Fate / other night
1 /
Saber
土蔵の中に光が満ちた。
不変を思わせていた濃厚な闇は突然の光に消滅し、土蔵の中を無尽に吹きすさぶ暴風によって振り払われる。
光と風の乱舞は随分と長い間続いたように感じられて、その実数瞬だっただろう。
気付けばいつか風は止み、光も収まっている。土蔵の中は再び闇に満ちて、
否、
「――――問おう」
見知らぬ者の姿があった。先ほどまでは確かに存在していなかった、新たなる乱入者の姿が。
土蔵の中に光が差す。雲に隠れていた月が姿を見せたのか、小さな窓から降り注ぐ淡い月光が、世界を僅かに照らし出している。
濃密な闇に抗うにはあまりに役者不足な、脆弱な光。
そんな光に照らされて、彼女は毅然と、全ての理由を超越して立っていた。
「――――貴方が私のマスターか」
月光に照らされた姿は女性。
闇に融けんばかりの黒いコートに身を包み、その下に闇に於いてなお色鮮やかな真紅のスーツを着た女性。そして彼女の髪は纏ったコートより、また土蔵を満たす闇よりなお暗く、黒く、美しい。
その姿があまりに尊く、美しかったからだろうか。
士郎は我知らず息を飲み、全ての事象を忘却した。
校庭で傍観した赤と青の戦いも、
胸を貫いた槍穂の感触も、
死の間際で見た誰かの面影も、
廊下に転がっていた赤い宝石も、
再び己を殺そうとしている青い存在も。
先ほどまで自身を占めていたありとあらゆる記憶を忘却し、
「――――ああ。俺が、おまえのマスターだ」
士郎は静かに、頷いた。
土蔵の中に満ちた魔力を察し、ランサーは追撃に向けた足を止めた。
「――――む」
顔をしかめる。それも当然。現在の状況と、いま土蔵の中に居る人間の種類を考えれば、この魔力の原因は用意に察することができる。
ああ、しかし、そんなことはそれこそ愚問。
サーヴァントであるこの身が、同じサーヴァントである者の気配を知れぬはずがない。
ランサーは足を止めたまま、己の魔槍を構えた。身体を向けているのは土蔵の扉。先ほど目撃者である半人前の魔術師が逃げ込み、たったいま多大な魔力と光の奔流が溢れ出た鉄の扉。
「出て来いよ」
呼びかける。己の声は届いているのだと、微塵も疑うことはなく。
しばらくの静寂があった。しかしランサーは構えを解かない。槍の切っ先を軽く下げ、いつでも刺突を繰り出すことができる姿勢で静かに相手の反応を待つ。
「――――」
やがて、土蔵から一人の女が姿を見せた。
闇夜。月の光の中に踊り出たのは、黒いコートに身を包んだ長身の女性。音も無く吹く夜風に、腰上まで伸びた黒い長髪が僅か靡く。その瞳は、一切の感情を示さぬ静寂を湛えた黒の双眸は、真っ直ぐに――――この身を射殺さんと、殺気を放っている。
故に、ランサーは悟った。
この相手は、枷付きのまま戦える相手ではないと。
ランサーは目を細める。目の前の女性と、いや、サーヴァントと同じか、それ以上に鋭い、殺意を秘めた瞳でそのサーヴァントと対峙する。
「一応、聞いておこうか」
身体を沈める。身体のばねを極限まで押さえつける。
いつでも、それこそいまこの瞬間にでも最高の速度を出せるように、この身を構える。
「なんのクラスだ、テメェ?」
「――――教える理由は無いわね」
黒い女が笑みを浮かべた。優しさなど微塵も含まぬ、それこそカタチだけの笑み。
女が片腕を横に突き出す。一瞬の後、其処には一つの杖が握られていた。材質はおそらく木であろう。頭には二匹の蛇が互いを喰らい会う様を表した装飾が施されている。
「あん? キャスターか、オマエ」
「答える理由はないと言ったでしょう? ……でも、そうね。私だけが知っていたらフェアじゃないものね」
女は言う。
その言葉に、その声にランサーは僅かな違和感を覚え――――即座に、身体中に殺気を張り巡らせた。
「なんつった、テメェ」
「あら、何か気に触ることでも言ったかしら?」
臆面もなく女は言う。
ランサーが放つ殺気など、意に介すまでもない。全身でそう言いながら、女は杖を構えた。
「オマエ――――俺が誰だか、知っているような口ぶりじゃねぇか」
「ええ、そうよ。そう言ったもの」
女が小さく何かを呟いた。つい、と女が杖を振るえば、杖を持たぬ右の手に一振りの長剣が握られている。
「――――な」
「驚くのは早いわよ、ランサー。こんなものは子供騙しでしょう」
そうして、女が駆けた。構えなど無い。右手に杖を、左手に剣を。趣の異なる二つの得物を無造作に構え、猫を思わせるしなやかさと俊敏さで彼我の距離を詰めんとする。
しかし、彼とて英霊、ランサーのクラスを冠する存在。驚きなどはほんの一瞬、いや、刹那にすら満たぬ。
女が猫ならば彼は豹だ。どれほど俊敏といえど、彼の前ではあまりに鈍重。彼は黒い女を軽く上回る速さでもって槍を構え、突っ込んでくる敵を迎え撃った。
「――――チッ!」
舌打ちのような気合。僅かに隙が覗く喉元、心臓、肝臓の三箇所を連続して狙う。
ほぼ一瞬にして繰り出された三撃に、あろうことか女は足を止めた。先の一撃、喉元を狙い、叶うならば頭ごと頂こうとした一撃を軽やかに振るった剣で防ぐ。同じように振られた杖が、硬い音を立て心臓を突き破らんとした一撃を弾いた。
だが――――それはどうしようもない愚策だ。足を止めたのも愚策なら、先の二撃を逸らしたのはもはや傑策かもしれない。穂先の軌道を変え、女を即死から守ったその剣は、女を必死から守ったその杖は、確かに振り抜かれている。簡素な剣だが、その中に篭められた魔力の程は見て取れる。確実に一級品の魔剣。自身の魔槍が宝具であるように、女の魔剣もまた宝具であることは違いない。逆の手にした杖とてそれは同じだろう。見た目こそ簡易、外面こそ質素ではあるが、その中身が他の追従を許さない魔術礼装であることは容易に知れる。
――――まあ、それも瑣末ごと。
「たわけ、口だけか――――!」
攻撃はまだ続いている。否、正確に言えば終わってすらいない。
確かに一撃目は防がれた。二撃目も防がれた。だがこの一合は初めから三撃、肝臓を狙った三撃目は確実に女の身体を貫きその臓腑を潰すだろう。
喉元を狙った一撃が、心臓を狙った一撃が牽制であったわけではない。ただ、当初から全てが必殺を狙っていただけの話。
女の剣は、杖は振りぬかれたまま。当然だ。先の一撃から次の一撃、そして最後のこの一撃まで、秒で示すのが愚かなほどに時間など掛けていない。如何に神速、如何に高速であろうと、その姿勢から最後の一撃を防ぐのは不可能だ。
(獲った――――!)
ランサーは己の勝利を確信し、同時にいぶかしんだ。
あまりに――――あっけないと。
あまりに――――たやすいと。
あまりに――――あけすけだと。
それは些細な感傷かもしれない。せっかくの聖杯戦争、命を賭した、存在を削りあう戦争にしては簡単すぎる決着に対する不満。先ほどの弓兵との戦いとは比べることも出来ないほどに味気ない、粗末な決着に対する空虚感。
確かにこれとて戦いの一つ。自身か、女か。どちらかが役者不足だっただけの話。
だが、仮にそうだとしても。
つまらん、とランサーは思い、故に気付いた。
女の口が、何かを呟いたことに。
「――――」
瞬間、風が満ちた。
ランサーと黒い女の合間。正確に言うのなら、ランサーの魔槍のその穂先。
あと一瞬、あと数刹那の後に間違いなく臓腑を貫くはずだった赤い軌跡の先に、風が渦を巻いている。圧縮された風。触れたあらゆるものを切り裂き凪ぎ散らす、圧倒的な暴力の塊。
握り拳程度の空間に、暴風という言葉すら生ぬるい凶風が構えている。
やられた、とランサーは舌打ちした。これが黒いサーヴァントの狙いだとすれば、先のあまりに無造作な構えも、一撃目を払い落とした愚策にも納得がいく。
つまりは、誘い。
三撃目を剣を用いずに防ぐことで、防御に廻さなかった剣を使いこちらの攻撃に交差反撃を噛合わせるための伏線だ。
とすれば、おそらく先に見せた隙すらも手札の一。こちらの攻撃個所を限定させ、かつ攻撃回数すら把握するための、否、攻撃回数を制限するための一手。
この一合は、最初から女の手の上だったのだ。
――――しかし、それはただそれだけの話。
凶風? 侮るな。この身をなんと心得る。
穂先が風の射程に入った。攻城用投石器から射出された岩石を打ち返したかのような衝撃が、力が穂先に掛かる。上へ、下へ、右へ左へ前へ後ろへ。まさに縦横無尽、散々に無秩序に乱数的に吹きすさぶ風に吹かれ、槍の切っ先が激しく揺れる。
だが。
「舐めるな――――!」
咆哮。揺られ振り回される穂先を無理やり固定し、ランサーは己の槍を制御する。
凶風がなんだというのか。この身はランサー、槍の扱いに掛けては右に出るものなど居ない。そんな俺が、どうしてたかが風如きに己の得物を嬲られねばならぬ――――
ランサーは歯を食いしばり、渾身の力でもって槍を貫いた。乱暴に揺らされ、さらにその応力を無理に封じ込められた魔槍はその代償とばかりにその切っ先を僅かに逸らし、黒いサーヴァントの肩を貫くに終わった。
そしてランサーは見る。
目の前のサーヴァント。肩を貫かれ、黒いコートを血に染める女の口が、確かに笑っている様を。
ランサーは己の失策を知り、同時に誇った。
分かっていたことだ。最初の二撃を両の得物で受けたのが誘いなら、三撃目を風の盾で防いだのすら誘い。いや、それだけではないだろう。このサーヴァントにしてみれば、おそらくは己が凶風すら貫き通すことすらも読みの内。
だから、つまり。
この一撃を受けたことも、次に繋げる為の一手。
まあいい、とランサーは笑った。
風の盾。微塵も想像しなかった防御法だが、確かに攻撃を防ぐという一点においては最高の解答だろう。己の武器が槍だからこそ影響を受けたのは得物だけだが、もし剣や徒手空拳で風の盾に挑めば、おそらくは肉体が切り裂かれる。この身がサーヴァントであろうと関係ないだろう。それだけの破壊力と魔力を、先の風は秘めていた。
だからこそ、その風を受けながら攻撃を貫いた己の槍は誇るに足る。それが囮だろうと、誘いだろうともはや興味が無い。この身を試させてくれた礼だ、一撃程度甘んじて受けよう。
「安心しなさい」
笑みのまま、黒いサーヴァントは嘯いた。
「命までは取らないわ」
なんだそりゃ、とランサーが笑うより早く。
女のサーヴァントが握っていた剣が、袈裟にランサーを切り捨てた。
士郎が我に帰り土蔵を出たとき、既に勝負は決していた。
月明かりに照らされて向かい合う二つの姿。
片方はあの青い男。校庭で死闘を見せ、この身を貫き、いままた襲撃を掛けてきていた青年。
それに向かい合うのは、土蔵の中でその姿をあらわした黒い女性。その手には剣と、簡素な飾りつけの杖がある。
その杖を見て、
「――――え」
小さく。震えた声で、士郎は声を上げていた。
(見るな)
誰かが。誰かが、頭の中でそう警告する。
(見るな。見るな。見るな)
アレはよくないものだ。怖い。吐気がする、背筋が震える、首筋が粟立つ、足が嗤う。
(見るな、見るな見るな見るな見るな見るな見るな――――黙れ)
そんな本能の警告を切り捨て、士郎は二人を見た。衛宮士郎という本能が鳴らした警鐘を振りほどいたのは、彼女の、士郎をマスターと呼んだ女性の肩から流れる赤い血液。その毒々しさが、その禍々しさが、士郎に本能を捨てさせた。
思わず走り出そうとして、士郎は息を飲む。
青い男。夜の校庭で初見した、赤い槍を持つ男の体に、一本赤い線が走っていた。
「やれやれ」
両者の間合いはおよそ九メートル。一足刀にはほど遠い距離を置き、青い男は疲れた声を上げた。
「納得いかねぇな、お嬢ちゃん。俺に退けってか?」
「ええ、そう言ったわ」
清然と答える女性。ひゅん、と音を立て剣を振るえば、こびり付いた血が夜に飛ぶ。
男は面白く無さそうに腕を組み、やれやれ、ともう一度呟いた。
「まあこの場はそれが妥当か。今回のこれは前哨戦でよしとするかね」
「あら、存外話がわかるじゃない。もっと拘るかと思ったけれど」
彼女の言葉に、はん、と男は肩を竦める。
「否定はしないけどな。生憎とこっちの状態が万全じゃないんでね。オマエみたいなヤツとは万全の状態で戦うに限るだろう」
「光栄ね、ランサー。この身を認めてもらえるとは思わなかったわ」
彼女は再び剣を振るった。と、剣はまるで存在そのものが幻であったかのように夜闇に溶け消える。反対側の手に握られていた杖も、いつの間にか夜に消えており、その痕跡は微塵も残っていない。
それに合わせるように、男、ランサーも槍を収めた。その姿勢のままたん、と地を蹴り、後ろ向きのまま塀の上に跳躍する。
「なあ、お嬢ちゃん」
塀の上。月を背後に隠しながら、ランサーは僅かに細めた瞳を彼女に向ける。
「一つだけ答えろ。オマエ、何者だ」
「答える必要はないと言ったけど――――まあいいわ。退いてくれる礼よ、ランサー。答えてあげる。私はセイバー。他のクラスもそつなくこなせるだろうけれど、ここに居る以上私はセイバーに他ならないわ」
女性は静かにそう断言した。
それを聞いたランサーは腕を組み、面白く無さそうに鼻を鳴らす。
「ふん、まだるっこしい言い方しやがって……じゃあなセイバー、今回はここまでだ。次に会うときは必死を覚悟しとけ」
「その言葉、そのまま返すわ。ランサー」
セイバーの不敵な笑いにランサーは顔をしかめ、しかし何も言わずに身を翻した。
青い姿は瞬く間に夜に消える。
その姿が完全に見えなくなったのを確認し、士郎はふと我に返った。
「――――セイバー?」
「ええ、そうよ。なにか用かしら? マスター」
呟いた声が聞こえたのか、黒髪の女性は顔をこちらに向ける。
「オマエ、セイバーって名前なのか?」
「名前じゃないわ。役割がそうってだけ」
「クラス? ちょっと待ってくれ、いまの男も含めて何がなんだか」
「ええ、マスター、貴方にはあとで細かっく教えてあげるから、いま少し黙ってて。あと一人、片付けなくちゃいけないから」
「――――なんだって?」
士郎の言葉は、もはや女の、セイバーの耳には届いていない。
セイバーは鋭い目で、先ほどの槍兵に向けていたような容赦無い瞳で、衛宮邸の塀を睨んでいる。
「マスター」
届いた声は静謐。
「塀、壊すわね」
「――――は?」
士郎が言葉の意味を理解するより早く。
セイバーが伸ばした左手から白い光と共に風が溢れ、それらが一塊の濁流となり衛宮邸の塀に激突した。
ビルを解体用の丸いハンマーが外壁を打ちつけたような音が響く。
近所迷惑な――――と士郎がずれたことを考えたとき、既に隣にセイバーの姿は無かった。
「――――え?」
探す。右にも左にも居ない。
ならば、残った選択肢は上。
士郎は誘われるように夜空を見上げ、塀を一呼吸で飛び越えていたセイバーの後姿を見つけた。黒い髪が夜闇にすら染まらぬと静かに自己主張し、靡いている。
けれどその姿は一瞬で塀の向こうに消え、刹那、金属音が聞こえた。
そうして士郎は思い出す。
セイバー。そう名乗る女性の左肩が、赤く染まっていたことに。
「糞、呆けてる場合じゃなかっただろ俺……!」
己を罵りながら、士郎は駆け出した。
目指したのは前方、セイバーが何らかの方法で、おそらくは魔術でもって穿った塀の大穴。
それが明らかな愚策だと理解しながら、しかし士郎は足を止めなかった。
衝撃は壁の向こう側からきた。
「か……ッ!?」
思いもしなかった方向。ランサーが消え去った方向に視線をやっていたのも災いした。あまりのことに思考が追いつかず、できることはといえば吹き飛ばされ、地面を転がりながら必死に体勢を整えることぐらいだ。
どれだけ転がったのか分からない。けどそれほどの距離ではないだろう。道路を挟んで反対側の壁に叩き付けられたわけでもないし、側溝に落ちたわけでもない。なら大丈夫、身体はすぐに行動を起こせる。
「凛!」
アーチャーの声。凛は答えず、ただ身を起こし己の無事を示した。
明らかに安堵するアーチャーの気配が伝わってくる。見ればアーチャーは砕けた壁の破片を両手に握った二振りの剣で叩き落していたらしい。なるほど、道理で破片が飛んでこないはずだ。ならば自分が弾き飛ばされたのはあくまで爆発の余波か――――そう思考し、瞬間、凛は叫んだ。
「アーチャー、上!」
「――――!」
アーチャーが振り仰ぐ。その視線の先。夜の空を背景に、一人の女が髪を靡かせ流星の如き潔さで剣を振りかぶっていた。
「はぁ!」
裂帛の気合。塀を飛び越えてきた女は――――いや、サーヴァントは握っていた剣を躊躇い無く振り下ろし、アーチャーの脳天を狙った。月光に僅か照らされた軌跡は息を飲むほどに無駄が無い。
私の警告が早かったか、サーヴァントの一撃が遅かったか、それともアーチャーの反応が早かったか。赤い弓兵は即座に二刀を交差させ、サーヴァントの一撃を真正直に受ける。
ぎちぃ、と嫌悪を催す金属の悲鳴が耳に届いた。アーチャーは確かにサーヴァントの剣を受けていたが、その衝撃までは受けきれなかったのだろう。赤い弓兵は僅かに姿勢を崩し、その瞬間、黒いサーヴァントは空中に身を置きながら、掬い上げるような蹴撃を放った。力の支点に利用されたのは、おそらくアーチャーの双剣。己の一撃をしかと受け止めた双剣の、その接触点に体重を預け、そこを支点に蹴りを繰り出したのだ。
言語道断の体勢から繰り出された一撃は、しかし確かな形となりアーチャーの脇腹に食い込んだ。それは取りも直さず、このサーヴァントが体術においても特筆すべき点を持っているということに他ならない。
体術、そしておそらくは魔術。
先の衝撃、塀を打ち砕いたのは間違いなく魔術による一撃だ。あれほどの威力を簡単に繰り出すあたり、魔術師としての能力も秀でているのだろう。
(何よそれ。万能家ってことじゃない)
凛は胸中で毒づいた。奇しくも自分のサーヴァントが言っていたことだ。アーチャーが弓兵だからと弓だけに長けているのではないように、剣術にも体術にも、そして魔術にも長けているサーヴァントが居てもおかしくはない。
だが、もしそれが真実ならば。
そんな、思いつく限りあらゆる戦闘術に長けた手駒は、まさに最高の手札ではないか。
黒いサーヴァントの一撃を喰らったアーチャーは、顔をしかめながら数歩下がる。僅か数歩、されど数歩。このサーヴァントを前に、それは悪夢的な失態だろう。だってほら、黒いサーヴァントは蹴りを放った反動を利用してアーチャーと距離を詰め、いま自分の前の前に立っている。
こちらに差し出された手が握っているのは、細身の刃を携えた一振りの刃。
その刃が、生き物を切り殺すためのラインが、自分の首元に添えられているのがよく分かる。
「無駄なことは止めなさい、魔術師」
その言葉を聞き、凛はポーチの宝石に伸ばしていた手を止めた。見ればアーチャーは構えを取りながら、しかし苦々しい顔でこちらを、正確にはこの首に剣を添える黒いサーヴァントを睨んでいる。
ああ、もう、本当に完璧。サーヴァントを無視してマスターを仕留める。それが聖杯戦争の鉄則ならば、それをあっさりとやってのけるこのサーヴァントはなんなのか。
最高のサーヴァント。
それは、つまり。
「……君は何者だ」
緊張と、それに紛れた戦慄を含んだ声。
アーチャーの問いに、黒いサーヴァントは微笑んで見せた。
「セイバーに決まっているでしょう?」
その言葉は、酷く納得がいく一言。
なるほど、と凛は思う。剣術は無論のこと、徒手空拳を含めた体術、魔術、そしてそれらを一つの目的のために、マスターを殺害するというただ一つの目的のために編むことのできるその頭脳。それらを持ちえるサーヴァントが、最高のサーヴァント、セイバーでなく何だというのか。
凛は覚悟を決めてセイバーを、自分の喉下に必死の刃を突きつけているサーヴァントを睨んだ。しかしそんな視線など意にも介さず、セイバーは明後日の方向に視線を向けている。その先にあるのは崩れた塀。そしてその向こう側に広がっている衛宮邸の庭だ。
(――――)
なぜか、その振る舞いが酷く癪に障った。無視されているのが、脅威と認識されていないことが不服なのかといえばそういうわけでもない。自分の生殺与奪がこのサーヴァントに握られていることは事実だし、その原因は己の力不足だ。だからそれに対する不満などない、筈なのに。
ない筈なのに――――自分を無視しているというその一点が、悪夢的なほどに気に食わない。
「……どうした、セイバー。言いたいことでもあるのか」
不意に、アーチャーが問うた。アーチャーは言われるでもなく剣をしまい、ただセイバーを睨んでいる。
そんなアーチャーに、セイバーは小さく頷く。
「とりあえずその場を離れなさい、アーチャー。痛み分けなんてお互い趣味じゃないでしょう。貴方が私のマスターに危害を加えない限り、私は貴方のマスターに危害を加えないわ」
「――――なんだと?」
訝しむアーチャーの声。声こそ上げないものの、凛も同じ気持ちだった。
「聞こえなかったかしら? そこをどきなさい、と言ったのよアーチャー。そんな処に居られてはいつ私のマスターが殺されるか分かったものじゃないもの。幽体化してもらっても結構。とにかく其処から離れなさい」
「――――」
アーチャーは苦々そうに顔をしかめ、ふっ、と煙のように夜に融けた。
姿こそ見えないものの、アーチャーがそこに居るということは確かに知れる。その存在はセイバーの反応を窺うように移動し、凛の背後に回りこんだ。
それを知ったか、セイバーはにこりと笑みを浮かべた。
「話がわかるわね、アーチャー。そう言うところは好きよ」
「――――どういうつもり?」
震えなど微塵も声に出さず、毅然と、命を握られていることなどほんの瑣末ごとだといわんばかりの不遜さで、凛は問うた。
「それに答える前に、私から一つ聞いてもいいかしら?」
形こそ疑問をとってはいるものの、その実拒否を許さぬ声音。
凛は無言で肯定を示す。
「貴方が遠坂凛。そうね?」
「――――え?」
素直に答えてなどやるものか、という最後の意地は、予想だにしなかった問いの前にあっさりと崩れ去った。
何故、英霊などというものに自分の名が知られているのか――――どれだけ考えを巡らしても、該当しそうな理由が見つからない。
それでも凛は必死に答えを探そうとし、思考を廻す。
その反応は、どうやらセイバーにとっては満足の行くものらしかった。セイバーは小さく頷くと、つい、と視線で穴の開いた塀を示す。
釣られてそちらを見やれば――――そこから、見覚えのある青年が飛び出してきた。
「セイバー、おまえそんな怪我で――――って、何やってるんだよおまえ!?」
「うるさいわよ、マスター。時間を考えなさい。近所迷惑でしょう」
「何言ってるんだよ! なんで遠坂に剣なんか突きつけてるんだ!?」
「安心しなさい、マスター。これはただの脅しだから。別に命をとろうって訳じゃないわ」
さらっと言い放つセイバー。
その言葉に、凛は口端を歪める。
「……随分とおかしいことを言うのね、セイバー。貴方は現状を理解しているの? これが聖杯戦争で、私はアーチャーのマスターなのよ? それなのに私を殺すつもりはない? ふざけるんじゃないわよ!」
「ちょ、と、遠坂?」
士郎の戸惑ったような声が耳に届くが、そんなものは気にしてなんていられない。
「ああ、なんかもうあったま来た! 何よアンタ、さっきの一撃は。魔術で塀を壊して私達を牽制、高望みすればダメージを狙って、それに交差するように上空からの一撃、けどそれも全部伏線、本命は内蔵を狙った蹴撃だなんてあんた何様? セイバーなら騎士らしく最初から最後まで剣で攻め立ててみなさいよ!」
「なにを言っているの、遠坂凛。貴方のサーヴァントから聞いていない? 私は消去法的にセイバーのクラスに該当しただけ。確かに私は騎士だけど、クラスが空いていたならキャスターでも問題はなかったのよ。もちろん、他の何かでもね」
うがー、と攻め立てる凛に、それを涼しく流すセイバー。
そんな二人を見ながら、現状を必死に理解しようと頭を捻る衛宮。
凛は不思議と尽きぬ不満をセイバーにぶつけようとして、いつの間にか消えていた刃に気付いた。
「……何のつもり?」
喉元まで出かかっていた不満を呑み込み、先の問いをもう一度繰り返す。
セイバーは肩を竦めると、自分と凛を交互に見る士郎を目で示した。
「この魔術師が、私のマスターよ。けれどまだまだ半人前もいいところなの。できれば凛、あなたからこの聖杯戦争について教えてあげてくれないかしら?」
「なんで――――私が、そんなことを」
「今夜の貸し、じゃあダメかしら? 貴方の命と聖杯戦争の教授料をはかりに掛けているんだもの、どちらが有利か考えるまでもないでしょう?」
「――――」
凛は無言で、セイバーを、自分を見下すサーヴァントの視線を真正面から睨み返した。
赤いスーツの上から黒いコートを羽織ったサーヴァントは、しかし凛の視線など気にも止めていないようだ。むしろ僅かに釣りあがった口端などは、自分がどういった返事を返すのか先刻承知といわんばかりである。
いっそここで感情に任せて泣き叫ぶという選択肢もあったが、それを選ぶことは自身の矜持が許さなかった。自分の命と、衛宮士郎という新米マスターに対する聖杯戦争についての説明の報酬。確かに比べるまでもないこと、だけど。
「――――そんなの、結構よ」
ぎり、と歯を食いしばり、凛は苦渋の顔でセイバーと士郎を交互に睨んだ。
「あら、どういう意味かしら?」
「だから! そんなの無償でやってあげるって言ってるの!!」
これは感情に任せて泣き叫ぶのとどう違うのだろうか――――
頭の隅でそんなことを考えながら、凛はせめてもの反抗とばかりに精一杯怒鳴った。