木洩れ陽喫茶
ここ数日、凛の様子がおかしかった。
何処がおかしいのかと訊かれれば明快な解答はできないが、とにかくおかしかった。
その原因を敢えて表するのなら、まさに“違和感”。
話し掛けても何処か上の空だし、物思いに耽っているかと思えば突然感情豊かに話し出したり泣いたり怒ったり拗ねたり、微笑んだり。
確かにころころと変わる表情や感情は凛の魅力の一つだけれど、ここのところ、その度合いが尋常じゃないほどに増している。自分のマスターの不可解な様子に、かのセイバーも戸惑いを隠せない様子だった。
そして、今日。
昼間どこかに出かけ、帰ってきた凛は、その“違和感”を果てしなく高めていた。
なんだかやけにハイテンションだし、何処に行ってたのかとか何をしていたのかを尋ねてもただ微笑むばかり。秘密を隠すための微笑ではあるのだけれど、その笑みがあまりにも暖かくて穏やかなので、こちらとしても毒気を抜かれてしまう。
そんな、ただいま幸せ絶頂中電波を存分に発揮している凛にただ首をかしげながら、時刻は既に夜。
夕食を終え、俺の淹れた紅茶で恒例の談笑を始めようとした矢先。
凛は、憎らしいほどはっきりと、
「士郎。今週末から日本に帰るわよ」
だなんて、微笑みながら宣言してくれた。
Fate/stay night after story...
Lohengrin 前編
「……ちょっと待ってください。それはどういうことですか、リン」
衝撃から最初に立ち直ったのはセイバー。
セイバーはいままさに口をつけようとしていた紅茶をそのままテーブルに戻し、困惑した様子でリンを見る。
「どうって、そのままの意味よ」
にこやかな笑みのまま、自信満々に答えるあかいあくま。
「今週末。具体的に言えば明後日ね。明後日の第一便で日本に帰るから、二人とも準備しておいて」
「……ってちょっと待て凛、どうしたんだよいきなり。日本に帰るって、倫敦には五年くらい居るんじゃなかったのか?」
「うん、私もそのつもりだったわ」
「まさかリン、貴方、既に研究を終えたというのですか?」
驚いたように言うセイバー。
もちろん俺にも、その驚きは十分に分かる。魔術師にとっての研究終了、それはつまり“到達”に他ならない。
凛が大師父として仰ぐのは――――ええと、確か宝石翁キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグだったか。ゼルレッチが至った魔法は、第二魔法と呼ばれるそれ。魔術師が家系そのものの使命として宿命として悲願として求める、魔法という到達点。
まさか――――そこに、至ったというのか?
「違うわよ、セイバー」
僅か苦笑を滲ませながら、あっさりと凛はそう答える。
「研究なんてまだまだ途中に決まってるじゃない。いつか辿り着いてはみせるけど、いまはまだ無理よ。……って、どうしたの士郎。やけに安心した顔して」
「いや、もし到達したなんて答えられたらどうしようかと思った」
割と本気で安堵しながら、俺は答える。
「バカね、いくら私でもそう簡単には行かないわよ」
僅か苦笑しながら言う凛。
私には無理、とは一言も言わないあたり、さすがというかなんと言うか。まあ凛は俺と比べるべくもないほどの一流魔術師だし、確かに凛ならそこに到達できなくもないのかもしれない。
「……では、何故倫敦を離れようというのですか?」
分からない、と首をかしげながらセイバーが問う。
その質問に、凛は最高に柔らかい、だけどいつもの如き最高に底のの知れない、あの笑顔を見せてくれた。
「さあ、なんででしょうね?」
……どうして俺を見るんだ、凛。
「……?」
首を傾げるセイバー。いや、凛と一緒に俺を見てもらっても困るぞ。俺だって全然事情が分かってないんだから。
俺とセイバー、二人して首を傾げる。
凛が日本に帰らなければならない理由。
……なんだろ。正直、想像がつかない。
「遣り残したこと、ですか?」
ぽつりと呟いたセイバーに、凛は首を横に振った。
「ううん。そんなもの微塵も無いもの。それに一年経って、いまさら冬木に遣り残したこと、なんてのも無いでしょう?」
「そうれはそうですが……」
歯切れの悪いセイバーの答え。
凛は意地悪そうな顔で俺を見る。
「さて、士郎には分かった?」
「……いや、分からない。何なんだ?」
素直に答えると、凛は満足そうに頷いた。
「うん、実はね」
そうして凛は、ほんのりと顔を染め、
「赤ちゃん、できちゃった」
だなんてコトを、告白してくれた。
「……」
「……」
固まる俺。プラスでセイバー。
……ええと。
いま、なんか物凄いことを聞いた気がするんだが。
「ふふん、驚いてるわね」
何故か満足そうに言う凛。
「……ちょっと待て、いま、おまえ」
「ええそうよ、士郎。私、赤ちゃんができちゃった、って言ったわ。もちろん貴方のね」
にこにこと、それこそこちらの気も知らないでそんなことを述べる凛。
あ、赤ちゃんって……身に覚えは、いや山のようにあるというかうわ確実に記憶にあるけれど。
「……それは本当ですか、リン」
目を丸くしながら確認を取るセイバー。
そんなセイバーに、凛はええ、と頷く。
「今日ちゃんと病院で検査してもらってきたわ。間違いないわよ」
「あ……いや、それは、その。……おめでとう?」
「なに他人事見たいに言ってるのよ、士郎。ほら喜びなさい? 遠坂凛と衛宮士郎の子供ができたって言ってるんだから」
やけにハイテンションな凛。
その振る舞いを見て、ここ数日の情緒不安定ぶりに納得がいった。
いや、まあ、そりゃ……不安定にもなるな、ということ。
というか俺がただいまライブで動揺中です。
「シロウ、気をしっかり」
「……あ、ああ。悪いセイバー、ちょっと呆けてた」
軽く頭を振って、ついでにお茶を一口。
よーし、まずは落ち着こう。詳しいことを考えるのはとりあえず後回し。
いまはとにかく――――純粋に、その事実を喜ぶとしよう。
「おめでとうございます、リン」
俺が落ち着くのを待っていてくれたのだろうか、セイバーが凛に微笑む。
「このところの振る舞いに違和感を感じていましたが……そういうことでしたか。心から祝福させていただきます」
「ありがとう、セイバー」
「日本に戻るとは、つまりそういうことなのですね?」
「ええ、そういうこと。手続きもしなくちゃいけないしね。……ああ、心配しないで士郎」
「? 心配って、何を?」
いや、まあ。
するべき心配なんて、山のようにあるんだろうけど。
「時計塔の方にはちゃんと申請もしてきたし、ルヴィアにも伝えておいたから、士郎は何もしなくてもいいわ。あとはもう帰国するだけよ」
「……ああ、うん。それは助かる」
凄い。
凛が、なんか久しぶりに暴走している。
あまりの手回しのよさに頷くしかない俺。
そんな俺に気付いているのか否か、凛は本当に嬉しそうに微笑んでいた。
季節はもうすぐ、この街で向かえる二度目の春。
それを目の前にして、俺たちは新しい息吹と共に古い住処に戻ることになった。
残った数日はあっという間に過ぎ去って、英国出発の日。
出国時間少し前。ゲート前に、その人物は立っていた。
「あら、ごきげんようミストオサカ」
「……ええ、ごきげんようミスルヴィアゼリッタ。奇遇ですわね」
邪気の無い笑顔を浮かべるのは、言うまでもない、時計塔主席候補ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトだ。
ルヴィアは静かに笑みを浮かべたまま、俺たち三人に小さく頭を下げる。
「まずは祝福させていただきますわ。シロウ、トオサカ、おめでとうございます。貴方達の新たな命に、この私、エーデルフェルトの名と歴史において、宝石の加護を願い祝福を望みます」
「ん、ありがとう、ルヴィア。けど悪いな、いきなり日本に戻ることになって。ちゃんと挨拶しておくのが礼儀なんだろうけど」
「いえ、お気にされないでください、シロウ」
急な帰国に際し、挨拶すらしに行かなかった俺を微笑んで許すルヴィア。
いや、俺自身はちゃんとその旨をルヴィアに伝えようとしたのだけれど、何故か凛に阻まれた。阻まれるというか、拗ねられた。ルヴィアに挨拶しに行く時間があるなら私と一緒に倫敦を見納めろと言わんばかりに倫敦中を駆けずりまわされ、倫敦の魅力を隅から隅まで味合わされたのだ。もちろんそれが嫌だなんて思わないし、凛と一緒に駆けずり回った数日間は本当に楽しくて、倫敦に来たばかりの頃を思い出させてくれたのだけど――――難儀かな、やはり挨拶はしに行くべきだろうという思いが燻っていたのは事実。
だから、こうして出国前に会えたのは嬉しかった。
「……ありがとう、ルヴィアゼリッタ」
何処か複雑そうな顔で、しかしちゃんと礼を言う凛。
その背中を、セイバーが急かす。
「リン、急いでください。もうあまり時間が無い」
「そうね。ではミスルヴィアゼリッタ、名残惜しいですけどお別れですわ」
「あら、そうはなりませんことよ、ミストオサカ」
ついついつい、とゲートを通った俺たち三人に続き、さも当然のようにゲートを通るルヴィア。
…………。
てくてくと。俺だけは引きずるトランクの関係でからからと音を立てながら、黙り込んで前に進む。
そのすぐ後ろを、さも当然のように、小さな微笑で静かに歩むルヴィアゼリッタ。
てくてくてく。
からからから。
てくてくてく。
からからから。
てくてくて、
「……ミスルヴィア、いったいどういうご用件ですか?」
あ、凛が切れた。
最初は無視しようとしていた凛はぴたりと足を止め、後ろを歩くルヴィアに向き直る。
にこり、と微笑みながらルヴィアは答えた。
「私、少しばかり日本という国に興味がありますの。ですが私、あまり旅に慣れていませんわ。ですから、縁のある方の所にお世話になろうと思いまして」
「……ルヴィアゼリッタ、貴方まさか」
「ええ、そう言うことですわ。ミストオサカ、シロウ。しばらく厄介にならせて頂きます」
「な――――ダメに決まっているでしょう、そんなの!」
「あら、ミストオサカ、そのような薄情なことを仰らないでください。時計塔の休学申請に日本行きの旅券、しかと工面して差し上げたでしょう?」
「そ……それはそうだけど」
ああ、なるほど。
帰国やらなにやらの手続き、やけに手回しがいいなと思ったらそういうことか。凛、ルヴィアに手伝ってもらったんだな。
「それに私、この一年で随分と舌が肥えてしまいましたの。いまさら普通の食事に戻ることなんてできませんわ」
「……」
あくまでたおやかに微笑むルヴィアに、僅か苦渋を浮かべる凛。
確かにルヴィアの言い分は無茶苦茶だけど――――借りがあるのは凛のほうなのだろう、どうやら。
そんな情勢を見て取ったか、セイバーは嘆息交じりに自分のマスターを急かす。
「とりあえず、急ぎましょう、リン。乗り遅れては意味がありません」
「……ええ、そうね。分かりましたわルヴィアゼリッタ、ご自由になさってください」
「ええ、そうさせていただきますわ。――――シロウ? 何を立ち止まってらっしゃるのです? 急ぎましょう?」
声を掛けられ、ぼんやりと三人を眺めていた俺は歩き出す。
俺と、凛と、セイバーと、ルヴィアと……あと一人。
まだ名前も無くて、生まれてすらいない俺と凛の子供。
「どうしたの? 士郎」
不意に凛が立ち止まり、首をかしげてこちらを振り向く。
「――――いや、なんでもない」
自分の思考に苦笑して、俺は軽くてを振った。
派手といえばどうしようもなく派手で、華美といえばこれ以上なく華美なこの面子。
この集団、いや、細かく言えば俺と凛についての騒動は、まだまだ終わりを見せなさそうだ。
「……って、そうか、藤ねえに報告が残ってた」
何が問題かって、それが一番問題かもしれない。
俺は頭を振って寒い予感を打ち消すと、三人の歩調に合わせ先に進む。
……まあ、色々と考えることは残っているけれど。
いまは静かに、冬木へと戻るとしましょうか――――
【続く】