なのか、セイバーはかもしれませんね、なんてにこやかに言ってくれる。

「なにせ貴方たちは、それほどまでに微笑ましいのですから仕方ありません」

「あ、アンタねぇ――――!」

 セイバーにからかわれ、またもや激昂する遠坂。

 その内心は、からかわれたことに対する怒り三と、さっきのを見られた恥ずかしさが七ぐらいじゃなかろうか。

 がー、とセイバーに詰め寄る遠坂と、それに涼しい顔で対処するセイバー。



 ……そんな二人を見て、俺はとんでもない悪寒に襲われた。

 セイバーが遠坂の使い魔となって、もう一年以上が経つ。

 それだけあれば、凛々しかった青の騎士もあおいあくまになるんじゃないかとかいう、そんな悪寒――――

























 セイバーに必死で抗議して、それを流されて更に感情を昂ぶらせる遠坂。

 そんな遠坂が不意に我に返ったのは、散々言い募った後のことだった。

 全然堪えていないセイバーと、そんな二人をにこやかに眺める俺に気が付いたのか、泣きそうに赤い顔で胸を張る。

「――――馬鹿馬鹿しい。ほら二人とも、早く支度して今日はとっとと寝なさい! 明日も明後日も早いんだからね!」

 ああ、それは事実。

 明日は朝からアインツベルンの城に向かわなきゃいけないし、明後日は朝一の電車で冬木を去らなくちゃ飛行機に間に合わない。

「そうですね。確かに、そろそろ寝たほうがいい」

 それは理解しているのか、セイバーも素直に頷いた。

 俺も頷く。

「そうだな。明日はイリヤの墓参りもあるし、とっとと風呂入って寝るよ。

今日みたいな天気がしばらく続いてくれるとありがたいんだけどな」

 天気予報は、明日も明後日も快晴になるだろうと告げていた。

 そのことをセイバーが口にすると、当然、といった風に遠坂は頷く。





「そんなの当たり前じゃない。

私たちの旅立ちが、世界に祝福されないわけないんだから――――」







 顔を真っ赤にしながら、それでも自信満々に言い切る様は、まさに俺が惚れた遠坂だった。

 その振る舞いに、疑問とか、後悔とかを挟む余地は微塵もなく、だから俺達も信じることができる。

 俺達の出発が、絶対にいい日になるという、些細な些細な幸せを。





【完】